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ファリサイ派のパン種

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ファリサイ派のパン種
ファリサイ派のパン種
マルコによる福音 28
ファリサイ派のパン種
8:1-21
「四千人に食べ物を与える」、「人々はしるしを欲しがる」、「ファリサ
イ派のパン種」の三つの段落を、まとめて扱います。
この前の部分で私たちは、イエスがイスラエルの北の境を越えてフェニキ
ア人の港町ティルスへ足を延ばされたり、また、潔癖派のファリサイ派なら
厭がって避けたと思われるような、異教徒の地域デカポリスをわざわざ通ら
れたり、ギリシャ人の女の人を助けてやりなさるとか、ずいぶん大胆な行動
をされるイエスを見ました。最後の「舌が回らない」聴覚障害の人など、異
邦人の水にドップリ浸かってイスラエルの感覚が麻痺したか……と言われる
ような人をわざわざ選んで治療なさって、それも「耳の穴に指をさし入れ」
たり、舌に触るのにも、今の耳鼻科のお医者さんなら金属のヘラを差し込ん
で「ハイ、アーア」と言うところ、ご自分の指に唾をつけて患者の舌に触る
とか……これは私には、殆ど“挑戦的”と言える位の大変な御主張だと思え
ます。
「あなたがたは、こういう人を『汚らわしい』と言って避けるし、また擦
れ違うだけで『汚れ』が付着したと騒いで、大袈裟な『手洗い』儀式をやっ
てからでないとパンを触らないのだが、私がこの人たちをどう見ているかを、
これで知れ!」(参照 7:2)
私たちはイエスがその「手洗い潔癖派」が厭がったデカポリス地方とか、
フェニキアのティルスの港とか、「なぜわざわざそんな所へ!」と批判され
る地へ進んで足を運ばれるのを見てきました。その続きとして見ると、この
第一段の終わりに出る「ダルマヌタ」という地名もかなり怪しいのです。こ
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の名は古代のイスラエルの地誌にも全く言及されてないので、専門家にも所
在が不明という厄介な地名です。どうも私には、マルコがイエスの足取りに
ついて皮肉な“謎かけ”をしていると見えます。「驚くな。イエスはフェニ
キアの港町から帰ると、わざとデカポリスに行かれた。それに……」と、ク
イズ番組なら「そこでクェスチョンです」と言うところ、「パンを分けた後
は、そこから舟で“ダルマヌタ”これは皆さん、だれも分からんでしょう…
…。」
そういう角度から見てみますと、ガリラヤ湖の、いわゆる「汚れた」デカ
ポリス側から、その不明のダルマヌタへ去る前に、イエスは四千人にパンを
分けて、いわば異邦人と不浄の民のための聖餐式を強行なさった―という
のは、いかにも痛快じゃないですか。以下、1 節から始まるパンの奇跡を、
「またか!」と思わないでお聞きください。
1.四千人に食べ物を与える。 :1-10.
1.そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエス
は弟子たちを呼び寄せて言われた。 2.「群衆がかわいそうだ。もう三日もわ
たしと一緒にいるのに、食べ物がない。 3.空腹のまま家に帰らせると、途中
で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」 4.弟子た
ちは答えた。
「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、
これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」 5.イエスが「パ
ンは幾つあるか」とお尋ねになると、弟子たちは、「七つあります」と言っ
た。 6.そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンを取り、
感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しにな
った。弟子たちは群衆に配った。 7.また、小さい魚が少しあったので、賛美
の祈りを唱えて、それも配るようにと言われた。8.人々は食べて満腹したが、
残ったパンの屑を集めると、七篭になった。 9.およそ四千人の人がいた。イ
エスは彼らを解散させられた。 10.それからすぐに、弟子たちと共に舟に乗
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って、ダルマヌタの地方に行かれた。
「またか」と思わないで……と申し上げましたが、「五千人に食べ物を与
える」という所をご一緒に読んだのが、ついこの間の 4 月でしたから、「ま
たか」と思わないのが不思議なくらいです。ご存じかも知れませんが、最近
の聖書学の流行の考え方では、こんな同じような出来事が二回もダブって起
こるはずはない、と言うのです。パンを食べた人の人数が五千人から四千人
に変わっているのは、間違って伝えられた別の伝説だろう。パンの数と魚の
数とパン屑を集めた篭の数なども言い伝えの誤差に過ぎない。これは元々一
つの事件が二通りの伝説として伝わったのを、マルコもマタイも編集の段階
でカットできずに、誤って並記したものだろう。ここは一つの事件として、
その共通の趣旨を受け止めればそれで十分だと言います。NHK 出版の荒井
献氏の著書にも、朝日新聞社の青野太潮氏の本にも、そう書いてあります。
けれども、それで行きますと、19 節や 20 節のイエスのお言葉がウソにな
ります。もし二回同じような出来事がなかったのなら、そんなことを(五千
人の時はどうだった……四千人の時のことも……覚えているだろう?)イエ
スが言われたはずがないのに、マルコがセリフを作ってイエスの口に入れた
ことになり、私にはその方がかえっておかしいと思います。ここはやはり、
まず、ベトサイダから少し離れたガリラヤの「人里離れた所で」五千人にパ
ンを(6:30-44)与えたイエスが、今度はデカポリスからダルマヌタへ行か
れる途中でもう一度、今度は四千人の人にパンを(8:1-9)お分けになった
のです。でも、なぜ……?
この「なぜ?」の答えは、もうヒントしたつもりです。多分イエスは純朴
な信仰のガリラヤの農民や漁師を対象にして、あの聖餐の模型のような食事
をさせなさったと同じように、この異邦人地区に住む住民や潔癖主義者から
顰蹙を買うような人たちまで含めて、全く同じ扱いをなさったのです。その
人たちをこの草原の食卓にお招きになって「お前たちも同じだ。自称“聖人”
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どもの前に肩身が狭いと思うなよ」と言われて、言わばすべての落ちこぼれ
の肩を持って下さったのです。その意味で、このティルス―デカポリス
―ダルマヌタという文脈の中の「四千人のためのパン」の話に、私はとり
わけ深い感動を覚えます。
ところで、このよく似た奇跡の反復の意味を考えるにも、また、今日の朗
読の最後に出たイエスのお言葉を味わうにも、次の真ん中の部分のファリサ
イ派とのやりとりに注目することが大事だと思います。
2.人々はしるしを欲しがる。 :11-13.
11.ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを
求め、議論をしかけた。 12.イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「ど
うして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言ってお
く。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」 13.そして、
彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。
福音書はこの辺りから、イエスと宗教家たちとの根本的な違いがぐっと前
面に出て、はっきりしてくるのですが、ここではこの人たちの信仰の基本姿
勢の違いが、この議論の中で、端無くも露呈されます。
10 節から 11 節の間で場面が変わるとも考えられるので、このファリサイ
派の人たちは多分、パンを四千人にお分けになった時のイエスを見ていなか
ったのだろうと説明されます。それで彼らは「天からのしるし」を見せよと
イエスに要求したのだと。つまり、いま私たちが読んだような奇跡を目撃し
ていたら、多分こんなことは言わなかったろうという見方です。もっとも、
別の見方もあります。仮にこの人たちがパンの奇跡の現場にいたとしても、
それは、この人たちには十分な説得力を持たなかった……とも考えられます。
「もっとすごいのをやって見せろ。モーセの時のように、天からマンナが地
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の全面に降るようなのを見せてくれ。そしたら我々もあなたを信じよう。」
それに近いことを言ったのではないか……これは、どちらとも断言できませ
ん。
はっきりしていることは、この人たちが、「我々が判定して満足できるよ
うな“しるし”を見せよ」とイエスに迫ったことです。この「しるし」とい
う言葉“シミオン”
は英語では“sign”と訳されます。“sign”は
「記号」や証拠になるシンボルを指す語です。署名することを“sign”と言
うのも、「これは私本人、間違いなし」という記号を書くからです。ファリ
サイ派の宗教家たちは、イエスを審査する審査員のように要求しました。
「あ
なたが本当に神のメシアであることの論争の余地のない証明を、我々の目の
前でやってみせよ」と。
この人たちは、イエスがあのパンを聖なる力で生み出すのを見たのかも知
れませんし、現場にはいなかったのかも知れません。いずれにせよ彼らはま
ず、「このイメージとこの欲求を満たす者が 本物のメシアだ」という基準を
自分たちで準備して、それに合わないものは神のメシアではあり得ないと決
めていたのです。その基準を振りかざしてイエスと議論しイエスを試すため
に、やって来たのでした。イエスを「試験しようとして」
来た
とも書いてあります。
「ああ、今の時代の人間はそんな『しるし』が欲しいのか。残念ながら、
私はそんな『しるし』は一つも与えはしない」と、木で鼻を括ったような返
答を与えて、イエスはそのまま、舟で対岸へ去られました。このファリサイ
に限らず、人間の宗教心というものは、せいぜいそういう『しるし』を見る
ことに満足したいもので、“宗教”は大体その人間の我が侭を甘やかそうと
します。イエスは世の賢い宗教家のやり方とは反対に、「しるしは無い。私
はあなたを満足させるものを一切持ち合わせない」と言い捨てて去られたの
が、とても印象的です。
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3.ファリサイ派の人々とヘロデのパン種。 :14-21.
14.弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち
合わせていなかった。 15.そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパ
ン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。 16.弟子たち
は、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。
弟子たちはどうして、パンが無いことを気にしたのか……。パン種の酵母
とパンとはヘブライ語でもギリシャ語でも言葉が違うので、聞き誤りという
ことはありません。ヘブライ語は「シェオール」と「レヘム」raov. ―
ギリシャ語は「ジミ」と「アルトス」
―
~x,l,,
ですから、音からの聞
き違いではないと思います。これはむしろ意味から来る連想だったのでしょ
う。それも、イエスの言われた「シェオール」から弟子たちがピンピーンと
感じ取って「パン!」を思い出したと言うより、今晩のパンを準備して来な
かったことに注意を奪われている弟子たちの「パン!」という意識にかぶせ
るようにイエスが、「酵母……」の話を持ち出されたのだと思います。もち
ろん、弟子たちは叱られたと勘違いして、大いに慌てました。
17.イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで
議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっ
ているのか。18.目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。
覚えていないのか。 19.わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めた
パンの屑でいっぱいになった篭は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二で
す」と言った。 20.「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの
屑でいっぱいになった篭は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、 21.
イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。
「今はパンよりもっと大事なことに心を集中すべきなのに、パンのことし
か見えないか!」と、これは、弟子たちの急性パン意識過剰症にひっかけて
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ショック療法を実施されたのだと、私は理解しています。ですから、19 節以
下は、パンの不安を除くための叱責ではないのでしょう。つまり、よく言わ
れる次のような意味ではないと思うのです。「あの二つの奇跡を自分の目で
見て私の支える力を知ったあなたがたは、パンが無くて困ることなどもう心
配は要らないではないか!」これは、違うと思います。理由は、イエスはも
ともと弟子たちの「パンが無い」というパニックの方は無視しておられて、
パンの意識にひっかけておられるだけだからです。パンのことは、言わば“か
らかって”おられるので、イエスの趣旨は別の所に見なければなりません。
イエスの御警告は、「ファリサイの宗教家たちのあの不信仰をよく見てお
け」ということです。「パン種」つまり「酵母」は、ほんの少量で本来あっ
たものを変質させる恐ろしい影響力のことです。人間の肉が満足する「しる
し」を見せよ! この私の願望を今この瞬間に満たして、私の苦しみを、私が
期待する形で癒してくれてこそ、「神のメシア」だ。「天からのしるし」を
私の台本の通りに演出して見せないメシアなど信じられるか! 多くの宗教
家が、「ファリサイ派のパン種」で汚染されて腐敗しました。「ヘロデのパ
ン種」も似たようなものだ、とイエスは断定されました。ガリラヤの国守ヘ
ロデ(ヘロデ・アンティパス)もまた、「私の期待とイメージに合えば、イ
エスよ、信じてやるぞ」というパン種をちらつかせたのでしょう。
先程私は、多くの宗教家がこれに汚染されたと言いました。彼らは自分で
は、パン種を利用しているつもりでした。パン種を活用して大衆を救済して
やるつもりで、反ってその毒に犯されたのです。ただイエスだけが、「その
しるしは絶対与えないぞ」とそっけない返事を残したまま、「舟に乗って向
こう岸へ」行かれたのです。「向こう岸」は十字架への道に真っすぐ通じて
いました。マタイ 4 章の誘惑(4:1-10)と同じものを、この時イエスは退け
たと言えます。
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《 結 び 》
「ファリサイ派のパン種」が弟子たちの信仰を間違っても毒することがあ
ってはならない。それは、最後までイエスのお心にかかっていた御心配でし
た。でも、弟子たちはこの時は全く分かっていなかったのです。もし彼らが
そのまま、ファリサイ派のパン種の恐ろしさに気付かずに行けば、この世の
“宗教”の信者とあまり変わらぬものになっていたでしょう。
「ファリサイ派のパン種」は、どんな宗教活動の中にも酵母のように働い
ています。聖書を使い、イエスの名を使ったオウム教はいくらでもあります。
彼らは現に今、人間の現実の悲しい問題を正面から扱って救済すると主張し
ますし、最も生活に密着した「生きた宗教」であるかのように演出して見せ
ます。(「マタイによる福音」47 講参照)
「どうして、今の時代は“しるし”を欲しがるのか!」そう言って霊の深
みで、「呻くように悲しまれた」
というイエスはしかし、人間
の深い悲しみを無視して、この生身の人間の救済を捨てたのではありません。
イエスはその人間の悲惨を浅く一時的に癒そうとするこの世の宗教家たちが、
「見よ、天からのしるしを!」と興奮して人を陶酔させる次元では、醒めて
おられたのです。
「ファリサイ派の“パン種”」を惜しげもなく捨てたイエスは、実は、人
間の本当の悲惨を引き受けておられたのです。イエスは、空しいしるしを見
せて一時的に陶酔させる代わりに、その悲惨の源を根こそぎ取り除くため、
すべての人の罪と死を引き受けて、神の子の血で清めるという、天の父の事
業にご自分を献げておられたのでした。
「悟らないのか」とイエスから言われ、「まだ悟らないのか」とまでお叱
りを受けた弟子たちは、この時点では、それを全く悟ることがなかったので
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すが、マルコがこの二つ後の段落に書き留めたペトロの告白を見ると、つい
に弟子たちの中からも、イエスが何をしに来られたかを洞察する目を開かれ
る者が出始めた(!)ことが分かります。
(1995/07/09)
《研究者のための注》
1. 「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種」は、両者に共通するもの、信仰の
姿勢とは異質のものとして理解しました。この点については小著「マタイによる福音」
(書籍版)第 47 講末尾の註 3 を参照してください。
2. 四千人の人たちへのパンの奇跡の福音的意義について Williamson の次のコメントを
参考にしました。「ティルスとシドンの地方やデカポリスでの出来事の直後にこの物
語が置かれていることは、この給食の出来事が異邦人の地を舞台にしていることを指
し示している。この配置は異邦人の地における四千人への給食によって、イエス自身
が、マルコ共同体の従事していた異邦人伝道を認証したことを暗示しているといえよ
う。……この異邦人への聖餐の意義は、福音(と教会)があらゆる人々のためのもの
であるという点にある。」(山口雅弘訳)
3. 「しるし」と訳された語
,
はイエスの奇跡を「神のメシアであるこ
とを心ある人に示す証拠としての記号」として表現します。これに対して「力ある業」
と訳される語
は「力」の複数形でイエスの奇跡を「力の源である神ご自身
の働き」として、また「不思議な業」と訳される
は「驚異」「奇怪」の複数
形で、イエスの業を、それに接した人間のショックとして表現しています。四千人の
給食をファリサイ人が目撃したにせよ、しなかったにせよ、彼らが「天からのしるし」
を求めた事実は、同じ御業でも、それを受け止める霊的洞察を持った人には「しるし」
となり、持たない人には「しるし」となり得ないことを例証しています。
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