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2012.3.5) 「十字架のフィルター」

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2012.3.5) 「十字架のフィルター」
「十字架のフィルター」
「再臨前リバイバルへの近道」シリーズの三回目になります。これまで様々な
面から、リバイバルへの近道を探して来ました。前回、出エジプト記のカナン入
りを最後のリバイバルとして捉え、「キリストの身丈に成長した個人の集合体で
ある教会が、イエス様の御名と血の元に一致してヨルダン川を渡り、リバイバル
の地に入る」のだと、導かれました。
今月は、そのヨルダン川を至聖所への垂幕として見、私たち信仰者と教会が
「肉と、肉の思い」を死なせなければ通過できない「フィルター」としての「十字
架の死」を、永遠から永遠の神様の歴史の中で見て行きたいと思います。
この「祭司としての祈り・賛美礼拝」では、機会を捉えて何回かお話をしているのですが、イエス様が十字架で息を
引き取られる時に至聖所への垂幕をご自分の体をもって裂いて下さったので、私たちは大胆に至聖所に入り、「天の
御座」の前で礼拝(祈り、賛美)を捧げる事ができ、上からの御言葉・栄光・慰め・満たし・癒し・・・を受け取れます。
御座での礼拝によって、私たちは主の似姿へと少しづつ変えられてゆきます。しかし、心の一新によって自分を主の
姿へと変えていただこうとする献身(心の殉教;垂幕を裂く)がなければ、自分自身の身丈は、イエス様に届きません。
紅海での洗礼(主と共に川の中に沈んで共に死に与り、主と共に復活する事)とは、歴史上に一度の贖いであり、一
生に一度の「体の洗礼式」で、我々が死後に天での栄光(霊)の体に変えられて永遠に生きる事を象徴しています。
しかし、出エジプトの民のヨルダン川での洗礼(川を渡る)とは、肉の思いを十字架に釘付けて死なせ、イエス様の
身丈に達する作業(ガラテヤ 2:20)である、実際には毎日受けるべき「心の洗礼」です。インマヌエルの主が、毎朝ご
とに、新しい命に入れようとして、また新しい事をなそうとして、常に、新しい油注ぎと命の水をもって地球の自転に合
わせて追いかけて来られるので、私たちは日々、自分の古き思い(肉の思い;思弁)を死なせなければなりません。
日々の心の洗礼を通して、私たちと教会は、リバイバルへの最後のヨルダン川を渡るのです。なぜなら、フィルター
としての十字架の垂幕は、肉と肉の思い(思弁)を通す事が出来ないのです。私たちが肉体のまま、天の御国に入る
事ができないように、肉の思いを持っていたら、この地にあって心が御国に入る事は出来ません。
①神の子・民となる為の紅海に於ける一生に一度の洗礼
「あなた方は既に死んでおり」
②日々神の僕として受けるべき心の洗礼(心の殉教)
もし私たちが、彼と共に死んだのなら、
彼と共に生きるようになる。
共に、新しい命に入りますが、①死んでから肉体が霊の体に変えられて天国に入り、神様と共に永遠に生きるのか、
(それだけでも素晴らしい救いで、充分に感謝な事ですが!)、②心の肉の思い十字架につけてキリストと共に死なせ、
心の中に天の御国が心に湧き上がって、この地での歩みの中で、エノクのようにキリストと共に生きるようになるかの違
いです(ガラテヤ 2:20)。その分かれ目であるフィルターとしての十字架(垂幕)の意味を、最近になって解き明かされ
た「いちじくの木」の解釈を通して把握し、今の時代に於ける「心の殉教」の重要性を見出してゆきたいと思います。
「永遠の神の都」
「リバイバルへの近道Ⅲ
「リバイバルへの近道Ⅲ」
(1) 永遠から永遠の中で
(2) 僕の祈り
(3) 僕の姿
(4) イチジクの実
(5) 権威と権力(
権威と権力(強盗の巣)
強盗の巣)
(6) 十字架のフィルター
(7) イスラエルの平和
使徒ヨハネが見た
私たちが永遠に住む
新しいエルサレムの幻
私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、
以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。黙示録21:1
今月と来月は、永遠から永遠までの歴史の中心「十字架」の一週間を見ながら、終末の今を生きる私たちに対する
「イエス様からのメッセージ」をお聞きしたいと思います。一週間の始めはシュロの聖日から始まり、金曜日に十字架へ
と進みます。イースターによく賛美される「The Holy City」は、この「エルサレム入城」から「十字架」・・・・そして再臨後
の千年王国明けの、新天新地の到来までを歌っています。先ずは。「エルサレム入場」から「新天新地」迄の賛美を、
下記の歌詞を見ながら右の独唱と共に歌って下さるのはいかがでしょうか。http://www.youtube.com/watch?v=oLCUmEHNw50
夢路にありて 我は見たり 昔の町なるエルサレムを
子供らの声 地を揺るがし 御使い達も 共にぞ歌う
み使い達も
共にぞ 歌う
王なる御子イエス ホザンナ ホザンナと
カルバリの丘には 十字架の立つ
★「彼(アブラハム)は、堅い基礎の上に建てられた
都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設
されたのは神です。」 ヘブル11:10
★「その土台とはイエス・キリストです。」 Ⅰコリ3:11
カルバリの丘には
カルバリの丘には 十字架の立つ
十字架の立つ
。
使徒ヨハネの見た幻
「私はまた、
聖なる都、
新しい
エルサレムが、
夫のために
飾られた
花嫁のように
整えられて、
神のみもとを出て、
天から下って
来るのを見た。」
黙示録21:1
エルサレム エルサレム いざ迎えよ
カルバリの丘には
十字架の立つ
いつか まのあたり ま新しき
とこしえの町 きたるを見る
夢路の 景色は
いつか 去りて
ホザンナの 声
ちまたに なく
陽は かげりはじめ
雲 わき出で
エルサレム エルサレム 聞け御使い
なおも歌おう ホザンナ ホザンナと
み光の
中に
かどは
開け
来たらば
誰も
はいり
うべし
月・陽(ひ)の光は そこにあらず
み神の光の 輝くのみ
エルサレム エルサレム 夜明けは来ぬ
み神の光の輝くのみ
神の都は ついに生もりぬ
ホザンナ 永遠の神の都よ
•
「The Holy City」
http://www.youtube.com/watch?v=NeALTHQQAWo Larry Ford 独唱・会衆の合唱・室内楽・英語(楽しい)
http://www.youtube.com/watch?v=Jt01VhcqYIU&feature=related 独唱・合唱・オーケストラ・英語(シンバル)
http://sanbika.net/The_Holy_City.html 日本語と英語の歌詞はこちらから
http://j-ken.com/category/all/data/619205/ MIDIの伴奏
「リバイバルへの近道Ⅲ
「リバイバルへの近道Ⅲ」
(1) 永遠から永遠の中で
(2) 僕の祈り
(3) 僕の姿
(4) イチジクの実
(5) 権威と権力(
権威と権力(強盗の巣)
強盗の巣)
(6) 十字架のフィルター
(7) イスラエルの平和
リバイバルへの二つの祈り
リバイバルへの祈りの変化
①興して下さい ②相応い僕として下さい
②相応しく変えて下さい
マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。
どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」
先月も「放蕩息子の祈りの成長」と、「リバイバルを求める祈りの成長」を対比しましたが、これを少し深めて行きまし
ょう。「僕」とは旧約聖書時代の「神の僕」の事で、新約時代は「イエス様の弟子」の名になったので、私たちは、全世界
に出て行って全ての国の人々を「弟子とする」事が、命令系統の上に立つ事であるように錯覚してしまいがちです。
しかしイエス様は、その三年半の公生涯を神であるのにへりくだって人に仕えて、神の僕・人の僕としての姿を弟子
達にしっかりと見せました。イエス様の母マリヤも、自らを「女性の僕」を表わす「主のはしため」と把握していました。
もちろん私たちは神様の息子・娘の高き身分をいただいています。しかし、私たちの為に死なれたイエス様の十字
架の苦しみと、それを忍耐した御父の深き愛を知ってゆく中で、御父と御子の為に僕として生きようと導かれます。
使徒パウロは、信仰厚く、伝道と宣教を熱心に行い、霊の世界を体験的に知り、一方で神学を究めた誇り高き優秀
な人物でしたが・・・、人生の旅路を進んで行くほどに、自分の汚れや罪深さを、御言葉と聖霊によってあぶり出され、
ついに自分を「罪人の頭」とまで認識し、「十字架」に於ける御父と御子の「愛ゆえの犠牲・患難・忍耐・謙遜・・・」のど
れ程かを知って、十字架への感謝がつのり、自らも殉教の覚悟を持って神に仕える主の真の僕として生きました。
★Ⅰテモテ 1:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受
け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」
★Ⅱコリント 5:15 「キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、
自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」
生きている人々が、もはや自分のためにでは
なく、自分のために死んでよみがえった方のた
なく、自分のために死んでよみがえった方のた
キリストがすべての人のために死なれたのは めに生きるためなのです。
めに生きるためなのです。
エレミヤは、神様が自分を神の僕として選んで下さったのは、母親の胎内に宿る以前からだとの御声を聞きました。
★エレミヤ 1:4-5 次のような主のことばが私にあった。「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あな
たが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」
しかしパウロは、全ての人間には、天地創造の前からキリストの内に選ばれている「召命」があると宣言しました。
(ですから、天地創造の六日目に私たちがガラテヤ 2:20 に到達できるように、「キリストの似姿」として創造しました。)
★エペソ 1:4 「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされ
ました。」
つまり、神の子・神の民とされるためだけの十字架ではなく、全ての人間が神の僕となって「もはや自分のためにで
はなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるため」にも十字架にかかられたと、言っています。
しかし神様は、人間と御使いを含む全ての被造物に「自由意志」を与えた以上、人間の中に神様を信じない人が
出る事も、神様を信じた信仰者の全てが「神の真の僕」の召命を見出さずに一生を終えて「神の子・神の民」だけの身
分で天国に戻って来る事も覚悟していました。(自由意志を与えたのは、表面的でなく真実の礼拝者を得る為です)
しかしパウロはひるむことなく、自分の導いている信仰者たちの全てを、そして聖書を読む今の時代を生きる私た
ちを、「世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされ」た召しに相応しく、
単なる神の子・民に留まらず。しみもしわもない聖い花嫁として、キリストに捧げようとの、神の熱心を受け継ぎました。
★Ⅱコリント 11:2 「私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純
な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。」
★エペソ 5:26-27 「キリストがそうされた(教会を愛し、教会のためにご自身をささげられた)のは、みことばにより、水の
洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、
聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」
ですから、天地創造以前からの召しにより、私たちは僕としてのイエス様の花嫁として人々に仕え、また羊の世話を
する羊飼いの妻として命がけで羊たちの世話をし、弟子として相応しく自分の十字架を背負って、師であるイエス様
の身幅だけの狭き十字架の道を辿り、日々心の殉教をして日々新たに聖くされ、その任に当たるべきです。
「神は私たちを世界の基の置かれる前から
キリストのうちに選び、御前で聖く
キリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない
者にしようとされました。」エペソ1:4
者にしようとされました。」エペソ1:4
この世で最も幸せな生き方
(聖霊の導きたい所)
奴隷が、『私は、私の
リバイバルへの祈りの変化
主人と、私の妻と、私
の子どもたちを愛して
①興して下さい ②相応しく変えて下さい
います。自由の身と
なって去りたくありま
せん。』と、はっきり言
うなら、その主人は、
彼を神のもとに連れ
て行き、戸または戸
口の柱のところに連
れて行き、彼の耳を
きりで刺し通さなけれ
ばならない。彼は
いつまでも主人に仕
えることができる。
リバイバルへの祈りの変化
①興して下さい ②相応しく変えて下さい
彼は、キリストのゆえに
受けるそしりを、エジプの
宝にまさる大きな富と
思いました。彼は報いと
して与えられるものから
目を離さなかったのです
ヘブル11:26
ピスガの頂上から、ヨル
ダン川の向こう、カナン
の地を見るモーセ
なぜならば、神の僕として生きる事が、この世の中で最も幸福な生き方だからです。十年近く前だったでしょうか、
東京・大塚の教会で、「年期明けの奴隷」についての預言的メッセージが語られました。
★申命記15:12-17 もし、あなたの同胞、ヘブル人の男あるいは女が、あなたの所に売られてきて六年間あなたに仕
えたなら、七年目にはあなたは彼を自由の身にしてやらなければならない。彼を自由の身にしてやるときは、何も持
たせずに去らせてはならない。・・・あなたは、エジプトの地で奴隷であったあなたを、あなたの神、主が贖い出された
ことを覚えていなさい。それゆえ、私は、きょう、この戒めをあなたに命じる。その者が、あなたとあなたの家族を愛し、
あなたのもとにいてしあわせなので、「あなたのところから出て行きたくありません。」と言うなら、あなたは、きりを取っ
て、彼の耳を戸に刺し通しなさい。彼はいつまでもあなたの奴隷となる。女奴隷にも同じようにしなければならない。
六年間の年季が明けて、報酬を得、晴れて自由の身となれる奴隷は、世界中にある全ての可能性を選択できるの
に、主人の家に残ってもう一たび奴隷の身分となる事を望みました。
その印となる、彼の耳にあるピアスを見た人は、「この奴隷は、本当の息子・娘と分け隔てなく美味しい食事を与え
られ、綺麗な着物を着させられ、住む所も供給され、必要が生じた時にはありあまる財産の中から不足なく与えられる
ので、世界で一番の金持ちよりも豊かで、最も才能があって有名な人よりも名誉があり、この地上のどの王よりも自由
があるのだ・・・・」と、この奴隷の家の主人は愛と家の素晴らしさを知るのです。(ビル・バイヤース師メッセージより)
正しく、放蕩息子が豚の世話をしている時に思い浮かべた、父の家の僕の幸せな姿です。今の世で考えるのなら、
「優秀なキャリアでかっこよく生きるビジネスマン・ウーマンになる事や、世界一の美男や美女として生まれて豪華でス
テキなファッションで身を包む事や、立派な学者となったり、世界一のスポーツ選手として尊敬されたり、テレビタレン
トとして有名になったり、ハリウッドで世界一の俳優として認められて名誉と財産を手にしたり・・・」よりも、遥かに幸福
な生き方が、最も豊かで自由で栄誉に輝く生き方が、「神の僕」となる事です。
モーセも、当時世界一だったエジプトの王になるよりは、キリストの僕としての報いを遥か上と把握していました。
イエス様こそが、一生涯を「神の真の僕」として生き、十字架のピアスではなく、十字架そのものに付かれて、私た
ち信仰者に、神の僕として生きる事の偉大さ、名誉、富、幸福・・・を示されたのです。私たちは、まだ天に行った事が
なく、天の家に於ける素晴らしい栄光と富と美味しいご馳走と待遇・・・を見た事がないので、天国の住民であったイエ
ス様が、死に至るまで神様に従う僕の圧倒的な報いを得る道を教えたのです。
「リバイバルへの近道Ⅲ
「リバイバルへの近道Ⅲ」
(1) 永遠から永遠の中で
(2) 僕の祈り
(3) 僕の姿
(4) イチジクの実
(5) 権威と権力(
権威と権力(強盗の巣)
強盗の巣)
(6) 十字架のフィルター
(7) イスラエルの平和
「キリストは人として
の性質をもって現わ
れ、自分を卑しくし、
死にまで従い、実に
十字架の死にまで
も従われたのです。
それゆえ、神は、
キリストを高く上げ
て、すべての名にま
さる名をお与えに
なりました。」
イエス様は、十字架にかかる前日、過越しの食事の前に、僕のように弟子達の前にひざまずき、足を洗いました。
私が超ペンテコステ派と言われる神学校に通っていた時の事です。聖霊が強く働くと、サタンも激しく働いて神学生
同士の心の面子を突き刺すので人間関係が非常に悪くなり、卒業まで忍耐できるかを危ぶまれる時期がありました。
そんな時、その神学校の校長と副校長が、いきなり洗足式を始めました。洗足式が始まると、その先生方の表情は
能面のようになって、全ての感情を無として神学生の前にひざまずき、ひとりひとりの足を暖かい湯で黙々と洗い、き
れいなタオルで丁寧に拭き上げて下さいました。
★ピリピ 2:6-7 「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自
分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」
その様子を見て、私は初めて「神の僕たる者はその任に当たる時、イエス様のように自分の感情を無として、人に、
それも目下の者に仕える」事の実際を知りました。サタンは私たちの心を突いて感情的にさせますが、この地上に於い
て、感情を無としてサタンの攻撃に勝利したのなら、天国でイエス様の内側で、最高の栄誉と栄光に輝くのです。
私たちは、イエス様の一生を見習い、そしてヘブル書 11 章に殿堂入りした神様の真の僕の、心と体を殉教させる
生き方と行く末の栄光を思い、世を去る日までの一生涯、「神の僕」として生きて行く献身をしましょう。
なぜなら、私たちの長子である最も神様に愛されている御子イエス様が、神の僕として壮烈な十字架の死にまで従
順したのですから。私たちも、感謝な事に、神の子・神の民としての高き身分を最初に与えられていますので、いつで
も父なる神様の御腕の中に飛び込んで、思いっきり甘える事ができます。
しかし、御父の深い愛を知らず、長兄の十字架の苦しみを知らずに、いつまでもミルクと離乳食しか食べられない幼
子として一生を終えるのではなく、イエス様の身丈に成長して、父と兄の心を知って、神の僕として尊く生きて、親孝
行、兄孝行をして、天国に行きましょう。
聖歌298番
世にあるかぎり
つかえまつらん
この身に近く
主よましませ
戦いもなど
恐るべしや
導く御手に
すがり行く身
※砂漠で祈るハガル
★
★
世を去る時も 共にまさば まします家に
我もありなん 世にあるかぎり 僕として
仕(つこ)うる恵み 与えたまえ
※金の子牛事件の時、民の為に祈るモーセ
http://www.youtube.com/watch?v=khnBej3dMnA&feature=related
オカリナ4重奏の伴奏で、上記の聖歌の賛美できます。2コーラス
http://www.youtube.com/watch?v=xbjRZepWxyQ&feature=related
【初音ミク】讃美歌338番「主よおわりまで」 フルコーラス 歌詞あり
「リバイバルへの近道Ⅲ」
(1) 永遠から永遠の中で
(2) 僕の祈り
(3) 僕の姿
(4) イチジクの実と葉
(5) 権威と権力(強盗の巣)
(6) 十字架のフィルター
(7) イスラエルの平和
★マルコ11:12-14彼らがベタニヤを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。葉の茂ったいちじく
の木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉の
ほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。イエスは、その
木に向かって言われた。「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」
イエス様は、エルサレム入場をなされたシュロの日曜日の翌朝、エルサレムの宮に行く途中、空腹になっていちじく
の実を所望しましたが、実がなかったので、その木を呪われました。しかし、「いちじくの実のなる時期ではなかった」と
部分は、イスラエル地方のいちじくの生態を知らなかった事による誤訳のようです。
★マルコ 11:12-14 彼らがベタニヤを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたの
で、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる
季節ではなかったからである。イエスは、その木に向かって言われた。「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べる
ことのないように。」
この部分は長い年月、正しい解釈が出来ていませんでしたが、リュ・モーセ師著の「聖書の世界が見える (1) 植物
編」により、その深い意味が分かって来ました。実は、イエス様が空腹時に実がなかったから怒って木を呪ったのでは
なく、イエス様の再臨と、その直前のリバイバルを迎えようとする『終末を生きる私たちクリスチャン』と、そして『イスラ
エルを取り巻く世界情勢』にとって、壮大なメッセージがあったのです。
先ず・・・・、イスラエル地方のいちじくの木は、春先から 10 月頃まで、一年に何回も実を付けるそうです。しかし、商
品価値のある「テエナ」と呼ばれる甘くて美味しい大きな実は、イエス様がこの過越しの時期に実を求めた季節には、
まだ実っていませんでした。「いちじくのなる季節ではなかったからである」とは、商品として市場に出せる品質の「テ
エナ」の季節ではなかったと言う意味であったと言う事です。
過越しの時期には、この普通の実「テエナ」でなく、最初の小さく、青く、甘くない初なりの「パゲ(バーグ)」の実る季
節でした。この商品価値のない「パゲ」は、この実をもがなければ、第二回以降の「テエナ」が実らないため、旅行者と
か貧しい人がお腹を満たすために、自由に採って食べても良いとされていたそうです。多くの人に採って食べてもらえ
ば、パゲを落とす労働が、その分、楽になるからです。
そしてイエス様は、いちじくの木をイスラエルの宗教界として象徴的に見て、彼らの内に「神様への最初の謙譲
物・・・真の礼拝者」がいるか否かに、喩えられたのです。そして過越祭の時期、民の信仰を導く宗教指導者の中に
「パゲ」は見当たらなかったのです。旅人や貧しい人々に、自分を捧げて仕える「神の真の僕」はいなかったのです。
初々しい実がないのに、葉だけは立派に茂っていました。当時の宗教界には、真の礼拝の心はないのに、神殿とか、
形式とかの外見だけは、立派に整っていました。イエス様は、この「葉だけで、実のない信仰者」を嫌われました。
4月から10月迄5回実る「いちじくの実」
http://ameblo.jp/1tubunomugi100tubu/entry-11062211839.html
最初の実「パゲ」
旅人・貧者の食物
もぎ取らないと
次の実がならない
過越祭の時期のいちじくの木の様子
「葉とパゲ(初なりの実)」
葉だけの信仰者
※ベテパゲ(バーグ)
2~5回目の実
「テエナ」
甘く 大きく 美味しい
商品価値がある
※ベタニア
「善きサマリヤ人」のたとえ話に出てくる宗教指導者「祭司とレビ人」は、律法を細目に至るまで完全に守っているよう
に見せて、神様からの最も重要な『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛
せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛』すと言う律法の要求を守ってはいませんでした。(ルカ 10 章)
かえって、彼らがいつも軽蔑している、律法もさほど知らない異邦人のサマリヤ人が、「心を尽くし、思いを尽くし、力
(労働と手間と時間と財力)を尽くし、隣人を自分自身のように愛」したのです。イエス様は、その信仰に真実の実がな
く、外見だけが立派な彼らを、「外側は白く塗られた墓のようで、内側は汚れている偽善者だ」とまで言い切りました。
★マタイ23:27-28 「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは白く塗った墓のようなものです。
墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいなように、あなたがたも、外側
は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。」
パリサイ人・祭司・長老派・・・・
★創世記
3:7 「彼らは、
いちじくの
葉をつづり
合わせて、
自分たちの
腰のおおい
を作った。」
外側(葉)を取り繕う心の根は、かつてエデンの園で「善悪を知る知識の実」を食べた結果(取り除かれていないサタ
ンのDNA)です。その実を食べたとたん、アダムとエバは自分の裸を見て恥じ、手軽にいちじくの葉で隠して体裁を
整え、自分の心にある「神様の御言葉(一戒)に対する反逆」を、神様の御前に取り繕いました。
放蕩息子の兄も、父に何一つ逆らう事なく立派に仕えた孝行息子に見えましたが、それは、外面を葉で取り繕って
いるに過ぎず、父への尊敬と愛からではなかったのです。死んだと思っていた弟の帰還を喜ぶ父を見て、その「善悪
を知る知識の実」の現れであるサタンが尻尾(正体)を見せて、弟に対する妬みが表面化し、父に抗議をしました。
兄には真心から父(神)を愛す愛はなく、弟(隣人)を自分自身のように愛す愛も全くなく、外見(葉)だけの人物でした。
なぜ、イエス様は、「放蕩息子」と「善きサマリヤ人」のたとえ話をして、葉だけ立派な信仰者を叱責し、その象徴で
あるいちじくの木を呪って、根まで徹底的に枯らせたのでしょうか?
★マルコ11:20-21 朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた。ペテロは思い出して、イエスに言
った。「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。」
それは、イエス様が、エルサレムに下されるこれから裁きを、このいちじくの木に見たからです。
イエス様が、始めの永遠から終わりの永遠までの歴史の中で、全人類の為に贖罪をなさろうと、神が平和(人間との
和平)をもって訪れようとしている、最も重要なこの日、エルサレムに、その重要性を信仰の目で把握できる信仰者が
ただの一人もいなかったばかりか、民も指導者もこぞってイエス様を十字架に付けようとしていたのでした。
この後、神様の裁きはローマ帝国を使って行われ、エルサレムは陥落し、根まで枯れて、世界中をさ迷う流浪の民
となりました。かつて、神を正しく礼拝していたアベルを憎んで、兄のカインが殺した時、カインとその末裔に対する罰
は、「さ迷う」事でした。
それなのに、神の憐れみにより、カインはノデ(流浪)と言う名の地に住み着きました。実際にさ迷ったのは、彼の心だ
けだったのです。(http://riverside.main.jp/priest/files/praise&worship_8th.pdf の最初の部分に詳細があります)
しかし、イエス様を殺した裁きは厳しく、エルサレムは攻め込まれて神殿もろとも崩壊し、神の民は、殺され、捕虜と
され、住み慣れた地を追われて世界中をさ迷う流浪の民となったのでした。根ごと抜かれて枯れてしまったのです。
★マルコ11:20
★マルコ11:20
朝早く、通りが
かりに見ると、
いちじくの木が
根まで枯れて
根まで枯れて
いた。
いた
AD70ローマ軍によりエルサレム陥落
流浪の民(根まで枯れたいちじくの木)
★ルカ19:41-44 エルサレ
ムに近くなった頃、都を見ら
れたイエスは、その都のた
めに泣いて、言われた。「お
まえも、もし、この日のうち
に、平和のことを知っていた
のなら。しかし今は、そのこ
とがおまえの目から隠され
ている。やがておまえの敵
が、おまえに対して塁を築
き、回りを取り巻き、四方か
ら攻め寄せ、そしておまえと
その中の子どもたちを地に
たたきつけ、おまえの中で、
一つの石もほかの石の上に
積まれたままでは残されな
い日が、やって来る。それ
はおまえが、神の訪れの時
を知らなかったからだ。」
その事を知っていたイエス様は、ろばに乗ってエルサレムに入る時、その都の行く末を見て泣かれたのでした。
・・・エルサレム哀歌・・・
★ルカ19:41 エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、言われた。「おまえも、も
し、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。やがておま
えの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、そしておまえとその中の子どもたちを地にた
たきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、
神の訪れの時を知らなかったからだ。」
イエス様は下記で、ぶどう園を三年間も見回っているが、実がないと叱責しておられます。(下図左) ぶどう園とは、
今で言う教会の事で、その番人とは、祭司などの教会指導者の事です。十字架の時、信徒であるマリヤたちは純粋
な信仰でしたが、弟子たちはまだ聖霊を受けていなかったので人々を導く教会指導者としては未完成だったのです。
★ルカ13:6-7「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。そこで、
ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なって
いたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。』」
リバイバルへの祈りの変化
①興して下さい ②相応しく変えて下さい
★詩篇 1:3
その人は、
水路のそば
に植わった
木のようだ。
時が来ると
実がなり、
その葉は枯
れない。
イエス様が望んだのは、外側、葉ばかりが立派な信仰者の集まりではなく、その木が天からの命の水によって実を
付ける事でした。私たち信仰者が、イエス様に繋がっていれば、必ず麗しい実が先ず心に実ります。繋がっていない
のに、外側の葉(行動・見かけ・・・)だけを求めず、先ず神の国と神の義を求めなければ、この世の宗教と同様になっ
てしまいます。人間の考えで、信仰者を外側の行動面から整えようとすると、命のない宗教になってしまいがちです。
イエス様の再臨と、その前の大リバイバルを迎えようとしている今・・・・、まさしく神が訪れようとしている今の時、私た
ちの教会の中に、天からの水で養われている真の信仰者であるパゲの存在を、天から神様が探しておられます。
神様の心を自分の心とし、神様の願いを自分の願いとして神様に自分自身を捧げ、また、魂の大収穫(テエナ)の前
に、この世の人々に自分の命を差し出して仕える初なり(パゲ)を、神様は今の時に期待をされているのです。
神様は、イエス様がこの地に来られてから約二千年間、人々の自由を尊重して、信仰を持つチャンスを与え続けて
いました。しかし人々は、その自由をもって、この世を愛し、人間の知性を神の知性よりも高いものとし、自分の肉と力
に寄り頼み、偶像を作って礼拝し、神と神の御言葉を知ろうとも、信じようともしませんでした。
ですから、再びイエス様が訪れようとしている今の時、天を揺すり、地を揺すって、人々の目を覚まさせようとしてい
るのです。そうでなければ、人々は、イエス様が救い主である事も、永遠の輝ける命を与えられて永遠に神の都に住
む幸福にも、気づく事がないからです。
しかし、世の人々の覚醒の前に、先ずイエス様は、先に救われた私たちの心配しておられます。イエス様の公生涯
に三回の過越しの季節を迎えました。いちじくの木に象徴される教会の、表面的には立派に見える礼拝の葉のかげに、
初なりのパゲの実がなっているかどうかを調べる為に、三年間も宮や神殿を見回っていたのに、なかったからです。
それと同じように今、再臨前のイエス様は、パゲを求めて、心配しつつ私たちの教会を見回っています。なぜなら、
イエス様が十字架に付けられる重要な時に「パゲ」が実っていなかったので、再臨の時にはもっと「パゲ」を見つけるの
は難しいのではないかと心配なさいました。
★ルカ 18:8 「しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」
天のお父様もまた旧約聖書に於いて、神への最も聖なる捧げ物「初なりのいちじくパゲ」がない事を悲しんでおられ
ます。イエス様が十字架にかかられる前に、初なりのいちじくパゲを探してもなかった時に悲しんだと同じように・・・。
★ミカ 7:1 「ああ、悲しいことだ。私は夏のくだものを集める者のよう、ぶどうの取り残しの実を取り入れる者のようにな
った。もう食べられるふさは一つもなく、私の好きな初なりのいちじくの実もない。」
私たちは、この終末の時、天のお父様とイエス様に向かって、「私をパゲとして下さい。神の真の僕、人の真の僕と
させて下さい。」との献身を表明し、神様の最も喜ぶ「初なり」として、自分自身を聖別して捧げましょう。
※ イ・ジェフン師のオンヌリ聖日礼拝での素晴らしいメッセージ[263]「いちじくの木と宮」をお勧めします。(日本語字幕)
http://japan.cgntv.net/_inc/player.asp?pid=2159&type=vod&player=8&bit=high&vid=54462&dreamon=Y
※ リュ・モーセ著「聖書の世界が見える (1) 植物編」 http://www.saiwainahito.com/29_695.html
「リバイバルへの近道Ⅲ」
(1) 永遠から永遠の中で
(2) 僕の祈り
(3) 僕の姿
(4) イチジクの実
(5) 権威と権力(強盗の巣)
(6) 十字架のフィルター
(7) イスラエルの平和
イエス様はこの世に、そして教会に、「権威」を与えました。それは、権
威を与えられた人間が、自分中心の立場から横暴な権力をふるう事では
なく、正義と公正から出るリーダーシップをもって、世や教会を良い方向
に導く為です。
しかし世の権力は、自分の権力や名声や利得を求め勝ちです。私たち
信仰者すら、常に天を見上げ、御言葉の内に留まっていないと、神様の
為、伝道の為、教会の使命達成の為・・・等の大義名分の元に、自己中
心的な肉の思い(支弁)が強くなって、誤った権力で人を支配してしまいが
ちです。
ですから天のお父様は、人の上に立つ立場にある信仰者である牧師・伝道師・教師・預言者・教会のリーダー・・・は、
「神の真の僕」、「イエス様の真の弟子」、「父の心を知ってとりなす真の祭司」であるべきです。それ故、宇宙最高の
権威を持っておられる唯一の神様が、その御子を地に遣わして、「仕える事」と「全てを捧げる」象徴である「パゲ」とし
て、罪人の為に十字架上でその命を捨てて下さったのです。
ところが、「神の権威」を与えた教会指導者には、真の礼拝者であったら当然実を結ぶはずの、人々に仕えるパゲと
しての実はなかったのです。
イエス様の公生涯の三年間、神の宮を見張り続けた結果、当時の宗教指導者は、へりくだって民に仕えるどころか、
「神様から与えられた権威」を傘に着て、その腐敗した権力で自分の栄光を求め、富を求めました。
「権威」と「腐敗した権力」
★パリサイ人
★祭司
★律法学者
行い・見た目 サドカイ人の後ろ盾 神学・知識
★パウロ・・・ガラテヤ6:14 「しかし私には、私たちの主イ
エス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決して
あってはなりません。この十字架によって、世界は私に対
して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけ
られたのです。」
★Ⅱコリント
★弱さを誇る
そうして、教会(神殿・宮)は、礼拝の形は整っているものの、建物は立派であっても、絶対者の前に跪いて祈を捧げ
る「祈りの家」でなく、制度を悪用して強制的に儲けを得る「強盗の巣」となりました。イエス捧は、祭司から与えられて
いる利得権で高い手数料を取る両替商や、貧しい人が家で育てた動物をいけにえとして捧げる事ができず、宮の庭
で買わなければならない制度を「強盗」と言いました。
★マタイ21:12-13 イエスは宮にはいって、宮の中で売り買いする者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る
者たちの腰掛けを倒された。そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』と書いてある。それなの
に、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」
心に決めた額を、心からの感謝を持って捧げるべき神様への献金を、貧しい礼拝者にまで高額の経費として、強
制的に徴収したからです。イエス様が引用したのは、エレミヤ書からです。
★エレミヤ 7:11「わたしの名がつけられているこの家は、あなたがたの目には強盗の巣と見えたのか。そうだ。わたし
にも、そう見えていた。――主の御告げ。――」
イエス様は、世の権力者がどうあるかよりも、教会に与えた権威に関心がありました。永遠に続く宇宙一の権威とは、
神であるイエス様がへりくだって、私たちの為にゲッセマネの園で心を裂かれ、十字架上で裂かれた肉の故です。
★エペソ 1:20-21「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上にお
いてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世
においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。」
イエス様の時代の宗教指導者のように、行いや見た目、セレブの後ろ盾、知識や神学を誇る事は肉そのものです。
ですから、私たちも使徒パウロにならって、自分の肉を誇るのではなく、十字架だけを誇るのです。私たちがキリスト
の名と血以外を誇るとしたら、イエス様が肉を裂いて確立して下さった「権威」を行使する資格はありません。
★Ⅰペテロ 5:1-3 「私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて
現われる栄光にあずかる者として、お勧めします。あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制され
てするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれを
しなさい。あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。」
※次の素晴らしいメッセージをお勧めします。「265] 「権威についての論争」 (マルコの福音書 11;27-33)
http://japan.cgntv.net/_inc/player.asp?pid=2159&type=vod&player=8&bit=high&vid=54611&dreamon=Y
イエス様は天から来て
イエス様は天から来て
十字架で裂かれた
パン
十字架で裂かれたパン
「リバイバルへの近道Ⅲ
「リバイバルへの近道Ⅲ」
(1) 永遠から永遠の中で
(2) 僕の祈り
(3) 僕の姿
(4) イチジクの実
(5) 権威と権力(
権威と権力(強盗の巣)
強盗の巣)
(6) 十字架のフィルター
(7) イスラエルの平和
「わたしは、天から下って
来た生けるパンです。
来た生けるパンです。
誰でもこのパンを食べる
なら、永遠に生きます。
またわたしが与えようと
するパンは、世のいのち
の為の、わたしの肉です。」
の、わたしの肉です。」
私たちは、私たちの「初なりのパゲ」として、ご自分を御父の前に裂いて下さったイエス様に見習い、体は殉教しなく
ても、自分の肉の心(一粒の麦・パン・一粒のパゲ)を裂き、主の真の僕となりたいと願います。イエス様がご自分の肉と
心を裂いて、その裂け目から天よりの力を流して下さいました。そこが十字架の垂幕(フィルター)です。
天地創造と幕屋の器具の順序 ★目標 ★目的
2
3
4
5
6
7
1
世
祭壇
新生
洗盤
パンの机
燭台 香壇(祈)
契約の箱 贖いの蓋
イエス様の生涯
★目標 ★目的
クリスチャンの一生
聖化
★目標 ★目的
(心の)栄化
主の日・その日・主の大いなる日
イエス様が十字架上で垂幕を裂いてサタンに勝利され、天国に入られたように、私たちも体が死んだら天国です。
しかしこの世にあって生きている間は、御言葉に反する思いを十字架に付けて死なせる毎に、イエス様の身丈に近
付いてゆきます。上の表で確認していただけると・・・、私たちは、心の殉教を果たしてイエス様の身丈に至り、復活の
輝ける命で生きる事ができるように、天地創造の六日目に、イエス様の姿に創造されているのです。
★ガラテヤ 2:20 「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうち
に生きておられるのです。」
★創世記1:26-27 神は、「われわれ(一人称複数)に似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。・・・神はこのように、
人をご自身(三人称単数)の形に創造された。神の形に彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
★コロサイ1:15 「御子は、見えない神の形」
「リバイバルへの近道Ⅲ
「リバイバルへの近道Ⅲ」
(1) 永遠から永遠の中で
(2) 僕の祈り
(3) 僕の姿
(4) イチジクの実
(5) 権威と権力(
権威と権力(強盗の巣)
強盗の巣)
(6) 十字架のフィルター
(7) イスラエルの平和
AD70ローマ軍によりエルサレム陥落
流浪の民(根まで枯れたいちじくの木)
★マルコ13:28-29 いちじくの木から、たとえ
を学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出
て来ると、夏の近いことがわかります。その
ように、これらのことが起こるのを見たら、人
の子が戸口まで近づいていると知りなさい。
イエス様が、シュロの聖日にエルサレム入城をする前にエルサレムを見て泣かれたのは、エルサレムがローマ軍に
よって陥落し、神の民が苦しみ、捕虜にされ、呪ったいちじくの木のように根まで枯れて地上さ迷い歩く「流浪の民」に
なる事を知っていたからです。
しかし、マルコ 13 章には、「いちじくの木に葉が出て来たら、再臨の徴」であると言う預言を、イエス様ご自身が語ら
れています。根まですっかり枯れたいちじくの木が、再び命を吹き返すと言う「芽を出したアロンの杖」のような、エゼ
キエルの見た「枯れた骨が蘇って人間」になった様に、流浪の民イスラエルが、エルサレムに戻る日がやってきました。
★19 世紀からシオニズム(エルサレム市街の丘シオンに帰ると言う運動)が勃興
★1897 年、オーストリア人記者ヘルツルがバーゼルで第 1 回シオニスト会議を主宰
★1948 年 5 月 14 日、イスラエルが建国され、ユダヤ国家が誕生した
「憐れみにより」
★マタイ24:3 イエスがオリー
イエスがオリー
ブ山ですわっておられると、弟
ブ山ですわっておられると、弟
子たちが、ひそかに御もとに
来て言った。「お話しください。
いつ、そのようなことが起こる
のでしょう。あなたの来られる
のでしょう。あなたの来られる
時や世の終わりには、どんな
世の終わりには、どんな
前兆があるのでしょう。」
前兆があるのでしょう。」
24:4 そこで、イエスは彼らに
答えて言われた・・・・・
答えて言われた
24:7 民族は民族に、国は国
に敵対して立ち上がり、方々
にききんと地震
が起こります。
にききんと地震が起こります。
24:8 しかし、そのようなことは
みな、産みの苦しみの初め
な
みな、産みの苦しみの初めな
のです。
イエス様が語られた再臨の前兆はそれだけでなく、方々に「飢饉と地震」があると、されています。
2011.3.11「東日本大震災」
★「裁きの前に現地調査に来られる主」
私たち日本人こそが、東日本大震災と、それに伴う津波、そして原発の危険性を通して、どの国のクリスチャンより
も、神様が人々の目を覚まそうとして地を揺すっておられる天変地異の恐ろしさを実感しています。
イエス様は、十字架の直前の聖日に、ロバに乗って穏やかに現れました。しかし、再臨の日、大いなる裁き主として、
天に現れる恐ろしくも偉大な姿を見ます。この世の閉じられる、絶大な裁きの日を前に、イエス様は今、クリスチャンを
訪れておられる最中ではないでしょうか。
シュロの聖日にエルサレムを見回されたイエス様は、ソドムとゴモラの裁きの前にも視察を兼ねて、アブラハムに会
いに来られたと考えられます。このアブラハムのように、十字架の時には、イエス様が相談をするに値する信仰者は一
人もエルサレムにいませんでしたし、それをとりなす祭司も皆無でした。
★創世記 18:20-21 主は仰せられた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。わたしは
下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行なっているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。」
今の日本にはどうでしょうか?関東・東海地方に予測される大地震に対して、アブラハムのように、「地震の規模を7
から6にして下さい・・・5にして下さい」、「多くの人が地震で死ぬ前に、イエス様を信じるようにリバイバルを早く興して
下さい・・・」と、必死でとりなす神様の真の僕は、この地にいるのでしょうか?
・・・・・神様の喜ばれる「初なりのパゲ」に立候補しましょう・・・・
今、私たちは、上図右の絵のように、関東平野を見下ろしているイエス様を、悲しませてはいないでしょう?下図左
のように、イエス様は、日本列島に裁きの日をとりなす信仰者の一人もいないのを見て、泣いてはおられないでしょう
か?イエス様が約二千年前に心配した通りになってはいないでしょうか?
★ルカ 18:8 「人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」
先ず、私たちクリスチャンこそが、ノアの日を教訓として、サタンに騙されて平和ボケをせず、目を覚まして、「その
日」に備えていなければなりません。十字架直前のゲッセマネでの弟子達のように、イエス様が一番祈ってほしい時に、
眠り込んでしまわないように、聖霊の油を切らさずに祈り続けましょう。
★マタイ 24:37-39 「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいる
その日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさら
ってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。」
★「しかし、人
の子が来た時、
はたして地上
に信仰が見ら
れるでしょう
か。」ルカ18:8
★ぶどう園
いちじく 3年
ルカ13章
★「再臨の主の道備えの為に献身」
ヨハネ17章「大祭司の祈り」
①自分の為 ②弟子の為 ③未信徒の為
「バーグ」(パゲ)
「テエナ」
(パゲ)
★「よくやった。良い忠実なしもべだ。」
イエス様の十字架の直前は、教職(大祭司・祭司・律法学者・・・)に民の
責任がかかっていました。しかし、今は信徒に聖霊が注がれ、聖書も自由
に読めるし、信仰書も多く出版され、キリスト教メディアも充実しています。
ルターが言うように「万人が祭司」の時代です。教会の信徒であれ、教
職であれ、魂の大収穫の前に、先ずクリスチャンが「パゲ(バーグ)」となっ
て、旧約の大祭司のように「主への聖なるもの」としての献身をしましょう。
イスラエルの平和の為に
日本の安全とリバイバルを祈る前に、日本が神様の厚意に与る事がで
きるように、天のお父様の最も可愛がっておられる長男長女「イスラエル
の救いと平和」の為に熱心に祈ってゆきましょう。
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