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会報 筑紫 第159号
第 159号 紫 筑 筑紫古代文化研究会 第 159号 TEL・ FAX (093)293-42ィ 製 二〇 〇 五 年 十 一月 二十 六 日、 東 北 ア ジ ア文 化 学 会 。国際 学 術 シ ン ポ ジ ュウ ム ︵ 統 一主 題 ﹁ 東 北 ア ジ ア の移 住 民 と 民 俗 文 化し が韓 国 ・ 釜 山 市 の釜 慶 大 学 校 で開 か れ、 昨 年 か ら 韓 国 蔚 山 大 学 で 日本 歴 史 ・ 民 俗 学 の講 義 を し て い る奥 野 正 男 ・本 会 会 長 が 四十 分 の基 調 報 告 を し ま し た。 ウ ル サ ン 大 学 客 員 教 授 由バ ヱJ ロエ 古 代 日本 の移 住 民 と民 俗 文化 A概 要 ∨ 九 州 。四 国 。本 部 ・温帯 の島 嶼 群 ︵ 奄美 ・ 州 ︶、 南 方 ・亜熱 帯 の島 嶼 群 ︵ 琉 球 ・八重 山 ︶ 三者 そ れ ぞ れ 異 な る 列島 中 央 部 の九 州 ・四 国 。本 州 は、 対 馬︱ 壱 岐 ︱ 釜 山 に島 伝 い の海 上 航 路 が 早 く か ら 開 か れ、 紀 元 前 5世 紀 こ ろ に は韓 半 島 南 部 か ら まず 九 州 島 に 稲 作 文 化 が 伝 播 し た。 少 数 の家 族 単 位 で移 住 し、 村 を拡 大 し て い った こと が わ か る弥 生 前 期 の環 濠 集 落 が で は 海 の か な た か ら 耐 を招 く ニラ イ カ ナ イ や 静 女 ・ノ ロ ︵ 巫 女 ︶ のよ う 注 な 独 自 の 民 俗 文 化 を築 い て き た。︵ 3︶ ま た 南 方 の奄 美 ・琉 球 ・八重 山 の 島 嶼 に は、 中 国 王 朝 と 冊 封 関 係 を も って き た 琉 球 王 国 が存 在 し、 4 0 0年 に わ た る東 ア ジ ア の海 上 貿 易 の 拠 点 と し て繁 栄 し てき た。 こ の島 嶼 社 会 を つく り、 狩 猟 ・採 集 を主 な 生 業 と し、 熊 祭 り のよ う な 独 自 の民 俗 注ι 文 化 を築 い て い た。︵ 男 民 俗 文 化 が 形 成 さ れ た。 今 日、 北 海 道 ま で稲 作 が 普 及 し て い る が、 そ れ は 過 去 1 0 0年 余 り の 間 に 起 き た 農 業 上 の変 化 に す ぎ な 9 世 紀 末 、 明 治 の近 代 国家 が成 いo ︲ 立 す る ま で、 北 海 道 に は 日本 語 と は 別 系 統 の言 葉 を も った ア イ ヌが 部 族 日本 列島 は 北 半 球 ・ア ジ ア大 陸 の 東 端 沿 岸 部 に、 南 北 4 千 キ ロ に わ た って 弧 状 に 展 開 す る 島 嶼 群 で あ る。 こ こに は 人 類 が 旧 石 器 時 代 後 期 ︵ 約 3 万年 前 ︶ か ら 足 跡 を 残 し て き 注1︶ た。︵ そ の民 俗 文 化 は 北 方 ・亜 寒 帯 の島 嶼群 ︵ 千 島 ・樺 太 ・北 海 道 ︶、 中 央 正 男 正 野 奥 4-23%0 福岡 振替 2005ど 千12月 20日 福岡県遠賀郡遠賀町浅木 東和苑 6-4(〒 811-侶 12) 発行先 古代 文 化 研 究 会 会 報 佐 賀 ・福 岡 ・山 口県 な ど の沿 海 部 に 出 現 し 、 中 期 に は本 州 島 中 央 部 ま で 広 が った。弥 生 時 代 の稲 作 文 化 に は、 金 属器 ︵ 鉄 皇日銅 ︶・機 織 り な ど の新 シ ャー マ 技 と と も に、 王 の呪 術 ︵ 術 ニズ ム︶ 用 具 と し て古 韓 鏡 ︵ 多 紐細 文 鏡 ︶ が 九 州 に 伝 播 し た。 3世 紀 初 め 九 州 北 部 の伊 都 国 の南 に都 を 置 いた 倭 の女 王 ・卑 弥 呼 は、 弁 韓 諸 国 と 鉄 の交 易 を す す め、 2 3 8年 ︵ 魏 ・景 初 2年 ︶ に は楽 浪 を経 由 し て魏 都 ・洛 陽 に使 者 を 送 り、 魏 銅 鏡 百枚 穴 後 漢 式 鏡 ︶ が授 朝 から ﹁ 与 さ れ た。 九 州 の弥 生 後 期 の環 濠 集 落 に は、 佐 賀 県 ・吉 野 ヶ里遺 跡 のよ う に 宮 殿 。物 見 櫓 ・土 塁 と 木 柵 ・祖 霊 を 祀 る大 墳 丘 墓 など が発 掘 さ れ ﹁ 宮 室 ・楼 観 ・城 柵 を 厳 重 に 設 け、 常 に人 あ り兵 ︵ 兵 器 ︶ を も って守 衛 す ﹂ と いう 魏 志 の記 述 を 発 発 さ せ る 遺 跡 も あ る。 吉 野 ヶ里 遺 跡 か ら は 貨 泉 ・漢 式 鏡 。青 銅 環 付 き 鉄 製 小 刀 ・ 絹 布 な ど 中 国 系 の遺 物 と と も に 細 型 銅 剣 ・無 文 土 器 を伴 う 青 銅 器 鋳 型 な ど 朝 鮮 系 の遺 物 が 出 土 し て お り、 そ の国際 性 豊 な 化 ら み て 邪 台 か 文 か 馬 注 国 の有 力 候 補 に あ げ ら れ て い る。︵ 4︶ 古 墳 時代後期 ︵ 5∼ 6世紀︶ には 韓 半島 の高 句一 麗 ・百済 。新 羅 三国間 の抗争 に加 え て、隋 ・唐 が侵 略 を続 け、 約 200年 にわ た る征服戦争 が 続 いた。 隋 は文帝 によ る 59 8年 の つ乙 紫 筑 第 159号 高句 一 麗遠 征、 場帝 によ る 61 1∼ 6 14年 の高 句 麗遠 征 をし たが、 高 句 一 麗が良 く t のいで反撃 し、隋 は こ の 遠 征失敗 が原 因 で滅 亡 した。 唐 は太 宗 によ る6 45年 の高 句一 麗遠 征、 高 宗 によ る6 60∼ 66 1、 66 8年 の 二度 にわた る百済 ・高 句一 麗遠 征 に よ って百済 が滅 亡 し た。 唐 軍 は百済 の義慈 王 ・太 子隆 をはじめ 一万 三千 人 の人 民 を 捕 虜 だ し て洛 陽 に 連 れ 去 った。 韓 半島 では新 羅 によ る伽 耶 の征 服 ︵ 5 62年︶、 唐 。 新 羅同盟 軍 によ る 百済 の滅 亡 ︵ 66 3年︶、高 句一 麗 の滅 亡 ︵ 6 68年︶ があ い ついだ た め、 戦 火 を逃 れ た 三国 の住 民 は、 海 を越 え て倭 国 に移 住 し てき た。 古墳 時代後期 に倭 国 で発展 し た鉄 精煉 ・須恵 器生産 。造船 ・騎 馬 ・牧 馬 ・大池溝 や河 川堤防 を築 く土木技 術 ・灌 漑排 水 や乾 田農 法 など の新 し い技 術 は みな 三国 から の移住 民 がも たらし たも のであ った。 また、 文字 や経典 を始 めとす る諸 学 問 ・仏 教 な ど が百済 ・高 句一 麗 ・新 羅 が派遣 し た 博 士 ・僧 侶 の手 によ って普 及 した こ と は、 韓 国 では中 学校教 科書 にも書 かれ ている歴史 認識 であ る。 こ の時代 の移住 民 はす でに故 国 で 仏教 を受容 し て いた ため、 渡来 先 の 根拠 地 に氏族ご とに氏寺 を建 て仏像 シャマ を祀 るとと も に、倭 の民俗 ︵ ニズ ム︶ に かさね て氏族 の祖 先 神 を 2年︶ 神社 に祀 った。 624年 ︵ 推古 3 6 ケ所、 僧 81 当時、 各地 の氏寺 が 4 6人、尼 569人と記録 さ れ て いる。 ︵ 注5︶ 九 州 の豊 前 ︵ ぶぜ ん︶ に移住 し た 新 羅 ・伽 耶系 の秦 氏 は、 各地 に氏寺 を つく りい 部族 の神 ︵ やはた神︶ を 宇 佐 八幡宮 に祀 り、 一大宗教 王 国 を 注Q 作 り上げ た。︵ 大 の武 市 郡 ︵ たけ ぐ ん︶ にあ 和 ち むさ︶。桧 隈 ︵ ひ のく ま︶・ る身 狭 ︵ 飛鳥 ︵ あす か︶ の地 は、 藤 原京 の南 にあ り、欽 明 天皇陵 曾 一 瀬 丸 山古 墳Y 天武 。持統 天皇陵 ・文武 天皇陵 ・高 松 塚古 墳 ・飛鳥寺 ・桃 原墓 ︵ 蘇我馬 子墓 ・石舞 台古 墳︶ など 6∼ 7世紀 の豪族 墓 や飛鳥時代 の天皇陵 が集 中 す る大 和朝 廷 の起 源 をし めす聖 地 で あ るが、 それ よ り前 に こ の桧 隈 は、 新 し い移住 民 ︵ 今来 の民︶ であ る百 済 ・伽 耶系 の東 漢 ︵ やまと のあ や︶ 阿 知使 主 ︵ 氏 の先祖 ・ あち のおう み︶ が十 七 県 の移 住 民 を 引 き 連 れ て 入 植 。開拓 し た土地 であ った。 こ の桧 隈 の里 には東漢 氏 の氏寺 ・桧 隈寺 が あ り、 そ こにあ る於 美阿志 ︵ お みあ し︶ 神社 に は東漢 氏 の先祖 ・阿知使 主 が祀ら れ て いる。 こ の東漢 氏 と同 族 の桧 前忌 寸 ︵ ひ のくま のいみき︶ から出 た征夷大 将 軍 ・坂 上 田村麻 呂 の父 上刈 田麻 呂 ﹁ 。 坂 上表 文笑注こ には、﹁ お よ そ高 市 郡内 は桧 前 忌 寸及 び 十 七 の県 の人夫 地 に満 ち て居す。 ︶ 他 姓 の者 は十 に し て 一、 二な り﹂ と 書 か れ て い る。 作 家 の金 達 寿 氏 は こ の こと に つい て ﹁ 当 時 の いわ ゆ る大 和 朝 廷 、 す な わ ち 古 代 日本 の首 都 で あ った と こ ろ の飛 鳥 を 中 心 と し た高 市 郡 の総 人 口 の八、 九 割 ま で が、 桧 前 忌 寸 であ った 漢 氏 と そ の彼 ら が 引 き つれ て き た 人 夫 ︵ 人 民︶ と で し め ら れ て い た の です ﹂ と 書 い て い る。 ︵ 注8︶ こ のよ う な桧 隈 と いう 土 地 に成 立 し た大 和 朝 廷 と は い った い何 者 な の で あ ろ う か。 そ れ は と も か く 、 こう し た 移 住 民 に か んす る歴 史 認 識 に従 う な らば 、 列島 中 央 部 の九 州 ・四 国 ・ 本 州 に伝 播 し た 稲 作 文 化 か ら 飛 鳥 仏 教 の導 入 ま で の約 千 年 は、 韓 半 島 か ら 渡 来 し た 移 住 民 の民 俗 文 化 と 規 定 す る こと が で き る の で は な いだ ろ う か。 日本 歴 史 学 界 は古 代 国 家 の成 立 に 大 き な 役 割 を 果 た し た 蘇 我 氏 の出 自 に つい て、 戦 前 いら い神 話 に登 場 す る武 内 宿 禰 の子 孫 と す る 説 を 唱 え て 0年 代 に、 百 済 か ら 渡 来 し た き た。 8 木羅 ︵ 木 ︶ 満 致 と蘇 我 氏 の始 祖 ・蘇 我 満 智 は 同 一人 物 で、 蘇 我 氏 を 百 済 系 渡 来 氏 族 と す る門 脇 禎 二氏 ︵ 当時 京 都 府 立 大 学 教 授 、 のち 同 大 学 長 ︶ の説 が 発 表 さ れ、 現 在 は これ を支 持 注8 す る学 者 が 増 え て い る。︵ 曽 我 氏 は宣 化 ∼ 欽 明 朝 に大 臣 ︵ お お お み︶ に な った稲 目 ︵ いな め ¨蘇 ︶ 我 馬 子 の父 ︶ の代 か ら 桧 隈 を 本 拠 に し た 東 漢 氏 、 山 城 を本 拠 と し た 秦 氏 な ど 渡 来 氏 族 と 協 力 し て仏 教 の導 入 と 古 代 国家 の建 設 に大 き な 足 跡 を残 し た。 蘇 我 馬 子 は 大 和 で最 初 の氏 寺 を自 宅 に造 り、 旧 守 派 の物 部 ︵ もの 0年 か け の べ︶ 氏 を武 力 で滅 ぼ し、 2 て 飛 鳥 寺 と 飛 鳥 大 仏 を造 った。 曽 我 氏 か ら 出 た聖 徳 太 子 は 、 推 古 天 皇 の 摂 政 と し て、 始 め て隋 に 国 使 を お く り、 高 句 一 麗僧 ・ 慧 慈 ら の教 え を 受 け 、 法 隆 寺 を 造 り 、 飛鳥 仏 教 を 完 成 さ せ た。 蘇 我 氏 と 飛 鳥 仏 教 は 日本 の移 住 民 と 民 の 俗 文 化 研 究 最大 の課題 であ り、 以 下 の本 論 ﹁ 6∼ 7世 紀 の百済 系 移 住 民 と 仏 教 文 化﹂ で私 見 を述 べ る。 注 ︵ 注 1︶奥 野 正 男 ﹃ 神 々 の汚 れ た 手 ﹄ ︵ 2 0 0 4年 梓 書 院 2 刷 ︶ 2 0 0 0年 に、 日 本 列 島 の人 類史 を 0 7 万 年 前 ま で遡 ら せ よ う と す る捏 造 事 件 が起 き た。 日本 考 古 学 協 会 が そ の捏 造 遺 跡 を十 数 年 の 年 次 総 会 で 認 知 し つづ け、 国史 跡 に指 定 し 、 教 科 書 に も 書 く と いう 国 。文 化 庁 。大 学 ・ 考 古 学 界 が 関 わ った構 造 的 な 事 件 であ った。 仙 台 地 検 に考 古 学 関 係 者 を告 発 し た が却 下 さ れ 第 159号 紫 つ0 筑 た。 史 跡 指 定 を し た 文 化 庁 や ニ セ の石 器 で 研 究 論 文 を書 い て学 界 を指 導 し た 東 京 大 学 。東 北 大 学 な ど の似 非 学 者 は、 今 も 前 期 旧 石 器 の存 在 を 主 張 し て い る。 し か し 日本 列 島 で は、 関 東 地 方 の深 部 地 層 の発 掘 で も 後 期 旧 石 器 時 代 の遺 跡 し か 出 土 し な い。 ︵ 注 2︶ ア イ ヌ語 は 日本 語 と 異 な る 北 方 系 の言 葉 と さ れ て い る。 ア 千島 ・ 樺太 ・ イ ヌは 元 来 、北 海 道 ・ ロシ ア領 沿 岸 海 州 に 居 住 し て い 9世 紀 末 に 強 制 移 住 さ せ た が、 ・ ら れ た。 北 海 道 ア イ ヌは、 松 前 藩 の漁 場 支 配 と 明 治 政 府 の 日本 人 同 化 政 策 、 戦 後 の国 土 開 発 政 策 で居 住 地 を奪 わ れ、 人 口が激 減 し、 絶 減 の危 機 に さ ら さ れ て い る。 ︵ 注 3︶ 沖 縄 の言 葉 は 日本 語 の 一方 言 と さ れ て い る。 琉 球 の王 国 は 、 7 ・世 紀 ま で約 4 6 0年 間 東 ア ジ ア の海 上 貿 易 の拠 点 と し て繁 栄 し 、 尚 王 国 が中 国 の清 国 と 冊 7世 紀 封 関 係 を も って き た が、 1 初 め薩 摩 藩 が奄 美 大 島 を 侵 略 、 つい で 1 8 7 5年 に 明 治 政 府 が 軍 事 力 で 王 国 を廃 止 ︵ 琉 球 処 分︶ し 、 全 国 の廃 藩 置 県 に あ わ せ て 沖 縄 県 と し た。 明 治 政 府 は、 沖 縄 方 言 の使 用 を禁 止 す る な ど 日 本 化 政 策 を す す め た。 隆 起 珊 瑚 礁 の土 地 で水 田 が 出 来 な い沖 縄 古 代 の旅 ⑥ 縄文 人 は北 は北海 道 から南 は九 州 ・沖 縄 に 至 る ま で、 は た ま た 朝 鮮 半 島 へもダ イ ナ ミ ック に海 を 乗 り越 え て旅 を 続 け て き ま し た。 航 海 術 に た け た 人 々が丸 太 舟 を 操 り、 活 発 に 交 易 交 流 を 繰 り 広 げ 、 日本 文 化 の基 層 を 築 き 上 げ て き た こと が 次 第 に解 明 さ れ て き て、 縄 文 時 代 の交 易 交 流 彦 活 へ帰 ってき た も の です が、 現 代 人 は流 動 的 な社 会 、 変 化 の激 し い時 代 に疲 れ 果 て、 癒 し の旅 、 現 実 か ら の 逃 避 の旅 、 快 楽 の旅 を求 め、 旅 が 現 か と いう と、 時 間 は ま った く 止 ま っ た ま ま で変 らず 、 本 当 は 最 も重 要 な 要 素 であ る べき な のに、 古 代 人 と 同 じ よ う に見 て歩 き 回 って い る の で は な い で し ょう か。 あ る い は旅 は変 容 し、 古 代 人 は 旅 を 受 苦 、 時 に は苦 行 と み な し、 精 神 的 に成 長 し て 日常 生 す。 現 代 社 会 は 旅 人 社 会 と 言 っても よ いほ ど 爆 発 的 に 旅 行 は 発 展 し、 地 球 ︲ 世 紀 に は観 光 的 規 模 で開 発 さ れ、 2 旅 行 業 は 世 界 貿 易 の中 でも 最 も 重 要 な 部 門 と み な さ れ、 ま さ に 大 衆 観 光 旅 行 時 代 到 来 で は あ り ます が、 目 的 地 ま で の交 通 手 段 は 飛 躍 的 な 変 化 を とげ 、 楽 な 旅 を 楽 し む こと が 出 来 る よ う に な った か も し れ ま せ ん が、 旅 行 者 が 目 的 地 に着 い て か ら 何 を す る 名 に な って いま す 。 ま た エジプ ト や ギ リ シ ャ、 ロー マ時 代 の旅 に つい て も 研 究 発 表 さ れ 、 紀 元 前 か ら の古 代 の旅 の様 子 が 大 変 興 味 深 い も の で 古 の旅 、 英 雄 的 な 旅 の記 録 と し て有 ││ り 本 島 で は、 砂 糖 黍 の単 作 で貧 困 化 し た 多 数 の農 民 が ハ ワイ に 移 住 し た。 ︵ 注 4ξ 魏 志 東 夷 伝 ﹄、七 田忠 昭 軍口 野 ヶ里遺 跡︱ 復 元 さ れ た 弥 生 大 集 落︱ ﹄ 同 成 社 2 0 0 5年 ︵ 注 5ゝ 日本 書 紀 ﹄ 注 6︶ 大 和 岩 雄 ﹃日本 に あ った 朝 ︵ 6刷 鮮 王 国﹄ 白 水 社 2 0 0 2年 2 ︵ 注 7ξ 続 日本 紀 L 坂 上 刈 田麻 呂 上 表 文﹂ 古 代 朝 鮮 と 日本 文 ︵ 注 8︶ 金 達 寿 ﹃ 化︱ 神 々 のふ る さ と︱ ﹄ 講 談 社 6刷 学 術 文 庫 2 0 0 4年 2 ︵ 注 9︶李 進 熙 ﹃日本 文 化斗 朝 鮮 ﹄ 乙酉 文 化 社 1 9 8 8年 4刷 芍〓 ︵ 概 要完 ︶ に 関 す る 研 究 発 表 が、 こ こ数 年 数 多 く み ら れ る よ う にな って き ま し た。 筑 紫 古 代 文 化 研 究 会 の会 報 誌 に、 既 に こ こ数 年 に 渡 り ﹁ 古 代 の旅 ﹂ に つ い て研 究 発 表 し てき ま し た が、 交 易 交 流 は そ の当 時 の ﹁ 旅 ﹂ と 深 い関 係 に あ った こと は 自 明 の こと な のに、 古 代 の旅 に 関 す る言 及 が 少 な い こと は 大 変 に 残 念 に 思 ってお り ま す 。 日本 に お い て は、 古 事 記 、 日本 書 紀 以前 の文 献 は 木 簡 等 少 な く 、 縄 文 時 代 の学 術 的 な 研 究 は 考 古 学 的 な 遺 跡 や遺 物 を資 料 に た よ わ ざ る を え ま せ ん が、 西 洋 に お い て は メ ソポ タ ミ ア に お け る考 古 学 的 発 掘 に よ り、﹁ ギ ルガ メ ッシ ュ叙 事 詩 ﹂ が解 明 さ れ 、 こ こに紀 元 前 2 5 0 0年 頃 のウ ル ク の王 ギ ル ガ メ ッシ ュのレ バ ノ ン ヘの 旅 を 記 録 さ れ て お り、 これ が 世 界 最 古 代 人 に と って は新 し い経 験 と な って い る こと は 明 ら か で、﹁ 古 代 の旅 ﹂ を 研 究 す る こと 以 上 に ﹁ 現 代 の旅 ﹂を、 あ る いは ﹁ 次 の時 代 に向 って の旅 ﹂ を 研 究 す る こと の方 が重 要 で は な い か と、 こ の頃 痛 感 し て いま す 。 今 ま で縄 文 時 代 の ﹁ 古 代 の旅 ﹂ を 旅 の原 点 とず っと検 討 し 続 け て、 今 後 は 弥 生 時 代 の稲 作 の伝 来 と 旅 、 ア ジ ア諸 国 と つな が る旅 な ど 重 要 な 旅 の研 究 を 目標 に し て き ま し た が、 今 と に な る の です 。 第 三 に は 旅 を す る こと で 人 は 鍛 え ら れ ま す 。 古 代 の旅 に お け る苦 し み や辛 さ、 異 境 で の言 葉 や文 化 習 慣 の 違 え か ら も た ら さ れ る違 和 感 や摩 擦 な ど に耐 え る こと、 さ まざ ま な 苦 難 を克 服 す る こと に よ り 人 は鍛 え ら れ す る かぎ り、 富 や名 声 、 地 位 な ど を 得 る た め の旅 で は な く、 真 の知 を求 め る旅 であ り、 自 己 自 身 へ向 け て の 旅 だ った の で は な い で し ょう か。 随 想 録 ﹂ の中 で モ ン テー ニ ュは ﹁ ﹁ 子 供 の教 育 に つい て﹂ と いう 章 に お い て、 書 物 だ け が頼 り の能 力 で は 人 間 が偏 り ﹁ 人 々 と の 交 流﹂ 特 に ﹁ 外 国 への旅 を勧 め て いま す 。 外 ﹂ 国 への旅 に よ り ﹁ そ れ ら 諸 国 民 の気 質 や 風 習 を 調 べ、 わ れ わ れ の脳 髄 を 他 の国 民 の そ れ と こす り 合 わ せ磨 き あげ るた め で あ る﹂ と 言 って お り ま す 。 そ し て狭 い書 物 の世 界 か ら 抜 け 出 し て、 生 き た こ の世 の現 実 の世 界 そ のも の の中 で学 ぶ こと を 訴 え て い ます 。 各 国 の文 化 の多 様 性 を 知 り、 自 己 お よび 自 国 を 相 対 的 に 認識 す る こと の大 事 さ を強 調 し て い る の です 。﹁ 教 育 は旅 に よ って完 成 す る﹂ と 言 わ れ てき ま し た。 ︵ 教 育 に お け る比較 と私﹂ 名 附実 著 ﹁ 東 信 堂 参 照︶ 森 善和氏 の論文 コ伊都国⋮世有王皆統属女王国﹂を読む﹄ に関す る疑問 一 は じ め に 会誌 ﹁ 筑 紫 ﹂ 一五 八 号 に 掲 載 さ れ た 魏 志 倭 人 伝 に 関す る標 記 の論 文 に つい て、 次 のよ う な 疑 問 点 が あ る。 [﹁ 伊 都 国 ⋮ 世 有 王皆 統 属 女 王 国﹂ の読 み方 に つい て。 日 翰 苑 の註 釈 にあ る ﹁ 伊 都 国 ⋮其 国 王皆 属 王女 ﹂ の ﹁ 王 女 ﹂ に つい て。 [ 女 王 国 と は筑 後 川 流 域 に 拡 が る 邪 馬 台 国 お よび 秀 国 二十 ヶ国 であ [︺ 森 氏 は ﹁ 伊 都 国王 が皆女 王 国に 一一 ﹁ 伊 都 国 ⋮ 世 有 王皆 統 属 女 王 国 ﹂ の読 み 方 に つい て るとし ているが、そ の根拠 は何 か。 四 大率 派遣 の主格 は明帝 であ ると し て いるが、 そ の根 拠 は何 か。 こ のうち日 と国 に ついては、 そ の 根拠 が示され て いな い ので論 評 はし な い事 にし、日 と口 に ついて検 討 を 加え る事 にす る。 功 て行 く の です 。 こと わざ に ﹁ 旅 は憂 いも の幸 いも の﹂と あ り ます が、数 々 の苦 難 や危 機 を 乗 り 越 え る こと に よ り 、 そ の経 験 が糧 と な って 人 は大 き く 成 長 し て 日常 生 活 に帰 って く る の です 。 第 四 に これ が 現 代 の旅 に無 く な っ てし ま って い る こと です が、 旅 が途 上 に あ る こと を自 覚 す る こと です 。 古 代 の旅 は歩 く こと に よ り い まだ 途 上 に あ り、 道 中 の半 ば に あ る と いう 自 覚 が あ る か ら こそ、 な お 先 を求 め て進 み続 け よ う と す る意 欲 な り 欲 求 も 生 ま れ 、 いまだ 目 標 に 到 達 し て い な い と いう こと で、 達 成 も さ れず 完 全 に も いた って いな いと いう 自 覚 が 失 わ れ て い ます 。 日 標 に達 し て いな い と いう 自 己 反 省 か ら、 そ れ は慎 み と 畏 れ の気 持 ち でも あ る の です 。 ま た 道 中 で のま わ り の変 化 、 雰 囲気 を 味 わ う こと が旅 の本 質 な の です が、 現 代 の旅 で は 飛 行 機 や鉄 道 等 交 通 手 段 を 利 用す る こと で便 利 に は な った か も 知 れ ま せ ん が、 道 中 の楽 し み が な く な って し ま い ま し た。 縄 文 人 の旅 は遺 跡 や遺 物 か ら判 断 田 回縄 文 時 代 の ﹁ 古 代 の旅 ﹂ を 総 括 し て、 2 .世 紀 の旅 の行 く 末 を考 え る こ と と し た い と 思 いま す 。 縄 文 人 の旅 は 具 体 的 な モ ノ の移 動 を 通 し て考 察 し て き ま し た が、 第 一 に 旅 は自 分 が本 能 的 に 遠 く へ行 き た い、 山 のか な た の未 知 の世 界 へのあ こ が れ 、 日常 生 活 の惰 性 か ら 自 己 を 解 き 放 ち た いと 旅 に 出 る も の で す が、 そ れ は 他 か ら の強 制 に よ る も の で な く 、 自 主 的 に 思 い立 ち 決 断 し て 出 発 し て行 う も の で、 自 律 の行 動 こ そ旅 の本 質 です 。 第 二に は 旅 に 出 て他 人 と 出 会 い、 一 父わ り 、 モ ノ や コト に 接 し、 あ る い は 異 な る風 土、 文 化 等 を 知 り 、 そ れ ぞ れ が多 様 であ る こと を 知 り ま す 。 そ し て他 を 知 る こと を 通 し て自 分 を 知 り、 人 間 を 発 見 し、 人 間 的 成 長 を も た ら し 、 新 し い文 化 を 形づ く って いく も の です 。 旅 に 出 て自 ら を 振 り 返 る き っか け と な り、 人 間 を 知 る こ 一 上 (4) 紫 筑 第 159号 第 159号 紫 筑 (5) 統 属 す と 読 む た め に は、 女 王 国 の ﹂ 統 属於 前 に助 詞 の ﹁ 於﹂ を 入れ て ﹁ 女 王 国﹂ と し な け れば な ら な い と 断 定 し て い る。 し か し 、 魏 志 倭 人 伝 の中 に は ﹁ 女 王 国 に 統 属 す のよ う な ﹁ ○○ に × ﹂ ×す ﹂ と い う構 文 で ﹁ 於 ﹂ と いう 助 詞 の な い 文 は い く つも あ る け れ ど も、﹁ 夏后 少 康 之 子 於 ﹂ が あ る文 は ﹁ 封 於 会 稽 ﹂ の 一例 のだ け あ る。 こ の 一例 だ け で ﹁ 女王 於 ﹂ が無 い か ら ﹁ 国 を 統 属 す ﹂ と 読 む のが 正 し いと 断 定 す る こと は で き な い。 要す る に ﹁ 統 属 女 王 国﹂ と いう 構 女 王 国 に統 属す ﹂ と読 む た め 文で ﹁ に は、﹁ 於 女 王 国﹂ と ﹁ 於 ﹂ と い う助 詞 が絶 対 に必 要 か否 か と いう問 題 は、 中 国 語 の文 法 上 の問 題 であ る。 魏 ・晋 時 代 の中 国 語 に、 ど う い う 場 合 には ﹁ 於 ﹂ と いう助 詞 が 必 要 で あ る と い う 文 法 上 の 規 則 が あ った の 於﹂ か。 これ が は っき り し な いと ﹁ が無 い か ら ﹁ 女 王 国 を統 属 す ﹂ と 読 ま な け れば な ら な いと 断 定 す る こと は で き な い。 森 氏 は、 こ の文 法 上 の 規 則 をご 存 じ な のだ ろ う か。 私 は これ が判 ら な い の で、 中 国 の 古 典 か ら 用 例 を捜 し て判 断 せざ る を 得 な いと考 え て い る。 以 下 用 例 を 示 す。 日 ﹁ ○ ○ に × ×す ﹂ と い う 構 文 で ﹁ 於 ﹂と いう 助 詞 の無 い例 ︵ く印 の 一 場所 に ﹁ 於 ﹂ が無 い︶ ① 魏 志 倭 人 伝 の中 の用 例 倭人は ・倭 人 在 く帯 方 東 南 大 海 中 ︵ 帯 方 の東 南 大 海 の中 に在 り︶ く ・至 対 海 国 ︵ 対 海 国 に 至 る︶ ・ 倭国 ︵ 倭国に詳り︶ 詣ま く 親魏倭王 ・制 詔 親 魏 倭 王 卑 弥 呼 ︵ 卑 弥 呼 に制 詔 す ︶ ② そ の他 の用 例 T ︶ ・楠 木 生 ﹁南 方 ︵ 楠 木 は南 方 に生 え︶ 本 草 綱 目︶ ︵ 良 薬 口に 苦 き も ・良 薬 苦 口 利 ゴ病 ︵ 病 に 利 き︶ く 忠 言逆 耳利 行 ︵ 忠 言 耳 に逆 う も 行 い に よ ろし X 漢 書 ︶ な お 史 記 で は 利 於 病、 利 於 行 と ﹁ 於 ﹂ を 入 れ て い る。 す な わ ち 漢 書 では ﹁ 於 ﹂ を 省 略 し て い る。 これ ら の用 例 で は ﹁ 於 ﹂ が無 いか ら と い って ﹁ ⋮ を﹂ と 読 む と 意 味 が 通 じ な い。 日 ﹁ 統 属﹂ と いう 言 葉 の用 例 ① 東 晋 の高 僧 で あ る 法 顕 が 撰 じ た ﹁ 佛国 釈 法 顕 ﹂ と いう 書 物 の中 の ﹁ 其 国在 大 州 上 、 東 記 地 理考 証﹂ に ﹁ 西 五十 由 延 南 北 三十 由 延 、 左 右 小 州 乃有 百 数 。 其 間 相 去 或 十 里 二十 里 或 其 の国 大 二百 里、 皆 統 属 大 州 。 ⋮ ︵ 大 き な 島 ︶ の上 に 在 り て東 西 五 州 ︵ 由 延 は 距 離 の単 位 ︶ 南 北 三 十由延 ︵ 小 さ な島 ︶ す 十 由 延、 左 右 の 小州 ︵ な わ ち 百 の数 有 り。 其 の間 相 去 る こ 一 と 或 い は十 里 二十 里 或 い は 二百 里、 こ のよ う に 英 語 で い う 他 動 詞 に な って い る。 中 国 語 に は、 英 語 のよ う に は っき り し た 他 動 詞 ・自 動 詞 の 区 分 は無 い と 思 う が、 統 属 と いう 言 葉 に自 動 詞的 な意 味 が無 い のであ れ 皆 女 王 国 に統 属 せ ら る﹂ と 受 動 ば 、﹁ 形 で読 ま な け れ ば 、 読 み が し っく り し な い。 ︶⋮﹂ と いう 文 章 が 皆 大 州 に統 属す ^ ι あ る。︵ こ の文 章 で 統 属 に か か わ る 主 語 は、 百 の 数 の 小 州 で あ り、 従 っ て ﹁ 小 州 皆 統 属 大 州﹂ と いう 構 文 に な 。 ︵ ″ フ こ の文 章 の読 み方 と し て大 州 の前 四 ﹁ 翰 苑 に あ る 受 動 形 の文 例 こ の文 章 で ﹁ 統 女 王 ﹂ よ り 前 の文 章 は 倭 国 の説 明 であ る の で、 主 語 は 倭 国 統 女 王﹂ 倭 国 であ る。 す な わ ち ﹁ であ る。 これ を 女 王 の前 に ﹁ 於﹂ と いう 助 詞 が無 い か ら と い って ﹁ 倭国 ち 官 を命 じ 女 王 に 統 ぜ ら れ 部 に 列 せ し む。︶ ﹁ 山 海 墓 以建 都 。 分 職 命 官 憑 負 鎮 馬 山 に 憑 り 海 を負 い 統 女 王 而 列 部 。﹂︵ て馬 墓 に 鎮 し 以 て都 を建 つ。 職 を 分 倭 倭 国 に関す る記事 は、 最初 に ﹁ 国﹂ と書 き、 行 を変 え て次 の文 があ る。 に関す る記事 があ る。 蔵 さ れ て いる。 この第 二〇巻 に倭 国 第 二 〇巻 だ け が太 宰 府 天満 宮 に所 著 し た全 三〇巻 の歴史 書 で、第 一巻 ∼第 二九巻 は失 われ てお り、最 後 の 翰 苑 は 六 六 〇 年 頃 唐 の張 楚 金 が そ こ で、 受 動 形 で読 む 文 例 に つい て次 項 で述 べる。 に ﹁ ⋮ 於 ﹂ と いう 助 詞 が無 い か ら ﹁ を﹂ と 読 む べきだ と し て ﹁ 百 の数 の 小 州 は皆 大 州 を 統 属 す ﹂ と 読 む と お か し な 内 容 の 文 章 に な る。 こ こ は ﹁ 百 の数 の 小州 は皆 於 ﹂ は無 いが ﹁ 大 州 に統 属 す ﹂ と読 ま な け れば 意 味 が 通 じ な い。 一 こ の文 章 も ﹁ 伊 都 国 世有 王皆 統 属 於﹂ は 女 王 国 は、 女 王 国 の前 に ﹁ ﹂ な く ても ﹁ 女 王 国 に統 属 す ﹂ と 読 め る こと を 示 し て い る。 頼 惟勤氏 は ﹁ 統 属 女 王 国﹂ の読 み方 に つい て、﹃一 を統 属 す ﹂と も 読 め に統 属 す ﹂ と も 読 め る。 ど の る し 、﹁ を﹂ か ﹁ に﹂ か の判 定 よう にし て ﹁ を 下 す か と いう と、 文 脈 全 体 と の兼 ね 合 い に よ って 判 断 す る よ り ほ か し よう が な いわ け であ る。﹄→ ︶と 述 べて い る。 私 は こ の考 え に賛 成 であ る。 統 ② 但 し こ こ で 一つ問 題 が あ る。﹁ 属 ﹂ の意 味 は 辞 書 に よ る と 。諸 橋 轍 次 の大 漢 和 辞 典 ⋮ 所 属 の官 司 をす べて治 め る。 ・自 川 静 の字 通 ⋮所 官 を 治 め る。 と あ る。 魏 は 卑 弥 呼 を 邪 馬 台 国 の王 で は な 親 魏 倭 王﹂ す な わ ち 倭 全 体 の王 く ﹁ と し て任 命 し た の で あ る。 で は 魏 の立 場 か ら 見 て、 魏 は卑 弥 呼 を倭 の中 のど の範 囲 の王 と し て任 命 し た の であ ろ う か。 倭 人 伝 の内 容 か ら 判 断 す る と、 少 な く と も 今 使 訳 通 ず る所 の 三 十 ヶ 国 は 含 ま れ て お り、 そ の中 に は 当 然 伊 都 国 も 含 ま れ て い る。 倭 王 卑 弥 呼 の上 位 に 伊 都 国 王 が い る と は、 倭 人 伝 の内 容 か ら は読 み取 れ な い。 も し 倭 王 卑 弥 呼 の上 位 に 伊 都 国 王 が い る の で あ れ ば 、 魏 は卑 弥 呼 を 倭 王 に 任 命 す る筈 が な い。 ま た、 正始 八 年 倭 の女 王 卑 弥 呼 は 帯 方 郡 に遣 使 し て、 狗 奴 国 と 交 戦 し て い る状 況 を報 告 し た。 も し 卑 弥 呼 の上 位 に 伊 都 国 王 が い た の で あ れ ば 、 こ の遣 使 は卑 弥 呼 で は な く 伊 都 国 王 が 行 う 筈 であ る。 ② ﹁ 伊 都 国 王 が女 王 国 を 統 属 す ﹂ と 読 む と、 こ の様 な 矛 盾 が 生 じ る。 従 って ﹁ 伊 都 国世 有 王皆 統 属 女 王 国﹂ の読 み方 は、 。 ① 伊都 国世 々王有 り。 皆女 王 国 に統 属す。 ② あ る いは、 統 属 と いう言葉 に自 動 詞 的 な 意 味 が 無 け れ ば、伊 都 国 世 々王有 り。 皆女 王 国に統 属 せら ス一 と 読 む のが 正 し いと 考 え る。 す な わ 翰 苑 に 〓一 され ている魏略 引 用 の文 章 中 の ﹁ 伊 都 国 ⋮ 其 国 王皆 ち、 伊都 国 王は女 王 国に服 属 し て い ると いう意味 に解釈す る のが 正し い と考 え る。 [ 翰 苑 引 用 の魏 略 の文 章 に は、 前 女 也 ﹂ が あ る が、 こ の十 行 ほど の文 章 に は第 一表 に 示す よ う に 誤 字 が 大 ‘ 変 多 い。︵ 王女﹂について 属■女也﹂の ﹁ て い る。 こ の場 合 の ﹁ 属﹂の意 味 を、 森 氏 が 伊 都 国 の場 合 に い って い る よ 委 託 す る﹂ と す る と、 狗 奴 国 うに ﹁ は女 王 に委 託 し て いな いと いう 変 な 文 章 に な る。 こ こは ﹁ 狗 奴 国 は女 王 に 属 し て いな い。 す な わ ち 服 属 し て 記の ﹁ 伊 都 国 ⋮其 国 王皆 属 王女 也﹂ に 続 い て次 の文 章 が あ る。 ﹁ 女 王 之南 又有 狗 奴 国 ⋮ 不属女 王 ︵ 女 王 の南 又狗 奴 国 有 り ⋮女 王 に 属 さず ︶ こ こでは 王女 で はな く女 王 にな っ い る が、 倭 人 伝 は ﹁ 王女﹂ で はな く て ﹁ 女 王﹂ と な ってお り、 文 献 批 判 の見 地 か ら 王 女 は女 王 の間 違 い で は な い か検 討 す る 必 要 が あ る。 以 下 検 討 結 果 を 述 べる。 いな い﹂ と 読 む べき であ る。 伊 都 国 王 は女 王 に服 属 し て い る が、狗 奴 国 は女 王 に 服 属 し て いな い、 森 氏 は魏 略 が ﹁ 王女﹂ と書 い て い る のを 正 し いと 考 え て ﹁ 伊都 国王 は 皆 王女 に属 す ︵ 委 託 す る︶ と 読 ん で H 翰 苑 の中 の倭 国 の条 に、 註 釈 の か た ち で魏 略 か ら の引 用 文 が十 行 ほ ど あ り、 そ の中 に ﹁ 伊 都 国 王皆 属 王 東 南 五東 里 到 伊 都 国 置官 至 封 同 南 北布 燿 到 拘 肥 韓 国 七十 餘 里 暦韓 国 女← 以 東← 百 至← 与 布←市 肥 ← 耶、 十 ← 千 暦←歴 以 って較 龍 の害 を避 く 狗 奴 国 有 り 男 子 を 以 って王 と為 す 東 南 五 百 里 伊 都 国 に到 る 官 を 置 く に封 ︵ 対馬︶ と同じ 南 北 に市 燿 す 拘 耶韓 国 に到 る 七 千 里 韓 国 を歴 て 誤 字 ← 正字 有 狗 奴 国女 男 子為 王 五甲卜v 生回 翰 苑 引 用 の魏 略 の文章 以避 鮫 龍 之 吾 文 は女 王を統ず ﹂ と読 む と意味 が通じ な い。 また ﹁ 倭 国は女 王に統ず ﹂ と 読 ん でもし っく りしな い。フ す﹂は ﹁ 倭 国 は女 王 に統ぜ ら る﹂ と受動 形 で読 まなけ れば な らな い。 国 ﹁ 伊 都 国世有 王皆 統 属女 王国﹂ の 読 み方 以上述 べたよう に中 国古典 の文 例 から 調 べた結 果、 こ の文 は次 の三種 類 の読 み方 が でき ると考 えら れ る。 ① 伊都 国世 々王有 り、 皆女 王 国 を統 属す。 ② 伊都 国世 々王有 り、 皆女 王 国 に統 属す。 ③ 伊都 国世 々王有 り、 皆 女 王 国に統 属 せら る。 こ の三種 の読 み方 のうちど れ が良 いかは、 倭 人伝全 体 の文脈 ・内 容 を 考 え て、 ど の読 み方 が最 も整 合性 が あ るかと いう視点 から判 断す べき で あ る。 ﹁ 女 王 国 を統 属す﹂ と読 むと、 次 の よ う な 問 題 が 生 じ る。 こ の読 み方 で は伊 都 国 王 が 女 王 国 を 支 配 し て い る事 に な る。 女 王 国 の 王 は 卑 弥 呼 であ る か ら、 卑 弥 呼 は 伊 都 国 王 に 支 配 さ れ て い る事 に な る。 魏 志 倭 人 伝 全 体 か ら 見 て こ のよ う な 事 が 読 み 取 れ る であ ろ う か。 ① 倭 人伝 に は ﹁ 其 の年 の十 二月 詔 書 し て倭 の女 王 に報 じ て 曰く、 親 魏 倭 王 卑 弥 呼 に 制 詔 す 。 ⋮今 汝 を 以 て親 魏 倭 王 と 為 し 、 金 印 紫 緩 を仮 し ⋮﹂ 一 魏略 にお ける誤字の例 第 1表 訳 (6) 紫 筑 第 159号 第 159号 紫 ワr 筑 と いわ んとし て いるも のと思われ、 ﹁ 伊 都 国王 は皆 王女 に属す﹂ の王女 は、 女 王 の書 き間違 いではな いかと いう疑 いが でてく る。 ・ 日 以上 ︵一︶ で述 べたよう に翰 苑 引 用 の魏 略 に は 誤 字 が 大 変 多 い こ と、 お よび ︵ 二︶ で述 べた ことを総 女 王﹂ の書 き 王女﹂ は ﹁ 合 す ると ﹁ 間 違 い であ ると 判 断 し て ま い と 認 伊都 国王 は皆女 王 に属 う。 従 って ﹁ す﹂ す なわち皆女 王 に つき従 って い る、 皆 服 属 し て いると読 んで 何等 問 題 はな い。 ︹ 註 ︺ ・ ︵ 邪馬台 国中 国人 は こ 1︶ 謝銘 仁 ﹃ う読 む﹄ 一九九 〇年 徳 間書店 ︶ こ の本 は 一九 八 三 年 に立 風 書 ︵ 一 房よ り 刊 行 さ れ た 同 名 の単 行 本 の 庫本 ︶ 文 版 ︵ 2︶ 謝 銘 仁 ︵ 1︶ に 同 じ ︵ 3︶ 頼 惟 勤 ﹁ 魏 書 。東 夷 伝 ・倭 人 条 の文 ユ 曇 ︵ 邪 馬 台 国 の常 識 ﹄ 松本清 張編 ﹃ 一九 七 四年 毎 日新 聞 社 ︶ な お 頼 氏 は 当 時 お 茶 の水 大 学 教 授 ︵ 4︶ 翰 苑 第 三十 巻 に あ る倭 国条 の 一部 の写真 版 絵 は が き ︵ 太宰 府 天満 宮 発 行 ︶ に 魏 略 か ら の引 用 文 が あ り、 これ に よ って誤 字 を 検 討 し た。 な お 魏 略 は魚 分 が著 し た 魏 に 関 す る 私 撰 の歴 史 書 ︶ は大変貴重 な遺 物 や珍 らし い展 示品 多 く、 五時 の閉館 ま でた っぷ り 三時 間近く見学 し、 大変勉強 にな り まし た。 当会 の会 員井 上節 子さ ん がボ ラ ンテ ィアに採 用 され、 当 日は太宰 府 ヽ 天満宮の飛梅の前に集合して、事前 の説 明 を し て いただ き ま し た が、 聞 梵珪 教肇贔咆酪鱒 務 の こと、 館 内 で も 要 所 要 所 でボ ラ ン 果二百名余しか採用されなかったと 配 鶴 欝 紳″詳 鶴 ティアの方が熱を入れて案内してい 脇 セ ク シ ョン に 展 示 さ れ、 日 本 文 化 が ど のよ う に ア ジ アと 関 わ り、 形成 さ れ て き た のか 理 解 出 来 る よ う に な っ て い る の です が、 自 分 の好 き な 展 示 コー ナ ー ヘ順 序 か ま わず 見 て 廻 れ る よ う に な って い る のが良 い か な、 と 一方 広 々 思 って見 て 廻 り ま し た が、 と し た 展 示 室 で迷 子 の様 に な り 、 ト イ レ の場 所 、 出 口を 探 す の が容 易 で な く 、室 内 を う ろう ろし 、ボ ラ ン テ ィ ア の方 に出 口 を 尋 ね て い る 人 が 多 く 見 受 け ら れ ま し た。 今 回 の展 示 品 の中 で 圧巻 だ った の は ﹁ 火 焔 型 土 器 ﹂ がず ら り と 十 数 点 展 示 さ れ て い た こと です 。 わざ わ ざ 一 出 土 地 新 潟 県 を 訪 ね ま わ っても 、 火焔 型 土 器 ﹂ 箇 所 で十 点 以 上 並 ん だ ﹁ を 見 学 す る こと は 出 来 ま せ ん。 聞 く と こ ろ に よ る と、 昨 年 の ﹁ 新 潟 県中 火焔 型 土 器﹂ が 越 地 震 ﹂ で各 地 の ﹁ 転 倒 し て損 害 を 受 け、 そ れ を 九 州 国 立 博 物 館 で修 復 、 展 示 し た そ う です が、 岡 本 太 郎 が ﹁ これ は 芸 術 だ ﹂ と 叫 んだ 、 ダ イ ナ ミ ック な 世 界 的 に有 で、 魏 略 そ のも のは 失 な わ れ て お り、 逸 文 が断 片 的 に知 ら れ て い る。 . ﹁ 嶽 [ ﹄ [ 疇 一 [ 時 中 一 一 ” は 峠 “ 火 焔 型 土 器﹂ を 一つ 一つじ っ 名な ﹁ く り と 近 く で見 ら れ ま し た こと は望 外 の喜 び でし た。 勿 論 新 し い九 州 国 立 博 物 館 は 地 震 対 策 は 万全 のよ う で す が、 修 復 事 業 も 博 物 館 の重 要 な 仕 事 で、 ま た これ ら の修 復 記 録 を 公 刊 し て あ り ま し た が、 本 当 に良 い仕 事 を し た も のだ と 思 いま し た。 油 滴 天 目茶 他 では私 が大 好 き な ﹁ から捉える﹂とのことで、北部九州 は日本 の歴史 にお いて常 に中 国大 .交流の窓 口として 陸、朝鮮半島との す 成 樫 詢庫 紳聾 ぎ ﹁ 化交 流 展 示室﹂ は 四階 に位 置 します が、 他 の国立 博物 宮 地嶽古墳 と アジ ア﹂ の 館 と違 い ﹁ 展 示を中 心 にし て、 広 々とし た展 示 弥 室に ﹁ 旧石器、 縄文時代﹂ から ﹁ 生、 古 墳時 代﹂、一遣 唐使 の時代﹂ と 順次 ﹁ 多 彩 な 江戸文 化﹂ ま で十 一の プ ン記 念 の特 別企 画 展 望人の国 日本 ﹂ も な か な か良 い展 示 で し た が、 そ れ 以 上 に常 設 展 示 室 ﹁ 文 化 交 流 展 示室 ﹂ そ れ で も 八 千 名 近 く の見 学 者 が あ っ た と の こと で、 土 曜 日、 日 曜 日 な ど は 一万名 以 上 の見 学 者 で、 な か な か ゆ っく り と 見 学 出 来 な い状 態 だ った そ う です 。 や は り 国立 博 物 館 。 他 の 資 料 館 や 県 立 博 物 館 等 と 異 な り、 見 ご た え あ る も の で し た。 今 回 は オ ー 九 川 日 立博 物 館 オ =プ ン 固日 □ 九 州 に 日本 で 四番 目 の国立 博物館 ﹁ 九 州 国立 博 物館﹂ が、 太宰 府 天満 宮 の隣 り に十 月オープ ン。 早速 当会 の会 員 の皆様 と見学 に訪 れまし た の で、 記念 し て見学 記 を発表 いたしま す。 新 聞、 テレビ等 の発表 では大 変好 評 と のこと で、 見学者 が予想 以上 に 多 いと のこと でした が、 私 共 が訪 れ ま した のは 月曜 日 の午後 でし た が、 碗 ﹂ が 展 示 さ れ て い た こと です 。 重 要 文 化 財 と な って お り ま す が、 中 国 南 宋時代 ︵ 十 二∼ 三世 紀 ︶ 福 建 省 北 部 水 吉 鎮 の建 窯 で造 ら れ た 最 高 傑 作 の天 目茶 碗 で、 た し か 日本 に 国 宝 、 重 要 文 化 財 と し て 四箇 あ る こ と に な ってお り ま す が、 私 は これ です べ ての ﹁ 油 滴 天 目 茶 碗 ﹂ を 見 た こと に な り ます 。 灰 黒 色 の地 に青 み を 帯 び た 斑 点 に 見 惚 れ てし ま い ま し た。 い つま で見 て も 見 あ き ま せ ん でし た。 現 代 の科 学 でも 再 現 不 可 能 な 神 秘 的 な 作 品 な の です 。 ひと つ不 思 議 だ った のは、 三 角 縁 神 獣 鏡 な ど 鏡 は数 多 く 展 示 さ れ て い 四世 紀 の鏡 ﹂ と だ け た中 で、 ただ ﹁ 表 示 さ れ た、 大 き な 四十 セ ンチ 近 く の鏡 が 展 示 さ れ て い た こと です 。 普 に行 った時 、 学 芸 員 の方 か ら 展 示 品 の案 内 を 受 け て い る折 、 収 蔵 庫 が窓 ガ ラ スか ら内 部 を良 く 見 ら れ る よ う に な ってお り ま し た。 九 州 国立 博 物 館 の収 蔵 庫 は 目 玉 と し て収 蔵 庫 の内 部 を窓 ガ ラ スか ら 観 察 出 来 る こと を P Rし てお り ま し た が、 こ の資 料 館 で はす で に先 を 越 し て いた の です 。 ま た そ の学 芸 員 が 言 う に は、 そ の資 料 館 の宝 と な って い る重 要 文 化 財 の 縄 文 時 代 のリ ア ル な 顔 付 の土 偶 を、 九 州 国立 博 物 館 オ ー プ ン の記 念 と し て借 用 し た い と の申 し 出 が あ った の を 断 り ま し た と、 自 慢 気 に 説 明 し て く れ た こと です 。 九 州 国 立 博 物 館 は か な り 日本 全 国 に知 れ 渡 って い る様 です 。 ユ ニー ク な 迫 力 あ る建 物 も す ば ら し い です し、 太 宰 府 天 満 宮 と 繋 いだ エ スカ レ ー タ ー 付 の ア ク セ スト ンネ ル も 両 方 う ま く や って い るな と 思 い ま し た が、 これ か ら 先 、 色 々な 催 物 を 開 催 し、 我 々古 代 史 フ ァン を楽 し ま せ て ほ し いも の です 。 釉眩 舅 祗呵 写 ▼ 昨 年 末 、﹃ 神 々 の汚 れ た 手 ﹄ が 毎 日 出 版 文 化 賞 に 決 ま った と き 、 京 都 の 日本 文 化 セ ンタ ー に 留 学 す る 韓 国 ウ ル サ ン 大 学 の N教 授 か ら ﹁ お れ の後 任 の件 、 ど う す る ん だ ?﹂ と い う 電 話 が 入 った 。 ▼ ﹁二 月 中 に は 行 き ま す 。 約 束 で す か ら ﹂ と 返 事 し た。 お り か ら ﹁ 竹島 問 題﹂ や ﹁ 靖 国 神 社 問 題 ﹂ で、 北 西 の寒 風 が 吹 き す さ ぶ な か 、 七 十 三 歳 に し て や っと 成 った 私 の韓 国 留 学 で し た。 ▼ ﹁ 日 本 の教 科 書 を 使 って 、 日 本 の 歴 史 を 教 え て み よ う ﹂ と 、 こ の話 が 出 た 二年 前 か ら 考 え て い ま し た 。 ▼ 参 考 書 と し て、 福 岡 県 が 採 用 し て いる ﹃ 新 し い社 会 ︱ 歴 史 分 野︱ 穴 東 京 書 籍 刊 ︶ を 五十 冊、 ほ か に韓 国 に 持 っ て 行 った 本 は 高 校 の 詳 説 日 本 =平成十 八年度総会 ・新年会 史 、 高 校 歴 史 の資 料 編 と 年 表 ︵ 何れ も 山 川 出 版 ︶、韓 国 語 辞 典 ︵ 自 水 社 ︶、 ﹃曰 本 書 記 ﹄、 岩 波 文 庫 五 冊 で す 。 ▼ ウ ル サ ン 大 学 校 ・日 本 語 。日 本 文 化 学 科 の 三年 生 、 四年 生 、 大 学 院 の ﹁ 日 本 の歴 史 と 文 化 ﹂ に 関 す る 五 つ の講 義 を 受 け 持 つ こ と が き ま り 、 二 月 か ら テ キ スト 作 り に と り か か り ま し た。 ▼ テ キ ス ト の文 章 は 、 日 本 語 と 韓 国 語 の 二本 立 て で 、 日 本 語 の漢 字 に は ぜ ん ぶ よ み が な を 付 け ま し た。 ▼ 二 月 か ら 一学 期 が 始 ま り ま し た が 、 講 義 テキ スト を 作 る の に 時 間 が か か り 、 四 月 に は ス ト ツク が な く な り 、 前 日 や っと テ キ スト 一回 分 を 作 る と いう 自 転 車 操 業 に な り ま し た。 ▼ し か し 、 二学 期 も す で に 期 末 テ ス ト ま で こぎ つけ 、 い ま は 余 裕 も 出 た の か 、 こ の 一年 間 の講 義 内 容 を 論 文 に ま と め 、 韓 国 の学 会 で 報 告 す る こ と に な り ま し た 。 そ れ が 本 ト ップ の 論 文 です 。 ︿〓 場 福 岡 市 中 央 区 天 神 一丁 目 ﹁つば 八員 日本 勧 業 銀 行 横 ︶ 電話 ︵ 一 〇九 二︶ 七 一一︱ 九 〇 二四 ¨ 一 新年会会費 四千 円 ¨ 一 二、 会 の運営 に つい て 一 一 ¨ 三、 会 計報 告 午 後 五時 から 六時 ま で︶ 一 一 新年会 ︵ 五 時 ま で 通 鏡 は名 称 や ︵ 三角 縁 で は あ り ま せ ん で し た︶ 出 土 地 な ど 表 示 さ れ て い るも の です が 、 大 き な 鏡 、 それ も今 ま で見 た こと のな い内 区 の模 様 な ど か ら 興 味 を持 って近 く のボ ラ ン テ ィ ア に 質 問 し ま し た と こ ろ、 学 芸 員 の 方 か ら こ の鏡 は 説 明 し な い こと と 言 わ れ て お り、 ど こ の所 蔵 か も 案 内 出 来 ま せ ん と 言 わ れ てし ま いま し た。 説 明 で き な い物 を 展 示 し て い る のは 不 思 議 と 思 い、 再 度 訪 れ 学 芸 員 に詳 し く 質 問 し て み よ う と 思 ってお り ま す。 後 日談 です が、 十 一月 の研 修 旅 行 で千 葉 県 の ﹁ 房 総 風 土 記 の丘 資 料 館 ﹂ ︶ 平 一`成 十 報 八 告 年 度 古 総 川会 光 ͡ 彦午 ͡後 事 四 務 時 か 局 Vら (8) 紫 筑 第 159号