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見付国府を歩く
磐田市教育委員会文化財課 文化財課企画展関連事業 20120218 昔語りの舞台を訪ねて あ べ の せ い め い しっぺい太郎と安倍晴明 ~ 見付国府を歩く ~ や な ひ め じ ん じ ゃ いこい茶屋(見付宿)→矢奈比売神社(見付天神 しっぺい太郎)→ 福王寺(晴明の祈祷所)→中川→旧見付学校 遠州の中心 宿場町 ~見付宿~ に だ と い や ば は たご 東海道の宿場として栄えた見付には、往来する旅人や荷駄を扱う問屋場や本陣、脇本陣、旅籠など が置かれ、東海道でも最大クラスの宿場町として栄えていました。天保 14 年(1843)には 住人 3,935 人戸数 1,029 軒、本陣2軒、脇本陣1軒、旅 籠 56 軒であった記録があります。 平安時代に国府が置かれ、古くから「みつけのこふ」 「見つけの府」などと呼ばれ、宿としてだけではなく 政治都市としても繁栄した見付には、往時の様子を伺 う説話が残されています。 見付宿絵図 徳川家康と見付 遠江へ進出した徳川家康は、見付を拠点とすることを考え、永禄 12 年(1569)に城之崎城の築造 を開始しました。しかし、武田氏との軍事的な緊張から、元亀元年(1570)に築城を中止、居城 を浜松城としました。このほか市内には、家康に関する説話等が多く残されています。 ひとことかんのん ○家康が祈った一言観音(磐田市一言 智恩院) 元亀 3 年(1572)、徳川軍は三ケ野で敗れ、浜松城に退却する途中の一言坂で武田軍に追いつか れてしまいました。戦況不利な家康は、一生に一度だけ願いを叶えてくれるという観音様に祈願をし、 無事に浜松城に退却することができたということです。 ○上村清兵衛(冷酒清兵衛 磐田市見付) せ い べ い 清兵衛は、武田軍との戦いの中、退却する徳川軍を助けました。よろこんだ家康が清兵衛の家に立 ひやざけ ち寄った際、冷酒の献上を受け、これにちなんで「冷酒」と呼ばれました。 ○伝酒井の太鼓 (浜松城警鼓 旧見付学校) 三方原の戦いで武田軍に敗北した家康は浜松城へ逃げ帰ります。このとき、徳川軍の酒井忠次は櫓 太鼓を打ち鳴らし、かがり火を炊いて城門を開きました。これを見た武田軍は何か策があるのではな いかと感じ、退却していったということです。このときの太鼓は明治時代になり民間に払い下げられ 見付学校に寄贈されました。 磐田市教育委員会文化財課 20120218 舞車神事 ~再会した二人~ おうみくにたま 7 月 15 日直前の金・土・日曜日に行われる淡海国玉神社の例祭 あまみこじんじゃ と ぎょ では、天御子神社の祭神の渡御があります。江戸時代以前は盛んに 行われ、中世の謡曲「舞車」の背景にもなりました。 ○祇園まつりが結んだ恋 ~舞車~ ぎ お ん まつり だ し 淡海国玉神社の祇園 祭 では、かつて東・西2台の山車上で踊 りを競い合う催事が行われていました。仲を引き裂かれた男女 が、お互いを探して旅をしていたところ、見付宿の祇園祭で舞 現代の舞車(舞車引き合わせ) 手として、山車上で再会し、再び結ばれました。 きずな しっぺい太郎ものがたり ~磐田と駒ヶ根の 絆 のはじめ~ 矢奈比売神社(見付天神)に伝わる「しっぺい太郎」伝説は駒ヶ根市と磐田市を結びつけ、昭和 42 年に友好都市協定を締結しました。安政 7 年(1859)に駒ヶ根の光前寺で行われた早太郎五百 五十回忌では、多くの見付宿の住人が寄進している記録があります。また、見付天神裸祭はしっぺい 太郎の怪物退治伝説を再現したとも言われています。 しっぺい ○信濃の霊犬・悉平太郎 ひとみご くう かつて、見付宿に暮らしていた人たちは、天神さまの祭日に人身御供として娘を捧げなければなり くらやみ そうりょ ませんでした。暗闇の中で『信州信濃の悉平太郎には知らせるな』という怪物の声を耳にした旅の僧侶 は、 『悉平太郎』を探しに旅立ち、悉平太郎が信濃光前寺の犬であることをつきとめます。僧は急い で犬を連れて見付に戻りました。祭りの日、娘の代わりになった悉平太郎は、激しい戦いの末、怪物 たど を退治します。怪物の正体は大きな老いたヒヒでした。傷ついた悉平太郎は光前寺まで辿り着いたと も、途中で亡くなったともいわれています。 ※ 信濃では「早太郎」とよばれています。 ふうさいざん 安倍晴明と風祭山福王寺 おんみょうじ 安倍晴明は平安時代の陰陽師で、 『今昔物語』『古今著聞集』『宇治拾遺物語』などにその逸話が語 られています。後世、晴明にあやかろうと、日本各地に「晴明塚」といわれる塚が建立されました。 きとう ○安倍晴明祈祷所 安倍晴明が諸国行脚の途中、遠江国府「見付」 とうりゅう しず に逗 留 した際、激しい暴風雨を鎮めるため、国府 ちょうぼう を眺 望 できる丘陵上(現在の福王寺境内)で祈祷 を行い、これを収めたと伝えられます。祈祷所の 場所は福王寺境内にあり、福王寺の山号は暴風雨 を鎮めたことから「風祭山」と付けられました。 晴明の祈祷所跡