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久 1童 1京

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久 1童 1京
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通巻五一五号(二O 一六・三)三九l五三頁
の
明治大学教養論集
港
関連があるのかないのか││、間もなく天折するシューベルトの場合も、すでに出来上がったオルガニストにして作曲
第二ピアノ三重奏曲、さらにはハ長調の第七(旧九)交響曲の各冒頭楽章等々、が出現するがこれとゼヒタ l の教えと
でも知られるが││ちなみに晩年のシューベルトに幾っか機械装置的なリズムを刻む曲、例えばニ長調ピアノソナ夕、
この人は晩年のシューベルトが天性の楽人として無数の名作をものした後にあらためて楽理を究めようと師事したこと
成績で及第すると、 ひとたび修道院に戻るものの、翌年から著名な楽理家ク l モン・ゼヒタ 1 に弟子入りを許されるが、
道そ歩み始め、修道院での九年目に初めて首都ウィーンに赴き、宮廷楽長の許にオルガン演奏の試験を受けて輝かしい
巣ザンクト・フロ lリアン修道院で助教師の職に就くと凡そ十年を過ごす内に、音楽も教える教師から音楽十専門家への
院に送られてそこで音楽教育を受け、やがて家族の意思に応じて教員となるべく修行に勤しみ多少の好余曲折を経て古
オルガン演奏の助手、ときには臨時にオルガニストを勤める。十三歳で父を失うと近傍のザンクト・フロ lリアン修道
して早くから父を通じて音楽になじみヴァイオリン、ピアノ、オルガンを習いおぼえて十歳噴にはときには村の教会で
希代の学び手とブルックナ lを呼んだのは作曲もする音楽学者のアウグスト・ハルムであったが、学校教師の息子と
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の経験を積みながらなおも修練と精進を切望する音楽家ブルックナ 1 の場合も、経歴の終端と端緒の違いこそあれ、
うなればかかる成人した音楽家を惹きつける不思議な魅力をもった理論家であったったらしい。
伝統の財産即ちいわゆる形式が、果たして音楽の精神に沿うものなのか、 そ れ か ら 逸 脱 離 反 す る も の な の か 、 こ れ が 成
習に隷属すれば奴隷と不毛に通じるが、精神に仕えるのであれば命ある自由な創造へと至る。したがって学びに学んだ
ぎるがために天与の自然な楽想の発露が妨げられる、豊かな精神性が因習の犠牲となり、因習に隷属している、と。因
繁茂、方や然るべき河床を見出し得ずに渋滞して干上がる流れ。形式と内容の不一致、というより形式の命令に就きす
制との闇ぎ合いに引き裂かれる結果を招いた、とも見る向きのあることを認めている。日く、方や楽想の野放図な横溢
る。しかしそれはまたブルックナ!の創作にとって不幸な宿命として立ちはだかり、内なる慾求と、外から課される強
て、息の長い意志の、じつはこの上なく勇敢な、古代的忍耐の唯一無一一の実例とも言うべく、むしろ英雄的な態度とみ
せられる。即ち自己表現の共としない。 ハルムはとれを、音楽家が生き会わせた有為変転激しくなりまさる時代にあっ
彼にとって音楽が、少なくとも一義的には、自己の感情なりイメージなりを表現するための媒体でなかったことが察
断を下すことは余りに畏れ多い。果たしてブルックナ lが、師に背反するに足る自己主張を持つことはなかったのか。
て導かれ、誰かによって許可される、 その師匠の存在が欠かせない。全てを委ねていい、責任をも委ねていい。自ら判
て晴れて免許皆伝、 マイスターを名乗ることを許される。許される、という受動態が示唆する通り、そこには誰かによっ
の徒弟制度よろしく階梯の一々を一切省略することなく一歩一歩と歩を運ばないと気が済まない、その階梯を登りつめ
という点で際立った存在であったか。それはときに自立することへの憧れをすら邪推させるところなしとしない。中世
け た 者 は ご く 僅 か し か な い ほ ど の 学 び 手 ブ ル ッ ク ナ lは 、 導 か れ た い と い う 慾 求 を い つ ま で も 衰 え る こ と な く 保 持 し た
学びに終わりのないことは、もとより、あらゆる巨匠たちが証するところではあるが、かつてそれほどに学びに心が
L、
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1 久遠の憧慢
否 を 決 す る 鍵 と な る 。 過 去 の 表 現 手 段 は 現 代 の 音 楽 の 課 題 に 不 十 分 で む し ろ 障 碍 と な る の か 、 それとも形式は、聖なる
ものとして自ら生み出したものであれ、天から与えられたものであれ、音楽の精神そのものの法則や必要に応じたもの
で音楽を活かし得るものなのか。もし後者が妥当するのであれば、この希代の学び手の伝統的形式への献身の中に、そ
れこそ音楽の大本に根差した素質から発する本能を、芸術への天然自然の忠誠を見出すことが出来る次第で、 そこでは
個性が人聞の戒律によって課せられた従順さによって殺されるような状況は組こり得ない。
かかる終生の学び手たることを、この音楽家の基本的態度として踏まえた上で、先ずは世に悪評高いその改山訂癖を考
えてみたい。
永遠の学習者ブルックナ!の手仕事は、形式の形状の錬磨に執着するが、想えば、 そ の 譜 面 は は な は だ 抽 象 的 な 音 型
として仕上げられていて、生半なことでは初見の手に負えない。音譜を楽器に載せるにはすでに決まった形に複数の指
を闘めておいてそれを上下に移動して初めて弾きうる類のものだった。音型というかたちですでに確定されているのだ。
それに比べて例えばブラ l ム ス の 第 一 交 響 曲 の な ん と た や す く 弾 け る こ と か 。 指 を 順 次 進 行 さ せ れ ば 容 易 に 手 の 内 に 入
る。要は、細部の奇型までが予め形を決めて、とはつまり裂をなしていることで、これこそその音楽が或る種の器をな
す、ものであることを示唆してはいないか。いわば形代としてそこに外在霊魂を招致するものとして供えられ飾られて謂
わば祭壇のようにしつらえられている。数多の建築素材を組み合わせて組み上げられた大伽藍は、しかし僅かなずれ携
みがあっても隙聞を生じて乳む。それをあくまで丁寧に削っては埋めて推蔽をくりかえして修正する作業が、その創作
の時間の少なからぬ割合を占める。ずれの面白さ、乳む音の新鮮さ、を味わうのはこれは現代音楽の、とは即ち、伝統
を脱皮したところからの高みの見物にして初めて言い得ることであって、プルックナーにとってそれはひたすら誤謬と
して傷として改訂を要するものでしかなかっただろう。高みの見物と言ったが、あるいは伝統の高みから転げ落ちた地
べたから観た数奇な景観の味わいにすぎなかったかも知れない。その点でベートーヴェンの﹁晩年様式﹂は、 そうした
非連続のずれの苦い味を賞味する新感覚に聞かれていたかも知れない。図らずも日常の音の謝絶の効用でこれはあった
あれ即興演奏の名人であったが、前者が一作ごとに破天荒な新境地を示したことに対して後者は同じ祖型宇佐少くとも九
原典の保管を委ねていたこととは、想えば似て非なるものかもしれない。両者ともピアノとオルガンの楽器の違いこそ
発 す る も の の や が て 自 ら 改 稿 熱 に 取 り 患 か れ て 今 度 は 弟 子 た ち を 気 遣 わ せ る に 至 っ た こ と 、 その一方で帝国図書館には
けではないにせよかなりの程度応じたこと、またその急先鋒だったシヤルク兄弟のとりわけ兄ヨ 1ゼフの方には時に反
ない、とベートーヴェンが述懐したという語と、ブルックナーが弟子たちの改訂への勧めに、心理的屈折が無かったわ
ハンマークラヴィアと紳名される巨怪なソナタについて、五十年後には何とか弾き手の手に負えるようになるかもしれ
ても、時空共同体の即座の反応に応えるべくもない代物であったところについては同断である。ただし、作品一 O六の
はずであったか。これは伝来の信仰の観念には結びつきにくいベートーヴェンの場合の新感覚超感覚とは自ずと異なっ
認されずとも、 それが志向する対象つまりは神ということになるその久遠の宛先には受け容れられるとの信念に基づく
もしその歌に不可解なところが、常軌を逸したところが窺われるとしても、かりに時空を同じくする地上の隣人には容
︹
たのかも知れない。私、の歌を歌うつもりはなかった。個性の発露とはまた別のところに、その志向はあっただろうか。
1)
れるとすれば、これまたハルム自身述べているとおり、そもそもこの作曲家は後者の在り得ることなど与り知らなかっ
が、それに従えば形式と内容というこ項対立の内の後者が前者によって脅かされる事態がブルックナ!の場合に危倶さ
ハルムのいささか杓子定規な定義によれば、というのも彼も亦それを伝統括法から承知の上で借りてきているからだ
か。
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回未満にわたって追い続けたともいえようか。晩年まで教職に就いて理論を講じたが、 そ の 理 論 の 普 遍 的 抽 象 的 な 、 個
別性を脱した理念が同一構造を促し、遥かなる理想形への無限反復的接近或は模倣を粛したのか。ベートーヴェンも亦
推鼓にかけては引けを取らないこともあった。その第十四番の弦楽四重奏曲の変奏曲楽章の末尾は、幾重にも推献のた
めの紙片が貼り重ねられていたというがそれを丹念に剥がしてみた研究者が一番下と一番上即ち最初と最後が同一であ
るのに気付いたという嘘のような話があるが、 それなら推蔽は無駄であったのか、 それとも一巡して元の所へ問帰した
これこそ完壁な推紋というべきか。ブルックナ!の改訂癖はどうだろうか。こちらの場合はおそらく推敵の輸はついに
閉じるべくもなかったのではないか。それともその輸はもっととりとめなく広がって、 や が て は 迂 遠 の 彼 方 目 指 し て 平
行に幾つもの訂正の線が進んで、 それらはついに相交差することなく、したがって閉じた形の決定を得ない定めのもの
だったかもしれない。
同時代への衝撃の大きさという点で、ブルックナ lが終生私淑した崇敬の的ヴァ lグナ lに如くらのはなかった。こ
れはヴァ lグナ l以前と以降を眺め漉してみてもその蛾答褒庇の激しさは余人を以てしではなかなか凌駕しがたい。ヴァ 1
グ ナ ー が 総 合 芸 術 作 品 を 標 棟 し て 世 に 問 う た そ の 作 品 の し か し す べ て の 局 面 が ブ ル ッ ク ナ 1 に訴えかけたわけでないこ
とは、トリスタンの観劇の最中に同行した弟子に筋者きへの無関心を露呈するような問いを発したというエピソードが
象徴するとおりである。彼の琴線に触れたのはひたすら管弦楽の斬新な和声進行とそこから結果する音響の魔術であっ
たが、師と仰ぐ人の名を冠した第三交響曲にヴァルキュ l レ大詰めの魔の炎の音楽が始まる前当たり、眠りの動機の出
没するブリュンヒルデの入眠のくだりを引用して敬意を表したことは、ヴァ lグナ 1 ランドのその土塊の一っすらから
も優に一大交響曲が生い育ちうることを証しするつもりであったか。そう見立ててみればなるほど、ヴァ lグナ 1は大
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地そのものを模した一大テl マパ 1クの雄姿を帯びてくる。ただしその雄大な企閣の、それはむしろ希代のプロデュ l
サーの手になる企画図、設計図と見えてこないか。ブルックナ!のそこから生じたつもりの交響曲の、実体を傍らに置
くならば。たしかにそれだけに尽きない様々の実現の萌芽安ヴァ lグナ!の楽劇の細部が訪併とさせないではないが、
しかしなお精細に観ると、あるいは度を超えて詳しく観ると、 い つ の 間 に や ら そ の 繊 細 微 妙 不 可 思 議 に 編 み 上 げ ら れ た
テクスチャーが、印刷の網目よろしく単位をつまりはそれを織りなす繊維の線条組織を露呈するのではないか。フラク
タルではない。過不足無い有機体の構造の経済に基づいたかのように構成された色面は、それを醸成する三原色の巧み
な組み合わせであることが判明する。指導動機はそれぞれが舌足らずなところを敢えて残すことで互いに組み合う鍵と
鍵穴のように凸凹を互いに繋がり合い、さらなる高次の単位をも組成するためのよすがとして機能的活用の具とするの
である。アレゴリーはここで、必ずしも同一次元に並列して一対一の対応物を示唆するのみならず、互いに組み合わさ
れて漸次次元を上げ、それを繰り返すことであわよくば三次元的あるいは四次元以よの実体在、架空の実体を、幻出さ
せる野望をも抱く。ホログラフ的な臨場感は、しかし写真に撮られた実景を想像してみるときの被写体自体と写真之の
薫異と同じく、クローズアップ感を免れ得ない。とは言う条それはあるいは認識行為そのものにはなからつきまとう宿
命かも知れない。ともあれ、元の実体以上に生々しく、ありありとした、実体の像。空気遠近法的な外部からの接近と
は一線を画すヴァ 1グナ!のアニメーション的舞台に視点は迷うことを与り知らない。ピントを合わせる必要ももはや
問題とならない。すべてが思い描いた様に見えるのは、見えているものすべてが思い描いたもの、すなわち想像の藤物
であることへと逆に思いを差し戻すのである。法外なエゴマニ 1 にして初めてこれを能く為し得たというべきか。
それにしてあヴァ lグナ!が現実世界を、恰も彼の創造物のように、手玉に取ったこと、現実の土俵であれほどまで
に実現したことは、なかなかそれに比肩しうる例を見出し難い。現実に創造行為を実現したその手腕と恵まれた星の巡
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り合わせとは、ヴァ iグナ 1 に於て生活者と芸術家とが希有の結びつきを得たことを嫌でも観る者に認めさせずには摘
かない。生活者ヴァ lグナ!と芸術家ヴァ 1グナ1 の野合とは一言わないまでも、前者を完全に後者が包摂して意味を与
えたと想わせるに足るのは、例えばトリスタンの例を引き合いに出すまでもなかろう。芸は身を助けるというより身そ
のものが芸に資する。そんな女性遍歴、にとどまらず人間遍歴をやってのけたのではなかったか。
それはまた、最晩年に至るまで、千篇一律の恋文と千篇一律の初々しい憧れの心を以て異性に、とは即ちうら若き異
性に、懲りず接近を試みたブルックナ!の一方通行路のような無限反復との何という対照だろう。老齢に達してなおし
きりとうら若い友性に結婚相手として交際を求めたことも亦、あるいは完全なる理想形への無限接近の試行錯誤の現れ
のひとつとして、これを自作修正癖に一種並行した心性の然らしむるところであったとも考えたくもなってくる。
命を投げ出してでも留めたいほどの美を空しく、 そ れ 故 ま た 永 久 に 、 探 し 求 め る フ ァ ウ ス ト と 、 己 自 身 が 流 転 き わ ま
りない美をたえず実現し享受しては、次から次へと移ろいゆく像を生成しつづけるメフィストとを、戯れに両者に除え
てみたくもなる所以である。
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マリ1![マリl ・デマ l ル]
親愛なる友
﹁一八八五年五月十一日、この上なく愛らしき、この上なく高貴なる
配の余りこれ以降の遣り取りをすべて書留にしたという。
心をくすぐられた模様、大喜びでそれに応じたが、ブルックナ!の方はといえば返事を貰えるまでは気が気でなく、心
るだけではなく、 マ リ ー か ら も 彼 女 自 身 の 写 真 を 貰 っ て く る よ う に 頼 ま れ た が 、 こ ん な 願 い に 少 女 は な の め な ら ず 自 尊
ささやかな想い出として捧ぐ﹂との献辞がその写真には添えられていた。カ1ティことカッヘルマイア夫人はただ届け
音楽家の心に並々ならぬ印象を刻印したとみえる。﹁我が崇め奉る最愛の恋人にして芸術の同志、 マリ1・デマ lルへ、
一九四六年七月四日以前とのみ知れる没年から察してニ十歳前ではなかったか。うら若きヴァグネリアンの女性は
合 っ た ら し い 。 彼 女 も ま た ウ ィ ー ン ・ ア カ デ ミ ー ・ ヴ ァ lグ ナ 1 協 会 の 会 員 に 名 そ 連 ね て い た 。 生 年 は 審 ら か に し な い
を 託 す 。 こ の た び の 相 手 は マ リ 1 ・ デ マ 1 ル と い う 妙 齢 の 女 性 で 、 宮 廷 オ ペ ラ 劇 場 で の ヴ ァ lグ ナ 1 協 会 の 催 し で 知 り
一八八五年一二月二日、すでに前年に還暦を過ぎたブルックナlは 、 家 事 手 伝 い の カ 1 テ ィ に さ る 女 性 宛 の 一 枚 の 写 真
てみる。
(2︺以下、ブルックナ lの風変わりなこれも亦、女性遍歴、と呼んでいいかどうか、その片思いの幾つかを、時系列に従って挙げ
?
註
カt
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貴 女 の 素 敵 な 御 写 真 に 心 か ら 御 礼 申 し ま す ! 貞 節 な 心 の 鏡 た る 麗 し い こ の 両 の 限 ( ま な こ ) ! 何と私をそれはた
び た び 慰 め て く れ る こ と で し ょ う ! 我が命の最後までこの聖遺品のような贈り物は私にとって変わらず大切なもので
あり続けることでしょう。かくも頻々とそれを眺めるにつけてもなんという悦びを味わうことでしょう!等々等々。貴
女のかくも貞節な御友誼をもお願いする次第です、この上なく親愛なるお嬢様!
これを私から奪い取ることなど決してなさいませぬよう! 小生の写真も亦、貴女にこそ永遠に変わらずお持ちいた Y
けますよう。
まさにそれと変わらぬ感謝を、ただいまバイエルン国王が小生の ︹第七交響曲の]献皇をお受け下さいましたことに
A. ブルックナ l﹂
対して捧げたところです。 レ1ヴィの功績です。 いま一度心からの感謝を申し上げて、貴女の善良なる美しき御手に接
吻致す次第です
貴女をことのほか敬う友
一八八五年六月卜一日には、音楽院に今年から席を置くミッチことマリ 1 ・ラインハルト嬢から、命名祝日を寿ぐ書
信が届く。日く、﹁心からお祝い申し上げますとともに、 かようなお手紙をじかに先生に差し上げます私のこんな身勝
手がお邪魔になりませんように願っておりますが、先生、私自身の心からのお祝いをお伝えすることは私にとりまして
ひとかたならぬ喜びであり栄誉でもあります﹂云々。即ち二日後の六月十三日はパドゥアの聖アントニウスに祝日に当
たる。なおブルックナ!の遺品の中にはこの女性の写真が残されていたよし。
一八八五年八月朔日ブルックナーは弟子オド・ロイドルの招きにより、多少の未練を残しつつもシュタイアを発って、
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クレムスミュシスターに赴く。というのもシュタイアではさる園遊会で一人の少女を見初め夕暮れ時には共に親しくダ
ンスに打ち興ずると、後にプロポーズにいたるまでの執心ぶりを示したからであった。
一八八六年ウィーン音楽院の冬学期にマリ 1 ・デマ 1 ル嬢がフェルディナント・レ 1ヴェの講義の聴講を登録した。
即ちそのころ第八交響曲のアダ1ジオに取りかかっていた音楽家はその主題について、或る乙女の眼からそれを読み取っ
たと語ったという逸話が残されているが、他ならぬその眼の主と目されているのがこの人であった。宮廷歌劇場でのヴァ1
グナ 1上 演 の 折 に 第 四 ガ レ リl席 で し ば し ば 出 会 う 機 会 が あ っ た と か 、 ブ ル ッ ク ナ ー を 敬 愛 し て い た 彼 女 は 、 面 識 を 得
たことを得意にも思えば、また音楽家の親切な人柄にも好意を抱いていたという。休憩時聞には観劇に与ったその作品
つまり私淑するヴァ lグ ナ ! の 音 楽 に つ い て 熱 狂 し て 語 り 合 い 、 ま た 彼 女 は リ ン ツ ア l ・トルテをふんだんに振舞って
もらうのが習いだったらしい。ほどなくこのつき合いは乙女の両親の知るところとなり、目出度く彼女を聞に挟んで両
親 と も ど も プ ラlタ1公 演 を 散 歩 す る 機 会 に も 恵 ま れ る こ と と な っ た 。 乙 女 を も て な す た め に は 何 事 も 辞 さ ず 、 と き に
は 人 目 を 憎 ら ず に ﹃ マ イ ス タ 1ジンガ 1﹄ か ら の 徒 弟 の 踊 り を 口 笛 を 吹 き な が ら 踊 っ て 見 せ た こ と す ら あ っ た と 伝 え ら
れる。やがて写真を交換したりして着々と歩を進めるものの、今回もまた懲りない臣匠の結婚願望は実を結ばない。もっ
ばら音楽家としてこちらぞ敬愛していた相手に求婚は容れられなかった。ちょうど完成した第八交響曲の献呈の申し出
を遠慮する慎ましさをもこの若い女性は心得ていた。デマ!ル嬢はやがて農業関係官庁の官吏と結婚することになるが、
仲間内では以降その夫の姓の頭文字と佳所とを合わせてシlヴァ 1リング[一九区の地名] の日と呼び習わされたという。
次 の さ る 公 女 に つ い て の 記 録 だ け は 、 求 愛 行 動 と は 別 で あ る が 、 女 性 の 目 に 映 っ た プ ル ッ ク ナ lを知あよすがとして
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﹂こに引く。
一八八六年十二月バイエルンのアマ 1リエ公女はウィーンに滞在して、 その折、皇帝の愛娘大公妃ヴァレ lリエに、
ブル川ノクナ1を宮廷に招くことを薦めた。かくして謁見の運びとなるが、 それに先だって音楽家はなじみの食堂へ立ち
寄り守コルトシュミットと出会う。 いつもながらの幅広で短めのズボンに百姓風の上着、おそろしく古びてすり切れて糸
目の見えるオペラハットながら、ブルックナーがいたく興奮の面持ちなので﹁おや、どちらへ、教授殿?﹂と問うと
﹁まったく、思ってもみて下さい﹂と応じて、﹁何とした思し召しゃら、││ヴァレ 1リエのところへ参らなければなら
んのです!﹂││﹁そりゃまた一体どうしてです?﹂教授殿は心此所に在らずの体でス lプを摂ったのみ、 その他は残し
て謁見の後で食べるから取っておくよう頼んで、 いざ宮城に出向くが、果たして門番がいっかな彼を通してくれない。
ようやくブルックナ!と顔なじみの役人が出てきて事なきを得ると思いきや、番兵に案内された控えの聞で長いこと待
たされたのは、あるいは丁寧周到の権化のような作曲家の一両が、過度に時期尚早の到着を強いたせいかもしれない。
ともあれ所定の訪問時間よりはるか前に着いてしまったと見える。待ちくたびれた頃に扉が聞いて現れた妙齢の貴婦人
は簡略な部展着であったために、なんとブルックナ lは一時、侍女と勘違いして歩み寄り﹁ねえ、もう時閉じゃありま
せんか!﹂と問うた相手が御本人ヴァレ lリ工大公妃殿下その人で、すぐその後から、こちらは顔なじみのアマ lリエ
公女が姿を見せた。いとも懇ろに二人の女性にもてなされてついつい多弁になると、積もる来し方の人生の苦労を物語っ
て巳まなかったという。挙げ句、 ハンス・リヒタ 1はジャーナリズム目当ての事ばかりしているが、彼が全身全霊を挙
げて成し遂げることとて、自分の爪の垢ほどにも及ばない、と得意満開で臆することを忘れたかのようであったという。
アマ lリエ公女自らの言葉によれば、﹁初めて私はブルックナ!の感動的な人柄を、かくも子供のような単純素朴さが
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高遁な意義深い天分と表裏一体になっているのをつぶさに知りました。また一方でこの自らの天分については御自身で
も意識しておられるとみえます。と申すのも、ブルックナ l君、君は偉大な作曲家だ、とリヒャルト・ヴァ lグナ lが
彼に向かって語りかけては彼の交響曲を上演することを約束してくれた、とも仰っておりましたから。とはいえそこに
は自慢げなところなど微慶もなかったのです﹂。皇女はまた、当時作曲中の第八交響曲のスケルツォ楽章をブルックナ l
が﹁ドイツの野人﹂と呼び、また終楽章は葬送行進曲で、 そ こ に は 恰 も 故 人 の 臨 終 の 床 の 周 り を 囲 む よ う に 、 件 の 野 人
を含め、あらゆるモチーフが相集うのだ、と諮ったことを伝えている。
いつまでも永遠の少年の恋心は続く、以下ふたたび同様の一方通行的求愛の例を拾い続けると、
一八八七年は年初からあげて第八交響曲の完成に向けて遁進、仕上がるや否や、まさに三日に上げず、翌々日にはす
でに次作第九に筆を下ろしているが、その第九が仕上がった暁にはオペラにいよいよ取りかかる夢をもちかけた女性ゲ
ルトル!ト・ボレとも出会っている。ペテルスブルク音楽院に学び、家の事情からウィーンに滞在する、さるドイツ系
ロシア人女性が自作歌曲についてブルックナ 1 に 評 を 求 め る 仲 介 を 務 め た こ と が 、 そ の 接 触 の 機 会 と な っ た 。 ト リ ス タ
ンへの熱狂を分かち合うところから、すっかり意気投合して談論風発の歓談の一時を過ごすと、 それ以降も時折音楽家
は散歩の途中に女性の所に立ち寄る習慣となったという。﹁以来ブルックナ!は散歩の道すがら私の住いにお寄り下さっ
て、たいていは半時間ほどでしたが、稀にはそれより長く居られることもありましたliすぐさまピアノに向かってミ
サか交響曲のどれか一つからの主題、 でなければおそらくヴァ 1グナーからの幾つかの楽想を、上手く行くかぎりで弾
いて下さいましたが、と申しますのも彼はそもそもピアニストではなかったからです。それからそそくさとじきの再訪
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を約束して辞去されます。必ずしも私が現代の音楽文献についての彼の見解に賛同しないことがあっても、 いつこう気
を悪くされることなどありませんでしたが、それはおそらく、私が霊的発作と呼んだものや、また彼にとって神聖であっ
たものに対する、私の現解が未だ十全に開花し切っていないことを予め理解なさっていたからだと思います。 一度たり
とも私の個人的事情についても、私の宗教についてもまた尋ねられたことがありません。個人的問題については全く触
れることがなかったのです。私がプロテスタントであり、確信ある自由精神の持ち主であることを、仮にも予感されて
いたならば、天真澗漫なカトリック儒者であられた教授は、私を憐み避けられたかも知れませんが、申しましたとおり、
そんなことが私たちの話題になることは一切ありませんでした。﹂また当時の話題をさらったグノ 1 の﹃ファウスト﹄
についてはその原作に最高の賛辞を惜しまなかったと同時に、果たして原作者ゲl テはオペラについて何と言っただろ
うかとのブルックナ!の発言に対して、ボレ嬢が熱烈にブルックナ!自身のオペラ創作を勧めると﹁そうならないとは
誰 も 言 い 切 れ な い が 、 し か し も っ と 後 の こ と だ ! 私の︿第九﹀が仕上がってからのことだ。なぜ私がオペラを作曲し
て い け な い こ と が あ ろ う か 、 だ が 難 し い の は 私 に 訴 え か け る 台 本 を 見 つ け る こ と で す ! あのヴァ 1グナ lは自身詩人
だった││けれど私にそんな能力はありません!﹂との答えを得てボレ嬢は後年、台本提供そ自ら、ただし偽りの男性
名によって試みることになる。
一八八八年十一月五日にブルックナ1は さ る 女 性 に 返 信 是 認 め る 、 ﹁ 小 生 の こ と を い か が お 考 え で し ょ う か ? 貴女
の心のこもったお手紙には筆舌に尽くし難い喜びを覚えました次第にて、 マルタ様がリンツにお着きになるまで、その
お手紙を先ずは服の隠しにしまって心から大切に致して待ちわびておりました。ところが突如として小生のこの宝物が
もう見つからなくなってしまったのです。家のカティのせいかもしれませんが││探してみましたが甲斐のないことで
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した。という次第にてこの宛先は、小生が住民台帳から探し出したものです。/こんな御厚意に衷心から御礼申し上げ
ますとともにまことに押しつけがましいことでは御座いますが貴方のかくも麗しきお写真を頂戴出来ますようお願い致
します。(実情を申し上げますと)今すぐお会いするわけには参りません。 であればこそ貴方のお姿を頻繁に拝みたい
のです。/小生おそろしく多忙を極めまして、そのせいでいささか気が滅入っております。是非とも御健康でい、りして
下さい、小生は完全に健康とは申せません、そのため先ずはシュレ 1タl教授に診てもらうことになるでしょう││咽
頭のためです。/やんごとなき知事夫人様に小生から御手への接吻をお伝え下さいますよう、知事様にも小生からの敬
、
愛 を お 伝 え 下 さ い ま す よ う ! 貴方の御手に接吻の御挨拶ぞ申し上げつつ/立方を敬愛する友/ A
・ ブルックナ l
区ヘス小路七番﹂。この手紙の宛先は、 その地の弁護士エルンスト・イェ lガ1博士の邸で家庭教師を務めるマルタ・
ラウシャ!という人であった。リンツの住民登録帳にはマルタではなくマリアと記載されているが、音楽家からの手
紙 は 無 事 届 い た ら し い 。 果 た し て ブ ル ッ ク ナ l の切なる願いは叶えられたとみえ、二三日付の礼状が残る、﹁貴方の
素敵な絵姿を頂戴して、小生の喜びが如何ほどかとても言葉には尽くせません。衷心から御礼申し上げます。かくも
見事に撮影された方は、何時も仰るように取るに足りないなどと言っていただくわけには参りません。高過な知性を
具え、見事な教養を蓄えられた、麗しき女性であります、しかもこの上なく高貴な婦人道徳を身につけておられます!
さらなるお近づきを許されるなら誰もが、ただただ感歎して、貴女が今あるが偉にあり続けて欲しいと神に願うこと
でしょう!:﹂
一八八九年五月五日にはリンツで、新任の司教フランツ・マリア・ドッペルパウア lの就任式にブルックナ1はオル
ガンを奏した。礼拝の儀式を了え、俄に決心してブルックナ lは薬剤師の娘リ lナ・オ 1ピッツに求婚する。それに触
5
3 久遠の憧慢
れてゲレリヒはこう伝えている、﹁ベートーヴェンの場合にも似てブルックナーも亦、 いつも優しい女性の愛への想い
を胸に抱いていた。寄る年波と、 い よ い よ 募 る 病 が ち の 日 々 に 家 事 の 秩 序 へ の 希 求 を ま す ま す 身 に 染 み て 感 じ る よ う に
なってきた。かくして生涯の伴侶を求める試みを重ねるものの、もとよりその都度失敗に帰するのであった。そのよう
な折り、旧大聖堂の合唱隊の中に若くて愛らしい少女が目に留まったのである。突如として恋の炎が彼の胸中に燃え上
がった。もはや彼女から目が放せず、彼女の後について走り回り、 つ い に は 彼 女 に 付 き 従 っ て ウ ア フ ァ ー ル の そ の 両 親
の家にまで赴いた。それはオIピ ッ ツ と い う 薬 剤 師 の 娘 で あ っ た が 、 そ こ へ 赴 く 道 す が ら 、 唐 突 に も ブ ル ッ ク ナ lは求
婚 し た の で あ る 。 彼 女 に 約 束 し て 臼 く 、 彼 女 の 名 は リ lナといったから、﹁リ 1ナ 交 響 曲 ﹂ を 作 曲 し て 榛 げ る 、 と 。 至
極当然ながら彼は、この十七歳の娘から肘鉄を喰らう次第とは相成った﹂。
一八八九年十二月朔日、待降節の第一日曜日に当たる日に、第三回フィルハーモニー定期演奏会の一階立見席でブルッ
クナ lは一人の貴州人に寄り添って常になく優しい口調で近づきを求めた。その相手ヴァレ 1リエ・エ 1ドレ・フォン・
ピ ス ト ー ル 嬢 は ウ ィ ー ン 音 楽 院 で ピ ア ノ を 修 め た 妙 齢 の 女 性 で 、 や が て ベ ー ゼ ン ド ル フ ァ 1 ・ザ1ルで開催されるその
ピ ア ノ ・ コ ン サ ー ト に 彼 は 足 繁 く 通 い 詰 め る こ と と な る が 、 例 に よ っ て ヴ ァ l レ1リ エ 嬢 と も 写 真 を 交 換 し 合 い 、 彼 女
はブルックナ!の苛楽の熱烈なファンとなり崇敬の念を手紙にも披歴している。ところで、翌年から始まったそのコン
サlトの数々は専門家筋からも高い評価を受け、 の み な ら ず 貴 族 階 級 の 社 交 界 で も 活 躍 し 、 ま た 一 九 一 二 年 に は ロ ン ド
法学部教授)
ン は マ ル ヴ ァ イ の 音 楽 学 校 に 赴 く 。 戦 争 勃 発 に よ り 帰 国 、 ハンガリー、クロアチア、北イタリアなどに足跡を残す。
(すなが・つねお
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