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子供の主の山

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子供の主の山
教会に来たばかりの方、教会学校の生徒さんたちへ(1)
「さあ、みんなで主の山にのぼろう」
「さあ、主の山、ヤコブの神の家に登ろう。
主はご自分の道を、私達に教えてくださる。
私達はその小道を歩もう。」
・・・聖書・・・・
・・・・・・まだ、十字架の門のある登山口(右前方)までにはたどりついてはいませんが、この「主の山」の様子を見に、ふもとまで毎週やって来る
人々がいます。彼らを、教会では、求道者(道を探し求めている人)と、言います。
約二千年前、イエス様は、お弟子さんたちに、神の国についての大切なメッセージをする為に、この山のふもとの小高い丘(左後方)に来ました。
後の時代に「山上の教え」と呼ばれる尊い教えです。群衆と呼ばれる大勢の人々も、集まってきました。この人達も求道者と呼ばれる人々です。
クリスチャンホームの子供達、教会学校の生徒達も、ここで聖書のお話を聞き、大好きな賛美をし、お祈りの仕方も習います。牧師先生夫妻がい
つも「よく来ましたね。」とやさしく迎えてくれるし、若いお兄さんやお姉さん、おじさんやおばさんたちも一緒に遊んでくれるのも、楽しみの一つです。
まだ洗礼は受けていなくても、神様の愛の中、囲いの中、守りの中にいます。そして、主の山に登って行く人々の様子を見る事が出来ます。一歩
一歩頂上に近づくにつれて、その人達はどことなくイエス様の姿に似て行くように見えます
そんな様子を、時々ちらっと見るとはなしに見ながら、子供たちは主の山のふもとを、教会の中を、元気に走り回っています。騒がしい程です。
今が二千年前なら、会場係をしていたイエス様のお弟子さん達に、叱られたかもしれません。
でもイエス様は、お弟子さん達が子供達を追い払おうとした時、止めました。イエス様は子供達を愛しているので、大歓迎です。イエス様は、子供
達の正直でありのままが好きです。そして‥‥、大人達も、正直でありのまま、主の山のふもとに来てほしいのです。
いじめられている人でも、いじめる側の人でも、
悪い事をして新聞にテレビに顔が大きく出てしまったお兄さんでも、
倒産してしまった会社の社長さんでも、
リストラされたお父さんも、頑固なお爺さんでも、
子供を愛す事の出来ないお母さんも、
献金するお金がない人も、
丌登校の人も、人付き合いの苦手な人も、
心の病気の人も、体の病気の人も、
誰でもどんな状態にある人でも、全てありのまま、借金のあるそのままで来て下さい。
そして居続けて下さい。イエス様はそう願っています。
病院は、病気が治ってから行く所ではないように、教会も又、正しい人になってから、借金を返し終わってから、全てを悟ってから、何もかもが整
えられてから行く所ではありません。もしそうだったら、全人類の罪を赦す為、苦しみから解放する為に、イエス様が十字架で死んで下さった意味
がありません。
イエスさまを信じてから、いつも十字架を見上げて生きて行けば、尐しづつ、尐しづつ、私たちは変えられて行くので、心配はありません。
ご求道中の皆様、山のふもと(上の絵・右手方面)に十字架の登山口が見えますか。そこでイエス様が待っています。イエス様は「私は道であ
る。」と言われました。あそこにあなたが探し求めてきた、唯一の、永遠の命に至る真理の道があります。あの十字架の入り口から行って、頂上まで
続く「十字架の道」を通らずには、誰も、天国には、天のお父様のそばに行く事は出来ないのです。
今、主の山のふもとにいる求道中の方に、教会学校の生徒さん達に、お願いしたい事があります。
◇毎日曜日に、教会の礼拝に来続けて下さい。
あなたが今まで会ったどの人よりも、これから会うどの人よりも天のお父様はあなたを愛しているからです。教会に行って神様を礼拝する事はとて
もうれしい事ですが、天のお父様もあなたをとても喜ばれるのです。ですから、あなたが他の神々を拝む事があったら、とても悲しみます。占いや、
こっくりさんなども、しないようにしましょう。仕事の関係、家族の関係、友達の関係で誘われたりしたら、大騒ぎせずに、そっとそこから離れましょう。
◆◇とてもつらい事があったら、「イエス様、助けて!」と、叫んで下さい。
その時は必ず、ご両親や教会の牧師先生、教会学校の先生にも相談して、お祈りをしていただきましょう。何かを始める時、決める時、良い事が
あった時も忘れずに、お祈りしていただきましょう。
◇◆◇まだ、長い時間お祈りしたり、聖書をたくさん読む事は出来ないと思います。でも賛美はいっぱいしましょう。気分が落ち込んだ時、悲しい時、
心配がある時、むなしく感じる時、賛美をするとイエス様が心の中を暖かくして下さいます。賛美の CD やテープをかけておくのも良いですね。
◆◇◆◇子供の時、求道者の時が最も一般の人と考え方が近く、気持ちが通じ合います。クリスチャンとしての生活が長くなると、価値観が尐しず
つ違ってきます。ですから気が合う今のうちに、お友達や、近所の方、家族を気軽に教会に誘ってあげる事が大切です。そしていっしょに山に登り
ましょう。
◇◆◇◆◇神様が、あなただけに下さっている才能や、良い性質があります。
その得意な事や、それをしていると楽しい事が、将来、神様の喜ばれる奉仕となります。それを今の内に、良くできるように、熱心に練習して下さ
い。又、どんなに損をする事があったとしても、神様からいただいた良い性質をなくさないようにしましょう。
又、その良い性質や良い環境、得意な事は、あなたが自慢に思ったり、他人をばかにしたり、批判する為に神様が不えて下さったのではありませ
ん。それらの良い事を心から神様に感謝し、人の為に神様の為に使ったら、神様はその良い事を何倍、何十倍にもして祝福して下さいます。
でも、多くの大人のクリスチャンも誤解してしまいますが、私たちがする行動による奉仕は、二番目、三番目に神さまに喜ばれる事です。私たちの
存在そのものが、たとえ寝たきりで何もできなくても、神様の喜びです。神様に捧げる一番素晴らしい奉仕は、礼拝(神様だけを見る)ことです。
お話をしているうちに、十字架の門の前まで来ました。イエス様の心である聖霊様があなたに触れて心を感動させて下さった時、素直に心を開
いてイエス様を受け入れましょう。あなたの牧師先生が、今まで神様の愛に気付かずにいた事を悔い改めるお祈りを、短く区切りながら教えて下さ
います。そのあとを繰り返してあなたの口でお祈りし、十字架の門をくぐりましょう。そして新しく生まれ変わる為に、洗礼を受けましょう。
あなたは、神様のこども(クリスチャン)となりました 。
【眠る前に】
せっかくクリスチャンになって、喜びの生活を送っていたのに、思い通りに
ならない事ばかり続いたり、悲しい出来事があったり、祈りがなかなか聞か
れなくて心が暗く沈んでしまう時があります。それは「試練」の時です。
私たちは、天の父なる神様を、困った時は何でも自分の望むどおりの事
をしてくれる、おとぎ話に出てくるような神様のように思いがちなので、「試
練」がクリスチャン生活にある事を、なかなか納得する事ができません。
「試練」は自分の罪や、環境から来るものもあれば、勘違いや漠然とした
丌安など、心の中だけで起きている場合もあります。いずれにしても、イエ
ス様の十字架で罪を赦され、神様の子供となった私たちにも、この世の普
通の人たちと同じように試練はあるのです。
ただイエス様にまだ会っていない人と違う事は、試練のつらさを、この世
にあって罪をおかす以外、人間の味わう全ての苦しみを知っておられるイ
エス様の元に持っていける事です。
イエス様は、イエス様を信じた時、私たちの心の奥底に住んでくださった
のです。そのイエス様のいる心の奥底から、いままで味わった事がない慰
めと、平安と、希望で心が満たされ、喜びが沸き上がって来ると言う、初め
ての体験をするのです。
それがあまりにも素晴らしいので、「苦しみに会った事はかえって良かっ
た。」という詩を読んだ、ダビデ王様のように考えるようになります。
それを経験すると、私たちにどんな苦しい事があっても悲しい事があっ
たとしても、それが起こる事は何かの目的があって、全てを後から桁外れ
に大きな祝福に変える為に、神様が許しておられる事なのだと、深く悟る
事ができるのです。
ですから、私たちは毎晩、神様の前に静まって、自分の心の中を良く見
て、小さな針、大きな矢を、(もう一度心が痛む事があったとしても)勇気を
出して引き抜き、聖書の御言葉の約束に任せて、安心して眠りましょう。
【試練に打ち勝つ】
もし私たちがいやな事、悲しい事、つらい事、にくらしい気持ちを、神さ
まの前に出さなかったらどうなる事でしょうか。
そうすると私たちの心の中に、苦しいまま、悲しいまま、にくらしいままの
たくさんの傷が残ってしまいます。
そうしたら私たちは、自分の直さなければいけない欠点を知る事も無い
し、神さまが、なぐさめて下さる方だと知る事も、心の中を暖めてくださる
事も、ずっと知らないままです。それに自分とうまくいっていない人を、愛
して祝福できる強い人にもなれません。
試練のボールを見逃したらたいへんです。私たちは今まで何回、神さま
の祝福に変わる試練のボールを見逃して、心の苦(にが)みにしてしまった
事でしょう。
「神さまに頼(たよ)る」、「神さまに任(まか)せる」と言う、必ず全てを良くし
てくださる神さまを信じる『信仰のバット』で試練を打ち返せば、私たちは
神さまの栄光をあらわす、すばらしい一生をおくる事ができるのです。
小さい試練に打ち勝ってゆく事を、くり返してゆくうちに、私たちは、どん
なに大きい試練が、将来自分に起こったとしても、神さまが祝福に変えて
下さると、信じる事ができます。
それで私たちは、将来に対して『丌安』や『心配』がなくなります。
ですから、自分の人生に対して、神様にあって、自信を持って生きてい
きましょう。
【教会は3つの種類があります】
1,ひとりひとりが教会(心の中にイエス様)
2,私たちが通っている教会
3,私たちクリスチャン全員がふくまれている、目には見えないイエスさまの体の教会
【イエス様の体の教会が攻撃に】
イエスさまは、私たちの罪をゆるして、天国に行けるようにするために、
十字架で死んで下さいました。そして、3日後に生き返られて、今は天国
で神さまの右側に座り、いつも私たちの為に祈って下さっているのです。
イエス様は、天国に帰られてから、地上にいる私たちの為に、イエスさ
まの心である、『聖霊さま』を送って下さいました。
イエスさまが地上にいた時は、イエスさまのそばに行かなければ、イエ
スさまと、話す事はできませんでした。その上、その時はイエスさまが人
間の体だったので、私たちの心の中には入る事はできなかったのです。
でも今は、イエスさまの心である『聖霊さま』が私たちの心の中に住み、
私だけの家庭教師のように、神さまの愛、聖書の意味をわかりやすく教え
て下さるのです。つまり私たちの心は、聖霊さまと一緒に祈ったり、さんび
したり、聖書を学んだりする、愛と喜びのあふれている教会なのです。
イエスさまは、『十字架』と『復活』を通して、サタンとの戦争に決着をつ
けました。イエスさまは、サタンとの戦争に勝利し、サタンの頭を踏みつ
ぶし、ずっと踏みつけているのです。そして決められた時、サタンは完全
に滅ぼされてしまうのです。
完全に滅ぼされる日が来る事を知って、怒り狂っているサタンは、悪霊
として心に侵入して私たちを誘惑し、だまし、クリスチャン同士を戦わせ
たりします。又、神さまを知らない人の心に侵入して心をかたくさせて、信
じられないようにしているのです。
ですから私たちは、助け主聖霊さまに力をいただき、悪霊を追い出す
事が大切です。でも、サタンの軍隊は、本当は真っ白いはずのイエスさま
の体の教会を、いつも攻めて来て、中にシミのように陣地をつくって、教
会の力を弱めてしまいます。
どのようにしてサタンは、イエスさまの体の教会に、陣地をつくる事がで
きるのでしょうか。
【教会内の人間関係】
それは、オセロ・ゲームと、とても似ています。AさんとBさんとの間に、
ゆるしていない事があると、それは●です。
その 1 つ 1 つの●は、きのういじわるされた事であり、去年けんかした事
であり 妬んでいる心であり、お互いの解決されていない誤解です。そし
て、その数だだけAさんとBさんの間に、●ができています。
A●●●●●B
何とその●が、皆さんの教会にある『サタンの陣地』なのです。そして、
皆さんの行っている教会にサタンの陣地があると、空中にある(目に見え
ない)イエスさまの体の教会にも、サタンの陣地ができてしまいます。
だから私たちは、十字架で自分が全ての罪をゆるされた事を思い出し
て、お互いにゆるし合う事が必要です。AさんとBさんの間に、十字架を
置くなら、お互いに赦し合い、愛し合う事ができて、A◈●●●●◈Bと
なり、その瞬間A◈◈◈◈◈◈Bとなります。
そうして、教会に来ている人たちが全員ゆるし合い、愛し合えば、私た
ちの教会は真っ白くなり、それが最も聖書的で、最もイエス様に喜ばれる
『教会の一致』です。
でも、もし自分がゆるして、何のわだかまりがなくなっても、相手がまだこ
だわっていたら、私たちはどうしたら良いのでしょうか。
そういう時は自分の分だけ先にゆるしてA◈◈◈◈◈●●B・・・相手の
人と、早く仲良くなれるように祈って、神様にお任せし、できる限り親切に
しながら待ちます。この『黙って待つ事』を『信仰』と言って、神様はそれを
とても喜んで下さいます。
もしあなたが、オセロ・ゲームで勝敗が決まる4隅の、教会の中で中心
的な役割の人なら、自分は、誰に対しても、どの方向に対しても、いつで
も、◈でいましょう,、
イエス様は「隅の頭石」と呼ばれ、全ての人に両手を広げているのです。
【憎しみはサタンの座布団】
私たちにもしゆるせない事があったら、その憎しみはサタンの座布団
です。
私たちの心の中が、「いつも喜んで、絶えず祈って、全てを感謝して」
いて、聖霊であふれている時には、サタンは心に入り込む事はできませ
んが、座布団があるとそこに座る事ができます。
だから、まだ『憎しみ座布団』に座っているサタンが小さい内に、憎らし
いと思っている人をゆるして愛してあげましょう。
そうすると そのサタンの頭の上に『赤く燃える熱い炭』を乗せる事に
なり、サタンは居たたまれなくなり心の内から逃げ出していまいます。
でも ゆるさないとどうなるでしょうか。
そのまま眠ろうとして 電気を消して静かにしていると その人の嫌な
所を昔の事まで思い出して どんどん憎らしくなって眠れなくなります。
そうすると、『憎しみ座布団』に座っているサタンもどんどん大きくなっ
て、座布団を突き抜けて心の奥の方まで根っこを生やして住み着いて
しまうのです。
もしその次の日 お友だちにその膨れ上がった憎らしい気持ちを話し
たら大変です。あなたがそれを上手に話せば話すほど そのサタンは
お友だちの心の中にも入ってしまいます。寝丌足顔で涙をこぼしたりし
たらもう完璧です。
こうして 1 人の人の心のサタンの陣地が 私たちの通っている教会の
中に広がり イエスさまの体の教会にも広がるのです。
ですから、悪口というのは、人に言うのも、人から聞くのも、とても危険
で罪深い事です。
【陰口と十戒】
聖書のレビ記 19:16 には「人々の間を歩き回って、人を中傷してはならな
い。」と、書かれています。出エジプト記 23:1〜2 には、「偽りのうわさを言い降
らしてはならない。悪意のある証人となってはならない。」と、あります。
私たちは、『十戒』くらい、ちゃんと守っていると思っています。しかし実は、陰
口を言う事は、『十戒』の中の、6 つの戒めを破る事になるのす。
1,「あなたは私の他に 何者をも神としてはならない。」‥‥あなた(私たち
クリスチャン)は、神さまに心の苦しさを言い、神さまの前で泣くべきなのに、人
間に苦しさを言い、人の前で泣いてしまう時があり、それが人を神にする事。
2,「きざんだ像を つくってはならない。」‥‥‥イスラエル民族は荒野で、
神の存在を信じていても、『見える』神を求めて偶像を造りました。私たちは、
「あなたは正しい、相手が悪い」と言ってくれる『聞こえる神』を求めて、悪口に
声を持って同意してくれる(あわよくば、憎しみを共有してくれる)人間を、偶像
の様に思ってしまう事があるのです。その人に頼り、その人を自分の義(正し
さ)の証人、自分の喜び、自分のなぐさめとしてしまう事は罪です。
3,「殺してはならない。」‥三浦綾子は、「人は泥棒に入られても自殺しない
が、悪口を言われて自殺する人はいる。」と、その著書の中で言っています。
4,「盗んではならない」‥‥‥AさんがBさんに、「良く思われている」と言う
A さんにとって財産より貴重なものを、C さんが、Bさんの心の中からそっと盗
んだ事になるのです。(Aさんが知らない所で悪口を言う事によって.)
5,「隣人について偽証してはならない」‥‥‥確かでない悪意のある噂話
や、憎しみから言った一方的な事実、うそ、悪口を、人に伝えてはならない。
6,「隣人のものをむさぼってはならない。」‥‥‥教会にいる人々は、『神の
民』であって、『自分の民』ではありません。自分の解決出来ない丌愉快さを、
ぶつける権利は私たちのだれにもないのです。
※「あなたの父と母を敬いなさい。」‥‥もし私たちが両親への丌満を憎らし
い気持ちで言ったり、愛を持って注意してくれる事に、怒りを込めて口答えを
するなら、『十戒』のうち7つもの戒めを破っている事になります。
【十字架の入口から、はいりましょう】
しかし、十戒は、人間の力では絶対に守る事は出来ません。それなの
で、イエス様が十字架にかかって死んで下さったのです。
ですから、教会内の兄弟姉妹たちが、互いが他人の罪を思わずに、互
いに愛し合う為に、互いを喜び合う為に、大切な事があります。それは、
毎日心の中の礼拝堂に入る時、十字架の入口から入るという事です。
私たちは、クリスチャンになった時、小さい子供のように牧師先生や、信
仰の先輩に導かれて悔い改めの祈りをし、十字架の門をくぐりました。でも
天国に行く時には、私たちはたった一人で十字架の門を通るのです。教
会の先生も家族も、仲の良い友だちも一緒には入れません。(上の絵)
そこで私たちは、自分の一生を振り返り、天国に入るにふさわしいか、審
判されます。私たち人間の中で、天国にふさわしい、罪のない、きよい人
などは、ひとりもいません。私たちは絶望して、天国に入る事をあきらめる
他はないのです。でもそこで、イエスさまがあなただけの専属の弁護士の
ようにそばにいて、こう言って下さるのです。
「あなたの一生の間におかした罪やまちがった事は、私がもうすでに、十
字架の上で、あなたの代わりに死刑になったので、全て赦されています。
さあ私の十字架を通って天国に入りなさい。あなたの為に素晴らしい家が
できていますよ。」と‥・。
なんとうれしい事でしょうか。そこには神さまの愛と栄光があふれ、輝くよ
うな喜びに包まれ、イエスさまと、心から愛し合っている兄弟姉妹たちとが、
永遠に住むのです。このような天国の喜びは、地上にいる間にも、毎日味
わう事ができるのです。私たちの心の中には、いつでもひとりでお祈りが
できるように、教会(礼拝堂)があり、そこには、イエスさまも、天のお父様も、
イエスさまの心である聖霊さまも、住んでおられるのです。(下の絵)
人の罪ではなく、自分の罪を心から悔い改めて、十字架に頼る人しか、
門に入れません。神さまと私たち人間との関係は、この世にあっても、天
国に行く時も、生まれた時も、死ぬ時も、完全に1対1なのです。
【真っ白いイエスさまの体の教会】
人間が罪と思う事と、神さまが罪と思う事とは違う場合が多くあります。私たちには、知らないでおかしている罪があるのです。でもうすうすは、い
けない事だと気がついているのかもしれません。
それに、自分は他の人より親切だし、いつも正しい事をしていると思う事も、神さまにとっては重大な罪です。「十字架なんか、この正しい私には必
要ないわ」と心密かに思っている時は、一番危険な心の状態です。それを傲慢と言います。神さまも、人間も、傲慢な人が嫌いです。
ある時、イエスさまはひざまずいて、やさしくていねいに弟子たちの足を洗ってあげた事がありました。
イエスさまの目には、弟子たちの足の裏のよごれが、よく見えるのです。弟子たちの、自分は十分きれ
いだと、洗ってもらう必要なんかないと思いこんでいる傲慢の罪までも。
弟子の一人ペテロは、始めは洗ってもらうのを遠慮していました。でも、イエスさまに「それでは、あな
たと私の関係がなくなってしまいますよ。」と言われて、「では、手も頭も洗って下さい」と言いました。
ペテロの様に、あなたも「なぜ、足だけ?」と思いますよね。
実は、全身をきれいにする事(悔い改めて全ての罪が赦さ
れ、神の子として永遠の命を受ける事)は、私たちが十字架
の所で悔い改めて、洗礼を受けた時に、すでに終わってい
るのです。
ですから私たちが毎日する事は、イエス様の十字架の力に頼って、自分の全ての問題を任せる事と、
自分の目では見えない、この世を旅していく時に足についた汚れを、聖霊さまに導かれて御言葉の水で
イエスさまに洗っていただく事です。
心の教会で、神さまを賛美し、全てを感謝し、聖書を読み、聖霊さまにその意味を教ていただき、喜び
と力をいただく事が大切です。それから、全ての心の願いを、そして世界中の人が神さまを知るようにと、
祈りましょう。イエスさまが自分の心の中にいるのですから、その祈りは神さまの耳によく聞こえます。
このように自分だけの罪とよごれを、自分の力でなく、イエス様に頼って毎日きれいにしていただく事が、
自分の責任です。教会に来る人が皆、その責任を果す事が出来たら、どんなに素晴らしいでしょうか。
そして、イエスさまが命じたように、お互いの足を洗い合った時(愛し合い、ゆるし合い、仕え合えば)、
①自分の心の中の教会も、②私たちの通っている教会も、そして③『イエス様の体の教会』も、真っ白くな
るのです。・・・・ですから、私たちの心がきれいかどうかを、良く見張っている事がとても大切です。
【心の中を、よくのぞいてみると】
私たちの心の奥底には、普段は思い出さなくても、古くからの心の大き
な傷が隠れています。そして、人には見えなくても、実は「自分は正しい、
偉い、賢い」と思うバベルの塔がしっかりと立っているし、認めたくないけ
れど「得をしたい。あれがほしい、悪いことでもやってみたい。地獄に行っ
てもかまわないから汚れた事をしたい」と言う欲の手も見えています。
私たちの心は、絶えずサタンとの戦争をしているのです。一瞬、一瞬
心の中の状態は変化しています。それはカードの裏表みたいです。
夜、眠る前にお祈りをして(4ページの絵)、悲しみを喜びに、絶望を希
望に、丌安を安心に、変えていただいたのに、次の日、ちょっとした事で
元の気持ちに戻って、落ち込んでしまいます。
それは私たちが、自分の気持ちが、自分の考えが、得をする事が、自
分の正しさを人に証明して気分が晴れる事が、一番重要だと思っている
からです。私たちの揺れ動く感情が、私たち人間の全てではありません。
心の表面の、さらさら動く『気分の砂』の上に家を建てたら、疑いの風が
ふいたり、悲しみの雤が降り続いたり、怒りの川があふれて泥水が押し寄
せてきたりしたら、人生の家は土台から壊れて流されてしまうのです。
堅い岩盤であるイエスさまが、私たちの心の一番奥底の霊と言う所に住
んで下さっている事を自覚しましょう。(イエス様は腹の底と言いました)
全てを良くして下さる良い方に・・・、自分の正しさではなく、イエスさま
の正しさに頼るという信仰の岩の上に、私たちの人生はしっかりと建って
いる事を思い出しましょう。
ですから、心の窓を開けた時に、疑いの風が入ってきてカーテンをパタ
パタさせても、丌安の黒い雲が見えても、冷たい雤が降り込んできても、
大きな試練の嵐が近づいて来ても、大丈夫なのです。
私たちの心の中の教会には、命を投げ出してまで、私たちを愛して下
さっているイエスさまが、聖霊として一緒に住んでいるのですから。
【心の鏡】
童話の「白雥姫」に出てくるお后さまは、心は意地悪でしたが、顔は世
界一の美人で、それが自慢でした。毎朝かならず、魔法の鏡に向かっ
て、「鏡や鏡、世界で一番うつくしいのはだーれ?」と聞いていました。
聖書には、私たちの心の中がきれいか、汚いか、イエス様の聖霊があ
ふれているか、サタンに攻め込まれて陣地ができているかを調べる、
「心の鏡」があります。
もし、私たちの心の中の畑に、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、
誠実、柔和、自制」の実がなっていて、心が明るくて、天国にいるように
幸せだったら、これは、私たちが心の中のイエス様といつも一緒にいて、
聖霊があふれている証拠です。
でも、心の中の畑に「丌品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争
い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興・・・」があっ
たら、大変です。
私たちの心の中に、サタンが進入してきた証拠です。この考えは自分
の考えだと思って、いつまでもこの思いを考え続けて行ったら、心の中に
根が生えて、どこまでも、どこまでも、深く伸びて行き、地獄にまで届いて
しまいます。
この実を見つけたら、すぐに「イエス様、助けて」とお祈りし、御言葉を
読み、賛美をし、思いの根っこを切ってしましましょう。その切り口に十字
架で蓋をして、二度と湧き上がって来ないようにしまいましょう。
① 私たちの心の教会の中が真っ白なら、
② 私たちの通っている教会のオセロも真っ白になるし、
③ クリスチャン全員のイエス様の体の教会も真っ白になります。
ですから私たちは、この左の鏡をかならず、夜寝る前に見て、心を調
べましょう。
【さあ、みんなで主の山に登ろう】
このような、毎日の心の中の「サタンの悪霊」対、「イエス様の聖霊」の
戦争を、難しい言葉で、「霊的戦い」と言います。
私たちが、家庭の中で、教会の中で、学校や近所や職場の中で、人を
相手にして戦う「肉の戦い」は、クリスチャンのする事ではありません。
人間とか社会でのサタンとの戦争は、神様に任せて、私たちは自分の
心の中で、サタンと戦うのです。そのために、心の中にイエス様ががっち
りと住んでおられるのですから。聖霊が絶対に離れないのですから。
でも、まだ学校の事も、社会の事も、教会の事も、聖書の事もよくわかっ
ていないので、教会の先生や皆さんと、いつも一緒にすごしましょう。
右の絵は、私たちクリスチャンが山の頂上である「天国」に行くまでの
一生です。みなさんは、まだ主の山のふもとにたどりついたばかりです。
自分を愛して下さっているイエス様に気づかずに生きてきた罪を、十
字架で赦されて神の子とされ、十字架の門をくぐったばかりです。
十字架の門のあたりでうろうろしていると、サタンが追いかけてきて、
連れ戻そうとしますから、洗礼を受けて、サタンとこの世の人々に、はっき
りと「私はイエス様を信じて、神様の子になりました」と宣言しましょう。
そうすると、後から「本当に信じたのかしら、一時の気の迷いだったの
かしら」と心が揺れても、神様がしっかりと守って下さり、絶対にサタンの
手には渡しません。
はっきり、サタンと、世の人々に「イエス様は私の救い主」と宣言せずに、
道に迷った小羊のように、十字架の門を出て、世の中に迷い出てしまうと、
羊飼いのイエス様も、教会の先生も、探しに行かなければなりません。
私たちは、お友達、教会の先生や皆さんと一緒に、声を合わせて賛美
しながら、心を合わせて礼拝を捧げながら、失敗があっても赦しあいなが
ら、主の山の頂上、天の御国に着く迄、励ましあって登って行きましょう。
【わたしたちの使命】
私たちは、教会に、まだイエス様に出会っていない人々を連れてきて、
一緒に主の山を登って行く使命があります。左の絵のような教会のクリスチ
ャンの麗しい輪の中に、新しい人々を迎えたいと思います。
この教会のひとりひとりは、
毎日、必ず十字架の門をくぐって、心の教会(礼拝堂)で祈り、賛美し、
毎日、聖書の御言葉を尐しづつ読んで、ふかく味わい、
毎日、小さな罪でも告白して、十字架の赦しをいただき、
毎日、自分も罪が赦された事を思って、お互いに赦し合い、
毎日、イエス様の十字架に心から感謝し、
毎日、心の奥底に住んでおられる聖霊に、心を明るく照らしていただき、
毎日、心の中に来るサタンの実を見つけて、陣地を炭火で焼いて追い出し、
毎日、自分と家族のために祈るだけでなく、天のお父様の「家族」、特にま
だイエス様を信じていない世界中の人のために祈る人々です。
自分達の能力や、命令されたから無理に頑張って努力する一致ではなく、
天のお父様が、天からイエス様の頭上に注いでおられる尊い聖霊の油が、
イエス様を通して私たちに流れて来るので、自然に一致ができるのです。
★「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。」ゼカリヤ4:6
★「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、な
んという楽しさであろう。それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。そ
れはひげに、アロン(私たちのために天で祈っている大祭司イエス様の事)
のひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。」詩篇133篇
ひとりひとりが、十字架のネックレスの、それぞれ、かたちも色も違うひと
粒、ひと粒の、光り輝く宝石のようです。(おわり)
絵・・・AG十条キリスト教会 中村めぐみ
文・・・“ただキリストを求めて”ミニストリーズ 福田範子
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