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学習メモ
日本史
テレビ学習メモ
第 32 回
学習のねらい
第 4 章 近代国家の形成と国民文化の発展
日露戦争
日清戦争から約 10 年後の 1904 年、
日露戦争が勃発します。その背景には朝
鮮半島を巡る日本とロシアの確執があり
ました。日本とロシアはどのようにして
監修・講師
対立を深めて行ったのでしょうか? 戦
小風秀雅
争は日本が辛くも勝利を収め、戦後日本
は大陸への進出を強めます。それはどの
調べておこう・覚えておこう
え ん か い しゅう
からふと
ように進められたのでしょうか? 日露
とうかん ふ
ウィッテ/沿海州/樺太/韓国/韓国統監府/関東軍
と とく ふ
ぎ へい
ぎ
わ だん
こ むらじゅ た ろう
戦争の原因や、戦争がこの後の朝鮮半島
/関東都督府/義兵戦争/義和団/小村寿太郎/
や清、そして欧米列強に与えた影響も含
だいれん
めて学んでいきましょう。
ちょうしゅん
連/中国分割/長
春/朝鮮総督府/日英同盟/
大
ターリエン
チャンチュン
日露協商/日韓協約/日本海海戦/ハルビン/
まんかんこうかんろん
日比谷焼打ち事件/ポーツマス/満韓交換論/
ま ん しゅう
満州(中国東北部)/南満州鉄道株式会社
▼
要❖其の壱
戦争の背景
①義和団事件はどうして起きたのだろうか
②日英同盟の目的は何だったのだろうか
* * * ① 下関条約で、日本は清の開港場における製造業従事権を獲得し、これが列強にも適用された
ため、列強は清に投資を始め、鉱山の開発、鉄道や工場の建設を進めて、独占的な経済的勢力
圏を築いていった。さらに資金の貸し付け(借款)、租借地の獲得などの様々な利権をめぐっ
て列強は競争を展開した(
)。
ふ しんめつよう
これに対して、清の国内では、排外運動が盛んになり、「扶清滅洋」を唱える義和団が蜂起
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日本史
日露戦争
した(
事件)。1900 年に、義和団が北京の各国公使館を包囲すると、日本軍
を主力とする 8 か国の連合軍が北京を占領して、鎮圧した。翌年清は、列国に賠償金の支払
いと華北における駐兵権を認めた。
② ロシアは、義和団の鎮圧以後も、
に大軍を駐兵させ、事実上占領した。韓国
)
での利権を脅かされた日本は、ロシアと妥協して権益を守ろうとする主張(
もあったが、大勢は、イギリスと提携してロシアと対抗する道を主張した。
イギリスも東アジアにおけるロシアの勢力の拡大を恐れて、同盟国を求めたので、1902 年、
日本はイギリスと同盟を結び、ロシアに対抗する道を選択した(
)。同盟では、
中国・朝鮮において第三国と交戦状態に入った場合には同盟国は中立を守り、2 国以上と交戦
状態に入ったときには同盟国は参戦すると規定された。日露交戦時における参戦国の拡大をけ
ん制するもので、攻守同盟ではなかったが、日露の軍事衝突にあたっては、イギリスは好意的
中立の立場をとることを約束した。
要❖其の弐
戦争の経過
①日露戦争はどのように推移したのだろうか
▼
②ポーツマス講和条約についてまとめよう
* * * ① 1904年2月、日本はロシアに宣戦布告をして、日露戦争が開始された。戦局は日本に有利
りょ じゅん
ほ う てん
リュイシュン
フォンティエン
に進み、1905年1月には、ロシアの根拠地であった旅順を陥落させ、3月には 奉 天(現在の
瀋陽)の会戦でロシア軍の主力を打ち破った。さらに5月には、
でバルチック
艦隊を壊滅させた。
この間、日本の戦費は 17 億円に上った。これは、国家予算の 4 年分以上、租税収入の 10
年分以上にあたり、半ば以上の 8 億円はアメリカやイギリスなどの外債引き受けによりまか
なわれた。また、戦死者 8 万人、戦傷者 4 万人にのぼり、財政的、軍事的に日本は戦争を続
ける力を失いつつあった。ロシアでも国内で革命が起きるなどの不安定な要素を抱えており、
戦争の終結を望んでいた。
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日露戦争
② イギリスと共に日本を財政的に支援してきたアメリカは、日本の要請を受けて講和を斡旋
で、日本全権
し、
とロシア全権
による講和会議
が開かれ、9 月にポーツマス条約が調印された。内容は以下のとおりである。
における日本の優越権を認める。
(1)ロシアは
の租借権、
(2)旅順・
以南の鉄道および附属地の利権を日
本に譲渡する。
を日本に割譲する。
(3)北緯 50 度以南の
(4)
・カムチャツカ沿岸の漁業権を日本に与える。
しかし、戦争の犠牲に比べて賠償金はなく、獲得した利権が少ないとして、国民は激しく政
)。
府を攻撃し、東京日比谷の国民大会では暴動を伴う民衆運動に発展した(
要❖其の参
戦後の状況
①韓国併合はどのように進められたのだろうか
②満州経営を開始した日本と列強の関係は、どのように変化したのだろうか
* * * ▼
を結び、韓国の財政と外交に介入
① 日露戦争中の1904年、日本は第一次
していたが、ポーツマス条約の調印後、第二次日韓協約により外交権を掌握し、漢城に
い とう ひろ ぶみ
を設置し初代統監に伊 藤 博 文 が就任した。1907年には、第三次日韓協約に
よって統監府が内政権を握り、軍隊にも解散を命じた。
韓 国 の 国 民 は 激 し く 抵 抗 し、 軍 を 解 散 さ せ ら れ た 兵 士 や 農 民 た ち が 立 ち 上 が っ た
アン ジュン グン
)。1909 年には、ハルビン駅頭で、伊藤が民族運動の指導者安重根によっ
(
あんじゅうこん
て殺害される事件が起こった。
1910 年、日本は韓国を併合し、
を設置して、武力を背景とした支配を推し
進めた。
② 満州では、1906年にロシアから獲得した鉄道利権を基に半官半民の
を設立
した。満鉄は鉄道経営のほか、満鉄付属地とよばれる沿線地域での鉱山開発や製鉄所の経営、
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日露戦争
都市建設などの事業を進めた。
旅順には、関東州(遼東半島南部の日本が租借した地域)を統治する
がおか
れ、満鉄の保護・監督に当たった。また、関東都督府の守備隊として関東都督府陸軍部(のち
の
)が旅順に置かれ、関東州および満鉄付属地の守備に当たった。
日本の満州経営が開始されると、満州進出を図っていたアメリカとの関係が冷却する一方
で、ロシアとは 1907 年に
が結ばれて、満州・蒙古での勢力範囲が定められた。
さらに日英同盟の改訂とともに日仏協商も結ばれて列強との協調が図られ、日露戦争で対立し
た諸列強の協調が進んだ。こうした動きは第一次大戦へとつながっていくことになるのである。
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