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本文ファイル - 長崎大学 学術研究成果リポジトリ
NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE Title [22]「青空楽団」と兵隊画家 Author(s) 松山, 文生 Citation 満州ハイラル戦記, pp.190-199; 1994 Issue Date 1994-08-31 URL http://hdl.handle.net/10069/29540 Right This document is downloaded at: 2017-03-29T05:09:26Z http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp ﹁青空楽団﹂ と兵隊画家 C収容所はハイラルの某部隊の一個大隊から編成されており、興安嶺でソ連軍と戦うはずで 1 9 0 あった。この収容所に来て、私が一番嬉しかったことは﹁青空楽団﹂という劇団があることで あった。着任した夜練習しているところを見に行った。 Hと言う兵長が指揮者となり﹁黒い瞳﹂ の練習をしていた。一年半振りに聞くバイオリンやアコーディオンの音に私はウットリと聴き 惚れた。その時、医大の三年の時のことを思いだした。佐世保の海軍病院で三週間ミツチリ鍛 えられた時も無性に洋楽が聴きたくなり、訓練が終わって下宿に帰った時、半日何もせずに私 は蓄音機に洋楽のレコードをかけて寝転んでいた。私は取り立てて洋楽が好きではないが、ひ どく殺伐とした環境の中に長くいると神経がくたびれてしまって、心が安らぎを求め、自然に たん バイオリンやピアノの音が聴きたくなるのかも知れない。 久々に聴く洋楽の音は私を堪能させてくれた。そのうち、私はY少佐から軍医は暇だろうか ハイラルの私達の大隊の重機中隊長の N中尉がいた。彼は大隊長要員として ら﹁青空楽団﹂ の手伝いをしろと言われ、内地帰還までわりと楽しい日々を送ることが出来た。 ﹂の収容所には 満州の吉林で教育を受けていたのであるが、ソ連の侵攻と共にハイラルに帰隊しようとして、 プハ卜まで北上したそうであるが、それ以上北へは行けず悶々としている内に、敗戦となった らしい。 プハトでは家族と面会出来たと言っていたから、私が馬に乗って﹁七十三関係の家族の方は 至急七十三部隊の前に集合して下さい﹂と叫んで走り回ったことは、無駄ではなかったのであ 1 9 1 て九九首まで思い出した。彼が何故、百人二百を知っていたかと言うと、北海道では子供はイ 暇があったので彼と私とで小倉百人一首を書き出して見ょうかと話し合い、七日くらいかかっ 北海道出身で旧制四高を経て、某大をでたRと言う中尉がよその収容所から転属して来た。 い、日本に帰ったら真剣になって勉強しようと心から思った。 なった。私は、これは大変だ、知識を詰め込まなければ、そして物知りにならなければならな ソ連には日本語の本が全然ないので、その人の覚えている知識だけがその人を計る尺度に 書きが通用しない事を教えてくれた。 の一人にさせられた。このことは私の世の中を生きることの厳しさと、 メツキや旧日本での肩 チメートルの板に洗濯板のような溝を付け、 それを金物のブラシでシャツシャツと擦る演奏者 めさせられ、楽団の一番後ろで幅十五センチメートル、長さ三十センチメートル、厚さ二セン た。三、 四回はHがタクトを振っていたが、下手であったためか指揮者(コンダクター)をや これもまた、地方のラジオ局で時々出演したと言うE 一等兵で、一一人ともなかなかの腕前であっ た。バイオリンは地方のラジオ局で演奏したこともあると言うN 一等兵で、 アコーディオンは があった。﹁青空楽団﹂の音楽の指揮者は、始めは宝塚少女歌劇団にいたと称するH兵長であっ c収容所は割りとのんびりとしており、気楽に暮らせたが、色々な人がおり、色々な出来事 る 1 9 2 ロハガルタの代わりに、百人一首の下の句を読み、そして取って遊ぶのだそうだ。彼は下の句 を知っている。私は上の句も下の句も知っていたのだが、本がないので、どうしても一首、分 からない。 二人で顔を合わせて笑ったものであった。 私が W大学を出たE少尉に尋ねて見ょうかと言って、彼ご年志願兵出身の老将校であった) の部屋に行った。私が一首どうしても分からないと言って、私達が作った表を見せた。 E少尉 はそれをちらつと見て、﹁我が庵は﹂がありませんねと言った。私はいたく感動した。知識とい うものは底知れないものであり、あらゆる文明の進化発展には知識の蓄積なしには有り得ない ことを痛感したからである。 私は暇だから、よくあちらこちらの兵舎に出はいりした。 C収容所は縦、横一五0 メートル くらいの敷地に建てられていて、南に向いている収容所の門から北に右側の方は衛兵所、第一 軽症入院患者室、炊事場、縫製兼木工室、本部勤務員兵舎、第二軽症患者入院室、兵舎、医務 室、風呂場の順に建てられており、収容所の門から北に左側の方は、兵舎、将校宿舎、兵舎、 兵舎、兵舎、兵舎、兵舎と並んでいた。ソ連の収容所の幹部は、第三軽症患者入院室の更に右 側に二0 メートルくらい隔てて煉瓦造りの二階建ての建物の中で仕事をしており、その二階に は重症患者の入院室があり、 C大尉はそこで入院患者を治療していた。 第 二 軽 症 患 者 入 院 室 の 右 三 分 の 一 に はY と 言 う 絵 か き が 住 ん で お り 、 終 日 、 ソ 連 収 容 所 の 幹 1 9 3 部から頼まれた絵をキャンパスに描いていた。森の中の倒木の傍らで熊が五匹くらい遊んでい る絵で、白黒の写真の手掛かりに奇麗に彩色して見事な洋画に描きあげていた。私が聞いてみ ると、 Yは帝国間に入選したこともあるという良い腕の洋画家でハイラルではY は一地区に勤務 したこともあると言っていた。戦前は共産党の細胞もしたらしく、その筋に入り込んで情報を 取ったという話もしていた。絵で飯を食っていただけあって器用で、下士官などが壊れた電球 に金魚の絵などを描いてくれと言って持ってくると、 スラスラとペンキで金魚を描いたが実に 上手であった。 彼の話では洋画の世界は上手だけでは通用しないらしい。彼も自信のある作品を出品したこ とがあるが、 どうしても落選するので、ある有名な洋画家の弟子になったら入選したそうであ る。帝展の審査員を沢山弟子に持っている洋画家の一門に入れば、その洋画家が審査の時に、 合格ということの合図の手を上げれば、弟子も皆手を挙げ、入選することが出来るのだと言つ ていた。 私は Y に一度大変世話になった。この収容所で一番偉い医者の女医(軍医ではなかった)が、 医務室の床をペンキで塗れと私に言った。ペンキはどこにあるのかと私が聞いたら、﹁一言わんで もわかるだろう﹂というようなことを言う。私は盗んで来いということだなあと思ったので、 衛生兵にペンキを盗んで来た兵隊には一日休みをやるからと言ってペンキを盗んで来させた。 1 9 4 兵隊は茶色のペンキを四缶、青色のペンキを三一缶、持って来た。 Y にこれで医務室の床を塗っ てくれないかと頼んだらペンキの色と量をみて、緑に近い色になりますがいいですかと言う。 頼むから宜しくやってくれと私は言った。帝展入選の洋画家に床のペンキ塗をさせて気の毒だ という感じがするが、当時はそれが最良な方法だと思っていたから私も子供であった。塗られ た床の色はY の言った通りであった。プロには適わないと思った。 彼 は ソ 連 人 の 言 い つ け 通 り に 絵 を 描 い て い た が 、 滝 査 に ボ lト を 浮 か べ ろ と 言 う 注 文 等 も ひも あって、ソ連は絵に関しては、日本の中学校の三年生並みですなあと言って嘆いていた。ペン キはどんなにして盗んで来たのか知らないが、普通の盗み方は缶に入れて、缶に長い紐を付け て、その紐を腰の帯革に結び付けてゴロンゴロン引っ張りながら歩いて、五列縦隊の縦列に交 じって収容所に持ち込んでくるらしい。 盗んだ物の中で一番大きかった物は、高さ五十センチメートル、幅四十センチメートル、厚 さ三十センチメートルくらいのモーターであった。これは請負仕事のアイスクリームの匙を作 るのに目覚ましい活躍をして盗んできた中隊はノルマを挙げた。兵隊さんの中には色々な職業 の者がいるのでモーターの電線を電信柱に取り付けるくらいは朝飯前の仕事であった。線の切 れた電球を何時も物入れ(ポケット) の中に入れておき、作業している工場が停電になると、 問髪を入れず工場内の電信柱によじ登り、物入れのつかない電球と電信柱の傷んでいない電球 1 9 5 とを素早く取り替えるのを得意としていた兵隊もいた。こういう点では日本の兵隊さんも隅に は置けんのである。 私達から H エンジニヤと呼ばれている面白い男がいた。以下、 Hと略称する。兵隊の階級は 二等兵であるが、仕事が良く出来るので収容所では准尉くらいの待遇を受けていた。時々絵描 きの Y のところに遊びに来ていて、話をしたが、白信過剰な男で私には想像も出来ないことを やっていた。子供の頃は、新聞配達をしていて、二階に新聞を投げ込むのが得意であったと言 うので、私がどうしたら二階まで新聞が投げられるのだと開いたら、新聞の中に石を入れ投げ るのだとの返事で、巧く考えたものだと思った。 彼は小学校六年生の時、県主催の一 0 0メートル競走に選手ででたことがあると言っていた。 自分が一番早いと思っていたら、ゴール間近になって見ると彼の横のコ 1 スを走っている奴の 方が彼より早いのでカ 1 ッとなって、思わずそいつのランニングシャツの襟の後ろを掴んで引 き倒したというから愉快である。 Hは奉天付近で土建業を営んでいて、事務所の若い女を二号にしていたらしい。その女を彼 が請け負った建築中の家に連れ込んでよく遊んだそうだ。関東軍の昭和二十年四月頃行われた 満州の根こそぎ動員で某部隊に入隊し、 T中隊に編入された。このT中隊の中隊長は八月九日 の朝、興安嶺からハイラルにたまたま帰って来ていたが、日ソ開戦を知ると、自分の中隊にも 1 9 6 行かず、官舎に帰って奥さんと朝食をとり、トラックに一杯家財道具を積んで、後方に向かう 列車の前に現れ、そのまま興安嶺の陣地に引き揚げたということで、敗戦後、中隊の者からひ どく非難されており、部下の見習士官や曹長などは彼を相手にしていなかった。 話は H に一戻るが、彼は出征する時の写真を持っていた。﹁よく見てください﹂と Hがいうの で、私は写真を見たが、変わった写真ではない。﹁どこが違っているんだ﹂と聞くと、﹁私の左 手をみてください。 二号の手を握っているんですよ﹂と言う。なるほどH の話す通り左手が見 えなくて、後ろの若い女の手を握っているようである。 ふざけた男もいるもんである。 私達中尉六名が入っている将校宿舎の一部屋に一度 Hが遊びに来たことがある。何かの話を していたら、急に真剣になって﹁私も若い頃、人生とは何ぞやということで悩みました﹂と一 人前のことを一言う。﹁それでどうしたんですか﹂と W中尉が聞いた。﹁大分考えた末、私には子 供がいる。子供が後を継いでくれる。そう思ったら、気が楽になりまして悩みはなくなりまし た ﹂ と 一 一 一 一 口 い Hはホツとした顔をした。 W中尉が﹁子供がいなかった場合のことを考えなかった のですか﹂と穏やかに聞いた。﹁そんなこと考えたことありやしません。私には子供がおります から﹂とHが答えたので、皆それ以上H に質問することも出来ない雰囲気となり、 Hも早々に 宿舎から出て行った。 1 9 7 Hは京都の何処かの学校を出ているようであったが、学校の名前は分からなかった。行きつ けのカフエーで喧嘩があった時、小柄なHを女給が挟で隠してくれたことがあったと言う。 H は自分の下宿からカフエーに行くのに、どの道を通っても必ず巡査のいる交番の前を通らなけ ればならないのが不思議だと言って、日本の警察組織の完備しているのに感心していた。 カ フ エ ー と 言 え ば 思 い 出 す 男 が 、 こ の 収 容 所 に い た 。 私 立 のN大学を出た男で、大学時代、 かなり派手に遊び、 カ フ エ ー で 、 大 暴 れ し て 警 官 に 捕 ま り 、 留 置 場 に 入 れ ら れ た 。 ど う な る こ とかと心配していたら、伯父が彼を引き取りに来てくれたと言っていた。ひどく叱られると思っ ていたら、カフエーに連れて行かれて、飲めや歌えのどんちゃん騒ぎのお祝いをしてくれて驚 いたそうだ。伯父によく聞いてみると、共産党の一味即ち赤で検挙されたのではないかと案じ た彼の父が、そうでないことが分かったので大喜びして、伯父に大金を渡して大盤振る舞いを してくれたのだそうである。昭和の初期は共産党の者は大悪人のように思われ、また言われて いたので、そんなこともあったで、あろうと私は思う。それにしても、親とは有り難いもので ある。私の知人に遊び人がおり、親父から勘当同様の縁きりをされ、満州に逃げていた頃、そ の知人に二O O円 近 い 金 額 を 横 領 し た と い う 疑 い が か か り 、 警 察 の 留 置 場 に 入 れ ら れ た こ と が あった。その時、その知人の親父は姉(その知人にとっては伯母になる)に長距離電話を掛け てきて、﹁金額はいくらでもだすから、留置場から出してやってくれ﹂と言ったという話を私は 1 9 8 知っていたので、彼のカフエーのことを、知人とダブラセて、親の子に対する心は、場所を隔 てでも変わりないと改めて感じとったのである。 1 9 9