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CDぢ - 法然上人鑽仰会

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CDぢ - 法然上人鑽仰会
浄土 . .花蜘. (毎月, a, 8.fT) 平等忽年刊月 1 日.fT .納瞬時208.3"・・g可
.
、
-・
‘"
~
2010
ゆvember
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-・. 41;‘
町
.
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己
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'CDぢ
巴.
.
新納酋
大川の
ばあちゃん、
ばあちゃんへ
天川の作らしはどうですかっ・
山山人 の気分はどうです
きっと沿刈でしょうね
かっ・
私たちは今ばあちゃんが米同に行って
。
とってもばあちゃんが必しいです
だ、ばあちゃん
だからといって来しいばあちゃんの倹治会
l
収しいです
珍し い物と
米納付したくはありませんがばあち予んが恋しい
そ
お散歩がてらに私たちに会いに米てください
削るいり刊でそっと訴しかけてください
ばあちゃんが迷わないように
い戸を
たくさんの愛が咲いた花篭と必林憾と
楽しい笑顔や笑
いっぱいにして絶やさないでおきます
。
表紙の人と 筈
¥
f 浄土 j2010年表紙の
1958t,Fm~1 県生まれ。 北海道大学学業 “
JFJ手家木村 三 111 に附・Jk
,I~、家主IJ を 学ぶω
府市1;みゆき li~ r -!1ß.~討の人4 、火坂雑ぷ'1-': r 可(r.I~ の I"JJ 、~ 1
4
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f 手IJ休にたずねよ J ~~; 、 :m'子炉ii也多数。
ゐjì;ーや:.'n去ライブ「辻 E守法」 を谷地で公 i向。
11 月の
壬事
ロ jJま f
仰の心配も 2Z りません 。
持~楽の 11I:~f に往生したいと縦い、
だから間違いなく往生できます。
お念仏を絞けていれば、
この :つの ことだけで、どんな人でも tt
'1:できるのです 。
そう、お釈迦織はお っしゃっ ています。
( 編集部)
~..i.
目
次
今4
NHK r こころの時代j を終えいま 法然上人に思う … 町田 宗鳳
江戸 を歩く第36 岡 …H・ H・-……H ・ H ・-…....・ H ・-… H ・ H ・......・ H ・ . i毎
漕鑑
法然上人をめ ぐ る人々 ⑥・.........・ H・......・ H・-… H ・ H ・......・ H ・- 石丸 晶子
轡流十方 ・・ H ・ H ・ ..… H ・ H ・......・ H ・...・ H・.....・H・-…・・・・………… 袖山 蜂輝
マンガ
…......・ H・-…… H ・H・-… H ・H・.....・ H ・..…・踊_ i普 田 河郎子
.さっちゃんはネ ッ……..………....・ H・.. かまち よし ろう
今必
J
編集後記 ・.............. .
褒紙狼茜の詩 ・......… H ・ H ・-…・・… H ・H・-….... . ..・ H ・-…H・ H ・-… H ・H ・ .. 新 納
茜
背表紙.教えと法話 … H ・ H ・..… H ・ H ・......・ H ・. . .… H・..... …一 …ー… 生野普鹿
表紙題字= 中 村康隆前1ft土門主
アートテ・ イレクション= 近藤十四郎
悩カ=迦陵頻伽合
ヲfo O
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J フ ォーラム …
浄土誌上句 会
AUA UOO
9
2
3
3 9
容子
44
会いたい人櫛内謙介さん③…・……… H ・ H・....…..…・ 関
平成二十二年六月二十五日
【法然上人鋪仰会.慣演会}
tt.然 t人餓仰会・ ~ ð話会
。
っと法然さんのみ心というものが感じ
それまでは、学者として、法然の思想の本質をつかみたい
小説 『
法然の涙 』 を書いて、や
てきました
したいという
。
ら れるようにな
ッ
っ
クに証明
。
比較宗教学的に
一心で、法然さんの研究をしていたわけですけれども、最近私は、そういう
も、キリスト教と対比しても、大変大きな存症であ ったということをアカデミ
ようなことはもういいと思うようになりました
今までは平面上で、法然の思想を論理的にっかもうとしていたわけですけれども、小説、
。
。
ある意味、 今 や
だれと、どういうときに出会
。
。
Hwaい
a'
どうい
言 葉を交わされたかという
。
っと法然さんと正面から向かい
って、どういう
立体的な法然さんが見えてきたわけです
。
フィクションとなると、事情が異なります 時代小説ですから、最小限の資料は調べます
が、あとは私のイマジネーションで書いていくよりしょうがないのです 私の心にある法
った感じです
然きん を 轡 い て い か ざ る を 得 な い の で す
合
。
そして、ようやく平而的ではなくて、
ったか
8 けないわけです
。
そうすると、
。
一の法然防と 百 われ
。
突き肱して凡ていたら 8 けません
ようなことを、想像せざるを仰げないわけですそれには、法然さんが私に鳴依してきたよ
うお方だ
うな状況にならないと
法然さんの体の温もりのようなものが、ますます身に迫 っ てきました
法然さんはもともと学問もない念仏刷目だ ったわけではなく、智沼郡
,
るようなすごい、膨大な仏教経典の知識をお持ちの方でしたし、また恐らく、学問だけで
。
った 上 で、『一校起前文』に
はなく、叡山では常坐 三昧とか常行 三昧とか、天台 宗 の伝統的な行がありますから、そう
いうものはお若いときにこなしておられると思うのです
ですから、学問的にも、修行の 上 でも、やるべきことはや
3
。
。
。
。
これ
って、全く
っていましたが、法然さん白
知謙も体験もあるのに、そういうものも引 っ込めてしま
あるように、 「一文不知の愚鈍の身になして 」 という境地に到述されているのです
は、す ご い こ と で す
っ しゃ
無心無投の境地で南無阿弥陀仏と体えておられたわけです
人には 一念十念のお念仏でお浄土に行けますよとお
。
だから、念仏を称え
るとは、生死を離れることだということを繰り返し、おっしゃっていたのです
身は全く空の境地、無我の境地でお念仏しておられたと思うのです
。
。
決して大きい声でされてお
法然さんの念仏を聞いた人は、お説教を聞かなくても、法然さんのお声を問いただけで
ったのではないでしょうか
。
お会いするだけでほ
。
地 です
ず
。
。
。
った午を傑し
それで
それを禅宗のほうでは痴聖人と呼んで
。
って、本当に境地
っと行万が分からなくな
っとすると
って法然さんのおそばにいたくな
ったと思いますが、そのお戸に救いが実現しているのです
「
救われた 」 と思う人がいっぱいいたのではないでしょうか
られなか
っ てしま
そして、お汀柴も常に明断でやさしかったし、だれだ
るくら い 、 好 き に な
「卜午凶 」 というのがあります
いうか、思わず笑みがこぼれてくるというか、ありがたい存在だ ったはずです
神京のほうで
ん
Lすい L・-aZ
川り、家に連れ戻す訴ですけれども、日以後の第十凶は 「
入膿垂手 」 とい
A
法然さんは、完全に痴型人の 境地に述 しておられました
ち@いじ
っていくのだというような境
が円熟した人は、 一切体そうぶらずに、控に人って、将通の凡人として振る舞う
。
人の救 い に な
います
。
。
t
特に、間同に流されるころなんて、本政 に境地が円熟し
ですから、理制を溺らずして人を救う力をお
神山ぷのほうでは、坐回押を通じてそういうところへ行くわけですが、法然さんの場合は、
っていたと思うのです
称名で そ う い う 境 地 に 到 達 さ れ た わ け で す
持ちにな
4
法然上人m仰会・議決会
ていた の で は な い か な と 思 い ま す
戸の力
。
私が 一つ注目しているのは、やはり、戸の力ということです
。
。
N HK テキス
ト
にも何度
も書いていますけれども、人間の持つ声の力というのはすごい癒しの効操というか、我々
が考え て い る 以 上 の 力 が あ り ま す
あのお 言 葉が、私はいちばん好きです
。
です か ら 、 六 字 の 名 号 を 、 「
心の底より真実に、うらうらと称えなさい」とおっしゃっ
。
っ し ゃっ
ているのは、法然さんが戸の
h
Hにお気づきだ
った
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏というのは、本当に誠心誠意、できたら大
ています
。
きな声 で お 祢 え し な さ い と も お
のです
実はこのことは、私自身が現代版の念仏を編み出してやっているのでわかったことです
私もいろいろ、禅の修行をしたり、キリスト教の勉強をしたり、あるいは、お念仏をし
ことをずっと考えてきました
鎌倉の建長寺、円覚寺に行
。
って何日か坐禅をしてきたという人もよくいますが、本
当
てみたり、お 別 時なんかも何聞かしたことがあるのですが、現代人にお念仏を薦めるには、
。
。
臨前宗の京都の本山
格好だけの坐榔なら、だれだ
。
間 だからよくわかるのです
って
それに、形通りの坐禅を組んでも、なかなか無心無我の境地に入れるものではありませ
どうしたらいいかという
ん
。
った人
に坐禅ができたかどうかというと、疑わしいものです
できます
私は 二 十年という議月を俸に撮
。
5
。
の修行 と い う の は 相 当 厳 し い で す
が開か な い わ け で す
。
しかしそういうことをやっても、なかなか心のまなこ
それではどうしたらいいのかということをずっと考えてきて、特に、今は信心がない人
が多いわけですし、そして、仏教徒だけじゃなしに、クリスチャンやイスラム教徒にも私
。
。
そしてそこで出てきたのが、「ありがとう 」 という 言葉
これには 宗 教色は 一切ないし、外国 人 でも「ありがとう」とい
。
。
これは、私は 三年ほど前に思いついて、今では毎
坐禅と組み合わせて、横隔膜呼吸をしながら念仏をしてみようと
。
っと考えてきたのです
はよく接触しますから、こういう人にもお念仏の心を伝えるにはどうしたらいいかという
ことをず
を朗諦 す る 感 謝 念 仏 で す
言 葉は知 って います
う
いうこ と で 、 感 謝 念 仏 を 始 め た の で す
週のように、東京から広島までの七都市でや っています
。
。
抗うつ剤を何年も飲んでいた人も、飲まなくてよくなったという ことがよくある
や ってみると、驚くべき効果が出てきたのです 。 軽いうつ病なら、すぐに脱却してしま
います
それは私が何かお説教して励ましているわけではなく、自らの声のカで癒されて
。
のです
いくのです
感謝念仏とは、 「アリガト 」 の四苦を長い息で発生するわけですけれども、これを 二 十
サそ〈噛んベ畠
分もやっていると、禍泉にでもつかっているかのように、ほっこりした気分になってきま
。
。
。
。
雑念がわ
起は痛いし、眠たいし、服は減るし、寒いし、ろくなことないです
全 然無理です
坐禅で、数息観で呼吸を一から十まで数えるとか、面壁しながら、意識を鼻の顕に置い
す
っと出てきて
たり、そういうことをやるのですが、議人の人にそんなものは、
ー
6
法然 L人 m仰会・.A l\ii会
坐禅し て 大 体 、 何 に な る か 知
そういう不健康なことをや
。
で 三 十分や
。
(
笑)。
。
ど
うしたらいいかというのを考えたら、
っていますか?持になるのです
ってもしょうがない
。
。
どん
パイプオルガンか、隻の
。
すると、私も驚いたのですが、本当に管さん元
。
ットか、
三分の 一の人は、必ず音楽を聞きます
鈴の音とか太鼓の音か、トランペ
ったら、この中の
体も心も 元 気になります
ってや ってみたのです
一応は起を組んで、安定性がありますから、今のように深い呼吸で発声してい ったらいい
ここ
っていくんです
のではないかと思
気にな
今も し 、
な音楽 か わ か ら な い
音か、お経を聞く人もいます
チできません
ッ
。
。
。
ところが、自然の中、森とか川のた
。
だから、油口さんの耳に到達しているわけです人間 の
。
母音を
何でそんなことが起きるのかというと、これもやはり科学的に説明ができます
F
長い息で発声すると、高周波汗が出てくるのです
今、私の戸は 二 十キロヘルツ以
聴覚は 二十キロヘルツ以下しかキャ
もとを歩いているときは、百キロヘルツ以上の音を聞いているのです
。
1
ニンとか、ベータエンドルフィンとか、ド
っぺんにうつ病になります
。
セロト
そうすると、さ
っきの 立っ
1
。
パ
ミ
ンもそ
ニンを出すには、
たような業器の昔を聞いたり、
ったら、必ず百キロヘルツくらい
。
1
山 して、人間の精 神 のバランスを保 っているわけです
ニンがなくなれば、い
そういうものを
l
セロト
それは汗として聞いているのではなく、撮動として聞いて、その振動が脳幹を捕らして、
。
脳内物 質 を 出 す の で す
うです
セロト
。
ったのですが、感謝念仏を集聞でや
歩くのが 一昏いいそうですけれども、高周波音を聞いてもいいのです
私は気が つかなか
の高周 波 汗 が 出 て く る の で す
y
。
。
。
自然に涙がこぼれできたりします うれ しい のか、かなしいのかわからないけれども、と
もかく涙がとまらないという現象が起きるのです
神秘現象ではなく、脳幹が掃さぶられて、そういう現象が起きるので。す
あるいは、魂
が癒されていると 言っ てもいいのです
ぜ い白んS9
。
そういうことをやっているものだから、ますます法然さんの称名念仏というのは本当に
掻しの効果があったのだろうということが、科学的に納得できるわけです
ですから、法然さんが実際にどういうとらえ方をしておられたかよくわからないですが、
今〈 E らい さんいん
六時 礼讃とか 、引戸念仏とか、
比叡山では非常に 音楽的な念仏が行われておりましたから、
。
それなりにゆ っくりとしたお念仏を称えておら れたのではないかなと思うのです 。
それから、法然さんは八十歳という長生きをされているでしょう 錯倉時代は恐 らく戦
。
。
。
乱で殺された人間の必命も計算に入れたら、平均 HM命 二 十五議から 三十縫位ではなか った
今のアフリカと同じようなものです そこで八ト疎まで生きるというのは
かと思 い ま す
大変なことです
ましてや益和の飢餓とか、大変食料引怖が厳しい時代でした、また地提がっあ
たり、大
すから
。
。
。
どな
火があ ったり、台風があ ったりしたのに、なおかつ八十滋まで生きたというのは、私は呼
吸法をちゃんとわきまえておられたからだと思うのです 民生きというのは、息が長いで
私の小誕の中では、その呼吸法を、法然さんはある人に教わ ったと舟いています
。
伝記の中にも、空海が夢にあらわれて対面したというエピソードがあり
たに教 わ ら れ た と 思 い ま す か ?
弘法大師です
8
法然 k人織仰会・a説{ 会
ます
。
けです
きん m
aq
L
VLL
ん〈
。
ッ
っていくわ
一つにし
と 日
一
法然さんは、念
「即身成仏します 」
。
クが要る院制法を
J っ て身け怠 一 つのチャネルを油じて、即身成仏に入
それが点汀仏教の与えです
彼は、 宅管加持と
。
つの桜維なテクニ
・
2
ったけれども、あれは別名、
の名号だけでいいと気づかれたのです
n称念仏でいい、六 -V
だけども、法然さんは、身日立という
。
っ しゃ
たのです
仏すれば極楽往生できるとお
。
。
。
まあ、ありえる話です
。
っそり教
J 策が大好き
霊的世界ではあり得る話で
それを、夢の中で弘法大師からこ
ナンマンダプ、ナンマンダプ、ナンマンダプで即身成仏
われているのと、同じことです
ったということにしました
できる と い う こ と を 確 信 さ れ た と 思 う の で す
。
えてもら
私、法然さんが『 一枚起前文 』 の 「.文不知の倣鈍の身になして 」 という
す
っています
あ ったほうがい
この蛾というのが本当に大事だと
。
ですから、このままで
って発信していかな
ってもいいのです
。
般に還りて生まる 」 と、浄 上 に生 まるという意味ですが、 「般に
なんですが、あるいは、 「
。
って、洗練された教益があ
還りて生まる 」 というお 汀 柴をお使いにな
思うのです
。
。
知織で衝突しています
。
その上で、般ということの尊さ、これを日本が世界に向か
それは、山ほど知識があ
いのです
。
ければ、世界平和はあり仰ないと私は与えているわけです
。
江 東でもいいと思うのです
。
。
そういうところに価値観を世いていかないと、
「ありの
肢ということを、どう掛川きかえたらいいのかわかりませんが、
みん な イ デ オ ロ ギ ー で 衝 突 し て い ま す
」 という
はだめなのです
まま
近代文明は行き詰まる、と私は与えています
9
.•
だから、何とかして、日本独特のすばらしい心の宝、下座行とか、般に還るとか、そう
。
。
いう価値観は、なかなか西洋の人にはわからないけれども、伝えていかなければいけない
この努力を怠 って はいけないと思います
。
法然さんの温もりというか、愛の深さというか、人の苦悩の理解の深さ、その上で、般
になることの尊さ、これを世界に伝えていきたいと思 って います
e ん E-
。
これは私 一人でできることではありません 。一 人でも 二人でも仲間がふえてくれること
を祈っているわけです
。
。
広島大学大学院奥歯店
(f)
人知文明の中の法然上人、大げさなように聞こえますけれども、そういうとら
ですから、浄上宗の専修念仏を広めた法然上人という宗門的な狭いと らえ方をしたくな
いのです
って ゆきたいと思っているのです
ロ フィール
え万でこれからも大いに請
プ
町町因由
圃市
圃(まちだ・
そうほう )
1950
年・宵
mam笠摩れ -M 歯周で出稼m隼・司‘
m胃
a-箇
-壇洞宗大
観匂で修可制逼のと ea可を隠れ・渡米・ハーバード大学樽隼畠で徳
.
学墜事‘ペンシルベニア大学東洋傘 'm
で圃同士号電句1990 年か
ら‘プリンストン大学園東
'洋
S助教媛・国立シンガポール大学臼本研
R
究鎗合判准教
・
圃東京然回回大学教慢を経て・現--岡大学調欄嶋平和学
プロジェクト研究センター所R圃研究分野 u.比鮫宗教学、比較文明
積-は、『嶋叩高官の留脇工鍋
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入園聞は
2m
てるか』
(NHK
毅」に-m
m
.
出版・ほか多滋・8麟会「且の値圏い」・「健康断食」を全国喬抽唱で開催・
1
0
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.
この
だと忠う
。
いのちの本体を
語る金司は、
一気に読んで
まう名著
l
f
、
日野原重明氏
推薦
・
の急死に出会い、い のちのはかなさを鍋
感した ・ しかしそれは 死にゆく人に寄
り添う 臼 仰背としての第 一歩とな った
著書は m侶となって聞なしに同般の青年
僻麟怠・著
一
-本 髭おなじみの著者、佐酋庸種彦師
の新刊を紹介します
ぜた会える
さようなら
一
また会'
仏数は何ができ
末 期がん怠者に
佼成出版祉・定価 [本体1 ,400円+税]
両若手
8・IS/? カオカ'JB1t
会いたい人
「
善人会
った名前のいわれは・:
織内さんの 主宰 する扉座の前身、
議 」 というちょっと変
.
ロ レス
ぼくたちはこれに逆行
ら にケンカ腰で偽悪的な姿勢が正しいと
「
芝 居 を始めた頃の 主 疏はまだアングラで、
やた
されていたんですね
。
して『善人会議』を作ったんです プ
・
糟儀の 叫 ぶ 「OP
EN
THEDOO
のほうは、ラストエンペラ!という映画の 主
人公
R-」 という 首 誕か ら です .当 時説んだ本の
うというような記述があってそこからいただ
中に、この叫びが今の時代のキーワードだろ
きました .」
償内さんは
) で、そのこ
(ドラマ
、『女殺抽
当 時の
「
三木のり平の最後の弟子 」 と
の悪役に対して、正義の味方の 二枚目役をベ
自称している
.
品初の出会いは卯年に
ビーフェイスというんですが、じゃあ、イン
セゾン劇場で上演された横内作品
った
ー
「
演出がテレビ界の杉田成道監督
。
チキなことを 言 うアングラ悪役を退治しよう
地獄 』 のときだ
ったんですが、シアターと名乗るの
というんで、ベビ!フェイスシアターにしよ
うかと患
あのころ世界貿人
『
北の国から 』 のディレクタ
。
は野蒜なような気がして
ろの杉田夫人はのり平さんのお娘さん、と 言
しかしぼくたちは割と早く地方
.
扉座
のり平
一一緒に
杉田さんが映像の人で舞台の
ったおかげで‘ぼくも側で
.
さんというと喜劇人のイメー ジが強いですけ
芝居のことをあれこれ教わりました
ことに疎か
。
っても血はつながってなくて複雑なんです
。
幻年のことです
さ ったんです
『
善人会議』
会 議というのがあったんでそれをもじって
新興 宗
が、その縁でのり平さんが監修についてくだ
.
『
即鹿 』
という感じになったので、帰国戯曲
β
公演に呼ばれるようになって、地方でそうい
?
う名前のポスターが貼られていると
教か
ったわけです
賞受賞の盟年、幼名を姶てるように
を名乗
1
3
1999年 、 シアターサンモールでの 「ホテルカリフ方ル二ア J で珍しく復讐として出演した繍内
さん {右).
J4
会 いた い人
で、俳優座の千田是也さんの元で舞台美術を
ど、実は 一番大事に思っていらしたのが新劇
ぞみたいなのがいやだったんでしょう
知らねえけど、って
これは脚本が面白いからな、誰がいたのか
ん
勉強なさってたこともあるし、俳優座の芝居
いと思って言ったんだぞ、みたいなのがきっ
也
の演出も手がけてます。ですから芝居につい
とスタイルなんでしょうね。その後のり平さ
。
いな
そばにいて、褒めてる
ては高い見議を持ったインテリで、ダメ出し
んからいろいろと芝居の手(演出法)を教わ
たら必ず臼をつぐめ、白い曲が見えると笑っ
代物の殺しの場面で、出刃包丁を口にくわえ
った中でなるほどと思ったのは、たとえば時
.
の厳しさときたらハンパじゃなかったです
江戸つ子特有の口の悪さで、ダメとなっ
ているように見えてしまう、とか、やはり時
.
セリフを表の人聞に聞かせてどうすんだ?
代物の濡れ場で、衣裳に不慣れな若い役者た
ね
中のお客に届けなさいよ、とか、ヘタなやつ
ちがどうにもサマにならない、と回ってたら、
.
には自分たちが楽しむ前にお客を楽しませる
たら徹底的にこきおろす
若い女優が号位
絶叫する役者には、
芝居を覚えてくれよ、とか
女の足袋を男にじっくりと脱がせてみな‘と
。
しても全然ひるまずに、泣きたいのはお前さ
かね
。
一本じめというとチョンと
するとのり平さんが、チョンじゃお前、
ペケじゃないか。手じめというのはな、チョ
ね
一つ 叩 いて終り、というのが流行ってますよ
厳後の手じめで、
なことも教わりました.近ごろは寄り合いの
なるほど、するとたちまちその場に色
んの芝居を見せられているこっちのほうなん
っぽい空気が漂うんですよね。それからこん
でも照れ屈の東京人は、スト
。
そしたら、
。
だけど、とかね(笑ご
.
この毒舌家の御意見番に、横内さんの脚本
は褒められた
レートには物を 雷 わない
。
「
稽古場で飲み会があって、車庫になったと
きにぼくは隣りに座ったんです
1
5
チョチョン、チョチョチョンと
三 つ叩くのを
最初は迷惑そうでも、
のお宅へはちょいちょいアドバイスをしてい
。
ただきに伺いました
そこへチョンと
三 回やって、九の 字 になる
だんだん興が乗ってきて、昼間伺って真夜中
。
やれば丸の字になって丸くおさまる、ってこ
二階に消えたと思ったら、金銀にピカピカ光
聞いてるう ちに髭がのびたね、って。それで
にまで及んでたことがあって、お前、俺の話
」
。
とじゃないか 二 事が万事いわれがあるんだ、
って言われてほとほと感心しました
素直に感激する横内さんを、難しいところ
ス、と 一瞬喜んで裏を見たら、桃屋の七十周
る腕時計を持って降りて来て、あ、ロレック
猿之助 一門 の幻世紀歌舞伎組のた
年』(九O
平さんからこんなことをしてもらえるのは滅
年記念の国産でしたけどね(笑 て でものり
のある 三木のり平も可愛く患ったのだろう
。
「
いえ、のり平さんには怒られたこともある
立派な時計を贈られたそうだ。
んですよ
2001
多にないことだそうで、あとでみんなにびっ
へんげ
めに書いた『 雪之丞 変化
くりされました 」
最晩年の 三 木のり 平 が別役実作品に出演し
年初演)のとき、芝居がくどい 、猿 之助の言
。
いなりに普くな、お前にはお前の世界がある
したね
。
モク拾いをしながら下手から出てく
「
のり平さん、とっても面白がってやってま
。
て、思い入れの深い俳優座劇場の舞台を踏ん
もともと猿之助さ
だろう、というわけです
だことがあった
日
んは論理的で西洋的なくどいテイストだし、
のり平さんは江 戸前の粋を愛している 。今
あんなに本 気 で怒っ
るんですけど、出てくるまでにずうっと道が
。
で、力の抜け具合が絶妙で、独特の感じがあ
て帰っちゃった(笑)
の芝居は苦痛でありましたね、ハイ以上、っ
それで、のり平さんの四谷
あったんじゃないかと思えるような歩き方
。
てくれたのもぼくに期待をかけてくださって
たからだと思う
1
6
会いたい人
ーを待ちながら』なんて、 二人の人聞がただ
劇とよく比較されるけど、ベケットの『ゴド
ました。別役さんの芝居はベケットの不条理
らじきに、飲みに行こ、と言われてほっとし
いるのに 言 うんで、ヒヤヒヤしてね。それか
いけねえんだ?なんて、別役さんが向うに
白いかなあ、なぜ俺がこんなこと言 わなきゃ
屋を訪ねると、来たな、って 言っ て、これ面
とは言わないし、真面目に演じてました。楽
って、せりふもいつもみたいにいい 加減なこ
白かった。
代版人情噺に仕 立 てよげであり、さすがに面
ねりもふたひねりもして、皮肉でほろ苦い現
諦)がからむ
台に 立 たせるために頑張る昔の兄弟子(岡森
れている男(六角精児)と、彼をもう
いて今はタクシー運転手、毎夜酒に溺れ、荒
大衆演劇界の大スタ
いて、座
り』に猿之助 一門の市川笑也が参加すると聞
今年五月、扉座必回公演『神崎与五郎東下
。
・
1
.
そこに、元は 一座に
一度舞
赤穂義士外伝の題材をひとひ
つ
私が行った日の客席に、猿之助の姿があっ
。
高円寺へ観に行った。笑也の役は
ただゴド!という人物を待ち続けている、っ
ていうおかしな芝居ですからね、これ、最高
「
久しぶりの小劇場公演で、しかも日本劇作
た
だと言われてるんですよ。のり平さんはどち
ただくのに何を書こうかと思案してたら、あ
家協会プログラムという立派な枠に並べてい
のキャスティングはチャップリンとキ 1 トン
トン的
1
らかと言えば、シニカルな感じがキ
が、 『
神崎与五郎東下り 』 という面白い講談
るとき相談したわけでもないのに猿之助さん
三木のり平はこの芝居に出た塑年、平成十
があるから、こういうのを劇団でやれば?
ってました」
ですね。だから別役作品にじつにうまくはま
一年 一月、突然のようにこの世を去った。
って。それで笑 也さんのスケ ジュ ールを伺
/
7
1992年 f頭取マネキンj での打ち上げ. lt列qJ央が舗内さん.
てみたら偶然この時期だけ 空 いてた
。
笑也
さ
っそ現代服で登場する
んを迎えて中途半端な時代劇にしたら失礼だ
し、つまらないし、い
場面も設けて、小劇場ならではの趣向に満ち
た野心作にしなければ、とウ ンウン捻りなが
ら 3 いたんです 」
笑也は
った大衆劇 一座の花形役
。
す
っ
『
おやまルンバ 』 と いう歌謂 曲 で 一
蹴人気将にな
っ ていた
.
。
きり決めたスーツ盗に花があり、 主 役の 一人
として光
終演後、笑也さんに訊いてみる
ッ クでした
.
本読みの録
「
普段とま ったく勝手が違って、まず私のせ
りふののろさがショ
音 を聞いてみたら、自分だけが締読みで
笑).
(
だいたい私は不明耐用で、師匠 (
狼之 助 ) に抜
(
狼之助 ) とお客さんが我慢し
錨していただいた 当 時も、なかなか応えられ
なくて、ぼく
1
8
会いたい人
っ て J われ続けてました
て待ってんだから、早くうまくなってくれな
きゃ困るんだよ、
.
」
Af
H もいろいろ 注 窓されたあと、間白かった、
。
とおっしゃっていただいて、鈎しかったです
織内さんが 雪守つ
言っ てるけ
校時代の横 内さんによって演劇の道に誘いこ
『
束下り 』 の講釈 一気説みの
まれたようなもの .六 角の得がたい不思識な
.
存在感、岡森の
あの気迫
「
彼らにとってはもっと別の人生があったか
も知れません。でも、演劇によって味 わう自
人 間 が自らの精 神 を押し殺して、何も思わず
由と解放感は、劇薬よりも効き目がすごい。
「
笑 也 さんは自分は不器用だと
ですよ。うちの劇団員は昔の小劇場の名残り
ど、それだけに獲得してったものが 確 実なん
言 える
』
一生、寝た
に、何ごとも起らない平凡な人生を送るとし
っと早くもせりふが
.
せだと思うんです ぼくは自分を 『
劇薬売人
子 でいるよりも、目覚めて苦労したほうが幸
.
で、動きながらも
稽古
こんな 地獄はないと思う
たら、
.
.
んで、笑 也 さんとテンポが合わない 。で も彼
っ てきてますね
が日々変って行って、今でも変り続けてる
ごく自然にリアルにな
これが芝居者の思想なんで
だと思ってます
。
の段階で、こういうとき歌舞伎ではどうやる
すよね」(この項おわり)
日/剖・四厚 木市文化会館・小ホ lル
ロ /11 5 新宿紀伊国屋ホール
劇団扉度第川町田公演
『新浄瑠珊朝右衛門 1 小池一夫・小島剛タ
「首切り朝」より
i」
の?現代劇ならこうやるけど、と意見を交
。
」
換し合って、お互いにすごく刺激的だったと
方法や形は違っても、人間の姿を描く
思う
のが芝居というもので、その棋っこは同じな
んだなあ、と深く共感し合えたと思うんです
そして六角精児、岡森締という個性泣かな
俳優たちにも脱臼した .言 わばこの 二人、高
1
9
を
深
)
J
J
木
一場
盗主
:二 3
1百 ヵ
鑑
l
向
|
か
|
て
歩
!
っ
く
1
1
:1i~)11 <
小 名 木川
Ha-内fb
縦を見ながら鋭チ舗を
ろべえ
江戸風光明婦なこの川も
川と並行して東西に流れ
。
て小川に仰る
ぷに小川船骨所がある
。
。
これ
は江 μ に山人りする人や物を検査する、いわ
尾芭蕉の庵があった
。
は芭蕉が
雪日一
こ の庵か
。
小名木川、万年婿の北詰めには、俳聖、訟
芭蕪庵
』ハ間揃をさらによ問に下ると中備のお手、大 ば 「川の問所 」で喰裂な役割を果たしていた
。
川までが幕 府 御 籾 雌
潜りさらに進むと竪
る小名木川に出る
L
一五丸 O年頃家康が小名木四郎兵衛に命じて
ら、酒々と流れる大川の風怖を楽しんでいる
行徳の塩、良村地帯の野菜、
。
4
開削させた運河
きんぷ
かのような絵を残している 天和元年( 一六
。
東北の米な ど を 江 戸 に 持 ち 込 む 重 要 な 水 道 で
八 4)
、芭娘 一二十 八棋の時、門人鯉 um
杉風の
。
。
北斎は、大川の入り口に娘かる万年
あ った
。
h 間制の小山崎に
持ち家であるこの ハ
H本婦から
広唯は、
ったので、いつしか
「芭熊曜の翁 」
備を過して江戸の万向に岱上を描く
大いに茂
移り住む 敢地内に芭艇の水を揃えたところ、
「
名所江戸百対 」
小名木川を 点 に 進 み 、 市 北 に 流 れ る 大 横 川 を
突 っ切り、中川に重る諸処で
大横川を過ぎるとこれま
と呼ばれるようになり、ペンネームを 「芭熊 」
。
をものにしている
敵地面積は、間口約
二卜メートル、奥行き九十メートルとかなり
。
と署名するようになる
この五本訟が府名で
た南北に流れるよ問ト間川に出るが、その手前
左に九鬼届 般 が あ り 、 こ
小名水川をさらに
。
そして燦風といわれる俳句を確也す
って 師の生活を支
日本編以来の弟子が多く
広く、昏小口血を旭て直して住まいとしていた
。
ここに
広重も勺吐も摘いている
援した
山 人りし、彼らはご凡とな
。
わけである
林 一茶が仮住まい
。
(
現在大向稲荷神社に合配) やが
っ た 。一 時期ここに小
点に舟を進 め る と 左 、 北 側 に 大 島 村 愛 涜 神 社
があ
していた
21
る
。
焔風ト 朽 と は 宝 井 共 向 、 服 部 嵐 勺 、 森 川
芭蕉の人生に旅は欠
っ
静六、向井去来、各務文号、内藤丈信、川合
。
た句界で符 々 た る 人 述 で 、 い ず れ も 今 日 ま で
仲良、杉山 杉 風 、 立 花 北 枝 、 志 木 野 技 と い
続く名句を 残 し て い る
芭蕉は、ここを捜点として、しば
その度に「更級日記 」 などの
。
。
元禄 二年 (一
六八九)四十五
かせない
しば旅に出 る
。
「
奥の側
ヒケ川に及ぶ旅を終え、江
って
紀行文を残 す
。
畿の時、博 謙 の 弟 子 、 昨 良 を 伴
近 」 の旅を 開 船
AJ、 LL
・
戸に川市る。 元融問年、京都腕峨野にある向井
去来の荷名な府 「搭姉合 」 で過ごし、元締六
。
年、四十九議の時、再び江戸に目前る元掠ヒ
年(五十 J )、推厳に推磁を重ねて、 三年が
去来、
かりの 「
奥の細道 」 を完成させ、その年、再
。
遣 3 は、 「
払を・本件義仲
」。去来、其角ら弟子
って大山、
門弟八十人が見守る中、義仲
。
った
の基の瞬に地持された
一倍は武家地に代わ
。
以後、 深川の芭飯山崎
深 川清住 町 と平賀源 内
。
左手の霊運院の長い壁をすぎると深川清
小名水川万年舗を渡り、大川沿いに南に下
る
-~ ..II
び旅に出て 難 披 に て 没 す る の で あ る
。
って欲しい
民角が駆け つ け る
公の倒に搾
。
ト名が亡骸 を 川 船 に 乗 せ 、 淀 川 を 上
義仲守に到 泊
-
22
江戸 を歩 く
住町に出る
。
平賀源内は晩年ここに住み、エ
。
レキテルを人々に公開し、賞賛を浴びた 彼
は長崎で得 た 情 報 を も と に 独 自 に エ レ キ テ ル
。
。
って、この不思議な
彼は、旺盛な発明意欲
人々は集ま
った
たのである
を組 立 て、電気が飛び散る様をみんなに見せ
背い 火花に見入
。
田沼意次は彼に注目してお
を遺憾なく 発 揮
っ ていたと
云 われる
。
し
り、その該博な博物知識を活かして蝦夷開発
担当者にし た い と 思
。
。
意次は無念
かし、源内は自ら全くの誤解の殺傷事件を起
こし、 伝馬 町に繋がれてしまう
ゃるかたな し 、 彼 を 見 限 る こ と に な る
久世屋敷、清澄庭園
。
。
この辺り大
中州に烏が飛び交い、
。
大川端を屋敷塀が切れるところ
深川情住町の南に隣接するのが仙台藩伊達
家の蔵屋敷
まで歩くと 、 上 之 橋 に ぶ つ か る
川は 一段と広がり、まるで海のようである
。
船に乗れば 右 手 に 広 い 中 州 と 浜 町 婦 の 大 川 出
口、川口橋が見える
.
2
3
絶景この上ない
仙台掛である
。
。
。
上之橋を潜って左に曲がる
船を束に進めると左岸の仙台
この辺りの、 左手、北側 一帯が久世大
。
藩蔵屋敷塀が切れ、ほどなく海辺橋が見えて
くる
和守の中屋敷(下総五万八千石、約 一万 三 千
。
屋敷内の中央に大きな池が 二 つ
。
坪)である
一つは仙台堀からの引水である
。
久世屋敷の前の元禄
あり、その
ここが現代 の 清 澄 庭 闘
。
そして、明治の御世になると、
。
期には、豪 商 、 紀 伊 国 屋 文 左 衛 門 の 所 有 地 で 、
もてなした
彼はこの地に庭園を造り 、別 荘として人々を
。
。
その後、清澄庭園となる
東京でも有数のスケールの大き
三菱の岩崎弥太郎がここを買い取り、さらに
庭闘を整備
な日本庭園 を 造 る
。
現在も涼亭から眺める池の景色は別格の趣が
ある
霊巌寺
清澄庭園の東を通る、江戸期、海辺新聞通
りを挟んだ東 一帯が広大な霊巌寺とその子院
小名木川から大川に出る .m躍は浜町大
名_.万年婦の右側奥に.て芭賀町Rーが
あ った.
.
t
:
t
..~主十六景「深川万年鳴下J.
2
4
江戸 を 歩く
群である
。
。
霊巌寺
。
。
その後、こ
浄土宗、十八壇林のひと
つ もとは謹厳島に創建された
必Ee
。
。
の社は明暦の大火で焼失し、深川の、この地
に移転して来たものである 再興にかけた珂
碩和尚の功績は大きい 彼は地道な布教活動
。
。
霊
その後、珂碩和尚は、
そこをゆ土とした
。
を行い、幕 府 か ら 割 り 当 て ら れ た 、 こ の 湿 地
帯を見事に 再 興 し た
九品仏浮真寺を建立
。
。
この大
辺りの江 戸つ 子は境
六地蔵の五 番 目 が で ん と 控 え て い る
厳寺の境内 に は 、 地 蔵 坊 正 元 の 手 に な る 江 戸
きな銅像は風格がある
もうひとつ
。
境内には、党政の
田沼
をの九鬼贋般から飛び出した
内にある、 大 き な お 地 蔵 様 に 手 を 合 わ せ 、 旅
。
。
。
吉 宗 以来の質素倹約を自ら実践し、同時に江
。
定信は、文武、
当初、賛同した江 戸 庶民
ふね)が行き来している.
に出立した
改革を断行した、松平定信の慕がある
。
意次のどち ら か と い え ば 重 商 、 積 極 的 な 新 産
戸 庶民にも強いた
総が遂を超え、川薗を廻う.
小名木川の行く先は中川、行
!
l U(ながわたり
l
徳方面.
彼は八
っ てくる
しかし、
彼自身柔術の大家であり、老齢
。
その学問奨励策には偏りがあり、朱 子 学に悶
にな っても技の研績に務めている
。
業勃興策と正反対の重農 主 義を推進
田沼 失 脚 後 、 老 中 に な る と 岡 沼 時 代 の
学問も奨励
。
も次第に息苦しくな
れる
代将軍吉宗の孫であり、早くから老中雛顕の
。
2
5
座が約束されていたが、その道を田沼に塞が
賄賂横行政治を改め、清廉な政治を目指す
.広量「小名木川五本~つJ.
。
。
定信は若い時から聡明を誕わ
江戸庶民の娯楽、芝居にまで否定的
執したあまり、徳川末期の様相を呈すること
になる
な処置をとる
。
し
長谷川平蔵の寄
。
れ、権力の座に着くと意次の影を徹底的に払
拭し、清き政治を旨とする
場人足作り は 、 定 信 の 大 き な 功 績 で あ る
かし、田沼 の 商 業 勃 興 、 経 済 、 技 術 の 撮 興 策
。
。
彼は長崎から入手した蘭 学
を見ると、希に見る優れた政治家ではなかっ
。
一方、定信は、天明の大飢簡
彼の
事実、自領の白河藩では、 }人の
。
しかし、 当 時、余人には気づか
この流れが幕末まで続く
。
彼
E FK , a
噌
芭ま庵
'
たかと思われる
の良き理解者でもあった 時代の状況がこの
。
優れた政治 家 を 継 ぐ 人 材 を 生 み 出 し 得 な か っ
たともいえる
。
の影響下で 放 漫 財 政 の 立 て 直 し と い う 困 難 に
直面する
餓死者も出さず、名 君と云われている
。
質素倹約と 植 栽 振 興 策 は 決 し て 間 違 っ て は い
ないと思う
かである
ぬ新産業、 技 術 勃 興 策 の 芽 を 摘 ん だ こ と も 確
。
定信は
決して芸術 を 軽 ん じ て い た わ け で は な い
るお怯ゆ
守
る芭蕉J . φ!1i!,窓の外に大
の
宥
の音j 銚膏(芭蕉の前の号)
"
t
ュ
4
きな百~.の援が霊れ下がって
いる . f古池や鍾飛び込む水
‘
とある.
11谷Jl I・s
fi!..にて、拘思いにふけ
-江声名所図会
rr., 1 を砂 〈
F
だが、庁京以米の質素倹約
々の役人に芝居の然止とか、
。
れ身、谷文 兆 と 親 し く 接 し 、 芸 術 を 重 ん じ る
生活をしている
E 義は、その
庶民の生活 の 張 し み を 体 う 策 を 行 わ し め 、 や
次なる狂歌は
・
。
築き、それを惜しげもなく世に還 冗した 彼
。
っそりと身を潜
向、
家連傾き全てを投げ出すと永代寺の 一
の寄進と伝えられるものは今日でも多々あ
る
自問八幡の 一の烏肘付近にひ
。
。
芭焦門下の俳人、
。
t
之栂から消澄庭
って、仙台藩雌屋敷は
大正の頃、仙台掛の
(
明治にな
そこに米、特産物を運び入れたためつい
。
。
闘までは哩め 立 てられている ) 大川点の上
削減
た名である
敷
に接する上之舗の北側が仙台、伊違家の蔵屋
。
仙台婦は寛永以降に開削された運河 大川
仙台 犠
る
助が寄進した大きな記念碑が建てられてい
は、今日、同じ紀州人の大実業家、松下 幸之
成等院の東側にある小さな基の側に
ったに相
。
物質欲に囚われない、その
った
め、悠々たる人生 を送
。
がて庶民は あ え ぐ よ う に な る
宝井其角との交友は並の商売人ではないこと
。
この近の市
不明の部分が多いが、元 um
期を代
。
を物語っている
。
紀州のみかんや M 木商とし て 民大な財を
違ない
生き方に江戸人は大いなる賛辞を送
。
寺内西側に雄訟院が
。
る
「
白河 の 清 き に 魚 も 住 み か ね て 、 元 の 濁
当時の江戸庶民の気持ちを正直に伝えてい
・
りの田沼恋しき 」(
定信は陸奥白河藩 主) 。
紀 伊国 屋文 左衛 門
謹厳守点参 遣を捗く
あり而して 点 丙 に 広 い 道 が あ る
側は 霊 厳守学寮を始め多く のチ院が報ぴ、久
表
世尾敷の束 面 を お 問 北 に 過 る 、 海 辺 新 聞 通 り に
。
F ると庄右に並ぶ子院鮮の
面して表門 前 町 の 町 並 み が 展 開 し て い る
参道をさらによ問に
っ ている
来てに成等与す 。 ここに紀伊国屋文 店 街門が肱
。
点する 一大風主兇であることは違いなかろ
う
27
。
海に町が浮かんでいる、希有な
。
。
そしてとどめをきしたのがこの深
。
。
。
北は広
造成地 ) が浮かんでいるとい った
制) に島 (
光景である 重る所に材木が繍められて浮か
。
美術館) 絵師長谷川 雪 旦の木場絵図は当時
婦
の姿を如実に表現している 海の入り江 (
大な材木置き場が広がる(木場公園、都現代
までの制で南は江 戸滑 に至 る木場町
十間川の要橋から崎川橋
川の木場である 。三一
ねてきた
発展など諸所の原因により、移転に移転を重
。
之橋、次の海辺輔、そして亀久橋までが仙台
。
掘で、そこから東は三十間川と名前を変える
他久橋の次の要橋から崎川舗で縦南北に流れ
る大横川にぶつかる この誕橋から崎川捕ま
での直線をそのまま南に江戸筒州崎まで縦長
方形に伸ばした広大な地域がいわゆる深川木
場町である
風光の景観が展開する
場
材木の集積地、木場は火災や江戸 町の拡大
本
).~ tまt
;J~*
-江戸名所図会・a鎗く湯川木渇の光鎮
28
江戸を歩く
んでいる
木々に襲われた烏には材木商の館
。
。
池も
があり、明 け 放 れ た 座 敷 で は 主 が 客 と 相 対 し
庭には横積み、縦稲みの木村
島 (
造成地 ) はそれぞれ橋で繋がれて
。
。
ている
ある
そし て 此 処 か し こ で 人 々 は 釣 り 糸 を た
期制には江
って釣 っ ている
。
。
。
っ てきているのであ
っている者
浮かんだ材木に乗
いる
れている
人、小舟を出して釣
戸 湾の魚が そ の ま ま 入
云って み れ ば こ こ は 養 魚 場 に 等 し い 。 広
蓑
。
。
真
る
重は 雪 降 り 仕 切 る 冬 の 光 景 を 描 い て い る
。
。
。
現代人が
。
ー
こ の光景を見
いやそれ以上の自然と人が
った職 人 が 材 木に乗り作業している
を覆
に東洋のペニス
織りなす水 郷 の 鼠 観
たらその美 し さ に 息 を 呑 む で あ ろ う
{
鯵考文献 }
「江戸名所図
A
互角川・店
「広鑑の大江戸名所百頭倣歩」人文社
「江戸史跡穆奥」下巻。新人物件往来社.
「江戸・明治烹京宣ね地図」(伸明)
|ピ
工 | ビ ーカンパニ
2
9
深川本羽田の冨策色
.広重
シリー ズ
V
法然上人を
めぐる人々
石丸晶子
2
鈴木喜
・
一
の
「一
一筋縄ではいかぬ食わせ者」
よ などと除
をいわ れ な が ら も 、 法 然 上 人 の ふ る さ と 稲 岡
。
什
荘に直突が持仏堂を建てて、 三年の月日がな
がれた
。
建久七年( 一一九六)、冬の十 一月であっ
た
っていた抗突が、ひょ
っこりと都にもど
昨年の秋から、この 一年あまり般郷の点困
に紛
「いやいや 」
。
この度の脳動のことはわ
と手を振りながら、
「お気に召さるな
れらも聞き及んでおるわ 」
そういうとしげしげと智丸の顔をみつめ、
やがてつぶやくように、
。
「それにしてもそなた、 ますますよう似てき
そういうと彼は、 智丸から顔をそむけた
たな 」
聞こえてきた
。
。
ひとしきり、風に木々の離が舞い散る昔が
吹きすぎていく
草庵の障子をがたがたいわせて木枯らしが
直実は訴えた
ございます」
。
た
その半時後、ほ実は法然上人と対座してい
とともにふたたび別械で寝起きしはじめたか
智丸の顔をみるたびに、この日ごろ忘れて
「
ってきて古水の草地に阪をみせ、道遍や道越
と思うと、聞をおかずに、今度は慈円のとこ
っ
・
。
いた亡き敦盛殿のことを思い出して、苦しう
。
つづいて彼は
。
ろで修 行 し て い た 智 丸 が 法 然 上 人 の も と に も
どってきた
。
大きうなって
t 人にまさる師併はおられなか
「何だ小僧、 民
一 ってきたか
やはり法然
。
った約九の頗をみるや、大戸で
たとみえるな 」
った
Lt問識にな
直実はい
3
1
」
った
。
「
智丸は石清水八幡の 宮 司の 子 息ときいてお
ります が
・・
・
日ごろにも似ず、直実 は 口 ごも
「! このようなことを師僧に伺いますのはど
った
。
うかと思いましたが、智丸はまこと 宮 司の家
の子息 な の で あ り ま し ょ う か 」
思いがけない直 実 の聞いであ
ったりいたしまして・:
しかしお顔色は変わらず、直
ぐうじ
実 をま
っす
ッとされ
」
「ー 或いは 平 家にかかわる家の 子 息ではない
。
一瞬、お心のうちで法然 上 人はハ
かともふと思
た
ぐにお見つめになると、
。
口 調であ
ら れなか
った
。
っ
そ
口調には、ひごろ直突 が知 っ
とさせるきびしい
ッ
そのお姿と
直実 をハ
智丸は石清水八幡 宮 の宮司 紀氏の 子 息です 」
「
た
ている温厚な法然上人 はお
。
武士の出である法力 房(直
って出自は関
れ以 上 の せ ん さ く を 直 実 に 許 さ ぬ 、 き び し い
法 然 上 人 がそこにはおられた
。
「さらにまた、出家した身にと
係ありますまい
3
2
白
実)も 、 公 家 の 出 で あ る 法 蓮 房
ぜん
(
信空)や普
恵房
一 (証空)も、宮司の出である智丸も、出
家した 以 上 は み な 仏 弟 子 と し て 等 し い の で
。
たくしは誰がいかなる家の出であるか、
す わ
出自のせんさくな
とばを連ねた
。
面影に敦盛を思い出させるものがある、と
直 実 がいうのもそのはず、赤児のときから石
。
考えた こ と は あ り ま せ ん
bhy
った智丸で
清水八幡宮司 一族の息子として育
。
。
石清水八幡宮の宮司紀氏 一族の息子智丸とし
それまで、自分が清盛の曾孫とはしらず、
盛の従弟であった
そして敦盛はといえば、彼は智丸の祖父重
彼はただひとりの忘れ形見なのである
あ ったが、実は平家の嫡流重盛の末子師盛の、
しげも"もろ
ど、ま っ た く 無 用 の こ と で す 」
「ーわれらの不徳のいたすところでございま
した:・」思わず膝を正して直実は口ごもりな
がら、
「実は昨年の秋、智丸がはじめてここ吉水に
を思い 出 さ せ る も の が ご ざ い ま し て 、 そ の 時
て生 きてきた彼が、 生 きるか殺されるかの重
まいり ま し た と き 、 面 影 に ど こ と の う 敦 盛 殿
は他人のそら似と思い過ごしたのでございま
大事件に襲われたのは、直実が法然上人に源
一年あま
すが、 こ の た び 慈 円 様 の も と か ら も ど っ て き
。
り前の建久六年 (一一九五 ) の春
。
智丸は十 三歳であった
智の出自をお尋ねした日に遡ること
た智丸にさきほど会いましたところ、十七蔵
で討ち死にされた敦盛殿と年ごろも似てきた
ためか 、 ふ た た び 昔 を 思 い 出 し た し だ い で ご
大姫らとともに出席することにな
MM ひめ
った頼朝
法要に、正室の政子や嫡子頼家、そして長女
よ q い止
その年 三月におこなわれる東大寺大仏再建
ごうほうらい
ざいます 」
法然 上 人 に た し な め ら れ て 直 実 は 、 豪 放 議
落な日ごろにも似ず、くどくどと言 い訳のこ
3
3
ー
ー
。
上洛の途についたが、上洛
は、雲霞のごとく多数の武士をしたがえて二
月に鎌 倉 を 出 立
ば、かえ
ろ、っ。
って周囲の人びとの不審を買うであ
しかし、頼朝の前に出たとき何事もなくす
かぎらないのである
。
現に今なお、平家の残
めばよいが、何か不測の事態が起きないとも
。
きたのである。
の折には石清水八幡宮にも参詣すると伝えて
Lh
党狩りはつづき、京都市中や地方に臆れひそ
かんじaマ
aや
石清水八幡宮は源氏の氏神をまつる神社で
あり、鎌倉の鶴岡八幡宮は石清水八幡宮が鎌
。
一体どうすればよいか
鎌倉幕府の将軍は智丸をみてこうい
にでたとき、頂点にたつしたのである
。
ったの
。
そしてその不安は、智丸が頼朝の前に挨拶
美子は不安で 一杯になった
てきたならば、
万が て 智丸の存在に疑いをいだく者がで
。
んでいた平家ゆかりの男たちが幕府の手で処
つまり、格の上
倉に勧 請 さ れ た 社 で あ っ た
刑されているのだ
叫んぐう
からいえば、石清水八幡宮こそが源氏の氏神
一行が参詣するとなれ
。
を記る・本宮であり、鶴岡八幡宮よりも上位に
位して い る の で あ る
源氏 の 総 大 将 頼 朝
。
ば、宮司 一族は勢ぞろいして出迎えなければ
ならない
頼朝 一行の参詣を聞いた智丸の母美子はあ
。
。
だ
事情をしるものは美子と美子の両親
。
わてた
「なかなかよいお子だ どことのうみやびな
島 町すけ きょ
である 宮 前 の 紀 祐 清 夫 妻 、 そ し て 乳 母 し か い
われらが都にいた
。
姿は、さすが都のお子よ
あったろうが、 美 子には 一つ 一つが心に突き
頼朝としては、他意なく口にしたことばで
き んだち
なかっ た が 、 鎌 倉 将 軍 を 出 迎 え る と な る と 、
。
ころの公遣が思い出さるる 」
った
もちろ ん 、 智 丸 も 将 軍 の 前 に で て 挨 拶 し な け
ればならなか
智丸だけが挨拶の列にくわわらないとすれ
3
4
ささ
った
。
島 んだも
。
もしかすると、
(ー 都にいたころの公遣が思い曲されるとは
どういう意味なのであろう
。
将軍家は気づいたのではないか)
美 子はおびえた
「父 上」
。
つた夜、
わたくしは不安でなり
ったことばを
美子 は父の宮司と向
参詣をおえた頼朝 一行が石清水から都の街
ろ〈はら
っ ていた
舎六 波 羅 に む か
かいあ
。
「
将軍家が智丸をみて仰せにな
いかが 思 わ れ ま す か
ませぬ 」
「まさか智丸の顔 一つで、 気 がつかれたはず
はなかろうが ・
・ ・」
「
公遥のような、といわれたおことばが心に
刺さるのでございます
」
「しかしあのとき、 万 一気 がつかれたのであ
ったならば、智丸はその場で捕らえられてい
3
5
ょうぞ 」
「 ・・・」
・・・
三 ヶ月ほども郁に滞什位していた頼朝一行が
さい 」
美子はい
一室で父とともに智丸に向かい
害守 21uue
吋ゐ
'
L
実は頼朝 一行が都に滞在中の凶
。
。
「今までそなたにも隠してきましたが、そな
った
「
智丸、これから母が申すことをよく聞きな
らえられ、処刑されていた
月にも、平家の残党薩摩宗資父子が治内で捕
。
ようやく柑途についた 六 月末、晃子は開け放
。
石清水は源氏の氏 寺 なれば幕府の
あ っ ていた
英チはすすり泣いた
これが武家な
った奥の広い
。
と宮司はすすり泣く娘の航酬をひたとみて、
「
美子、智丸も十 三 になるな
らば元服もしよう年であるが」
「これか ら先の ことを思うとわたくしは夜も
眠れないのです 」
「ふむ 」宮司は腕を組んで、
。
「
どうだ、智丸をどこかしかるべき寺にあず
けないか
いつまでもここにおいて
たの突の父は先の内大臣 平重盛織の末チ師雌
。
侍の出 入 り も 多 い
様なのです 」
。
。
たのです 」
。
そのとき、師
盛械のご拠愛をいただいてそなたを身ごもっ
小松般にお仕えしていました
「
その昔、ほは内大臣機ご 一家がお住まいの
つめた
一瞬、十 三議の少年は顔色を変えて母をみ
・・・
「 ・・・」
おくの は 危 険 で あ ろ う 」
。
った
「i 実はわたくしもそのことを考えておりま
明日にでも寺に預けとうございます
」
した
「いや」
宮司はい
あわてて普段とちがうことを
「将軍家が都に滞在しておられる聞は動かな
。
って疑われようぞ 」
いほうがよい
すれば か え
3
6
「・・・・・・」
。
少年 は 血 の 気 の ひ い た 真 剣 な 顔 で 美 子 の 顔
をみつ め つ づ け て い る
「しかしそなたが生まれたとき、師盛さまは
。
った、と思う
歯をくいしぼり声 をころし
。
っ
少年の目からは涙が次からつ
。
十 三歳の智丸の目に涙がひか
や智丸は泣いた
て泣いている
ぎへとあふれでた
「そなたの父上は 立 派な武将でおありにな
、
族とともに配献に赴いておられ、
すでに ご 一
たが 」
「なりませぬ」
。
いいですね 」
美 子はするどい 声 でい
はないのです 」
。
。
。
仏道出家して生きるほか、そなたが生きる道
。
「なりませぬ ここにいることはなりませぬ
った
お祖父様のもとで生きてまいる心でおりまし
って、母上や
そなたを吉水の法然上人のもとに預けること
。
こで母はお祖父様とも相談して、
りませぬ そ
そなたも父上に恥じない人聞にならねばな
「
ら
た」
子の
美子 も涙のなかか
そなたが生まれたことさえご存知ではありま
せん 」
った障
美子はこみあげてくるものを抑えるよう
に、智 丸 か ら 目 を そ ら し て 開 け 放
かなた を み て い た が 、
にいたしました
母上 」智丸は母をよんだ
「
「そなたが 生 まれたことをお知 らせするすべ
一の谷で討ち死にさ
もないままに、まもなく
官 とな
「わたくしは石清水の神
ったと、あとで
じい
れました 」
。
あれを思い、これが思い出され、長年抑え
に抑えてきた悲しみが怒涛のようにこみあげ
てきて美子は鳴咽した
ったためであ
「一の谷で討ち死にされたのも、名もない平
氏のお 侍 を か ば
母はききました 」
「・・・・」
・
・
3
7
gめ
Eがい部川
。
、
そのお姿を拝して
、
。
このように
私たちの心を乱
、
日ごろから懇ろに称
、
大いなる益悲を働かせて
.
、
と誕かれて
って必ず阿弥陀さまが来迎して下さ
はじめて安らかな心になるのである
臨終にあた
。
称讃浄土経には、滋悲をもてくわえたすけて、こころをしてみだ
ら しめたまわずととかれて候なり
ただの時に、よくよく申しお
きたる念仏によりて、臨終にかならず仏来迎したもう 仏のきた
り現じたまえるをみたてまつりて、正念には住すと申しったえて
候なり
法線 上人【大胡の太郎実へ つかはす御返事}
『
穂積棒土経』 には 、「阿弥陀さまは
.
.
れないようにして下さる 」 と説かれています
.
えてきたお念仏の功徳によって
るのです
います
野琢、好きかい?
回土互
それは、映画『フィールド・オプ・ドリーム 』 で、 主 人公レイ・キンセラが
l
ブックらしきノ
l
った
。
っと大
プブック、練習メモ
ッ
トとともに、ある秋晴れの朝、翁の棺に納められ
ッ
トや古ぼけたスクラ
ガーたちの亡霊が 手 にするような、手袋をちょ
自身のトウモロコシ畑を取り潰して作り上げた野球場に集う、 一丸 一0年代に
活躍したかつての大リ
きくしたようなグローブであ
1
これまた年代物の使い込んだパ
。
かスコア
た
った
l
ル片手に、
いたそ
つっこい ご性格ながらも、いかにも数々の武勇伝に彩られ
。
通夜の席上、ご兄弟たちがピ
。
。
喜寿も 過ぎ、お 年でいえば確かに翁だが、長 身で 、胸板が厚く、大きな声で、
親分肌で、いつまでも若々しく、人の輸がまわりに絶えないような人だ
ったが、人な
新しく独立した所帯であったから、お寺との付き合いは、本家の仏事が主な舞
台であ
ていそうな雰囲気を漂わせていた
高校野球の選手であったのだ
。
一見してスポーツマンと分かる翁は、若かりし目、白球を追いかけて
うだ
。
ったが、私なりに理解したところはこうだ
。
懐かしげに、また自慢げに選手時代の翁を語り出した 時系列と記憶が睡眠昧な
ままの断片的な詣であ
3
9
った
。
ったか、秋の北
。
。
ったか、ともかく決勝か、準決
。
ったらしい
。
。
だが、翁
後にも先
流れは相手に傾き、そのまま
帰宅した翁は泣いていた
。
そういう状況であ
。
案の定、そこから試合が動いた
そのアウトが勝利を引き寄せる
。
ムは敗れ去り、甲子園を逃した
翁は必死に追いかけ
何イニング目だかは分からないが、
信 越大会であ
翁は 三塁手であ ったそうだ
哀の県大 会 であ
勝であ
。
三塁側ペンチに飛び込んでいくようなフ ァールがあ った
た
l
は捕り損ねた
翁のチ
っといいグローブを手に入れてやると
ミ
スター G の先輩にな
。
言っ て いたそうだ
指先に、グ
。
。
つ
そ
お馴染みの 大 沢
。
ァ
ールを捕
でも、ご兄
ジ はどうだ
。
あのフ
った
った
っていたか も知れぬという
。
っていたのだろう
。
にも、翁が野球で泣いたのはその時だけらしい 泣 きながらグローブを見つめ、
今 度はも
ムメイトか、
手伝 うことにな
、
会 は私にはなか
けれ ど も、誰々のヤ
ったが、やがて、家業を
ったそうだ
ローブの先端からポ l ルがはじかれていく感触が残
l
その後、翁には東京 六大学の野球から誘いがあ
親分のチ
こがご兄弟の自慢であ
。
ったと聞く機
翁か ら高 校野球の 話 は聞いたことがある
たみないな 話 で、自分が選手だ
。
型は古いが、遠目にも見事に手入れが施されてい
弟によれば、棺に納めるべく翁の傍らに添えたグローブは
り損ねたグローブだという
4
0
響流十方
るのが分か
った
。
。
。
。
。
誰にも土足で踏
だから翁は、ペラペラ話さなかったのだ
っても、とても大切な想い出なのだ
六十年以上も昔の代物にだ
翁の高校野球は何年経
み込んでもらいたくない宝物
。
でも、安らか
フ
。
ァ
っちゃ」
でも、大切な想い出を大切にしてく
野球はああじゃなく
。
。
っ込ん
って、大声 で遠慮なく聞くだろう
つて、どこか抽象的な 言 い方だと思う
。
日ごろ念仏を称える者の臨終には阿弥陀さまが来迎してくださり、安らかな
心にして下さるという
。
。
ールを捕りに 三 塁側のベンチの突
この翁なら、お迎えに来た阿弥陀さまにだ
如来さんは、野球が好きかい?」
「
ったよ
阿弥陀さまは何と答えるだろうか
あの試合、いい試合だ
「
だ 三塁手がいたけど、あれが野球だよ
翁にも、この世に心残りはあるだろう
。
。
。
磨き 上 げられた
{
浄土宗総合研究所袖山歯車織}
と笑うに違いない
ッ
れる仏さんからのお迎えと分かれば、「想い出は消え去りゃしないこれなら、
った
安心して逝ける 」 と家族を見ながらニヤ
翁のグローブを見て、そう思
4
1
-a-
奮
袖山 祭輝
林田 康 順
小村 正孝
響流十、万』ヲVるつぽコ
其のニ
BOOK
C(e]lt゚JN
響涜+方
袖山祭鱒・椋岡康順 ・小村正孝
~然上人・仰会
定価 [本体640円+税]
法然上人鎌仰 会
とし
思え
現在もそれぞれ気鋭の学僧、論
亡くなられた作家、井上ひさし氏が
った「難しいことをやさしく、やさ
」 書くこ
(
編集部 )
、
「響流+方 』
。
響流十方 」 が 「
其の二 」
本誌連載の 「
』 そして
て再び一冊の書籍にまとめられました
ば 『
差出人は法然さん
。
の一冊目を上梓された頃の著者三師は浄土宗
の若き俊英
。
客として日々充実し、おのおの浄土宗の現在
クを用いながら
ッ
と将来を背負うべき逸材です
三師三横、豊潤なレトリ
さまざまな経文、法句に取材し、その心を、
日常の雑事に託しつつ、現代における諸問題
と関連させて説くという、叙述スタイルは、
。
まさにすべての人々に問いかける方法論とし
て有効です
連載中から注目を集めていましたが、こう
。
して 一冊にまとめられると読み応えが増して
います
かつて語
しいことを深く、深いことを面白く
。
とに成功した稀有の一書が実現したといえる
でしょう
FORUM
広場
。
。
信子
田
佳
審
情
正
4
4
-夏 草
。
の季語にできそうだが、これが題なのだ
〈
佳作〉夏草や目病みの描の大欠神
T枠リし踊リの輪
夏草の起伏円やか赦吉ムロ
γけ
夏草 '除
石原
夏の草」は、ほか
効果を見るべきだろう 。「
。
古事記 ・日本魯紀の世界である 大和の悶
だろう 。「
山々・記紀 ・神々 」と畳み込んで
行っているのがリズムをなしている 読 みの
山々に記紀の神々夏の草
〈
g
旬一
上一
.冷奴
。
っくらした肌
合いが、冷奴とよく合っているのだろう 多
目というのは、生装 ・葱・花鰹あるいは官紫
萩焼きの小鉢 である 白くふ
萩小鉢薬味多目の冷奴
〈
霊〉
浄一
吾
郎
新
永
口
浜
口
田
井
増
。
。
この辺は読み手に任されている
T遠のく脅や冷奴
一日終えぬ冷奴
。
た っぷりとというの
蘇など種類多希子'のか
か
〈
佳作〉 ややあリ
LT
浅草は屋台から暮 れ冷奴
場洛み
。
踏帽子
膏
女
-自由題
天衣なさ三保の松原蝉時雨
。
。
三保の訟原といえば羽衣の物で
芯ある 何
代目かの羽衣の松のほとりに
立 つと、今 はた
だ蝉がしきりに鳴いているばかりであるとい
「
天衣なき」が、逆にその松に羽衣の掛
う
か っている様子を、顕に
浮 かべさせる
6
〈佳作〉西瓜持ち法然、さまの寺へ行く
上
苑
を
井
斉
也
仁
忠
歪
ち
田
田
帯
下
浦
からだ中水になるほど西瓜会・ヲ
膝っき T草刈るズボン百足這う
村
普
蔵
林
佐
村
ゑ
〈
特選
〉
選者=泊田河郎子
浄土底上旬舎の
お知らせ
白島越 沼
?
由
題
。
佐藤雅子
中島富 士 子
v
斉田仁
・夏草
能上句会〈編集部選
ありあけの夏草凍と鯨けり
川緑の夏草匂う城下町
夏草や空まだ暮れず機の街
河合富美枝
夏草に伴天連ひとり転びけり
… 中年や 天 下御免の冷奴
冷奴ピ!ルの泡を鼻に付け
夫逝きてよりの日月冷奴
老人に悦惚とあり冷奴
新島朱 音
工藤縛
石原新
斉閏仁
中島富士子
…名水に鎖座まします冷奴
戸 井田信可
進藤美佐子
-自由題
夏箪を分けて露天の湯に並ぶ
路地ごとに更地の増えし夏の背中 井村善也
増悶信子
夏草を除けて作りし踊りの輸
海を見ており夏草の風を背に
松手入れ了えて夕映えかくのごと 佐藤雅 子
… 川舟の流れに添いて秋の蝶
河合富美枝
…待つ刻の心揺らぎてこりんどう 中島富 士 子
飯島英徳
早や遠忌我は 二度目の大師鋭
卒塔演のようなアイスの様なりし 西原規夫
- 冷奴
41714
明照会館内
子規の忌の斜めにかぶる野球帽
籾般の煙る匂いや村暮るる
山口信子
中村真 一
内山大
さとうゅう
整切 って風の涼しき覚えけり
蝉しぐれ地に爪 立 てる蝉の殻
どぜう屋と大啓されある秋暖簾 袴田阿形
鈴な
木真理 子
生きるものみな品耐えている残磐か
…揺れたるは都電の吊輪秋に入る 工藤縛
名
3
。
河合富美枝
名山の水すずやかに冷奴
締切 ・ニO 一O年十一月二十日
発表・ 『
浄土 』 二O 一一年一月号
『
選者 ・旭白河郎子 (
荷風』主宰)
応募方法
名・佳作各
1
・ いずれの題とも数の制限はありません
. 特選各
さい
10011
東京郵港区芝公園
何句でも可 )と、住所・氏名を必ずお書き下
葉書に俳句 (
宛先
T筒
浄土』誌上句会係
月刊 『
4
6
/ ワ巻な系 .
r.
1
.
J
.
~
&安易
\ヴ
÷-。ぉ-っと
し Z花とに
れすに TE
,,,,
。
、
俗間新聞・山梨日々新聞 ・北日本新聞・
。(
かまちよ しろう先生作新聞四コマ漫画 『ゴンち ヤ ん』が各地方新聞 に岨帰依されています
、
)
福島民報・宮崎日々新聞 ・新日本海新聞・山形新聞 ・長崎新聞 ・鮫皐新聞 以上朝刊 中国新聞 ・縛戸新聞 以上夕刊
…
冬盈盆:
働詩句
磨重!司9
.._,) 事嚇
編集後記
盃をこぼさぬほどの寝待月
先日火葬所の見学という、組の教化回
た
。
この火葬場見 学という研修を快く受
が 主 催する研修会に参加させていただい
け入れてくれた施設は、東京では 一カ所
っ
五 つの 区が共同で運営されている
しかなく、 六年前に埋め 立 て地にオープ
ンし、
.
ら ていねいな説明があ
「
臨海斎溺 」 だけだったとりつ
事務局の方か
.
..尾掌久 (三 島・阪成寺)
熊谷繍彦 (佐賀・本願寺)
粂原恒久 (川越・ 五直撃寺)
.
.
作
を艶え、毎日窯の消婦をするという
黛は 一基 一億円以上もす
業されている方々に頭の 下 がる思いで 一
をされていた
るというもので、蘭聞にそれぞれの進行
中村康澱 (清水・実相寺)
中村鴻貧 (仙台・感鈍院)
野上智fI {静岡・宝台院)
疎図得三 (鴻巣・勝願寺)
細菌a・ SC (静閥・撃隊院)
本多 .e (両国 ・ 回向院)
.
貿任者の方の
真野蘭海 (芝 ・ 天光院)
髄鱒之 (網代 ・ 教安寺)
水科普陵 (長野・~~隆寺)
宮事事昭彦 (大本 山光明寺)
山田和緩 (諏訪 ・ 貞i怯院)
( 8称略・五+ 音順}
編集スタ
ッ
七ト六巻十 一月号制価六百円
年会貨 六千円
斎誕混信組
佐山哲郎
青木照憲
村田洋 一
長谷川岱潤
(長)
杯であったが、私 自 身は十分とその溺に
国中う既成 (町悶・義運寺 )
中島 .st (í'i I1J .梅窓院)
。
状況が表 示され、経過時聞はもとより、
高ロ豊島行 (大阪 ・ 一心寺)
フ
居られなかった
健康孝錐 (鎌倉 ・ 尚徳院)
健康成順 (品川 ・ 願行寺)
佐.良鏑 (小石川・光臨寺)
東海事事良憲 (溢釜 ・ ~上寺)
須蔵隆仙 (函館 ・ 称名寺)
編集チ 1 フ
黛の温度が刻 一刻と 表示 され、九百度を
.
少しでも多
るということで、絶えずのぞきなが
.
ら作
ペストとして 千度以上にならないよう気
を配っていた しかし細かな鴻懇や終 了
はのぞき穴から見て人聞の判断で行われ
業をしている姿に恐縮した
正に緊張の連続であった
くしっかりした骨を残すことを心がけ、
「
ご裏切識があれば骨篠本のように残すこ
大江田樽導 (仙台・西方寺 )
~t 山大組 (燐穆・光心寺)
加.~餓 (五反田・専修寺)
印刷
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法然上人鎖仰 会
三 五七八}六九四七
地 滋 O三 (
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仮HH 06一八0 ・八。八
二一八ヒ
実行所
東京 m港区芝公園閉・七・悶明開会館内
〒 一O五
印刷 Em-- 且式
悼会社シ
佐藤良純
大室 了時
昭和十年五月二十日第 三回
開鄭便物岡崎可
平成 二十 ニ 年十月 二十日
平成 二十 二 年十 一円 一 日
土
たあと、施設内を見せていただき、日町後
に火葬炉の裏側に入れていただいた 午
飯田実鎗 (駒ヶ桜・安楽寺 )
雌谷・正 ( 目黒・祐天寺)
.
ともできます 」 という 言葉に技術に対す
になされているところで、 ニ名の輔職員が る白線の思いも感じ取れた 作業者は儀
特別、維持、賛助会員の方々
浄
濁
後の遅い時間であったが四体の火葬が 正
後に冷却のときに風で飛んでしま った骨
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ホームページ
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社会人の両面があります
私
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『
・衣冠より烏
たがひて用ゐよ
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一方 で 低 れ た エ ッ セ イ ス ト 兼 好 は 乱 脈 な 政 治 と
葉は. 乳 代 に も そ の ま ま 通 用
かれ 」
、藤原白川輔 (960 没)が子孫に銭
で、あるに
徒然 草 第 二 段 、
えする人は昔から尊敬されま
自らの利符を省みず、
人には、一個人また
怠施して一褐を得
無 量 寿経
r
ま
l
た
リの御世」は、政治を泳かに
l
満足する
糸めたのです
に耽った後鳥羽上立を批判
l
E
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の舎さ
、息子順絡の言葉で
、
は心中で、大規模な熊野行幸で政治を怠リ、遊び
置きの順総天主ニニ四ニ没)を設えつつ、兼好
「
天皇のお召ものは、粗末なのがよい」
国民の愁い、図の存亡を省みない・万'むいたが、
「いにーへのひ
菅沢を痛烈に批判
思いやりのある務めをして、
長え
・ミー=
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コ
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目
、4・
円v-内
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法然上人錆仰会 の
当会発行の.l革 、 袋誌
のお求めは 、 当会へ直後
お申し込みください 。
なお 、 月干IJ
発行人 / 佐
響流+ 方
浄土
を除き送料 lま
含まれておりません別途実費を
申し受けます
iま然上人鍛 1m 会
電路/03・3578.6947
FAX/03・3578・7036
術 111 祭鱒 ・体UJ.L降傾 ・ 小村 tf.)/:
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