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管見W
明治大学教養論集 通巻451号
(2010・1) pp. 1−30
シャトーブリアンChateaubriand
管見IV
内 海 利 朗
1▽。『アメリ力紀行』Voyage en Am6rique(PP. 664−888)
1。序論(PP. 664−669)
1794年に書かれた『歴史的試論』1’Essai historique−t』.p.・236.(Euvre
compl.一.(cf. P.1289の注, P. 664の1.『諸革命に関する歴史的試論』Essai historique sur
les r6volutions, ll c partie. chap. XX皿, n. A,プレイアード版テクスト, PP. 352−353を
見ること)のある注において、私はかなり広範囲に亘る諸々の細部と共にア
メリカに移動しての私の目論見が何であったかを語り;私は幾つもの著作
と特に『アタラ』の序文において幾度も同じ目論見について話しをした。
私はハーンHeame(?)によって1772年に目撃され、1789年にも
っと西でマッケンジー一’−Mackenzie一スコットランドのインヴァネスlnvernesse生ま
れの航海士。1755−1820.自分の名前を付けた河を発見した一によって見掛けられ、
1819年にはランカスターLancastre海峡(?)を横切り、レクラ1’H6cla
(?)とラ・フユリーla Fury海峡(?)の先端でそれに近づいたパリー船
長1e capitaine Parry一この大胆不敵な船乗りは櫨で北極まで行く意図を持ち,ノルウ
エー領で,北極海で殆ど人の住んでいない島々の群れであるスピッツベルクSpitzbergに
向けて再出発していた.彼は緯度Nの82度45分の氷上に61日間留まっていた。なおパ
リー船長はバースBath生まれのイギリスの船乗りで,北極地域の数多くの探検を企てた
人であり,そこで彼はメルヴィル島やウイリングトンWillington海峡(?)を発見した一
によって踏査された北極海と再び出会って、アメリカ北西部への通路を発
見する以外のものは何びとつ切望していなかったし;最後のフランクリン
2 明治大学教養論集 通巻451号(2010・1)
船長le capitaine Francklin(John)一スピルスビーSpilsby生まれのイギリスの航海
士で,北極探検中に死去した。北西への通路の発見を負っているのは彼の使命を追求す
るためになされた彼の様々な企てのおかげである.1786−1847一は1821年にハ
ーンの川を、そして1826年にはマッケンジーの川を相次いで下ったあ
とで氷の帯が取り巻き、それまですべての船を拒絶していたあの大洋の周
辺を探索したのであった(cf. P. 1280の注, P.・664の2.この探検の話は『諸旅行の
新年報』Nouvelles Annales des Voyages,2e s6rie., t. VI, PP. 410−413の1827年12月号
に基づいている.同じ号はフランクリン船長の最後の消息を伝えている。PP. 413−416)。
フランス固有のひとつのことを指摘しておかなければならない。その大
部分の旅行者たちは孤立した、彼ら本来のカと彼ら本来の天分に委ねられ
ている人々であった。まれに政府または特別の会社が彼らを雇いまたは支
援した。もっと思慮に富んだ外国の民たちは国家の意志の協力によってフ
ランスの個々人が成し終えることが出来ないことをしたのである。フラン
スにおいて、人々は勇気があり、勇気は成功を齎したが、しかし成功を手
に入れるには勇気だけでは十分ではない。
私が自分の辿る道ma carrl 6reの終わりに近づいている今日、私は過去に
一瞥を投じて、私が自分の旅の目的を達成していたならば、その辿る道が
如何に変えられた可能性があったかを考えざるを得ない。多分私はものを
書くという不幸を決して持たなかったであろうし;私の名前は無名のまま
に留まったか、または羨望を少しもかき立てない、そして栄光よりも幸福
を告げる平穏無事なあyした風評のひとつがそれに結び付けられたであろ
う。私が大西洋を再び渡ったかどうか、その様々な征服の最中にある一人
の征服者のように、私が自分によって発見された人気の無い場所に落ち着
かなかったかどうかさえ誰が知っていようか? 私がヴェローナーイタリ
ァの都市一の会議に姿を見せなかったであろうということも、そしてパリの
カピュジーヌ街rue des Capusines(1区)にある外務省のレストランで私が
“閣下”Monseigneurと呼ばれていなかったかもしれなかったことも本当
シャトーブリアンChateaubriand管見IV 3
である。
そんなすべてのことは旅の終わりにはどうでもよいことである:幾つも
の道の多様性がどうであれ、旅行者たちは共通の集合地に到着するし;彼
らはそこで皆同じように疲れており;それというのもこの地上では走行の
始めから終わりまでたったの一度でも休息のために座るということが無い
からである。
私は自分の幾つかの書物で幾度となくそう言ったのだから、私の目的が
何であったかを繰り返して言うのはしたがって無用である。もし私が自分
の大きな発見に必要な諸方策をまず最初に手に入れることに成功すれば、
この最初の旅が最後のものになり得たということを読者に気付かせれば私
には十分であろうが;しかし私の予期しない障害によって阻止されれば、
この最初の旅は第二のものの端緒、原野の中での一種の偵察に過ぎないも
のである運命となった。
私が選ぶようになるのが見られることになる進路が明確に説明されるた
めには、私が自分に描いていた構想もまた思い出さなければならない:そ
の構想は前述の『歴史的試論』の覚書の中で急いで草案が作り上げられる。
読者はそこで北に湖る代わりに、私がカルフォルニア湾の少し上で、アメ
リカの西海岸に挑むようにして、さらにその上で西に進みたいと望んでい
たことがお解りになるであろう。そこから、大陸の側面に沿って進み、常
に海を見て、ベーリング海峡まで北に向かい、アメリカの最後の岬を迂回
し、北極海の沿岸に沿って北に下り、ハドソン湾la baie d’ Hudsonとラブラ
ドル半島le Labradorとカナダを経て合衆国に戻ることが私の計画であった。
太平洋の非常に長い海岸を踏破する決心を私にさせるものは人々がこの
海岸について持っている多少の知識であった。ヴァンクーヴァー一 Vancouver
での討議のあとでさえ、北緯40度と60度の間の通路の存在については幾
つもの疑問が残っていた。コロンビア川la riviere de la Colombie(?)、ニ
ュー・コーンウオールle nouveau Comouaillesの鉱脈(?)、チェルチョフ
4 明治大学教養論集 通巻451号(2010・1)
Cherchoff海峡、アラスカ・アリューシャン列島les r6gions Aleutiennes、ブ
リストルBristolまたはクックCook湾(?),チューコチェス・インディア
ン達les Indiens Tchoukotchesの幾つもの土地、そうしたすべての如何なる
ものもコチェブエKotzebue一ドィッの探検家1787−1846−、さらにはその他
のロシア人またはアメリカ人の船乗りたちによってまだ探査されていなか
った。フランクリン船長も数千里の一巡を避けて、北にのみ見出すことの
出来るものを西に求める労苦を免れたのである。
今や私は自分の『全集』(Euvres completesの総括的序論と私が自分の人
生の幾つかの特徴をそこで語った『歴史的試論』の序論の様々なくだりを
思い起こして下さることを読者にさらにお願いしたい。私の父によって海
軍に入ることが、私の母によって聖職者の身分になることが望まれていた
私は自ら地上勤務の役所勤めを選び、ルイ十六世Louis XVIに謁見される
ことになっていた:宮廷に出仕する栄誉に浴し、有蓋の豪華な四輪馬車に
乗るためには、その時代のことばを用いれば、少なくとも騎兵隊の大尉く
らいの地位を持たなければならなかったが;そのようなわけで、私はナヴ
ァールNavarre一ピレネーPyrenees山脈地方一の連隊の実のところは歩兵隊の
少尉であったのだが、名目の上では騎兵隊の大尉になっていた。モルマー
ル侯爵1e marquis de Mortmart一ラ・マンシュLa Manche地方から出た旧家で,ルイ
十四世Louis XIVの愛妾であるドゥ・モンテスパン侯爵夫人la marquise de Montespanの縁
戚に当たる一がその大佐であったその連隊の兵士たちが他の連隊と同様に
反乱をおこしてしまったので、私は1790年の末頃にすべての絆から解
放された。1791年の初めに私がフランスを離れた時に、革命は大股で
進行していた。革命が根拠を置いている行動原理は私の行動原理でもあっ
たが、しかし私はすでに革命の名誉を傷つけていた暴力を嫌っていた:私
の好みにもっとも適い、私の性格にもっとも好感の持てる独立を私は悦ん
で求めようとしていたのである。
この時機に、亡命の動きが増加していたが;しかし人々は戦っているわ
シャトーブリアンChateaubriand管見IV 5
けではないので、どのような名誉の気持も私の分別に逆らってコブレンツ
Coblenz一ライン河とモゼル川との合流点にあるラインラント地方のドイツの都市で,
1792年にはコンデ公le prince de Cond61734−1818の軍隊を作り上げていた亡命者たちの
集結の場所になった一の狂気に私が身を投ずることを強制しなかった。もっと
穏当な亡命がオハイオの海岸の方へ進むべき路を見つけており;ひとつの
自由な土地が彼らの祖国の奔放さを逃れる人々にその隠れ場所を提供して
いた(cf. P.1281の注, P.667のLヴォルネイVblney一フランスの博識家で,メーヌ
Maine地方クラオンCraonの生まれ,1757−1820一は『アメリカ合衆国の気候と土壌の一
覧表』Tableau du climat et du sol des Etats−Unis d’Am6rique,1803, t ll, P. 361ならびにそれ
以下において1790年に設立されたガリポリスGallipolisならびにシオトScioto会社に一
章のすべてを当てている.宣伝が《合衆国の中でもっとも美しい地域》として描いてい
るものの中で,彼は植民地人たちの貧困さとアメリカ人たちの無情さと未開人たちの敵
意と気候の厳しさについて強調している)。
1791年の春に、私は自分の尊敬に値する、立派な母親に別れを告げ、
そしてサン=マロSaint−Malo一シャトーブリアンの郷里ブルターニュBretagne地
方の港町一で乗船し;私はワシントン将軍一1732−1799.ヴァージニア地方で
生まれ,アメリカ合衆国の創設者の一人で,1789年からユ797年の間初代の大統領となる
一にラ・ルエリー侯爵le marquis de La Rouairie(cf. P.1281の注. P. 678のnJ
以下を見ること)の一通の推薦状を持って行った。彼はアメリカで独立戦争
を行なっていたのであった:48時間ののち、われわれには陸地が見えなく
なり、そしてわれわれは大西洋に乗り出した。
一度も航海したことの無い人々は船のへりからもはや海と空しか見えな
い時に抱かれる気持について一応の見当をっけるということは難しい。私
は“自然についての二っの展望”と題する『精髄』の章と『ナチェーズ族』
におけるシャクタスに私自身の感動を提供して、そうした気持を描写しよ
うと努めた。『歴史的試論』や『エルサレムへの道』は同じく人々が大洋の
荒野と呼ぶことの出来るものについて抱く様々な思い出や様々なイメージ
6 明治大学教養論集 通巻451号(2010・1)
で満たされている。私が海の真ん中にいるということ、それは自分の祖国
を離れなかったということであったし;それは、つまり、私の乳母によっ
て、私の最初の喜びの打ち明け話しの出来る相手によって、私の最初の旅
に運ばれるようなものであった。読者を彼がこれから読もうとしている見
聞録の精神にもっとよく共感させるために未完の私の『回想』の幾ページ
かを引用することを私にお許し願いたい:殆ど常にわれわれのものの見方、
感じ方はわれわれの青春のおぼろげな記憶に起因している。
ルクレティウスLucretius一前99−55.哲学的教訓詩『世界論』De Rorum Natura
を著した.ギリシャの哲学者エピクロスの哲学の祖述も行なった,唯物論的世界観の持
主一の次の詩句が当てはまるのは私である。
そして子供は残酷な波で岸辺に投げ出された水夫のように
Tum porra ut savis projectus ab undis
Navita. V.222−223.
《神は私の幼年期に私の運命imageを置きたがった。風や波の仲間とし
て育てられ、私の最初の師匠たちであったあれらの波、あれらの風、あの
孤独は多分私の精神の本質や私の性格の独立不羅の特性にもっとも相応し
かった。多分私は自分の知らなかったと思われる何らかの勇気をこの荒々
しい教育に負っている:本当のところ如何なる教育もそれ自体としてもう
ひとつ別のものよりも好ましくないということである。神は御自分がなさ
ることをきちんとなさっておられるし;神の摂理がこの世の舞台でわれわ
れにひとつの役を演じることを求める時に、その神の摂理がわれわれを導
くのである》(cf. P.1281の注, P. 668の2.この本文は『回想』の決定版では異なっ
た形を見出すことになる一プレイアード版テクスト,1,P. 38−)。
子供時代の幾つもの細かい事柄のあとで、私が学んだ事柄の細かいもの
が幾つもやって来る。父親の家から逃れて間もなく、私はパリや宮廷や社
シャトーブリアンChateaubriand管見IV 7
交界が私に対して与えた印象を述べ;私は当時の社会や私の出会った人々
や革命の初期の様々な動きを描く:様々な日付の連続が私を合衆国への出
発の時期に連れて行く。港に赴いて、私は自分の子供時代の一部がそこで
過された土地を訪れた:私は『回想』に語らせる。
《私はコ、ンブールCombourg一サン=マロ近郊の町シャトーブリアンが青春時
代の一部を過ごした封建時代の城館がある一に三度だけ再会した。私の父の死去
の折、全家族が別れを告げるために城館に集まっていた。二年後に私はコ
ンブールに母と同行し;彼女は古い館に家具を備え付けることを望み;私
の兄はそこに義姉となる人(脚注A.ドゥ・マレゼルブde Malhesherbes氏の孫
娘に当たるドゥ・ロザンボ嬢Miie Rosanboで,彼女の著名な祖父と共に彼女の夫や
母親と共に処刑された).一マレゼルブの生涯は1721−1794に亘り,廉潔で,公正な司
法官であり,ルイ十六世の大臣であったが,特権階級の人々の対立を前にして身を引い
た.彼は国民公会Convention nationale 1792−1795つまり革命会議の前で国王を擁護し,
死刑台で死んだ一を連れて来ることになっていた:だが兄は一度もブルタ
ーニュには来ず;そして間もなく、そのために私の母が新婚の床を準備し
ていた若妻と一緒に彼は死刑台に登った。最後に、私はアメリカに移る決
心をした時に、港に赴く途中でコンブールに立ち寄った》。
《十六年の不在のあとで、ギリシャの遺跡に向けて祖国を離れる心づも
りをしていた私は私の気の毒なブルターニュの諸荒野の最中にある私の家
族に残されているものの全体を一望のもとに視野に収めに行ったが;しか
し私は父の田舎のあちこちの巡礼を企てる気持にはなれなかった。私が現
在の自分のように取るに足らぬ者になったのはコンブールの霧の中におい
てであり;自分の家族が集まり、そして散りちりになるのを私が見たのも
そこである。われわれは十人子供たちであったが、もはや三人だけが残っ
ている。私の母は苦しんで死んだが、父の遺骨は風に委ねられた》。
《もし私の著作があとに残れば;もし私の名前が残されなければならな
くなれば、多分ある日私の『回想』に導かれて、旅人は私が叙述した様々
8 明治大学教養論集 通巻451号(2010・1)
な場所に一瞬足を留めるかもしれない。彼は城館を再認識するかもしれな
いが、しかし大きな並木道le grand mailまたは大きな林を求めても無駄に
なるかもしれず;彼はすっかり失望させらてしまうのがおちだ:私の様々
な夢想の中の揺り籠はあれらの夢のように消えたのだ。その岩山に唯ひと
っ立ったままである昔の主塔はそれを囲み、嵐に対してそれを守った樫の
木々に済まなく思っているような様子である。主塔のように孤立した私は
自分の人生を美しくし、私に避難所を提供してくれていた家族が私の周り
で主塔が倒れるように消え去るのを見た:幸いなことに、私の人生は私が
自分の青春時代をそこで過ごした幾っもの櫓(やぐら)のように堅牢な地
面の上には建てられてはいない》。
読者たちは今では私という新たな旅人を識っており、彼らはその旅人の
最初の生涯の話しに関わり合おうとしているのである。
2。旅(PP. 671−685)
私がそう述べたように、私はそれ故サン=マロで乗船したが(cf. p. ]281
の注,P. 671の1.160噸の小さい二本マストの小帆船にはサン=ピエールSaint−Plerre号
と記されていた。乗客名簿は出発の目付として1791年4月7日を表示している。船長の
名前はパントゥヴァンPintevjnであった,−G.コラColasの《サン=ピエール号の装備
の機能》,シャトーブリアン協会会報 Bulletin de la Socl6t6 Chateauburiand,1935を見るこ
と一。この話しを1822年の『回想』,1「e partie,1iv. V a皿が提示しているものと比較する
ことは不可欠である);われわれは沖に出て、1791年5月6日の朝8時頃、
アゾレス諸島Acores一ポルトガル領一のひとつ、ピコPico島の尖峰をわれ
われは見出した:数時間後、グラシオーサGraciousa島の前にある、岩礁
の奥まった所に見られる不出来な停泊地に投錨した。人々は『歴史的試論』
でそれに関する記述を読むことが出来る(cf. P.・1281の注, p.・671の2.第二部,
54章,プレイアード版テクスト,PP. 423−424.『試論』のその断章は《“自然の諸描写”
Tableaux de la Natureと題されるシャトーブリアン氏の未完の著作の新しい一節》を導入
シャトーブリアンChateaubriand管見IV 9
する緒言が前に付けられている『アキテーヌの蜜蜂の群れ』la Ruche d’ Aquitaine誌,628
号よって,ついで『諸旅行の日記』le journal des Voyages, t, X−1821−, PP. 225−232によ
って繰り返されることになる。この話しは手直しされて,『回想』一引用された版,1.・PP.
205−268一に置かれることになる)。この島の発見の正確な日付は知られていな
い。
それは私の近づいた最初の外国の土地であり:その理由そのものによっ
て青春時代の刻印と活発さを私において保持しているその思い出が私に残
った。私はシャクタスをアゾレス諸島に連れて行き、初期の航海士たちが
それらの岸辺に見出したと主張している有名な像を彼に見せることを怠ら
なかった(cf. R 1282の注, P.・671の3.その事柄は『精髄』−1’e partie, liv・1, chap, H.
プレイアード版テクスト,P. 473一ならびに『回想』.1「epartie. VI. lv−t. L P. 207一に
おいてその伝統的な像に言及しているシャトーブリアンに強い印象を与えた.『ナチェー
ズ族』においてシャクタスは彼のアメリカへの帰還の途中でその像に着目している.問
題となるのは実のところコルポCorbo−?一の西の端に積み重ねられているようになっ
ている溶岩であった.その像は航海士たちにより遠くに行くことを許さなかったので,
と人々は主張していた)。
風によってニューファンドランド・バンク1e banc de Terre−Neuveに押し
やられて、われわれはアゾレス諸島からサン=ピエール島に第二の寄港地
を設けることを余儀iなくされた。《T(cf. p.1282の1, p.・671の4, Tullochテユ
ロッシュ.改宗した新教徒の若い神学生,引用された版のこの青年に当てられた『試論』
の長い注一PP.・421−422一と『回想』−t.1.・P.・204一を見ること)と私、つまりわれわ
れはこの恐ろしい島の山岳地帯に出歩きに行き;島が絶えずそれで覆われ
ている霧の最中で道を失い、雲や風の吹きすさぶ最中を彷径い、羊毛に似
た、動きの無いピースの生い茂った荒地や、岩山の間に轟く赤みを帯びた
急流のほとりで道に迷わされて、われわれが発見することが出来ない海の
喩りを耳にした(cf. P. 1282の注, P.・671の5.引用された版のP.・422の注解.シャト
ーブリアンは《“コナの吟遊詩人”le Barde de Conaではないかと思わせる》Tの《感受性
10 明治大学教養論集 通巻451号(2010・1)
鋭敏な想像力》に基づいて文章の構成要素のひとつを削除している)。
あちこちの渓谷には様々な部分にその若い新芽が苦いビールを作るのに
役立つ一種の松が生えている。島は幾つもの岩礁に囲まれており、それら
の岩礁の間で海鳥たちが春にそこに巣を作るが、それが鳩舎colombierに
似ているのでそう名付けられている巣が人目を引く。私は『精髄』の中で
その描写をした(cf. P.・1282の注。 P.・672の1.1「e partie, liv. V, chap. Vm)プレイア
ード版テクスト,P.・575.シャトーブリアンはこの《抗壊血病性のantiscorbutiqueビール》
のことを『回想』の中で話している一t.1,P. 213−)。
サン=ピエール島はかなり危険な海峡によってニューファンドランド島
から分けられており;その荒涼とした丘陵から、ニューファンドランド島
のさらに荒涼とした岸辺が見出される。夏には島々の砂浜は太陽に干上が
っている魚で覆われ、そして冬には漁師たちによって忘れられた残り物を
貧る白熊によって覆われる。
私がサン=ピエール島に近づいた時に、私がそれについて思い出す限
り、島の中心部は一本の長い街路から出来ていた。大変もてなし好きな住
民たちはわれわれに彼らのテーブルや家を急いで提供してくれた。総督は
町の先端に住んでいた。私は彼の家で二・三度夕食をとった。彼は要塞の
濠のひとつでヨーロッパの幾つかの野菜を栽培していた。夕食のあとで彼
が私に彼の“庭”を見せたことを思い出すが;ついでわれわれは要塞にじ
っと立っている旗竿の足元に座りに行った。祖国について話しながら、わ
れわれがニューファンランド島の荒涼たる海や陰気な海岸を見つめている
間に、フランスの国旗はわれわれの頭上ではためいていた(P.ユ282の注P.・672
の2,『回想』,[「e partie, VI,5−t.1, P. 210−)。
15日間の寄港ののちに、われわれはサン・ピエール島を離れ、そして
船は南に向かって進み、メリーランド地方やヴァージニア地方の沿岸に達
した:凪がわれわれを停止させた。われわれはもっとも美しい空に恵まれ;
夜と日没と日の出がすばらしかった。すでに引用された《二つの展望》と
シャトーブリアンChateaubriand管見IV l1
題された『精髄』の章で、私はこうした夜の荘厳さのひとつとこうした日
没の華麗さのひとつを思い起こした。《波間に沈もうとしている太陽の丸
い形は無限の宇宙の最中で、船の索具の間に姿を見せていた。など》。
ある偶発事がもう少しで私のすべての計画に終止符を打つところであっ
た。暑さがわれわれを打ちのめしており;船は穏やかな凪の中で、帆も上
げられず、その幾つもの帆柱であまりにも重荷を背負い過ぎて、横揺れ(ロ
ーリング)に悩まされていた。甲板で日に灼かれ、船の動揺に疲れて、私
は泳ぎたくなり;われわれは外側に短艇chaloupe(f)を全く持っていなか
ったにも拘わらず、私は第一の斜?k le beaupr6一船の舳先から前方へ斜め出てい
る帆柱一から海へ飛び込んだ。最初はすべてがうまく行き、幾人もの船客た
ちが私の真似をした。私は船を見ないで泳いだが;しかし私がたまたま頭
の方向を変えた時に、私は流れが船をすでにかなり遠くに押し流している
ことに気付いた。乗務員たちは甲板に駆けつけていたし;他の泳ぎ手たち
にはロープが繰り出されていた。何匹もの鮫が船の吃水に現われたので、
それらを遠ざけるために、縁(へり)から数発の銃が発射された。うねり
はとても大きく、それは私の帰還を遅らせ、私の体力を使い果たさせた。
私の下には深淵がありそして鮫たちには絶えず私の片腕や片脚を私から奪
い取ることが可能であった。船の上で、人々はボートを海に浮かべること
に努めていたが;しかし巻揚機(ホイスト)le palanを据えなけばならず、
そしてそうするにはかなり時間が掛かった。
極めて幸いだったことには、殆ど感じられない微風が起こり;船は多少
ひとつの方向に進み、私に近づき;私はロープの端をすばやく掴むことが
出来たが;しかし私の無鉄砲さの仲間たちもそのロープにしがみつき;そ
してわれわれが船の側面に引き寄せられた時には、彼らは彼らの重み全体
で私にのしかかっていた。かくしてわれわれは一人一人水から引き上げら
れたが、それは長くかかった。ローリングは続いており、横揺れごとにわ
れわれは波の中に10か12フィート沈み、または釣糸の先の魚のように
12 明治大学教養論集 通巻451号(2010・1)
同じ位のフィートで空中に吊り下げられていた。最後の冠水で、私は気を
失いそうになり;さらにもう一度ローリングがあったら、それで万事休す
であった。結局半ば死んだようになって、私は甲板にひっぱり上げられた。
この偶発的な出来事の数日後に、われわれは陸地に気付いたが;その陸
地は水のただ中から出ているように思われる幾本かの木々の頂きによって
輪郭が描き出されていた:一一人の水先案内人がわれわれの船にやって来た。
われわれはチェサピーケChesapeake湾(?)に入り、そしてその晩のうち
に一隻のランチが水と新鮮な野菜を求めに派遣された。私は陸に行く集団
に加わり、船を離れて30分後に、私はアメリカの地を踏んだ(cf. p.1282
の注,P. 673の1.《もう少しで∼であった》から《アメリカの地》まで,本文は『回想』,
t.1,PP.215−216に再び見出されることになる.以下にモンデジールMond6sir神父によ
って語られた情景がある一V.ジローGiraud:『シャトーブリアンに関する新しい諸研究』
Nouvelles Etudes sur Chateaubriand, Hachette,1912, PP l62−166−《私に言わせれば.殆ど
ドン・キホーテとも言うべき向こう見ずな試みをすることを好む騎士が大洋そのものに
おいて海水浴をすることを望んだ:水夫たちは彼がすでにそうしたことがあったかどう
か彼に尋ねてみたのだが,そんなことはしたことがないという返事だったので,そのよ
うな危険な気まぐれは止めさせようと努めた;だが彼に屈せざるを得なかった.われわ
れは皆,司祭たちもユダヤ教の神父たちも,それぞれの部屋に降ろされた.その水泳を
する者は真っ裸になったので,両腋の下にベルトとロープをそれぞれ何本も通させ,そ
の上で彼はそのようにして水面に下り立った.彼の両足がそこに着くやいなやその英雄
は気を失い,そして一匹の鮫が彼を二つに裂いてしまうことを恐れて,急いで彼を引き
上げなければならなかった.上甲板で我に帰った彼は“どうです,私はともかくどう対
処すべきかを心得ていますよ”,言い始めた》)。私は両腕を組んでしばらくそのま
まの状態で留まっており、その時には整理出来なかった、そして今日では
描写することも出来ない様々な感情と考えの入り混じった状態で、私の周
りに私の眼差しを彷復わせていた。古い様々な時代の全期間の間、そして
近代の幾世紀もの間、その他の世界から知られていなかったこの大陸;こ
シャトーブリアンChateaubriand管見W l3
の大陸の初期の未開の必然的な諸状況destin6es(f. p1)、クリストフ・コロ
ンブスChristophe Colomb−1446?−1506一の到来以後の第二の必然的諸状
況;この“新世界”Nouveau Mondeの出現で動揺させられたヨーロッパの
諸君主政体の支配力;若いアメリカにおいて終わる古い社会;その時まで
知られていなかった種類の、人間精神におけるそして政治的秩序における
ひとつの変化を告げるひとつの共和政体;私の祖国がそれらの情勢に対し
て果たした役割;それらの独立が部分的にフランスの旗とフランスの血の
おかげを蒙っているあれらの大海原やあれらの諸沿岸地方;一世紀前に、
ウィリアム・ペンWilliam Penn一ロンドン生まれのイギリスのクエーカー教徒,
チャールズニ世一在位1660−1685一から北米のデラウエアーDelaware河左岸地方の広大
な土地の支配権を与えられて一81−,その地をペンシルヴェニアPennsylvaniaと名付け,
クエーカー教徒の移民を伴ってその地に渡り一82−,フィラデイアPhiladelphja市を建設
した。一旦帰国して一84−,再び植民地に渡り,知事となって活躍した.1644−1718一が
数人のインディアン達から一区画の土地を買っていた同じ場所にある栄え
ている都市に住んでいる一人の偉人ワシントン;大洋を横切って、フラン
スがその武器で支えていた革命と自由を、大洋を横切って、フランスに送
り返す合衆国;最後に、私自身の様々な目論見、ひとつの外国の文明の狭
い領域の背後にそれらの広大な国をさらに拡げているそれらの元々からあ
る静寂境の中で私が試みようと望んでいた様々な発見;以上が私の精神を
漠然と占めていた様々な事柄であった。
われわれは人々がわれわれに売りたいと願っているであろうものをそこ
で買うために、かなり遠い一軒の住居の方へ進んだ。われわれは空気を芳
香で満たしているヴァージニアVirginiaのバルサム樹les baumiersやニオイ
ヒバles cedresの幾つもの小さい林を横切った。私はその聴りやその色彩
が新しい風土を私に告げていたマネシツグミ達les oiseaux−moqueursや狸々
紅冠鳥たち1es cardinauxが飛び回っているのを目にしていた。並外れた美
しさの十四・五歳の黒人の一人の女性が同時に一人のイギリス人の農家や
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一人の植民地人の住居に似ている一軒の家の柵をわれわれに開けに来た。
牝牛の群れが灰色の黒の縞のある栗鼠たちがそこで遊んでいる囲いに取り
囲まれた人為的な牧草地に姿を見せており;幾人もの黒人たちは木の断片
を鋸で切り、他の者たちは煙草の農場を耕していた。われわれは幾つもの
玉蜀黍の菓子と幾羽かの牝鶏といつもの卵とある量の牛乳を買い、そして
われわれは湾に停泊している船に戻った。
次の投錨地に、ついでボルティモアBaltimoa港に達するために錨が上げ
られた。移動は緩慢であったし;風も無かった。ボルティモアに近づくと、
水路が狭くなった:水路はすっかり静まり返っていたし;われわれには長
い並木道に囲まれている河を湖っているように思えた;ボルティモアは湖
の奥にあるようにわれわれにその姿を見せた。町の正面に木々に覆われた
ひとつの丘が讐え、その足元に何軒かの家が建てられ始めていた。われわ
れは港の岸壁に碇泊した。私は船に泊まって、翌日になって初めて陸に降
りた。私は宿屋に投宿しに行き、そこに私の荷物が運ばれた。神学生たち
は彼らのために準備されている彼らの修道会施設に彼らの院長と一緒に立
ち去り、そこから彼らは散りじりになった(cf. P 1283の注, P.675のL下船
の挿話は『回想』,Ie「partie, VI, VI−PP. 216−218一に再び見出されるが,しかし美化さ
れ,詩的になっている,ひとつの短い節が観点の相違を示すことになる:《十三・四歳
の一人の黒人の女性は殆ど裸で,独特の美しさがあり,われわれに一人の若い夜の女神
Nuitのように囲い地の柵を開いてくれた.われわれは幾つかの玉蜀黍の菓子と幾羽かの
牝鶏と何個かの卵とある量の牛乳を買い,そしてわれわれは自分たちの幾つかの細首の
大瓶dames−jeannes(f. Pl)と筑を持って船に戻った.私は自分の絹のハンカチをその歳の
若いアフリカ女に与えた.自由の土地で私を迎えてくれたのは一人の女性の奴隷であっ
た》)。
ボルティモアは、合衆国の他のすべての中心都市と同様に、それが今日
持っているような拡がりを持っていなかった:それは非常に清潔な、非常
に活気のあるきれいな町であった。私は船長に渡航料を支払い、そして港
シャトーブリアンChateaubriand管見IV 15
のそばのとってもよいレストランで彼に夕食を振る舞った。私は駅馬車
stageで自分の席を決めたが、その駅馬車は週に三度フィラデルフィアへの
旅をしていた(cf. P. 1283の注, P.・675の2.乗物は四つの腰掛けのある長い馬車であ
った.それらのうち三つは《前方より少し内部に縦列になった九人の乗客用の席を設け
ていた一トーマス・トゥイニングThomas Twiningによる,1795−:A.M.エールEarle:
『駅馬車と旅籠屋の日々』Stage−Coach and Tavern Days. New York. MacMillan,1901, P. 262
を見ること.スウィーターSwiterによって,彼の『アメリカ紀行』le Voyage en Am6rique
の版,P.・89, n・teに引用された一)。朝四時に私はその駅馬車に乗り、私はそこ
で誰一人識る者のいない、私が誰にも識られていない新世界の幾つもの街
道をそのようにして馬車を駆って走ったのである:私の旅の仲間たちは一
度も私に会っておらず、そして私もペンシルヴェニア地方の首都に私の到
着のあと、彼らに再会するつもりはなかった。
われわれが走り回った街道は整えられていたというよりはある程度道が
つけられていたtrac6だけのものであった。その地方は十分に草木も生え
ておらず、かなり平坦であった:鳥たちも殆ど見かけず、木々もあまり
無く、何軒かの家々が散らばっていて、村々はまったく無く;以上がその
平原が見せていたものでありそして私に不快な印象を与えていたものであ
った。
フィラデルフィアに近づくにつれて、われわれは市場に行く農民たちや、
乗合馬車や、他のとても優雅な馬車に幾つも出会った。フィラデルフィア
は私には美しい都市に思われた。広々とした幾っもの街路;幾つかのもの
は木々が植えられ、北から南へそして東から西へ規則正しく形を整えて真
四角に交差している。デラウエアー河は西の縁(へり)に沿って行く街路
と平行に流れている:それはヨーロッパではかなりの河であるが、アメリ
カでは話題にもならなかった。その両岸は低く、あまり赴きのあるもので
はなかった。
フィラデルフィアは、私が旅をした頃には一1791一まだシュイキル
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Shuyki11川まではまったく拡がっていなかったし;その土地はその分流の
方に突き出して、幾つもの開墾用地によって分割され、それらの上に何軒
かの家々が建てられていた。
フィラデルフィアの外観は冷やかで変化に乏しかった。一般に、合衆国
の諸都市に欠けているものは記念建造物、そしてとりわけ古い記念建造物
であった。まったく想像力に身を任せないそしてそれ自身が新しい新教は
非常に古いカトリック教がそれでヨL−・ロッパを飾ったあれらの鐘塔や大聖
堂をまったく建てなかった。フィラデルフィアでも、ニューヨークでも、
ボストンでも壁体や屋根の全体の上に殆ど如何なるものも建てられていな
い。視線はこの高さの次元で悲しい思いをさせられる(cf. p.・1283の注, p.・676
の1.そのあとに繰り返される,《他のすべての中心都市と同様に,ボルティモアでも一
一一
прニいう個所は,『回想』1「e partie, VI, NII−t. 1, PP. 219−220一において僅かに修正
された。《コブレンツの狂気》一一一といった遠慮の無い表現に注意されたい.その一節
は作家の政治的な考えを位置づけるために重要である)。
合衆国は母なる国une nation−m6reというよりはむしろひとつの植民地の
外観を呈しているし;そこでは様々な風俗les moeursというよりは諸慣習
les usagesが見出される。住民たちはその土地でまったく生まれていない
ことが感じられる:その社会は現在においては大変美しいが、過去という
ものを全く持っていないし;町では新しい墓場は昨日出来たのである。そ
れは『ナチェーズ族』において私に次のように言わせたものである:《ヨ
L−一
@Mッパ人はアメリカにはまだ墓場というものを持っておらず、だが彼ら
はすでにそこに牢獄は持っていた。その牢獄が祖先たちや様々な思い出も
無いこの社会にとって唯一の記念建造物であった》と。
アメリカには古いものとして土地の子供たちである森林と、どんな人間
社会にとっても母である自由だけがあった。それらは正に記念建造物や祖
先たちに匹敵するものである。私のように、古代の人々に対する心酔
enthousiasmeで頭が一杯になっている、合衆国に上陸した一人の人間、到
シャトーブリアンChateaubriand管見IV 17
る所で初期ローマの様々な慣習の厳格さを求めるカトーのような人間un
Caton一カトーCato前234−149.っまりいわゆる通称大カトーCato Majorはその様々な
道徳的信条の厳格さで著名なローマ人.前187年に監察官となり,あらゆる手段によって
ローマを腐敗させ始めていた奢修を抑制させるために努力した.前238−148の北部アフ
リカにあった古代の王国であるヌメディアの王で,ローマの同盟者であるマシニッサ
Masinissaとカルタゴとの調停者としてアフリカに派遣された彼は,カルタゴの町の取り
戻していた繁栄に衝撃を与えられて,ローマに戻ってその繁栄がローマ共和国に流布さ
れることの危険に対して警告を発することを止めなかった.彼は元老院で有名になった
Ceterum censes Carthaginem delemdam《そして他方,私はカルタゴを破戒させなければな
らないと考える》ということばで彼の演説を終わらないことはなかった.カトーの名前は
賢明な,またはそうなろうと努める男の同義語になった.雄弁な演説家であり,そのこ
とはキケロCiceroによって称賛された.彼は著述家でもあり,ローマの起源に関する著
作は失われたが,その『ローマ農業史』De re rusticaは興味深く,貴重である.なおカル
タゴは前七世紀に作られたアフリカの都市一は到る所で衣服の洗練さ、身なりの
贅沢さ、会話の軽薄さ、財産の不平等さ、銀行や賭博場のきらびやかさ、
舞踏会や興業を催す会場の喧喚ぶりを見出して非常に憤慨させられざるを
得なかった。フィラデルフィアでは、私はイギリスのとある町にでもいる
ような気がした:如何なるものも私が君主制から共和制に移ったのではな
いかということを私に告げてはいなかったのである。その時期には私が共
和制諸国というものに大変感嘆しているのが『歴史的試論』に見られた。
ただ私は古代の人々の流儀でしか自由というものを識らなかったので、わ
れわれが到達してしまった世界の時代において、生まれようとしているひ
とっの社会における諸習慣の娘である自由というものが前記の諸共和国で
可能であるとは思っていなかったのであったし;私は知性とそしてひとつ
の古い文明の娘であるもうひとつ別の自由;つまり代議制の共和国がその
現実を証明した自由があるということを識りもしなかったのであった。
私は政治的な“失望”d6sappointementがもちろん私にクエーカー教徒に
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反機しての、多少はアメリカ人たちにさえ反擾しての調刺的な覚書、 『歴
史的試論』に見出される覚書を私に書かせることになった気分を私に与え
た(cf. P. 1263の注, P.・677の1.1「e partie, chap. XXX皿. Ed. cit., P. 148, note)。し
かしペンシルヴェニア地方の中心都市(cf. P.・1283の注, P.・677の2.ペンシルヴ
ェニア州にある,フィラデルフィアは1790年から1899年まで合衆国の首都であった)
の諸街路における人々の外観は感じがよく;人々は清潔な衣服を着た姿を
見せ;女性たち、とりわけクエーカー教徒たちは画一的な帽子を被って、
この上なく優美に見えた(cf. P.・1283の注, P.・677の3. r回想』,1「e pa・tie, VI, VII−t
LP. 220一において多少の相違はあるが、再び取り上げられている文章)。
私はサント=ドミンゴSaint−Domingue(=ハイチ島)の幾人かの植民者た
ちや亡命したフランス人たちに出会った。私は荒野で私の旅を始めること
を待ち詫びていた。皆は私がオールバニー−Albany一ニューヨーク州の州都一
に赴くことに賛成であり、そこでは幾つもの開墾地やインディアン達の
様々な部族集団により近づき、私は案内人たちを見出し、様々な情報を得
ることが出来るであろうということであった。
私がフィラデルフィアに到着した時に、ワシントン将軍はそこにいなか
った。私は15日程彼を待つことを余儀iなくされた(cf. p 1283の注, p 677
の4.8日程と『回想』では言うことになる一P.・220−):彼は帰って来た。私は彼
が背の高い護衛たちに御された四頭の馬が急いで運び去る馬車に乗って通
り過ぎるのを見た。ワシントンは、当時の考えに従えば、必然的にキンキ
ナトゥスCincinnatusとなり一キンキナトゥスは生活習慣の簡素さと厳格さで有名な
ローマ人,彼は二度執政官になった.彼の顕職の徽章を彼の所へ持って行く束桿を持っ
た高官を先導した古代ローマの警士たちlicteursはテベレ河の向こうの自分の畑で彼が自
ら摯を動かしているのを見出した.それからキンキナトゥスの黎というのは彼を示す讐
えとなった。前五世紀の人一;儀装馬車に乗っているキンキナトゥスは私の抱
いていた当時のローマ共和国のイメージを多少狂わせた。独裁執政官のワ
シントンは牡牛たちを突棒で突つき、その黎の柄を掴んでいる農夫のよう
シャトーブリアンChateaubriand管見IV l9
な人物ではなかったのか?しかし私はその偉人に私の推薦状を持って行
った時には、老ローマ人を彷彿させる簡素さを再びそこに見出した。
近隣の家々に似ているイギリス風の小さな一軒の家が合衆国大統領の館
であった:護衛官も全くいなければ、従僕たちさえいなかった。私がノッ
クしたところ;一人の若い女中がドアーを開けた。私が将軍は在宅かどう
かを尋ねると;彼女は在宅していると答えた。私は彼に手渡す一通の手紙
を持って来ていると返答した。女中は私の名前を尋ねたが、英語で発音す
るのが難しいので、彼女はそれを記憶に留めることが出来なかった。そこ
で彼女はWalk in, sir“どうぞ、お入り下さい”とやさしく言い:イギリス
の家では玄関の代わりとなる長い廊下で私の前を歩いた:彼女は私を応接
間に招じ入れ、彼女は私にそこで将軍をお待ち下さいと丁重に述べた。
私は感激してはいなかった。人間の権威または資産の大きさは私には少
しも尊敬の念を起こさせない:私は前者をそれに圧し潰されること無しに
感服しているが、後者は私に尊敬以上に憐れみの気持を起こさせる。相手
の男の顔は私を少しお困惑させることはないであろう。
数分後に将軍が入って来た。それは背の高い、落ち着いた、高貴なとい
うよりは冷静な様子の男であった:彼は彼の幾つもの複製画にそっくりで
ある。私は彼に黙って持参の手紙を差し出し;彼はそれを開き急いで署名
に目をやり、ラ・ルエリー侯ee le marquis de La Rouairieの署名をしたもの
を、実際には《アルマン大佐Le colonel Armand!》と大きな叫び声を上げ
て読んだ(cf. P. 1283の注, P. 678の1.ラ・ルエリー侯爵の書簡は1791年3月22日
のもので;ワシントンの遅まきの返事は9月21日の日付のものであるが,その?ピーだ
けが“議会古文書館”les Archives du Congresに保存されており,実際に大統領一ワシン
トン将軍は合衆国の初代大統領1789−1797一は七月に到着したその旅行者に会うことが
出来なかったことを示している.それらの資料は『回想』−LLPll46,n.5,ならびに
P.1150,n.3一において公表されている.シャトーブリアンは大統領が国を横切っての長
旅から7月6日に戻って来て,左尻のee un anthraxに苦しみ,病床に就かなければならな
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かったので,彼に会うことは出来なかった.GP.ペインターPainter−op.cit., 1, chap. X皿,
PRl76−177一は次のようなひとつの仮説を表明していた;シャトーブリアンは11月11
日に彼の探検旅行から戻って,一カ月フィラデルフィアに滞在したようである。ワシン
トンはその時彼に会ったかもしれない。その上ワシントンがマレゼルブやまだ外務大臣
であったモンモランMontmorinやそして騎士章の受勲者ドゥ・ラ・リュツェルヌchevalier
de La Luzerne一パリ生まれのフランスの枢機卿で哲学者,ユ738−1821一と姻戚関係にある
被保護者を迎え入れなかったとは考えられないとその伝記作者は考えている.ワシント
ンの完全な返事は彼が戻ったらドゥ・コンブールde Combourg氏(?)を迎え入れると
いう約束を含んでいたに違いなかったとペインターは推測している一〇p.cit。,P. 272,n.
3−.しかしワシントンの書簡の抜粋は親密さの無い一通の手紙の調子を越えていない:
《拝啓,私は3月22日の日付の貴書簡を拝受しました.ドゥ・コンブール氏が貴書簡を
送付するように求められた時には気分が勝れませんでしたので,私は彼に会わず,そし
て私は彼が翌日ナイアガラに出発したものと思っていました.Dear sir, I have had the
pleasure to receive your letter of 22nd of March. Being indisposed on the day when M de
Combourg called to deliver your letter I did not see him, and I understood he set off to Niagara
the next day.》.問題はそれ故反論出来ない資料が無ければ解決されるどころではなくな
る)。
われわれは着席し;私は彼にともかく一応私の旅の動機を説明した。彼
は単音節語のみから成る英語とフランス語で私に答え、一種の驚きをもっ
て私の話しに耳を傾けていた。私はそれに気付き、多少活発に彼に言っ
た:《しかしあなたがそうされたようにひとつの民を創り出すこと程北西
に通路を見出すことは困難ではありません》と。《その通り、その通りだ、
若者よ!Well, well, young man!》と彼は私に手を差し伸べて叫んだ。彼
は翌日の夕食に私を招き、そしてわれわれは別れた。
私は会合の約束には几帳面であった。客は五・六名だけであった。会話
は殆ど完全にフランス革命を巡って展開した。将軍はバスティーユ監獄la
Bastilleの鍵のひとつをわれわれに見せた。バスティーユ監獄のそれらの鍵
シャトーブリアンChateaubriand管見IV 21
は当時の二っの世界でふんだんに行き渡っているかなり馬鹿げた玩具であ
った。革命の深刻さと威力はそうした遊び事では片付けられるものではな
い。1685年に、ナントの勅令1’・edit・de・Nantesの廃止の際には、サン=
タントワーヌ街le faubourg Saint−Antoine(4区)の同じ下層民がシャラン
トンCharenton(12区)の新教の教会堂を壊したと同じ熱意で1793年
にはサン=ドゥニSaint−Denis(2区)の教会を荒廃させた。一ナントの勅令
の廃止:1598年にアンリ四世Henri IVによって発令されたナントの勅令によって新旧両
教徒の対立抗争には一応の終止符が打たれたが,1685年にはその勅令はルイ十四世Louis
XIVによって廃棄され,その廃棄によって大多数の新教徒たちは国外追放の憂目に会い,
フランス国民のうちもっとも活動的で,勤勉な人々が亡命して,フランスは特に経済面
で多大な人的損害を蒙った一。
私は晩の十時に招待主に別れを告げ、そして私は彼に再会することはま
ったく無く;翌日私は遠征に向けて発ち、そして私の旅を続けた。
ひとつの世界全体を独立させたその男と私の出会いはそのようなもので
あった。多少の風評が私の歩みに結び付く前に、ワシントンは亡くなって
しまい;私は彼の前に未知の人間として通り過ぎたことになり;彼は全く
の輝きの中にあったのに、私の方は全く世に知られない人間のままであっ
た。私の名は恐らく彼の記憶の中に丸一日も留まらなかったと思われる。
だが彼の眼差しが私の上に向けられたのは幸福であった!私が残る生涯自
分が奮い立たされるのを感じた:一人の偉人の眼差しにはひとつの力une
vertuがある(cf. P. 1284の注, P.・679の1.《私がフィラデルフィアに到着以来一一一》
からこの訪問の話しを殆ど文字通り再現したvI巻の冊章は一6d, cit.,t.1, PP. 220−222
−『回想』においてここで完了する一.『紀行』の本文に同じく非常に近いvm章は《ワシ
ントンとボナパルトとの比較》と題されている./『ル・クーリエ・フランセ』le Courrier
frangais紙は早くも1827年12月7日に《私のフィラデルフィアに到着以来[一一一]》
から《彼の名声》−supra, P. 682一まで『紀行』のその長い抜粋を原文以前の形で発表し
ていた.12月8日の「ジュールナール・デ・デバ」le journal des d6bats紙は同じ節をコ
22 明治大学教養論集 通巻451号(2010・1)
ルネイユP.Corneilleの『アッティラ』1’ Attilaの第二詩句の引用までも含めて示してい
た.それは早くからもっともしばしば転載されている抜粋である.コラG.Collas−art.
cit6一によれば,それは1822年にロンドンで書かれたもののようである)。
私はその後ボナパルトに会った:このようにして神が彼らの時代の先頭
に置くことを望んだ二人の人物を神は私に見せた。
ワシントンとボナパルトを、男と男として比較すると、前者は天性の上
昇志向の点で後者よりも高くはないように思われる。ワシントンはボナパ
ルトのように人類のスケールを越えるアレキサンダーやカエサルというあ
の種族には属していない。驚くべき如何なるものも彼の人柄には結び付い
ていないし;彼は少しも広大な舞台には置かれておらず;彼はその時代の
もっとも抜け目のない将帥たちとも、もっとも強力な君主たちとも張り合
ってはいないし;彼は大洋を横切ることもまったく無く;メンフィス
Memphis一その首都となった古代エジプトの都市一からウイーンまで、カディク
スCadix一スペインの南部,アンダルーシア地方の都市、大西洋に面する軍港.フラン
ス人たちはそこを占拠したことがある一からモスクワまで走破はしていない:
彼は国内中心の狭い範囲で、数々の思い出も無ければ、名前も知られてい
るわけでもない土地で一握りの市民たちと共に自衛する。彼はアルベレ
Arbelles一その近くでアレキサンダー大王がペルシャの王ダリウスを破った古代アッシ
リアの都市一やファルサーレPharsales一テッサリアの古代都市.カエサルはそこで
前49年に決定的な戦闘でポンペゥスを破った一の血且星い勝利を蘇らせるあSした
戦闘も交えていないし;それらの残骸で別の幾つもの王国を作り直すため
に幾つもの王権を倒したりはせず;“彼は国王たちの首を片足で踏みにじ
ったりはまったくせず”il ne met point le pied sur le cou des rois;彼ら
はその宮殿の玄関広間の下で次のように言われるようなことは少しも無
い:“彼らがあまりにも待たされ、そしてアッチラが退屈しないように”
Qu’ils se font trop attendre, et qu’Attila s’ennuieなどと。
何かひっそりした静かなものがワシントンの行動を取り巻いており;彼
シャトーブリアンChateaubriand管見IV 23
はゆったりと行動している:まるで自分を将来の自由の代理人と感じ、そ
してそれを危険に晒すのを恐れているようである。新しい種類の英雄が担
っているのは彼の様々な運命ではなく、彼の国の様々な運命であり;彼は
自分のものでないものを危険に晒すことを許さない。しかしこの深い晦渋
さobscurit6からどのような知恵が送り出せることか!ワシントンの剣がそ
こできらめいていた名も知れぬ林地帯を捜してみなさい、あなたはそこに
何を見出すことであろうか?幾つかの墓か?いや、ひとつの世界だ!ワ
シントンは彼の戦場に戦利品の代わりに合衆国を残した。
ボナパルトはあの謹厳なアメリカ人の如何なる特徴も持っていない:彼
は閃光と騒音に囲まれて、古い土地で戦い;彼は自分の名声だけを創り出
したがり;彼は自分自身の運命だけを引き受ける。彼は自分の使命は短
く、非常な高みから下る急流は急速に流れ去ることを知っているように思
われる:彼は束の間の青春のように急いで栄光を味わい、絶えずそれを噛
みしめる。ホメロスの神々に倣って、彼はたちどころに、世界の果てに達
したがる:彼はあらゆる岸辺に現われる。彼はすべての民の歴史に自分の
名前を刻み込み;彼は走りながら自分の家族や自分の兵士たちに幾つもの
栄冠を撒き散らし;彼は自分の幾つもの記念建造物や幾つもの掟や幾つも
の勝利の中を急ぐ。世界に身を屈めて彼は一方の手で王たちを黙らせ、他
方の手で革命の巨人を倒すが;しかし無秩序を踏み潰して、自由を抑えつ
け、そして自分の最後の戦場でついに自分の自由を失う。
各人は自分の行なったことの結果に従って報いられる:ワシントンはひ
とっの国家を独立という地位に引き上げる:大統領を退き、彼は自分の同
国人たちの哀惜と全国民の哀惜の最中で父親以来の墓の下で静かに永眠し
ている。
ボナパルトはひとつの国からその独立を力つくで奪った:皇帝の地位を
失い、流刑の身に突き落とされるが、そこで地上の恐怖は大洋という見張
り番のもとで彼がかなり十分に閉じ込められているとは思っていない。彼
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が弱体化し、岩山に閉じ込められて、死と必死に闘っている間に、ヨーロ
ッパはあえて戦闘を止めない(cf. P. 1284の注, P. 680の1.この文章は『回想』の
中には再び見出されない)。彼は息を引き取る:その知らせは、その前で征服
者が多くの葬儀を布告させていた宮殿の門扉で公表されたが、通行人は足
を止めもしなければ、彼らを驚かせもしない:市民たちはどうして涙を流
さなければならなかったのか?
ワシントンの共和国は存続し:ボナパルトの帝国は消滅させられる:そ
れは感謝をしているひとつの国家を見出している一人のフランス人の第一
と第二の旅の間に過ぎ去ったのであるが、その地において彼は抑圧された
幾人かの植民地人のために戦っていた(cf. P.・1285の注, R 681の1.ラ・ファィ
エットLa Fayetteは1777年から178ユ年にかけてアメリカ独立戦争の独立軍Insurgents
と共に戦っており,そして彼は1824年から1825年にかけて数カ月の旅をしたばかりで
あった,そのさりげない言及は『回想』の中には再び見出されない、一ラ・ファイエッ
トはドゥ・マリ=ジョゼフ侯爵marquis de Marie Josephのことで,オート=ロワールHaute
−Loire地方のシャヴァニャックChavagnacの城で生まれた将軍で,政治家.彼はアメリ
カ革命で独立戦争に参加し,ついで1789年にはフランスにおいて自由主義的な王党派の
立場に立ち,さらに1830年の7月革命でも同じような立場に立って司令官として活躍し
た.ラ・ファイエットはアメリカとフランスの間を二度往復している.1757−1834−)。
ワシントンとボナパルトはそれぞれの共和国の内部から輩出した:二人
共自由の中から生まれ、前者は出身母体に忠実であったが、後者はそれを
裏切った。彼らの運命は彼らの選択に従って、将来において異なるものと
なる。
ボナパルトの名前もまた未来の諸世代によって繰り返しその名が出され
ることになるが;しかしそれは如何なる謝意にも結び付けられることはな
く、そして、大なり小なり、抑圧者たちにはしばしば権威としての役目を
果たすことになる(cf.p.1285の注JP.681の2.この節は『回想』に再び見出され
ない)。
シャトーブリアンChateaubriand管見IV 25
ワシントンは全体として彼の時代の諸々の必要事と理念と知性の意見の
代表であり、様々な精神の動きを妨げる代わりに、それに目をかけ、彼が
欲しなければならないこと、彼が要請されていること自体を望んだ:そこ
から彼の仕事の一貫性と永続性が生まれる。彼は自然であり、正鵠を射た
均衡のうちにいるので、殆ど人を驚かすことのないこの男は彼の生存を国
の生存とひとつにしたし;彼の栄光は成長する文明の共通の世襲財産であ
り;彼の名声は民衆のための汲めども尽きぬひとつの泉がそこに流れてい
るあれらの聖堂のひとっのように讐えている。
ボナパルトも同じように公共の領域を豊かにすることが出来た:彼は地
上でもっとも文明化し、もっとも知的で、もっとも見事な、もっとも輝か
しい国で行動していた。もし彼が英雄的なものとして持っていたものに寛
大さを結び付けていたならば、もし彼がワシントンとボナパルトを一緒に
して、自由を彼の栄光の後継者と名付けていたならば、全世界で彼によっ
て占められる地位は今日どのようなものになっているであろうか!
しかしこの並はずれた巨人は彼の諸々の運命を同時代の人たちのそれら
にまったく少しも結び付けてはいなかった:彼の才能は近代という時代に
属してはいたが、彼の野心は古い時代のものであったし;彼は自分の人生
の諸々の奇跡がひとつの王権の能力をはるかに越えるものであり、あのゴ
チックの装飾が彼には似つかわしいものではないということに気が付かな
かった。ある時はその時代と共に一歩進み、ある時は過去の方へと後退
し;そして時の流れを湖ろうとまたはそれに付いて行こうと、彼の驚くべ
き力によって彼は波浪を押し流したり、または押し返したりした。人間た
ちは彼の目には権力の手段に過ぎず;彼らの幸福と彼のそれとの間には何
らの共感も確立されてはいなかった。彼は彼らの解放を約束していたが、
それでも彼は彼らを束縛し、彼は彼らから孤立し;彼らから遠ざかった。
エジプトの諸王は彼らの墓所としてピラミッドを生気に満ちた田園の間
にではなく、不毛の砂漠の真ん中に置き;それらの大きな墓は永遠のよう
26 明治大学教養論集 通巻451号(2010・1)
に人気の無い場所に建っている:ボナパルトはそれらに似せて名声という
金字塔を築く(cf. Pl285の注, P. 682の1.ここで『回想』における対比は終わる)。
ボルティモアからフィラデルフィアに私を連れて行ったそれに似ている
駅馬車がフィラデルフィアから陽気で、人口が密集していて、商業も栄え
ていたが、それでも今日の現状からはまったく遠い昔のものとなった都市
であるニューヨークに私を運んだ。私はアメリカの自由を最初に打ち立て
た場所に敬意を表するためにボストンに史跡巡りに出掛けた。《レキシン
トンLexington一ボストン北西の方にある町.独立戦争の最初の戦いが行なわれた一
の戦場を見て;テルモフィレスThermopyles一アノペ山とマィアック湾の間にあ
るテッサリアの隆路で,そこではスパルタの王レオニダスL60nidasが三百のスパルタ兵
でペルシャ王クエルクセスXerx6s在位前485−465の大軍を阻止しようとして非業の死を
遂げる一における旅人のように、祖国の掟に従うために最初に死んだ二つの
世界のあれらの兵士たちの墓を見っめるために黙ってそこに立ち止まった
(cf. P.1285の注. P. 682の2.この節は『回想』の中に再び見出されるが一ed. cit.,1,
229一かなり著しい変更が加えられている)。如何に諸々の広大な支配地が失われ、
そして突然それが別の姿で現われるかを無言の雄弁で私に語っているこの
哲学的な土地を踏みながら、私は神の摂理の掟の前で自分の無価値さを告
白し、そして埃の中で自分の額を垂れた一脚注,r歴史的試論』, t.1, P 213,
(Euvres comp.一。
ニュL・一一ヨークへ戻って、私は別称北の河と呼ばれハドソン河を湖って、
オールバニーAlbanyに向けて進む客船に乗った。
『歴史的試論』のある短い記述で私はこの河での私の航行の一部を記述
したが、そのほとりで、ボナパルト家の国王の一人の、そしてそれ以上の
何か、つまりボナパルトの兄弟の一人が今日ではワシントンの共和派の
人々に混じってしまって行方が分からなくなっている(cf. p.・1285の注, p.・683
の1.問題となるのは1808年にスペイン王となったナポレオンの兄ジョゼフJosephのこ
とで,彼はワーテルロー一ベルギーの町で,ナポレオンの敗北の地一のあとでアメリカ
シャトーブリアンChateaubriand管見IV 27
に亡命した)。
オールバニーに着いて、私はその人宛にフィラデルフィアで一通の手紙
を渡されていたスイフト氏M.Swiftを捜しに出掛けた。そのアメリカ人
はイギリスによって合衆国に譲渡された領土に囲まれているインディアン
諸部族と原料毛皮の交易をしており、そこにおいても文明化している諸勢
力はアメリカにおいて彼らに所属していない土地を遠慮無く分け合おうと
していたのである。私の話しを聞いたあとで、スイフト氏は非常に道理に
適った反論を行なった:彼は私にまず最初に、たった一人で、助けも無く、
支えも無しに、通過することを余儀iなくされるイギリスや、アメリカや、
スペインの駐屯地に充てての推薦状も無しに、そんな大掛かりな旅行を企
てることは出来ないし;私が幸いにも多くの人気の無い場所を横切れる時
にも、私は寒さまたは飢えで命を落とすことになり兼ねない諸地域に到達
することになってしまうようになると述べた。彼は私にアメリカ内部で最
初の旅行をして順応することから始めて、シヌークス族le Sinouxやイロ
クオイス族1’Iroquois族やエスキモー一これにっいては『ナチェーズ族』1皿,続
4の「第八の書」の冒頭を参照のこと一の言語を学び、しばらくはカナダの村の毛
皮目当ての猟師たちやハドソン湾の会社の代理人たちの間で暮らすことを
勧めた。これらの予備的経験をすれば、そうなったら、私はフランス政府
の支援を得て、私の大胆な企てを追求することが出来るであろう、という
わけである。
私が正しさを認めざるを得ないそれらの助言は私を拘束してしまったの
で;もし私がそのことに自信が持てたら、私はパリからサン=クルー一・
Saint−Cloud一パリ近郊セーヌ・エ・オワーズSeine et Oise県にある町一に向かうよ
うに、北極にまっすぐに行くために出発したかもしれない。だが私はスイ
フト氏に自分の絶望を隠した。私はナイアガラNiagaraの爆布に、ついで
そこからオハイオに下ることが出来るであろうピッツバークPittsbourgに赴
くために、一人の案内人と数頭の馬を手に入れられるように彼に頼んだ。
28 明治大学教養論集 通巻451号(2010・1)
私には常に頭の中に自分の描いていた進路の最初の計画があった。
スイフト氏は幾つものインディアン語の方言が話せる一人のオランダ人
を雇ってくれた。
この町の管轄区域とナイアガラのそれとの間に拡がっているこの地方の
全体には人が住み、耕され、ニューヨークの有名な運河によって貫かれて
もいるが;しかし当時はその地方の大部分には人が住んでいなかった。
ル・モハウクLe Mohawk(?)を通り過ぎたあとで、一度も切り倒され
たことのない森林地帯に私がいた時に、私がなおも『歴史的試論』の中で
思い起こした一種の陶酔の中に私はいた:《私は無差別に右左へ、木から木
へと進み、自分の中で次のような独り言を言っていた:ここには辿るべき
町々も、狭い家々も、大統領たちも、共和党員たちも、国王たちももはや
いない一一一。そして自分の生まれつき持っている諸々の権利のうちに私
が復活したかどうか試して見ようと思って、案内人として私を助け、それ
でいながら彼の気持の中で私を常軌を逸した者と思っている大きなオラン
ダ人を立腹させる無数のわがままな行為に身を委ねていた一脚注.r歴史的試
論』,t. ll, P 417,(Euvres comp.一.(cf. P.1285の注, P.684のL『諸革命試論』の
この一節一プレイアード版テクスト,P442一は“国王たち”のあとで,ひとつの小さい
削除を伴ってはいるが,そこで引用されている.それは幾つもの変化を伴って,『回想』
の中に再び見出される一第一部,1ivre W,プレイアー・一ド版テクスト, t.1, PP. 231−232
−)。
われわれは六つのイロクオイス族の部族集団の古くからの地域に入って
いた。われわれが出会った最初の未開人の男は青年で、彼の部族の流儀で
着飾った一人のインディアンの女がその上に座っている一頭の馬の前を歩
いていた。私の案内人は通りすがりに“今日は”と彼らに挨拶した。
すでに知られているように、幸運にも私は人気の無い場所の境界地帯で、
私の同国人の一人、未開人たちの所でダンスの教師をしているヴィオレ氏
M.Violetによって迎えられた(cf. P.・1285の注, P.・684の2,ヴィオレ氏という人
シャトーブリアンChateaubrjand管見IV 29
物は,『ルボー殿の冒険』Avantures du Sieur Lebeau[ ], Amsterdam,1738の中か
ら取り出された逸話に恐らく出て来る,その旅人が踊るのを見たあとで,未開人たちは
彼にレッスンを求める:《私は彼らを輪になって並ばせ,通訳を介して,彼らに私のす
ることのすべてにおいて私の真似だけをするように彼らに言った.こうして私はイロク
オイス族たちのダンスの教師になった》.より多くの正確さを求めるならば,『諸革命試
論』,6d. cit.,P.・438ならびに注解,『パリからエルサレムへの道』一その版のt. ll )PP.
1163−1164一と,M,0.−T.,6d. cit.,t.1, P. 232を見ること)。彼にはビーバー
の皮と熊の後ろ下肢の股肉によって授業料が支払われていた。《森の真ん
中には一種の納屋が見られ;私はその納屋に二十人程の未開人たち、すな
わち呪術師のように塗りたくられ、半ば裸で、両耳の一部が切られ、頭に
は鳥の羽根が付けられ、鼻孔には輪を通した男たちと女たちを見出した。
昔のように髪には粉を振りかけ、カールをし、青林檎vert pommeのよう
な色をした(?)衣服を着て、上着は浮き綾織りdrogueで、ワイシャツと
袖飾りはモスリンの一人の小柄なそのフランス人は小型のバイオリンをキ
イキイ鳴らし、そのイロクオイス族たちにマドロン・ブリケMadelon Friquet
を踊らせていた。ヴィオレ氏はインディアン達のことを話しながら、私に
常に“未開人たちの紳士たちと淑女たち”と言っていた。彼は自分の生徒
たちの敏捷さに大いに満足していた:結局、私はそのようにはね回るのを
一度も見たことはなかった。ヴィオレ氏はそのバイオリンを自分の顎と胸
の間に保って、運命の定めたfatal楽器の音を調律していた。彼はイロクオ
イス語で“位置に就いて”と叫んでいたが、そこで全集団は堕天使たちの
群れune bande de d6monsのように跳びはねていた一脚注,『パリからエルサレ
ムへの道』,t.皿, P.103,(Euvres com−。
ロシャンボーRochambeau将軍の元の見習いコックの一人がイロクオイ
ス族たちに伝えている舞踏会を通しての未開人の生活へのその紹介はルソ
ーの一人の弟子にとってはかなり風変わりなものであった(cf. p.・1286の注,
R685のL《ニューヨークに戻って》以後のこの部分全体は若干の変更と共に『回想』,
30 明治大学教養論集 通巻451号(2010・1)
1ivre冊の二章, t.1, P.232を形造っている.ヴィオレ氏についてはこの版の二巻,
P.1164,n.1と2を見ること)。一なおロシャンボー将軍についてはヴァンドームVend6me
一ロワール・エ・シェルLoire et Cher県の都市一生まれのフランスの元帥で、アメリカ
人たちの救援に派遣されたフランス軍の司令官,1725−1807−。われわれは自分たち
の旅路を続けた。今や私は手稿に語らせる:ある時は“語り”r6citの形で、
時には書簡で、または簡単な“付記”annotationsの形で。
(うつみ・としろう 元商学部教授)
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