Comments
Description
Transcript
パラオ国立ベラウ病院視察報告書 国際交流委員会・副
パ ラオ国 立ベ ラウ病 院視察 報告 書 国 際交流 委員 会・副 委員長 赤井 卓 也( 脳脊髄 神経治 療学 ・教授 ) Ⅰ . 要旨 平成 20 年 10 月 6 日( 月)から 10 日(金 )の 5 日間 の日程 で、パラオ 国立ベ ラウ病 院を 訪 問・視察し、当大学 として できる 医療協 力につ いて、保健省 大臣、病院長 、事 務局長 ら、 担 当者 と協 議し た。ベ ラウ 病院 はパ ラオ 唯一の 入院 設備 のあ る病院 であ るが 、手 術が 必要 な 重傷 患者 は、 ハワイ 、マ ニラ に移 送し て治療 され てい る。 同病院 から 金沢 医科 大学 に対 し ての希 望は、 ① 各症例 におい て緊急 に治療 が必要 かどう か判断 するた めのコ メント を当 方 からも らいた い、② 次 のステ ップと して、 病院の レベル アップ のため に金沢 医科大 学の 協 力を 得た い、 という こと であ った 。症 例コン サル テー ショ ンのた めに は、 ベラ ウ国 立病 院 で撮 影し た画 像と病 歴を イン ター ネッ トで当 院へ 転送 し、 それに 対し 各担 当科 がコ メン ト を書 き込 んで 返送す るシ ステ ムの 構築 が必要 であ る。 また 、診断 ・治 療技 能、 看護 技能 の 向上の ための 教育的 支援も 求めら れた。 当 大学 の国 際医 療協 力の一 つと して 、早 急に 大学お よび 病院 内全 部局・ 全科 の協 力の も と に、本 計画を 進める ことが 必要と 考えら れた。 Ⅱ . パラ オ視察 にい たった 経緯 パ ラオは 、グ アムと マニラ の中間 の位置 するサ ンゴ礁 に浮か ぶ約 600 の 島か らなる 人口約 22,000 人 の 独立 国であ る。第 2 次世界 大戦前 は 、20,000 人近く の日本 人が居 住し 、現 在も 日 本名 を姓 とし ている 人も 多い 親日 的な 国であ る。 戦後 、ア メリカ が信 託統 治し てい たが 1994 年 に 独立 した 。ベラ ウ国立 病院は 、その パラオ 唯一の 入院施 設( 80 床 )を もつ病 院で あ る。 現在 、ハ ワイ海 軍病 院と 提携 し、 症例の コン サル ト、 移送、 治療 援助 など を受 けて い るが、 2009 年 にその 提携が 終了す る。そ こで、 パラオ 保健省 から JICA( ジ ャイカ )の 現 地派 遣員 を介 して、 当大 学の 山田 学長 、大原 医学 部長 に医 療支援 の希 望が 伝え られ た。 パ ラオ への 医療 支援は 、当 大学 がめ ざす 国際医 療協 力に 合致 するも ので あり 、金 沢医 科大 学 に何 が求 めら れてお り、 われ われ はど のよう な協 力が でき るのか を把 握す るた め、 今回 の 視察に 至った 。 Ⅲ . 視察 および 協議 内容 10 月 7 日 にベラ ウ国立 病院内 にある 保健省 Yano 大 臣の オフィ スを訪 問。視 察に来 訪し た 旨を 挨拶 した 後、事 務局 長、 病院 長と 挨拶。 その 後、 大臣 みずか ら、 病院 内の 各所 を案 内 してく れた。 ベラウ 国立病 院のビ ジネス アワー は午前 7 時 30 分から 午後 4 時 30 分 であ る 。私の 訪れた 午前 9 時 頃は、 朝の最 も慌た だしい 時間と 思いき や、人 の流れ はゆっ くり で 、我 先に と急 ぐ人は なく 、診 察側 も何 かのん びり とし てい た。こ の時 の流 れは 、パ ラオ で あるゆ えか 。ベラ ウ国立 病院は 、80 床 で、医師 23 名( 約半数 がパラ オ人 、1 名の台 湾か ら の研修 医)、看護 師 116 名( ほとん どパラ オ人 ) 、薬 剤師 2 名 で、在 院日数は 5-6 日 であ る。病 院内 は film less で、当院同 様に PACS シ ス テ ムがあ った。し かし、CT は 1 slice scan の もの が 1 台のみ で、か つ故障 中であ った。 ナース ステー ション にもコ ンピュ ーター が配 備 され てい た。 財政難 で在 庫切 れと なっ ている 薬剤 名が 薬局 に列挙 され てい た。 何か 、も の がな いこ とは ないが 機能 して いな い印 象をう けた 。各 所を 回った 後、 大臣 、事 務局 長、 Tele Medicine 担 当 者らと 会議。現 在、外科 的治療 が必要 な症例 は、ハワ イの海 軍病院 へ連 絡 し、向 こうが 受け入 れを承 諾すれ ば、そ ちらへ 転送( 主に腫 瘍症例 約 15 例 /年 ) 。 そう な らなか った症 例は、マニラ へ転送 してい る( 約 100 例/年)。緊急 時は、最も近 いグア ムへ 転 送す るこ とも ある。 金沢 医科 大学 へ期 待して いる こと は、 重症症 例に おい て、 外科 的治 療 が必 要か どう か、画 像お よび 病歴 から コメン トを もら いた いとい うこ とで あっ た。 現状 で は、コ ンサル トは週 に 5 件程度 、緊急 のコン サルト は月 1 件程 度であ る。さ らに、 次の ス テッ プと して 病院職 員の スキ ルア ップ のため の教 育的 援助 の希望 があ った 。午 後は 、ハ ワ イと行 ってい る Tele Medicine およ びマニ ラとの 交信に ついて 大臣お よび担 当者か ら説 明 を受 けた 。ハ ワイは 、そ この 海軍 病院 のサー バー にパ ラウ からコ ンサ ルト され た症 例が カ ルテ ファ イル として 画像 とと もに 保存 されて おり 、閲 覧権 限のあ る医 師は パラ オか らで も その 情報 をみ ること がで きる シス テム となっ てい た。 この システ ムは 、パ ラオ のみ なら ず アメ リカ が関 与する 太平 洋の 島々 とも つなが って いる よう である 。マ ニラ との 交信 は、 マ ニラに いる放 射線科 医へ、 その都 度、メ ールと jpeg file を別々 に送る といっ た簡単 なも の であ った 。相 手方担 当者 が不 在の 時は 、いつ まで も返 事が ないよ うだ 。ま た、 ちょ うど イ スラエ ルか ら 2 週間の 予定で 、放射 線科医 、技師 が来訪 してお り、こ の日の 午後は 職員 向 けに講 義を行 ってい た。 第 2 日は 、バベ ルダオ ブ島( 一番大 きな島 だがほ とんど ジャン グル) の診療 所およ び大 統 領府を 訪問。 診療所 には医 師は常 駐して おらず ナース が 1 名常 駐して いた。 医師は 週に 数 日、 曜日 を決 めて診 療所 を訪 れて いた 。診療 所と ベラ ウ国 立病院 を結 ぶネ ット ワー クが 配 備さ れた とこ ろで、 これ から は医 師が 訪れた とき は、 国立 病院に ある 患者 ファ イル をみ る こと がで きる ように なる との こと であ った。 緊急 時は 、常 駐ナー スが 、ナ ース 兼、 ドラ イ バー兼 、救急 隊員と して国 立病院 まで患 者を転 送する そうで ある( 救急車 は島 に 1 台の み で大統 領府に ある ) 。こ の島は 、最近 、台湾 の援助 で道路 が整備 された 。その 後、大 統領 府 へ向 かい 保健 省のオ フィ スを 訪れ た。 大統領 とは 面会 しな かった が、 秘書 らし き人 が大 統 領府内 を案内 してく れた。 府内の 廊下に パラオ と国交 のある 国の国 旗が飾 られて いたが 、 パ ラオ 国旗 の次 がアメ リカ 国旗 、そ の隣 が日本 国旗 であ り、 日本の 位置 付け がわ かっ た。 秘 書官 らし き人 からも “こ のと おり だよ ろしく ”の よう なこ とを言 われ た。 島の 人の 話で は 、最 近は 台湾 、韓国 資本 がパ ラオ にか なり入 って きて いる とのこ とで あっ た。 大統 領府 の 保健 省オ フィ スとベ ラウ 国立 病院 とも ネット ワー クで 結ば れてい た。 帰り 際に 、よ くわ か らない がバナ ナを一 房いた だいた 。 第 3 日は、 離島( ペリリ ュー島 )の診 療所ま で病院 所有の 船で 1 時間 の船旅 であっ た。 港 から 診療 所ま では、 かな り古 い救 急車 (日本 で使 用さ れて いたも の) で移 動。 この 島は 太 平洋戦 争の激 戦地で 中隊が 玉砕し たとこ ろであ る。こ の島に 診療所 は 1 ヵ所 で、ナ ース の み常駐。まだ、ネ ットワ ークで つなが れてい ない。医 師は、ア メリカ 軍の医 師が 週 1 回、 ボ ランテ ィア ?で訪れ ている 。患者 さんも 彼が来 る木曜 日に多 く訪れ る。も ちろ ん島民 はい つ でも 治療 が受 けられ るこ とを 望ん でい るが国 には 人的 、金 銭的余 裕は ない 。彼 も次 の赴 任 地が 決ま って おり、 その 後診 療所 をど う維持 する のか は未 定だそ うで ある 。こ の日 は、 喘 息のこ どもを 連れて ベラウ 病院へ の帰路 につい た。こ の日は 大臣主 催のパ ーティ があり 、 イ スラ エル 人医 師とと もに 参加 した 。病 院長と ゆっ くり 話を する機 会を もて た。 彼は 、ア メ リカ 人で さら に南の 島で 医学 校の 校長 をして いた そう であ る。今 、こ の施 設で でき るこ と は限ら れてい るため 、病 院に必 要なも のは Tele Medicine 以 外では 、医 師より も教育 され た 看護師 と、病 院職員 の啓蒙 である と仰っ ていた 。 Ⅳ . 今後 の課題 今回 の視 察で 、パラ オに はお 金は ない が、外 国か らの 援助 で不揃 いで ある がも のは ない こ とはな いこと がわか った。 Tele Medicine も その 一つで、 国内の ネット ワーク は構築 され つ つあ るが 、そ れを機 能さ せる のは これ からの よう であ る。 そこで 、金 沢医 科大 学が この ネ ット ワー クの 一翼を 担う こと が期 待さ れてい る。 日本 の大 学とし て、 歴史 的に 関係 の深 い 国で ある パラ オに対 して 、金 沢医 科大 学がで きる 医療 協力 を明ら かに し、 その ため の環 境 を早 急に 整備 するこ とが 必要 であ ると 考えら れた 。こ れを 成功さ せる には 、大 学お よび 病 院内全 部局・ 全科の 協力が 不可欠 である 。 最 後に 、今 回の 視察 の機会 を与 えて いた だい た山田 学長 、大 原医 学部長 、勝 田国 際交 流 委 員会委 員長、 飯塚病 院長に 感謝申 し上げ ます。