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学習メモ
日本史 テレビ学習メモ 第 36 回 学習のねらい 第 4 章 近代国家の形成と国民文化の発展 1931 年、南満州鉄道の線路の爆破を 日中戦争 きっかけに満州事変が勃発します。さら ろ こう きょう 溝橋で日中 に 1937 年には北京郊外の盧 ルー コウ チアオ 両軍が衝突したことにより、日中戦争が 始まります。いずれも政府の不拡大方針 監修・講師 にもかかわらず、軍主導で戦線が拡大し 季武嘉也 ました。この時期、日本では軍部が発言 力を高め、影響力を強めていました。そ 調べておこう・覚えておこう お う ちょう め い けつめいだん ご れはなぜだったのでしょうか? 1930 いち ご 汪 兆銘/血盟団事件/五・一五事件/ ワンチアオミン たかはしこれきよ とう あ 第 2 次国共合作/高橋是清/東亜新秩序建設の声明 かんぱん こ っ きょう が っ さ く /統帥権干犯問題/第 2 次国共合作/ に また当時の経済状況に注意しながら考え ていきましょう。 に ろく 二・二六事件/ロンドン海軍軍縮条約 要❖其の壱 年代に頻発したテロやクーデター計画、 満州事変 ▼ ①関東軍はどのような意図から満州事変を起こしたのか ②国民が満州事変を支持した背景には、どのような状況があったのか * * * ちょうさくりん ちょうがくりょう チャン ツォ リン チャン シュエ リアン ① 1928年に爆死した張作霖のあとを継いだ息子の張学良は、南京の国民政府への合流を決定 し、満州は形式的には国民党が統治するかたちとなった。そして、国民政府は満鉄など日本権 益を自国に回収しようとする動きを強めた。これに対し日本国内では、民政党内閣の外務大臣 しではら き じゅうろう である幣原喜重郎が協調外交を展開していたが、軍や右翼は「満蒙の危機」を叫びそれを非難 いしはらかん じ するようになった。なかでも旅順に司令部をおく関東軍からは、参謀の石原莞爾を中心に、満 州を中国から分離して日本の勢力下におこうとする計画が作られた。そして、1931年9月18 日に実行したのである。 − 96 − 高校講座・学習メモ 日本史 日中戦争 ② 当時、日本国内は昭和恐慌下にあり、農村では生糸や農産物価格が下落して収入が減少し、 多くの借金を抱えていた。都市では、会社が倒産し多くの失業者が生まれた。このような中で 国民は、このままジリ貧になるのではなく、なんらかの転機を求めていた。そんな中、事変後 に大蔵大臣となった は、金輸出を禁止するなどの政策をとったため輸出が好調 となり、さらに軍需によって重化学工業が発展するなど、都市を中心に景気が著しく回復した。 こうして、満州事変は国民から支持されるようになったのである。 テロとクーデター 要❖其の弐 ① 1930 ~ 1932 年にテロ事件・クーデター計画が相次いだが、どのような事件があったか ②二・二六事件の背景となった陸軍内の対立はどのようなものであったか * * * 締結の際に ① 1930年の が発生して以降、軍部や国家主義者 はま ぐち お さち の間で政党内閣を非難し、国家改造を叫ぶ声が高まった。同年、浜口雄幸首相が東京駅で右 翼の青年に狙撃され、重傷を負って翌年に死亡した。31年には陸軍将校や右翼による三月事 件・十月事件というクーデター計画がたてられたが、これは未然に阻止された。しかし、32 だんたく ま ▼ 年には前大蔵大臣井上準之助や三井財閥団琢磨が暗殺される いぬかいつよし がおこり、さらに では海軍将校の一団が犬養毅首相を暗殺するにいたった。 ② 陸軍将校の間には、皇道派と統制派と呼ばれた2つの派閥が対立していた。前者は精神主義 的で、天皇制思想の浸透によって国難打開をめざそうとし、天皇機関説排撃運動を強く推進し あら き さだ た。後者は軍部の統制の下で強力な総力戦体制を打ち立てようとした。また、前者は荒木貞 お ま さきじんざぶろう 夫・真崎甚三郎という将軍の下で青年将校が多く、後者は陸軍省や参謀本部の中堅エリート幕 あいざわさぶろう 僚将校が多かった。このような中で、1935年に皇道派の相沢三郎中佐が、統制派の陸軍省軍 なが た てつざん 務局長永田鉄山を斬殺するという相沢事件がおこり、両者の対立はいっそう拡大した。こうし が勃発した。 た中で、1936年に青年将校たちが決起し − 97 − 高校講座・学習メモ 日本史 要❖其の参 日中戦争 日中戦争 ①なぜ日中戦争は長期化したのか ②「東亜新秩序建設の声明」はどのような内容で、どのような意図を持っていたのか * * * この え ① 1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋で日中両軍が衝突し日中戦争が始まった。日本の近衛 ふみまろ 文麿首相は不拡大方針を表明しながらも、早期に戦争を終結すべく、大規模な派兵を認めて戦 線を華北から華中に拡大し、日本軍は同年末に首都南京の占領に成功した。日本としては、こ れによって中国側の戦意が失われ、戦争は一段落するものと考えていた。しかし、国民党と共 産党が提携して じゅうけい が実現した中国側は首都を重慶に移し、さらにゲリラ戦も挑ん チョン チン で頑強に抵抗した。さらに、英米やソ連が中国を物質的に援助した。こうして、早期終結は不 可能となり、戦争は泥沼化していった。 ② 全面戦争の様相が濃くなると、近衛首相は1938年の11月と12月に「 」を 出した。これは突発的に始まった戦争の目的を改めて表明したもので、日本・中国・満州国が 善隣友好・共同防共・経済提携することで、東アジアに新たな国際秩序を建設しようというも ▼ のであった。ただし、これを中国側が受け入れることはありえないので、日本は国民党副総裁 である を重慶から脱出させ、日本の影響下で南京に新政権を樹立させてそれと 提携しようとした。しかし、同政権は中国民衆の支持を得られず、戦争の終結はいっそう困難 となった。 − 98 − 高校講座・学習メモ