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異国の丘シベリア抑留
逢わなければならないのです。 異国の丘シベリア抑留 関東軍の馬の飼料だった皮かぶりのコウリヤン、カチ カチに乾燥したトウモロコシ、どんなに煮ても柔らか くならなかった。しかもほんの一握りの量であった。 それでも何日か日を経過するにつれて体力は回復し てきた。そして燃料運搬、家屋修理と作業を与えられ による戦いに敗れて、無念の涙をのみハルピンにおい 昭和二十年九月二十日、我々はソ連邦の満州国侵入 た。この地域の冬期の平均温度は零下五十度だった。 を着ての伐採、搬出、製材の作業は非常な重労働だっ しかもノルマを与えられるようになった。シューバー 東京都 島﨑武男 てソ連兵に武装を渡した。その後ソ連兵の銃に囲まれ そんな中で伐採、搬出、製材の作業にほとんどの者が た。それは伐採、搬出、製材と次第に重労働となり、 ながら荒野の死の行軍を強いられ、海林より貨車に乗 戦友の中には重い防寒外套を着ての伐採作業に機敏 従 事 さ せ ら れ た 。 そ し て そ れ ぞ れ に﹁ ノ ル マ ﹂ を 課 せ で送られた。ここからさらに北へ白銀の荒野を十五日 に動けず、倒れる大木を避けきれずに下敷きになって せられ、逃亡を恐れるソ連側に日本に帰すと徹頭徹尾 間疲労こんぱいの極の中、同年十二月二日にシベリア 死んだ者もいた。山からの馬力搬出で転落し命を失っ られた。 のテルマに着いた。私はさらにこの奥地のモシカに送 た人もいた。製材所で作業中製材機の上の振動する材 だまされ続け、シベリア鉄道でイズベストコーバヤま られた。苦難の年の暮れ、虜囚の第一日がこれから始 ってしまった人がいた。こんな重労働の中で干からび 木を足で押さえた一瞬に右足首から回転する丸鋸で失 消耗し切った体には極寒の 地の 暖 炉のまきを拾いに たトウモロコシや皮かぶりのコウリヤンでは弱りきっ まる。 行くのがやっとだった。ここで食わされたのはかつて にみな目を光らせた。早く夏がきてくれ草が食える。 くる消化していない麦を、根気よく集めてこれを缶詰 このために極端な栄養失調になった戦友たちは次々 昨日の朝は右隣に寝ていた友が死んだ。今朝は左隣の た胃が受けつけるはずはなく、みんなひどい下痢に苦 と死んでいった。グッタリと疲れてだれもが何とかし 仲間が死んだ。こうして一体私はあと何日生きていら の空き缶で炒って食った。作業の往復は馬糞を捜すの て生きることだけを考えながら眠った。しかし、どう れるだろうか。 しめられた。 しても生きることに希望をなくして自分から命を絶っ それまで氷結していた川の水が一斉に解けて雨水と合 に似た雨がしとしとと毎日降った。そして、この時期、 狂して死んだ。六月末になるとシベリアは日本の梅雨 と、酷寒の戸外へはだしで飛び出した彼はとうとう発 がきているじゃないか、 早く行かないと乗り遅れるぞ﹂ のベット周辺の空気を冷やしてしまうからだ。上段ベ に冷えきった地面の冷気が部屋の床板を凍らせ、下段 で暖められた部屋の空気は天井に上がってしまい、逆 で違った。それは部屋の真ん中でたく大きなペーチカ ところがこの二段ベットは上段と下段では気温がまる ってしまう。 収 容 所 の 寝 台 は 二 段 ベ ッ ト に な っ て い る 。 シベリアの夏は短い、九月半ばには白銀の世界にな 水して道路といわず丘といわず水侵しとなり、昨日ま ットでは暖かく寝られるが、下段では毛布を何枚重ね ていった人もいた。突然夜中に起き上がり﹁ ホ ラ 、 船 での雪原と道路は泥沼と化し、 交通は完全に途絶した。 ても寒くて寝られたものでなかった。 六月の雨季のころと同じように冬は雪のために食糧 これによりシベリア鉄道沿線からトラックで輸送され ていた食糧はバッタリとまって陸の孤島になった。 冬は草もない、木の芽もない。シベリアエゾマツの 輸送が途絶えがちであった。 まう。わずかに生えてくる草は手当たり次第何でも食 大木の幹を食って中で冬を越している紙切虫の幼虫を その間約二十日ほどは食うものは 何もなくなってし った。馬糞を拾って丹念にお湯で洗い流し中から出て とり、これを串にさ し て 焼 い て 食 う の が 何 よ り の ご 馳 走だった。また、この松の幹に張りついている黒いコ ケも食った。人間が生死の境のような環境の中では教 養もなければ体裁もなくなってしまうものだ。生き延 びるためにはどんなことをしてでも食べるものを探さ なければならなかった。 無 題 静岡県 吉田吉治 光陰矢のごとし、戦後早くも四十数年を経たが未だ まだ生きている。しかし遠い祖国の肉親の幸せを祈り くれるなら、年老いた父母に必ず伝えてほしい。私は てくれるんだろう。私は月に祈った。まだ元気でいて を仰ぎながら私は思った。故郷のあの山や川も照らし んでいた。澄んだ空に月が皎々として輝いていた。月 銀の世界になってしまう。冬のシベリアの空はよく澄 市も望見された。後方は完達山脈によって遮られ宝清 え、その向こうにシベリア鉄道が走り、ビギンスカヤ チカ陣地があり、銃眼が夕日に照らされ薄気味悪く見 前はウスリー江で、対岸のソ連の山々には多くのトー 隊に入隊し、その後大代河に移駐したが、饒河のすぐ にハッキリと思い出せる。昭和十八年、宝清の騎兵連 それは人間として生きる最低生活だった。それが未だ に 忘 れ る こ と の で き な い シ ベ リ ア 抑 留 生 活 。 強制労働、 ながら、この地シベリアで無念の涙の中で凍土の土に との連絡もままならぬ辺境の地であった。 シベリアの冬は長く夏は短かった、九月半ばには白 なるだろうと。 それでも毎日毎日の猛訓練に明け暮れていたが、戦 況など知る由もなかった。東安、牡丹江のような鉄道 沿線にいると、兵力の移動を見て感ずる点もあったろ うが、井戸の中のカワズとは我々のことで、まだまだ