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第2章 北部ヨーロッパにおける理想都市理論と計画都市の展開
第2章 2.1. 北部ヨーロッパにおける理想都市理論と計画都市の展開 序 理想都市についての一般的な議論は歴史上、様々に現れているが、イタリア・ルネサンスにおいて建 築的な理想都市論が論じられ、具体的な設計を伴った。それはルネサンスの理念の中核に関わるもので あるとも考えられている。建築家としてはアルベルティが語り、フィラレーテが詳細に案をなし、ジョ ルジョ・マルティーニが本格的に展開した。その広がりはレオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロ、 またヴァザーリにもわずかに見られる。理想都市案は城塞都市理論としてより現実主義的な計画案とな って行き、セルリーオが論じ、ピエトロ・カタネオはより影響力のある理論書を残し、フランチェスコ・ デ・マルキは多数の計画案を描き、スカモッツィの理論はパルマノーヴァに影響を残した2。 理想都市の象徴的な事例とされるパルマノーヴァは、正九角形の輪郭の中に放射状の街路を持ち、中 心に正六角形の広場を置く。ルネサンス建築の理想型である正方形と円形の合成、明快な中心を有する 集中式プランは、ネオ・プラトニズムの思想を背景とし、明快な幾何学形式に神聖さが宿るとされてい るが、それが都市スケールで展開されたものが理想都市案であった。 イタリアの影響は全ヨーロッパに及び、ドイツ、フランス、スペイン等に広がり、国際的な都市運動 のようなものになって行った。日本においてはその影響がわずかに幕末の五稜郭等に及ぶが、それは都 市計画ではなく、孤立した要塞に過ぎなかった。その明快な幾何学形態は印象的であり、イタリア、地 中海文化の華麗さとして広く認識されているが、世界的な影響と言えば、必ずしも大きくはない。大航 海時代のポルトガル、スペインは多数の新都市を世界中に建設したがそれはやや異なる原理によってい た。ネーデルランドを中心とする北方ルネサンスでも華やかな文芸復興が見られたわけだが、そこでも イタリア型の集中式プランはあまり注目されない。そこではイタリアの影響を受けつつも、独特の変形 がなされており、またその後の影響についてはあまり明快ではない。以下ではそのようなところに焦点 を当てて、イタリアからドイツを経て、ネーデルランドに至り、そこで独自の理念を形成した後に、目 立たないながらも大きな歴史軸を形づくって幅広く展開した計画都市の理念と実態について、今回の研 究成果を概略的に整理して提示する。 2.2. ドイツの理想都市論 ドイツでは16世紀初期に画家アルブレヒト・デューラーが『城塞論3』を著している。そこに示され た都市形態は、正方形の城壁の中に、中心に小さな正方形を置いて領主の館とし、城壁との間に整然と 同心正方形の形で市街地を配するものである。それはイタリアの多角形の輪郭と放射状の街路という集 2 ヘレン・ロウズナウ著、理想都市研究会訳(西川幸治監訳)、 『理想都市 : その建築的展開』、鹿島出版会、1979 年。Hanno-Walter Kruft: "Geschichte der Architekturtheorie : von der Antike bis zur Gegenwart", München, C.H. Beck, 1985. 3 Albrecht Dürer, "Etliche underricht/zu befestigung der Stett/Schlosz/und flecken", Nürnberg, 1527. ― 7 ― 中式の劇的な空間構造とは異なる、やや理性的な都市計画の考え方が見出される。イタリアの建築理論 家で、理想都市案を描いたことで知られるピエトロ・カタネオは『建築四書4』において、多角形の城塞 都市案を提示しているが、そこにはグリッドプランの街区が描かれていた。空間理念としては中心を持 ち、放射状に広がり、円形ないし多角形で囲われるのが原則とするべきであるが、そこに現実の効率性 が介在し、直角と矩形が入り込んでくると考えるのがよいであろう。 ドイツの理想都市案としては、ハインリヒ・シックハルトによるフロイデンシュタットの都市計画が 著名である。ここでも正方形の中に直角のシステムが用いられており、純粋な集中式ではない。理想都 市の形式を適用した例としてマンハイムが知られるが、ここではカタネオ案の形式を採用しており、城 塞都市は多角形の中にグリッドプランを配している。ちなみに初期のマンハイム計画案では、多角形の 都市に添えられた正七角形の要塞の中に放射状プランが用いられており、軍事行動の合理性という観点 からは放射状の通路が有利と考えられていたようである。 16世紀後期に活躍するシュトラスブルクの城塞都市理論家ダニエル・シュペックリンは、著書『城 塞建築論5』(1589)において一つの理想都市案を提示しており、それはパルマノーヴァと似て、正八角 形の中に完全な放射状街路網と同心正八角形の街路網を配し、中心にも正八角形の広場を据えている。 それはパルマノーヴァの計画とほぼ同時期であり、相互の影響関係も考えられるところであるが、放射 状プランはドイツにおいてはあまり採用されていない形式である。しかしそこにはイタリアとの情報の 交流が活発であったことを推察させるものがある。 理想都市理論は印刷技術の発達を通して、情報としてヨーロッパを流通していたと想像され、ルネサ ンス時代の技術交流の実態を垣間見させるものである。デューラー、シュペックリンのいずれも、イタ リアとの情報交流は確実であり、他方で両者ともネーデルランドのアントワープに滞在した経験を持っ ている。アントワープについては以下に論じるが、ドイツの地はイタリアとネーデルランドを仲介する 立場にあったこととなり、理想都市理念の展開過程を推察することができる。しかし、ネーデルランド では水路網を活用した都市が中世から発達しており、特に海辺では海運との関係で港を持った都市を発 達させたのに対し、ドイツ内陸部では水運は大河の川沿いが主であり、ネーデルランドと共通したもの はあまり見出せない。 2.3. ネーデルランドにおける展開 2.3.1. ネーデルランドにおける中世都市から近世都市への移行過程 イタリアの理想都市理念がネーデルランドの導入される顕著な例は、16世紀中期に築かれた現ベル ギー南部のフィリップヴィル、マリアンブール(Mariembourg)に見られる。いずれも軍事的な要衝とし て設けられたものであり、防御ラインをなしていた。前者はある程度のシンメトリーを備え、放射状街 路を備えているが、全体には歪んだ五角形をなしている。基本的には集中式プランを意図したものであ るが、一種の撹乱のために意図的に街路をずらせ、また直角や等角を用いず、歪な形状を与えたものと することができる。他方、後者はほぼ正方形に近い輪郭を持ち、中心軸線、対角線を整形に配した、集 4 Pietro Catneo, “I Quattro Primi Libri di Architettura”, Venezia, 1554. 5 Daniel Specklin, “Architektura von Vestungen“, Straßburg, 1589. ― 8 ― 中式街路のプランである。 中世のネーデルランドでは独自の都市構造が開拓されていた。低地の干拓農地に給水、排水するネッ トワークのために水路網が発達していたが、水運を媒介にした街村状の都市がまず形成される。アムス テルダムはその典型的な例であり、アムステル川沿いに荷揚場が発達し、最初の都市化が起こる。アム ステルダムのダム広場は、水流をコントロールしてダムとし、その上に中心広場を設けたものである。 アムステルダムでは次に、これに並行の街区が形成され、水路、街路が平行に連続する街区構造が生ま れる。他方、ロッテルダムでは二つの水路がT字型をなすに至る。エンクハイゼンでは海岸線に平行に できた水路の町のユニットと、海岸から直角に内陸に向かう街路を軸とした町のユニットがT字形をな す。 これらが面的な広がって行くに従って、都市の輪郭は歪な形をとって拡張されていく。中世において は歪んだ街路、水路、街区であったが、16世紀後期あたりに次第に整形となり、幾何学的な秩序が導 入される。地図を見れば、中世の都市空間と近世の都市空間がはっきりと区別でき、また実際に街路上 でも確認できる。 ここで水路に着目する時、見落としてならないのは、水路沿いに街路があるか、単なる建築物の裏手 の排水路であるかどうかである。すなわち、荷揚げをする河岸というものがこの時代に明確な都市計画 上の要素として位置づけられてくるように見えるからである。河岸は単なる船着場もあれば河岸に沿っ てカナルハウスを並べて、水路街区を成立させる場合もある。水路幅にも海から大型船が入る運河、水 門や橋で区切られて小型船しか入らない小運河、地区の単なる排水路等のヒエラルキーが見出される。 大航海時代を反映して東インド会社等の船着場となったり、また大きな水盤となってドックとなったり もする。また水路が都市の中央軸としてメインストリートを形成するに至る場合もある。一つの都市の 中でもその多様な水路、河岸、それに面する建築と町並みという都市空間の新しい像がそこに発生し、 近世の都市像を形づくるのである。 イタリアの理想都市の影響で、多角形の城塞都市の方式が導入されると、それはほとんど城塞の部分 のみに適用され、また市街地拡張がなされる際にグリッドプランの整然とした街区が導入されることと なる。地図製作家デフェンター(Jacob van Deventer)は16世紀中・後期の多数のネーデルランド都市 を図面化したことで知られるが、そこには城塞都市化以前の各都市の姿が見られる。他方、1635 年に出 版されたブラウ(Willem Janszoon Blaeu)の『新地図(Atlas Novus)』では、多数の都市が城塞化し、 稜堡群で取り囲まれている状況がわかる。 一つの象徴的な例がウィレムスタットの小都市である。それはそもそも16世紀に干拓農地の計画集 落として誕生したものであったが、軍事的な緊張の中で環状の城壁と稜堡を加えて城塞都市化したもの だった。ウィレムスタットは一見して明快なプランを示すため、理想都市の実現例として引用されたこ とがあったが、実はこのような二段階のプロセスを辿り、農村集落が城塞都市化したものであって、理 想都市案が実現したものではなかった。 2.3.2. ネーデルランド独自の理想都市型 ネーデルランドのルネサンス理想都市案の例とした、シモン・ステヴィンの矩形の輪郭、水路網を持 つグリッドプランの街区構成が挙げられる。これはステヴィンの死後にその息子による出版物で初めて 公にされたものであるが、16世紀末にはできあがっていたものと考えられている。それはイタリアの ― 9 ― 集中式プランとは明らかに異なり、ドイツ風の直角のみを用いるものである。しかし、水路網を配して いる点はネーデルランド独自の考え方を示すが、それは中世からあるもの地域特有の都市構造をもとに するものであり、オリジナリティを有している。ステヴィンはそもそも数学者、科学者であり、多数の 科学書を著しており、また十進法の創始者としても知られる。その中には城塞技術に関するものもあり、 また水利技術に関するものもあって、多彩な科学と技術をマスターしており、さらに発明の才を示して いた。 しかし、彼の理想都市案がいかにして誕生したものかは謎であり、科学者の突然の思いつきなのか、 何らかのヒントがあったものか、不明のままである。今度の調査研究の過程で、アントワープにおいて 16世紀中期に市街地拡張計画があり、それが計画的な水路網を実現させていった過程を明らかにでき た。アントワープは当時のネーデルランド地域の最先端都市であり、その街区の姿をステヴィンが見て 知っていたと考えても不思議ではない。ちなみに、その街区は当初の新市街の計画がアントワープの急 速な衰退にともなって挫折したようであり、またナポレオン時代頃から掘削してドックとなったために 現在に至るまで目を向けられずに来ており、その重要性は本研究で再発見するところとなったと言えよ う。 この地区ニーウスタット(Nieuwstad)は、既存の中世都市アントワープの北に大きく張りだして拡張 された地区であり、これを実業家スホーンベケが事業化した。北海から続くスヘルデ川の大河は大型船 が就航し、大航海時代のアントワープを水運で支えていた。残された16世紀中期の数枚の計画案図面 から、当初はニーウスタット地区にはスヘルデ川から入り堀型の水路が引かれる計画だったが、改変さ れ、三本の水路が奥で横方向にもつながり、水路網となっていった過程が確認できた。すなわち、中世 ネーデルランドにおける独自の水路網都市の発達過程から、より知的で合理的な計画として、ニーウス タット地区の空間構造が誕生したとすることができるのである。 その整然としたグリッドプランの街区構成と水路網の姿は、ステヴィンの理想都市案にも見られるも のであり、ステヴィンの理論はネーデルランドの水路網都市の発達過程をベースに、科学者の目で理論 的に整理して独自に想像したものとすることができる。ステヴィンはその都市案の城壁はあまり強くせ ず、稜堡を小さいもとのし、また都市の拡張がグリッドプランを延長することで可能であるとしていて、 この点もイタリア発の城塞都市とは性格を異にするが、そこには同時代の数学者・哲学者ルネ・デカル トの延長論に類似する考え方が垣間見られ、近代的な座標系概念が背景にある。近世都市計画理論の登 場は近代数学の登場と軌を一にするものであると言え、ニーウスタットでの試みは歴史的に重要な意味 を持っているとすることができよう。 2.3.3. 17世紀オランダの都市計画手法 (1) アムステルダム アントワープの新市街地ニーウスタットにおける新しい試みは、その後の近世型の都市計画手法にレ ベルアップする一ステップになったと考えられる。カトリック勢力の圧迫によって人々はアントワープ からアムステルダムへと逃れ、その中枢的な経済活動はアムステルダムに引き継がれる。そして16世 紀末頃からアムステルダムは急速な発展を遂げ始め、市街地拡張を行う。黄金の17世紀の終わり頃に はアムステルダムはよく知られる扇型の水路網の市街地を形成していた。しかし、実はこの百年の間に 都市計画手法は段階的に成長を遂げていたことが、街区の精細な吟味を通して明らかとなった。 ― 10 ― アムステルダム市の発生はアムステル川の水運を媒介にして細長い集落が発生したことに始まる。1 4世紀の半ば頃までには、アムステル川沿いに都市形成がなされており、14世紀終わり頃までには両 側に水路が追加されて、市街化が進んでいたが、この頃までは計3本の水路街区となり、さらに拡張さ れて5本となるが、それは歪んだ、非計画的なものだった。15世紀の終わりにはさらに水路が追加さ れて計7本の水路街区となるが、新しい水路はやや直線上となる。そして16世紀の終わりからは大き く市街地拡張が始まるが、ここでは水路には直線性がはっきりと示される。本研究で焦点を当てたのは、 16世紀末から17世紀初期にかけての時期であり、そこに2段階の計画手法の発展が見られた。 1590 年代にアムステルダム東部、現在のツヴァネンブルフヴァル運河、オウデスハンス運河以東に水 路で囲われた矩形を基本とする5つの地区が造成される。ここでは水路群はやや場当たり的であるが、 直線性を示す。街区もまた直線であり、敷地割りも同様で、中世型の歪んだ市街地とは一変する。水路 は海から引かれ、ここには造船所群、木材流通拠点が置かれ、今日の埋め立て地商工団地のような体を 示すこととなる。1550 年代のアントワープ・ニーウスタット地区の発展形がここに見られるわけである。 これに続くようにして、1590 年代にアムステルダム西部にヘレンフラハト、ケイゼルスフラハト、プ リンゼンフラハトの3本の水路が、レイツェフラハトのところまで整備される。ここでは細長くかつ折 れ線上であるが、グリッドプランの街区構成の考え方が見られる。街路、河岸は整備され、整然と敷地 割りがなされて、いわゆるカナルハウスを前提とした密な市街地が提示された。プリンゼンフラハトの 外のヨルダーン地区も併せて市街化されていったが、ここはそもそもポルダーを元としており、何本も の水路が並行して走る地区割りがそのまま市街化地として成長していった。前者の東部地区では街区相 互にはあまり連携がなく、グリッドプランにはならなかったが、この西部地区はグリッドプランを脳裏 に想定しており、たまたま既存の土地の属性で若干の歪みが発生したものと考えられる。ステヴィンの 理想都市案はここでは発展段階の上で同じ位相にあったとしてよいと思われる。 3本の水路は、17世紀半ば以降(1660 年代の地図に初めて明記される) 、レイツェフラハトの東へ と延長され、旧市街を大きく環状に3本の水路が取り囲む形となり、ようやく今日のアムステルダムの 統一感のある水路都市が形づくられる。しかし、新市街地の計画手法の原型はグリッドプランと見るべ きであり、環状であるのはたまたま旧市街の核を囲むように新市街地が形成されたからである。したが ってこれはステヴィンの手法が具体化された姿と見なすべきである。 (2) その他のオランダ都市 アムステルダムと並行して発展を始めるロッテルダムは、アムステルダムと同様に川を挟む集落から 都市化していった。そして海辺の船着場に沿って直線上に生まれる軸線型の町並みとともに、T字形の 市街を形成することになるが、特に大型船の時代に対応して海辺に新市街地が築かれる。 デンハーグは内陸の都市であるが、濠で囲まれた館を核にして市街地が形成されるため、オランダで も特異な都市構造を示す。しかしデルフトとつなぐ運河など、やはり水運を用いた街区形成がなされて おり、17世紀の発展は同様の計画手法を見ることができる。 デルフトやレイデンもまた内陸型で、独特の都市形態を示す。そこには平坦に広がる低地における中 世都市から近世都市への姿が認められるわけだが、中世と近世の相違が一見してはわかりにくいものと なっていて、有機的で漸進的な変化であったと理解するのがよいと思われる。 それに対して大航海時代に積極的に海運を活用した海辺の都市ははっきりとした都市構造の変化を示 している。16世紀末の日本を2度訪れていたとされる商人D.G.ポンプの出身地であるエンクハイ ― 11 ― ゼンは、比較的にその名が知られていないが、東インド会社を置いて大航海時代に大きな発展を遂げた 町であり、17世紀オランダ都市を象徴するような都市構造を見せている。そこには中世の海辺の小都 市の痕跡、中世末のやや不整形ながら計画的な直線状水路街区、近世型の計画的なグリッドプラン型水 路街区、そして大型船の着岸できる東インド会社地区や大きなドック群等が見られ、コンパクトに16 ~17世紀の都市発展の過程が読みとれる。 2.3.4. 透視図と数学的空間認識 16~17世紀ネーデルランドの都市空間の姿を理解するのに、建築スケールでの空間感覚を併せて 理解しておく必要があり、特に透視図法の問題を分析した。15~16世紀イタリアで理論化された透 視図法は、建築家、建築画家、透視図理論家であるフレデマン・デ・フリエスによって独特の展開を見 せる。ネオ・プラトニズムの集中式プランをもとにするイタリアの透視図法は次第にその根本理念を薄 め、マニエリスム的で装飾的な視覚表現の手段となっていく。その透視図絵画をCADによって三次元 空間に復元してみると、そこには遠くのアイストップとなる建築物等を見通す、きわめて奥行の深い空 間が出現した。それは視覚表現としてはヴィスタの手法であるが、同時に軸線的な街路を演出するもの であり、独特の建築空間のパターンとなる。そこにはかなり広域の空間を制御する座標系の発想が隠れ ていたことになる。 20世紀建築家の巨匠の一人とされるミース・ファン・デル・ローエは住宅設計のエスキス・スケッ チで、廊下の先にアイストップを置く、奥行の深い空間を描いているが、それと同様の構図がそこには 見られる。20世紀の三次元直行座標系を駆使するドイツ的なモダニズムのルーツをフレデマン・デ・ フリエスに見出すことができるように思われる。それは16世紀後期に三次元直行座標系の中性的な空 間操作の技術が基盤を獲得していたことを示すものと言える。20世紀のオランダ構成主義であるデ・ スティルの造形手法を介し、またオランダ、ベルギー、ドイツの国境付近の歴史的な都市アーヘン生ま れのミース・ファン・デル・ローエの出自なども関係して、そこには独特の数学的空間の思想が根付い ていたのではないかと創造される。三次元直行座標系(デカルト座標系)の数学理論の基礎を形づくっ た17世紀のフランス人哲学者デカルトが科学の先進地オランダに滞在して著作を行っていたこと、1 6世紀末のステヴィンのグリッドプランによる理想都市案などを総合してみれば、ネーデルランド・ル ネサンスはグリッドプラン、さらには立体格子へと広がる数学的空間認識の技を獲得していたのではな いかと憶測されるのである。つまりイタリア・ルネサンスの集中式の空間思想はネーデルランドで中心 性を除き、中性的な三次元直交座標空間の空間思想へと変化し、近代数学へと発展する改変を行ったよ うに見えるのである。 オランダ17世紀の画家フェルメールは独特の窓辺のインテリア空間を描いたことで知られている。 そこでは透視図法によって正確なインテリアが描かれている。建築物、町並みを描いたわずかな絵画が 知られているが、 「デルフトの通り」では奥行の深い路地を描き込んで前述のフレデマン・デ・フリエス 風の奥行感が示されているものもあり、ロッテルダム門付近の港を描いた「デルフトの光景」でも左右 に展開する都市風景とともに、奥行方向に深みをつける突き出した門屋や水運の軸線を描いていて、座 標空間を素朴に描き上げている。他方、17世紀オランダでは教会堂のインテリアを透視図法に則って 正確に描く、E.d.ウィッテらの絵画が発達する。そこには一般的なバシリカ式の奥行の深い教会堂 内部空間が描かれるが、三次元復元分析によって建築空間を数学的に把握し、また操作的に演出するこ ― 12 ― とを重視する姿勢が見出された。 2.4. オランダ都市理論の波及 スウェーデン王国が 1621 年に創立した新都市イエテボリは、オランダ方式の都市計画の代表的な例で ある。オランダ国内では既存都市の拡張が多く、近世都市の構造を明確に見出されるものはほとんどな く、イエテボリにはその意味でオランダ型の近世都市構造をより明確に捉えることができる。 16世紀後期の予備的な都市計画案ではシンメトリーの船着場を核に、半円形に稜堡式城塞で囲われ、 中心広場を含むグリッドプランをなすイタリア・ルネサンス風の整形のものだったが、実施に移る頃に は中心に入り堀型の水路を引き込み、グリッドプランで市街を形成し、楕円形をなしてめぐる稜堡式城 塞を備えるものに変化する。海辺には丘陵が断続し、後に丘陵上に要塞が築かれるなど、防衛的な工夫 があったものと言え、理想都市的であるよりは現実主義の時代に移行した後の都市計画であったと言え る。18世紀初頭の眺望図では東から見たイエテボリの全景が描かれ、市外に独立して設けられた、塔 を持つ二つの要塞のほか、市壁に守られた市街に建つ二つの教会堂の尖塔と高台に建つ一基の風車が見 える。風車はオランダで排水に貢献する動力源とされ、バルト海沿岸にも広がっていたが、ここでも景 観を象徴する要素となっていたことが知られる。 市街地の中の水路網は、ヨータ川から入ってすぐにくの字に曲がる幅広い運河と、それに直交する二 つのやや幅の狭い水路からなる。中心をなす水路は幅広く、かなりの大型船が入港し、荷揚げができた ものと考えられる。奥の方では中心広場に接し、そこに市庁舎等の中心的な都市施設が建築されている。 やはりこの中心水路に面して教会堂が置かれているが、枝分かれした水路の奥に同規模の大聖堂がある。 グリッドプランをなす街区の奥行はほぼ同規模であり、都市建築の機能的な奥行寸法が定められていた と考えられ、他方、幅は一定せず、地形や都市内での位置関係によって決められたと考えられる。これ らからもイエテボリは理想都市的であるよりも現実主義的な計画都市の結実したものとすることができ る。 バルト海に続くオレズンド海峡に面したコペンハーゲンは中世都市が拡張された大規模な都市であり、 都市構造は複雑であるが、中世の旧市街の北東に近世の計画的な新市街が築かれており、ニューハウン などの大小の入り堀が設けられている。そして南西側の島の対岸の位置にクリスティアンハウンの半円 形の城塞都市が建設されている。これはイエテボリの新都市と類似した水辺の整形都市の姿をなすが、 一本の水路が中心を横切っているものの、ここでは水路は城塞を脇の位置から突き抜けて入り、横向き となっている。他方、海辺に築かれた要塞では初期の図面では海から直に引き入れる中心軸となってい たようである。イエテボリ型の都市計画はある程度普遍性を有していたものと考えられる。 海運の要衝であったオレズンド海峡の両岸(ヘルシンゲル、ヘルシングボリ、ランズクローナ、マル メ等)、また続くバルト海沿岸に面したスウェーデン領(カールスクローナ)にはいくつかの都市発展が 見られるが、それぞれが要塞、城塞を備える港町として、グリッドプランを取り込んだ計画的都市の姿 を見せる。クリスティアンスタッドはやや内陸の都市であって港を持たないが、やはり水運に関係した 都市であり、川に面して完全なグリッドプランの街区構造をなし、計画的城塞都市として一つの典型を なすものである。 ストックホルムも内陸ながら水運の要衝の島に築かれているが、都市構造はドイツのハンザ都市リュ ― 13 ― ーベックによく似て、中世都市の構造を持つ。すなわちアーモンド型の島の中心をなす稜線上に南北に 中心街路ができ、その両側に漁村や港町によく見られるように、水辺から櫛形に街路が並列し、中心部 に向かって斜面をなす。本研究で注目すべきは、旧市街ガムラスタンの島の対岸に築かれたノールマル ム、エステルマルム、セーデルマルムの南北の新市街地である。そこではグリッドプランで市街が築か れたが、統一的なグリッドプランではなく、北側のノールマルム、エステルマルム地区ではガムラスタ ンとの橋から広がる形で、三つのグリッドプランが切り貼り風に合成されている。オランダ人が多く住 み着いたとされる南側のセーデルマルム地区はもう一つのグリッドプランである。いずれの新市街地も 城壁を持たず、あいまいに周辺域に続くのが特徴であり、もはやヨーロッパ中世・近世都市の閉じられ た空間システムとははっきりと異なり、近代都市計画への移行過程を垣間見させる。 サンクト・ペテルブルクはバルト海の奥のフィンランド湾の、さらに最奥部に築かれた都市だった。 これらには遅れて18世紀の初めに計画されていて、またロシア帝国の首都として規模も大規模であり、 計画技術はさらに発達していたものとすべきであるが、海辺に海運を前提にして築かれた点で共通して おり、かつオランダ的な水路網の都市形態が顕著に示された事例として貴重である。ネヴァ川の大河が 形成した広大なデルタ地帯に新都市を築くという点で、ヨーロッパには例を見ない特異な都市景観を持 つが、常に大規模な洪水の危険に晒されるという悪条件に敢えて挑戦したことは、オランダの干拓と水 運技術に依存することを前提とした都市づくりであったと推察される。もっとも新都市建設はフランス 人やイタリア人の知恵も借り、またその都市名からもわかるようにドイツ人からの影響もあった。建築 物にはさすがにイタリア系の様式が多く採用されているが、排水と水運、水路網の技術にはオランダ人 の影が濃厚である。 一般に、今日ではペトロパブロフスク要塞、またエルミタージュ美術館とその背後の内陸側にあるモ イカ運河、グリバエードフ運河、フォンタンカ運河がよく知られているが、これらの地区は貴族宮殿群 が不規則に拡大していったところであり、また既存の川を運河に改造しており、あまり計画性を示さな い。ここで注目するのは、ネヴァ川の対岸のヴァシリエフスキー島に形成された完全なグリッドプラン の街区である。ここは大規模な都市計画の中で市民層に当てられた地区と考えられ、ボリショイ通りを 中心軸とし、グリッドプランの街区網とし、短冊型の敷地が密に並ぶ、秩序正しい市街地として計画さ れている。初期の 1717 年の都市図では、ヴァシリエフスキー島は海岸線を稜堡型城塞で囲まれ、完全な グリッドプランの街路網が敷かれている。注目されるのは、中央部において3街区ごとに水路が設けら れる、つまり水路間に3街区、街路2本が挟まれていて、ステヴィンの理想都市案に共通することであ る。中央軸となる並木通りの南北道ボリショイ通りには矩形街区を広場化した大きな広場が二つあり、 またボリショイ通りの北端にはピョートル大帝の命を受けてサンクト・ペテルブルクを建設したメンシ コフの宮殿が置かれている点も共通すると言え、歪な島の輪郭が長方形であれば、ステヴィンの理想都 市案に似たものとなったことが推察される。ちなみにメンシコフの宮殿は川からバロック宮殿の正面玄 関まで一直線に入り堀を引き込んでいて、オランダ的な水利の発想が庭園デザインにまで及んでいるこ とがわかる。 ニューヨークは、17世紀初期にマンハッタン島南端部に築かれたニュー・アムステルダムに始まる。 そこでもまた水運用の入り堀型の水路が設けられ、枝分かれしたトの字形をなしていた。海辺に沿って 設けられた街路軸とこの水路軸はT字形をなし、現在のバッテリーパークには要塞が設けられ、また現 在のウォールストリートには文字通り稜堡を並べた城壁が設けられ、オランダ都市特有の景観を示した。 ― 14 ― 17世紀中期にはイギリスがここを占領し、ニューヨークと改名した。水路は埋め立てられて街路軸と なり、アイストップとして城壁跡地に市庁舎が置かれた。当時のイギリスの都市理論は大火後のロンド ン改造計画、アイルランドの新都市ロンドンデリー、またアメリカ南部海岸のチャールストン、またフ ィラデルフィアなどのように、十字軸線とグリッドプランを合成し、広場を分散させ、また交差点にモ ニュメントとなる建築物で構成される点に特徴があった。初期のニューヨーク改造にもそれがおおよそ 適用されている。そしてアメリカ独立後、アメリカ人の独自の空間思想と言うべき、都市と田園に広大 なグリッドプランを適用するという考え方がマンハッタン島北部に展開され、今日のマンハッタン島の 景観を形づくる。そのような変遷を見る時、ステヴィンの延長可能なグリッドプランという理想都市案 を参照してみれば、ニューヨーク、そして他のアメリカ都市の計画においてはネーデルランドに始まる 近代都市空間の理念が基盤をなしていたように解釈することもできよう。16世紀に始まるネーデルラ ンドでの新しい都市計画手法は深い根を持っていたのではないかと考えられるのである。 ここではオランダの都市計画技術の波及を主にヨーロッパの北岸に限定したが、インドネシアのバタ ヴィアがステヴィンの理論のもとに計画されたということを含めて、植民都市の建設を通してオランダ の水路を用いた都市計画が世界に及んだことは知られてきている。長崎の出島は特異な扇形の人工島で あるが、そこにもオランダの埠頭技術が生かされていたと考えてよいだろう。なお、やや孤立した事例 であるが、サンクト・ペテルブルクと同時期の18世紀初期に地中海のアドリア海の奥にオーストリア がトリエステを改造して、イエテボリのような入り堀型の中心軸を持つ都市を建設している。 2.5. 結びと今後の課題 16世紀ネーデルランドとドイツにおける理想都市案についての研究を、その影響を含めて幅広く探 求してきたが、これによって16世紀に形成された都市計画理論がかなりの広がりをもって展開され、 その基盤としてグリッドプランに代表される数学的な空間思想が胚胎していたことをある程度明らかに することができた。理想都市案そのものとしては、ここではシュペックリンに言及しただけであるが、 デューラーの理想都市案、またステヴィンの理想都市案については先行研究がある程度あり、ここでの 分析作業は敢えてその周辺に焦点を当てた。研究の過程で多様な新しい関連テーマが浮かび上がり、そ れも含めて分析作業を行ってきたので、個別テーマの深い探求がある程度不満足に終わったところがあ り、今後、今後さらに整理して信頼度の高い研究成果を上げたい。他方で、幅広い全体像の把握という 点では大きな前進があったと考えている。とりわけネーデルランド、またオランダの思想が広大な地域 に影響を及ぼしていたことがある程度は明らかにできたと考えている。 ネーデルランドにおけるグリッドプランによる都市計画手法の発展は、単なる一地域のものではなく、 デカルト的数学に見られる近代的な座標空間の獲得と軌を一にするものであり、その点で、ここで扱っ たテーマは地球規模の普遍性を持ってくるものであると言える。植民都市を通してその理論が現実の空 間として伝播し、地球全体に一つの普遍的な空間システム手法が形成されるきっかけができたものとす ることもできよう。グローバリゼーションという言葉は狭い意味では20世紀後期の経済システムに用 いられているが、地球社会に一体化というものは大航海時代に始まっており、そしてそこに空間理念に おけるグローバル化が始まっていると言える。今日、グローバル化という概念がもたらす功罪が議論さ れてきているわけだが、その問題は16~17世紀にすでに始まっているように思われる。ここでは普 ― 15 ― 遍的なシステムの形成と波及に焦点を当てたが、その背後にはすでに普遍性と地域性、土着性との葛藤 が発生しており、それはグローバルとローカルの避けがたい矛盾を反映するものである。この問題は近 代社会そのものに内在する大テーマであり、今後さらに大きな視野のもとに整理する必要があると考え られる。 本研究の遠い目標である、16世紀という時代における、日本も含めた地球規模の比較都市研究とい う点では、ある程度、日本の城下町計画との比較の目が見えてきているような感触を覚えてきている。 日本とヨーロッパの間に直接的な交流があったかどうかという疑問には、かすかな状況証拠のレベル以 上には進めることができなく、解答の糸口も見出せていない。ネーデルランド系の都市計画理論家が日 本を訪れていたなどとは考えようがないが、16世紀の都市・建築理論書は印刷物として流通しており、 海辺の商館や植民都市を築きながら貿易ネットワークを拡大していた大航海時代のヨーロッパ人たちが、 その船に技術書を携えていたであろうことは想像に難くない。実はシュペックリンの著書には日本の城 郭建築を連想させる図面が見出されたりもするし、その鉄砲と大砲の時代の城塞理論は戦国領主なら喉 から手が出るほど欲しかったものだったはずである。そのような印刷物が日本にもたらされて都市設計 者たる上級の戦国武士が知恵を吸収したと想像することもできなくはない。日本における戦国末期から 安土桃山時代の城下町計画案の詳細な分析から、そのような情報の流れを見出すことができるかもしれ ないと感じられる。あくまでもそれは感触であるが、特にネーデルランド型の水路網都市の手法とこの 時期の日本で始まる水路を持つ城下町の間には偶然とは言い難いほどの類似性が見られことは確かであ る。日本都市史をグローバルな視座において位置付けするという学術的な課題に答えるためにも、この 点はさらに探求の必要があるものと思われる。 なお、本研究に関連して、2008年度日本建築学会大会(中国)において、建築歴史・意匠部門研 究協議会のテーマ「グローバルな視点からの16~17世紀日欧都市比較研究の可能性」を提案し、採 用されて議論をすることができた6。イタリア都市、フランス都市、オランダ植民地、日本城下町の各研 究者の議論を通して、グローバルな視点の取り方の方向性をある程度見出せたのではないかと考えてい る。そこでは具体的な研究成果を詳細に提示する余裕がなかったが、今後、詳細な詰めを行いつつ、分 析成果を提示していきたいと考えている。 6 2008年度 日本建築学会大会(中国)建築歴史・意匠部門研究協議会資料「グローバルな視点からの16~ 17世紀日欧都市比較研究の可能性」、広島大学、2008年9月19日、(司会:伊藤毅、副司会:吉田鋼市、記 録:金行信輔/冨田英夫、主旨説明:杉本俊多、主題解説(講師・パネリスト):福田晴虔、中島智章、山田協太、 宮本雅明、まとめ:陣内秀信) ― 16 ―