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il銭 l 人Jft仰会

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il銭 l 人Jft仰会
IJI瞬時初日間種思僚~U
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il銭 l 人Jft仰会
合併号
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茜@爵
連総
新制茜
そしてとっても悩しいよ
山川はとっても大きいよ
ってくれるような
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時には印 械 に な っ て 払 述 を 鈍 う け ど
それでも 桝 は 悩 し い よ
泌を
。
峨な引を 全 部 械 が
さらって 行 っ て く れ る % が す る
大きな波の行が
「
雌必れ よ 」 って
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浄土J 2010年 表紙の
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|刊である w梨 IltW. に.f1、たむはまず、 fr き
たい、 't: まれたいという "'1 いをおこせと
お釈迦械はお っ しゃ って います
仏たちに対して、総り i包し述べられる
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~~のひとつからしれません
得。 f いたい, f
( 鮎 1鳥羽;)
のIII内加医大・備で場所を移動 、 院ーである
組織阪の舗が燭げられたこの~stの下に litli
!É織という浴凄やイベントにも利用で e る多
目的ホール. そして礼鍔~と舎利2置がある. m
B民\91B36也茂包鹿沼住民 と鍵織の望書予夫人
人命に dh
仰あり
組初3f事に 11立された錫楽号本2. lIZ~2 1f事
与に縦山 Aあり
HA中ω
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心の依田鳴を紀行する
ぺ?
され
、
省副首門の予蘇であり 、 4・ 1<総代であ
る 三4書留民氏の作æ,で五H値されてい
る . 内陣の智jtJg . 外陣の夫弁鐙 、 天
.など叡十点が三徳氏のきFによるも
のである.
.
餓車用車可同開葛となる=一徳新右衛門の分療
お楽寺本尊阿弥陀鈎来立像 胎内文 -sが発見
.
である三橋事兵衛が元縁年間に主窓である大
とが配されていた
石窓のさ焼串甘からこの仏像を進庖したことな
創業宅警の本2霊内はm~電車開基三4語新
、
・
揖用量湾の国唱の上の泊目唱e
はa
古
胃代
叉
『
揖門」を形象化し 他殺における無
砲の世界を皿罰したもの これも三嶋
箇民民の障wa.
..,曹の E置は地上 9 同i l$下 1 鱈て .
9ト窓は花筒岩. 耐久性とメンテナン
スフリーにこだわった組物になって
いる . 8*の伝減色である朱‘き軍司 ‘
聞の三色に3書られたロッカ-.は
l'Iち舗いたたたずまい.
無量費警の1きの鹿上から見たB喜楽寺嶋
1'3. 案内版 (下} に l立 、 右手の斜め
の道路と交差点をちに延びる道路で
鎌内が3 つに分断された地図が.か
れている . 正â!iに見える臼い建物の
右手に琶のJR原町因の廠があ っ た.
、
、
JR と小田急線が受章属する町田町風
琶は田植が輔離れていたの唱
で思動通学
.
・
の利用者が JR 駅と小田晶脇田眠の問を
走る通があり かけあし通りと呼ば
1
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-
れていた
《
多
『
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ゆ土.
目
東京 ・ 町田勝楽寺 … H・H ・蹄ー タカオカ邦彦
寺院紀行東京・町田勝楽寺 ・・ H ・ H・......・ H・...・H ・ … H ・ H・-…真 山
剛
担問小限 麓辺海旭 …......・H・ ..・・ H・ H ・......・ H ・..……………… 前田和男
会いたい人桂米岡治さん③…H・H・-… H・H・-……..……・・- 関
容子
法黙上人をめぐる人々 .........….......……・………H・ H ・.. 石丸晶子
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..……….日…….日…...……….日...………..….日.………..………..……….一…….日…..……….日………..……….日……….日……..…...………..….日…..日……….日….日….日.……….日………..…….日….日.……….日….日….日.日……….日….日"
さ つ ちやんはネツ
.…….日….“..……..…....…….日.…….……....・H・-…・・ かまちよしろう
編集後記・...
表②茜の持 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・新納
首
襲③教えと法話 ….....・ H ・.. . .........・ H・-…....・H ・-……・・…H・ H ・...・H・生野普庫
.紙懸字=中 村J.lt~益前浄土門主
アートディ レク ション= 近藤十四郎
箇カ= 迦陵頻伽合
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,
3
, 40
J
マンガ
ノ
J フォーラム …・・・・・・・
浄上誌上旬会
唱。今 4C
君J Aマ
轡流十方 ・・H・ H・......・H・....・H ・..........・H・..…・…H ・ H・-… H・H ・........・袖山猿輝
foqenvAU
ョJ
2
いのちの侵業 …....・H・....・ H・-……......・H ・..…H ・H・-…・……・ 対本宗訓
,s
カラーグラビア寺院紀行
次
1954年安媛県に生まれる
1979年京錫大学文学鶴哲学終幕黛
京ca向量餓実鱒寺僧tにて修行
天傭寺派前管長平田"絹老舗
に観滋
'l!Mは曲由賓軒
圏内およびヨーロ ッ パにて
干軍備湧ゃ111;演などの宗教活
勘在行う
2000隼傍京大学医学部医学科入学
鉛06lf.帝京大学医学館医学利率調書
医師国E医院験合絡 し医師免併
取得
現住
内科医・ 1・箆として活動中
司..
f坐得 (い ま ・ ここ ・自 分) を生きる1
.秋社
1999年
f樽憎が医師をめざす痩由1
・敬社初例年
f坐綿 〈いま ・ ここ ・ 自分} 量生きる J
E再厳版
2006年
f僧医とし τ生きる J
響秋社 2∞8年
f枯れて死ぬ仕組み j を知れば心認や
かに生きられる
KAWADE夢車両・
2010年
①
自らの体験を通してその
ありのままの真実に新たな
仏性の花を咲かせていく営み
の
僧医対本家訓 { っしもとそう〈ん}
特別連載
対本宗馴
僧反
、
いのち の綬iI
。
私は四国の山間にある小さな寺の息子に生まれました 私が物心ついてより、母に連れ
ったことを記憶しています
。
られて何度か夏に祖父母宅を訪ねましたが、海辺にあるその家は慢の香りに満ちており、
山家住まいに慣れた私にと っては、枕元にまで速く近く響いてくる潮騒の音に心驚かされ、
夜半ま で な か な か 患 っ け な か
。
っ てきました
。
っ てい ったかと思うと、突
一羽づっ、羽をばたつかせて暴れる却をつか
祖父はツカッカと中に入
。
それほど広くもない鶴小屈でしたが、大小合わせて十
その夏もいつものように、都会から教家族が帰省してきで、祖父母の家は賑わっていま
蝉の声が喧しい昼下がり、祖父は数人の孫の中から、なぜか私だけを連れ出して裏
した
庭にあ る 鱒 舎 へ と や
数羽ほ ど も 銅 わ れ て い た で し ょ う か
。
って生貨の首に次々と刃を入れるや、素早くその上から太きな
然の聞 入 者 に 驚 き 逃 げ ま わ る な か か ら 両 手 に
んで外 へ 出 て き ま し た
担父は手にした包丁を撮
。
った.凶合いを凡はから って組父がバケツを取り去る
断末魔の叫ぴをあげながら羽をばたつかせるその動きもし
。
っていき、やがて静かにな
バケツ を 伏 せ て し ま い ま し た
だいに弱ま
と、あわれ ニ羽の苅は血だまりの中にこと切れていたのです
。
。
やがて
「お前はお坊さんになるんや ったな そんなら、ちゃんと見とかなあかん 。」
いささかぎこちない手つきのようでしたが、祖父は次々と羽を諮り取り、先ほどの包丁
一部始終を凍りつくように見つめていた私に、
で腹を裂き、水道の水で血を洗い流しながら了懲に丁箪に蹄分けしていきました
一連の作業が終わると、その
7
。
(
私の父)には 言 わんでいいからな 」
。
っ てい った
大人も 子供も、皆われ先にと箸を伸ばし、
一書残して、ボウルに山盛りの食材をかかえながら祖父は母屋 の台所へと帰
「このことは和尚さん
と
のでした
もちろん、その日の晩餐は筆勢なトリ鍋です
。
。
。
医学部での授業は
った
。
の です
。
。
この夏の
。
一見、 宗 教とは 全 く無縁のようで
って四十半
実はそれから 三 十年以 上 も経 って か らの ことでした
記憶を抑 圧して意憎しな
こ羽の鶏を腐
鶏肉をつついて舌鼓を打 っています にぎやかな団禦に目を細めながら満悦している祖父
母のかたわらで、私はといえば、昼間鶏舎の前で繰り広げられた屠殺の惨状を思い起こし
て箸が全撚進みません ぐっぐっと渡る大鍋の中で鶏の卵巣の表面に大小の黄身がへばり
ついている様子は何とも薄気味悪く、のちのち悪夢とな ってうなされたほどでした
祖父はい ったい何を思 って私にあのような場に立ち会わせたのでしょうか 寺 の人間は
殺 生などしてはならないというならば、生臭く罪深い殺生の現場など見せない配慮がふつ
しかし祖父は他の孫はそのまま遊ばせておいて、わざわ寺
ざの子 の私
うかも し れ ま せ ん
だけを引き連れて、私の目前でその日の晩餐のために
。
、
思い出は決して心地よいものではなく、私は子供心にできるだけ
いようにしていました
祖父の其意に 気づ かされたのは
。
はありましたが、仏教と 生命科学の響き合いに気づかされることがよくあり、僧として生
ばにして 医学 を学ぶ身となりました
長じて私は背春の 十数年間を禅の修行僧として過ごし、やがて思うところあ
2
8
いの ち の綬~
。
命に対する見方をより深めることができたことは大いなる所得でした そうい
ら、私は食をとおした生命観について講舗などでよくお話するようになりました
。
。
。
った観点か
。
あ
私た
。
禅 寺 ではよく精進料理が供されます 精進とは正しい道に努め励むことですが、それと
ったいどういう関係があるのでしょう
私に 言 わせていただくならば、肉や魚を使わないから精進料理なのではありません
科理 と い
るいは、肉や魚などの生臭を食さないから持戒竪聞な消僧高僧なのではありません
ちはたとえ肉魚を口にしなくとも、米や野菜を食べずにはいられないはずです 。 いっぽう
。
。
要する
。
で、不殺生成があるから肉や魚を食べてはいけないのだという指摘もありますが、殺して
「生きとし生けるもの 」 ととらえています
はならないとされる生命とははたして肉や魚など、つまり動物の生命だけなのでしょうか
仏教では生命を 「衆生 」、すなわち
。
実はこれは現代の生命科学が提示する生命
に、動物も捕物も、操ては徹生物にいたるまで、すべての生 き物にいのちとしての隔たり
を認めないのが仏教的な生命観だと行 えます
。
観と何ら矛屑はないのです
私たちの生命の観甑は太陽エネルギーです 太陽光が緑の葉に降りそそぎ、葉緑体で光
。
合成を行うことで植物の体内では栄養指が生み出されます この益分は植物円身の体を益
。
この草食の虫や小動物をより大型の肉食や雑食の動物が次々と捕食して、いわゆる食
い維持するエネルギーにもなりますが、その植物を食べる小動物の栄聾にもなっていきま
す
。
。
これはどんな清僧高僧といえども同じことです
。
動物と植物の生
物連鎖がかたちづくられることは智様もよくご存知のとおりです
繰り返しますが、私たちは動物性の食品を食べなくても、米や野菜などの捕物を摂らず
には 生 き て い け ま せ ん
9
命に隔たりがないことを考えると、私たちはどうあがいてみても他のものの生命を頂かず
。
。
換白すれば、私たちの生命は他のものの生命の犠牲のうえに
っているともぷ現できるでしょう
には生きていけないのです
成り立
地球上の生命が太陽エネルギーを披源とした大きな大きな生命のつながり合いの中に生
かされている、まさに縁起的な存在であることに思いをめぐらせ、食の恵みをとおして捧
げてくれた他の動植物の尊い生命に感謝して、一日 一日を人としてせいいっぱいに努めて
と呼ん で い い の で は な い で し ょ う か
。
。
生命が生命として成り 立 っためには白己と他若を
生きようとするならば、たとえお肉やお魚をいただこうとも、これこそまさに「精進科理」
。
。
。
よく使われる 「自他不 二」などの宗教的スローガンとは裏腹に、弘たちの生
。
。
仏教的に考えれば、ばい蘭
。
ったりしなければなりません
由で、抗生物質を投与して殺菌したり、あるいはそれ以上増殖することができないように
などの徹生物もみな尊い生命ということになるはずですが、人間の生命を脅かすという理
あるいは、医療現場ではさかんに抗菌藁が使われています
そのために、牛や豚を屠殺したり、稲や野菜を刈り取
ものの生命を導わずには自分たちの体を養い活動のエネルギーを得ることはできません
殺生するなかれとの成めは確かにありますが、先述したように、私たちは食として他の
命は自己と非自己を峻別して他を排験する仕組みのうえに維持されています
当たります
厳格に区別し、他若を排除しなければなりません 要するに生体の免疫システムがこれに
私た ち の 生 命 は 矛 盾 に 満 ち て い ま す
3
1
0
いのちの授l!!
際的となる微生物の生存を抑え込んでいこうとします
。
。
そのためとくにウイルスなどは巧
って日比せてくれたあの光景
みに変異して人間側の攻撃の手をかいくぐり、人と微生物との攻防は操てるところがない
現状ですが、どれもこれもみな生命の実相なのです
、祖父が私に鶏を屠
こうい ったことを静かに慮るにつけ、拍 u
。
祖父に車接聞いたわけでもありませんから、そ
がまじまじと蘇 ってくることを覚えます
の真意についての確証はないのですが、同じ人間でありながら敵と味方に分かれて殺践し
それは必ずしも仏典の聖句や先哲の教えなどに拠るものではありません
ったのでは
合う戦争の血なまぐさい修羅場をくぐり抜け、晩年はひたすら大地を耕し沖に挽りながら
。
自然とともに生きる日々の中で、祖父は祖父なりの生命観や死生観を培 っ てい
ないでしょうか
。
でしたが、それだけに自分も含めた生きとし生ける生命のぎりぎりの真実を、おそらく直
接経験的に把握していたのではないかと思うのです
いく
。
ら 高 らかに生命の
仏教者の私た
世界を調散しようとも、
いくら世界平和や自他不こを唱えても、私たちの存をの根甑には他を帳別し排除すると
いう生 命 原 理 が 厳 と し て は た ら い て い ま す
。
った生命の大本のところを白らの日で今いちどじ っくりと見つめ直し、円らの
私たちの衣食住は他の生命の犠牲のうえに支えられてしか成り立 ちません
ちはそうい
。
てはなり
体験を通してそのありのままの真実に新たな仏性の花を咲かせていく営みをつ怠
ません
いのちの
将来は仏門に進むことになる孫の私のために、祖父が特別に用意してくれ「
た
。
授業 、 あの夏の経験は 三 十年以 上の年 月を超えて、僧としての私に大きな気づきをもた
(つづく)
らしてく れたの でした
1
1
東京・町田
勝楽寺
EW /タカオカ邦彦
真山剛
文/
山門から売る.~優等. .にJlえるのが集量郊 の.18. 6~.の..1J本袋、 手胞が庫銀.
寺院紀行
。
つ
もっともらしいことを
。
そのためには自ら弱者の
言 っても
、
実践しない
人間だから楽な方に身を置きたがる、でも坊さんな
。
」
ら苦の
お釈迦さまも法然上人も実践し
「衆生救済、これが仏教の目的のひと
。
中に自分の 身 を 常 に 置 か な く て は
ている
方に身を置 か な い と
で高みの見物では誰もついて来なくなる
。
朝からの取材が夕方を迎え、最後の質問に茂田真澄住職は、ひと
きわ力強い声でこう答えてくれた
。
三 賀山紹
さて、今回訪れたのは新宿から小田急線で約初分、人口なんと必
JR 町田駅か
万人余という東京を代表するベッドタウン町田市で、
ら歩いて 5分という街中のお寺、勝楽寺である 平成初年に平成仏
塔建立、翌年に・本堂の伽藍落慶を行なって生まれ変わった新伽藍と
。
。
整備された境内が迎えてくれた そして、話を伺ったのは
隆院勝楽寺 第 担 世 、 茂 田 真 澄 住 職 で あ る
。
1993
として、宗派を超えて仏教者が集まって
この名前を聞いて、ある NGO の名前が浮かんだ方がいるかもし
年に世界の貧国や不公正、人権擁護などに取り組
れない
む NGO を応援する NGO
。
。
仏教の目指す衆生救済を茂田住職はこのお寺をペ
l
スにした N
茂回住職はそ
設立したア lユス仏教国際協力ネットワークである
の発起人であり、設立以来理事長を務め、かつ現場で動き続けてい
る
昭和総年の道路計画で、岨場内が
3
・
ル崩岨唱で移転は自然消滅した
、
・
つに分割されることと怠った鵬策等
本町田への移砥来もあったが バブ
1
3
。
GO 活動で行なってきたが、それをこの新生勝楽寺で具現化した
。
勝楽寺は今を遡ることおよそ ω年前、東京オリンピックを控えた
当
昭和初年の町闇市計画道路で境内が 3分割されることになった
。
。
。
広い境内の大
時の計画道路は住民の意思は全く反映されず、線を引かれたら最後、
立ち退くしかない。とはいえ、予定が実施されるには長い年月を要
することが少なくない 東京の新橋では戦後すぐに予定されたマツ
道路と呼ばれるアメリカ大使館に延びる道路が、平成辺年
カ lサ l
の今まさに建設 中なのをみてもわかる
「
計画道 路 に 伴 い 本
・ 町田への寺院移転の話もあった
きな寺になる計画で、それはそれで移転計画を考えるのも楽しかっ
たけれど、バブルがはじけて自然消滅した」という符余曲折を経な
。
。
。
がら、平成同年には町田計画道路は着手されていく
境内の中を十字に道路が通るのだから大変だ伽藍はもちろん 三
しかし幸いなことに檀家
の多くはこの町 田を開拓した 当時からの旧家で、しかも商家が多い。
百余の墓 地 の 移 転 も 容 易 な こ と で は な い
道路の新設や拡張は地域発展につながるだけに、茂田住機共々ちゃ
。
。
だが、茂田住職には新たな思いがあ
った
。
そ
んと対応し、どういい形で整備するかで思いは 一致した
一部
町田市、そして東京都とも交渉を重ねてまとまった補償金に
境内地を売却して財政基盤とし、組信徒からは寄付を集めることな
く新伽藍 着 工 と な る
.
きる空簡で 、正 面には誕生仏が認ら
れている
本輔晶抽地下の髭生島田・多目的に利用で
1
4
、宇院紀行
れは、お 墓 の 需 要 に 応 え る ロ
00
カー式納骨堂の新設だ
ッ
粁もの 樹家申し込みを断
。
。
ロ ッカー式の幕は
って きていたからだ
った勝楽 寺 では新たに落を増やすことができ
というのも、人口が増え続ける町田市では纂の需要は右肩 上 がり
15
計画 道路予定地とな
ず、今までに
時代の ニ ー ズ に あ っ た 甚 な ら 欲 し い 人 は い る
同じロ
。
ッ
。
。
階から
。
。
9
万円
。
。
(ニ汲ま
費用には契約年
基設 世され 、個人組は初
階には例人埴
「勝梨守からのご提案 」 がその答えだ
「無量寿の塔 」 の案
カー式でもみんなが望むものにしよう
すでに都市近郊の寺院では珍しくないが、境内 地が 大幅に減るなか
ではこれしかない
トにある
ッ
墓を求める 側 が 何 を 求 め て い る の か ? 大 仏 塔
内 パン フレ
。 生 前購入の解約は全額返金いたします
。 寄付 を お 願 い す る こ と は あ り ま せ ん
。
階の納竹塔の
1
2
。承継者がいなくてもお引き受けします
O 成名 を 自 分 で 付 け ら れ ま す
9 階、地下
。 ペットも.緒に眠れます
地上
180
で)と代々岨(五霊まで)が合計 1344
年契約で加 万 円 、 代 々 喧 は 初 年 契 約 で
。
。
。
数までの管理費等のすべてが含まれ、さらに後継者の有無や戒名、
。
説明会も住臓がすべて受け答え、資料を配るのは家族で、
ベットという必が欲しい 人た ちの気がかりになることを明らかにし
ている
.
、
舎利鐙般の重量軍服には大園田予翠置車文
舎利。官圃閣が筒られているこ
がれも
三得掴民民の作a
/
5
800
。
住職自らの説明に参加者は安心する
。
。
。
すで
年に住職にな
。
これまでに数え切れない人
8
今は「 このお 寺は こころと命の相談所 」 という浄 土宗 が各
基以上となった契約が納骨塔建立の成功を証明している
業者には 一切頼らない
に
また、
。
もちろん助けられなかった人も何人かいる
っている
寺院に配っている看板に変えたが 、茂田住職は 平成
った
って以来、何でも相談を行な
の相談にの
。
さらに栂信徒の葬儀も全部自分で手配する 葬儀社、火葬場、そ
。
。
。
その中でたくさんの
今度の無量寿の塔の案内パンフレットのキ
。
して仕出し屋まですべてに関わる 葬儀をする家の経済状況や故人
った細かいニュアンスを汲み取り、 一番いい形で葬儀
っ てもらいたいからだ
への想い と い
ってくる
とにかく何でも自分でやる住職なのである
を行な
本音が耳に 入
ットーに違いない
。
人々の心に耳を傾け、人々の想いを形 にします」
ャッチフレ ーズは 「
だが、これ が 茂 田 住 職 の モ
生 まれ、大正大学卒業後いくつものお 寺 に随身し、勝
この茂田住職の感覚の良さや視線の低さは、先代である父の影響
先代、茂田文雄住職は福井県敦賀市の浄
土宗寺 院西光 寺
。
4 男として
が大きい
の
楽 寺第詑世茂由良賢住職の娘さんと結婚する。一 年に 二百日以上を
の人々からも
一目置かれ、組信徒からも好かれる人格者だ
ったとい
保護司などの奉仕活動に充て、地域では信頼のあつい住職で、地元
本.外鱒の調理事室〈下)、 本.前の~箇 (-!i:) も
三11園農民の作品で告側の調理事室は鑓を鎗いた
もの.三徳氏の作品は大本山由・上望号やft!!の浄
土宗寺娘、.潟宗大本山永平等など、多くの
寺院に納められている .
1
6
寺院紀行
ぅ
。
。
人柄にお金が集まり、社会に還 元されていく
。
その背中
とにかくよく働き、寺以外のことで寄付を集めても予定以上に
集まった
。
。
弟の茂田住職は小学校
を見続けていたのが、茂田住職である
また、子育ての方針は「好きなことをする」で、茂田住職の兄は
好きな烏の 世 界 に 入 り 鳥 類 研 究 家 に な っ た
二年生頃から映画のと りこになり、饗銭箱からお 金を盗んでは 映画
を観た
。
。
余談だが、
大のミュージカル好きで、当時は自
「アラビアのロレンス 」
館に通い、「ウエストサイドストーリー」や
は百回以上も観たし、日活アクション、文芸作品、東映マンガとあ
らゆるジャンルの映画
。
他ともに認める日本 一のミュージカル通だったという
娘さんが今 ミ ュ ー ジ カ ル に は ま っ て い る と い う
。
。
。
.
僧侶の 姿に信頼や信用があ
。
自分がどこにあるかも知らないカンボジアへの街頭募金で、
。
中高の頃の夢は映画のプロデューサーで、映蘭で人に生きる力を
「
大学に入ると映画は道具であり、仏教でも
与えたいと思っていた
人に力は 与えら れると、先代には寺の後を継げとは 一度も 言 わなか
ったが、白から 寺を 継ぐ意志が固ま った」と僧侶の道を選ぶ
そして浄土宗青年会でのカンボジア難民の募金で社会活動に目覚
める
。
スにした衆生救済活動を始めることになる
そして、実際にカンボジアを訪れ、難民
4時間で 7万円というお金が集まった
i
ることに気 が 付 か さ れ た
。
の現実を見た 寺をベ
・
幽閉楽寺から匂回目串に向かう商店街
・
、
情家総代の三個情家をはじめ勝店南串可
の岨帽療には宿同窓が多震
いは般に向
かう道すがらの商店のほとんどが纏
しだったという.
窓で、園風まで仲立園闘は後鯵のしっぱな
1
7
。
勝楽寺の檀家総代を務める 三橋闘民さんの
以来、いつでも目線を衆生の中におき、他の為に尽くす住職を檀
。
家はどう見ているのか
もともと信心深い
。
あ道
勉ら
には
お宅を訪ねた
つ 2転
。
た:
私の父は そ れ は お 寺 さ ん に は 尽 く し た 人 で ね
「
.合、
人ではあ ったけれど、先代や先々代を信頼していた 今の住職も同
。
。
年源蓮社光
に.
p'1
圃
|
な・
白
びm
tt!!の
た代
飛住
じように人間的魅力があるね」
。
1 573
近江の出である 三橋家が足利幕下、上杉家の御家人
. 司E 楽
こういう 三橋さんは町田を代表する芸術家で、日展の参与などの
。
。
そし
鍾考
え歴
会主 J延孟
る 1111
肩書きを持つ造形美術の大家 伺践になる現在もその旺盛な創作活
動は衰えることを知らない
。」
。
「三
橋さんがいてくれたから、この整備も上手くい った もちろん
数え切れないほどの作品を寄進してもら ったけれど、それ以上に貴
重なアドバイスをもらっている
ここで、勝楽寺の歴史をひも解いてみよう
て創建され た
二 新右衛門開基で、八王子の古剃極楽寺の末寺とし
替上人間山、 一橋
族ら
合
として鎌倉へ下向し居を構えたが、戦に明け暮れる武士一
か
意のもと帰良、相之原と呼ばれるまぐさ場だったこの地を開拓、関
村し、数年後に菩提寺を作った それが勝楽寺で、 寺 名は 三 橋新右
。
衛門の戒名、寺紋も隅きり 三。 また、本尊阿弥陀如来も胎内文書か
ら元禄時代に 三橋家が招いた本尊であることがわかっている
一一
1
8
寺院紀行
。
閉山以来、
400
。
そこでア
1
。
江戸時代に
。
。
。
。
年以上も持ちつ持たれつという良い関
て平成の無量 寿 の塔の上には 三橋さんの作品である相輪が燦然と鱒
いている
。
係を保ち続けている檀家と菩提寺というのも珍しいだろう
町田の歴史を調べると、 三橋の名前が度々出てくる
う
賑わ った勝楽寺門前の 二六の市、明治時代に八王子 と横浜を結ぶ絹
の道として敷かれた八浜線(現 JR 横浜線 ) の原町田駅の誘致、最
横浜線の町田駅新設にも関わられて いるだろう
J R
もちろんお寺には
一銭も入らない
。
それが茂田住職の
(ルポライター )
した不動明王.現在は・複に -88にそのお.が組み込まれてい
る. 奮はお不動さまの自には屋台が~んで大いに賑わった .
近の小田急 線 と
。
とにかく今の町田を拓き育ててきた名家のひとつが三橋家である
最後に面白いエピソードを
こう 言
院号の戒名はいくらですかときく新しい檀家に住職は
。
。
お金で買えません 」、それでも欲しがると、そういう
人に授け
院号は菩提寺や社会、または国や世界に貢献、奉仕した
「
られるもの
活動をしている団体にそれなりの額を寄付して下さい
と 尋 ねられる
寄付などしたことが無く、そのあてもないから 「住職どこか御存
ユスを紹介する こうして
知ですか? 」
。
それなりのお金がだせる人の戒名料で世界の子供たちが救われるこ
とになる
。
1
9
の衆 生救済の方法で
奉仕であり、貢献でもあり、茂田住職ならでは7
ある
明治の廃仏.釈のときにIH廃寺繍-が大山の聖書から自問楽寺に移
迷載
二Lよ占
日u
壷@
田
末日
男
γ 海
、旭
月
Fを
求
め
て
議中に月 を 求め て
遥かな る ス ト ラ ス プ ー ル
昭和 二 六年 (一九 五 こ二 月に放送された
N H K ラジオ番組「光を掲げた人々、新しい
時代の聖者、渡辺海旭」は、海旭ゆかりの多
岳父とは足 立 文太郎
近代日本の解剖学の
。
った
ト
。
ラスプール大学で
草分けで、足 立 は医学、海旭は比較宗教学と
分野は異なるが、ここス
ジフテリアと破傷風の血清療法を編み出 し
共に学んだ留学 生 仲間だ
た北里柴 三郎、赤痢菌を発見した志賀潔、梅
くの人 々 に 久 方 ぶ り に 海 旭 を 想 い 起 こ さ せ た
ってドイツ赤十
が、それからなんと 三七年もたつてから、遠
太郎も血管系の解剖研究によ
い異国の地で、ラジオ番組の冒頭エピソード
。
海旭の海外留 学仲間との交歓を反劉する
。
。
毒の原因であるスピロヘータパ リ ーグの培養
に成功した野口英世など、近代日本は国際的
立文
な医学者を輩出したが、井上の岳父・足
ll
老境の 大 作 家 が い た
敦慢 」「天平の聾」 など西域
大作 家 と は 、 「
マにした歴史小説で知られる井上 靖
字 名誉章、ドイツ最 高 学会会員に推薦される
l
をテ
など、彼ら と比肩しうる 学 問的業績を上げた
。
ったアルザス地方の古都、ストラスプ
ところ は 戦 争 前 は ド イ ツ 領 で い ま は フ ラ ン ス
領とな
死去したこともあ
活動時期が「戦時 」 にかか
って敗戦の直前に
しかし、研究分野が地味であることに加え、
論文のほとんどがドイツ語で替かれ、さらに
に近いが、 平時であ
ールである
井上は、 一七世紀に建学されたという伝統
にふさわしい荘厳なたたずまいのストラスプ
il
。
それにしても、岳父と渡辺海旭ゆかりの
あ った
まちがいなく受賞していたといわれる逸材で
ったらノーベル医学賞は
って、日本ではいまも無名
ール大学本部を見上げながら、ふー っと深い
。
いまから 百 年前、近代日本の青雲 時代に、
ため息をつくと、ひとしきり感慨にふけった
||
ここで岳父は渡辺海旭と親交をふかめたのか
2
1
。
ストラスプールは遠か
。
った
。
や
っとこられた
そして、八十にな
ってから、
った井上に
半 世紀以上
井上の中にストラスプールという地名が強
つ ていた
くわだかまるようにな
がた
っ てきた
国 の間で、文化交
ょうよう彼の地を訪れる機 会 がめぐ
った 。二 年前、日仏両
トラスプールをわだかまらせたものは、結婚
った
。
したての井 上が生前の岳父から見せられた世
にも不思議な 「
証文 」 だ
世にも奇なる
「屍体贈呈の覚 書」
それはパ百年前、ストラスプールという遠
い異国の地で、足 立 と海旭との間で交わされ
のだ
流の 一環として日本の優れた 短 編と詩を 六十
妻のふみと 長女の浦城いくよを同伴して、大
る蓋問寓 三載除問君が学に力むるのを 至
て 予が死後の屍体は之を足立文太郎君に贈
。
日仏文化関係
とおりだった
「
屍体贈 呈 の覚書 」 で、その文面は以下の
た
って記念のシンポジウ
篇ほど 選 ぴ 翻 訳 出 版 し よ う と い う 企 画 が 持 ち
上がり、その 完 成を祝
江健 三郎や佐伯彰 一らと渡仏
れるに感ずるあり予が衷心の尊敬を同君
ムがフランスで催されることになり、井上は
者による パ ーティやシンポジウムなどがもた
に表するの栄を得むことを欲すればなり
。
れたが、その後、井上はぜひ独仏国境の古都
五年前から痛をわずら
っ
っており、この機
井 上 の中に、これほどス
一に同 君 の意志に任す屍体取扱の知き
も断じて特別の待遇を要せず窮民の遺体
も
望する所あらず之を粉砕するも焼棄する
一、予は吾骨髄軟部等の保存に関して篭も希
するを得ず
予が親戚乃朋友 等 は 一切之に対して抗議
。
訪問を そ の 旅 程 に 加 え る よ う に 希 望 し 、 実 現
。
井 上 はすでに岳父の 享 年を 一歳超えてい
したのである
た
。
を逸したらもうこられないという思いがあ
たのか も し れ な い
2
2
娠中 に丹 を求め て
刑齢の残骸と同 一の取扱を得ば足れり
寺
現住地東京市深川区御船蔵前町十 一番地西光
渡遁海旭印
益するに足るものあらば其保存因より之
一、官機臓器骨怖等若し世に伝へて後学を縛
足 立文太郎君
。
。
実際に昭和八年に梅旭がなくな ったときに、
この証文は実行された 当時新聞にも大きく
報道されたが、足立の母校である東京帝国大
を妨げず之を外闘の原本と交換するが如
きも亦不可なし
一、鹿体解剖の主任者若くは局部材料の使用
者は足立君が認めて適当となす人は何人
にでも同君より其権利を取得すべし
もと、足立も解剖に参加
海旭の脳はかなり
重く、耳目散石と.匹敵するほどった
だと昏父か
。
学医学部で、思師の小金井良精らの立会いの
朋友若くは門下の中同君の意志に由りて
ら聞かされたのを井上は印象深く覚えている
一、足 立君予に先ちて死亡したる時は同君が
此党曾の権利を承継する得此場合には骸
「発動 」
証文」と「証文の実行」は、井上の
この 「
岳父へのオマ l ジュ としての
芥川賞受賞第一作
本継者は其姓名を予に通知あるを要す
一筒
て 予は予が死後屍体の鮒致と共に若 干 の金
円を之に添付せんとす少くとも石鹸
手巾 一枚入浴費及醇良の酒 三 四合の代金
を添付せんことを期す執万事に従せんし
文学者魂を大きくゆす
って五年後の昭
ったが、それが
後入浴 一番少く陶然たるの快あらんこと
するのは、不幸な戦争が終わ
和 二五年、井上が四 三歳で念願の芥川賞を受
を欲すれば也
明治 三 十六年十 一月 三十日足 立 君和蘭ライデ
こ
た
賞、受賞第 一作として 「文学界 」 に発表され
。
二日独 立 エルサス州ス
ン府を 経 て 叫 抑 制 す る 前
「由良のシャクナゲ 」 においてである
トラス ボ ル グ に 於 て
2
3
温辺海lØlI.足立文太郎と共に留学したストラスプール大学
24
遊中に月を求めて
れは岳父をモデルにした作品で、そのなかに
海月は即座に半紙に筆を走らせ、己が死体
。
渡辺海旭と交わしたエピソードが次のように
差し挟 ま れ た
。
酒仙という 言葉がそっく
つぶりが
月のモデルは海旭であるが、 二人の留学先は
なお、 三池俊太郎のモデルは岳父、谷尾海
。
を記した 」
を解剖学者 三池俊太郎に与えるという遺言 を
自分のとわしのと こ通認め、自分のには「親
族かれこれ争うべからず」というような文句
った
彼はわしより少し年長の、サンスクリット
「
をやはりライデン博物館で研究している風変
りな僧 侶 で あ
。
り当てはまる瓢々たる彼の酒の飲み
そのくせ、幾ら酒を飲
。
ストラスプールではなくオランダのライデン
った
ジ
わしは 栂 き で あ
この芥川賞受賞第 一作は岳父へのオマ
1
に脚色されている
。
んでも彼の頭の中には研究のことばかりが詰
わしは彼の研究がいかなるもの
。
ユであった
まっていた
ったし、彼もまた、わし
であ ったか知らなか
井上には、作家の登竜円である芥川賞を突
破できたのは岳父の励ましがあったからだと
。
。
。
井上にとって足立は 「尊崇の人 」
いう強い想いがあった
。
せ、はげましてくれたからだ
。
だった 偉大なる学者というより、偉大なる
学者でありながら、医者の道から文学という
軟弱な世界へ迷いこんだ井上に娘をとつが
さらである
受賞したときすでに
の研究がいかなるものであったか知る筈はな
っ てい
わしがライデンを引き上げる時、谷尾
。
しかしわしら 二人は意気投合した
かった
岳父はなくなっていたから、その想いはなお
。
学問の貸さを知り、学徒としての こ人の人格
を互いに尊敬し合うことにおいて、肝胆相照
した
海月はわしへの贈物として、自分の持
。
。
わしは君が死んだ時、死体を解
る最上のものを与えようと思うが、何を望む
かと 言っ た
制させよと 言っ た
2
5
足立 か ら は 「 人 生 は 急 ぐ 事 は な い
お前は、
。
と案内された
。
大きな執務室の壁には足立の
写兵が飾
つであり、ドイツ語で脅かれた大部
きっと日本 一の大家になる よ とはげまされ、
くよが誇らしげに領くのを、井上は満足げに
に使われていると聞いて、長のふみと娘のい
の論考は 立派な赤い皮で表装され、今も講義
言 われ
井上あ て の 手 紙 の 最 後 に は 、 必 ず 『
懸命不動』
。
また、饗のふみからは、父からこう
と曾き 添 え ら れ て い た
て結婚 を す す め た ら れ た と 聞 か さ れ て 、 岳 父
。
。
共同生活をしていて、そこからも尖塔がよく
たしか岳父は海旭と大 学近くのアパ ートで
ム大聖堂を遠くに見附るかすことができた
ストラスプールのシンボルであるノ
。
眺めた ついで当時足立が学生たちに講義を
したという階段教室に誘われた そこからは
。
への尊崇の念を 一層強くしたものだった
一つの麓に
トルダ
百四十メートルのわびきびた尖塔をいただく
。
だが、おまえならついてい
だが、池の鯉でも
普通の人が集まるところは、それなり
。
1
「
文士という仕事はおもしろいが、極貧であ
。
るかもしれない
ける
にいいだろう
しか
皆があっまれば、 一匹の食べられる量はいか
。
。
り、井上は回想にひたってい
。
。
と、芥川賞受賞第
一作に
に議論をし、その中で 「屍体贈 呈」 の話が成
岳父と海旭は、酒を飲み交わしながら大い
った
何時しか案内人たちの声が間違いにな
っても道に迷
見えた、あれがあるから酒に酔
ありつけない者もある
ほどでもない
わず下宿に帰れたと聞かされたことを思い出
。
し、離れたところでほかの者が気づかない継
した
lで
を見つけた鯉は悠々と食べることができる」
ワインセラ
カムフラージュされた解剖室
約したのだろうか
岳父と海旭が交わした 「証文 」 をエピソード
井上たち 一行は、大学 関係者に 医学部 (
正
式名は本梁生である大細
として挿入するときの戸惑いがふ っと浮んで
菌 学者の名を冠して
パスツ ール研究 所だと教えられた)の校内へ
26
蛍ゆに 月 を求めて
。
岳父から聞かされたときは、たしかに小説
きた
。
しかし、なぜか、そのまま暫き
よりも 奇 な り の 事 実 に 仰 天 も し 、 創 作 魂 を 刺
戟もさ れ た
武士道小説の逸話な
。
ラーがこんなところにあるのかと井上はいぶ
かった
。
混明によると、死刑が執行され
上を指差されて見上げると、天井に穴が
と、その奥に石造りの小部屋が隠されてい
た
。
あいている
。
込むのがためらわれた
た死体がここから投げ込まれ、それを岳父は
ストラスプール大学当局はその学問的意
らともかくも、近代日本の夜明けの悩める知
。
たのであろう
。
や
トを取り出すと、この小部屋の片隅
井上に作家魂がむらむらと湧いてきた
1
まで往復しては、その歩数を書き込み、そこ
おらノ
。
義を認めて、このようなカムフラージュをし
う
ありがたく拝領して解制をしていたのだとい
。
だから、エピソードはでき
識人のそれとしては、いささか前時代的に感
じたからだった
あの違
るだけ経くさらりと書き流したうえに、海旭
「証
。
ったときに
。
ったことにした
がモデ ル の 谷 尾 海 月 が な く な
文」 は実行されなか
和感はなんだ ったのだろうか そんな疑念が
去来したところへ、長女のいくよから声がか
顕の中に、投げ込まれ
。
った
解剖を終えておの小
にメモを書き加えた
。
だ
ったのはそのせいだ
。
岳父
ったのかと思いなが
は洋食党だがなぜかワインは好まず日本酒党
きわだってきぞ悩まされたことだろう
へ抜け出ると、体中に染み付いた死臭が 一一周
部屋から芳博の香りがただようワインセラl
。
かった
なぜワインセ
ヌ地方はワインの 一大
。
っきりと浮びあが
た刑死者の屍体と楠闘している倍父の姿がは
。
「お父様、これから足立のおじいさまが仕事
。
この先ですと、誘われ
をされ た 解 剖 室 に 案 内 し て い だ け る そ う よ
」
.・・
井上 は 我 に 返 っ た
l
たところはなんと大きなワインセラーだった
ここアルザス・ロレ
産地で 、 逸 品 が な ら ん で い た
27
担辺海1ftが寄宿していたと恕われるアパート
28
ら、井 ヒ の 疑 念 は 氷 解 し た
。
。
っ
岳父と海胞との
。
おそらく海地は、岳父から、いかに解剖
「死体附皐 」 は前時代の約点などではなか
た
また近代医学
仕
t
1
。
った海
ジュとすることができたのに
げて、岳父と岳父の無 二 の友であ
旭へのオマ
さらに案内人から、岳父がシユパイツア!
と、井上は大いに悔やんだ
と同期で解剖にも付き合った可能性があると
のため の 死 体 の 入 手 が 閤 雌 か
はないか、いやシユパイツア
1
は牧 師でもあ
とシユパイツア!とは深い親交があったので
ったら足立文太郎と渡辺海旭
聞かされて、だ
一体でも多くの死体を解剖
相手は殺生を好 まぬ僧伯であ
の発展のためには
。
することがいかに必要なのかを静静と聞かさ
。
その海旭が親友の別離に臨んで自らの死
れたのだろう
る
ったことを考えると、医者の足立と宗教家の
。
これは前近代的な 「
餓
体の提 供 を 巾 し 出 た
一度揃きなおしてみたいと
海旭との開を親密にしたのはシユパイツアー
もう
その背後には、ともに近
。
っ た。(
この項つづく)
いう想いが、井上のなかでにわかに募るのだ
。
別」 なぞではない
。
の可能性がある、そんなひらめきが閃光のご
ったのではないか
とく湧いた
代日本を背負わんとする明治人のあい寄る近
代的魂があ
もしあのときこの小部屋を見ていたら、あ
ードを点ん中にすえた作品に
の桂度の 小 口聞のなかの一挿話ではなく、岳父
浄土宗法衣専門
古島法ゑ恋
会社
と海旭のエピソ
古き伝統技
三代にかたる信頼
有限
品 、言手
自・./ ~カオカ,.a
会いたい人
米圃治さんのクラシック音楽への傾倒は、
.
同志社大学の女子音楽学部出身で、喜
仕事で出会ったソプラノ歌手との結婚につな
がる
シュ
・
。
.
関
出てくるだけでいかにも船場のぽんぽんらし
かった
「
四女妙子のお相手の啓ぽんの役ですね
ったらしいんで
西の独特の雰囲気を持つ若者を探していらし
て、ぼくが監督のお自に留ま
す .台本をもらってうちに帰ったら、線父が、
トラウスのオペレッタ
歌劇楽友協会に所属する彼女がヨハン
『
こうもり』のしたた
ダを歌ったとき、米圃
l
かながら可憐な娘イ
1
って
(笑〉。
それ
へ行こうと思うんや
けど 円 ほら、 言うて みい、
さん、今度ぼく、パリ
と 雷う なり、いきなり指導を始めて、?」い
お前、できるんかいな、ちょっと見せてみい、
ウ h に佐渡絡さん指姉で出演な
ルのオペレッタ『メ
.
治さんは刑務所の看守フロッシユ(台詞だけ
ド
l
の役)に招かれて客演したからだ
ウィ
・
「
ざこば兄さんもレハ
リ l
そういう関連から『こうもり
不信の第 一歩です(笑)
.
.
ト ッ
これが親父
とにかく映画は座
らっ た、とは 宮 えませんからね
い方するの?って.まさか米朝に教えても
プがかかって、君、どうしてそんなクサい言
と、やり出したら、監部 口のス
で古手 川祐子さんを相手に司こいさん、今度
.
::: h
さってますし、ぼくはラジオのレギュラー番
の音集劇『兵
ぼく
l
組で知り合った井上道義さんとたちまち意気
投合して、ストラヴィンスキ
ています
士の物語 h に井上さんの指榔で出演したりし
』に
も出たわけですが:::以来、そのソプラノ歌
立っ て動きなが
らしゃべりますし、タバコをすったりお茶を
、
米 聞治さんは こ十代のころ、映画やテレビ
飲んだりするのも、落語は扇子や手拭を使っ
ってしゃべる落請と逃 って
にもかなり出演していて、中でも強く私の印
て表現しますが、映画は実際にそれをしなく
手の尻に敷かれてます(笑)」
象に残っているのは、市 川 島監督の『細雪 』。
3
1
米崎師匠 (5). til!緩雀兄さん {申)と.
平成5.f事9月3臼燭飯島にて. cr予米組j より }
ちゃならない
.
なまじ落語の動きが身につき
『
おはん』
出したころだけに、これが結構むずかしかっ
たですね 」
しかし結果は上々で、市川監督は
にも米回治さんを起用しているし、その後N
。
心はいつもラムネ
HK 朝の連続テレビ小説 『
色 』にも 出演している
「
あのときは藤山直美さんが漫才のミヤコ蝶々
.
「
それにつけても:::
」 と思
これもぼくにとって大変な勉強にな
さんの役で、ぼくが相方の南部雄 二さんの役
でした
りました 」
米副治さんが
.
った方で
いを馳せるのは、この世界へ入る道を聞いて
「
噺家になるあと押しをしてくださ
くれた兄弟子、技省さんのことだ
3
2
会いたい人
.
噺家の息子って、興味
すからね.それがなかったら噺家にならずに
いたかもしれません
はあってもなかなか 言 い出しにくいものなん
痛む、と話していた
.
「
枝雀さんの家の 二階は公闘が見渡せるんで、
逆に公聞からも中の様子が見えるんですよ。
兄さんはひどい管状態で
ぼくは何回も伺っ
です
て、こうこうですから、と 何 を 古 っても、す
乗 ってこないんで、あのな、酒というのはな、
いこ、 一停いこ、飲んでくれ、 って.向うが
、
れて、落語が好きみたいやし、あるいは私が
んませんな、ほんまにすんません、とぼくら
枝省兄さんにも 二人の息子さんがおら
あと抑しをするべきだったのかもしれないけ
にも敬語を使って小さくなっておられました。
.
ども、遠慮も責任もあってちょっと言 えなか
。
らな か ったら、
一杯
親父が心配して見舞いに行って、技雀、
とハッパをかけてくださ
った.だ から、ぼくも、枝雀兄さんが 『行こ
!』
こうやって飲まないかんのや、さ、ついでく
ざこば兄さんも 言 い出しにくかったと思う
父も、 二人があんまり 言うんで仕方 なく、と
れ
.
こんな欄子でうちの親父
岐雀さんがつぐとい っきに 飲んで、さ、
いう形で決まったんで、本当にそのおかげな
受けてくれ、って
.
んですよ 」
ったな、こんな こともあったがな、と昔のこ
とんど飲まなかった
がベロベロにな ってしまっ て、枝雀さんはほ
十歳の誕生日を祝う催しが各地を 巡演し、私
と 言っ て盛り上げて・:いや、米朝は自分だけ
去年の暮れ、桂枝雀の(生きていれば)七
は上野鈴本に出かけた. 一門とゲストによる
一生懸命なんですよ
あのときあんなことあ
座鍛会に、体棋の金メダリスト森来 償 こさん
なくて、なあおい、まあまあまあまあ、と酒
。
が出て、亡くなる少し前の枝雀さんが広々と
相手の話を聞くんじゃ
したガラス張りの 二階の部屋にポツンと座っ
をすすめて、飲みたないって 言 うてるのに、
.
ている姿が外から見えて、思い出しても心が
3
3
飲んでくれ、って懇願してね。それから何週
間もしないで、枝雀さんは自ら命を絶ってし
。
米朝さんのこの死生観が米圃治さんになん
となくわかったのは、こんなときだった
「
先代米圃治師匠のお弟子で桂米之助という
方があって、すぐ上の兄弟子 なので親父とは
まわれました 」
米圃治さんの語るその場の光景は、さすが
つてはったので、ぼくがわからないことがあ
無 二の親友でした。大阪の古いことをょう知
。
に米朝さん生き写しの口調でありありと目に
ると、すぐ悦ッちゃん(本名 H矢倉悦夫)と
米朝さんは 一番弟子の死をどう受け
浮かぶ
と生きるととの 差 をあまり感じてないような
と思います。しかしうちの親父は、死ぬこと
してましたね 。言 葉が見つからなかったんだ
が伝えに行くと、ビール飲みながらメニュー
でるときに米之助師匠の卦報が入って、ぼく
テルプラザのマルコポ
い間柄でした
こ行け、って言 われるくらい、親父とは親し
ところもあるんです。自分の父親が神職だっ
を見てた 。『あの、悦ッちゃん師匠、お亡く
言 って荘然と
たということもあるのか、神の司親みたま』
なりになりました』『えつつ・悦ッちゃん死
「
えらいことになったがな、と
止めたのだろう。
からわれわれは『分けみたま』となって人間
んだか
::
ロというパ
l
で飲ん
』。兄弟子が死んだこ
一つ(笑)
。
。
:そうか、(店員に向かって)サイ
i
それで父がちょうど大阪のホ
の形で生まれてきて、寿命がつきると肉体が
コロステーキ
。
滅びるだけで魂はまた親みたまのほうに戻る、
仏教は輪廻転生やし、キリス
とと、今自分が食べるもののことが同等なん
。
という考え方
ですよ
とい
ト教も天国のイエス様の元へ召されるし、考
うより、悲しみをあまり口にしたがらない
人間の死をあまり悲しまない
えたら道のりは違えど、真理はみんな同じな
そら寿命ゃないか、という感じなんですね。
。
のかもしれませんね」
3
4
会いたい人
ひょっとしたら枝雀もまだどこかで生きてる
がないと思
に夢を与えるようで結局叶わないんじゃ仕方
ところが、前にこぶ平時代の林家正蔵
『
景消』をやらなか
と思ってるフシがあって、酒飲んでてまだど
った
っ て、ぼくは
こかに兄ちゃんがいてるような感じでしゃべ
さんがやるのを織で聞いてて、主人公とこぶ
ッと収散した
.
そ
きで、自分と同化させてしまった.すると会
んの 一途な思いがその人物をスッとおろして
で、感激して泣いてしまいました。こぶ平さ
。
って、あ、枝雀はもう死んだんやな、なんて
ちゃんのひたむきさがオー バーラップしてき
」
言う。その人のことを口にすることで、その
人が匙るようなことになるんですよ
落語は最高のバーチャル(仮想空間)の芸
だと思う、と 雷っ た人もいるけれど。
l
.
これを聞いた途
ういう瞬間があったんです
場がその男 の 一点にシュ
ありますけどね.落語の登場人物がそこにい
端に、 『景消 』っ て噺は夢でいいんだ、夢で
「
バ ーチャルと いう言葉にはちょっと抵抗が
るわけじゃないけど、お客さんの頭の中にイ
もこんな素晴らしい夢があるんだ、と思って、
その点、父は非常
メージさせる芸ですよね
それを聞いてから彼ほどのひたむきさはない
.
に落陪的な生き方をしているな、と思いまし
けどぼくにもできるかもしれない、という気
」
米圃治さんの物ごとをみごとに分析して諮
になって、今日これからやるんです
た」
今 回、米圃治さんに会って話を 聞いたのは、
。
まるで
る鮮やかさにはうっとりさせられる
「
ぼく米圃治は単なる演奏家じゃなくて、も
。
これからル ・テアトル銀座で 『景清』を口演
夢物語で、自の見えない方
だ
コンサート会場で音楽を聴いているみた い
.
「
この噺は作為的で、現実から雌れすぎてる
する前の時間だった。
と思うんですよ
3
5
f七段目 j 大飯・池図アゼリアホール . 1II1it9~事10月 30 日. 燭~/~.金次郎
3
6
会いたい人
う
.
ー
ケストラの連中が
その呼吸が狂ったらバラバラ
一人の指御者米闇治に操られながらしゃべ
ってるんです
指障者はオ
。
「
落語と芝居は違うんやから、ええテキスト
に思う
があるんやから、その通りに被々としゃべ
.
になります
たらええんや、という御意見をいただくこと
一つ間違えれば本 当 に怖 い悪魔に
。
ぼく、舞台という魔物がえらく
「
落語に限らず、舞台人としていろ いろ挑戦
.
したいです
好きでね
.
おわり )
これにとりつかれたら、ちょ
っとやめら れまへんわ 」(
れますからね
なるんだけれども、時に大きく成長させてく
.
っ
があって、この教えはこれからのぼくの課題
酒飲みに行ってる問も部屋で譜面とにらめっ
こで、孤独な作業をしてますよね
です.人の欠点は誰もなかなか宮ってくれま
.
ここのフ
ヱルマ!タはどれくらい延ばすかとか、ここ
せんから、 言うてもらったことでまた別の個
。
のフォルテはどのくらい強くするかとか そ
」
有難く、聞く耳を持たないといけな
ったら、さらに大きくなれるかもし
性が加わ
.
のかわりその演奏の評判がよかったら、プレ
.
い、と思ってます
笑いと感動と拍 手 の
米圃治さんの今後の多彩な活蹴が楽しみだ
れない
こーんなに輔があ
イヤー以上に指障者の地位がア ップ します
。
噺家も構成や演出を考える自分の指帰者の評
判がよかったら上に上がるけど、ダメやった
らゼロになりますからね
.
りますよ 。それは誰が決 めるかと 言 えば、お
客さんが決めるんです
『
稽 古屋』や『七段目』が、
量で決まるんです」
米圃治さんの
「
れ
踊りすぎる」「演じすぎる」と忠告じてく
る先輩がいるというが、まだまだ米圃治さん
、
指障者が抑えこまないほうがいいよ う
の若さでは、あの花やかで派 手で 色っぽい 芸
風を
3
7
響涜+方
、
。
。
阿弥陀ほとけの御ちかいには、有智無智をもえら ばず、持戒破戒
をもきらわず、仏前仏後の衆生をもえらば、ず、在家出家の人をも
きらわず、念仏往生の誓願は平等の慈悲に住しておこし給いたる
事にて候えば、人をきらう事は、またく候わぬなり されば観無
量寿経には、仏心と者大慈悲是なりと説きて候なり
九月 二十八日付 )
}
法然上人【滞戸 三郎へっかはす御返事 (
、
、
阿弥陀さまのお誓いは智慧のある人も智認のない人をも選り好みせず、戒律を守
れる人も守れない人も嫌うことなく、またお釈迦さまのいらっしゃった時代の入
入滅された後の時代の人も選り好まず 在家、出家の違いを分けへだてることも
、
l
。
人を分け隔てするなどということは決してないのです 。『観無量寿経 』 に
なく、念仏往生の誓願はあらゆる人々への平等の蕗悲の御心から発されたのです
から
ー平等の覚悟
「
仏心とは大慈悲これなり 」 と説かれている通りです
アゲハが舞うころ
轡流十方
。
。
幼虫にな
。
家人
卵を見つける
。
った時、その葉を食べるから
。
ったことがあるの
アゲハが気になるのは、アゲハ
じつは家人がアゲハの飼育に凝
ったのだ
その日が命日の仏さんのお参りに、お檀家さんの家
今シーズン、初めてアゲハチョウが査を舞う姿を見たのは、確か五月 二 十 一
日のことであったと思う
。
に行く途中、目の前を飛ぴ去ってい
。
アゲハは山楓の葉に卵を産み付ける
。
ッ
クし、卵の有無を確認した
山棋の臭いや味がたぶん天敵除けになるのを見越しているのだろう
。
ある年のこと、それはまず、卵を見つけるところから始まった
に興味があるからではない
だ
だ
は、庭の 山椋の木の葉を毎日チェ
気町
と、それが幼虫になるまで見守り、烏が見つけそうな大きさになったところで、
。
。
幼虫が 山搬の葉を食べ尽くせば、新しい枝に取り替え
。
ふか
それが見たい
しかも癖化した時にちゃんと羽が聞くよう、サナギにな
。
私には償えがないが、家人の最大の関
。
糞の始末をしながら、何度か脱皮を繰り返す幼虫の成
。
あとは花瓶に山織の枝を挿して適当な箱に入れ家の中に持
枝ごと幼虫を採集
った
っ越しさせる
ち込み飼育が始ま
幼虫を引
っただろうか
長を観察し、サナギになるのを待ったのである
この問、どのくらいだ
。
心事はサナギがアゲハになる瞬間、つまり癖 化 する場面である
から育てるのである
3
9
、
。
六 匹の幼虫を育てていたと思う
る場所へ誘導もしてやるのだ
。
自然界ではあることだ
。
。
。
。
。
サナギになるタイミ
しかし、その目論見ははず
家の中のどこかでサナギにな
それは行方不明の幼虫がいたこと
サナギになる直前、 一匹脱走したのである
った
これから寒さが増すという時、サナギはアゲハになり、家人は
。
つたのか私には分からないが、どうやら家人はサナギのまま冬を
その時は、たしか 五
ングがどうだ
った
越させようとしたらしい
れてしま
心配そうにアゲハを空に放した
。
じつは家人にはさらなる心配事があ
だ
。
。
ッ
。
。
部屋の
たぶんカー
シに邪魔され広がりきらなかっ
傘を閉じたようなしわしわの羽
しばらくして、部屋の中に 一羽のアゲハが現れた
っているにしても、無事に羽が広がる場所で解化してくれるかどうかが心配だ
ったのだ
心配は的中した
。
シの聞で癖化していまい、羽がサ
。
っ
やが
羽を持
った
。
脱脂綿に砂糖水を含ませ、吸わせ
。
吸わせるためにアゲハを捕まえる
。
これでは空に放つこともできない
ッ
隅のカーテンをよじ登っている
テンとサ
。
った
たのだ
るくらいしかしてやれなか
。
鱗粉が取れ、次第に羽がボロボロにな
て脱脂綿にしがみつかせる
4
0
里担こ左
て静かに死んだが、成虫としての寿命近くまでは生きたらしい
。
。
。
。
。
。
目論見より
もちろん家人は卵から無事アゲハにして
しかし、どれだけ慈しんだとしても、私たちの思
幼虫が脱走する
何であれ、物事にはアクシデン ト や計算違いは付きものだろう
早くサナギになる
いが実らない時はある
。
青空に放してやりたかった
平等の慈悲に住する
。
現実の問題なのだ
。
あらゆるアクシデントを想定し、
阿弥陀さまにとっての平等とは、掲げるべき理想の段
階ではすでになかろう
。
たぶん何
あらかじめ計算追いが起こりうることも考慮し、それらにいかに対処するか解
決済みでなければ、平等の慈悲に住することなどできるはずもない
。
。
今度はいつ卵を採
(
浄土宗総合研究所繍山歯車甥}
っ てくるの
大慈悲の大には、も
度も何度も失敗を繰り返し、その都度切ない思いをして何度も努力をし車し、
これでもう絶対に大丈夫という確信を得られたのだろう
。
う失敗は許きれないという覚悟が込められていると思うのだ
。
舞い飛ぶアゲハを見る時、家人のことを思う
だろうか
4
1
石丸晶子
め法 K 5
ぐ然
る上
人人
々を
の
「どないしたん
。
。
えらい慌てて」
ったか
戸口を 振 り か え っ て 同 時 に い っ た
ek
「あんたら聞こえへんか
らい騒 ぎ や で 」 と 弥 太 は 、
。
。
ん
AYAvhH
通と蓮が
いま表はえ
「源氏のお侍やとかお侍ゃったとかいう大男
が、表に押しかけとるねん」
った
。
表では問もなう法然さまのご法話がはじま
「
過がい
るのんとちがうか 。」
蓮も つ づ い て 、
ゐ
b
ったけど、わてらこ
っちの話で気い
「そういうたらさっき表のほうで騒ぎ声がし
たようや
とられてたさかい 」
で」と阿波の介もくりかえし
「表は騒いどる
て、
。
失礼ゃないか 」。蓮
そしたら大男が馬
「
わては道遍さんらに 手伝う て庭にお集まり
。
っ てな 」
の方々を誘導してたんや
で乗り つ け て 来 よ
「
何やねん、そのお侍
が償
って怒鳴 った
。
「ここをどこやと思うとるねん
。
摂政関白さ
まかて法然さまのところには吉水の坂の下で
駕健を降りて 上がって来 はるのに 」
源氏のお侍は礼儀知らずが多いからな 」。
「
通はそういうと、
。
庭の情に大
「そんでどうな ったんや」
「どうなったんも、こうなったんもあらへん。
ど
庭にお集まりの方々を退けてな
。
。
きい公孫樹の樹があるやろ あの樹に馬を繋
どど
いで、あとはそこ退けそこ退けや 」。阿波の
「
何ちゅう無礼な 」
った
介は両腕で周閣を掻きわける仕草をした
そのお侍の勢いに押されてや、集ま
「
。
お侍は出
で
ってお侍の前に道がで
ったんやけどな
方々はわあッと隅に散
けた 」
「ひどいなあ 」
「わては傍で見と
来たその道を周りの人ちゅうもんには自もく
れんで、堂々と 一人で草庵の 戸 口に向かいよ
4
3
七
4
4
った
。
あ っという間ゃ
「
何や え ら そ う に 」
悔し そ う に 蓮 が い
。
ょう聞
。
っ
っ
そら
何とかいうて喚いと
。
ったわ 」。
弥太がい った
お頼み申す 。言 うてな
。
った
「何しに来たんやろ 」
。
不安そうに過はいう
「お頼み申す
。
ったんか」
もう大 声 で わ め き ょ っ た わ 」
ったわ
名前 は 名 乗 ら ん か
「
b崎
「
何や喚いと
。
ったからな
たな 」
そういうと弥太は阿披の介を振りかえ
た
阿披 の 介 は 、
「
何せ大声で喚きたてと
何 言 うとるか、誰も分からへんがな
弥太と 一緒に急いでこ
っ
。
道遍さ
っちに来
ら に知らせなあか
んが慌ててそのお侍んとこに駆けつけなさ
。
たんをみて、わてはあんた
ん思うてな
たんや 」
A'auf
白
一刻 (2 時間 ) ほど後、そのお侍
〈まがいじる
それから
すなわち熊谷次郎誼実は、草庵の居間で大き
。
。
あれ
わたくしは熊谷
。
体を縮めるようにしてはいるもの
な体を縮めるようにして法然上 人と向かい合
っていた
の、どこかまだ荒い息遣いである
。
「
熊谷殿のことはよく覚えております
は寿永 三年でありましたか
殿のお迎えをうけて、 三位般のおられる掛川
きとれんかったけど、熊谷が何とかち言 うて
の御堂へまいりました 」
。
平家の公遣がどうしたの、須磨の浦が
。
っている直実をみて法然上人の頼には
っている
一の谷で源氏に 生け捕られ、都に連行され
徴笑がひろが
畏ま
たわ
つぺんに喚かれては、
どうし た の こ う し た の と か も い う て 喚 き た て
」
とい っ て、
と った
「草曜の戸口でああい
4
5
ノ、、
げOら
同ん宮ん・内 &店主し
て期川 の 御 堂 に 幽 閉 さ れ た 本 三 位 平 重 衡 は 、
今斑ながら南都焼き打ちの重卵に傑いて法然
人に総伽すること
を
った
の願
であ った 。 機
上
に直実の口を突いて出た
。
われらは昨年、武士に嫌気がきして束閣の
「
航 いたしましでございます 。 まこと
故郷を出
侍ほど情けないものはございませぬ
」
積年の
。
悔の許 し を 後 白 河 法 皇 か ら 下 さ れ た 義 経 は 、
。
。
しかし、い
吉水への道々、馬の背に鞭打ちながら彼は
話したい
わが思いをこう 言うところから切り出してお
申し上げて弟子入りをお願いしよう
法然上人にお目にかかれたら、こうご挨拶
。
。
多くの方々
ったのである
そこで 直 実 を 迎 え の 使 者 に 立 て て 、 吉 水 の 草
庵に法 然 上 人 を 迎 え に や
あれ か ら も う 十 年 が 経 ち ま す
「
っ ておりま
が亡くなられたが、熊谷股はいかがお過ごし
。
そうくりかえし考えてきていた
った
。
東国に婦られたと伺
したが 」。法然上人はい
ざ法然 上 人に対蘭してみると、直突の顕のな
であ ったか
「::: 」 。 一
瞬の沈黙の後、直実は口を聞いて、
っていて、どういう順序でお
ったので
ったか 全 く浮かんでこないので
っ白にな
かは真
。
話するのであ
。
す
ある
ら れますこと
は、先 の 合 戦 で わ れ ら が 都 に お り ま し た 問 中
。
っ ていた
。
「
叔父も武蔵困熊谷郷の武 士 にご ざ います
わめき 戸 にな
「
叔父に町輔されましでございま」
す
。
」 温かい眼 差 しを直 実 に向けて法然
「ー さぞ、お辛いことがおありにな
。
思いみますれ
な
から聞きおよんでおりました
法然上人織が高徳の聖であ
「われらはお上人械を師僧と思うておりま
。
あろう
ら
一気
ロ を開いた
一体何を 日っ ている の か分か
ば、お 上人様とわれらとは少なからぬ因縁が
も
上 人はうなずかれる
で
ござい ま す 」
自分
ったが、分からぬままに直実 は
口を聞くと次から次へと 言 いたいことが
か
4
6
が、梶原景時と通じておりまして、われらは
。
人に和められたのでご」
ざ。い
ま
片方
のす
こ
。
手の殺を躍り締め、もう 一方の手で涙がにじ
。
」
「
鎌倉 般 の 前 で 行 わ れ た 裁 判 に も わ れ ら は 負
む目を 拭 い な が ら 直 実 は い っ た
けまし で ご ざ い ま す 」
いた
「おお、それはたいへんでございました
労わり に 満 ち た 眼 差 し で 法 然 上 人 は 言 っ た
直実は無骨な手でくやし涙を押しぬぐいな
がら、
晶、ぷ畠略
「
非はすべて扱父にあるにもかかわらず、鎌
倉殿は担父に軍配を挙げただけではありませ
ぬ 。流鏑馬のときには、平家との合戦で手柄
を立て た わ れ ら を 、 射 手 に せ ず に 的 立 て と さ
4直
直実は附いた
。
長年抑えに抑えてきた憤りが、聞いてくれ
る相手をみつけて
一挙にあふれだし、心に轡
積する恨みつらみを何の前後の説明もなしに
い募ろうとするのをみてうしろに控えて
「
お上人様、実は熊谷殿と私とは先の合戦で
いた道連が、
も言
法然上人に向かって 爆発させる笹 実が、なお
れた」
。
と、直実はつづけて、
上人は直実をみつめた
「: ::」。無 言 のうちに、痛ましそうに法然
。
「的 立 てなど、侍がするものではありませぬ
げにんげにん
下人、下人のすることでございます・」
:
4
7
九
。
った熊谷殿を見ておどろいた次
いに顔見知りでございました 先ほどこちら
は義経 殿 の 配 下 に お り ま し た と こ ろ か ら 、 互
にお見 え に な
も っ
。
とも流鏑馬は、歩くのが下人・従者で
移動する的 立 ての役を命じたのである
ある、というこの規定に依らない行事ではあ
しかし、他の武士が射手として馬で駆
ったか
今日
h
ah-
。
。
骨た
かつて頼朝は源平合戦で奮闘
「承ること能はず
」、とい
絶した
って頼朝の命令を拒
が、下した命令を拒絶された頼朝は怒った
鶴岡八幡宮に献納したのである
〈げな
。
みつ
ha
そして直実の所領の 一部を召しあげ、それを
。
武士の誇りを傷つけられた直実は、断然、
なか
天下無双の勇士 」 と称賛したでは
した彼を 「
ったのである
。
った
お上人様の法話が終るまで
第でご ざ い ま す
けてゆくのに、自分は的を持って歩くという
。
熊谷殿からいろいろお話を聞いていたのでご
。
それ
え
っては耐えがたい恥辱であ
ことは、直実にと
29
三年 (一一
う
グラ
。
ざいま す が 」
一件の補足をした
とい っ て 直 実 が 話 す 領 地 争 い と 裁 判 の こ
・:
と、そして流鏑馬の
によると
った文治
流鏑 馬 の 事 件 が 起 こ っ た の は 平 家 が 壇 ノ 浦
。
に沈んでから 二年余りた
八七) 八月
阻
。
この と き 、 頼 朝 は 鶴 岡 八 幡 宮 で 放 生 会 を 催
し、そこで流鏑馬が行われたのである
って
また直実が領地のことで叔父久下直光と争
ウンド を 馬 で 駆 け な が ら 射 手 は 的 に 向 か
矢を射 る が 、 的 を 持 っ て 歩 く 的 立 て は 徒 歩 で
ぃ、裁判にまで持ち越された事件が起こ った
。
そもそもの事の発端は、直実が義経の配下
九 二) 十 一月であ った
あ った 。当 時、鎌倉で馬に乗って通行できる
。
のは、流鏑馬事件の 五年後、建久 三年 (一一
った
のは武 士 だ け で あ り 、 徒 歩 は 下 人 や 従 者 の 行
儀であ
頼朝 は こ の と き の 流 鏑 馬 で 、 直 実 に 徒 歩 で
4
8
として西国で平家と眠
っていたさなか、彼が
自分の 領 地 に い な い こ と を き い わ い 、 直 実 の
かす
領地の 一一部を直光が掠めとったことにある
った
。
直光は直突が帰国した後も、本来の持ち主 で
ある班 突 に 返 そ う と は し な か
。
直実が西国から国許に帰
ったのは
直実と直光、 二人は何度話し合 っても持が
あかない
った
。
ったのであ
文治 元 年 (一一八五) であるから、以来七年
もの問、甥と叔父は争 ったあげく、 ついに頼
。
朝の前で裁判が開かれることにな
建久 三 年 (一一九 二) 十 一月であ
る
、
裂 工作をし ていたので
。
実は直光は頼朝の口達者な秘臣梶原景時と
かねてより通じあい
袈 工作をして尚早備万端整った 上で誤判
が、戦場の勇 士で はあ
っても口下手な直実
は、たちまち直光方に言 い負かされてしまう
。
股時がきかん
。
何が鎌倉殿よ
。
。
裁判の進行具合をみて、愚直といえば鯨直
な直実もさすがに気が つ いた
に訊父の日をも って まくし 立 て、直突の 立 場
。
茶番の裁判じゃ
。
はどんどん不利にな ってゆくのである
(
おかしい 裏で叔父は梶原と示しあわせて
いたんだ! )
。
怒り心頭に遣した直 実 は、
聞いてられるか 」
「
茶番じゃ
とわめきながら哉判のために用意された書
争--'z'
。 げいれた
類を頼朝の伽動のなかに投
京都に向かおうと歩きはじめた
。
そして別 室で 管を切ると怒りにまかせてそ
むんでん
のまま逐電
。
ある
。
(つづく)
って道遍が説明してくれるのを聞
きながら、直実はふたたび岬いた
自分に代わ
「
侍の世界ほど汚いところはありませぬ 」。
.
.
.
..
4u.
「正義は
まおうと企んでいた
に持ちこみ、トラブルつづきの領地を正々
。
堂々自分のものにしてし
のであった
。
裁判 当 日 、 そ う と は 知 ら ぬ 直 実 は
われにあり 」 と幕府に出かけた
4
9
暑中御見舞中し上げます
平成ニ十ニ年盛夏
〒
ω
臨
服
法大
怯主 大
本
山
罰
法
八 吋
木
井 長
遍
ー
ー
宮 法吋
大
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九
十
林 高
寺
昭
彦
季
俊 襲
生
映 Z
執法奈
JII 霊寺
長
司l
高 法主大
E
主山
1青
橋
吉伊 浄
文唯
雄員
関
三日 誕
八八 書
225 生
六O串
ーー 方
一 -G 寺
里
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0. 三 八 『ヱ
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八
中
次
浄土宗宗務総長
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法然上人御縫生治
電隊
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・ 嗣館市船 H
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百
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光
明
寺
暑中御見舞中し上げます
乎成ニ十ニ年盛夏
高等部
・
良
雲
麻生諦善
中等部
林
理事長
大島謙
SC
海 子
学校法人淑徳学園
淑徳
校長
霊塩
東 玉警
ぷ守
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長 淑欄
美学 大衆淑櫨
谷 学
川 長首
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宇
俊
一
一
愚
鈍
お関山
金 言
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品
筋l
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瑞
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十
一
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5
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暑中御見舞中 し上げま す
平成ニ十 ニ年盛夏
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東京榔港区南青山
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ホームページ
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佳作〉罪と抗議む繰蔭のハンモック
。
信子
周囲亜由美
増
田
脅葉風読めぬ文字ある流罪の稗
罪ピ罰読み了・え
T夏春ドヴけリ
河合富美枝
年ばかりを過ごした それを不す何かが残っ
ているのかどうか 桜はあとで楠えたものだ
ろうか ただその木は、そめいよしののよう
な低俗なものでないことを願いたい
沢庵は理不尽な罪により出羽に流され、五
桜咲く沢庵禅師流罪の地
〈
筆〉
旬一
上一
罪
底
横
生はここで終わり、底に沈んだり岸辺に
一
。
海で大きく育 った鮭は、秋になると生まれ
鮭の
た川を遡上し、ト流の砂底に産卵する
川底に産卵終えし鮭ぼろぼろ
〈
草
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石原
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蕪村は「十便十宜」の一枚に、壁に映る池
面の揺らぎを見事にとらえている ζ の句は
軒に映る海面の揺らぎである 軒裏には燕の
巣があって、今卵存抱いている あるいは子
燕が親会待っているの鴫たろうか。
作〉人っ子はひとリ私の滝の音
〈佳
いぬふぐリ寂ピ漁村の基深し
真
撃を
〈
佳作〉底なしに域ひふざけて子等の春
犠
児
主会
Z持
すリ鉱の底ひんやりと夏近し
佳
著
まて
ハふ底は灰かに暗し梅雨の月
藤
ろた
忠歪
海光の軒に揺れ いる燕の巣
-自由題
工
寺下
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隼
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浜
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妻の愚痴聞く春眠の夢の中
佐
藤
口
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吹
〈特選〉
選者=僧田河郎子
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浄土臆上旬舎の
お知らせ
普績回Z
風
紋
自由題
能 上句会 〈踊集部還
工藤浄真
〉
罪のなき子らのえがおや春の空
斉回仁
.罪
蝦姑食って大罪ひとつ重ねたる
内藤隼人
新島朱音
弁村普也
目黒裕
小林苑を
罪深き我に五月の来たりけり
天つ罪ほろほろ風の八重桜
半島の鍔あるかたち夏きざす
門々に罪を説く札昭和の日
罪作る小猫を撫でて春障子
名・佳作各3名
。
仁科峰雄一
タの膳罪なきどじょう生きたまま 山口信 子
ときめきは微罪でしょうか夏来たる 水野 由 後
すでに罪生まれて今朝の谷若葉
締切・ 二O 一O年八月二十日
発表・ 『
浄土』 二O 一O 年十月号
選者・旭国河郎子 (南
『風』主宰 )
応募方法
1
東 京都港区芝公園
41714
明照会館内
“
-底
佐藤雅子
河合富美枝
月島恭子
井村善也
斉回 仁
園田蔓由美
井草芳郎
川底に足触れし 子ら芦躍る
水底に浮ぷ綿雲夏柳
水底は太陽の色 五 月来る
親指に音叉のふるえ春の底
小林暢 夫
山口 信 子
る
底引き網避けて 白子 の耀けり
かたま って深き水底春の鯉
川底の澄みいて鮎の群れ 上
春の猫間の底より 戻 り来し
…漬け樽の底脱帽かりし半夏
生
-自由題
己が身を川面に映し銀融
佐藤雅子
河合富美枝
-草笛に答へてをりぬ山脇
一残 雪 のまだら模様に利尻富士
工藤浄真
一春昼のお揚げが浮いているうどん 斉田仁
月島恭子
一葬儀社の 戸 口の脇の熱帯魚
一春愁い音叉のように道分かれ
笠井亜 子
一欠伸して 鍛伸ばしたり鯉のぼり 山内桃児
一蝶
一生 れて長さを疎うつけまつげ
中嶋いづる
西原規夫
目黒裕
三列に最中が並び幕の春
魚焼く正午の煙夏来たる
藤械の香に 立 ち止まる 寺 の庭
石原新
小林苑を
山口 信 子
切株の芽立ちすくすく急斜面
・
氏名を、必ずお書き下 一弁当 の銀紙ほどに鴫れり
・ いずれの題とも数の制限はありません
.特選各
。
8 00
11
糞書に俳句 (
何句でも可 )と、住所
さい
宛先
〒倫
月刊『浄土』誌上句会係
58
かまちよ
福島民報
5習寸"" 鵯
・宮崎白々新聞
・
。
山梨日々新聞・北日本新聞
・
山形新関・長崎新聞・岐阜新聞、以上朝刊 中国新聞・神戸新聞、以上夕刊)
静岡新関
『
ゴンちゃん』が各地方新聞に掲載されています。(
・新日本海新聞
し ろう先生作新聞四コマ漫画
・
績集後記
すみませんの言葉ばかりの鍍銚忌岱濁
佐麗良純 (小石川 ・光岡寺)
東海事事良量 (塩釜・忽上寺)
佐.成煩 (品川 1 . 願行寺)
務の変還を考える意味でも蘭白いものだ
キリスト教やイスラム殺の文化聞、イン
りの諮を紹介したものだが、イソップ宙開 中を町聴け巡ったと想像すると、面白い。
中村康ft (清水 ・実相寺)
中村清貧 (仙 台 ・ 愚鈍院)
野上智徳 (静側・宝台院)
蘭回得三 (鴻巣・勝願寺)
a国車文 (静岡・撃隊院)
2伝多穫敏 (両国 ・ 回向院)
真野飽海(芝 ・ 天光院)
幽縛之 (網代 ・教安寺)
水利醤隆 (長野 ・寛目隆寺)
宮事事昭彦 (大本 山 光明寺)
山図和鎗 (諏訪 ・ 良松院)
(徹祢碕 ・ 五+奮順}
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佐藤良純
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昭和十年五月 二十日 第三機鄭便物健司
印m 平成 二十 二 年六月 二十日
平成 二十 二 年七 R 一 日
年会費六千阿
七十六 場 七 ・八月号頒価六百 円
村田洋 一
青木閉山富思
佐山哲郎
長谷川岱潤
斎蕗宣告廻
(長)
った・しかし寓話は禽話でしかなく、「大
須.隆仙 (函館・ 称名寺)
高白書島行 (大阪 ・ 一心寺)
回中光成 (町田・養還寺)
中島.Il健 (背山 ・ 梅窓続)
土
今年刊行された阿刀国高氏の『イソッ
画監督でも知られる森逮也氏は、子供の
粂原恒久 (1 11 鎗 ・蓬..寺)
徒... <鎌倉・尚徳院)
編集チ 1 フ
編集スタ ッ フ
ドや中聞、そして日本。官同諮はさまざま
に変遷して伝わっていったのだろうか.
に織々な話が紹介されていて篤いた。毛
ころからイソップ寓話の後に必ず添えら
. 略奪久 (三 烏・ 願成寺)
大江図鱒場 (仙 台 ・ 西方苦手)
北山大館 (焼浄・ 光心寺)
加護亮畿 (五反 田 ・理事修寺)
熊谷繍彦 (佐賀・ 本目隆寺)
浄
プを知っていますか』という本を続んだ. 人のための人生の処方饗 」などと裕に省
この話もイソップなのかと思うほど、実 かれているのには、違和感を覚えた.映
利元就の 三本の矢の穏や、親子で年老い
酬を「うざったい」 の 一
れる先生の教訓 輔
飯田実緩 (駒ヶ 根 ・安楽寺)
厳谷・正 (目黒・祐天寺)
、
た馬を売りに行くときの話、財産や肉体
特別、維持、賛助会員の方々
や観族を婆に鵬首える穏など、中国の故事 震 でパッサリ切っているが、この本でも下
心として必ず 一言教訓が添えてあること
ゃ、根本仏教の阿含経典と思っていた話
などが、次々に霊場してびっくりしてし を紹介している。森氏が雷 うように確か
まった.
にお話の後に解釈として教訓を強要され
それで嫌になってしまうものだ。
この揺は、安土桃山時代に日本語に翻
ると
それにしてもイソップという紀元前六
世 紀 のギリシャの人の結った話が、世界
http://jωo.ne.jp
ホームページ
訳された『イソポのハプラス』 と、 +
白活
字本『伊曾保物語』をもとに、百三十余
雑誌『浄土j
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連載
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電総/03・3578・6947
FAX/03・3578・7036
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「滋鉱上人鎗伝・残欠こ事本」よリ
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