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デカルトの人間論 - 香川共同リポジトリ

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デカルトの人間論 - 香川共同リポジトリ
OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
香川大学経済論議
第7
3巻 第 3号 2
0
0
0年 1
2月
11
7
デカルトの人間論
佐藤公
序
周知のように,デカルトは 1
7世紀前半に活躍したフランスの哲学者で,
<
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C
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>
>はあまりにも有名である。また,数学,物理学等における
貢献は著しい。それらの個別の発見のみならず,全体的な見通し,すなわち自
然の力学的機械論的見方の徹底など,近世の科学革命に果たした役割は無視で
きない。そのデカノレトが人聞をどのように見ていたのか。デカルトは精神と物
質の二元論でよく知られている。両者は異なる物体であると主張した。しかし,
精神と身体(物質の一部である)の密接な結合も主張した。いわゆるデカノレト
の心身問題である。デカノレトが人間と呼ぶのは後者のレヴェルである。
以下において,最初に,デカノレトの人間論の主な特徴について触れ,次に,
デカノレトのあげる人間を識別するこつの手段について様々に検討する。第三に,
デカルトの人間身体の考えを見て,最後に,デカルトの人間論の意義について
論じる。
デカルトの人間論を解き明かすには,心身問題を十分解明する必要があると
思われるが,小論ではその議論を展開するに到らなかった。むしろその問題に
は触れないで,デカルト人間論を叙述するにとどまった。心身問題は別稿に譲
りf
こい。
L デカルトの人間論の特色
デカルトの人間論に通じていえることは,人聞をその内包において把らえて
いるということである。デカルトにおいて
i人間」という言葉は人間の観念を
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- 2ー
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5
2
香川大学経済論叢
指し,人間の観念は対象としての人間そのものに対応している。したがって,
デカルトにおいては,人聞はその内包において把らえられることになる。少な
くとも心身結合のレヴェルで人聞を論じるかぎりそうである。
まずデカルトにおいて,人聞は神と区別され,ついで動物と区別される。『省
察』本文では「私」という表現が多いが
iソルボンヌにあてた書簡 j, iまえお
きj, iあらまし」では人間の表現が比較的多い。そのまえに副題に用いられて
いる。これらにおいては,その内容からして人間の表現は神の存在の議論とと
もに用いられている。「読書へのまえおき」においては
i神と人間精神 j
(AT
VII,7
)という表現も出てくる。これらの表現から,人聞は神との区別を表すと
見られる。神においては身体的なもの,物質的なものを含まないが,人聞は精
神と身体より合成せられていることが強調される。
次に,人聞は動物との区別を表わす。『方法序説』第 1部では
i理性すなわ
ち判断力のほうは,それのみがわれわれを人間たらしめわれわれを動物から分
かっところのものである j (ATVI,2
)という。また第 5部 で
i二つの手段に
よってまた,人間と動物との間にある相違を知ることができる。 j (ATVI,5
7
)
という。これらから,人聞は動物から区別されていることが知られる。
デカルトにおいては,精神は生命の原理でも,身体の運動の原理でもない。
アリストテレスでは,霊魂が生命の原理であり,身体の運動の原理である (De
Anima,413)。この考えはスコラ哲学に受け容れられ,デカルトの噴まで脈々と
生きづいていた。しかし,デカルトは精神を思考に限定し,身体の運動は物体
の一般的な力学的原理によって起こるとした。意志,想像,感覚,情念も,そ
れが意識を伴っているかぎり精神に属し,身体の運動で意識的でない部分は,
身体の器官の配置のみによって起こるとする。デカルトにおいては,生命ある
身体を動かすのは精神ではなく,器官の配置と力学的規則である。ちょうど時
(1)包u
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lTannery,JV
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n,(
1
9
6
4
~1974) (略号 ATで示す)
(
2) 引用は,野田又夫編『世界の名著デカ Jレト』中央公論社 (
1
9
7
8
) 所収の野田又夫訳に
よる。以下世界論Jl, U"方法序説 J, r
省察 J, r
哲学の原理 J, r
↑青年論』からの引用は同
書による。
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デカルトの人間論
3
計が錘と歯車の運動によって,時を知らせるのと同様である。
デカノレトはまた,精神と身体の合ーをも認めて,精神を身体に結合するのは
6
)。ここにいう神は自然的理性による神であるが,そ
神であるという (ATVI,4
れもキリスト教の神である。デカノレトは方法序説』第 1部で「神学を尊敬し
ていた J (ATVI,
8
)といい,第 3部では「神の思寵により幼児から教えこまれた
宗教をしっかりともちつづけ J (ATVI,2
3
)という。『省察』における「ソルボ
ンヌにあてた書簡」では
r
私たち信仰ある者にとっては J (ATI
X-l,4
)といっ
ている。これらのことからも,デカルトがカトリックの信何を持ちつづけよう
としたといえよう。そのキリスト教の人間の考えがデカルトに存在していると
思われる。人聞が精神と身体よりなる,精神の死後の存続を認める,等に,そ
の影響を認めることができょう。
最後に,デカ Jレトの人間論はその身体論に特色があり,生理学的領域を聞い
たといえる。その身体論は,当時の解剖学的知識を前提にし,ハーヴェイの血
液循環論をとり入れて,諸器官と自然の法則である力学の規則から,身体の機
能を機械論的に説明したものである。しかし哲学の原理』では解明の不十分
さから,生物論,人間論を展開するに到らなかったという。人間身体の機能の
記述に終わっている『人間論~,人間の記述』なども,デカルト生前には公刊
されなかった。人間身体の生理学的究明には大変関心を示しているが,デカル
トの眼からすると,それは十分なものではなかった。しかし後にこの方面の究
明を促し,それは現代にまで及んでいるといえよう。
2. デカノレトにおける人間
デカノレトは人聞を精神と身体の合成体と考える。精神だけでは生身の人間で
はない,身体のみでももちろん人間ではなしただの機械である。精神と身体
の結合のうちに,生身の人聞を見るのである。その精神のうちでも,理性にこ
そ人間の特色を見出す。『方法序説』で「理性すなわち判断力のほうは,われわ
(3) W
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m Harvey,W動物の心臓と血液の運動に関する解剖学的研究J (
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6
2
8年に出版した。
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5
4
れを人間たらしめわれわれを動物から分かつところのものである J (ATVI,2
)
という。そしてこの理性とは「よく判断し,真なるものを偽なるものから分か
っところの能力 J (ATVI,2
)である。デカルトにおいて,理性こそ人間の特性
であり,その他の被造物から分かつところのものである。この理性は精神に属
するものであり,心身結合を通じて身体に表れたものが,言語であり諸々の行
動である。これらは人聞を動物や機械から識別するのに役立つ。以下『方法序
説 μこ従って,人間と機械,人間と動物の違いを見て (A
TVI,5
6
"
'
5
9
),人間の
特性をとり出そう。
①
人間と機械との違い
この際,機械といっても人間のつくった機械にとどまらず,想定上の機械の
ことである。人間の身体と同じ器官をもち同じ形をして
iかつ事実上可能なか
ぎりわれわれの行動をまねるような機場)」 (ATVI
,日)をデカ川は想定する。
このような機械は純粋に想定上の機械である。動物は自然に存在するけれども,
人聞によく似た機械は自然には存在しないからである。かかる機械は,人間身
体にいかに似ていようとも人間の行動に似た行動をいかにしようとも,人間で
はない。それを識別する手段が二つある。第一の手段はことばの使用に関する
ものである。人聞は自分の考えを述べるためにことぼやほかの記号(手話等)
を用いるけれども,この機械はそのようなことができない。機械には自分の考
えを述べるということがない,したがって自在に応答するということができな
い。人聞がひとと話す場合には,自分の考えに従って話し,相手のことばの意
味に応じて「ことばをさまざまに排列 J(
A
TVI,5
6
"
'
5
7
)して意味のある応答を
する。機械がことばを発しうるようにつくられていると考えることはできるが,
(4) 人間の身体と同じような器官をもっ機械であるなら,人間身体と同じことを行うであ
ろうと反論されうるが,デカルトにおいては,人間身体は精神と結合しており,人間身体
と似た機械は物質のみでつくられており,精神を欠いている,したがって,それは人間で
はないのである。
(5) 純粋に想定上のこととはいえ,人聞を考える際に機械を想定したのは当時としては新
しい着想である。また,ことばを発する機械を想定したことは, 3
5
0年以上前のことを考
慮、するなら,その行き届いた着想に驚かされる。
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5
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5-
そのように器官がつくられたから機械はことばを発するのであって,不特定の
ことばに応じて意味のある応答をすることはできない。要するに,機械は自分
の考えを述べることができない。ことばを発するとしてもそのようにつくられ
ているだけである。
第二の手段はそれらの行動の違いに関するものである。人聞は認識によって
行動するのに対して,機械は器官の配置によってのみ行動する。人間の認識は
,5
7
)であるという。
理性によって可能となる。「理性は普遍的な道具 J (ATVI
そのために人聞は限られた肢体で多種多様な行動をすることができる。機械は
理性を欠くため,一つの行動をするためにはそのための一つの器官が必要であ
る。人間の行動に対応するような多くの器官を一つの機械の中に設置すること
は不可能であるから,機械は人間のように多様な行動を臨機に行うことはでき
ないのである。人間理性の普遍性と機械の器官の個別性,人間行動の多様性と
一つの機械の行動の単一性が対比せられている。
デカルトは機械をどのような意味で使っているのだろうか。まず,デカルト
の機械は精神を欠いている。次に,機械は人聞によってっくり出されるばかり
でなく,神のつくったものにも機械と呼ばれるものがある。デカノレトは人体に
関して
r
神の手になると想定される機械J(ATXI,1
2
), r神の手によってつく
られたゆえに,……一つの機械とみなすであろう。 J(ATVI,5
6
)といっている。
また,この自然的世界を一つの機械とみなして rこの地球および可視的全体を,
一つの機械であるかのように J (ATIX-2,3
1
0
)という。自然物は神のつくった
機械と見られているのである。人間のつくった機械と神のつくった機械すなわ
ち自然物とに共通する点は何か。人聞のつくった機械として時計がよく例に挙
げられる。「時計の運動がその錘と車輪との力や位置や形から必然的に生ず、る」
(ATVI,5
0
)といわれる。また,この自然の運動の原因は神による物質と運動の
創造であり,さらに自然の運動が従うところの神によって与えられる自然法則
である。これらから第一に,機械とは何かによってつくられ,力が外から与え
られることが必要であるといえる。機械において自己原因,自発的運動はあり
えない。時計の例だと,時計の振り子の動きは最初のー振りと時計にとっては
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外力である重力が与えられている。また世界の場合だと,神による創造が必要
である。しかし第二に,ひとたび力が与えられると,機械は前の物質の諸状態
と自然の諸法則によって,ある運動ないし行動を必然的に生じさせるところの
ものである。
デカノレトは機械の例としてよく時計をひきあいに出す。自然も一つの機械で
あるとみなすのであるが,デカノレトは時計のような例をとり自然を機械と考え
たといえよう。現代では機械はより複雑になっている。しかし,それもやはり
人間のつくった機械である。人間のつくった機械を例に自然を機械と見ること
は不徹底を免れない。さらに物質そのものの概念もデカルトの頃より変わって
きており,法則概念も決定論的でなく,確率論的になっているといえる。デカ
ルトの機械概念そのものも自然物に適用できなくなっているが,また,人間の
つくったものを機械と呼ぶことはできるが,自然物を機械と呼ぶことには慎重
でなければならないであろう。
②
人間と動物の違い
人聞は人間の身体とよく似た機械と区別することができるが,動物は理性を
もたぬゆえ,.まったく同じ器官をもちまったく同じ形をしているような機械」
(ATVI,5
6
)と区別することができないという。すると,人間と動物の違いは,
人間と機械の違いを識別する手段で同様に識別できるだろう。すなわち言語の
使用と認識による行動の存否である。まず言語の使用であるが,人聞はことぼ
や他の記号を使い,動物は使えないことである。その理由として,動物が少し
しか理性をもたないということではなくて,全然理性をもたないこと,ことば
と自然的動作を混同しではならないこと,動物同士で人間の分からないことば
で話していると考えではならないこと,等を挙げている。以下最初の二点を検
討してみる。
(6) モンテーニュにも人間と動物の比較がある。モンテーニュは,人間と動物の違いは質的
1随想録』第 2巻第 1
2翠,関根秀雄訳,
な違いではなく,程度の差であると主張している (
白水社, 1
9
6
0年
)
。
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7-
デカルトの人間論
まず人間の言語には,ことばを組み立て,ひとと意味のある会話をするとい
う特徴がある。そのことばによって自分の考えをひとに伝えるのである。デカ
ルトも,人聞は「さまざまなことばを集めて排列し,一つの談話をつくりあげ
て,自分の考えを他の人に伝えることができる J(ATVI,5
7
)という。それに対
して,動物は自分の考えをことばによって伝えることができない。動物が発声
する場合でも,自分の考えをことばによって伝えているのではない。かささぎ
やおうむが人間のことばを真似て発声する例をあげて,動物がことばを話さな
いのは発声器官をもたないからではない,とデカルトはいう。動物は「理性を
まったくもたない J(ATVI,5
8
)から,ことばを話さないのである。動物が人間
のことばを真似するのは,器官の配置によって声を出しているだけで,理性に
よって把らえることのできる意味を伝えているのではない。「ことばと自然的動
8
)のである。ここでデカルトは,こと
作とを混同しではならない。 J (ATVI,5
ばを発することが認識に伴うものか,情念に結びついたものか区別しなければ
ならないことを指摘しているのである。人間のことばが情念と結合することな
しにものごとの認識に基づいて発せられるのに対して,動物には認識に基づい
たことばはなく,必ずある情念と結びついている,とデカノレトはいう。「自然的
動作は情念を表明し,動作によってもまた機械によっても模倣しうるものであ
8
)。また,ニューカッス 1レ侯宛の手紙では,動物が人間の望む
る
。 J (ATVI,5
行動をするようになるのは,人聞が動物の恐怖,期待,喜びの情念に結びつけ
て行動させるように訓練させることによるという。デカノレトは動物の芸や馴ら
した動作は認識によるのではなく,条件反射によると主張していることになろ
4
8
)
う。しかしデカルトにおいては,情念は厳密には「精神の諸'青念J(ATXI,3
(7) 動物の発声について,少なくとも人間と進化上近縁の晴乳動物の発声について,子音と
母音を組み合わせて多くの異なる音声を作成するのは不可能であるというのが通説に
なってきている。また最近の研究では,ボノボが言語を使っていることはないが,人間の
言語を理解しているのではないかという (
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eSavageRumbaughandRogerLewin;
伊
9
9
4,石館康平訳
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eHumanMind,Brockman,1
『カンジ』講談社)。
(
8) 以下『方法序説』第 5部 (ATVI,5
8
)およびニューカツスル侯宛手紙(19
4
6年 1
1月 2
3
日
, ATIV,574~575) 参照。
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8-
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5
8
であり,精神であるからにはそこになんらかの意識が含まれるであろう。実際
T XI,3
2
7
)という。
デカルトは,-だれでも情念を自己自身のうちに感ずる J (A
アルキエは,ニューカッスノレ侯宛の手紙では,デカルトは動物にも情念を認め
ることになっていると指摘する。しかし,動物における情念は意識を含まない
情念と解するならば,デカ 1
レトにおける一貫性は保たれるであろう。デカルト
においては一方では,情念は精神に関係づけられ,-結果が精神そのもののうち
4
7
)るものである。そのかぎりでは意識を含んで
にあると感ぜられJ (ATXI,3
いる。他方,情念は身体の能動であって,-精気のある運動によってひき起こさ
れ維持され強められるところのもの J (AT XI,3
4
9
)である。人間の情念では,
この両面が見られなければならないが,動物の情念の場合,動物には精神がな
いのであるから,その身体的側面のみしか起こらないと考えられる。動物には
情念の意識はないが,その情念の身体的運動,すなわち脳髄における精気の運
動は起こりうる,と解されるのである。実際デカルトは次のようにいう。「われ
われにおいて情念をひき起こすところの,精気や腺の運動はすべて,やはりそ
なえており,動物では,・ ・ われわれにおいて情念にともなうのをつねとす
0
0
刷
ω
,369~370) 。また,
る神経や筋肉の運動を,維持し強める役をしていどJ(ATXI
デカノレトは「情念にともない,かつ精神からは独立な,身体運動の例 J(ATXI,
3
5
8
)をあげている。これらから,情念の身体的運動のみは動物においても起
こっていると考えられる。かくして,デカルトのいう動物の情念は,精神に関
係しない身体的運動のみを指すと解することができる。デカルトによると,か
ささぎが「おはよう」ということばは,そういうと食物を与えられると条件づ
けられているから,かささぎが食物を得たいという期待を表す動作にほかなら
ない。そしてそのかささぎの動作は精神に関係することなしに起こりうる。た
だデカルトは,動物が理性をもたないことは何度も断言するが
I
F
情念論』では
T XI,3
6
9
)と断言を避けて,椀
「おそらくは思考をももたないであろうがJ (A
lili--t
(9
) F
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6
9
3
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(
1
0
) r
情念論」第 2部第 1
3
8項 (ATXI,4
3
1
)に同様の言及が見られる。
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4
5
9
デカルトの人間論
9-
曲に言っている。
動物と人聞を識別する第二の手段は,動物の巧みな行動が個別的であるのに
対して,人間の行動は理性の普遍性を表している点である。動物は機械と同じ
原理で働くのみであるが,人聞には理性的精神が具わっており,事がらの認識
によって行動を制御しうるのである。動物が諸器官の配置と自然の諸法則のみ
によって働くのは,機械と同じである。
このように,デカノレトはニつの手段によって人間と動物との質的違いを示す
が,モンテーニュは動物にも理智と言語を認め,人間も動物の仲間だとする。
(
E
s
s
a
i
s
,I
I1
2
)0 r
或る動物と或る人との聞の差異よりも,或る一人の人と他の
一人の人との差異の方がむしろ大き目'oJを持論としていた。デ、カルトは,ニュー
カッスル侯宛の手紙で,このモンテーニュの説に反論している (ATIV
,5
7
5
)。
しかし,ケーラーの類人猿実験以来,チンパンジーが道具を使い,何がしかの
知能をもつことは認められてきている。また, S
.
.
S
.
.ランパウは,ボノボが人間
の話題を理解しうることを観察で示してい
Z
。これらの点から,デカ川より
もモンテーニュの主張の方が事実に近かったといえるだろう。それにも拘らず,
人間の主要な特徴がことばを使用し,自然の中で有限な肢体で普遍的に対処す
ることがあることは間違いない。しかも,それらは生得的であるというデカル
トの主張は正鵠を得ているであろう。ただその生得性そのものが,経験の示す
事実でありうる。個人にとって生得的であっても,種としては経験的でありう
る。この点でデカルトの時代では及ばなかったことであろう。さきのデカルト
のあげた人間の特徴は,人類学などの経験科学から見れば,いずれも大脳の容
量の増大と結びついている。そのかぎりで,デカルトが理性的精神と身体の結
合の場を脳の一部に求めたことは,理由のあるところである。
(
1
1
) 動物の巧みな行動の例として,ニューカツスルヘ候の手紙では,春くる燕,蜜蜂の金行
7
5
)。
動,鶴の秩序だった飛行,猿の社会の示す秩序などをあげている (ATIV,5
(
12
) 上掲香 I
I1
9
3頁
。
(
1
3
) 上掲脅参照。
OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
-10-
香川大学経済論叢
4
6
0
3
.
. 身体の機能
上述のように,デカルトにおいては人間は精神と身体とから構成される (AT
1
9,ATVI,4
6,ATIX-1,7
0など)。デカルトの特筆すべき見解は,精
XI,1
神が生命の原理や身体の運動の原理ではない,としたことである。身体は物質
であるから諸器官の配置によって,他の無生の物体と同じように,機械学の規
則に従って動くのである。精神が死体から離れるのは,身体器官がこわれ,熱
を失い,身体を運動させることができなくなるからである, とデカノレトはいう
(A
T XI
,3
3
0,XI,2
2
5
)。人間の場合身体が生きて運動するかぎり,身体は精神
と結合している。それは神による結合である,とデカルトはいう (ATVI,4
6
)。
デカノレトは身体の機能を説明するために,叙述を始めるにあたって次の三点を
想定し,一点を前提する。
① デカルトが人間の身体について述べるとき,想像的空間において神が
創った新しい世界における人間,想定上の人聞について語る。神が物質を創造
し,運動を与えて,それらが法則に従って動くよう通常の協力を与えたと想定
1~35, AT VI,4
2,
して,現実の世界が生成してくる様子を述べる (AT XI,3
4
5
)。混沌から秩序への生成を主張する。この仮想の世界を神がっくり,維持し
ていることを,デカルトは認める。かくして,デカルトの宇宙論は「創造の奇
跡」に反しないという (ATVI,4
5
)。また,デカノレトの宇宙生成論の方がはるか
に理解しやすいという。このこ点で,すなわち創造の奇跡を損なうことはない,
デカルトのような宇宙生成論の方が分かりやすい,という理由で,仮想、の世界
の新しい生成について述べて行くのである。実際には,デカルト流の宇宙論が
教会の当時の宇宙論と抵触しそうであるがゆえに,面倒な論争に巻きこまれる
ことを避けるため,新しい世界の想定の工夫を行ったと考えられる。その証拠
に,デカルトはガリレオ裁判のあと『世界論』の公刊を取り止めているのであ
る
。
(
1
4
) 山田弘明著 n方法序説』を読む』世界思想、社, 1
9
9
5年,1n~174 頁参照。
OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
4
6
1
デカルトの人間論
-11-
こうして,天空,星,太陽などと順に無生の物体の生成を叙述したあと,人
間身体の叙述を始める際,神の想定をもう一つ加えている。すなわち,人間身
体と w
外形においても器官の内的構造においても (ATVI,46)~ ,すっかり同じ
人体を神がつくったと想定する。この想定上の人体を『神の手になると想定さ
れる機械~ (
AT XI,1
2
0
)とみなす。かくして,精神を欠いた,人間身体とそっ
くり同じ機械の動くさまを方法序説』等でデカ lレトは叙述する。
②無生の物体から生命体への移行には,デカルトにおいても一種の切れ目
がある。『方法序説』では,動物とくに人間については,知識の不十分さゆえに
T VI,4
5
)
0 w哲学の原
無生の物体のときの様式で叙述できなかったという (A
理』でも,生物論,人間論は解明の不十分さと閑暇の少なさのゆえに書かれな
かった (ATIX-2,309~310)。また人間論』は『世界論』に含まれるはずで
あったが,その聞の 1
6章と 1
7章が欠けている。生物論が書かれてあったのか,
書かれなかったのか,のちの『方法序説』や『哲学の原理』の記述からすると,
後者であった司能性が高い。以上のことから,デカノレトにおいても生命現象に
は単なる物質現象とは違った特性が認められると推測される。デカルトは,化
3
5
)。し
学の原理についてはその生成について,説明を試みている (ATIX-2,2
かし,動物や人間の身体については,物質の運動から必然的に帰結するものと
して記述するに到っていない。そこで,人間身体にそっくりの人体を,神のつ
くったものとして想定せざるを得なかったと考えられる。
③
デカノレトは,さらに神が人体の心臓の中に「光なき火の一種を起こした」
(ATVI,4
6
)と想定する。『人間論』では,心臓の肉が光のない火をもっている
(AT XI,1
2
3
),と述べる。この火は,密閉した乾く前の干草の発する火やぶど
(
1
5
) I方法序説』第 5部 (AT VI,45~46) および『人間論』冒頭 (AT XI,1
2
0
)
。
(
1
6
) メルセンヌ宛手紙 1
6
3
2年 1
1月または 1
2月 (AT1
,2
6
3
)。
(
1
7
) r
世界論』は 1
5Iままでで,クレ lレスリエによると『人間論』には 1
8章と書いてあった
という (ATXI,1
1
9
)。
OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
12ー
香川大学経済論議
4
6
2
う酒を発酵させる火と同じ性質であるという (ATVI,4
6
)。しかし,その火がど
うして起こったのか説明されない。『人間論』では,食物が胃の中で体液によっ
て,さらにそれ自身でも分解して熱を出しうる (ATXI,121)ともいわれるが,
その体液のためには心臓の熱がすでに必要である。「血液がこのようにもう一度
凝縮せられることなしに心臓に入ると,そこにある火を養うのに十分ではない
であろう。 J(A
T XI,1
2
4
)といわれるから,心臓の火を養うには,食物から補給
せられる養分の混じった血液が必要で、あると考えられるが,それだけで十分で
はなくやはり心臓の熱が不可欠なのである。
『人閣の記述』においてデカノレトは,心臓の運動を説明するのにハーヴ、ェイの
筋肉運動説かデカルトの心臓熱説かどちらが適しているか決めるために,三つ
の実験を提唱し (AT XI,2
4
3
),心臓熱説の採用の理由を述べている。しかし,
心臓の熱,すなわち光のない火の原因にまではその理由は及んでいない。デカ
r
心臓において指をもって感じうる熱J (ATVI
,5
0
)を説明なしに血液
ルトは
循環の原理とし,ひいては身体運動の源と想定しているのである。
④
デカノレトでは,当時の解剖学的知識は前提せられ,そのうえで身体の諸
機能が機械論的に説明せられる。『方法序説』では,心臓の運動の説明に入るま
r
肺臓をもっ大きな動物の心臓 J (ATVI,4
7
)を解剖して見せて貰うこと
えに
を奨めている。『人間の記述~ (A
T XI,2
2
8
)でも同様である。『人間論』では,
その他多くの器官について解剖学者に見せて貰うことを奨めている (ATXI,
120~121)。そのうえで,これらの動物の諸器官の運動を説明し,それが想定上
の人体のどの機能に対応するかを述べて行くという (ATXI,1
2
1
)。これらのこ
(
1
8
) 1
6
4
8年頃書かれたと推察されているが,生前には発表されなかった。エリザベット宛手
紙1
6
4
8年 1月 3
1日 (ATV,1
1
2
)参照。
(
19
) デカルトは,ここで「結果のほうを先に見てそれから原因におよぶようにし,多くの特
4
)ことによって,心臓の熱を確定したのであ
殊な実験を用いるようにする J (ATVI,6
る。しかし,その熱がどうして結果してくるか説明できないから,仮定せざるをえなか、っ
。
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2
0
) cfF,A
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OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
4
6
3
デカルトの人間論
-13-
とから,デカルトの貢献は解剖学的な発見をすることではなく,解剖学の知識
をもとに人体の諸器官の機能を,機械論的に説明して行くことにあったといえ
よう。
これらのほかに,血液の性質は実験によって知るという (ATVI,5
0
)。こうし
て,心臓の運動は機械論的必然によって生ずる。この心臓の運動によって,血
液の体内での流れが起こる。デカルトは,ハーヴェイの血液循環説を受け継ぎ,
『方法序説』においてハーヴェイを賞讃しながら,その実験を紹介している。
しかし,そのあとで九つの理由をあげ,血液循環を引き起こす心臓の運動は,
熱を原因として起こることを述べている。前述したように~'人間の記述』では
三つの実験を行って,心臓熱説を採用する理由を述べている (ATXI,2
4
2
~244)。デカルトの心臓熱説によると,冷却した血液が大静脈から右心室へ入る
と,心臓の熱によって膨張し,弁を聞いて肺動脈を通って肺へ拡がり,肺で冷
却されて肺静脈から左心室へ入って,再び熱により膨張して大動脈を経て全身
をめぐる。この説だと心臓の膨張と脈博が対応することになるが,これはもち
ろん誤っている。また,心臓に入るまえの大静脈の血液の温度と心臓から出た
あとの大動脈の血液の温度を比較することができれば,デカルト説の真偽が決
着するはずである。このように,デカルトの観察の不十分さにもよって,血液
循環の原理を見誤り,心臓の火に一貫して固執した。また,肺の機能は空気に
よって血液をもう一度冷却するためと解して,正確な役割を把握するに到らな
かった。熱がどうして生ずるかに関わることで重要であるが,酸素もまだ発見
されていなくて,デカルトが三種類の粒子を想定している当時にあっては,肺
の正確な機能の発見は困難であったであろう。
かくして,デカルトによると人間身体の機能は次のようになる。まず,大き
な動物の解剖に立ち合うことによって,人体の解剖学的知識を得て,心臓の熱
と各器官の配置によって,機械学の規則に従って人体の各部は動くのである。
心臓の熱により血液が膨張することによって,身体全体の動脈を通って血液が
熱と養分を運ぶ。そして,静脈を通って血液は心臓へ流入する。その血液の養
OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
-14-
香川大学経済論叢
4
6
4
分となるのは食物で,それは胃で分解され腸で吸収され血液の中に混入する。
また,血流が全身をめぐるだけの膨張を得るためには,肺で再度冷却される必
要がある。そして,大動脈を出たばかりの血液のうちで,最も活発で力強く微
細な部分は脳の空室に上り,動物精気となって神経管に運ばれ,筋肉を動かし
身体の各部の運動を司るのである。感覚器官においては,神経の髄を通して脳
の空室の内壁に刺激が伝えられる。そこから動物精気が刺激を引き受け松果腺
を動かして精神に感覚が起こるか,刺激が精神に到らないで許そのまま別の神経
管を通って筋肉に伝えられるかするのである。細部にわたってはここでは触れ
えないが,デカルトの記述自身が随分大まかで,説明不十分なところもあり,
現代から見ると間違っているところが多い。しかし,デカルトは全体として,
人間の身体の機能を機械論的に説明しようとしたのであり,その点に意義を認
めなければならない。
ここで,機械学の規則(lesreglesdesmecaniques)について若干説明を加え
よ r。デカ川は方法序説~
(ATVI,叫『人間の記述~ (AT XI,2
7
9
)にこ
の言葉を使っている。それは,文字通り機械などに働いている規則である。デ
カルトのよく出す時計を例にとると,歯車の数やその大きさに力の伝導の規則
が働いている。これらを機械学の規則と呼んだのであろう。デカノレトに到るま
ω
)
では機械学は数学の一分野と見られていたが,デカルトは「自然の規則でもあ
るところの J(ATVI,5
4
)というように,自然学に属するものとした。この機械
学の規則も,デカルトの発見した慣性の法則,衝突の法則に従っているのであ
る。各器官の配置とこのような機械学の規則に従って,人間身体の運動は起こ
るのである。すなわち人間身体の運動は機械論的に生ずる。デカルトは想定上
の人体に機械学の規則を適用するわけであるが,内容を考えると自然に存在す
る人間身体に機械学の規則を適用しているのである。自然物に機械において働
(
21
) <
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>
>は,デカルトにおいて内容的には力学であるが,まえの時代との関連
を考えて機械学と訳す。
(
2
2
) プレンピウス宛書簡 1
6
3
7年 1
0月 3日 (AT,
! 420~421) 参照。 cf 立tienne G
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:
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aMethode,Textee
tCommentaire,J
,Vrin,1
9
6
2,ppれ 415~416
OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
4
6
5
15-
デカルトの人間論
く規則を適用するのは,デカルトが最初であろう。
デカノレトは,人間身体の機能を機械論的に説明して行くにつれて,その発生
から把らえて行かなければならないことに気づいていた。『人間論』においてそ
6
4
8年に執筆された
のことに触れているけれども,詳しくは展開していない。 1
とされる『人間の記述』第二部動物形成論においては,動物の形成ということ
であるが各器官の形成から説明されている。デカルトにおいては,種の形成に
ついては述べられることはなかったけれども,個体の発生そのもの,各器官の
形成そのものに最初から関心をもちつづけ,晩年に到つでもなお考察を進めて
いたのである。
垣間
ι結
デカルトの人間論の特徴については,最初にいくつか列挙したが,おわりに
その影響と意義について述べよう。
第一に,身体論の機械論的叙述にその特色を見出す,すなわちデカルトは身
体の生理学的地平を聞いたといえよう。デカノレト自身身体の生理学的研究を推
奨しさえしているように見える。『人間論』においては,結局人間の精神につい
ては述べず,新しい世界の想像的人聞の身体を機械として述べるにとどまって
いる。ただ,全篇精神と身体の結合は前提されていて,精神が時折顔を出す。
『人間の記述』においても,精神と身体の結合は前提せられているが,生理的
解剖学と機械学の無知が,その
研究の推奨ともとれる箇所がある。たとえば r
こと(精神が身体のすべての運動の原理であると信じること)に大いに預って
仰)
いる J (
A
T XI,2
2
4
)という。デカルト直後でも,レヴィスによると,レギウス
などは経験主義に傾いて,精神と身体の溝を減ずるに到った。 1
8世紀には経験
主義や唯物論の出現を見るのである。
次に,デカルトの心身結合を,真の原因は神だとする機会原因論によって解
釈する人たちが続いたが,デカルト自身のうちにもそのきざしは見られる。『人
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3
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4
OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
-16ー
間論』において
香川大学経済論叢
4
6
6
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精神に する機会を与える J (
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me)と
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いう表現が何回も出てくる。『情念論』でも「さまざまな運動の機会に J (
l
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nd
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r
smouvements)(ATXI,3
5
4
)といわれる。感覚において,
身体によって伝えられる対象からの刺激を,精神が受け容れるときよくいわれ
る。また,デカノレトにおいても心身結合は神の力による。デカルトにも機会原
因論者たちのように解釈される要素はあったのである。ただ,デカノレトはどこ
までも二元論にとどまる。
デカルトは,人間における精神と身体の結合とそれらの相互作用を主張した。
精神を形相とし身体を質料とするスコラ哲学の考えを呼び戻したともいえる
が,デカルトでは,形相,質料の考えはない。他方,デカノレトは精神と物体を
異なる実体と考えた。この立場で身体に依存しない純粋思惟が可能となり,他
方で身体の機械論的考察が可能となる。この立場は認識主体を立て,同時に物
質的事物を究明する近代科学を推進する立場であり,また精神の永生を主張す
る点では教会の主張に沿っている。古代ギリシャのプラトンとアリストテレス
の対立を,一身のうちに引き受けた感もある。デカルトでは
にとどまることはなく
r
私」は純粋思惟
r
私が自分の身体に,水夫が舟に乗っているようなぐあ
X-l,6
4
),精神と身体は密接に
いに,ただ、宿っているだけなのではなく AATI
結合しているのである。デカルトは,この結合は日常生活と日常の談話を通じ
て,しかも思索や想像力を必要とする事物の勉強を差し控えることによって,
TI
I
I,6
9
2
)。デカルトにおいては,日常生活と人
はじめて理解できるという (A
との交わりの中で心身結合は理解される。物体の延長のもとに事物を把らえる
科学的認識は,心身を異なる実体とするこ元論の立場で可能となる。この立場
でのみ物体の運動の因果的解明が可能となる,とデカルトは考える。心身結合
と心身分離のどちらを優位におくか,すなわち精神と物体(身体)は,心身結
合の抽象であるか,逆に心身結合は理解の低い段階であり,やがて心身分離の
正しい認識に到るのか,デカノレトは答えない。むしろ両者を並置している。精
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1
OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
4
6
7
デカルトの人間論
17-
神と物体は異なるこ実体とデカノレトは明言しているが,それに劣らず心身結合
ω
も実体的とデカノレトは見ている。またレヴィスも指摘しているよう
2
,心身結
合はデカノレトにおいて第一義的に体験されたことであるが,精神と物体(身体)
の二元性は証明を必要とする事柄であった。精神と物質の区別を立てるという
ことは,デカルトにとって近代科学の一歩を進めることであり,また物質的な
世界の中に主体的人聞の世界を切り拓くことであった。デカルトの人間論の功
績は,身体の生理的究明を押し進めながら,生命機能を物質運動で解明できる
としたことであるが,意識は別で,物質の外に精神実体を必要とした。これは
人間の主体性の確保,自由な精神の確保に連なる。デカルトご元論の意義もこ
こに認めることができょう。また,心身結合は神によるとしたところに,デカ
ルトにおいては,人聞による身体の制御に自制を促すことを可能としているの
である。
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