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NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE
Title
「国際社会と紛争」(要約)
Author(s)
広瀬, 訓
Citation
平成24年度核兵器廃絶市民講座 第2回; 2013
Issue Date
2013-10-16
URL
http://hdl.handle.net/10069/33897
Right
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http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp
第2回核兵器廃絶市民講座「国際社会と紛争」
(2013 年 1 月 24 日)
講師 広瀬訓先生
戦争犠牲者の変化
核兵器を含めた「兵器」を生み出す国際社会、戦争、紛争をテーマとし、兵器あるいは戦争をなくす
可能性について検討する。基本的な視座は、人間の歴史とは、戦争の歴史であり、古代から人間の集団
による争いは存在する、という認識である。日本史、世界史において、戦争はつねに存在し、ある記録
によると、紀元前 3600 年頃から現在にいたるまで、15000 回あった。つまり、人間は戦争を避けること
ができないということである。
この 5600 年のあいだに、戦争によって犠牲になった人間の数は、35 億人程度と推定されており、20
世紀にはいってから、戦争犠牲者の数は大幅に増加したといわれる。第一次世界大戦では 4 年半で約 1
千万人が死亡した。第二次世界大戦では約 6 年間で 5000 万人が死亡した。1945 年から 1992 年までの 47
年間で 2300 万人が亡くなっている。
つぎに、戦争犠牲者の内訳に変化について確認した
い。第一次世界大戦以前は、戦闘員(軍人)の犠牲者
が、一般市民に比べはるかに多かった。ところが、第
二次世界大戦では、戦闘員の犠牲者と、一般市民の犠
牲者が同程度になる。
あるいは、
一般市民の犠牲者が、
戦闘員の犠牲者より多くなる。つまり、老人、女性、
子どもなど、武器をもたない一般市民が傷つき、命を
おとすようになる。この典型的な例が、広島、長崎で
あり、戦争被害者が属する社会的カテゴリーの変化の
背景には、近代以前と、以降における戦争の形態の変
化がある。
総力戦の時代
戦争の形態に変化をあたえた象徴として、
「国民が自発的に国を守ろうとする軍隊」を作るように仕向
けたナポレオンの事例を紹介する。
「フランス革命の成果を守ろう」という呼びかけにより、ナポレオン
は一般の市民を動員し、短期間に巨大な「国民軍」を作ることに成功した。
「国民による軍隊」が登場し、
近代の戦争がはじまり、
「国のために命を捨てる」
、つまり愛国心という価値観がうみだされた。近代以
降の戦争は、経済力、科学力、工業力をふくめた「総力戦」として特徴づけられる。総力戦の時代にお
いては、すべての国民が、いやおうなく戦争にまきこまれる現象が生じる。
総力戦以前の戦争の形態(正面から堂々と名乗りをあげて戦う形態)とは異なり、合理的、科学的な
戦い方となる。その典型的な事例として、イラク戦争におけるアメリカ軍の戦い方をあげることができ
る。リモコン操縦や無人機による攻撃は、
「ゲーム」の感覚をもたらす。この究極のかたちが、核ミサイ
ルである。沖縄戦は地上戦であり、両国に多くの犠牲者
をだしたが、空襲の場合、攻撃側には犠牲者が少ない。
近代以降の戦争の形態の変化は、地上戦のように、双方
に多くの犠牲を出すことを回避する、合理的な考え方が
支配している。
第二次世界大戦終了後、
米ソが和解する 1980 年代末ま
では、冷戦の時代である。この間、大規模な国家間戦争
は生じなかったが、中小規模の国際的紛争は度々起こっ
ていた。朝鮮戦争、ベトナム戦争、フォークランド紛争
などである。アメリカ、ソ連の超大国同士は、膨大な数の核兵器を保有しあうことにより、相互に動き
がとれない仕組み(核抑止)をとっていた時代である。
冷戦以降の戦争
冷戦時代、日本で米軍基地は、巧妙にソ連を直接刺激しないように配置されていた。北方領土問題と
ソ連との関係を考えると、自衛隊の最大の基地が北海道にあったことは当然であった。陸上自衛隊は北
海道に集中的に配備されている。自衛隊員の出身県は九州に多く、防衛大の入学者は熊本県出身の者が
もっとも多い。つまり、九州の若い男性が、北海道の自衛隊にいるという構図がある。しかし、米軍は
北海道には基地を設けなかった。これは、米ソの対立が、
「冷戦」という特殊な戦争形態のもとにあった
ことを示す、具体的な事例である。
冷戦が終結後、テロという戦争の形態が登場する。冷戦時代は、外交をすすめていくうえで、
「バラン
スをくずさないようにする」ということを考えていればよかった。しかし、
「バランスをとる必要がなく
なった」といわれたとき、どうしていいかわからなくなった。つまり、軍事力のバランスをとることに
より、大きな戦争が起こらないようにする状況を「平和」と認識していたが、冷戦終結にともない、我々
は「本当に平和な世界とは何か?」という問題に直面したのである。
この問いにたいする答えがみつからない状況で、
テロ、
民族紛争、宗教対立が勃発するようになる。ソマリアで
内戦が悪化し、PKO活動、平和維持活動が始まり、人
道支援も開始される。あるいは、ルワンダでは虐殺がお
こる。この時期、国連安全保障理事会では、継続的にユ
ーゴスラビアの問題が「ヨーロッパの問題」と認識され
ていたため、継続的にユーゴスラビアについて議論され
ていた。そのため、ルワンダの問題がアジェンダとして
設定されたのは、ずいぶん時間が経過した後である。国
連が、ルワンダの問題を放置し、ユーゴスラビアに注意
と関心を集中したために、市民が虐殺される事態に発展した。
これは、90 年代半ばの出来事である。民族対立、宗教対立、内戦など、小規模な武力対立、武力紛争
が、多発的に生じる。そして、9.11 をむかえることになる。私たちは、テロ組織といかに戦うかという
問題が浮上する。こうした国際的な問題は、国内の治安維持とも関係する。つまり、テロという現象の
登場により、自衛隊、警察が、それ以前とは異なった、訓練、治安維持の対策をとる必要がでてきたの
である。
大学の講義では、日本人犠牲者がでたアルジェリアの事件について、イスラム教徒とは、すべてあの
ような人たちなのか、という質問がでた。とても残念なことである。私にもイスラム教徒の友人は多数
いる。宗教に熱心な人もいるが、いい加減な人たちもいる。イスラム教徒にもかかわらず、酒を飲みに
行く友人もいる。いろんな人たちがいる。狂信的になり、攻撃をおこなうのは、宗教の問題ではなく、
個人の問題である。
イスラム原理主義がアフリカで急速に勢力を拡大している背景には、思想的な問題がある。アフリカ
が植民地支配されていたころ、宗主国の宗教としてキリスト教はあった。自分たちを踏みつけ、奴隷化
し、豊かな資源を収奪する国家に対抗するため、マルクス主義が利用された。つまり、アメリカ帝国主
義にたいする、共産主義、社会主義の台頭である。共産主義、社会主義の凋落とともに、イスラム教が
広まったのである。イスラム原理主義というが、私は、基本的に宗教の問題ではないと考える。
要因は、豊かな資源、石油や天然ガスを略奪されたことにたいする怒りであり、この怒りを正当化す
るためにイスラム教が用いられているのである。つまり、宗教としてではなく、イデオロギーとして捉
えることが重要である。より根本的な要因は、不平等感であろう。この不平等感に、
「あなたたちが怒る
のは当然だよ」とささやきかけたのが、イスラム原理主義だったのである。
暴力をなくし、武力を行使せずに問題を解決する世界をつくることは、不可能ではない。その際に重
要となるのは、政治的なイデオロギー、宗教的な協議、こうした現象を、表層的に議論するのではなく、
本当の問題は、どこにあるのか。この疑問をもちつづけなければいけない。本当に根底にある問題は、
武力で解決できるものではないと思われる。
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