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十日町・中魚沼地区大会 最優秀賞・優秀賞・特別賞(PDF形式

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十日町・中魚沼地区大会 最優秀賞・優秀賞・特別賞(PDF形式
平成 26 年度新潟県少年の主張大会~わたしの主張~十日町・中魚沼地区大会
【最優秀賞】
「優しさのある世界」
十日町市立中条中学校
3 年 髙田
愛
「キモい」
、
「消えろよ」、
「死ね」傷つく言葉が、文字となって送られてくる。日が経つにつれ
て、言葉の醜さも、送られてくる数も増していく。辛いのに誰にも伝えることができない。心は
どんどんむしばまれていく。そんな恐怖を感じながら生きている人が、この世の中には何人もい
る。
ニュースには、
「ネットいじめで自殺」という一文が、大きく映し出されていた。私は、こんなに
も人を傷つける伝え方があるのかと、悲しくなった。
「自殺」という文字で、その耐え難い苦しみ
を思い知らされた。
自分が嫌だと思った人を、自分の世界からはずそうとする。差別だ。自分が少し否定されただ
けで、その相手を嫌い、人の思いを分かろうとしない。そんな態度に私は反対だ。なぜなら、考
え方は人それぞれだからだ。互いの意見について話し合っていく中で、相手の思いを理解するこ
とができるのだと思う。
しかし、最近では、SNSの広がりで、会話よりも文字で気持ちを伝えることの方が、簡単にな
ってきている。そこで起こる小さな気持ちのずれから始まるのが、ネットでのグループいじめだ。
相手の表情や口調が分からないから、きつい言葉でも軽い気持ちで送ってしまう。また、受け取
る方は、送られてきた文字に対して、次々と想像してしまい、不安や恐怖を抱いてしまう。つま
り、直接会話をしないがために、気持ちが誤解されやすくなり、伝わりにくくなってしまうのだ。
学校生活で起こるいじめや差別も、気持ちのすれ違いや違和感から生まれている。自分の思っ
たことを、本人に言うことができない。しかし、その言えなかった気持ちを、押し込めておくこ
ともできず、つい誰かに言ってしまう。それは後に悪口となってささやかれ、その人の人格を勝
手に決めつける先入観となってしまう。周囲からの無言の視線は、次第に恐怖へと変わり、たっ
た一言を言うだけの小さな一歩が、踏み出せなくなってしまう。だから、いじめや差別が起き、
ダメだと分かっていながら、そう言えなくなる悪循環が生まれるのだ。
私は、バレー部でキャプテンになった。地区大会前、私たち三年生は、大きなけんかをした。
気合いを入れるために、髪の毛を短く切るか、切らないかで、もめたのだ。私はどちらの言い分
もよく分かったが、
「ベンチにいる人がこんなに頑張っているのに、スタートメンバーは頑張らな
いんだ。
」この一言には、反感を覚えた。
「頑張ってない人なんていない…。
」私は言葉が出ない代
わりに、涙ばかりがあふれた。
「みんな自分勝手だよ!」叫んでしまった。うまく思いを伝えられ
ないもどかしさと悲しさで、私は泣きながら家に帰った。しかし、その日の夜、練習に行くと、
「愛が来てくれた」と、仲間たちが寄ってきてくれたのだ。私は、怖がらずに思いをぶつけ合う
ことで、相手の気持ちを理解できると知った。それぞれの意見は違っても、同じ方向へ向かって
進もうとする信頼関係があったからできたのだ。分かり合えるまで逃げずに向き合ってきて、本
当によかったと感じた。
私は、自分とは違うと思った人を、自分の世界からはずそうとするのではなく、正面から関わ
り合おうとする「優しい世界」をつくっていきたい。共に支え合っていける「優しい世界」を。
私の発する一言が、誰かの力になるのなら。「声に出すことは恥ずかしいことじゃないんだよ。」、
というメッセージになるのなら。そんな気持ちで、私は朝のあいさつ運動を続けている。
「おはよ
うございます。
」
、
「今日も一日頑張りましょう。
」誰よりも大きな声で。思いを込めて。
みなさんは、相手を思って話していますか。目の前の仲間としっかり向き合っていますか。そこ
に「優しい世界」がありますか。
平成 26 年度新潟県少年の主張大会~わたしの主張~十日町・中魚沼地区大会
【優秀賞】
「時間をかけて考えたいこと」
十日町市立松之山中学校
3年 小野塚 史人
「ただいま」
「お帰り、ちょっと手伝って」
僕は、鞄を下ろし、着替えを済ますと、いつものように厨房に向かいます。そこにはたくさん
の器が並んでいます。僕と姉は、五、六品の料理をそれぞれの器に盛りつけていきます。宴会の
コース料理です。祖父の運転する送迎バスが着いたようです。にぎやかな声が聞こえてきます。
「いらっしゃいませ」
父母の明るい声がお客様を迎えます。
そう、僕の家は、松之山で居酒屋を営んでいます。そして、将来は僕が継ごうと心に決めてい
た店でした。
今の僕には大きな悩みがあります。中三のこの時期になって、僕は高校卒業後の進路を、どう
すればよいかが分からなくなってしまったのです。
三年生になるまでは、父の跡を継ぐために、調理師専門学校に進もうと当たり前に考えていま
した。店を訪れる地域の方の笑顔に触れ、父の仕事にあこがれていました。また、朝早くから夜
遅くまで働き通しの父や母の少しでも役に立ちたいという思いもありました。
しかし、三年生になった今、僕は料理とはまったく関係ない仕事に就きたいと考えるようにな
りました。それはコンピュータプログラマー、ゲームプログラマーです。
きっかけは、あるコンピュータ専門学校のテレビCMでした。オープンキャンパス開催のお知
らせで、各コースが紹介されていました。僕の目をひいたのがゲームクリエーター科でした。そ
のとき、僕は初めてゲームを作ることを学べる学校があることを知りました。ゲームをする側で
なく作成する側になりたいと心に強く思った瞬間でした。
この仕事に就くということは、松之山の人たちに愛され、家族で切り盛りしてきた店を継がな
いということです。そればかりか、ゲームプログラマーとなれば、松之山を離れることとなると
思います。多くの人がそうであるように、松之山を故郷と呼ぶようになるのでしょう。父も母も、
口には出しませんが、僕が店を継ぐことを期待していると思います。今と同様、家族で協力して
店を切り盛りしていければと考えていることでしょう。僕の進路選択は、僕にとっても、家族に
とっても大きな決断なのです。
僕とこのまったく異なる二つの仕事を結びつけたものは何だったのでしょうか。この二つの職
業は、自分のアイディアを形にしてお客様に提供するという点では似ています。しかし、そのお
客様がどこにいるかとなると、違ってきます。料理人であれば、お客様はすぐ側にいます。我が
家であれば、カウンターの向こう側に、こあがりに、すぐ近くにいらっしゃいます。料理を囲む
お客様の笑顔や言葉を直に見たり聞いたり出来ます。その笑顔や言葉が、父母のこの仕事の原動
力であり、僕がこの仕事を志した大切な理由です。今、僕は、少しだけ大きな夢を抱くようにな
ったのかもしれません。目の前にいるお客さんだけでなく、遠く離れたところにいる子どもたち
を夢中にさせるゲームを創りたくなったのです。しかし、変わらないのは仕事の向こう側にお客
様の笑顔があるということです。
今の僕にとって、どちらの進路を歩むか、選択するのは難しいことです。一人で考えることが
難しければ、家族と一緒に考えてみたいと思います。いままでは、自分の将来、家族のこれから
について話し合うことがありませんでした。だからこそ、自分の気持ちを正直に伝えたいと思い
ます、そして、父と母の思いを受け止めることから始めたいと思います。
それでも最後には、この僕が決めたいと思います、そのために、今は、たくさんの時間をかけ
て、自分と向き合いたい、家族と向き合いたい、そして、真剣に悩んでみたいと思います。
でも、忘れてはならないことが一つだけあります。それは、どちらの職業を選ぶにしても、僕
が働く理由は、父母と同じ、お客様の笑顔にあるということです。
今、このことだけを道しるべに歩んでいきたいと思います。
平成 26 年度新潟県少年の主張大会~わたしの主張~十日町・中魚沼地区大会
【優秀賞】
「人の心の中にあるバリア」
十日町市立水沢中学校
3年 瀧沢
美咲
私の父は、今年で車イス生活十二年目になります。私が幼い頃に事故に遭い、生活が大きく変
わりました。父と一緒にいることで、私はそれまでには見えなかったものが見えてきました。世
の中にあふれるたくさんの障害物です。
少しの段差も坂道も、車イスには大きな壁となります。店内の商品が障害物となります。多く
の人も動く障害物となり、自由に動くことができません。
そのような、障害をもつ人たちの生活上の困難を解消しようとする考えが「バリアフリー」と
いうものです。点字や字幕、アナウンスなどが普及してきました。また、学校でも「雑音が気に
ならないように」という理由から、机とイスの脚にテニスボールが取り付けられています。玄関
にはスロープが作られ、トイレのドアは横引きにリフォームされました。
このように、
「バリアフリー」という考えのもとで、設備などに工夫が施され、障害となるもの
が目に見えて解消されてきています。
しかし、目に見えない障害はまだまだ根深く存在しています。
皆さんは、スーパーなどの車イスマークの駐車スペースに、駐車をしたことはありませんか。
入り口に近いところに設置されている車イスの駐車スペースは、一般の人が「つい」使ってしま
うことがあります。
車イスの駐車スペースが無くなったとき、車イスの人が採れる選択肢は二つです。
一つ目の選択肢は、車から降りられないので、車内で待機することです。家族で買い物に出掛
けても、父は一緒に買い物ができなくなり、私たちの帰りを待つことになります。
二つ目の選択肢は、一般の駐車スペースを二つ使うことです。車イスは皆さんと同じように車
の脇から出入りするのですが、車イスの分だけ広いスペースを必要とします。しかし、隣に空き
スペースを作って降りても戻った時にはふさがっているという時もあります。隣に駐車した人は
事情を知るはずもないのですが、とても悲しい気持ちになります。
このように、誰かの「つい」という心も、誰かの行動を制限する障害となってしまいます。こ
の「つい」を無くすことがバリアフリーにつながるのではないかと考えます。
また、もう一つバリアフリーのヒントを得られるようなことがありました。
今から六年くらい前、家族で東京タワーに出掛けたときのことでした。東京タワーでは高さ一
五〇メートルの大展望台までエレベーターで一気に上がることができます。大展望台でも東京の
風景を充分楽しむことができます。しかし、その上に続くエレベーターがありさらに一〇〇メー
トル上の特別展望台に上がることができます。
しかし、このエレベーターで驚く出来事がありました。だんだんと細くなる東京タワーの構造
上、特別展望台へと続くエレベーターには車イスは乗ることができません。しかも、そのエレベ
ーターまでは二十段ほどの階段があり、歩いて上る必要もあります。しかし父は立つことができ
ないので車イスから降りられません。階段で上るなどとうてい不可能です。母と妹、そして私。
家族の力ではどうにもできません。
そんな時、私たちを助けて下さったのが外国人の家族でした。彼らは車イスの父を持って二十
段ほどの階段を上ってくれたのです。そして上に上がってみたいという私たちの願いを叶えてく
れたとともに、本来は見ることのできない景色を父に見させてくれました。
あの時の驚きは今でも強く心に残っています。また、この時私は幼いながらも、外国人の障害
に対する意識と日本人の意識の違いを痛感しました。
あの時に、脇を通り過ぎていった人たちを恨む気持ちはありません。上に上がることができな
いのに、上がりたいと願う気持ちはある意味エゴともいえるかもしれません。それに、もしも反
対の立ち場で自分が通り過ぎていった人たちであったら、同じ行動をとっていたかもしれません。
ただ、外国人は心のバリアを下ろし、父に歩み寄り助けてくれたあのさりげなさは、まだ日本人
には浸透していないように思います。
様々な人がいる社会が成り立つためには、お互いが支え合い、個々ができる範囲で困っている
人を助けてあげることが必要です。
弱者に優しい社会は健常者にとっても優しい社会であるはずです。また、私たちの不自由のな
い生活は突然変わり、弱者の側に立たされるかもしれません。ずっと続くという保証はどこにも
ありません。よりよい社会づくりのためにも、近くで障害のある人を見かけたら、心のバリアを
少しおろしてみませんか。多くの人のバリアが少しずつなくなれば、大きなバリアはなくなるは
ずです。
平成 26 年度新潟県少年の主張大会~わたしの主張~十日町・中魚沼地区大会
【特別賞】
「てのひら」
十日町市立吉田中学校 3年
中嶋 翔
僕の家にはおじいちゃんがいません。僕が生まれる前に亡くなってしまいました。そんな中で、
今年七十二歳を迎えるばあちゃんが家事や畑仕事を一人でやっています。
皆さんは自分のおじいちゃん、おばあちゃんを大切にしていますか?
中学校に入ってから、僕はそんな働き者のばあちゃんが嫌いになりました。いつも口うるさい
し、しつこく話しかけてくるところがあるからです。ばあちゃんがしゃべり出すと止まりません。
いつも十分間はしゃべり続けるのです。しかも、しゃべっていることは、いつもどうでもいい内
容ばかりで、余計苛立ってしまいます。
そんな毎日の中、僕はばあちゃんのひと言に考えさせられました。ある日の夕食、僕がご飯を
食べ終わり、おかわりを頼んでいたときのことです。
「おまえの手はきれいだね。働いていない人の手だ。」
ばあちゃんが僕にそう言ったのです。そのときは、どうしてそんなことを言うのだろうと、正
直むっとしてしまいました。僕だって三年間、野球部の練習に打ち込んできた身です。家で仕事
をしているだけのばあちゃんに言われたくはありませんでした。
しかし、自分の手のひらとばあちゃんの手のひらとを見比べてみると、そんな思いはすぐに消
えました。それほどばあちゃんの手は汚く見えたからです。爪には泥が入り、とてもしわくちゃ
で、肌もざらざらしていました。その手を見ただけで、ばあちゃんが一生懸命働いて生きてきた
ことが分かる、そんな大きな手のひらでした。ばあちゃんの手を見ると、僕の手は本当に小さく
頼りなく見えてきて、
とても恥ずかしい気持ちになりました。
そして、ばあちゃんから聞いた話を思い出しました。僕のばあちゃんは高校には通っていませ
ん。でも、決して勉強をしたくなかったわけではなく、働かなければならなかったのです。戦後、
日本は不況の渦の中にあったそうです。そんな中で、ばあちゃんは高校には進学せず、家族のた
めに若いうちから働いていたのです。
「自分のためではなく、人のために」と、何度も言い聞かさ
れて育ったそうです。
今を生きている僕らとは違い、ばあちゃんが、そして日本中のお年寄りの皆さんが生きてきた
のはとても厳しい時代だったのでしょう。そうした人たちが諦めずに困難を乗り越えてきたから
こそ、今の平和な世の中があるのです。そんな象徴となるものがばあちゃんの苦労がにじみ出た、
大きな手です。
それなのに、僕は、ばあちゃんが話しかけてくれても素っ気ない態度を取ったり、生返事を繰
り返したりしてしまいます。そんな態度をとっている自分は、まだまだ子どもでした。むしろ感
謝の気持ちを表すべきだと、悪口なんて決して言ってはいけないのだと、ばあちゃんの手のひら
を見て、改めて考えさせられたのです。
皆さんはどうでしょうか。自分のおじいちゃんやおばあちゃんを大切にしているでしょうか。
僕のように、自分の家のおじいちゃんやおばあちゃんに対して悪口を言ったり、自分から遠ざけ
たりしている人がいたとしたら、振り返ってみてください。
僕たちがこうやっておいしい食事がとれるのも、今のおじいちゃんおばあちゃんが働いて日本
を支えてきたからです。
僕もこれから、いつも家族のために働いてくれているばあちゃんに感謝の気持ちを伝えていき
ます。そして、ばあちゃんが僕に聞かせてくれた「自分のためではなく、人のために」働けるよ
うな人間になりたいと思います。
それが家族を支えてくれてきたばあちゃんへ、僕ができるただ一つの恩返しだと思います。い
つの日か、ばあちゃんからも認めてもらえるような、大きな手のひらになれるように。
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