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試練か誘惑か

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試練か誘惑か
試練か誘惑か
ヤコブ書の福音 2
試練か誘惑か
1:9-18
私たちの人生で、同じできごとが「試練」として人を高めもすれば、「誘
惑」として人を破滅させもするという不思議な皮肉をこの箇所は同じ一つの
単語に託して語ります。
英語ですと、trial が「試練」「試み」という感じを表しますし、temptation
と言うと、「誘惑」という、罪に引き込む危険なものを指します。ところが、
ヤコブが使ったギリシャ語では、どちらも同じ“ピラズモス”と
い う言 葉を使 うので す。 今の ギリシ ャ人は 試練 の方 を“ド キマシ ア”
と言って区別しますけれども、この時代の言葉としては、「テス
ト済み」の本物の信仰者を生む試練も、罪に引き入れて破滅させる誘惑もこ
の同じ言葉“ピラズモス”で表しました。
中国語の聖書を見ると、「試探」という便利な言葉があって、12 節の初め
は、「試探を忍び受ける人は福がある」としていますし、13 節は「人は試探
を被るとき、『私は神から試探される』と言ってはならぬ」と、両方とも同
じ“試探”で訳しています。「試探」は辞書によりますと「探りを入れるこ
と」だそうですから、その苦痛や悲惨や刺激をその人がどう受け止めて、ど
ちら向きに処理するかを探る……という意味で、ヤコブが使った言葉と相通
じるところがあるのでしょう。試探がいつも人をプラスに高めるとは限らな
いで、悲惨な結果に落とすことだってある……というテーマがこの全体を、
特に 12 節から 18 節までをつないでいます。
このテーマは実は、前回にも、自分の失敗とか病気とか、肉親の突然の死
とか自殺とか、私も人並みに幾度かそういう所に立たされたという話をいた
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しました。こういうのは正に、中国語式に言って「試探」でありまして、ど
ちらに転ぶか分からないものです。キリストを仰がずに巻き込まれれば、あ
っという間に倒れてしまいます。40 年前に一緒にバプテスマされて入信した、
仲間の青年たちを思い出してみますと、倒れた死体の山です。悲しいけれど
も「試探」は犠牲者の方が多いのではないか……そう思うこともあります。
自分は言わば、大惨事の生き残りみたいに、ここにいる。これはオーバーに
聞こえるかも知れませんが、実感です。本当は、ただ憐れみによってここに
生きて立っているだけです。誘惑で破滅する方に入らずに、試練で試されて
「踏み止どまり人間」の一角を占めさせて頂いている。不思議なことです。
今日のテキストの後半分、「試練と誘惑」という見出しのところは、試練
の犠牲になって死ぬ道と、神様の生んだホンモノの命のサンプルになる道と
を対照させています。
1.試練の前おき―貧しさをどう受け止める……。 :9-11.
これは霊的人間のリトマス試験紙みたいなものかも知れません。貧しい人
が自分の貧しさをどう見ているのか、また、たまたま裕福な人はその幸いを
どう見抜いていられるかです。
9.貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい。 10.また、
富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。富んでいる者
は草花のように滅び去るからです。 11.日が昇り熱風が吹きつけると、草は
枯れ、花は散り、その美しさは失せてしまいます。同じように、富んでいる
者も、人生の半ばで消ううせるのです。
草花のたとえは、日本人の考える“もののあわれ”とはちょっと違ってお
ります。これはユダヤの風土を背景にしてあるのですが、向こうでは草花が
みずみずしい緑でいられるのは、ほんの短い春の間だけで、たちまちジリジ
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リ照りつける夏の太陽が来て、焼き焦がす熱風が訪れます。ヤコブは、よく
知られたイザヤ書の言葉に託して、富を拠り所にする者の末路を、焼け焦げ
の草という絵で描きます。旧約文学の伝統的な表現として、「富める者」ヘ・
アシール……
ryvi['h,
というのは、自分の築いたものに安心して高ぶる者、
神への信頼を捨てた者の絵です。
最初の「貧しい兄弟は、自分が高められたことを」は、どんな意味で高め
られたことを言うのか、ですが……。ここでは、キリストの血で清くされて、
聖徒たちと同じ国の市民に、神の家の者にされた喜びを「高められた」と言
ったのでしょう。もしその喜びと誇りが分かったら、自分が誇れる財産を何
も持たなくても、少しも惨めとは思わない。消え去る空しいものを誇るより
も、もっと大きな富を得たことを誇りにせよ。このくだりが 2 節の試練と 12
節の試練の間に、どんな必然性で入ってくるのか。それは多分、こういう風
に価値観が根本から変えられていることが、試練をプラスの方に受け止める
ための、大切な準備になるということでありましょうか。何が自分を高めた
のか。この低いままでどんな富豪より豊かな富を天に持つようになったか。
それを見る目が切り替わっていたら、誘惑も試練も違って見える。ヤコブは
まずそのことに読者の注意を促します。
次の「富んでいる者は」という所は、やや難解です。「自分が低くされた
ことを誇りに思いなさい」は、どんな意味で低くされたことを指すのでしょ
うか。私は、ここは大真面目にストレートに命令だと取ると、間違ってしま
うと思います。これは風刺をこめた強烈な修辞なのです。富んでいる者は、
愚かにも己れの富を誇っているが、神の目には最低の貧者より貧しく映って
いる。……とすれば、神の前に誇れるのは何か……逆説的だが、自分の置か
れた状況をしかと見極めて、その貧しさを誇る(?)しか誇りようはないの
だ。ここは、本当に「誇れ」と言うより、誇るものは本当は無いことを知れ
……という皮肉な命令、裏返しの修辞ではないかと思うのです。
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さて、そういう価値観の革命を経験した人にとっても、未だに空しいもの
を必死で追い求めている人にとっても、試練・誘惑は訪れます。それに、そ
の中間くらいのところで両方に引かれる悲しい人間にも同じように「試探」
がやって来るのですが……。
2.試練として受け止められるか、それとも……。
:12.
12.試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する
人に約束された命の冠をいただくからです。
この一節だけ抜き出しました理由は、この新共同訳の段落分けのように、
たいてい、ここから新しいパラグラフが始まるように印刷してありますけれ
ど、逆に Tasker の注解書のように、12 節を前の段落の結びのように見るこ
ともできるからです。つまり貧しさもこういう価値観で正しく捕らえること
ができれば、プラスの試練として生きてくる。そういうまとめのパンチを利
かせていると見たほうが良いと Tasker は言うのです。13 節から後は悪い意
味での試探―罪への誘惑の話になりますから、ここは 12 節と 13 節の間で
切る方が、段落としてスッキリすると言います。
私自身は、この 12 節で、前から続いてきたプラスの結果を生む試練と、破
壊的な結果を伴う誘惑とが、同じという言葉を使って重なりあっ
ていて、ここはその切り替えの役目を果たしていると思うのです。前と後ろ
との両方をつないでいます。英訳の中では N.I.V.(New International
Version)は、この 12 節だけでワン・パラグラフにして、印刷してあります。
二つの思想のつなぎ目、生きるか死ぬか……二つの可能性のブリッジです。
でもこの 2 行でヤコブが訴えるのは、「決して死ぬな。試練の犠牲者にな
るな」ということです。信仰の価値観に立てば、あなたも立派に踏み止どま
れる。適格者として「神を愛する人」の栄誉を現に得ている仲間もいる。ホ
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ンモノを磨きあげるテストを神の憐れみによってプラスに生かせ。命の冠を
受ける側に回れ。これがヤコブのアピールです。
この「命の冠」ですが。ヤコブの言う“冠”はどんなイメージだと思いま
すか? “冠”は新約聖書の中では三つの違った絵になって出てきます。一つ
は黙示録に出てくる「王冠」で、これは英語の“diadem”の語源に当たる
。これは頭に巻き付ける黄金のバンドみたいなものです。ここに出
てくるというのは、それとは違って月桂冠のような木の葉や小枝
を編んだものです。花を編み込むこともありました。でもコリント書に出る
ような勝者が受ける一等賞の冠ではなくて、ここの絵になっているのは、王
が賓客や親友に花かずらを被らせて栄誉の席に着かせるというような栄誉の
ですね。「これは天の王者が認めた間違いのない本物だ!」と言
われるようなものになれ、と。
これと対照的なのが、次の誘惑に負けて失敗する人です。しかも「この誘
惑に追い込んだのは神様だ」と言い訳するのです。
3.試練は時に誘惑となって襲い掛かるのだが……。 :13-15.
13.誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりませ
ん。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑
したりなさらないからです。 14.むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に
引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。 15.そして、欲望ははらんで罪を生
み、罪が成熟して死を生みます。
ここの所を読みますと、「主の祈り」の最後の一句に矛盾を感じます。「私
たちを罪の誘惑に引き入れたりなさらず」という所です。でもこれは、ちょ
うど「天で成るのと同じように」という祈りのオカシサと似ています。本当
は「地上にも」着々と成っているのに、「それが見えません! 私の目を開い
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て、それが見えるようにして下さい!」という祈りと同じなのです。「本当
は神様が私に罪を犯させようとなさる筈はないのです。そのことを信じて誘
惑者と戦うことができますよう、力をお与えください!」と祈るのが、あの
祈りだと思うのですが……。
ヤコブの言う意味は、ある意味では確かに、その試練は神がお与えになる。
しかしそれを通して「テスト済みの本物になれよ。さあ、信じて力を受けよ」
とおっしゃるのは神。「さあ、私の言う通りに楽な道を取れ。罪は楽しいぞ」
とささやきかけるのが、悪の力サタンだと。同じ一つの刺激でも、同じ病気、
同じ失敗同じ悲惨でも、忍耐と完成の方向へ引き上げる力と、逆の屈服と妥
協と汚れの方向へ引き下ろす力と、両極に向かって、同時に強い力が作用し
ている。その引き降ろす方の力を“神の試み”という言い訳で正当化して甘
えるな。そういう意味だと思います。
最後の「欲望がはらんで……」という所は、罪が隠れた無形のものから行
為になって現れるのを、出産にたとえている訳です。山上の説教の中で主も
おっしゃったように(マタイ 5:23,28)、心の中に兆しただけで罪はすでに
罪なのですけれど、欲望というものはそれを甘やかしてかわいがっていれば、
やがて胎児のように大きくなり、ついには形を取って、具体的な行為となっ
て生まれ出て来ると。ここでは欲望が罪をはらんで、罪が死という恐ろしい
形の奇形児になって死産で出てくる……という絵を描いていますけれど、実
際死んで出てくるのはその人自身です。罪を甘やかして誘惑と妥協して屈し
た人が、死産の嬰児と同じ姿になる……その恐ろしい結末を暗示しているの
であります。ですから、単に試練の中にいるから自分は安心だ、自動的にテ
スト済みで完成されて出て来る……みたいに思いこむな。試練は死産の子を
生み出すだけのことも多い。信仰でこれを受け止めるか、それとも、不信仰
と呪いで受け止めるか……。ピラズモス(試探-shitan)はあなたを殺すか
も知れないのです。
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では一体、どうしたらその同じ苦悩や悲惨をプラスにして、生かすことが
できるのか。ここは前回に読んだ 5 節の「聖なる洞察と生きた応用力
を求めよ。ただ一つの源から受けよ!」と同じ趣旨の勧めが、別の言葉で言
い直されているのだと思います。ソナタやシンフォニーで言うと、主題再現
部です。「知恵を神に求めよ。神は必ず与えてくださる!」ただ、今度は少
し主題は形を変えて出てきます。と言うのは、今の“罪が死になって生まれ
て来る”という絵の連想から、試練を生かして“踏み止どまり人間”として
仕上げられる人は、実は御言葉が健康な新生児を生み出すように、神の生命
力に生んで頂いた人であると。これが最後の段落の趣旨です。
4.誘惑に潰されず、試練を生かす道がある! :16-18
ここには、その秘訣が書いてある、と言って良いでしょうか。試練を生か
す道です。中国語では「試探」という字を使ったと申しました。私たちは生
き方の根本と、応答の仕方を「探られる」のです。信仰の立場にたっている
か、それとも自分の意志や自分の欲望が自分の主人であるのか……。悲しい
できごと、苦しい経験が訪れる度に、また罪に引きずり込み兼ねない魅惑と
刺激が招く度に、その「試探」を霊の試練として益を受けたい。マイナスの
誘惑として罪と破滅へ招き入れられるのではなくです。思い違いをしてはな
らない。それに打ち勝つ力の源は一つしかない。マイナスの方へ倒れ込むな。
神によってプラスの方へ起こしてもらえ。ここはそういう意味に取ったら、
どうでしょう……。
16.わたしの愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。 17.良い贈り
物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父に
は、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。 18.御父は、
御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくたさいました。そ
れは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。
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最初の「思い違いをするな」の趣旨は、13 節とつないで考えると、「誘惑
が神から来ると思い違いするな」でしょうが、むしろ、誘惑に勝つための力、
試練をプラスにできる力は神からだけ頂ける。それが自分の精神力や経験の
力から来ると、ゆめ思うなよ。この点での思い違いは致命的になる。心せよ、
ということでしょうか。ここは先程も言いましたように、5 節の「生きた聖
なる知恵が欲しい人は、信仰をもって父に求めよ」を、更に印象的な絵にし
て掲げたものです。どんな時にも輝きを変えない光の父が、良い賜物を下さ
る。必要な力を下さる。あなたを倒れさせるようなことはない。天体であれ
ば、日食もあれば月食もある。光が届かないくらい陰る瞬間もある。しかし
光の父にはそれはない。
この「光の父」……,“the Father of lights”と
「光」が複数になっているのは、天体のことです。太陽や月や星や、光を注
いでくれる光源のすべてを生みだした父……という意味です。たとい大空か
ら降り注ぐ光がとどかぬことがあっても、父から力を受けようとして、私ま
で届かぬような事態は絶対無い。その父が生んで下さった子供たちが、信じ
てお願いするとき、父が支えて下さらないことがあろうか。なぜって、父は
私たちを聖なる子にしたくて、御言葉の力で新しい命を与えて、産み落とし
て下さっている。あらゆる生命に先立って、宇宙万物に優先して清めて下さ
った(既に初穂として受け入れておられる)。神様がそれほど大事
に思っていて下さることを忘れなければ、どんな試練が来ても圧し潰される
ことはない。
《 結 論 》
先程「大爆発で生き残った」と申しました。オーバーでしたらお赦しくだ
さい。「小爆発」と修正しても良いのです。そんなに大きな試練をくぐって
来た訳ではない。世の常の試練です。私なんかより、もっと辛い苦しい経験
をしている人はいくらもいます。
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でも、“大爆発”であれ“小爆発”であれ、そこから生き残ってホンモノ
の「適格者」(:19)とされて「命の冠」を頂くためには、まさにその爆発
の中で、主への信頼と、知恵を求める祈り、光の父が私を愛して“初穂”と
して大事に思っていてくださる……そのことだけは動かない!……そのただ
一つの事実を持っていなければなりません。
思い違いをするな。それは、あなたの精神力から来るのではない。キリス
ト者として立派だから、生き残るのではない。それをさせる力……良い贈り
物……有効な賜物は父からだけ来る。
ヤコブがこの教えの前置きのように、なぜ「貧しさ」の話をしたのか……。
多分それは、ある程度“貧しく”ないと、神に求めることができなくなるか
らでしょう。「貧しさの祝福」です。我々も、幸か不幸か「富める者」にな
りかけたと気付いたら、人のためにその富を放出して、祝福を回復しなきゃ
いけないのです。
(1990/01/28)
《研究者のための注》
1.現代語では“試練”の意味で使うと言いましたはヘブライ書 3:9 で「人
が神を“試探”する」“試探”の意味に使われています。この語はまた(ロー
マ 5:4)、(ローマ 16:10)、(ヤコブ 1:13)ともつながる語で
す。
2.中国語訳の 12 節前半は「忍受試探的人是有福的」、13 節前半は「人被試探,不可説,
“我是被神試探”」となっています。ただし 2 節の『試練』は「試錬」、3 節の『試
される』は「試験」と別の訳語を使ってあります。
3. はオリンピックの勝者が受ける冠ではなく、王が宴席で友人賓客に与える
冠(Tasker)と理解しましたが、Schneider は競技の勝利者が勝ち得る栄冠と見てい
ます。
4. は giving,は gift ですが、
ここでは対句として使ってあるのでしょう。
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とも「優秀」「完全」が対句になって、この場合は「神の善意と憐れ
みのこもった」「欠陥のない完全な」賜物、具体的には、試練の中にいる人に必要な
力と知恵を暗示、含蓄すると受け止めました。(:5)と
ダブらせて理解した訳です。
5. (:18)は「御心のままに」と言うより、父が私たちを、どうしても「子に
したくて」という御意志を表します。
6. (:18)はの初穂という文脈から解釈しました。Tasker は「後
に続く刈り入れ」と結びつけて、読者の使命を暗示するものと見ているようです。
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