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9:8 主は裁きのために御座を固く据え/とこしえに御座に着いておられる
2011年5月7日 9:8 主は裁きのために御座を固く据え/とこしえに御座に着いておられる。 9:9 御自ら世界を正しく治め/国々の民を公平に裁かれる。 9:10 虐げられている人に/主が砦の塔となってくださるように/苦難の時の砦の塔とな ってくださるように。 9:11 主よ、御名を知る人はあなたに依り頼む。あなたを尋ね求める人は見捨てられるこ とがない。 9:12 シオンにいます主をほめ歌い/諸国の民に御業を告げ知らせよ。 9:13 主は流された血に心を留めて/それに報いてくださる。貧しい人の叫びをお忘れに なることはない。 9:15 おとめシオンの城門で/あなたの賛美をひとつひとつ物語り/御救いに喜び躍るこ とができますように。(詩篇) この詩は「ムトラベンに合わせて」歌われた賛歌とタイトルに書かれています。 ベランとは何なのかは不明ですが、おそらく何かのメロディーであろうと思います。 ムト 作 者はそのメロディーに合わせて神への感謝を綴り、そして歌いました。 英語の聖書では、 ムトベランを『「息子の死」のメロディー』と訳しているものもあります。 そうであるな ら、自分の息子を亡くし悲嘆に暮れた作者ダビデは、悲しみを乗り越え神への感謝が生じ たのです。 ダビデが息子を失った記事から、彼の心境の変化を見てみましょう。 ダビデが最初に息子を失ったのは、バトシェバとの間に生まれた生後間もない子でした。 主はダビデが行った悪の故にその子は死ぬと預言者ナタンを通じて告げられたので、ダビ デは子供の死を覚悟したでしょう。 それでも、日に日に弱ってゆく子供のために神に願 い求め、断食し、夜は地面に横たわって過ごしました。 彼は自分が犯した過ちの大きさ に苦しみ悩んだはずです。 ところが、子供が死んだと聞いた途端、地面から起き上がり、 身を洗って香油を塗り、着替えて主の家に行き神を礼拝しました。 王宮に戻ると、あれ ほど食事を摂るようにと勧めた家臣に耳を貸さなかった彼は、彼に命じて食事を整えさせ ました。 ダビデの態度の変化を不思議に思っていた家臣に、ダビデは言いました。 子 が生きている間は、主が憐れみ、子を生かして下さるかも知れないと思ったから、断食し て泣いたけれど、死んでしまった今は断食してところで死んだ子を呼び戻せはしない。 自 分はいずれ死んだ子にところに行くが、子は自分のもとに帰ることはない、と。 次に、長男アムノンを失いました。 彼は、三男アブサロムの娘を辱めました。 事件があって二年後、アブサロムは彼を殺害しました。 ました。 アムノンの死はダビデを苦しめ 『ダビデはアムノンの死を悼み続けた』と聖書に記されています。 時が経ち、ダビデは彼の死を諦めました。 その しかし、 バトシェバとの間に生まれた子が死んだ時と 同じ心境になったのでしょう。 その後、彼の心はその事件以来逃亡中であったアブサロムを求めるようになりました。 ダビデはバトシェバに犯した過ちを主に赦されたように、アムノンを殺したアブサロムを 1 2011年5月7日 赦し、アブサロムはエルサレムの自分の家に戻りました。 て、彼はダビデに反逆しました。 ことを宣言しました。 ところが、それから数年経っ イスラエルの人々の心を奪い、ヘブロンで王となった エルサレムが血に染まることを恐れたダビデは、家臣たちを引き 連れ王宮から逃げることにしました。 彼の苦悩は計り知ることが出来ません。 『ダビ デは頭を覆い、はだしでオリーブ山の坂道を泣きながら上って行った』と記されています。 ダビデは逃げ続けましたが、アブサロムと戦いを交える時が来ました。 ダビデ自身は 家臣の忠告に従い出陣しなかったのですが、家臣たちはアブサロム率いるイスラエル軍と 戦い勝利を得ました。 そして、その戦いでアブサロムも死にました。 息子の死を告げ られたダビデは、勝利を喜び兵士たちを労るのではなく、『わたしの息子、アブサロムよ、 わたしの息子よ。 わたしの息子アブサロムよ、わたしがお前に代わって死ねばよかった。 アブサロム、わたしの息子よ、わたしの息子よ』と言って嘆き悲しみました。 王の悲し みを知った兵士たちにとって、勝利の日が喪に変わりました。 ダビデにとって幸いだったのは、ヨアブという優秀な側近がいたことでした。 彼はダ ビデが嘆き続け、兵士たちの前に顔を出さなければ、誰も王に従う者はいなくなると忠告 しました。 その言葉に目が覚めたダビデは、兵士たちの前に現れました。 彼は兵士た ちの労をねぎらい、また、アブサロムを王としたイスラエルの人々もダビデに従うように なり、エルサレムに戻りました。 以上、ダビデが三度経験した息子の死です。 神に選ばれた一国の王であり、多くの子 供を持つダビデですが、息子たちの死は彼に深い悲しみをもたらし、彼の心を引き裂きま した。 た。 彼は息子の死に打ちのめされました。 それでも、彼は立ち上がりました。 勇敢なダビデとて私たちと同じ人間でし そして、神を賛美しました。 死の悲しみを 乗り越えて神と向き合った時、冒頭に引用した詩篇9編全体に見られるように、神への感 謝が湧き出たのです。 今日は裁きと砦の塔について見てみます。 神は私たちを裁かれる方です。 裁きと聞くと、どうしても罰せられるイメージでとらえてしまいます。 私たちは 確かに裁かれる とは懲らしめを受ける観点からの記述が多いですが、神の裁きの根底には、神の計り知れ ない憐れみと慈しみが流れています。 1:27 シオンは裁きをとおして贖われ/悔い改める者は恵みの御業によって贖われる。 と、イザヤを通して主が語られているように、裁きは神の恵みある御業の現れです。 だ から、詩篇の中で何ヶ所か見られるように、人は神の裁きを求め続けたのです。 この点について、イエス様は裁きを求めるやもめと裁判官とを引き合いに出し、裁きが 行われるように祈り続ける重要さを語られました。 その内容は、ルカ伝18章1-8節 に記されています。 そこには先ず最初に、 『イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなけれ 2 2011年5月7日 ばならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された』と書かれています。 人 は答えを得られなかったり、目的に達するまでに長い時間を要すると、途中で落胆してし まいます。 それと同じで、神の裁きを見ることが出来なければ、つまり、神の恵みの働 きを望んでいても、それを見るまでにあまりに時間がかかると待ち疲れてしまいます。 そ れが高じると、自分は神の恵みを受けるのに値しないからだと自虐的になり、祈ることが 出来なくなります。 これが最悪の状態です。 そうならないように、イエス様は裁判官 とやもめを登場させられたのです。 聖書ではやもめ、孤児を顧みるように教えています。 しかし、預言書を見てもわかる ように、堕落した社会にあっては、その教えは人々に浸透せず、そういう人たちの訴えは 聞かれず、擁護する人もいませんでした。 イエス様がこの地におられた時代も、そうい う時代でした。 例えに登場するやもめは、自分の立場をよく知っていました。 のは、神を畏れず人を人とも思わない裁判官です。 も、彼女は一縷の望みを持ち何度も足を運びました。 決断を下しました。 やもめの勝利です。 まして訴えを取り扱う 訴えが取り上げられないと知りつつ 音をあげた裁判官は、ついに裁く やもめは社会の慣習に照らし合わせば、裁き を受けるに値しない者です。 しかし、彼女には一つの大きな強い武器がありました。 諦 めず訴え続けるという武器です。 彼女はそれを最大限利用したので勝利を得たのです。 イエス様は、 『まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わ ずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。 言っておくが、神は速やか に裁いてくださる』と、例えを結論づけられました。 私たちは人に対して執拗であれば嫌われるでしょうが、裁き主であるイエス様に対して は諦めず、訴え続けるべきです。 不正な裁判官でさえ聞き入れるのですから、まして真 実で正義を行われる主は、私たちの祈りを聞き入れて恵みを施して下さいます。 次に砦の塔です。 神は形のある存在ではありませんから、私たちは神を目で見ること も、手で触れることも出来ません。 しかし、知ることは出来ます。 私たちが神を信じ、 知ることが出来るのは、倒れた木を見て強い風が吹いたとわかるように、神の働きが為さ れた後です。 多くの神の働きを体験した人が、誰にでも理解できるように神を表した言 葉の一つが、砦の塔でした。 砦の塔が建っているから、敵の侵入を防ぐことが出来、危 険から守られるのです。 詩篇144編に次のように書かれています。 144:2 わたしの支え、わたしの砦、砦の塔/わたしの逃れ場、わたしの盾、避けどころ/ 諸国の民をわたしに服従させてくださる方を。 この言葉からわかるように、砦の塔は、私たちの盾となり、避難所となります。 また、 3 2011年5月7日 以下に引用するイザヤ書の言葉と照らし合わせると、『わたし』とは弱い者、苦難に打ち拉 がれている者、避け難い様々な困難に遭遇している者、理不尽な目に遭っている人です。 25:4 まことに、あなたは弱い者の砦/苦難に遭う貧しい者の砦/豪雨を逃れる避け所 /暑さを避ける陰となられる。暴虐な者の勢いは壁をたたく豪雨 人誰もが平和にそして災いに遭うことない人生を歩みたいと願います。 しかし、様々 な天災人災に見舞われることもあるのが現実です。 突然病魔が襲いかかってくることも あります。 予期せぬ苦難に襲われ、その苦難に対処できないから弱い者であり、貧しい 者なのです。 しかし、そうであっても卑下することはありません。 主が砦の塔となっ て下さるからです。 砦の塔である主は、主を尋ね求める人を見放すことも見捨てること もありません。 それが神の約束であり、私たちの信仰です。 イエス様は私たちの砦の塔です。 イエス様は、 『疲れた者、重荷を負う者は、だれでも わたしのもとに来なさい。 休ませてあげよう』と仰いました。 外国人が日本に来て驚 く光景の一つは、交通機関の車内での居眠りです。 人々の無防備さに驚き、疲れ切って いる姿に驚くのです。 肉体的な疲れもさることながら、多くの人が精神的にも疲れてい るのが現代社会に生きる人々です。 今こそ、人々はイエス様が与えて下さる安息に浴す べきです。 主はエレミヤを通して、 『わたしは疲れた魂を潤し、衰えた魂に力を満たす』(エレミヤ 31章25節)とおっしゃいましたが、そのことはイエス様によって果たされます。 イ エス様は御自分が十字架に付けられた後、神の許へとお戻りになることを弟子たちに伝え られた際、人々には弁護者としての聖霊を与えるとの約束をされました。 弁護者とは、 助け主、慰め主、仲介者、支持者とも訳せる語で、文字通り私たちを支え慰め励ましてく れる者ですから、私たちの逃れ場となる存在です。 16:33 これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あ なたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。 と、イエス様はヨハネ伝で言われました。 この言葉は、私たちにイエス様が砦の塔であ ることを示しています。 城に攻め入ろうと敵が窺っているように、私たちには様々な困 難が降りかかって来ます。 しかし、私たちは安心していられます。 何故なら、あらゆ る困難に打ち勝たれたイエス様が、私たちを襲う様々な困難にも打ち勝って下さるからで す。 とは言え、時には先の見えないトンネルに入った状態になるかも知れません。 そ んなとき、ヨブ記に書かれている次の言葉を思い起こして下さい。 37:21 今、光は見えないが/それは雲のかなたで輝いている。やがて風が吹き、雲を払 うと 37:22 北から黄金の光が射し/恐るべき輝きが神を包むだろう。 主は恵みを施して下さる方、そして、私たちを守り抜いて下さる方です。 4 ハレルヤ