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1 ヨハネ 2 章 1〜11 節「水をぶどう酒に」 聖書は救いの書であると言った

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1 ヨハネ 2 章 1〜11 節「水をぶどう酒に」 聖書は救いの書であると言った
ヨハネ 2 章 1〜11 節「水をぶどう酒に」
聖書は救いの書であると言った方がいます。確かにその通りで、聖書の全体を通して、救い主キリ
ストがどのようなお方であるか、その救い主によって私たちに与えられる救いがどのようなものであ
るか、ということが教えられています。聖書を読んでそのことを理解し、そして、信じる時に、私た
ちは実際にその救いを受けることができるのです。
イエス様の元には何人かの人たちが集まり、弟子となって従って行きました。イエス様と弟子たち
がガリラヤ地方に戻ると、カナという町で結婚式が行われていました。その結婚式でイエス様の母マ
リヤは手伝いをしていたようです。イエス様と弟子たちもそこに招かれました。その頃は結婚式のお
祝いが 1 週間も続くことがあったようです。
その婚礼のお祝いが続いている中で、困ったことが起きました。お客さんに出すぶどう酒がなくな
ってしまったのです。その事態が皆に知られる前に、母マリヤはそのことを知っていました。そして、
イエス様に「ぶどう酒がありません」と告げました。マリヤはどんなことを期待していたのでしょう
か。
イエス様はこれまでの故郷ナザレでの家族との生活から離れて、キリストとしてご自身を現し始め
ていました。いわゆるイエス様の「公生涯」が始まっていました。マリヤは御使いから受胎告知を受
けて、イエス様がいと高き方の子、ダビデの王位に就く方で、その国は終わることがない、と告げら
れていました。それ以来、心に留め、思い巡らしてきたイエス様の使命が、いよいよ実現に向けて動
き出すのではと感じていたのではないでしょうか。だからマリヤは、イエス様がこのような問題にも、
力を現わして、何らかの解決を与えてくれるのでは、と期待したのではないでしょうか。
それに対してイエス様は答えました。4 節。前半部分についてはいくつかの解釈があるようですが、
重要なのは「わたしの時はまだ来ていません」ということばと結びついていることです。ヨハネの福
音書にはこの後、「イエスの時」という表現が繰り返し出てきます。福音書の前半では、「イエスの時
はまだ来ていない」と 5 回あり、そして後半になると、「その時が来た」と 3 回告げられています。
読み進めると、イエス様の時とは、十字架の苦難に進む時であり、それを通して神様の栄光が表され
る時、つまり、すべての人の救いが成就する時です。それでイエス様は「わたしの時はまだ来ていま
せん」と言われたのです。しかし、一方では、イエス様は、家族と共に過ごして来たこれまでと違い、
「その時」に向かって救い主としての歩みを始められたのです。
「あなたはわたしと何の関係があるの
でしょう。女の方」ということばには、イエス様の行動がもはや家族に左右されるものではないこと
を示そうとしたのだと思います。イエス様にとっては、マリヤに従う時は終わり、公の宣教の働きが
開始されたのです。キリストとしてのご自身の使命を行なっていくにあたっては、イエス様はマリヤ
に指示に従うことはないのです。
それでもイエス様は、神様のみこころに従い、この機会を用いて、ご自身の栄光を現されるのです。
この問題を解決してくださるのです。ですから、私たちも、困ったことがあったらイエス様に打ち明
けましょう。神様がどのように助けてくださるかはわからないとしても、神様は私たちの祈りを聞き、
最も良い方法で、最も良い時に、解決を与えてくださいます。自分の願いが叶うことだけを求めるの
ではなく、神様の素晴らしさが現されることを求めて、祈りましょう。
マリヤは、イエス様と自分の関係がこれまでとは違ったものになったと感じました。しかしまた、
このイエス様のことばは単なる拒絶ではないことを察したのでしょう。自分の期待することを要求す
るのではなく、でも手伝いの人たちに、
「あの方が言われることを、何でもしてあげてください」と言
いました。
この家には、大きな水がめが 6 つ置いてありました。ユダヤ人がからだをきよめる儀式に使うため
に、水を入れておくものです。イエス様は、
「水がめに水を満たしなさい」とおっしゃいました。首を
1
かしげながらも、手伝いの人たちは水を水がめに入れていき、いっぱいになりました。すると、イエ
ス様は「さあ、今くみなさい。そして、宴会の世話役のところに持って行きなさい」と言われました。
「えっ、ただの水なのに」と、手伝いの人たちは思ったでしょう。でも言われたとおりに持っていき
ました。
世話役は、運ばれてきたものを飲みました。なんと、それはとてもおいしいぶどう酒でした。ぶど
う酒を飲んだ世話役も、ほめられた花婿も、そのぶどう酒がどこから来たのかは知りませんでした。
しかし、手伝いの人たちは何が起こったのかを知っていました。どんなに驚いたことでしょう。これ
は、イエス様が人々の前でなさった最初の奇蹟でした。
イエス様はこの時、目に見える行為を何もなさいませんでした。水のいっぱい入った水がめに触ら
なかったし、人々の前で水がぶどう酒に変わるようにと祈ることもありませんでした。イエス様はた
だ水がめの水がぶどう酒になるように願っただけだったでしょう。そして、その通りになったのです。
そのように、全能の神様のみこころはその通りになるのです。私たちの生活の中に、主は御業を行
なわれて、栄光を現されるのです。その神様を信じて、頼ることができること、そして神様はすべて
のことを働かせて益としてくださることを知っていることは、私たちにとって大きな慰めです。
水がぶどう酒に変わるという奇蹟が起こったことを書いた後で、ヨハネは説明しています。11 節。
ヨハネが「奇蹟」ではなく「しるし」ということばを使っているのは、出来事そのものよりも、その
意味を大切にしているからです。そして、それらの「しるし」を書いた目的を福音書の最後のほうで
述べています。
20 章 30~31 節。ここに、ヨハネが福音書を書いた目的、特に「しるし」を記録した意味が書かれ
ています。それは、イエス様が神様の御子、救い主であることを、福音書を読む人々が信じるように
なるためだというのです。
聖書に書かれている奇蹟は信じられないと言う人たちがいます。そして、理性で納得できるように
説明しようとします。確かに、私たちの身近な所でそうした奇蹟を直接に見ることはないかもしれま
せん。しかし、問題は奇蹟が起こりうるかということではなく、全能の神様を認めるかどうかです。
聖書が語っているように、何もないところから、天と地とその中のすべてのものをお造りになり、そ
の初めから終わりまで統べ治めておられる神様、あらゆる点で限界のない神様の存在を認めるなら、
そして、イエス様が神様の御子であるなら、そうした奇蹟を行うことができるのは当然のことです。
この水をぶどう酒に変えたという出来事は、イエス様についてどんなことを明らかにしている「し
るし」となっているでしょうか。イエス様は水をぶどう酒に変えました。全く質の違うものに変えま
した。しかも、とても良いものに変わり、それが人々を助け、喜びとなりました。律法によっては人
は救われない、完全にはきよめられないのです。しかし、イエス様は救い主であり、私たちを全く質
の違うものに新しく造り変えてくださるのです。そして、人々の助けとなり喜びとなるのです。聖書
に、
「だれでも、キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、
見よ、すべてが新しくなりました」(Ⅱコリント 5:17)とあるとおりです。このように書いたパウロ
自身も、キリスト者を迫害していた者から、イエス様との出会いによって、全く造り変えられ、復活
されたイエス・キリストを証言し、多くの人々に福音を宣べ伝える者となりました。
イエス様は人を新しく良いものに変えることのできるお方、罪から救うことのできる救い主です。
「弟子たちはイエスを信じた」とあります。イエス様の神様としての御栄光の一部を垣間見て、弟子
たちはイエス様が神様の御子、救い主であると信じたのです。その理解は、この時点ではなお不十分
であったことは、この後たびたび明らかになるのですが、それでも、ともかくもイエス様を救い主と
信じて従ったのです。あなたはどのように応答するでしょうか。
聖書が証言しているとおりにイエス様を神様の御子、救い主と信じましょう。イエス様を信じて、
水がぶどう酒に変わったように、イエス様によって、全く新しく良いものに変えて頂きましょう。
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