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商業政策上に於ける門戸開放地域 Joseph Grunzel, Economic

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商業政策上に於ける門戸開放地域 Joseph Grunzel, Economic
NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE
Title
商業政策上に於ける門戸開放地域 Joseph Grunzel, Economic
Trotectionism, edited by Eugen von Thilippovich, 1916, p.p.53-61.‘Open
Door’ Districtsの項解説
Author(s)
馬場, 誠
Citation
商業と経済, 1(1), pp.311-326; 1921
Issue Date
1921-04-25
URL
http://hdl.handle.net/10069/26779
Right
This document is downloaded at: 2017-03-31T00:09:49Z
http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp
目、
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]旬問。。ロoE刊の叶gHootcEmgu 。
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ロ
ロ cct 巴FEOZ の項解説
亜
、
門戸開放地域の地位及愛選
ゑ
目
、
場
一商業政策上に於げる門戸開放地域
本
亜
、
A
J
一入七0年代になってから、本邦政府は俊約の改正に努力したけれざも、
商業政策上に於げる門戸開放地域
一
一
一
一
のである。一入九五年に及んで漸︿新通商倹約ぞ一締結し、甲﹂れに依って治外法権を撤康し且双
久しく何等の殺を来するこ乏な︿、我閣は此不平等待遇の絡めに苦悶し又屈辱を戚じて居った
せらる﹀に至った
物の大なる進歩に伴って、新の如き不勝目なる特樫は彼此の親善を害するものであるこさを認識
を享有して居 hJ、而して又諸外図に封して又偏務的最恵閣僚款を奥へた。然しながら我園の文
られた後の日本も亦、門戸開放図家であった。総入殺は低率であり、外園人は領事裁剣の特穫
嘉永七年郎ち安政元年・:;・・:一八五四年::::・三月北米合衆図さ和親俊約を結び開国せしめ
1
一
一
朝鮮
支那
ρ
、・
つ 00
外因ヨ y朝鮮
ρ
Y貨物及朝鮮開港-一入 Y日本般舶モ亦今
の結局めに開放し、各図からの輸入貨物に脅して低い均一的の輸入殺を課して居った::・::大鑑
支那は阿片戦争の後一締結せられた通商倹約に依って一入四二年以来その図を翠げて外国貿易
3
する二ごである。時事問題であった朝鮮関税問題はこれが結局めに生子るのである。
こ、に注意すぺきは、右の宣言にある今後十年間さ・一五ふのが昨年却も大正九年度を以て満了
00
さあるに依るのである。斯くて入歩乃至一割の低率で輸入税を課徴して居る。
後十年間前項ノ貨物及般舶-一艶ス Yト同率ノ課税ヲ受ク Y モノトス
0000
朝鮮ヨソ日本-一移出 γ又川日本・ヲタ朝鮮ニ移入只
-一輪入ス Y貨物及朝鮮開港-一入 Y外国船舶ニ封ジ現在ト同率ノ輸出入税及噸税ヲ課久ペジ
日本帝国政府
して門戸開放地域であるご云ムのは、韓図併合に関する宣言中に
。。。。。
従来 y僚約-一関係ナグ今後十年間朝鮮ヨ y外闘ニ総出 γ叉
朝鮮は明治四十三年・ 1::・一九一 O 年::::・八月二十九日日本に令併せられた後も、依然芝
2
の域を股却し得たものである。
及び一九一一年七月十七日の関税定率法は更に税率を増加したから、勿論我闘は門戸開放地域
あった輸入税を改めて従量税さ結局し、而かもその税率の割令を高めた、又一九一 0年四月五日
務的基礎の上に最窓閣僚款を協定したのである。その後一九O六年三月三十日従来は従債税で
商業さ経慣・
一
一
一
-
に於て従債五歩を超過せない範囲::::・(此貼は嘗て時事問題たりし支那税権佼復に閲する問
題ご密接なる関係を有する)。
支那は斯くの如く門戸開放地域ではあるが、その関税地域なるものは漸次その範国を狭少さ
れたのである。郎も
一八五八年五月二十八日の愛環倹約及び一入六O年十一月十四日の北京俊約に依って露西亜
に入五五000平方粁の土地を奥へた、一入四二年英吉利に香港を割譲し而かも一入九入年に
至ってその面積を著しく増加した。後日本に蚤湾をこ入九五年)濁逸に豚-州跨を、露西亜に族
順口を、英士口利に威海衡を奥へたこ入九入年)加ふるに透鏡諸那に於ては濁立の気運特に猛烈
なるものがある。これに就ては今細説する暇がない。
官迩羅
n
門戸間開放図家である。十九世紀の中葉に於て締結せられた所の侠約に基くものである。選羅
図政府は総入口仰に濁して僅々三歩を課するに止まb、而かも治外法権その他の特権を外因人民
に輿ふるの義務である。
アアガニ只究シ
一
一
ー
さ見倣されて居る。
商業政策上に於げる門戸開放地域
一
一
一
一
る。然しながら露西亜に釣しでこれさ均等の待遇を奥へた、その結果ごして門戸開放図家の一
アプガニ只タンは一九O七年入月三十一日の英露俊約の俊項に従って英吉利の勢力の下にあ
5
商業さ経群
三一四
rr-worgp 同roEEMVBREEW
露 西 亜 の 保 護 の 下 に あ る 所 の 中 央 亜 細 亜 諸 汗 園 印 ち 内r
も亦、引別利引利引刈さ略同じ様な関係に依って門戸開放地域である。
波新
U
ω
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o
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6
波新も亦門戸開放園家である o 一入ニ入年二月十日ll 一二日露西亜さの聞に締結した俊約
O
じよって、従債五歩の課税を約して居る o 而 か も そ れ は 最 恵 俊 約 に 基 い て 其 の 他 の 諸 闘 に も 適
用されて居るからである
一九O七年入月三十一日英露分割俊約によって露西亜は波新の北部に、又英吉利は南部に夫
々一俊越権を得たけれ JEも、商業政策的関係は何等の滋化を見ないのである。
l
mは英吉利の勢力範園である、従債五歩を課するに過ぎないから門戸開放地
波斯湾頭の刻吋
域である。
大洋
洲
、
である。
豆、
非
、
利、
カ
目
、
一入九九年二月十四日の西濁俊約に基いて刈叶川刈・到利引判及び吋川叶川群島
するe::・川刈刻群島
一入九九年十一月十四日英吉利濁逸北米合衆園間に於ける協約によって:::英吉利に属
d
一八九九年二月十四日伯林サモア曾議の議 定 書 に 基 い て す モ ア 群 島
B
C
2 1
3
ー挨及
J
。
亜非利加に於ける門戸開放図家の第一に掲ぐべきは挨及であ る
而かも又事賓其の時以来挨及は諸外園ごこの程の
挨及は一入七九年入月七日本闘である所の土耳古皇帝の特許によって、間早濁的に通商俊約を
1
A
すも倫依然門戸開放図家の一である。その故如何。
一締結するの権利を承認せられたのに拘ら十
俊約を締結したのに反して、
挨及が一締結したこれ等諮倹約の目的たる、一に総入税率を高めて従債一一割じ改正せんごする
にあるのである。而して他国のこれに謝する承認を求めんさ欲するものである。然るに賞際に
於ては何図もこの改正を承認しなかったから、決及に於ては本図的土耳古が舎で一締結した通商
僚約に基︿所の入歩税が依然ごして有数である。而して此の如き放態が一九三四年に至るまで
川川利引及、ぺ別利引(判 M列川州)
縫療すぺきものなるこさは、一九O四年四月八日の英備殖民倹約に於て保一障する所である。
2
一九一二年十月十入日の C585 議和俊約によって土耳古は伊太利に濁して川川利引及び
川刈刈バを割譲した、伊太利はこれによって別段是等川叫叫に於げる新設殖民地の門戸を開放
'L
,
す¥べき二さの義務を負ったのではない uが、然し経済的理由仁基いて替水ゅの何一明開放放態念総緩
したのである。
一九一二年十二月十日附総督の命令によって総入貨物に従債一割一分の税金を課した。然し
三一五
ながらホ yプラ小湊・米・努粉・菓子・加工魚類・測研・茶・石油等の如き消費物口聞は僅か四歩であ
商業政策上に於げる門戸開放地域
商業さ経糖
ァ Y ジェ yT及 チ ュ ニ ス
一一六
る。しかのみな色争、その他の物品であって後に苔一って無税ごされたものがある
3
0
引川引出十川引は車純なる殖民地ざして性質を有するに止まらないで、・一八四入年の始めにが、
ては偽蘭西直轄統治の一部分hgEBaE03ュ。ごrom.5D岳'宮町一件。﹁、であるさ宣告一目された。
利引引刻は一入入一年五月十二日の俊約に基いて偽蘭商の保護の下に置かれたが、最初の内は
門戸開放地域ごして存綬したのである。一入九八年に至って漸く外閣に特殊の利盆そ奥へるさ
一去ふ係件の下に、辛うじて完全なる殖民地の地位に編入せられた、倫一八九七年一月十人自英
モロクコ
吉利さの倹約は綿製品によりて一九一二年末まで従債五歩の訣税をなすべきこごを約した。
4
一九O 四年四月八日の英偽殖民保約は、モロ y コをぼ偽蘭西及び西班牙に約して居る、但モ
4
.の輸入税を
ロy コは挨及の如く・に三0年間最窓図協約を確認せなければならぬさ一玄ふこさを以てその俊件
υ
4
さなすのである o門川引川外刈 曾 議 に 加 は っ た 諸 岡 は 美 議 定 書 の 中 に 於 て 叶 引
五歩乃至一.割より七歩五厘乃至一割二歩五厘に増加するこさを認容したのである。その後に及・
んで一九一一年十一月四日偽蘭西狗泡閉じ締結せられた毛ロ y コ・コシプ 1倹約は、門戸開放主
義を認めたから従来の門戸開放的放態は依然存続して居るのである。但し英資質につい uては一
九二一年十一月二十七日の偽商俊約によって剖叫パ引の大なる部分を偽蘭西の殖民地ぎなし小
なる部分は之を西班牙の殖民地さなすさいふ一一砲の分割ケ企てた(利川判川川附近は中立地を・
なして居るな
アピジニア
コシゴ!
したのである。
6
来西コンゴ I流域の商業政策が自由貿易主義なるべきこごは、夙に決定せられたる所である
ーその由来を越ぷ一れば、
A
商業政筑上に於げる門戸開放地域
三一七
ρ
J引の一部・::・これは偽蘭西濁逸閉じ於りる吋引引っ
河・引引川河の流域に及んで居る:::別利M
耳義の一殖民地ざなった:::及'ぴコ y f l河口に於ける,荷飯::その範固オプグェ河・ジヤy
これは一九O七年十一月二十八日の佼約及び一九O 八年十月十五日の白耳義の法律によって白
汁列及びペナディ l y沿岸之でゐる。叉西部引刈引川流域に属するものは判刈叫川自由園:・
而て東部コン司川流域ざいふのは畑綱領東部翠弗利加・利刑判到川利・英領東部亜弗利加・夕刻
1舎 議 の 定 む る 所 で あ り 、 翌 々 一 入 入 六 年 四 月 十 九 日 に 調 印 せ ら れ た 規 約 に 基 く も の で あ る
これは一入八四年十一月十五日より笠一八八五年二月二十六日まで一開催せられた伯林判バ判
O
二日の文書交換の後、右の俊項を採って以て自己の無期限倹約の一部ごして編入するこさを許
さしで飲料に謝しては八歩を約したのである。英士口利は一九O九年四月十三日五月四日及び十
偽 蘭 西 は 一 九O八年一月十日の期限附通商僚約に於て、輸入税を一 般的に一一割さなし、只例外
一八九七年五月十四日'の英吉利さの無期限倹約によって‘最恵国主義の保持を約定して居る。
5
商業さ経演
コ・コンゴ 1倹約に基いてその区域を撰張せられた・::・である。
三一八
一八一九O年七月二日の刈刈斗叫 J川舎議の議定書は、財政的理由に基いて一割を限度さする聡
入税の課税穫を奥へた。然しながら寅際上に於て徴牧せられたのは多少低率であった、郎ち東
然しながら其後に及んでこれを改
J
部流域に於ては五歩、西部一流域に於ては六歩(但し兵器碍薬は一括して一割)さしたのである。
これは関係諸園間の特別協約に由って左模されたのである
め総ての輸入税を一割に引上げ賀行した。
品川ほ門戸開放主義は西部亜弗利加に於ける濁逸・英吉利・偽蘭西領有の諸殖民地に通用せられ
ηJア
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は一九一 O年北米合
つ﹀ある関係諸園間の協約に操るのである。川川刊川・刻利刈・4川寸川刈・黄金一海岸及び象牙
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ノペ η
ノア
海岸等これである。
7
一入四七年に建設された黒人の共和閤:::西部亜弗利加の ηノペ
ggo件。至。さ云ふこさにされた。其結果ざして賂来は其殖民地たるぺく
衆 国 の 准 保 護 篠 宮 包 l℃
期待せられて居る。然しながら此園は北米・英吉利・偽関西・濁逸等各園の銀行が参加して居る
借款協約に基いて、門戸開放の地域に置かれて居るのである。業協約は一九二年締結翌一九
ザシジバ
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一二年十二月三十一日会表:::園際的関税管理を規定して居る。
8
ザ シ ジ バ Yは一八九O年七月一日の英濁殖民俊約の傑項に依って殖民地ごなった。然しなが
D 欧羅巴
ら依然ごして門戸開放地域である。総入税率は七歩五厘に過ぎない。
-土耳古
土耳古は欧羅巴に於て最も永く斯の如き放態に在った邦園であるさ一玄ふこさが出来る o 主ご
して嬬和俊約さ同時に締結された奮時代の俊約によって、土耳古は某総入稔を一律に従債三歩
さ定められて居ったのである。一入六一年及び六二年に、多数の欧羅巴諸園さ資質的通商倹約
な締結し税率を入歩に引上げた。爾来土耳古政府は輸入税率伝増加せんこさに苦心し、一入入
こ年総ての通商倹約を破棄した匁に一八九0年代の初に於て期間満了、失効し化。引績き行は
れた協約によって一入九O年八月二十六日の濁逸さの通商倹約が成立した。然しながらこの倹
約の主要なる部分、印も協定税率表は質際上その効力を後生するこ三が出来なかった::他の諸
国が従債入歩裁に劃する宮古来よりの権利を主張するが匁である。於滋乎土耳古政府は草加凋的に
総入稔ケ一割一歩に増加せんニごを闘った、時に一九O 一年四月十四日であるつ然れざも欧洲
列強の一致的抗議の匁にその計去の貫行を断念せ、ざるを得なかった。後一九O四年十月同園政
府はその要求を改援しマセドニア改革事業を遂行する怨めに財政上必要であるさ云ふ理由仁基
いて、税率の三歩方増加を企てた。而して従債一割一歩税案は一九O七年四月二十五日欧羅巴
一般協約の一公布があった後、同年六月二十五日までは賞効を生じなかった。この所謂一般協約な
三一九
るものは、土耳古さ其他の諸図ごの閉じ於ける特別協定によるものである・:・:唯仰蘭西のみが
商業政策上日於げる門戸開放地域
商業主-経済
三二O
除外例である ο その後に至って土耳古は一割五歩に引上げんがために努力し、崎明太利旬牙利
RA
伊太利は既に明白なる同意を輿へた郎ち前者は刑判引列及びへ Yゼゴピナの併令確認じ関する
一九O九年二月二十六日の協定に於て、又後者は一九一二年十月十入日の円三巴包括購和俊約
刈川利戸諸邦
に於て承諾したのである。.
2
大土耳古帝図の門戸開放地域は漸失縮少した。土耳古のぺ川刈 J川竿島に於げる諸属領は各部
その濁立のために本固定守ひ而もそれが成功したからである。
υそして填太利・旬牙利が現存傑約に違犯するの故を以て、明かに反謝したにも
ィ、先づ一入四七年一月三十日には判川列叫列・引引叫刈の諸公その領土を併せて一の関税
同盟を組織した
係ら子、最初五歩であった輸入税率を七分五厘に引上げた(一八五O年及一八六六年)。
てその後新に成立した川川引出列は政治的自主権を獲得してから自然商業政策に閲する制御
立的廃置守結局す甲︺さを得るに至った。
川、引川叫列は一八四三年五月一二日税率を制定し一公表したけれざも土耳古政府の抗議を蒙む
KA
の
り終にこれを撤廃した。狭山しながら一八六。年同七0年代に於ける改正運動はその効を奏し、終
に一八七八年の伯林倹約によって、その自由性が図際的に認識せられたのである
ニ、伯林保約第入僚は引川対川引をして依然本因土耳古の通商倹約じよって来総せらる
義務を負はしめたが、後一入入四年一月二十八日の周章によって列バ刈川パ図は本因さ濁立し
て通商俊約を一締結するの穣利を要求した。而て一入入七年十こ月十七日の治律は苅川ガクア園
政府に直接的に通商に関する協議をなすこさを許容した。これに依ってバペ利川対は最初英吉
刺さ(一入八九年)叉其後他の諸国さ通商僚約を締結した。
.ホ、一九二一年よ b 二二年じ豆れるバ Yカシ戦争のために、土耳古はその首府判バ刻刻パ判
・川川引川に垂んざする欧羅巴領土に謝して権力を失墜した。印も本戦争の結果ざして門ペペ叫
列吋r22 に於ける土耳古領及び冨ozE ﹀吾g じ於りる小自由閣のみが僅に土耳古の欧羅巴
に保有する門戸開放地域芯して残存するに至ったのである。
へ、又一入九九年五月十入日││二十二日以来本図土耳古ごは分離的:::狗立的:::関税区
域であった所の列川川川島は前記刈州利判戦争の後は希臓の手に蹄し叫川州諸島に謝する主権
関係は、ために鐙化を見たのである。
門戸開放地域の性質ハ永久的政治傑約
Zoロ
15︿。gzo 吋 0}町一のと吋円。丘町 ω の種
吋}出
OT
hT
制限する所謂永久的・::・泊嘗の誌でないかも知れぬがロ
類及その特質﹀
門戸開放図家の商業政策的自由
一
ozo の意である:::政治倹約に二種類める郎も、
円ゆく
商業政策上に於げる門戸開放地域
一
一
ー
一
一
-
一
一
を以て常芯した。郎も戦争の後、戦勝因は戦によって新に誌も得たる政治的優越
KA
0000000
所が近世に及んでは二以上の強闘が俊約を締結し、それに依って倹約の蛍事闘でない或
島の通商関係に付きて約定した。又かのァ Y ゼ V フマハ協約は第三園たるモロ
w
r
ヨを以て門戸閲
又濁逸・英吉利・北米合衆国は一入入九年七月十一日のす判明ハ舎議仁於て第三者たるす毛ア群
業政策的運命を決定した。
質例を翠ぐれば、一八八六年四月十九日の伯林の引刈判川合議の議定書は引利引川流域の商
る特定閥、印ち第三園に於げる門戸開放の権利を相互に保-障するに至ったのである。
2
その他多数の図々も後日に至b これに均需した。
び偽関西にも認められ二八四四年七月三日及び同年十月二十三日の通商僚約によるのである)
買に支那に於ける最初の通商傑約なのである:::この俊約中の利益はその後積いて亜米利加及
支部は英吉利に敗れ一入四二年入月二十九日の南京熔和俊約の調印を強制せられた;::これは
くは確認した傑約上の片務的且屈従的の譲歩に起因するもの﹀如き然りである。阿片戦争の後
例へば第十六世紀の始めに於ける土耳古、或は又其後他の東洋諸闘が熔和に際して許容し若
のである。この場合戦勝因以外の強大図も亦、業後直ちにこの門戸開放ごいム利盆に均話した。
に於て或は又競和俊約に附帯する無期限通商倹約中に於て、戦敗閣の門戸開放を斑約せしめた
権を利用し、自図の結局めに特殊の商業的利盆を股めんこどを欲し、時に或は燐和俊約それ自身
締結せらる
ー従前に於てはかくの如き傑約は、必予や門戸開放図家さ他の勢力ある岡家さの問に於て
商業さ経慣
一
一
一
一
一
放図家なり芝宣言せるが如き、夫れ皆然、りである。
以上は永久的政治俊約の種類じ付νて述ぺたのである。
次に永久的政治僚約の性質如何。印もこれは門戸開放地域の特質の問題である。三ゐる、日
く協定税則。臼く均一的低率従債投。日く片務的最恵地位。
、、、
oPEEos-UユRm3RE)
協定税則(の
1
5
弘自己
三3 ・
5 8仏冨一口一B53門戸弓ω
opsEos-U円弓々ωRBSOB-伊豆の
ocEoUユ弓∞百円。 5・
包 Rω3RBOロOB050円。SOS-叶
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o叶包 Rω万
円
。 B・
凡そ関税税率の組織に関しては次の如・き色々の方法がある。
↓車一一枕則
付固定枝則﹀己
的協定稔則
二二重税則ロ
付固定協定稔則。
川最高最低税一則
この中で今蕊に問題ざなるのは協定税則だけである。協定稔則ざいふのは図法に依ら宇に会
く倹約で協定した税率で以て課税する関税制度である。もごよ b双務的に協定税率を適用する
。。。
場合には弊害がないであらう。然しながら若し片務的に印も自国だけが外閣の貨物を遇するに
蛍って、協定税率そ以てするさいふが如きこ芯は、その結果ぜして徒らに自闘の市場を外国商
人の跳梁じ任すこさじなるのでゐる o 業不利益なるこさ敢て多言を要しない。
商業政策上に於げる門戸開放地域
一
一
ー
一
一
一
一
一
商業さ経済
0000000
三二回
而て門戸開放地域は比の片務的協定稔則?採って居るのが其特徴の一である。
朝鮮こ八八二年に於ける米韓倹約及び其の以降の倹約)渥羅(一入五五年の英返傑約)支那
(一八四二年の南京僚約以来改援はあったが)波一新・土耳古・挨及の現行法の如きこれである。我
図の如きも舎では甲﹄の不蛍なる規則を強ひられたのである。
000
毛 色 gZRB 含守)
2 均一的低率従債税 .(dEFBZ
門戸開放地域に於ては永久的政治俊約の結果ざして均一的なる税債税法を通用して居る。こ
れ門戸開放地域に於ては其の地域の経済後遺の程度が甚だ以て幼稚であり、外国貿易口問の禄類
も多くない結局め穏別し置くべき貨物の数も少ないからである。而かもこの均一的税率たる極め
て低率なるを其特色ごする。
我図が改税約書に於て総出入口聞を四種に分ち、業他の有税ロ聞には従債投五歩又は五歩を基礎
ざして換算して従量税を課するに止まったのは此の趨例である。
業他一三一の例を示せば、選羅は一-切の総入口聞に三歩、朝鮮は一切の輸出品に従債五歩ざして
居る。
斥
仏 B27P︿OR
包勺 昨日0ロ)
片務的最恵地位 (051ω一
ω
O
程同時の僚約及び第十九世紀の中葉以来欧米諸国が土耳古・支那・波新(及び日本)芝締結した傑
か︿の如きを務して片務的最恵地位
ε云ふのである。
約に於ては、濁 hノ東方諸図は釣手園である所の欧米各国から斯様の恩恵を享けないのである。
3
現行の目指逃商航海俊約は、第三僚に於て日本領事の権限に闘し、第四僚じ於て清困じ於け
る日本臣民の交通貿易住居営業等に闘し、第九僚に於て輸出入税に闘し片務的最恵国保款ケ約
定して居る。其上更に第二十五僚に於て一般的規定を設けて居る。
但し我図さ波斯・土耳古さは無保約でゐ h、又退羅芝は双務的最恵国保約を約定して居る。
(返羅芝欧米諸国さの聞には片務的最恵国俊款が約定されて居る、一入五五年英選候約第十二僚
商業政策上に於りあ門戸開放地域
三二五
くの如きは全く過渡的の放態仁すぎない。早晩は母国定同一に取扱はるべき運命を有するもの
い。而て低率なる均一的従債殺を以て外岡よりの総入貨物を待、過するのである。然しながらか
斯様な政治的鐙化のあった場令には、この新殖民地は一時門戸開放の放態じ置かる、事が多
が 利 引 利yを併せたるが如きである。
例へば北米が布庄守、日本ど量、健及び朝鮮を、偽蘭西がチユニ久及びモロ y コを又、伊太利
民地ざして、併合さか、或は征服するじ至るが如き場合がある。
図家に於りる政治上の優越擦を獲得した潟に、業の園家の内の或る地域をば自国に従属する殖
五時ごしては門戸開放図家の商業に付いて競争しっ、あった所の諸外国の一が、門戸開放
門戸開放地域の後遣の方向は大陸二様に分れる。
の如︿である。
門戸開放地域の進化
・
圃
・
・
・
・
・
商業主経済
ニ
ム
ハ
凌遠方向の他の種類に属するものは、門戸開放園家或は其の一地域が文明の進歩したが
なのである。
2
J
現今の日本、濁立後の刈川州州諸圏、波及の
結局に最早政治的に他の干渉を受くるこさなく従ってその図家又は地域の商業政策に付いて、外
岡又は母図の容啄を品加がる、に至るこさである
如きこの所謂第二穏の後遣をなしたるもの、質例でゐる。
追記本稿﹁商業政策上に於ける門戸開放地域﹂は余が先に閤民経済雑誌第二十九怨第五競争﹄
誇逃
4QO
寂剣
籍りたりし﹁大経済地域及小経済地域﹂さ合して﹁世界経済の主陸論﹂を形成するもので
占の
大
桂
経済上ふり支那近代思想愛動の原因を解揮す
北京大拳国書館長
自
氏
或時代に於て経済上に若し何等かの獲動を後生する時は思想上じも亦必十何等かの竣勤を後
語し本誌に鴇載する事さゼリ。ハ持者誌﹀
の少なからずさ信ず、然れども文中往々激越に過ヤろの章句あろ在以て其の甚しきものは之島省略し一筋の大意志邦
本指は新青島・・第七巻第二披に掲載ぜられれろものにして其の観察騎ろ警設なるものめり我邦議者の妻考に資寸可告も
長李
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