...

WIJC150322私たちのために砕かれた救い主

by user

on
Category: Documents
13

views

Report

Comments

Transcript

WIJC150322私たちのために砕かれた救い主
●時:2015
●時:2015 年 3 月 22 日 ●題:「私たちのために打たれた救い主」
●聖書:イザヤの預言書
●聖書:イザヤの預言書 53 章1-6節
章1-6節
序
論
本
論
●今日は、先々週、また先週、更に今日までの 3 回の日曜にわたるイザヤ 53 章からメッセージの最終
回となる。多くの人々がご存知のように、この箇所は、イエス様がお生まれになる前に書かれた旧約
聖書の中で、イエス様のお出でについて預言する「メシヤ預言」の中でも最も有名な箇所である。
●この箇所を通して、私たちは以下のことをメッセージとして学んできた。
1.第一回目の日曜日には、「救い主は誰を救おうとなさったのか?」について考えた。答えは「迷え
る羊である私たち」であった。
2.第二回目の先週は、「救い主はどのようにして来られたのか?」について考えた。答えは、「神の
独り子が人間になって来られた」であった。
●そして、第三回目の今日は、特に4-6節を中心に、「救いはどのようにして成し遂げられたか?」に
ついてご一緒に考え、メッセージを頂く。
●一言で、その質問に、今日のメッセージの結論として答えるなら、救いは、「救い主が、私たちの身
代わりに打たれた、即ち、十字架にかかることによって」成し遂げられたである。
●今日、最初に、もう一度確認したいことがある。それは:
Ⅰ.聖書が言っている「救い」とは何か、言い換えるなら、イエス様は私たちにどんな「救い」を与えるのかである。
(一言で「救い」と言っても、「金魚掬い(すくい)」から始まって色々な救いがある)
A. このイザヤ53章において、「救う」という概念は、「負う」「担う」という言葉で表されている。
1.4節を見ると:私たちの病を負い(took up our infirmities)、私たちの痛みを担った(carried
our sorrows)とある 。
2.6節には、私たちのすべての咎(とが)を彼に負わせた(laid on him the iniquity of us all)と。
3.すなわち、私たちが負うべき人生の様々な「重荷」を、私たちの代わりに「背負って」、或いは
「担って」私たちを重荷から解放することが「救い」なのである。
4.それゆえ、イエス様は言われた。「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、私のところに
来なさい。私があなたがたを休ませて上げます」と。
5.この聖書の言葉によって多くの人々が救われた話を聞いている。昔の話であるが、熱海の海
岸には、非常に切り立った絶壁があり、「自殺の名所」と呼ばれる箇所があった。そこに、こ
の聖書の言葉を掲げたクリスチャンのグループ/教会があり、重荷に耐え切れず、自殺を考
えてそこに来た人の中に、それを見て、最後の望みをかけてイエス様のところに、その重荷
を持っていき、それを担って頂き、救われた人がたくさんいたと聞いた。
1.まず 4 節で見たように「病気」という重荷を担って下さる:昔から今に至るまでどんなに多
くの人が病気の重荷に悩み、闘ってきたことか!イエス様は、病という重荷を担って下さる。
2.更に、同じく4節にあるように、「痛み」という重荷を担って下さる:私たちの人生には様々
な痛みがある●裏切られる、●理解されない、●誤解される、●のけ者にされる、●認めら
れない、●経済的に恵まれない・貧困、●死別・離別により愛するものを失う、●孤独、
等々、主はこれらのすべての痛みを担ってくださる。
B.それでは、イエス様は、私たちのどんな重荷を担って(背負って)くださるのか?
イエス様は:
*註:4 節の「病気」「痛み」が NIV では、”infirmities” “sorrows”になっていることは残念である。原語から言って
も、日本語新改訳聖書、あるいは新共同訳からでも、Jewish English Translation でも”diseases” “pains”で
あり、より良い訳に思われる。
3.しかし、聖書は、救い主はもう一つ大切なことを担われたことを更に強調的に記している。
(1)5-6 節がそうであるが、特に、6 節の最後の部分で、「しかし、主は、私たちのすべて
の咎を彼に負わせた」と書いている。
(2)即ち、救い主は、もうひとつ私たちが背負っている重荷、私たちが犯した「咎(とが)」「罪」
の重荷を担ってくださると言うのである。
1
Ⅱ.ここで大切なことがある。それは、聖書が病気・痛みなどの重荷と、最後の罪・咎(とが)の重荷との間を、明確
に区別していることである。
A.
前の二つ、即ち、「病気の重荷」「痛みの重荷」などは、最後の「罪の重荷」の結果であり、個人の道徳的
責任、霊的責任の問題ではなく、全人類に無差別に蔓延した重荷であること。
1.それゆえ、これらの重荷は、クリスチャン、ノンクリスチャンを問わず、いつでも、生きて
いる限り、すべての人に降りかかってくる可能性のある重荷であること。
2.そして、イエス様が救い主として、それらの重荷を担うとは:
(1)その重荷である病気や痛みを直接的に癒される、除かれることもあるし、
(2)或いは、その重荷を、私たちが担う力をイエス様が私たちに与えられることもある。
3.それらの例は、
(1)前者の場合:聖書にある数々の不治の病や身体の障害からの奇跡的癒しであり、
(2)後者の場合:水野源蔵さんや星野富弘さんの場合のように、口が聞けない、手足が動か
ない、等々の重度の身体障害を担った方々が、病や障害は直接的に治されなくても、その
試練に潰されることなく、重荷に耐えて、輝いて生きる力を救い主イエス様から与えられ、
重荷に打ちひしがれることなく、重荷に打ち勝つ生涯とされる例である。
(3)皆様はあの有名なフット・プリントという詩について聞いたことがあるであろう。ある人
がある晩夢を見たと言う。海岸の砂浜をイエス様と一緒に歩いてた夢であり、自分の人生
を回顧させる夢であった。いつもイエス様が自分を支えていたことの象徴のように、自分
とイエス様の二組の足跡が砂浜に残っていた。でも、不思議なことに彼は気がついた。と
ころどころ足跡が一組だけになっている。しかも、それはいつも、自分が人生で一番苦し
かったときであった。彼はイエス様に聞いた。「主よ。あなたはあの時どうしていたので
すか? だって一組しか足跡がないじゃないですか? 私だけを残してどこに行かれてい
たのですか?」と。イエス様は答えられた。「私はあのとき重荷に潰されそうになっていた
あなたを背負っていたのだよ」と。
(4)イエス様は、私たちの病、痛み、悲しみのど真ん中で私の荷を共に負って助けてくださ
る私たちの救い主である。
(5)それゆえパウロは言った。ローマ8:35&37「・・・・」。
B.しかし、一方で、それらの重荷とは違った重荷があると聖書は言う。それは、私たちの「罪と咎(とが)から
来る重荷」である。
1.この「罪の重荷」こそが、創世記の初めに記されているように、先のポイントで触れた死や病
気、様々な不幸、矛盾、混乱という人生の様々な重荷を、この世界に持ち込んだ「張本人」で
あり、すべての不幸、重荷の根本原因である。
2.言い換えるなら、人間が不幸なのは、
(1)お金がないからではない:聖書は言う。「野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて
憎み合うのにまさる」「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争い
に満ちた家にまさる」(箴言 15:17、17:1)。
(2)教育がないからではない:今世界を不幸にしている大きな原因を作っている人は、教育
のない人ではなく、むしろ、教育のある人たちである。
(3)健康が損なわれて病気だから、身体に障害があるからではない:前述したように水野源
三さんや、星野富弘さんの生涯からもそれが言えるし、またレーナ・マリヤさんの生涯か
らも言える。彼女は、出生時から両腕がなく、左脚が右脚の半分の長さだった。しかし、
彼女は明るい人生を生きている。パラリンピックの水泳選手としても受賞し、長野のパラ
リンピックのときもゲストとして招かれ、「ニュース・ステーション」や「徹子の部屋」の
TV 番組にも出演。朝日新聞の「天声人語」はこのように書いた。「彼女の歌は朗らかで、
明るい。人間は強く生きられる、と励ます声だ」と。
3.人間が不幸なのはむしろ:
(1)私たちに解決されていない「罪の重荷」があるからであると聖書は言う。
(2)ダビデ王は正にそのことの証人であった。即ち:
2
彼は、地位も名誉もお金もなかったとき、真実に誠実に生き、苦労は一杯したが、人を惹
きつけるどこか輝いた魅力をもっていた。しかし、地位も名誉も金も、ある意味で「女」を
もと言いたいが、すべてを手にしたとき、彼は堕落し、罪のどん底に堕ちた。姦淫と人殺
しをしたのである。そのとき彼が経験したことは、金も地位も名誉も何も役に立たないこ
とであった。彼の背負った罪の重荷がすべてを破壊したのである。彼は罪の重荷に耐え切
れず叫んだ。呻いた。「・・・・」(詩篇 32 篇 1-5 節)
(3)ある精神病理学者は言った。「もし人の心の中にある良心の呵責(即ち罪の重荷)が除かれ
たら、今精神的な病で入院している人の半分以上が、退院することができるであろう」と。
4.しかし、人々は、この罪の重荷をどうして良いか分からずに抱えている。
5.聖書は言う。イエス様は、この罪の重荷から私たちを救うために来られた。即ち、私たちの
罪の重荷を身代わりに背負うために来られ、傷つけられ、撃たれた。即ち、十字架に掛けら
れたのだと。
(1)それが、正にイザヤ書5-6節が言っていることである。「・・・・」
(2)これが、キリスト教の救いの根本であり、中心である。即ち、
●罪からの救い、「私は、私が犯したすべての罪を神様から赦して頂いた」と言う、罪の重
荷からの解放である。
●それが故に、与えられた「神の子どもとしての確信」である。
1.
(5 節、ヘブル:パーシャ):原語からの意味は、神と結んだ契約に背く
こと、或いは、契約を結んだ神に背くことである。神との愛の契約に不誠実な人生
2.
(5 節、ヘブル:アーウォーン):原語からの意味は、ゆがみ、ひずみであ
るが、人間が、道徳的に、霊的に、少しづつ「ずれる」、「くずれる」、「変形する」こと。
3.
(6 節):牧者なる神様から離れること、導く者、守る者を持たな
い人生。どこに向かって生きたら良いか分からない。人生の最終目的と目標を失った人生。
4.
(6節):意図的に自分を選ぶ、自己中心な人生
5.これが、私たちの姿である。私たちは、このような罪を犯して来た罪人なので、神に裁かれ、
罰せられ、呪われ、打たれ、見捨てられる当然の運命であった。
6.しかし、その罪人の運命を救い主であるイエス様が、身代わりに受けてくださったのである。
C.イザヤはここで、人の罪を次のように表現している。即ち、「罪」とは:
そむく Transgressions
咎(とが)Iniquities
羊のようにさ迷い Go astray
自分の道に向かう Turned to his own way
Ⅲ.最後に、イエス様が、私たちをこの罪の重荷から救うためにしてくださったことをもう一度味わいたい。
A. イザヤは言う(イザヤ53:5-6)。
彼は、私たちの背きの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが
私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちは癒された。・・・主は私たちすべての
咎を彼に負わせた。
1.「刺し通され」「砕かれた」「打ち傷」、それは更に、7節の「ほふり場に引かれて行く小羊」の姿
でもっと明らかになる。
2.イザヤはここで明らかにイエス様の十字架の苦しみ、痛み、打ち傷、更に死を預言していた。
3.しかも、それは明らかに私たちのため、私たちを救うためという明確な目的をもっての苦し
み、打ち傷、死であった。
(1)私たちの背きの罪のために刺し通され(5 節) (2)私たちの咎のために砕かれた(5 節)
(3)彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし(5 節)
(4)彼の打ち傷によって、私たちはいやされた(5 節)
(5)私たちのすべての咎を彼に負わせた(6 節)
(6)更に、8 節「彼が私の民の背きの罪のために打たれ」
4.キリストは弱かったから志の半ばで、不本意ながらも捕まえられ、殺されたのではなかった。
(1)彼は初めから、苦しむために、傷つけられ、死ぬために生まれ、生き、そして十字架の
道を選ばれたのである。
(2)だからイエス様は言われた。
B. そこに、イエス様の十字架での苦しみを指す言葉を見る。
3
●マルコ 10:45 命を与えるために来たのである
●ヨハネ 10:18 命を与えるのは自分のチョイスであって、奪われるのではない。
(3)即ち、私たち罪人を救う為、私たちの担うべき罪の重荷を身代わりに負い、罪の呪いと
罰を受ける為に、私たちの代わりにあの十字架で痛み、苦しみ、悶え、死なれたのである。
5.しかし、それは、決して、英雄的な美談としての身代わりの死ではなかった。即ち、
(1)「あいつが今苦しんでいるのは、あいつが悪いからではない。あいつは何にも悪くない。
でも、ほかの人を救うために、自分を犠牲にして、身代わりに苦しんでいるんだ。あいつ
は素晴らしい。」と言うような美談的、英雄的身代わりの死、犠牲ではなかった。
(2)イエス様は、単に人のために、人を救うために、その人の受けるべき罰を引き受けて苦
しんだと言うより、その人の変わりに自らが「罪人となった」、「罪人とされた」のである。
(3)だから、パウロは言う。「神は罪を知らない方を私たちの代わりに罪とされました。God
made him who had no sin to be sin for us」(Ⅱコリント 5:21)
(4)かつて私が神学生だった頃学校で大掃除があった。もう一人の神学生と一緒に窓ガラス
拭きを担当した。暫くしてそのもう一人の神学生は自分の部分が終わったのでどこかに行
ってしまった。私がモタモタとして窓を拭いているところに上級生が来ていなくなった神
学生が拭き終えたはずの窓ガラスを見て「何だこの拭き方は全然だめだ。もう一回やり直
し!」と叱るようにして言った。その時私は心の中で言いたかった。「先輩、喜んで彼のカ
バーはするけど、これは僕のしたことではありません。(誰々)のしたことですよ。」と。
(5)もし、私がそのとき、そう言ったとしたら、私は、たとい彼の失敗を彼の代わりにカバ
ーして彼を英雄的に助けて、「オイ、西郷は、中々偉いぞ、ほかの人の分まで頑張って」と
英雄的に褒められたとしても、彼の代わりに「罪人になる」こととは程遠い存在なのである。
(6)イエス様は、私たちの代わりに、唯に罪の刑罰を受けただけではない。私たちの身代わ
りに「罪人」そのものになられた、されたのである。ここにイエス様の真の苦しみがあった。
(7)それが、多くの人々に誤解をさえ与えているイエス様の十字架上の祈りの意味である;
それは、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか?!」と言う祈りである。
●おおくの人は、「あーイエス様も、あそこまでは父なる神様を信じ頼って、色々な困難
迫害にもめげずやってきたけど、やっぱりあの十字架の苦しみには遂に、弱音を吐い
たか。イエス様も、やっぱり弱い人間だからね」で終わってしまっている。
●それはまったくの誤解である。イエス様は、あそこで、最早、人間となった神の御子、
今まで一生懸命父なる神を信頼して生きてきた罪のない人間として、あそこで、あま
りの苦しみに遂に弱音を吐いて祈ったのではない。
●あのイエス様の叫びは、罪のない神の独り子としてではなく、私達を救う為に罪人とな
った・された人間として、神に見捨てられると言う地獄の悶えからの叫びであった。
●だから、「わが神、わが神」と言われたのである。イエス様は一生涯、あの十字架の上の
時間も含めて、お祈りでは、いつも、「父よ」と天の父なる神を呼んでおられ、一度た
りとも、「神よ」と言われたことはなかった。
●しかし、あのとき、イエス様は、単に罪人のために苦しんだ「善人」ではなく、完全に自
らが「罪人」「悪人」となって、神の前に裁かれ、苦しみ悶えておられたのである。
結
論
★これが十字架の意味である。私たちは、イエス様が私たちの身代わりに罪人となって苦しみ、呪われ、死
んで下さったことによって、罪赦され、罪の重荷が除かれ、心に永遠の平安を得たのである。
★聖書は、ここに愛があると言う。そして、この愛を知っったとき、どんなに多くの人の生涯が変わったこ
とか、生き方が、生きる目的が変わったのである。生きている者が最早自分のためでなく自分のために死ん
で甦られたお方のために生きるようになるのである(Ⅱコリント 5:14-15)。
★18 世紀ドイツの伯爵の家に生まれた Nicolaus Zinzendorf は、若くして美術館でイエス様の十字架の絵
に触れた。その絵とそこに書かれてあった言葉、"This have I done for you-now what will you do for
Me?"が彼の生涯を変えた。その全生涯、その全財産を世界宣教のために投じたのであった。
4
Fly UP