Page 1 Page 2 Cuーturaー hist。ry 。f the beriberi ーThe anaーysiS
by user
Comments
Transcript
Page 1 Page 2 Cuーturaー hist。ry 。f the beriberi ーThe anaーysiS
明 治大 学人 文 科学 研究 所 紀要 、 第五 十四 冊 (二 〇 〇四 年三 月三 十一 日 ) 脚 気の 文 化 史 縦 四 十 五 一五 十 七 頁 啄 木 詩 ﹁ 夏の 街の 恐 怖 ﹂ を 分 析しつ つ 池 田 功 ■ . Abstract Culturalhistoryoftheberiberi TheofIshikawaTakuboku's analysispoetry ``Fearofthetowninsummer" 璽 IKEDAIsao clearedthe Inthisthesis,Iresearchedtheillnessoftheberiberifromtheancienttimes.Then,1 Oh matterwhetherthatillnesswasbeingdrawnintheliterarywork.Ontheotherhand,beriberi writteninJapansincetheninthcenturythoughithasbeenwritteninChinasincetheseventt asbeen century. 1868,and Tuberculosisandberlberiweresaidas2bigpeoplesicknessaftertheMeijiPeriodin thepeoplewereafraidofthat.Meijlgovernmentinvestigatedasickcause.Statisticsonthe deadde一 ceasedpersonfrom188Cwiththeberiberiweresllownprecisely.About10000people everyyear passedaway,andthereweremorementhanwomenanditpassedawayabundantlyagain insummer accordingtothesestatistics. IshikawaTakubokuwrotethepoetryof"iiearofthetowninsummer"in1909.Inpartthreeof theycould thispoetry,thereisapartyof``theberiberipatientwasburied,thepeoplewerel壼ningup, deadpeople saynothingtofearinsummer".Ipointedoutthatthebackgroundofthispoetryhadmany beriberi. withtheberiberi.Then,IfoundthatTakubokuandhisfamilywere.alsosufferingfromthe . Furthermore,Icheckedthatberiberigettingsickabundantlyinsummeranditseemstobe asudden death.Ipointedoutthattherealityofthisworkwasdeepenedal]themoreasthatresult, toO. 「 「 一46一 究 ︾ ︽個人 研 啄 木 詩 ﹁ 夏 の 街の 恐 怖 ﹂ を 分 析 しつ つ 脚 気の 文化 史 はじ めに かど いつ 次 の よ う に 始 まっ て い る。 石 川 啄 木が ﹁ こ こ ろ の 姿 の 研 究﹂ (﹁ 東 京 毎 日 新 聞﹂ 明 42 年12 月 12 日 、 ∼ 20 日 ) と 題 し て 発 表 し た 連 作 詩 の (一) は ﹁ 夏 の 街 の 恐 怖﹂ と い 、 う 作 品 で あ る。 こ の 三 連め は り がさ かうも 、 れた 騙蟷 傘 を さ しか けて 門を出れば をかもち 、 病 身の氷屋 の女 房が 岡 持を持 ち 骨折 、 横 町 の 下 宿か ら 出て 進 み 来 る 。 患者 の 葬りの 列 かっ け くわ ん しゃ 夏の 恐怖に 物も言は ぬ 脚気 、 四 行 目に ﹁ 脚 気 患 者 の 葬り の 列﹂ とい う 脚 気 に よっ て 亡 く なっ た 。 人 の 葬 列が 描か れ て い る ー ェ し、 天 然 痘 の 予 防 が 可 能に な ンナ 一七九六年にジ が を 見 種 痘 発 、 つ た こ と が 象徴 的 な 出 来 事 な の で あ る が 病 の 中 に は 医 学 の 進 歩に 伴 っ て 征 服さ れ た も の が 数 多 く 存 在 す る。 ハ ン セ ソ 病 は一 九 四三 年に ア 、 、 メ リ カ で プロ ミ ンが 開 発 さ れ ま た 結核 は 一 九 四 四 年 に ア メ リ カ 人 池 田 功 私 達に とっ て 、 っ く うこと もう た な のな 感を 全 既 に こ 脚気は 什 恐怖 おい の時代 、 。 っ またそれ以 て う よう においてど の か たのだろ であ な 時代 前 病 、 ワッ ク スマ ン に よ り ス ト レ プ トマ イ シ ン が 発 見 さ れ て そ れ ぞ れ 著 し 。 、 い 効 果 に よ り 治 る 病 と なっ た 最 近 の 日 本 で 結 核 と 脚 気 は 食生 活 や ( 注1) 、 衛 生 状 態 の 問 題 で ま た 少 し ずつ 増え てい る 病 で あ る とい う 報 告が な 。 、 さ れ て い る し か し 現 代 の 私 達に とっ て 気 は 既 に 全 く 恐 怖 感を 伴 脚 う こ と の な い 病 と 言っ て も 過 言 で は な い で あ ろ う。 そ れ 故 に、 啄 木 の 、 詩 の 中 の ﹁ 夏 の 街 の 恐 怖﹂ を 形 作 る一 つ の 要 素と し て 脚 気が 象 徴 的 駒 こ の 作品を 解釈し てみた 。 っ ている い 之思 に 描 か れ て い る こ と が な か な か 理 解 し に く い の で あ る。 、 本稿では そのこ とを 検証するこ と を通して 1 ( 注2) 、 脚 気 の 症 状 で あ る が ﹃ 健 康 医 療 大 百 科 M E D 董 C A l﹄ に よ れ 、 。 ば 四つ の 型 に 分 類 で きる とい う ま ず 最 初は ﹁ 普 通 型 ま た は 軽症 ﹂ 、 、 、 、 、 で ﹁ 徐々 に 起こ り 下 肢 の 倦 怠 重 感 脱 力 感 足 お よ び 下 腿 に む 、 、 ず む ず 感 し び れ 感 な ど の 知 覚異 常 と 知 覚 の 鈍麻 膝 関節がぐ らぐら 47 一 ﹁ 、 呼 吸 困 難が あ ら わ れ 。 脈 は 頻 脈 と な る﹂ と い う. 二 番 目 は 、 、 す る 弛 緩 感 歩 行の 疲 労 など で 始 ま るこ と が 多い﹂ とい う そ し て 進 、 、 行ず る と ﹁ 知 覚 神 経 運 動 神 経 自 律 神 経 すべ て が 侵 さ れ る 多 発 性 神 、 、 。 経 炎 のた め 知 覚 障 害に 並 行 し て 運 動 障 害が 進 み 歩 行 困 難 と な る 、 心悸 ⊥几 進 、 型 ま た は 水 腫 性﹂ で ﹁ 浮 、 腫が主徴で 、 、 ﹁ 萎 縮 型ま た は 乾 性﹂ で ﹁ 運 動 障害 が 増 悪 し 起 立 も 歩 行 も 不 能﹂ と 、 、 、 な り 重 症 にな る と ﹁ 上 肢筋 躯 幹筋 も 麻 痺 し 足 も 手 も 動 かせ な く 。 な る﹂ と い う 三 番 目 は ﹁ 浮腫 。 シ ノ ケ 又 は カ ク ビ ョ ウ の 名﹂ で 記 さ れ て い る 、 さ う そ く す る 事 の く る し け れ ば な ん﹂ と あ り ﹁ 源 氏 、 、 さ て こ の 物 語 草 子 に 記 さ れ てい る も の を 具 体 的 に 少 し 記 して み 、 。 。 た い ﹁ 落 窪 物 語﹂ ( 作 者 不 詳 一 〇 世 紀 末 の 成 立 と 考 え ら れ てい る 、 、 全四巻 ) 第三 巻 に ﹁け ふ だ に と む らひ に 物 せ ん と 思 ひつ れ と も 脚 、 、 、 の 気 おこ り て 、 、 、 物 語﹂ ( 紫 式 部 作 五 四 巻 一 一 世 紀 初 め 成 立 ) の 夕 顔 巻で は ﹁ 心 ち 、 のい み じ う な やま し きか な や か て な を らぬ さま に も な り なは い と め 、 か 、 発 動 無レ 期 、 此病 歳積 云 云﹄ と あ る を 、 全三 巻 ) 、 、 で も ﹁ 病は む ね の け 、 、 、 、 。 あ し の け﹂ と あ る 、 、 、 、 、 さらに ﹁源 、 名 前こ そ 、 カッ ケ と 読 む よ う に なっ た の を 記 録 か ら 確 認 で き る の は 、 、 、 、 、 、 。 る し か な い ので あ る B 1 は ﹁ ぬか 大豆 落 花 生 レバ ー 卵黄 、 、 。 、 、 しらこ つ まり ﹁穀類の胚 芽 魚卵 豚 肉﹂ な ど に 含 ま れ て い る 。 ン B 豆 の 欠 乏に よっ て 起 き る 栄 養 障 害で ある こ とが 分かっ て い る ビ 、 、 タ ミ ソ と は ﹁ 生 体の 代 謝 の 必 要 な 微 量 の 有 機化 合 物 で 体内 で は 必 (注4 ) 。 要な だ けっ くる こ と が で き ない も のを﹂ い う つ ま り 外 部か ら 摂 取 す 、 江 戸 時 代の 享 保七 年 (一 七二 二 年 ) に 記 さ れた 寺 島 良 安 ﹁ 済 世 宝﹂ 。 う ると い の中であ 。 そ れ で は こ の 脚 気 の 原 因 は 何で あっ たの だ ろ うか 現 在で はビ タ ミ 。 で あっ た 、 、 異な る に し て も 脚 気は 数 多く 記 され て い た ので あ り こ の 時 代 の 人 。 達 を 悩 ませ てい た 病で あ るこ と が 理 解で き る . 、 医 書の ﹃ 医 方 は 気と い う 呼 を 使っ てい た が 物 語な ど で 学 心 ﹄ 脚 称 、 ョ は ﹁ 脚の 気﹂ や ﹁ 脚 病 ﹂ の 音 読 で ある カ クビ ウ など が 使 わ れ た の 、 、 。 ﹁ 宇 津 保 物 語﹂ ( 作 者 不 詳 一 〇 世 紀 後 半 の 成 立と 思 わ れて い る 全二 、 、 、 、 、 、 、 、 、 ○巻 ) 嵯 峨 院 巻で は ﹁ひ ご ろ は み だ れ あ し の け に や 侍 ら ん さ ら に 、 、 ふ みた て 侍 ら ず﹂ で あ り ﹁ 枕 草 子﹂ ( 清 少 納 言 作 一 〇 世 紀 末 に 成 立 、 も 、 、 、 あ し の け の の ほ り た る 心 ち す とL 云々 と あ り 、 。 ま ず 下 肢に 始ま り つ い で 全 身 に 波 及 す る﹂ も の で あ る そ し て 最後 、 、 は ﹁ 衝 心 型 ま た は 急 性 悪性﹂ で ﹁ 急 性心 不 全 を きた す 激 症 型で 多 、 、 。 く は 普 通 型 浮 腫 型に 続 発 し 急 性 また は亜 急 性 に 経 過 す る 強い 呼 、 、 、 、 、 、 吸困 難 心 悸 先 進 胸 内 苦 悶 高 度 倦 怠 食 欲 喪 失 悪 心 嘔吐 な ど 、 、 、 . を 示 す が 意 識は 明 瞭で 輪 転 反 側 し て 苦 し﹂ み ﹁ 定 型 的な 衝 心 で 氏 物 語﹂ 若 菜 下 巻 では ﹁は る の 此よ り 例 も わ ず らひ 侍る み だ りか く び 、 復 患二 脚 気一 、 や すか りぬへ くこ そ 。 は 数 日 以 内に 死亡 す る ﹂ とい う こ れ ら の四 つ の 型 は入 り 交 じっ て 発 。 や う と い ふ も の 所 せ く お こ り わ づ ら ひ 侍 り て﹂ 云々 と あ る 大 、 同 年)十 月 申 の に﹃臣 未 レ 三年(西暦八0八 二 戊 藤原緒嗣 上書 生年 。 症す るこ と も 多い とい う 、 眼精稽暗 、 、 こ のこ と か ら 脚 気は そ の 病 名に なっ た よ うに ま ず 足 な ど の 下 肢 、 の 神 経が 麻 痺し 歩 行 困 難 と なっ て ゆく とこ ろ が ら 始 ま り 浮 腫 な ど が 、 、 起こ り 心 悸 ⊥八 進 な ど の 循 環 器 系が 冒 さ れ 重 症 に な る とい わ ゆる 、 ﹁ 脚 気 衝 心﹂ と 呼 ば れ る 心 臓 機 能 が 低 下 し 死 亡 に 至 る 病 で ある こ と 。 が 理 解で き る 。 こ の よ う な 脚 気の 歴 史 は 古く か ら 記 され て い る 富 士 川 游 の ﹁ 脚 気 ( 注 3) 、 、 病の 歴 史﹂ に よ れ ば 中 国 で は ﹁ 晴 の 大 業六 年 (六 〇一 年 ) に 単元 、 、 方 等 が 勅 を 奉じ て 選 び た る と こ ろ の 病 源 候 論 ﹂ の ﹁其第八巻に 脚 。 、 気の一 門を 掲げ﹂ て い る とい う 一 方 日 本に おい て は 二 〇 〇 年 程 遅 、 、 れ て ﹁ 脚 気 の 文 字 の 我 邦 の 記 録 に 見え た る は 日 本 後 紀 平 城 天 皇 、 幾 、 。 以 て 始と す﹂ と い う た だ し 表 記 につ い て は 物 語 や 草 子 類 に は ﹁ ア 一 48 一 ワ.P ⋮ 頒 捲 怖 恐 勧 助 副 木 脚 ↓ 史 難 動 、 、 、 酵 母 肝 臓 豚 肉 豆 類﹂ な ど で あ る。 白 米 に は B l は 含 ま れ て い な 、 、 、 い た め 白 米を 主 食 に し 副 食 で B l を 補 給 し な い と 脚 気 に な り B 1 を 補 給 す れ ば 治 る 病で あ る。 ( 注5) 、 山 下 政三 ﹃ 脚 気 の 歴 史 ービ タ ミ ン 発 見 以 前1 ﹄ に は ﹁ わ が 国 の 脚 、 、 気の 起源と 室町 時代まで の 脚 気 L ﹁ 江 戸 時 代 の 脚 気﹂ な ど が 資料 に 、 、 か く 記 さ れ て い て 時 代や 階 級 の 栄 養状 態 に よ り 脚 気 基づ い て 事細 、 、 摂 政 関 白か ら 白 米 食と 貧 弱 な 副 食 で あっ た た め 脚気 。 、 められているつ が よう き ﹁ 認 平安時代では にな たす 気は流行を 脚 、 下 は一 般 公 卿に 至 る ま で は な は だ が 発 生 し た り し な かっ た り す る 歴 史 を 具 体 的 に 理 解 す る こ と が で き 。 、 る 奈良 時 代の 上 層 階 級 で は 、 。 た 上は 天皇 、 多数の 患者を 発生し﹂ た が その 原因は ﹁広 範な 自米 食の普 及とビ タ 、 ミ ン に 乏 し い 貧 弱 な 副 食に﹂ よっ て い た。 し か し ﹁ 白 米 食 に あ りつ 、 、 け ぬ 中 下 層の 階 級 に お い て は 脚 気 の 危 険 は 全 く な かっ た﹂ と も 記 。 、 さ り れている では によ ﹁ 鎌倉時代 武家の台頭 朝廷 公卿の収入が 、 じ し 減 が 必然的に た 質実化 食生活 め ﹂ 天皇 上位の公卿以外で 、 は し ﹁ に と 脚気は減少 武家 おいては 米を主 する 玄 粗食(二食)が 、 ・ 守ら れ た た め. 気の は ほと ん ど ら な かっ た と い う。 脚 発 症 み れ ﹂ 室 町 、 ﹁ ら と う 時代の応仁の乱以 は 天 白 においてす を こ が困 後 皇家 米食 行 。 難 に なっ た 名 門 の 公 卿 な ど も 麦 を 維持 飯 食 を 行 わ ざ る を 得 な い 状 態 と なっ 、 。 っ 目 う と し た﹂ため い た て減少 立 脚気は ﹁ においては 公卿 武家 、 、 化した 将 軍 重 臣の一 部 に少 数の 脚気が 認め られたが 玄 米食 な さ 中 に 相 次い で 衝 心 に よっ て 発L し た一 般 武家 で は 脚 気 の 発 症 は 見 ら れ な かL っ た の で あっ た。 、 豊 か に な り 白 米が 食べ ら れ る よ う に なっ た 江 戸 時代 に な る と 上 か ら 下 ま で 脚気 が 大 流 行 し た。 三 代将 軍 家光 が ﹁ 脚 気 に 罹 患 し、 衝 心 死 、 、 と 推定 さ れ る 急 死﹂ を 遂 げ =二 代 家 宝 一 四 代 家 茂 も ﹁ 脚 気 を わ ず 。 れた らい、 風 雲急 そ し て一 般 武 、 ∼ も 士 町人において 一七〇四)に江戸で大流行 元禄年間(一六八八 し、 ﹁ 江 戸 煩い﹂ と 言わ れ た。 文 化 年 間 (一 八 〇 四 ∼一 入一 八 年) に 、 。 は 大 坂 で 流 行 し ﹁ 大 坂 腫 れ﹂ な ど と 呼 ば れ た と い う こ の 頃 京 都 で も 劇 症 脚気 が 流 行し、 数日 で 亡 く なっ て し まっ た の で ﹁三 日 坊﹂ と 恐 (注 6 > 。 、 れ ら れ た と い う もっ と も 立 川 昭二 ﹃ 江 戸 病 草 紙﹄ に よ れ ば 単 に 精 、 、 米 された 白 米食だ けの 問題で は なく ﹁海 運がひ らけ 湿気を 含む 奥 、 羽 米や 越 後 米 が 江 戸・ 大 坂 に 回 送 さ れ 長い 航 海 中 に 風 雨 に さ ら さ れ 、 。 た う え 不 完 全 な 倉 庫 に 長 期 間 貯 蔵 さ れ た こ と ま た 備 荒 策と し て 越 岡 崎 桂一 郎﹃ 日 本 米食 、 し こと 年 貯蔵さ れた 古米 あるい はカビ を に ﹁目 方 米 庶 民 提 供 た ﹂ や 、 り を ま に こと し き ふやすため いた 水を 米 が た ﹁ 気発 ﹂ 脚 生の引 金﹂ 。 史﹄ を 引 用 し な が ら 指 摘 し て い る 、 に なづ た と と にかく 江戸 時代は 今までに なかっ た ほど の規 模で 脚気が 流行し たの O O O 然也 O O 文 、 ∼ 九八巻一.〇 化一一年 天保一二年 冊)の 第九号巻之九(天保六年 六 し く 旨とし ﹁ に す貞 て を 義成 一八三五年)第一〇八回 謁 行主 寛 刑 仁 こ 阿 子がい ふご ハタラ く 起檸 この O 人 に 便 るL 苦 辛を 悟 ら ず O と脚 O の 街 の 恐 怖﹂ り 救ひが たきに 至るも のあ ﹂ 口 には 美食を 毎とし て 際 快に 頷 き て 。 、 で あっ た た だ し 正 確 な 統 計 が ない た め に ど の く らい の 患 者 が い て ど の く ら い の 人 が 亡 く なっ た の か よ く 分 かっ て い な い。 、 、 においては 沢 馬 琴 作 ﹁ 江戸時代の 文学作品 里見八犬伝﹂(滝 、 て 克 己 を 奏 す﹂ の 段 に ﹁ 義 成 O 安 坐 の み し て 人 を 使へ ば とく (中 略 ) 且 身には 美服を 襲ね ともな く O 故 に 多 く は 脚 気 の 病 癖を 生 し て 。 気のこ とが 記されてい る 2 こ の よ う な 脚 気 の 歴 史 で ある が、 そ れ で は 啄 木が ﹁ 夏 7 を 書 い た 明 治 時 代 は ど う で あっ た の だ ろ うか。 明 治 時 代 に な る と 都 市 (控 V 、 人口の 急激な 増大と 横山 源之助の ﹃日 本の 下層 社会 ﹄ 等に 記され て ・ 一 497 、 い る 貧困 層 の 増大 に よっ て 。 で あっ た 栄 養の 低 下な ど に よ る 病が 多く 見 られ る 。 、 っ もう ように る も な た が であ 結 のは その代表的な 気 一つは 核 肺 脚 こ の二 つ は 国 民 病と 呼 ば れ 富 国 強兵 を 推 し 進め てい た 明 治 、 。 とっ っ と に き し る 国家 た であ わめて深 て がかか い兵隊 若 刻 病 達 、 、 さ ら に 明 治 天 皇 皇 后 も 脚 気に 冒され 静 寛院 宮 親 子 内 親王 は 脚 気に 。 り し っ く る 転 た てい な 養先で亡 静 地 、 調 査が 行わ れ その 病の 激 しさ が 。 っ し る ぐ と 具体的な されてい をめ その て 海軍 数字 残 対策 陸軍 を 征 服す るこ とが で き た とい うド 内 。 っ も ラ あ マ た 、 調 査に は ど のく ら い の 患 者と 死 亡 者が 記さ れ 、 起こ り 海 軍で は 脚気 ま た 明 治 時 代に な ると 正 確な 統計 の 間で 論 争 が そ れ で は正 確な 統計 、 。 て い た の で あ ろ う か こ の 正 確 な 統 計 調 査 は 一 八 九 九 年 ( 明 32) 、 閣 計 局が 行っ た 人 口 動 態 統計 の 調 査か らで あ り それ 以 前 は 不正 確 統 (注8 ) 、 。 な 統計 資 料し か ない 山 下 政三 ﹃明 治 期に お ける 脚 気の 歴 史﹄ に 、 脚 気 統計﹂ が 載せ ら れ てい るが 一 八八 0 年 ( 明B ) か ら の ﹁東 京府 、 ただ 、 衛生 局の 調 査 を み る と 患者 、 数はともかく 北は北海 。 ﹁ 実 体は き わ め て 不 正 確な も の で あっ た﹂ と 記 し てい る そ れ 以 外に 、 も﹁ 衛 生局年報 ﹂ の ﹁ 脚 気 患者 全 国 調 査 ﹂ 等 が 一 八 七 九 年 ( 明12 ) 。 か ら 載 せ られ てい る が ほと ん ど 信用 で き ない 数 字で ある とい う 山 下 、 、 氏は ﹁ 明 治初 期の 脚気 統 計 調 査な る も の は き わ め て 不 完全 な も の 、 。 で あり 統 計な ど と 呼べ る 代物 で は な かっ た ( 中 略 ) それらの数値 。 を 盲 目 的に 信 頼し 安 易に 利用 す るこ と は 厳に 避け な け れ ば な らない (中 略 ) 、 調 査か ら の 肺 結 核と 脚 気 。 道か ら 南は 九 州ま で 全 国 諸 県で 脚気 患 者が 報 告さ れ てい る 明 治と と 、 も に 脚 気の 流行 が 地 方 深く ま で 浸透 し たこ と を 知るこ と が で きる﹂ 。 と 記し てい る で き る 内 閣 統計 局 の 人口 動態 以下に信 頼 。 の 全 国 死亡 者 総計 を 表に し て おこ う 気 脚 賊 肺 一 男女 欄 一 8・ } 。 ⋮ ㎜ ㎜ 蟷 ㎜ ㈱ 蜥 ㎜ 隔 ㎜ 鮒 ⋮ 麗 器 器㌶ 懲 蜷繍 器盤 擶耀 懸翻 泓 32 33 繍 脳 π ・ ⋮ 34 ㌧ ㎜ 35 36 37 38 39 40 41 42 44 虚 5群 か ら 様々 なご 43 ⋮ ⋮ ㎜ 躍 欄 ㎜ ㎜ 酬 ㈱ ⋮ 脚 ㎜ 蹴 90 3 3 3 彌 粥 雌器 欝 瀦 灘 魏 辮 灘 纒 灘 灘 欄 締 ㎜ 男女 繍'} 瀞 明 、 こ の 統 計 表及 び こ の 調 査に 記 され た そ の 他の 統 計等 、 、 そ の 他の 腸 チ フス やマ ラ リ ア コ レ ラ 。 たとい うこ とが 言 え る ので ある 、 の 中で の死 性の 方が 多く亡 く なっ てい 、 こ の 統計 表に は 示 さ れて い ない の で ある が 内 閣 統 計 局 臨時 (注9 ) 、 こ れ に よ れ ば 一 五 歳 か ら三 五 歳 ま での 青 年男 ﹁ 二村 死亡総 齢 ▲各 数 級 年 刊行 亡 率 は か な り 高 い の に 対 し 脚 気の 死亡 率は 通 常一 ∼二 %で あっ た 、 患 者 数か ら 言え ば 肺 結 核よ り も 脚 気の 方 がは る か に 多かっ 、 から 、 こ こ に は 死亡 者 数し か 載せ て ない が 山 下氏 に よ れば 肺 結核 。 る 、 の で あ る が 脚 気に 関し て は二 ∼三 倍男 、 男 女 差で あ るが 肺結 核 の 場 合は ほ と んど 差 は ない と 考え ら れる 。 な ど よ り も は る か に 多い た だ し 赤 痢に 関 して は 明 治三 二 年∼三 四 、 。 年ま で は 脚気 よ り も 多 く なっ て い る 、 こ こ には 載せ て ない の だ が 、 。 肺 結 核の 方が 明 らか に 多い が そ の 次 が 脚 気に よ る 死亡 で ある と を 読 み と る こ と が で き る。 1 2 3 4 、 が あり の ﹃ 分 量 的二 観 察シ タル 脚 気﹄ 脚気 死 者﹂ } 50 ︻ " し 析 分 捧 怖 恐 の 街 蜘 謝 木 啄 史 化 文 脚 駒 子 が 圧 倒 的に 多 く 亡 く なっ てい る こ と が わ か る。 よ う な 対 策 を 行っ た ど よう こ は 況の中で明治 な の それでは 政府 状 。 、 の で あ ろ う か ま ず一 八 七 七 年 ( 明 10) 一 二 月 に 脚 気 対 策 の 病 院 を 相撲 ﹂ 、 。 し 翌 年七 月に 本郷に 脚気 病 院を設立 してい る 医とを 置い て 治療 効果を 競わせ た ので ﹁ 漢洋 脚 気 設立 するこ とを 提案 漢方 医と 洋方 、 。 に 注目す る そ の結 果 士 官に は 脚気 生活 、 と 呼 ば れ た とい う。 し か し こ の 病 院が 大 き な 成 果を 上 げ た と い うこ 、 と は な かっ た。 成 果 を 上 げ た の は 後に 海 軍 軍 医 総 監 と なっ た 高 木 兼 ( 注10) 。 、 、 寛 が 主 導 し た 海 軍 で あっ た 高 木 は 海 軍 軍 医 と し て 一 八 七 四 年 ( 西洋 明8)∼ リ ス 一八八○年(明13)までイ 帰国 への留学を行い ギ 後 状況と の 関係 、 ・い う 疑 問 を 持 ち、 に は 脚 気 は ない の に 日 本 に 多い の は 何 故 か と 環境と 脚気 の 発生 、 患者が 少な く りゅ うじ ﹂う 、 水 兵さらに 囚人に は多く 発生 する のは 食事 つ ま り 栄 。 す る そ し て一 八 八 三 年 ( 明 16) 九 月 養 状 態 が 悪 い か ら で あ る と 推論 一 五 日 に 二 七二 日 間 の 練 習 航 海 か ら 帰 国 し た 軍 艦 ﹁ 龍躾 ﹂ の三 七 六 人 、 う 目し と し ち の に たこ 亡 が 発生 脚気 一六九人 注 死 二五人 、 ー う を じ と と日 ﹁筑 軍 行 翌年練習航海 コ ほぼ同 ﹁ ス 波﹂ 艦 龍駿﹂ 、 。 っ し る に 中 ンや肉や を その 程 た 行 実験 す 心の洋食 野菜 パ 兵食 に 反 対 し パ ソ な ど を 食べ な かっ た も 、 結果三 三三 人の うち 脚気の 発生 老は一 四 人で 死亡 した のは ○ 名であ 洋食 であ るとい う結 果は 明らか はま だビ タミ ンBl の 存 在を突 は 栄 養に よ る 障害 つ た。 こ の 脚 気 の 発 生 者 も、 。 ので あっ たとい う 脚 気 。 、 で あっ た し か し こ の 段 階 で は 高木 、 き 止 め た わ け で は な く、 あ く ま で 栄 養 と い う 点 に あ り 白 米と タ ク ア 、 、 ン と い う 食 事を 改 め タ ンパ ク 質 や 麦 野菜 を 多 く と る 食 事療 法 を 主 。 眼 に し て い た の で あっ た 海 軍 で は一 八 八 五 年 ( 明 18) か ら 改 善食 と 、 、 し て 麦 飯 を 採 用 し そ の 結 果 脚 気 が 激減 し て い っ た。 し か し 陸 軍で ただのり 、 は 石 黒 忠 感 が 脚 気 は 空 気 感 染に よっ て 起 こ る と い う 主 張 を し 麦 飯に 35 が た ま さ のり 。 、 反 対 し た 一 八 八 五 年 ( 明 ㎎) に 東 大 医 学 部 教 授 の 緒 方 正 規 が ﹁ 脚 、 気 病菌 ﹂ を 発見 したとい う発 表まで 行い 東 京大学 医学部 教 授の 青 。 胤 通らもそ れ らを 支持した ドイツ から 帰 国し た 陸軍 軍医 の森 林太 たねみち 。 造が 見えて くる で は 結 果 は 明 ら か で あっ た。 気 脚 山 郎 、 (鴎外 ) も ﹁ 日 本 兵 食 論 大 意﹂ (明 18・ 10) で ﹁ 米 を 主 食 と し た る 日 、 、 、 本 食 は 人 体 を 養い 心 力 体力を 活 発なら しむこ と い さ さか も 西洋 、 海軍と 対立 する 陸軍と その 大 学医 学部とい う 構 。 食 に 劣 る こ と な し﹂ と 麦 飯に 反 対 し た 背 後に ある 東京 、 し か し 日 清 戦 争 ( 明27・ 28) 対 、 とし い を て た海軍では 進めて 糧食改革 策 脚気患者は三四名で 死亡 、 し 白 に っ.た さ 対 の では いていた を 米食の優秀 であ は 陸軍 説 ○名 者 、 。 脚気 患 者は三 四 七八三 名で 死亡 者は三 八 四四 人で あっ た 結果 は歴 、 。 、 然 と し て お り 明 白で あっ た 農家 の 貧 し い 子 弟 は 隊 に 入っ て 初 軍 、 め て 白 米 を 腹一 杯 食べ る こ と が で き た と い う 現 実 が あ り 陸 軍で は な か な か 変 更 で き な かっ た と い う 由 も あっ た。 た だ し 各 で 理 師 団 は 上 層 、 。 っ し 々 う と 部に反 に 麦飯を徐 い た めてい 広 。 ・ 日 っ と も 露戦争(明37・38)では 果は で 結 悲惨 あ た 海軍 の脚気 、 る し 患者は八七人 のに 死者は玉名であ では 対 陸軍 患者は三一万 、 。 っと っ く 人 た 死者は五七一一人であ 資 てはも によ てい な 料 多 。 、 る 政 府 は 一 九 〇 八 年 ( 明 41) 森林 太 郎 を 会 長 と す る 臨 時 脚気 調 査 、 会を つ くっ た が 二 〇 人 の メ ンバ ー の 多 く は 陸 軍 と 東 大 医 学 部 で 占 め ら れ て い た。 、 一 九一 〇 年( 明43) 鈴 木 梅 太 郎が ぬ か の 中 の 脚 気 予 防 因 子 を 純 化 し 。 オ リ ザニ ソ と 命 名 し た つ ま り ビ タ ミ ン B 重 の 抽 出に 成 功 し た の で あ つ た。 翌 年 ポ ーラ ン ドの フγ ク は 米ぬ か か ら 國じ よ う に 抽 出に 成 功 、 し 一 九一 二 年 ( 明45) 二 月 に ビ タ ミ ン と 命 名 し 世 界 に そ の 学 説 を 公 。 、 表 し た 一 九二 三 年 ( 大 13) 臨 時 気 脚 調 査 会は ﹁ 気 脚 は ビ タミ ンB 。 と さ う こる し を 欠乏 れた 止 て を出 い てお 主因 廃 結論 ﹂ 一 7 51 3 しか しこ 堂は一 八 九 、 前 章で 海 軍 に よ る 糧 食 改 革に よ る 脚 気 の 予 防 根 絶 に も か か わ ら 、 ず 陸 軍の 誤っ た 政 策に よ り 甚大 な 被 害 を 出 してい た 実 態を 具 体 的に 。 記した 。 法 を 行っ てい た 資 生 ( 注11) 。 に 脚 気 の 薬 と し て ﹁ 脚 気 丸﹂ を 発 売 し て い る 、 とこ ろで一 般 庶民 は 薬 や 民 間療 三 年 ( 明 26) 、 の よ う な 薬を 買 うこ と ので きな かっ た 人々 は ﹁ 毎 朝 早く 起 きて 朝 露 、 に ぬ れ た 土 の上 を 裸足 で 歩 くと い うの が 一 般に 信じ ら れ てい る 治 療 を に 置い た 美しい 露 、 、 、 タ 煎じ て 飲 む と か 法﹂ で あ り ﹁ ア ザ ミ の 根 や ウ ド の 茎 を 刻 ん で 、 。 そ して こ れ は ビ タミ ンB ニ シ を 煮 て 食べ る と い う 方 法 も﹂ あっ た ハ 注12) 1 を 含 む 栄 養 素 と し て ﹁ 理 に か なっ て﹂ い た の で あっ た。 こ の よ う な 、 。 こ と は こ と わ さ に も なっ て い る ﹁ 脚 気 は 朝露 を 踏 め﹂ で あ り ﹁ 脚 気 、 。 に か かっ た ら 特 効 薬は ない 朝 早 く 起き て 草 葉 。 踏 めば よい とい う も の 農 村か ら 江 戸へ 出て 丁 稚奉 公 など を し てい る 、 、 と こ れ ま で の 雑穀 本 位の 食生 活 から 白 米 中心 に 変わり 脚 気に か か 、 。 る 者 が 多 かっ た ﹃ 脚 気は 郷里 の土 を 踏 め﹄ と い うこ と わ さ は い ま ︹ 注 13) 。 一 度 麦 飯 の生 活に 返 ると い う 点で 理 に か なっ てい る ﹂ と 記さ れ てい 。 る 、 こ れ ら は あく ま で 民 間 療 法で あり そ れが 医 学 的に 認 知 さ れて い た 、 。 わ け で は なかっ た そ の た めに ビ タミ ン が 発 見 され 臨 時 脚 気 調 査 会 、 。 が 結 果を 発 表 す る 頃ま で 脚 気 の 死亡 率は 下 が るこ と は な かっ た 正 。 をピ ー ク に 脚 気死 亡 率 は 次 第に 減 少し て ゆ くの で あっ た 、 は 脚 、 確 に 言 う と 前 年 の一 九一 コニ 年( 大 12) に 脚 気 死 亡 者 は 二 六 九 七 六 人 で こ の年 ∼ 啄 木 の 生 涯 で あ る一 八 八 六 年 ( 明 19) 一 九 =一 年 ( 明 45) 。 気 によ る 死亡 者 が ど んど ん 増え ていっ た 時 代で あっ た 実際 に 啄 木 の 自 啄木身 身と 家族 が 脚 気に なっ てい るこ と が 何度 か記され 、 が 脚 気 で あ る と 記 し て い る の は 一 九 〇 五 年( 明 38) 、 自 全 集 の 中に 啄 木 。 てい る 、 、 一 月 七 日 金 田一 京 助 宛 書 簡の ﹁ 小生 先 月 何と な く 不 健 康 そ れ は 脚 の不 日頃 、 。 ﹂ で あ る 啄 木は一 九 〇 四 年 気 の 前 後 なり し 事 今に 至 り て 解 り 申 候 、 ( 明37 ) 一 〇 月三一 日 詩 集 刊 行 のた め に上 京 し 本 郷 や 駿 河 台に 下 宿 、 。 し = 月二 八 日か ら は 牛込 に 下 宿 し てい る つ ま り 慣れ ない 東京 暮 、 。 らし して い た 時 で あっ た こ の 頃 の 日 記は 残っ てい か なり で 疲 労 期 、 。 っ る ている ﹁昨 になやんで初更寝に 夜頭痛 ないのであ が 書簡 残 、 就 き﹂ ( 12 月 - 日・ 小 沢 恒一 宛) ﹁ 身 世 の 句々 に 労 れ て ( 中 略) 体 の 頭 痛 伸々 に は げ し う てし ( 12 月 15 日・ 前 田 儀 作 宛) な ど と 身 、 。 調を 訴 え て い る こ こ で は 頭 痛 が 中心 で あ り 脚 気 特 有の 症 状 で あ 、 、 、 る 脚な ど の 下 肢 の 神経 の 麻 痺や 浮腫 心 悸 先 進とい うよ うな 心 臓 。 、 し と ど しかし ﹁ の低 は記されてはいない な 記 脚気の前徴﹂ 機能 下 、 て い る の を 見 る と そ れ な り の 自 覚 症 状が あっ た ので あ ろ う と 思わ れ 。 る 、 札 幌へ そし て 九 月二 七 日 か ら 小 樽 啄 、 日 を こ で の に 連 の妹の光子 は 状態 一家離散 の五月四 三歳年下 年 木 。 啄 木 の 家 族 が 脚気 と 記 さ れ てい る 文 章 も 三 カ 所 あ る 一 九 〇 七 年 、 書 簡に ﹁ 妹を 札 幌の 鉄道 管理 局へ 宛 (明40) 一 二 月 =二 日 宮 崎 大四 郎 、 函館 。 層 奉 職 させ た 所がマ タ 今 日 脚気 に なっ て 帰っ て 来た﹂ と 記し てい る 。 れ て 北 海 道 に 渡っ て い る 、 。 に 住 ん でい た こ の 文 面か ら は 妹が 脚気 に なっ てい て 仕 事を 辞め て 。 い るこ と が わか る 仕事 を 辞 める く らい で ある か ら 医 者 の 診 断が あっ 母 子 共に 何と な く 健 康 佳 、 。 ただし 光 子 自 身 は一 九 六 八 年 ( 昭 43) に 入一 歳 た も の と 思 わ れる 。 ま た一 九一 〇 年 ( 明 43) 一 〇 月 二 で 長 寿 を 全 う し て 亡 く なっ て い る 、 後 五 日 加 藤正 宛 書 簡 で ﹁ 大 学 病 院 よ り 退 院 を の ませ るこ と を 禁じ ら 良な らず 医 者に 見せ 候とこ ろ 脚 気の 由に て 乳 、 、 れ 両 方 共服 薬の 結 果 両三 日 前よ り 大い に 恢 復い た し も 早心 配も な 52 一 [ つ 怖 P 頒 控 鋸 街 の 陵 詩 木 啄 史 化 吸 気 脚 大 学 病 院 で 長 男 真一 、 。 こ し 日 たが 娩 を ている 後に死亡 に生まれて二四 七 月 一 分 二 〇 病 院の 診断に よ り 妻の節 子と 京子 が共 に 脚気に な 、 く な り 候L と 記 し て い る。 節 子 は一 〇 月 四 日 に 、 れ らの 書 簡から は 、 。 っ と し 日 るこ る カ もう 当 ﹁ てい がわか そ 所 一 て 用 明治四十四年 記 、 前期節子の に 中重 三 四 静は ﹁家人の 要記事﹂ ︾ 十 補遺0前年︽ 動 、 、 出産 及び 産 後衰 弱の 外 父は 夏の 頃を 以て 脚 気に 患み﹂ と 同居して 、 。 。 っ よ も であるが 因の が Blの に 障 同時に栄 で る あ い た 父 親 が 脚 気 で あ る と い うこ と が 記 さ れ て い る 脚 気 は ビ タ ミ ン た 原 不足 害 養 病 、 つ ま りこ の よ う に 家 人 が み な 脚 気 で あ る と い うこ と は 啄 木一 家 の 栄 。 っ き うこと と じよう 当然同 か わめて が である い た 事を な 悪 養状態 食 、 っ と ていた可 も ていた にな たような えて ある 啄木 病 似 考 能性が 閉さ れた 幼 稚園の 鉄の 門の 下に は しに お 芥 子の 花が 死落 ち け し しろいぬ 、 耳 の 長 い 白 犬 が 寝 そべ り 、 すべ て 限 り も ない 明 る さ の 中 に 竃 、 どこ と もな く くわん ひ なま き い 。 生 木の 棺に 裂 縛の入 る 夏の 空気 のな やま しさ 、 身 の 氷 屋の 女房が 岡 持を 持ち 病 か う もり が さ かど いづ 、 骨折 れ た 蛎幅 傘を さしか け て 門を 出れば 、 横町の 下 宿が ら出て 進 み来 る かっ け く わ ん じゃ 。 夏の 恐怖に 物も 言は ぬ 脚気 患 者 の 葬り の 列 は 思ふ さま のび をし て あくび 、 そ れ を 見 て 辻 の 巡 査 は 出 かN つ た 欠 伸 噛 み し め 白 犬 。 塵 溜の 蔭に 行く ごみた め 。 お び え て ぎ らつ く 軌 条 の 心 、. 焼 けつ くや うな 夏の 日の 下に 、 のも と に ﹁夏 の 街の 恐 怖 ﹂ の 脚 気患 者の 葬 りの 列が ひざ ナペ り の膝 から 、た り 下 り て 。 路へ 歩い て 行 く 病身 。 くと 電車 線路へ 歩い て 行く 、 の 氷 屋の 女房が 岡 持を 持ち 、 をさしかけてかど た やぶれ を 出れば 蠣幅傘 く か ら 声も なく り を まい る だ 横町の角の下宿の門 路次 せ 、 こ の 作 品 は ﹁ 函 館 図 書 館 所 蔵 の 詩 稿﹂ の 中 に も ﹁ 夏の 街﹂ と 題 さ 。 、 ら じ いる れ であるが は同 が は て れて収め 四連二二行 異 表現 細部で 。 。 っ う く よ し る な ている が出て てみ めのみ 脚気 記 三連 ちよ こ 肥っ た三 歳ばか りの 男の 児が 、え り 下 り て 母 親の 居 睡りの 膝か ら した そ れ で は 次 に 四 連二 四 行 か ら 成っ て い るこ の 作 品 を 分 。 よい で あ ろ う 、 、 は 啄木 及 び 啄 木一 家 を 恐 れ さ せ て い た 病 は 結 核 で あ る と い 私達 、 、 う固 そ れ は も ち ろ ん 第一 で あ る に し て も 脚 定 観 念 を 持っ て い る が 。 気 も ま た 決 し て 侮 れ な い 病 で あっ た の だっ た こ うい う 背景 。 描か れてい る 。 新し て み よ う つ 焼 けつ く や う な 夏 の 日 の 下 に れ 一る 。 お びえ て ぎらつ く 軌 条の心 ふ 母 親 の 居睡 ふと く と 電 車線 肥っ た三 歳ば かり の 男の 児が ちよこ や ほ 専 な 。 八 百 屋の 店に は 萎えた 野 菜 。 か ず 病院の窓の窓掛は垂れて動 53 一 ﹁ っ 幕 ﹂ では単に か け 。 さ び し げな 脚気 患 者の 葬 りの 列 あくび 、 そ れ を 見て 辻 の 巡 査は 出か鼠 つ た 欠 伸か み しめ 。 る 白 は ふさまのびをす 思 犬 象﹁ ぎびしげL が あ るい は 脚 気に よ る死 気 患者 の 葬り の 列 ﹂ 、 され てい る のに 対 し 発 表さ れ た もの は﹁ 夏 の恐 怖に 物も 言は ぬ﹂ 脚気患者の葬列に対する印 調 強 に 夏の 街の 恐怖 、 脚気 。 が 強調 され てい るの で あっ た 、 とし も て﹁ の 作る を に 脚 三連め 形 夏の街の恐怖 、 と あ る。 そ こ で ま ず 考 え て み た い の は と い う も のが 夏 の イメ ー ジと し て ふ さわ しい も の かど う かとい うこ と ( 注15) 、 。 実は 夏 のイ メ ー ジと し て きわ め てふ さ わし で ある 結 論か ら 言う と 、 。 。 い とい うこ と が わ か る 脚気は 俳 句 の 夏 の 季 語 に も なっ て い る 、 ビ タ ミ ンB l の 消 費量 の 多い 夏 ﹁ 脚気 が 夏 の 季 語 と なっ て い る の は ( 注14) 、 。 明治 場 に そ の 欠 乏 症 と し て お こ る か ら で あ る﹂ と 説 明 さ れ て い る 巳 松 本た か し ﹁ 火明﹂ 、 四一 年の ﹃ 新 派 句選﹄ に ﹁ 脚 気 病んで 下 宿に 麦の 自 炊か ら 森 無黄﹂ 。 。 が ある れてい るとい う また 気 脚 を 詠んだ以 下の よう な俳 句 が 選 出さ あ など り て四 百 四 病 の 脚気 病む ﹁ 雪解﹂ 皆吉 爽雨 年々 に そ れと も 言 は ず 脚気 かな ( 注 16) 田 舎か ら 来て 二 年目 の 脚気 かな 橋場も と き ﹁ 月 下 の 俘 虜﹂ 、 こ のよ うな 句が 詠ま れてい るが し かし 現 在で は 脚気 で 死ぬこ と は 32 鞭 治 明 、 。 ら と ている さ より﹁ か 名が﹁夏の ﹁夏 れ が全面に出 街﹂ 題 恐怖﹂ 、 し ま も 発 たように に で のの全体が病的な された 変化 の街の恐怖﹂ 表 董 聞78 61 死 女 34 ・ 気 脚者﹂ 死男 ・ 気 者 脚 繍 亡 死 月 一 一 30 64 ⋮ 34 96 3 断 榔 鰍 π 2 38 96 細63 5 細63 一 一 幽 鵬 鉱 6 37一 843 4 7冒 脚82 00 . 捌99 認 饗悩 59 脚88 ゼ 鋼77 12 聞76 ⋮⋮ 濁97 m 9 鵬 鯉 ㈹ 脚1 細1 聯1 鰯 糊 4 。 い う こ と が 統 計 に よ っ て 確 認 す る こ と が で き る そし てこ の 統計か ら 。 は 倒 的に 男 性が 多 く死 亡 してい るこ と も わか る その 年齢 に 関 して 圧 、 、 . もっ と も 多 い の は一 も 統計 に よ り 一 五 歳 以上 四 〇 歳位 まで が 多く 。 五 歳か ら二 〇 歳ま で の 若者 で あっ た 、 脚気 に よっ て ﹁ 夏 の 街 の 恐 怖﹂ に 描か れ てい る 葬り の 列の 死 者が 、 。 ととし し は どう 当 て描か のこ たのか か 実は 何 の 説明 もない 然 死亡 、 、. 。 れてい て 核 で あっ た の か も し れ な か っ た の で あ る し か し 作 者 結 、 。 は 脚 気 患 者 と し て い る 二 連めに ﹁病 院の 窓﹂ が 記 さ れ て い る の で 、 し か し 、 噂とし て 聞い てい た のか も しれ な 作 者 は ど こ か で 知 り 合っ て い た か 、 こ こ で は そ の よ う な こ と は 無 視 さ れ て と にか く 夏の 街 。 い の 恐 怖を 描く た めに は 脚 気に よ る 死 者が 必 要だっ た か の よ うに 唐 突に 。 記 さ れ る こ の 時 代に おい て は そ のこ と で 共 通の 認 識が 得ら れ たの で 夏に 多く の 死 者を 出 してい た と 季 語 辞 典﹄ に 脚 気 、 全く ない の で 、 詠 ま れる こ と も な く ﹃ 絶 滅 寸 前 、 。 る 死亡 率に 関して は 内 閣 統 が 含め ら れてい る 状 態で ある 季 節に よ ︹ 注9) 。 計 局臨 時 刊 行﹃ 分 量的二 観 察シ タル 脚気﹄ に 詳し く 載せ ら れてい る 、 、 下に 明 治三二 年 の 表を 載せ た が 他の 年 も 同じ で 七 月八 月九 月が 、 脚 気 が 夏 の 病 で あり 。 あろう 、 、 結 核は 同じ 若者に 多い 病で は あっ た が し か し 夏 の 病 と は 言 え ず 、 、 夏 に 死 亡 が 多 い と も 言 え ず ある 程 度の 養生 の 期間が あっ た の で 突 。 、 然 死 と い う よ う な 恐 怖 感 は な かっ た そ れ に 対 し 脚気 はま ず 夏の 病 。 突 出し てい る 54 [ 一 層 ﹁ 勿 を 汎 分 剛 恐 勧 蜘 ﹁ 櫓 化 場 史 吸 気 脚 、 て あり 、 夏 に 多 く の 死 者 を 出 し て い た の で あ り そ の 死 は 脚 気 衝心 の 葬 り の 列 も 悲嘆 にく れ 。 よ うに 心 臓が 犯さ れて 突 然死に 近い 死に 方を した ので あっ た そし て 、 若 者 が そ の 犠 牲 に なっ て い た と い う こ と か ら 、 、 処々 裂 け た一 対 の 高 。 た も の で あっ た こ と が 想像 さ れ る の で あ る 。 啄 木に は ﹁ 葬 列﹂ ( 明 39・ 狙 ﹁ 明 星﹂ ) とい う 小 説 が あ る 盛 岡 地 方 、 、 、 、 。 で は 葬 列のこと を が んこ と 呼ん でい た そ の ﹁珍しい 程 見すぼ らし 、 、 。 い﹂ が ん こ が やっ て く る ﹁ 先 頭 に 立 つ た の は 、 、 、 。 た っ た 六 人 で あっ た ﹂ 云 々 と 囚人 の 上 部に 棒を 通して二 人の 男が 担い 。 った だ って が の には こ る へて 数 のであ 居 随 葬送者 一群 の後 見 つ くり ば な 、 、 。 張 次は一 対の 蓮 華の造 花 其 次は 棺で ある 此棺は 白 木 綿で 包まれ ばく 、 、 た 上 を 無 造作に 荒 縄 で 縛さ れて 、 、 、 と、 一 群 の 数 は 驚く 勿 れ 。 が んこ が 描か れてい る 寺に 生 ま れ た と い う こ と も あ る か も し れ な い 、 。 と し る も が 思われ ていた の関心を示 には は 啄木 特別 葬列 ( 注豚) 、 、 ﹃明 治人 のお 葬 式 ﹄ に よ れば ﹁ 明治の お 葬式 の特 徴は といっ て も 、 る ど を ら 自 が の都会が中心にな 阪な や 運ぶ 葬儀場へ遺体 宅か 大 東京 。 とり っ 列)に な い に お た 葬 立派 に(長 あ 葬式 わけ有名人の 葬送時 江 戸 時代 、 大 将ら 時 の 大 将 も 行わ 、 中 将一 二 名 が 従っ た と あ り ﹁ 東 京 毎 日 新 聞﹂ の 、 ﹁ 葬儀 沿道 雑 観 ﹂ によ れ ば三 〇万 人の 人 出を あてこ んで 商売 。 れ てい た と い う 以 降 、 。 く っ によ に し てい で た な 的 てゆ 霊植草 て火葬場 そ て運ばれ の 。 っ と た る こ よう に あ な その はあ が作箭の背後 土 葬 よ り も 火 葬 が一 般 、 、 こ の よ うな 壮 大な 葬列が 行わ れ 新 聞 紙上を にぎ わせ てい た 時に 。 街の 片 隅 で 脚 気 患 者の 小さ な 葬 列が 行わ れ てい た 明 治一 〇 年頃 か 、 、 ら それま で の 座棺 に 代 わり 遺 体を 横に 寝か す 寝 棺が一 般 的になつ 。 て ゆ く ま た 明 治八 年 の 政 府 の 火 葬 解禁 重8 (注 V 、 小 川 武敏 は ﹁ 夏の 街の 恐 怖 ﹂ ﹂ は コ 種 異 様な心 的 状 態を 形 象 化 、 。 り ら し も う と す た て そ いわぬ脚気患者の葬 に 夏の 怪 い の列 物 恐怖 、 倒 く ら う し も をい それ あげて お そ なやま あつ 奇な表現が の緊張 、 く とし くよう り し をあげている な を い る ﹂ 詩的効果 裂 切 夏の空気 ッ ュ っ う よう ら も て フラ シ かびあが の された に を 吉な緊 物象 照 張 不 、 、 し た 作 品で あ り ﹁弛 緩 した 白 昼夢 の 世 界に 象 嵌さ れ た どこ と な く 、 の 走る 生 木の 棺とい う 鮮 烈な 表現は 死 に 落 ち る 芥 子 の 花 や 鋭い 亀裂 、 ﹁ 恐 ら く こ の 詩 に よっ て う け る 感 銘 は あつ く る し い 夏 の 午 後と い う 、 っ と に い る いひ 鋭 詩的背景のなか 生木の棺や脚気患者の葬列 びの入 、 っ ては の 大 名 行 列 さ な が ら に 華美 ・ 盛 大 な 葬 列 が 人 気だ っ 、 よう と に ある た においては 明治 われたので の華美が 葬列 ﹂ 時代 競 、 た 特 異 な イ メ ー ジ を 嵌 め こ ん だ こ と に よっ て も た ら さ れ て い る﹂ と 、 。 り う と る し るが で な い ただそ てい 指摘 あ の 小川氏の指摘通 の脚気 、 ー く っ と も き イメ は全 の が た ジが異な わめて死亡率の高い 現在 病 。 怖い 夏 の 病 で あっ た と い うこ と で あ る そ の こ と を 具 体 的 な 統 計 に 基 。 つ い て 本 稿で 指 摘でき たの では ない か と思 う 、 内正 毅 陸相 乃木 希典 、 、 大 将 東 郷平八 郎 大 将 山 本 権兵 衛 、 に 東 京に 出て き た ﹁平 太は 夏は 脚気 にか かり 冬は 流 行感 冒です﹂ と 、 。 記され てい る 平太は 東 京で二 年を 過ご し 母 が 病気に なっ たの で 帰 。 の 中 に も 描 か れ て い る 一 九 二 三 年( 大 12) に 書 か れ た ﹁ 皮 ト ラ ン ク﹂ 、 、 さて こ の 脚 気であ るが 盛岡 中学 校一 〇 年後 輩の 宮沢 賢治の 童 話 。 あっ た ﹁夏 の 街の 恐 怖 ﹂ が 発表 され る二ヶ 月 前の 明治 四二 年一 〇 月 。 、 日 ﹁ に が行われていた の国 伊 葬列は騎馬の警部四名 二六 葬 藤博文 、 し を いて これに 為 警視一名先駆 吹奏 哀の譜 続 陸海の両軍楽隊 、 儀 侯兵 総指 揮 宮川 村大 将及び 依 田 少将 等騎 馬にて 随い 次で 特に 附せ 、 、 られ たる 近 衛 騎兵 高 島 連 隊長 の 率い る 近 衛歩 兵第一 連 隊 与 倉連 隊 、 長の 指 揮する 第一 師団 歩兵 第一 連 隊 永 田 連隊 長の 率い る 師団 歩兵 第 に は寺 ﹁ 11・ 5 ﹁ 時事 新 報﹂) 云 々 と そ の 壮 大 な 様が 記 二 隊等 次 連 順 随従 ﹂ ( 、 。 、 さ れてい る 同紙に よれ ば 色 五 〇人 に 担が れた 霊 枢が 続き そ の 雑 両側 一 7 55 っ ー よ く し うと それに な て ま うイメ き こと も ジ 亡 い がで たせる を 。 たのである 軍と三 人 兄 弟の 、 り ﹁ ら と 医者﹂(昭6)では あ がたや敵が残 んだ で ず いう ﹂ 死 脚気 部 。 、 と っ る う も 分があ 昭和 い 時代にな て では の ま 脚気は 世界 童話 だ 、 と して 脚気が 記 され て おり 大 正 時 代におい て も その イ 、 。 省す るこ と に なる が 特 に 脚気 で 亡 く なっ た わ け で は ない た だし こ 、 、 こ で わか る よ うに 冬の 病の 象 徴と して 流 行 感 冒 (風 邪 ) が そし て 夏の 病の 徴 象 。 メ ー ジ は 同 じ で あっ た こ と が わ か る さ ら に ﹁ 北 守将 こ むら 太 平 洋 戦 争末 リ レイ ピ する テ島の山中を ンの 肺病の主人公の極限状況が描かれ 彷捜 、 。 こ ているが る さ か カ 中に れ 脚気が記 所 何 の にい 山の たのは 病院 、 リ と ア ラ い ﹁ は 患者(中略)あ マ 若 々 下痢 脚気 熱帯潰瘍 弾倉等 、 く と を つ いはそ である 兼ねた か の 或 い ﹁ ﹂ 病兵 兵士で 若 栄養 、 く き 良 と ﹁ か な んだ大 脚気でむ 不 う え 顔﹂ 兵 い ﹂ 脚気で歩けね 期 フィ 。 戦 後 文 学 の 中で 脚 気が 記さ れ る の は 戦 争文 学で あっ た 大 岡 昇 平 、 ﹁ 野 火﹂ ( 初 め 昭 23 24・ 書 き あ ら た め 昭 26) は、 略 ) 。 士 の 話な ど が 記され てい る 、 は 新し く なっ て 大 江 健 三 郎 の﹁ 死 者 の 奢 り﹂( 昭 32) に さ ら に 時代 ﹁ 彼 ら の 裸 の 皮 膚 (中 はその 脚 気 の 腓 の よ う に ぐっ と む 々と 窪 ﹂ 云 死 体 、 。 とし っ 中に の る ここ く 描写の て使われてい 比喩 には によ 脚気 て亡 。 ー と っ ジ イメ いうよう なる はない な て にな はもう に 戦後 脚気 すで 恐 。 っ く ろし ら である ていたか な い病では無 、 、 病 を 描い た 作品は 病の 治 療効 果と 共に 変 化し てい て 脚気 。 象 徴 的 な 意 味 を 担っ て い る 、 啄 木 の ﹁ 夏 の 街 の 恐 怖﹂ は そ の 脚 気 と 、 いう ろしさを ること し とり き 病の恐 指摘す に み な 正 読 確 はで ない 。 のである 注 、 結 核に 関し ては 森亨 ﹃ 現 代 の結 核1 の 院 内 感 染﹂ い ま 何 故こ ん な 病気が﹄(ニュ ウ ー 、 ト ソ プ レ ス ー 9 9 8・ 1 0) に ﹁ 全 国い く つ か の 病 院で 結核 、 な ど で 一 九九六 年 現 在で 四 万二 千 人が一 年間 に 結 核を 発 病し てい る さ 。 、 まが記されている し 目 ては平凡社﹃大百科事典﹄(i984・11)の 関 脚気 気の ﹁1973年以降 高校生(男子に多い)を中 に 脚 項 心 、 例 われる っ と 脚気 の多発が気づかれ 症 思 されて 会に て な 問題 報告 学 、 り と いる とし あ ﹂ て その理由 ﹁ 白米 の ① 食 普及 ②即席食品 加工食 、 、 ら 菓子 品 保存食品の増加 清涼飲料水 などか ③ の糖質の多量摂取 類 。 げら れてい る ・ ﹁ 脚気病の 富士川游 ﹃ 思 富士川游著作集4﹄ 歴史﹂ 富士川英郎編 M E D i C A l﹄・ ぎょ う せ い・ 一 九八 六 年 二 月 庫・一 九 四 九年 夏﹄・ 講談 社・ 二 〇 〇〇 年四 月 ・ 内閣統計 臨 刊 ﹃ シタ 局 時 行 分量的二観察 ル脚気﹄ 一九〇六年一〇月 四 ・ 月 ・}九九〇年 くし た をな ﹃ 田 講談社 男高木兼寛﹄ 脚気 誠 松 二 〇 ・ 鈴 ﹃ こと 木業三編 新編故事 わざ辞典﹄ 創拓社 一九九二年八月 に 薬﹃ 脚 気 。 ミ と 丸 を ン ビタ る ﹄ 発売 薬の初め あ ﹂ ・ 根岸謙之助岡医療民俗学論 雄山閣 九 一 ﹄ 九一年三刀 ・ ・ 山下・ 三﹃明治期における 東京大学出版会 政 脚気の歴史﹄ 一 九 八 八 九月 年 五月 と 医 療﹄・ ち くま 学芸 文 庫・一 九 九 八三年二月 ・ ﹃第四版総合栄 同 養学事典﹄ 文書院 一九八一年六月 ー 一 ・ ミ 史 気の 山下政三﹃ ソ ビタ 歴 脚 発見以前 ﹄ 会 田 東京大 一九 版 学 文 ・ 一九八一 闘出版 六月 年 、 、 ④ 偏 食に よ るビ タ ミ ンB 1 摂取 量 不 足 ⑤ 激 しい 運動 発汗﹂ など が あ ﹃ 健康医療大 百 科 立 川 昭二 ﹃ 江戸 病草 紙 - 近世 の 病気 会﹄・ 岩 波文 飯田 龍太 他監 修﹃ 新日 本大 歳 時記 ﹃ 明 治・ 大 正 家 庭 史 年 表 1 8 6 8 1 1 9 2 5﹄・ 河 出 書 房 新 社 、 、 0 0 年三 月 に よ れ ば 一 八 九 三 年 ( 明26) に ﹁ 資 生 堂 が 脚気 横山源 之助 ﹃日 本の 下 層 社 八 年六 月 ( 1) (2)(3)(4)(5) ( 6) ( 7)(8)(9)(10) ( 11 ) ( 12 )(13) ( 14 ) 56 ﹁ ︻ 脚気 の文化 史一一 啄 木詩 「夏の 街の恐 怖」 を分析 しつつ一 (((( 1817is15 )))) 治 妻懲 霧 1難 獅 " け 牟 い さ お 政 治 経 済 学 部 教 琶 ■ 一57一 ヒ 嚢前墓 緩 』ア 季 ・ 言 鱗 砺 速 二 鑓 一r一 に 二6月 つ 月0 い 二 て 年 旨 1八 月 明