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日中戦争下の 「純粋詩」
明治大学教養論集 通巻四五〇号 ︵二〇一〇・一︶三九−六七頁 日中戦争下の﹁純粋詩﹂ 路易士の詩と詩論 はじめに 鈴 木 将 久 一九三〇年代の上海においてモダニズム詩を開花させた戴望好は、日中戦争開戦後香港を拠点に、抗戦を詩的言語 で表現し、モダニズム詩たる﹁抗戦詩﹂を書くことを目指して模索したω。モダニズム詩にとって日中戦争が重大な 意味を持ったのは、戴望野一人にとどまらない。戴望野は戦争前の一九三六年、北京の詩人と上海の詩人を糾合して 大型詩雑誌﹃新詩﹄を創刊している。そのとき若き二人の詩人、路易士と徐遅に編集の助手をさせた。路易士と徐遅 の二人は、日中戦争開戦後戴望箭に従うように香港へ行き、戴望鎌が編集する新聞﹃星島日報﹄の文芸欄﹁星座﹂等 に多くの詩作品を発表した。ところがまもなく、三人の運命は分かれていく。戴望醤は日本軍に捕らえられ獄中生活 を送ることもあったが、戦争終結まで香港にとどまった。徐遅は香港で喬冠華、郁風、哀水拍らと出会ったことを契 機に共産主義に傾倒し、中国各地をめぐりながら共産党系知識人として文芸活動を行った②。それに対して路易士は、 日本統治下の上海にもどり、日本の文化機関と微妙な関係を築きながら独自の詩作を開始した。 明治大学教養論集 通巻四五〇号 ︵二〇一〇・一︶ 四〇 戴望野と徐遅が﹁抗日﹂を貫いて詩作を続けたことと比較したとき、路易士が日本統治下の上海で活動したことを どう考えるかが問題となるだろう。路易士が積極的に日本に協力したとは言えない。戦後の漢好裁判において被告と なっておらず、狭義の﹁漢妊﹂でないことは明らかである。とはいえ、日本の文化統治とまったく無縁であったとも 言えない。上海に戻った直後、南京および江蘇省の小都市泰県で役人生活を送ったことを、彼自身述べている。路易 士の発言によると、﹁官途の体裁はなしていたとはいえ、役人としての本格的な仕事は何もしなかった。公文書用紙、 公式封書の類は私の机の抽斗にたくさんあった。しかし私は役人として文書を一つも書いたことがない﹂⑧というも のであるが、注精衛政権に属する官職をえたことはたしかである。さらに一九四四年、南京で開かれた第三回大東亜 文学者大会に中国代表の一員として出席している。そして何よりも、多くの日本文人と酒を酌み交わし交流を深め、 また日本に関係する出版社から詩集を発行している。こうした活動は、上海で生きていくための最低限のつきあいで あったということはできる。しかしながら、それが最低限のつきあいであればなおさら、日本統治下の上海で活動し たことから不可避的に生じた、彼の詩作活動の政治的な意味を問い直す必要がでてくると思われる。 本稿では、路易士の政治活動の内実を事実認定するつもりはない。彼の行動を可能なかぎり明らかにすることは、 無意味とは言えないが、路易士の詩人としての活動を問い直す上での意義は大きくないと思われる。また本稿で路易 士の日本観や時局への態度を探究するつもりもない。少なくとも意識の上では、彼は政治から距離を置こうとしてい た。路易士の意識を探究しても問題の一面しか捉えられない。むしろ考えるべきは、彼の行動や彼の意図とは別に、 戦時中の上海で活動したことが必然的に持った政治的な意味ではなかろうか。路易士は戴望詩と異なり、全国的に著 名な詩人とは言い難い。路易士の事例は、決して著名と言えない詩人が、意識の上では政治から離れようとしながら、 なにがしかの意味で政治性を帯びざるを得なかったことを示しているように思われる。言いかえるならば、彼の活動 を検討することで、文化の隅々にわたっていた当時の政治性の意味を問い直すことができるのではなかろうか。 本稿で考えたいのは以下の諸問題である。路易士は日本統治下の上海においていかなる詩作を行ったのか。路易士 の詩作は当時の上海においてどのような政治性を帯びたのか、あるいは政治とどのような関係をもったのか。そして 路易士は上海において何を成し遂げ、何を成し遂げられなかったのか。本稿はこうした諸問題を思考することを通じ て、モダニズム詩にとっての日中戦争の意味、とくに、もともとは芸術至上を目指していた上海モダニズムが、日中 戦争に伴って否応なく政治的な問題と直面したことの意味を、戴望野や徐遅とは異なった角度から再考しようとする ものである。 日常性の仔情 路易士の本名は路趣。 一九=二年生まれである。中華民国となった後に生まれ育った路易士は、幼少時から新教育 を受けた。路易士という明らかにフランス語を意識した筆名は、路姓を活かしたものであるが、新教育によって育っ た彼の世代の指向を示してもいる。路易士の全国文壇へのデビュー作は、雑誌﹃現代﹄に掲載された詩﹁音楽家へ﹂ であったω。彼の詩が掲載される前、﹃現代﹄に掲載された詩に対して意味が分からないという批判が読者から寄せら れ、編集者の施蟄存が回答したことがあった。施蟄存は語る。﹁﹃現代﹄の詩は詩である。しかも純然たる現代の詩で ある。それは現代人が現代生活の中で感じとった現代の情緒を、現代の言葉で表現した現代の詩形である﹂。﹁﹃現代﹄ の詩は、大部分が韻を踏まず、センテンスも不揃いである。しかしそれは完全なる肌理︵8×ε﹁①︶であり、現代の詩 四一 形である。つまり詩なのだ﹂⑤。施蟄存自身は特定の流派を形成するつもりはなかったというが、この回答はあきら 日中戦争下の﹁純粋詩﹂ 明治大学教養論集 通巻四五〇号 ︵二〇一〇・一︶ 四二 かに、﹃新月﹄派の格律詩とは異なる、イメージ喚起力に富むモダニズム詩を称揚するものであった。さらに加えて、 ﹃現代﹄は戴望鎌のイマジズム風の詩作品を多く掲載し、のちには彼の詩論を掲載した。こうした結果、雑誌﹃現代﹄ の周囲に﹁現代派﹂と称される詩人グループが生まれつつあった。その共通の特徴は、押韻せず、センテンスの長さ をそろえず、具象的描写を避けてイメージの喚起を追求するものであり、戴望箭が代表的詩人となった。 路易士は戴望野の詩集﹃望箭草﹄を読んで目を開かれたと回想している㈲。明確な意識のもと﹁現代派﹂の詩人を 目標にして、自由詩を書きはじめ、それを﹃現代﹄に投稿したと言えるだろう。ちなみに路易士は﹁現代派﹂すなわ ちモダニズム詩人たらんとする自意識を、晩年まで強く持ち続けている。その意味において彼の姿勢は、一九三〇年 代の上海時代から晩年まで一貫している。 路易士の詩作にとってもうひとつ大きな意味を持ったのは日本留学であった。一九三六年四月、上海から船で日本 に向かい、本郷の下宿に落ち着いた。留学の目的は、母校の蘇州美専の教員となるべく、絵画を学ぶためであった。 彼は日本で、日本語の学習のかたわら、﹁本郷画会﹂でデッサンの訓練などをしたという。日本での生活を、後年彼は こう回想している。 ときには書店めぐり、とくに廉価な古書店めぐりをした。私は行くといつでも数十冊、芸術と文学に関連する 古書を買った。日本の詩人堀口大學の訳詩集﹃月下の一群﹄を読み、間接的に現代フランス詩壇の様子を知り、 アポリネールから深い影響を受けた。同時に、他の日本語訳本や雑誌などの゜紹介を読んで、視野が大いに広が り、二〇世紀初頭に興った諸流派に広くふれた。立体派の絵画、シュールレアリズムの詩など、どれも好きに なった。しかしダダ派の音楽と演劇のような、すべてを否定する破壊ばかりで建設のない極端な虚無主義は、 反対せざるを得なかった。こうして、私はシュールレアリズムの詩を書き始めたの。 路易士はもともと戴望野経由でフランス詩壇に興味を持っていたと思われるが、日本で堀口大學などと出会った体 験は、それを一層増進させるものであった。堀口大學の翻訳詩が日本のモダニズム詩に与えた影響の大きさは言うま でもない。路易士にとっても、自らの詩作の方向性を明確に意識する契機になったと思われる。後述するように、路 易士は日本占領下の上海で多くの日本詩人と意気投合した。堀口大學などに傾倒した経験が交流の基礎となったこと は想像に難くない。ただし注意しておきたいのは、路易士が堀口大學に熱狂した一九三六年は、日本詩壇ではすでに モダニズム詩の絶頂期が過ぎ去っていたことである。たとえば戦前日本のモダニズムの到達点と言われる﹃詩と詩論﹄ は一九三三年に活動を停止している。一九三六年には、文壇でも戦争の影が濃くなりつつあった。雑誌﹃日本浪漫派﹄ が創刊され日本浪漫派が本格的な活動を始めたのは一九三五年のことである。だからこそ路易士は主として古書店で、 つまり同時代に遅れる経路で堀口大學に触れたと思われる。同時代の流行とずれること、しかもずれた結果、政治と 美学の関係が問われた時代に芸術至上主義に触れること、こうしたことは、なかば時代の偶然であるが、路易士の詩 作活動の特質を象徴的に示しているように思われる。 ただし路易士の日本滞在は短かった。本人の言によると病気のため、六月には帰国し、再び日本を訪れることはな かった。病気療養を終えたあと、なぜ日本を再訪しなかったのかは不明である。その年の十月には戴望箭のもとで﹃新 詩﹄編集作業に加わり、中国国内で詩作活動をする姿勢を明確にしている。 ﹁現代派﹂の詩人たちは、自由詩を書くという点では一致していたが、詩の題材や手法では大きな隔たりがあった。 路易士も戴望野を目標にしたと言うものの、詩の題材や詩的世界は大きく異なっていた。路易士は戴望野に似たリリ カルな拝情詩も書いたが、他方でシュールレアリズムに学んだと本人が述べるような、荒唐無稽に想像力をときはな 四三 った作品も書いている。その中で路易士の特質を比較的よく表していると思われるのは、日常のどこにでもある事物 日中戦争下の﹁純粋詩﹂ 明治大学教養論集 通巻四五〇号 ︵二〇一〇・一︶ 四四 を描いた詩作品である。一例として、日本留学から帰国して故郷に帰った直後に書いた詩﹁夕暮れの家﹂⑧を見てみ よう。 夕暮れの家に黒い雲がかかります 風が小さな中庭に吹き込みます 頭上を帰るカラスを数えて 子供たちの目が静まりました 夕食で妻が話すこまごましたこと 数年前のことはかなたに遠のき 青菜スープの薄味に 私は生の寂しさを感じました 路易士自身の回想によると、数ヶ月の日本生活でホームシックになったあと、妻と再会して気持ちが落ち着いた状 況を描いたという。この詩を例にして後年、張愛玲が、﹁路易士の最も良い句はどれもこのように簡潔で、澄みわたり、 華美な色を用いず、水墨画のようである。視野は狭いが、時間と空間がないので、世界的で、永久である﹂と批評し ている㈲。この評語は日中戦争中上海で創作活動を展開した張愛玲自身の文学観を述べたものとも感じられるが、少 なくとも﹁夕暮れの家﹂に関しては、張愛玲の評語は当を得ていると思われる。この詩にかぎらず、路易士は華美な ことばを極力さけ、日常的な単語を用いようとする。古典詩の形式主義や典故にしばられる用語法を批判した路易士 にふさわしい態度である。日常的なことばを用いながら、その組み合わせによって、この詩を例にするならばたとえ ば﹁青菜スープの薄味﹂と﹁生の寂しさ﹂を並べることで、どこか日常を超える﹁世界的﹂と言うべき感覚を浮かび 上がらせている。 もうひとつ例を挙げよう。路易士の初期代表作の一つに数えられる﹁火災の城﹂の最終連は、初出と単行本収録時 で表現が異なっている。初出では﹁私が君ら/受難者たちの呼び声に応えるとき/私もひとつの/恐るべき火災の城 となる﹂㏄となっていたのが、単行本では﹁私が軽く/﹁おお、ここにいるよ﹂と応えたとき/私もひとつの/恐る べき火災の城となる﹂ωと変化した。﹁おお、ここにいるよ﹂という口語への書き換えは、路易士の詩作の方向性を象 徴的に示している。日常の用語を使い、現場感を強くだしながら、それを﹁恐るべき火災の城﹂という非日常的なイ メージに結びつけている。日常性に密着しながら、日常的なことばを飛躍させて組み合わせることによって、想像力 を非日常へと飛翔させる詩の創作を、路易士が意識的に追求していたことが、この最終連の書き換えから読み取れる。 日常の何気ない光景を徹底的に日常的なことばで描きながら、そこから拝情を浮かび上がらせること、それが路易 士の詩の特質のひとつであるとひとまず言えるだろう。張愛玲の言うように、最も成功した場合、﹁世界的で永久﹂に なり得る。路易士が意識の上で目指していたのは、おそらくは、あらゆる時間と空間の制約から解き放たれ、人間性 の根底に触れる﹁世界的で永久﹂な詩作品だと思われる。しかしながら、まさに張愛玲の作品がそうであるように、 彼の詩にただよう﹁もの悲しさ﹂は、読者に時代と切り離せない不安感を呼び起こす。張愛玲の夫であり、路易士の 友人でもあった胡蘭成は、路易士の詩をこう評する。﹁路易士の個人主義は病的である。しかしそれは時代の病である。 彼の詩および彼という人間が表現しているのは、時代の病であって、個人の堕落ではない﹂圃。路易士を良く知る人 間によるこの評語は、彼の病が時代の病だと考えられること、路易士個人に属するように見える問題も時代の問題と 切り離せないことを示しているだろう。 四五 つまりこう言えるのではないだろうか。路易士は日常の拝情を詩として表現することを目指していた。だからこそ 日中戦争下の﹁純粋詩﹂ 明治大学教養論集 通巻四五〇号 ︵二〇一〇・一︶ 四六 彼は時局から距離を置こうと望んでいた。しかし日常に没入しようとする態度をとるかぎり、時代の問題から離れる ことができない。路易士の詩作は、必然的に時代の病を表現するものにならざるを得ない。そのような意味での路易 士の特徴は、日中戦争下上海での創作と諸活動に最も典型的にあらわれている。 二 純粋な詩 日本軍が上海への攻撃を始めたのは一九三七年八月一三日のことであった。路易士は蘇州で開戦を迎え、雑誌﹃新 詩﹄の活動が不可能になったことを知ると、そのまま武漢、昆明へと逃亡生活を続け、約一年の逃亡生活のあと、香 港で戴望箭らと合流した。当時、路易士が香港で居を落ち着けたのは学士台と呼ばれる場所で、近辺には上海から流 亡した文化人が数多く住んでいた個。戴望野のほか、路易士と共に﹃新詩﹄編集にたずさわった徐遅、小説家の穆時 英、文芸評論家の杜衡、新進小説家のト少夫︵無名氏︶、漫画家の張光宇、葉浅予、さらには胡蘭成も一帯に居住し、 さながら流亡文化人の拠点の様相を呈した。彼らが集中したのは、生活の互助という意味があったであろう。広東語 を解さない上海文化人は、香港での生活に苦しんだと言われている。もちろん活動にかかわる情報交換に便利だった ことも疑いない。連日のように顔を合わせ、生活のことから文化のこと、さらには時局のことまで、さまざまなこと を話し合ったことが、彼らの回想に記されている。 ただし学士台の文化人たちは、やがて多くが香港を離れた。徐遅の他に、張光宇、葉浅予が共産党系文化人として 各地に向かい、杜衡は国民党系文化人として重慶へ赴任、穆時英と胡蘭成は上海に戻って涯精衛政権に参加した。彼 ら各々の政治的選択は、上海出身の文化人たちが戦争に直面したときの多様な身の処し方を示していて興味深い。し かし路易士は、回想によるかぎり、明確な政治的意図を持って香港を離れたわけではないようである。穆時英や胡蘭 成と異なり、上海に戻る前に江精衛政権と何らかの関係を持っていなかったとされる働。詳しい事情は不明ながら、 おそらくは偶然の、しかし結果としては大きな意味を持った選択のもと、路易士一家は、太平洋戦争によって香港が 日本占領下に入ったあとの一九四二年、上海に戻った。それ以降、つねに貧窮に脅かされながら、友人の援助と詩や 詩論の原稿料によって生活をたてることとなった。 原稿料を稼ぐためもあったと思われるが、上海に戻ったあとの路易士は極めて多筆であった。しかもこの時期の文 章からは、路易士がある種の興奮状態にあったことが見て取れる。あたかも日本占領下の上海において、自己の詩作 を発展させる可能性を見出したかのように、路易士は大量の詩を書き、大量の詩論を発表した。 一九四四年、路易士 は生涯四度目の同人雑誌﹃詩領土﹄を発行した。毎号わずか八頁の小冊子であったが、当時上海で手に入る唯一の詩 専門中国語雑誌であったため、一定の評判を獲得したという。この雑誌上で路易士は精力的に詩論を展開する。創刊 宣言を見てみよう。 性質から言って、厳格に言うならば、﹁詩素﹂︵フランス語のポエジー︶において過去のあらゆる﹁拝情詩人﹂ とまったく異なる我々が今日追求している﹁新詩﹂は、﹁霊感的﹂なものではなく、﹁天才的﹂なものでもない。 それは﹁百パーセントの努力によって完成され﹂恒久の秩序と生命を備えるまったく新しい芸術品である。そ の任務は﹁天才﹂と﹁霊感﹂のみで詩を書いていた過去の単純な﹁好情詩人﹂には想像すら難しいことであろ う。なぜならば﹁新詩﹂が求めているのは﹁完成﹂に留まらず、﹁更なる完成﹂だからである。どうすれば﹁更 四七 なる完成﹂に近づくことができるのか。それこそが﹁新詩﹂が﹁新詩人﹂に課している極めて苛酷で重大な任 務にほかならない㈲。 日中戦争下の﹁純粋詩﹂ 明治大学教養論集 通巻四五〇号 ︵二〇一〇・一︶ 四八 この文章で路易士は﹁霊感﹂と﹁天才﹂によって書かれる﹁好情詩﹂を過去のものと切り捨て、まったく新しい詩 としての﹁新詩﹂を提唱している。この﹁新詩﹂こそが、路易士が戦時下上海で見出した詩の理想的な姿にほかなら ない。彼は﹃詩領土﹄をはじめとする媒体において、さまざまな表現を使って﹁新詩﹂を説明しようと試みた。ただ し路易士はことばを費やすものの、その﹁新詩﹂のイメージは荘漠としてとらえがたい。たとえば﹃詩領土﹄の創刊 宣言では、﹁更なる完成﹂と、説明というより詩的言語に近い表現で﹁新詩﹂のイメージを示そうとしている。つづい て﹃詩領土﹄の後の号の廃名の詩を紹介する文章を見てみよう。 この詩︵廃名の詩︶を見ると良い詩だと思う。新詩だと思う。自由詩だと思う。その完全な美、不可分性に感 嘆せざるを得ない。なぜならばそれは︸つの全体であり、一つの系統であり、一つの秩序であり、一つの宇宙 であり、理想の世界だからである。一分増やしたら冗長になり、一分減らしたら短すぎる。私たちはこれ以上 にその完全な美しさを形容する適当な語句を思いつかない。押韻せず、格律もなく、散文のことばで書きなが ら、﹁詩素﹂に満ちている価。 彼の構想する﹁新詩﹂とは、少しの過不足もなく一つの全体を構成する作品であることが読み取れる。それが﹁更 なる完成﹂の意味でもあろう。路易士によれば、古典的イメージにまみれた詩的言語を使うこと、韻や格律に頼るこ とは、﹁詩素﹂にとって不要な要素が入ることを意味する。あらゆる過剰を取り除き、あらゆる不足を補って、﹁詩素﹂ を一つの完全な宇宙として表出すること、それが﹁新詩﹂の姿である。依然としてコつの全体﹂やコつ宇宙﹂と いった荘漠な表現が散見されるが、過不足ない完全な表現を求めるという路易士の基本的姿勢を見て取ることができ る。 ﹃詩領土﹄の創刊宣言でもうひとつ注目したいのは、彼の言う﹁新詩﹂は﹁百パーセントの努力によって完成され る﹂ことである。﹁百パーセントの努力﹂もまた荘漠としたイメージであるが、この点についても彼はことばを費やし ている。たとえば次のような発言がある。﹁詩人となるためには、﹁先天的才能﹂と﹁後天的修養﹂の二つの条件が必 要である。先天的才能とは﹁鋭敏な感覚﹂と﹁超人的な想像力﹂のことを言う。後天的修養には﹁学問﹂と﹁生活﹂ の両面が含まれる﹂㎝。ここでは﹁天才﹂を全否定していないことが注目されるが、やはり後天的な努力を強調して いることが見て取れる。つまり路易士によれば、﹁詩素﹂は不純物を取り除くことで自然に現れてくるものではない。 意識的な努力を重ねることによって最適な表現にたどりつくことが可能になるという。それが路易士の目指す詩作の あり方であり、目標とする詩人の姿であった。 より良い詩の創作のため努力をするという主張自体はことさら奇異なものでない。ただし、過不足ない一つの完全 な詩を掲げ、過剰に完成を求めた姿勢を念頭におくと、努力の強調は、みずからの理想とする詩の実現が困難である ことをはからずも示しているように思われる。言いかえるならば、路易士の詩論は、理想の美しさ、高貴さを語りな がら、同時に理想の実現が遠いかなたであることを示すものとなっているのではなかろうか。 ろでは﹁浄化された静かな浄土﹂という宗教的なイメージで語り、﹁純粋詩﹂として提示している㈹。純粋な詩、それ ともあれ路易士は理想的な詩を思い描き、理想に到達するための努力を強調した。そこで生まれる詩を、別のとこ が﹁新詩﹂を説明しようとしてことばを費やした路易士がたどりついた地点だと言えるだろう。彼が﹁純粋詩﹂の具 体例として何を念頭においていたか必ずしも明らかでないが、たとえば以下の作品はひとつの例になりえる。 星を摘んだ少年が、 落ちてきた。 青空が嘲笑する。 四九 一 日中戦争下の﹁純粋詩﹂ 明治大学教養論集 通巻四五〇号 ︵二〇一〇・一︶ 大地が嘲笑する。 新聞記者が 最も耐えがたい形容詞を 彼の名にかぶせ、 嘲笑する。 千年後、 新設の博物館に、 陳列される 星を摘む少年の像。 左手に天狼をささげ。 右手に織女をささげ。 腰をしばるは、 彼を射落としたあの 猟師の三つ星を嵌めたベルトQ,。 五〇 ﹁星を摘む少年﹂と題されたこの作品からまず読み取れるのは、簡潔な表現を使って少年のイメージを提示してい ること、そして星空や宇宙への飛翔を指向していることである。少年と星空はあからさまな純粋への指向と読める。 ﹁浄土﹂と呼ぶににふさわしいけがれ無き境地が描かれていると言えるだろう。しかしこの詩が他方で表しているの は、嘲笑へのこだわりであり、純粋が憧れとしてのみ存在することを自ら確認しているようにも読める。つまり路易 士の﹁純粋詩﹂とは、彼がどこまで意図していたかは不明なものの、純粋を望みながら決して純粋に到達できない現 状を、できる限り簡潔なことばによって過不足なく表現したものであったと考えられる。﹁純粋﹂を望む路易士の自意 識は、﹁純粋﹂になりえない現状と大きな落差をかかえていた。そして彼の最も良い詩は、純粋への理想と現状とのあ いだの落差をそのまま表現することで、理想とする純粋との距離を保ち、つまり自らの理想を対象化する視座を確保 し、﹁純粋﹂を拝情として表現したものと言えるのではなかろうか。 しなければならないのではない。﹁純粋﹂を好情として表現するためには、遠いかなたであることが必要であった。そ したがって路易士の﹁純粋詩﹂にとって、純粋を妨げる現実は不可欠な要素とすら言える。﹁純粋﹂が遠いから努力 して本稿の文脈において注目すべきは、彼が自己の理想的な詩として﹁純粋詩﹂を見出したのが、ほかならない日本 占領下の上海であったことである。すなわち路易士の﹁純粋詩﹂は、純粋を妨げる現実の場である当時の上海の情況 と切り離せない関係を結んでいる。 三 周囲との闘争 じつは路易士は﹁純粋詩﹂を構想したころ、しばしば小報の記事に対して苛立っていた。小報とは小ページ構成の タブロイド新聞のこと、大型総合新聞と異なり、ゴシソプ記事を得意としていた。彼の苛立ちを示す文を一つだけあ げよう。﹁私は奴らの存在を抹殺する!奴らの偽の名前、奴らの嘲罵の文の題名を、自分の筆で書くことも御免だ。奴 らを引き立て、奴らの名を売り、奴らの最低の虚栄心を満足させることになってしまう﹂⑳。路易士に対する小報の 五一 椰楡がどのようなものであったか、現在のところ全貌は明らかでない。小報の一つである﹃社会日報﹄の次の記事は 日中戦争下の﹁純粋詩﹂ 明治大学教養論集 通巻四五〇号 ︵二〇一〇・一︶ 一つの例になるだろう。 五二 ここで路易士先生は、彼の詩と詩論に反対するすべての読者と批評家を、一様に俗物商人の列に入れている。 俗物商人は憎むべきである。私の詩が分からないのか。私の議論に同意しないのか。それでは君は俗物商人だ。 当然憎むべきだ。そして詩人にして﹁勇士﹂を兼ねる路易士先生は、つねに彼の﹁正義﹂を手に誇っている。 何という論理だろうか。何というやり方だろうか。/路易士先生はしばしば俗物商人と書きつけ、俗物への憤 慨を記す。しかし彼のいう俗物商人とは、極めてぼんやりしていて、まるで子供のいう悪者と変わりがない伽。 このころ﹃社会日報﹄は路易士を嘲笑する記事を多数掲載していた。管見のかぎり、この文章は﹃社会日報﹄の中 では露骨な嘲罵の少ないものである。他の文章には彼の容姿や詩の言葉尻をとらえた嘲笑があった。路易士が苛立っ たのは、他紙を含めたより強烈な嘲笑のことばであったと思われる。とはいえ、この文章から路易士への批判がどの ようなものであったか想像可能だろう。高尚な文化人を気取り他人をさげすむ姿勢、﹁正義﹂を振りまわす態度が、通 俗的な立場から権威を笑い飛ばす小報のような新聞に格好の材料を提供したことは想像に難くない。しかもこの文章 は、たんなる嘲笑にとどまらず、路易士がつねに﹁正義﹂を語り論敵にレッテルをはるものの、その論理は荘漠とし てあいまいであると、彼の弱点を指摘していた。だからこそ路易士は、小報の嘲笑に対して過剰とも思われるほど感 情的なことばによって苛立ちを表明したのかもしれない。 路易士にかぎらず多くの上海文化人にとって小報のゴシップ記事は悩みの種であった。一九三〇年代以来、魯迅を はじめ多くの文化人が小報のゴシップ記事に苛立ってきた。そして小報を好む上海市民の嗜好は、上海文化の軽薄さ のあらわれとしてしばしば批判されてきた。その中で路易士の特質は、小報批判を俗物根性批判に結びつけた上で、 俗物根性の代表として通俗文学と共産主義文学をあげたこと、つまり小報批判を拡大して当時の上海文壇全体への批 判につなげたことである。路易士によれば、通俗文学は商業主義、共産主義文学は政党イデオロギーという、ともに 芸術の外部にあるものに寄生した不純な文学だという伽。かくして路易士において小報のゴシップ記事は、彼の周囲 の文壇全体につながる広い現象の一部と認識され、小報への苛立ちを契機として、より広い文壇全体への闘争が開始 される。一般の認識では、小報のゴシップ記事と文壇全体の問題は位相が異なるだろう。路易士は、あたかも強迫症 にかかったかのように、あるいは位相の違いに気づかないかのように、自分の周囲全体を敵と見なして闘争しようと した。路易士の詩集﹃出発﹄の序文を見てみよう。 私は出発する。全てに向けて、もしくは虚無に向けて。/私は自分の必然的な悲劇の運命を自覚している。/ 私は猛烈に自分自身を燃焼させる。/私の健康は元に戻れないほど壊された。/しかし、貧窮も、孤独も、時 代の迫害も、社会の虐待も、タバコも、酒も、憂欝病も、ほかの全ても、私をほんとうに壊すものではない。 / ︹中略︺/私の生命は過剰に燃焼している。/私は自分の生命の大火山の内からの爆発を抑えることがで きないといつも感じている。おそるべき爆発。/私こそが私を壊すものである。/私は残酷に自分自身を壊す。 /私は出発する。全てに向けて、もしくは虚無に向けて㈲。 この半ば詩的な序文で路易士は、自分を壊す外在的な要因を列挙している。彼自身の生活の問題である貧窮と孤独、 戦時下のことを指しているとおぼしき時代の迫害、小報の嘲笑を念頭においたと思われる社会の虐待、さらに小報で 椰楡される彼個人の嗜好であるタバコ、酒、憂欝症と並べ立て、思いつくかぎりの外在的な要因を順不同であげてい る。問題の大小を判断できないのか判断をあえて避けているのか、にわかには判別できない書き方によって、少なく とも路易士から見るならば、さまざまな位相の問題が同等に彼を苦しめていることが示される。その上で最終的に、 五三 すべての外在的要因を打ち消して自分の生命の過剰な燃焼が強調される。路易士の意識においては、外部の諸要因は 日中戦争下の﹁純粋詩﹂ 明治大学教養論集 通巻四五〇号 ︵二〇一〇・一︶ 五四 どれも同等であり、それに対して自分の内からの爆発が拮抗していることが見て取れるだろう。このとき路易士は、 自分の周囲を無差別に敵とみなし、自己の内的な燃焼によって理想的な詩的世界へ向かう姿勢をとっていたと、ひと まず言えると思われる。 自分の周囲を無差別に敵と見なして闘争する姿勢が、路易士の﹁純粋詩﹂の源泉であった。問題は、諸要因をすべ て同等に敵にすることで、日本占領下上海という情況に触れざるを得なくなることである。﹁時代の迫害﹂と書き込ん だことは、彼が思いつく周囲の敵の つに、日本の占領という現実が含まれていたことを示している。そして日本の 文化統治に触れたとき、すべてを同等に扱う姿勢を貫くことができなくなる。たとえ路易士が無差別に周囲を敵視し たとしても、俗物商人を批判するように日本の文化統治を批判することは許されない。 一九四四年に南京で開催され た大東亜文学者大会に参加した路易士は、日本主導のスローガン文学を批判できないアポリアに直面した。 ﹁文学報国﹂という立場に対して、反対するところはない。私が断固として反対し続けているのは、この旗標 のもとの﹁標語スローガン詩﹂や﹁公式宣伝文﹂の類の粗製乱造である。しかも私は、この旗標以外の純正な 文学が報国的でないとは思わない。/なぜならば﹁文化類型学﹂の観点から見ると、あらゆる文化は必然的に ﹁民族的﹂であり、文学や芸術も必然的に﹁民族的﹂だからである。ただ﹁民族的﹂であるものだけが﹁世界 的﹂な意味を持ちえる。したがって、広義に言えば、あらゆる文学は報国的なのである伽。 大東亜文学者大会の直後に発表されたこの文章で、路易士は政党イデオロギーにしばられた文学を批判しながら﹁文 学報国﹂を擁護する苦境に立たされている。あらゆる文化を﹁民族的﹂であるとし、﹁民族的﹂であるからこそ﹁世界 的﹂たり得るとする論理展開は、路易士の年来の主張に沿っている。しかしながら﹁世界的﹂な意味を持ちうる芸術 作品がなぜ﹁報国﹂に結びつくのかは説明されない。おそらく路易士は説明できなかったものと思われる。﹁純正な文 学が報国的でないとは思わない﹂という二重否定を用いたねじれた表現は、彼の苦境をあますところなく伝えている だろう。 そもそも路易士は大東亜文学者大会についてねじれた主張をしていた。大会期間中に日本語新聞﹃大陸新報﹄主催 で開催された座談会で、彼は﹁この大會の結果は多分よい結果を得るであらうと思ふが上海の文壇の現状については 残念でならない。これには一つの革命をやらなければならないと思ふ﹂伽と発言している。上海の文壇全体を敵と考 え、革命をやるという発言は、彼の一貫した主張である。その意味で路易士は、大東亜文学者大会を契機に自分の年 来の主張を実現させようと真剣に考えていた可能性も少なくない。しかしながらこの発言を詳細に読むと、上海文壇 への革命と大東亜文学者大会は別個のものとして切り離されている。一つの発言にまとめることで、上海文壇への批 判と大東亜文学者大会を一見つながった問題のように提示しながら、じつは両者の関係について説明していないこと が見て取れる。 路易士にとって、文壇全体を敵と見なして革命を目指すこと、不純な現実を注視して理想の﹁純粋﹂を目指すこと、 そうしたことは詩人としての根本にかかわる姿勢であった。ところが日本占領下の上海においてその姿勢を貫くため には、不純と批判する現実と日本の文化統治をどのように整合させるかというアポリアに直面せざるを得ない。とこ 五五 ろが日本の問題に直面した路易士は、問題解決を放棄したようにも見える態度で、むしろ日本との関係の困難を詩的 にとらえる方向に向かった。たとえば戦争終結が間近に迫った時期の詩﹁狂想詩﹂の冒頭を見てみよう⑳。 私を発狂させるのは この地上。この世の経験 およそ歌うべきものは 日中戦争下の﹁純粋詩﹂ 明治大学教養論集 通巻四五〇号 ︵二〇一〇・こ すべて歌い終わった。 終わった、終わった、 全人類の破滅、 二十世紀の乱夢、 絶望、 無感動。 五六 この詩に現れているのもかなたの天上と絶望的な現実との距離であると読むことはできる。しかし明らかに、現実 への絶望感と無力感が全体をおおっていることが見て取れる。詩の末尾の一九四五年春という署名を信じるならば、 この詩は、日本の敗北が上海市民に明らかになりつつあった時期に書かれたものであり、日本との関係をめぐる路易 士の意識が表出していると見ても無理はないだろう。先述のとおり、路易士は日本の文化統治に積極的に協力したわ けではない。この詩からも日本への積極的な協力を読み込むことは難しい。この詩から読み取れるのは、路易士が積 極的な協力も意識的な抵抗もせずに、むしろ日本との関係を正面から考えることを放棄したように見える態度で、戦 争末期の破滅感を詩によって表現しようとしたことである。そうした態度の背景にあるのは、日本詩人との独特の交 流であった。 四 仲間との語らい 路易士は文壇全体を敵と見なして闘争したと書いたが、正確には、文壇のほとんど全体を敵としたと言うべきであ った。彼は一部の仲間との語らいを重視し、仲間とともに集団によって文壇の大勢と闘争しようとした。路易士にと って集団の結成はもうひとつの重要な活動の柱であった。 彼の仲間として最初にあげるべきは同人誌﹃詩領土﹄に集った中国詩人であろう。﹃詩領土﹄は﹁本誌に投稿して一 回以上作品が掲載されたものは本社の同人の資格を得る﹂と定め、広く投稿を呼びかけながら同人を増やしていった。 毎号の最終ページに同人の氏名を掲げ、管見のかぎり最終号である第五号によると、最終的に八三人まで増えたこと が分かる。第二号の﹁社中記事﹂には、﹁我々の同人はすでに三十名前後になった。この三十名の同人のうち、少数の 数人を除いて、ほとんどは二十歳前後の青年である。その中の十七歳の董純喩は、我々のグループで最も若い一人で ある﹂⑳とあり、当時三〇歳の路易士が年長になる若手詩人の集まりであったことが見て取れる。さらに第三号には、 ﹁五月某日、一部分の上海にいる同人が小さな集会を開いた。場所は﹁詩領土社﹂、特に大げさな座談会の類を開いた わけではなく、ただ社事一般についてお互い意見の交換をしただけである﹂伽とあり、路易士を中心として若手たち が気軽に顔を合わせ、交流を進める場を構想していたことが分かる。 路易士は早い時期から同人雑誌を結成して活動の拠点としてきた。戴望好のもとで﹃新詩﹄の編集をしていた時期 には﹃菜花詩刊﹄﹃詩誌﹄と同人誌を発行しており、それ以前にも﹃火山﹄という雑誌を出している。また戦後も同人 雑誌発行に積極的であった。同人を募って、集団の力でみずからの詩の理想を求めることは、彼の一貫した方法であ ったと思われる。この時期の活動で問題にすべきは、中国人同人とほとんど同じ頻度で、日本文化人と交流したこと である。 戦争末期の上海に日本からさまざまな立場の文学者が到来したことはよく知られている。たとえば武田泰淳の遺作 五七 となった小説﹃上海の螢﹄は、戦後三〇年たった視点から、戦争終結直前の上海に集った日本文化人の生態を描き出 日中戦争下の﹁純粋詩﹂ 明治大学教養論集 通巻四五〇号 ︵二〇一〇・一︶ 五八 している@.。武田によると元左翼が屈折した心情を抱えて外地である上海に向かった例も少なくなかったという。複 雑な心情を抱えた日本文化人が、日本人とはまったく異なるもののやはり単純でない心情を抱える中国文化人と出会 ったとき、そこに生まれる﹁交流﹂が一筋縄にならないことは言うまでもない。路易士と日本詩人との交流も、おの ずと極めて分かりづらいものになった。 常にステッキを持ちパイプをくわえていたという路易士の奇異な風貌と、異様なほど情熱的な活動ぶりは、多くの 日本人文学者に深い印象を残したようである。管見のかぎりでも、堀田善衛と高見順が戦後に路易士をモデルにした 小説を書いている御。堀田善衛の小説﹁漢好﹂には、暗室の中に大きな枢を置きその中で自動筆記法と称する詩作を 行う安徳雷︵アンドレ︶という詩人が登場する⑳。路易士自身は自動筆記法を行った形跡はないが、彼がシュールレ アリズムに触れていたことは事実である。路易士の行動が、堀田には枢の中で詩作をしているような異様なものに感 じられたのであろう。また高見順の小説﹁馬上侯﹂には、いかにも生きる詩人のような情熱的な李易生と、柔和で落 ち着いた李易生という、同じ名前を名乗り自分こそが本物だと主張する二人の詩人が登場する。小説の﹁私﹂は情熱 的な李易生と痛飲して幸福感を感じる一方、柔和な李易生と日中文化交流を語ろうとしてかみ合わずもどかしさを感 じる観。路易士には﹃詩領土﹄同人の弟がいるので、兄弟がモデルの可能性もあるが、高見順日記を見るかぎり﹃詩 領土﹄同人と会った形跡はなく㈹、二人の詩人の分裂は、おそらくはどちらも路易士から受けた印象であろう。 路易士と比較的深く交流した日本人詩人は二人いる。一人は朝島雨之助。朝島は一九三〇年代に﹃新青年﹄などの モダニズム系雑誌で活躍したと言われるが、詳細な経歴は不明である。当時、草野心平を中心として中国在住の日本 人詩人が集った詩雑誌﹃亜細亜﹄に関わり、中国語もできる詩人として一定の働きをしていた。路易士は朝鳥につい て、﹁十一月十九日午後一時から二時、仁記路︵四川路近く︶に新しくできた喫茶店﹁亜州﹂にて、日中両国詩人の小 さな茶話会が開かれた。主催者は朝島賢之助君。出席した日本人は梓雲平と河肥荘平の両氏。中国人は私∼人であっ た。朝島君は親しい友人である。7月に﹁大東亜文化報道館﹂で一緒に仕事をしたことがある。︹中略︺私たちはとて も愉快に話をした。詩、詩人、詩集、詩雑誌から、コ⋮ピー、タバコ、酒、私が良く行く﹁潮﹂、夜間の仕事、私の胃 ︵ ー で 。 梓 君 は 中 国 詩 い く つ か 詩 集 を 見 せ 病ま 壇 の 状 況 に 関 心 を 示 し、 て 欲 し い と 言 っ た ﹂ 悩と書いている。この文章に よると、おそらく﹃詩領土﹄同人の集いと同じような気軽な意見交換をしたのであろう。このほかに、朝島が路易士 の随筆や詩を翻訳し㈹、路易士が﹁朝島を想う﹂という詩を書いたことがありoの、両者の関係の深さがうかがえる。 ﹁朝島を想う﹂の後記には、﹁九月人日夜、草野心平氏のところで朝島雨之助氏と会う。ほかに池田克己氏と数人の ﹁亜細亜﹂の同人がいた。みなで老酒を飲み、楽しんだ。すこぶる﹁詩的﹂な夜だった﹂とあり、あたかも高見順の 小説を体現したような﹁詩的﹂な痛飲が行われていたことがうかがえる。ここに名前の出る草野心平は当時南京の涯 精衛政府で文化関係の仕事につき、日中文化人の﹁交流﹂を影で支えていた。そして池田克己が、路易士と深く交流 し、彼にとって大きな意味を持ったもう一人の日本詩人である。 池田克己は一九=一年奈良県吉野生まれ、路易士と同世代の詩人である。一九三九年、徴用されて上海で建築工作 に従事、一九四一年に徴用解除されるがそのまま上海にとどまり大陸新報社の中国語新聞﹃新申報﹄の写真記者とな る。路易士と知り合ったのがいつ頃かは不明だが、おそらくは一九四四年、詩雑誌﹃亜細亜﹄がスタートした前後の ことと思われる。池田の上海時代の詩は、感傷を排し、風景を直接的に顕現させ、原始の躍動を伝えるものであった とされる⑳。路易士も池田の詩集﹃上海雑草原﹄を評して﹁素朴さ、単純さ、堅実さ、力強さ、新しさ﹂を優れた点 五九 としてあげており㈹、虚飾を排して直接的に対象に迫る作風にひかれていたことが見て取れる。池田の詩作は、路易 士が一九四四年に詩論を練り上げた際の一つの支えとなっていた可能性すら考えられる。 日中戦争下の﹁純粋詩﹂ 明治大学教養論集 通巻四五〇号 ︵二〇一〇・一︶ 六〇 また池田にとっても路易士との交流が深い意味を持っていたことは、彼が戦後に書いた﹁詩人路易士﹂という詩に うかがえる。最後の数行を見てみよう。 君も貧乏/僕も貧乏/君の子供はよく病氣し/僕の二人はよく泣く/しかし何と豊富な君と僕の饒舌/政治な ど口にしなくとも/もう充分だ/君はがむしゃらに中國を愛し/僕はがむしゃらに日本を愛し/君は僕らの友 だ/君と僕らは充實している/髭を生やした君の若さは美しく/君のとぼけた必死な顔は/大攣いい/ああい い㈹ 池田克己の戦後の詩作は上海体験の影を抜きにしては考えられないと言われ、彼の戦後最初の詩集﹃法隆寺土塀﹄ には﹁上海体験の執拗なまでの傷痕の深さ、その意識の癒き﹂が見て取れると指摘されている㈹。その詩集の最後に おかれたのが上の詩句であった。この詩が戦後の池田の傷痕と痺きをも現していることを考えると、単純に二人の詩 人の友情の発露ととらえることは避けねばならないだろう。とはいえこの詩を読むと、思うままにならない時代に逆 らい、無意味と知りつつ饒舌をつくし、がむしゃらに充実を目指す二人の詩人の姿が浮かぶ。それを﹁ああいい﹂と いう簡潔であり無力でもあることばで表現するところに戦後の池田の意識が読み取れるが、ともあれこの詩を読むか ぎり、少なくとも二人でいたときには、彼らのあいだにある種の﹁詩人的﹂な交流があったことは否定できないと思 われる。 問題は、池田克己もこの当時みずからの詩作が時代状況に回収される危機にあったことである。路易士が池田等と の交流を重ねながら﹁純粋詩﹂を理論化し、その過程で不純な現実と日本の文化統治との整合性というアポリアに直 面していたとき、池田は、感傷を排する詩作が直接的な﹁皇国﹂賛歌へと向かいかけていた。池田のその傾向は路易 士も意識していたと思われ、﹃上海雑草原﹄に続く池田の詩集﹃中華民国居留﹄について、﹁ほとんどすべての詩が濃 厚な日本的色彩に塗り込められている。そのため大部分の中国の読者は、日本の読者ほど強い印象と親近感を持てな いかもしれない﹂㈲という評語を残している。 したがって路易士にとって池田克己との交流は、日本統治への積極的関与になりかねない危険と隣り合わせであっ たと言うべきである。事実、政治まがいのことを口にすることもあったことが、池田克己の詩や高見順の小説からう かがえる。しかしながら路易士は、そうした危険も含めて、あたかも問題の重大性に気づかないかのように、当時の 絶望的な現実をそのまま受けとり、日本文化人と酒を痛飲することを選んだ。それこそが路易士にとって﹁すこぶる 詩的﹂な交流であったと言えるだろう。日本との関係のアポリアも含めた現実の中に身を置き、先行きの見えない絶 望感の中でただひたすらもがきながら﹁純粋詩﹂を考えることが、上海時代の路易士の活動だったのではなかろうか。 堀田善衛の記録によると、日本のポツダム宣言受諾のニュースが上海に伝わったとき、路易士は日本人たちのとこ ろにきて、﹁みんな抱擁するような表情を身体全体で現して﹂﹁和平です!﹂と叫んだという㈲。この行為の真意は知 るべくもない。事柄の意味を理解していなかった可能性も否定できないし、あるいは日本敗北後のための煙幕の意味 があったかもしれない。しかしそれまでの路易士の行動から見るに、彼が戦争終結に﹁詩﹂を見出したとしてもそれ ほど不思議でない。 おわりに 日本占領下上海の路易士の活動を再考すること、それは路易士という個人の内面を探るものにはなりえない。本稿 六一 でくり返したように、彼の意図を探ることは不可能に近い。しかしながら、常に現実の深みに向かいながら﹁詩﹂を 日中戦争下の﹁純粋詩﹂ 明治大学教養論集 通巻四五〇号 ︵二〇一〇・一︶ 求めた彼の特異な行動は、いくつかの文脈において軽視できない意味を持っている。 六二 まず中国モダニズム文学の展開における意味がある。先述したように、香港で抗戦詩を模索し続けた戴望野と比較 することが可能だろう。戴望野も戦時中、シュールレアリズム的手法を取り入れた詩を書いていた。戴望好の場合、 あくまでも﹁抗戦﹂を詩として表現することが前提であり、リアリズムによっては表現し得ない﹁抗戦﹂を描くため にシュールレアリズムに接近したと思われる。戴望野と路易士を比べると、二人ともシュールレアリズムが戦争とい う現実と結びついていたことが見て取れる。表面的な﹁現実﹂のかなたに到達することを標榜したシュールレアリズ ムが、戦争というあからさまな現実と結びついて現れたことは、中国のモダニズムを考える上で無視できないことで ある。しかし戴望野と路易士では、戦争という現実との結びつき方がまったく異なっていた。そもそも戦争にあたっ て迫られる政治的な立場が敵味方に分かれた。このこともまた、中国モダニズムの苛酷な経験を示す事実として銘記 されるべきである。 第二に中国文化人の対日協力を考える際の意味がある。これまで中国文化人の対日協力をめぐっては、戦争前から 著名な文学者であり戦時中も動向が注目された周作人の問題、あるいは自覚的に日本との協力の立場を選択した柳雨 生の問題などが論じられてきた佛。彼らと比べると路易士の事例は、人物の重要性から考えても、対日協力の強さか ら考えても、限りなく無意味に近い。しかしながら、たとえば柳雨生と路易士を比べることで、いわゆる﹁漢好﹂と 呼ばれる中国文化人の多様で幅広いあり方が明らかになるのではなかろうか。そして﹁漢好﹂の多様性を見ることは、 日本側の責任、中国文化人に対日協力をさせたことに伴う責任にも、多様で幅広い問題があることを再認識すること につながるであろう。その意味で、戦時下上海の路易士の活動と池田克己の戦後の歩みをあわせて考えることは意味 があると思われる。 第三に戦争末期の上海の文化界の様子を知ることができる。ことに日本から上海に行った文化人と中国文化人が↓ 筋縄でいかない﹁交流﹂を続けながら、独特の空間を形成していたことが、路易士の活動から浮かび上がってくる。 それは近代上海の都市文化を受けつぎつつ、同時に近代上海の歴史から切り離された時代であったと言うべきだろう。 さて路易士は、戦争終結以後﹁紀弦﹂という筆名を使い始める。紀弦は戦後台湾にわたり、台湾近代詩において大 きな役割を果たすことになる。中国の内戦が一応の区切りをつけてまもない一九五三年、台北にて同人雑誌﹃現代詩﹄ を発刊、再び同人を集めて詩雑誌を作る活動を始めた。 一九五六年には﹃現代詩﹄を月刊化するとともに﹁新詩の再 革命﹂﹁新詩の現代化﹂をスローガンに掲げ、彼の戦前からの主張であるモダニズム詩の運動を開始した。そうした動 きの中でやがて・﹃創世記﹄などの詩雑誌が生まれ、のちに秀逸なシュールレアリズム詩で有名になる痙弦などが登場 した幽。 紀弦の﹃現代詩﹄での活動は、ある意味では上海時代の活動の延長線である。同人による詩雑誌をつくって活動し たほか、﹁横の移植﹂を主張した。新しい詩のためには、中国の伝統からの﹁縦の移植﹂を斥け、同時代のフランスな どから﹁横の移植﹂を受け入れるべきであるという主張である。ちなみに彼のいう﹁横﹂には日本も含まれていた。 正確に言うならば、彼のいう﹁フランス﹂も堀口大學経由のフランスであった。そして何よりも重要なのは、紀弦が モダニズム詩運動を展開したのが、国民党による戒厳令下であったこと、すなわち自由を制限された厳しい現実を前 にしていたことである。言いかえるならば、紀弦は、上海で路易士と名乗って活動した時期と同じように、軍政下に おいて、中国の伝統から離れて同時代の西洋や日本と交流することを通じて、新しい理想的な詩を作ることを模索し ていたと言えるだろう。 六三 上海時代の路易士が大きな成果をあげなかったのに対して、戦後の紀弦が台湾詩に重大な役割を果たした理由を問 日中戦争下の﹁純粋詩﹂ 明治大学教養論集 通巻四五〇号 ︵二〇一〇・一︶ 六四 うことは興味深いテーマではある。しかし本稿では、日本占領下の上海において形成された特異な詩作の方法と戦後 台湾の近代詩とのあいだに継承関係があることを指摘するにとどめる。中国のモダニズム文学を考えることは、戦争 に血塗られた東アジアの近代史を考えることと切り離せない。そのことを、おそらくは無意識のうちに、しかし象徴 的な形で体現しているのが、路易士もしくは紀弦の歩みなのではなかろうか。 @路易士﹁火災的城﹂︵﹃詩誌﹄第一巻第三期、一九三七年三月︶。雑誌のコピーは大阪市立大学松浦恒雄教授に提供していただい 9 張愛玲﹃流言﹄︵上海一五洲書報社、一九四四年初版、上海日上海書店、一九八七年影印︶、一四三頁。 8 本稿では、路易士﹃三十前集﹄︵上海一詩領土社、 一九四五年︶ 一二六頁によった。 7 紀弦﹃紀弦回憶録﹄第一部、九六頁。 6 紀弦﹃紀弦回憶録﹄第一部﹁二分明月下﹂︵台北”聯合文学出版社、二〇〇一年︶、六三頁。 5 施蟄存﹁又関於本刊中的詩﹂︵﹃現代﹄第四巻第一期、一九三三年=月︶。 4 路易士﹁給音楽家﹂︵﹃現代﹄第五巻第一期、一九三四年五月︶。 3 路易士﹁関於﹁向文学告別﹂︵中︶﹂︵﹃中華日報﹄一九四三年一二月五日︶。 2 徐遅﹃我的文学生涯﹄︵天津”百花文芸出版社、二〇〇六年︶参照。 1 拙稿﹁ことばたちの星座−戴望詩の日中戦争1﹂︵﹃文学﹄二〇〇二年一、二月号︶参照。 注 n 路易士﹃三十前集﹄、 一四五頁。 た。また﹁火災的城﹂の異同も松浦氏のご教示を受けた。記して謝意を示したい。 10 @胡蘭成﹁周作人与路易士﹂︵楊一鳴編﹃文壇史料﹄、大連”大連書店、一九四四年、二四頁︶。この書籍は上海の新聞﹃中華日 報﹄の連載をまとめたもの。 @学士台で文化人が織りなした諸相については、王宇平﹁学士台風雲﹂︵﹃中国現代文学研究叢刊﹄二〇〇七年第二期︶を参照。 @日本占領下の上海で出版した詩集﹃三十前集﹄巻末の﹁三十自述﹂にも、江精衛政権に関する記述はない。この文章では江精 衛政権との関わりを隠す必要はなく、事実、蘇北泰県にいたことは書かれている。 @路易士﹁導言﹂。本稿では﹃中華日報﹄一九四四年六月一九日に転載されたものによった。 @路易士﹁偽自由詩及其他反動分子之放逐﹂︵﹃詩領土﹄第五号、一九四四年一二月︶。﹃詩領土﹄雑誌は、早稲田大学名誉教授岸 陽子氏および中国現代文学館陳建功館長の好意によって閲覧することができた。記して謝意を示したい。なお廃名の詩について、 六五 二日︶。この文章も小報に嘲笑されたらしいことが、 二日︶。 路易士は﹁従廃名的﹁街頭﹂説起﹂︵﹃文芸世紀﹄第一巻第二期、一九四五年二月︶でもほぼ同じ趣旨で論じている。 路易士﹁袖珍詩論﹂︵﹃中華日報﹄一九四三年九月一五日︶。 路易士﹁純粋詩鋤﹂︵﹃中華日報﹄一九四四年三月一四日︶。 路易士﹁摘星的少年﹂、﹃三十前集﹄二五〇ー二五一頁。 路易士﹁漫罵之抹殺︵下︶﹂︵﹃中華日報﹄一九四三年一〇月三〇日︶。 石敢当﹁路易士 詩人?勇士?天真?﹂︵﹃社会日報﹄一九四四年三月一 一九四四年=一月二一日︶。 一九四四年五月︶、 一ー二頁。 たとえば路易士﹁作家椚在幹些什麿?﹂︵﹃中華日報﹄一九四三年八月一 、 、 日の路易士の文章力ら分力る。 @路易士﹃出発﹄︵上海一太平書局、 @路易士﹁雑論三題﹂︵﹃中華日報﹄ 日中戦争下の﹁純粋詩﹂ 後 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 明治大学教養論集 通巻四五〇号 ︵二〇一〇・一︶ 六六 @ ﹁大東亜文学者大会に臨んで﹂︵﹃大陸新報﹄一九四四年一二月一九日︶。この座談会は一九四四年一一月=二日に南京の首都飯 @路易士門狂想詩﹂︵﹃中華・日報﹄ 一九四五年六月三日︶。 四頁。 店ホテルで行われたことが、高見順の日記より分かる。高見順﹃高見順日記﹄第二巻ノ下︵東京 勤草書房、一九六六年︶、八五 25 @ ﹁社中記事﹂︵﹃詩領土﹄第二号、 一九四四年四月二五日︶。 26 @ ﹁社中記事﹂︵﹃詩領土﹄第三号、一九四四年六月二五日︶。 27 @大橋毅彦他編注﹃上海お禽ーお禽 武田泰淳﹃上海の螢﹄注釈﹄︵東京 双文社出版、二〇〇八年︶は、﹃上海の螢﹄に詳細な 28 @堀田善衛著・紅野謙介編﹃堀田善衛上海日記 濾上天下一九四五﹄︵東京H集英社、二〇〇八年︶を読むと﹁漢好﹂執筆の過程 注釈をくわえ、当時の上海に集った日本文化人の複雑な様相を浮かび上がらせている。 29 @堀田善衛﹁漢好﹂︵﹃堀田善衛全集﹄第一巻、東京”筑摩書房、一九九三年︶。 一九九八年︶参照。 をかいま見ることができる。また高見順については、百瀬久﹁高見順﹁馬上侯﹂論−詩人との蓬遁1﹂︵﹃昭和文学研究﹄三七、 30 @高見順﹁馬上侯﹂︵﹃高見順全集﹄第十巻、東京⋮勤草書房、一九七一年︶。 31 @前掲﹃高見順日記﹄参照。路易士については、南京の大東亜文学者大会の際、注精衛逝去のニュースを聞いて好きな酒を断っ 32 @路易士﹁題未定篇﹂︵﹃中華日報﹄一九四三年一二月二一日︶。 たエピソードが記されている。 33 @路易士﹁随筆の夜﹂︵﹃大陸新報﹄一九四四年二月二八日︶、﹁詩人的武士道﹂︵﹃大陸新報﹄一九四四年五月一〇日︶。朝島がなぜ 34 この作品を選んだのかは不明。 35 @路易士﹁懐朝島﹂︵﹃中華日報﹄ 一九四四年九月一五日︶。 @大橋毅彦﹁池田克己﹃上海雑草原﹄の︿光﹀と︿影﹀﹂︵﹃甲南国文﹄四六、一九九三年三月︶参照。池田克己については君本昌 36 @路易士﹁詩評三種﹂︵﹃詩領土﹄第五号、一九四四年一二月三一日︶。 だいた。記して謝意を示したい。 久﹃詩人をめぐる旅﹄︵神戸⋮太陽出版、一九八二年一〇月︶も参照した。同書の存在は関西学院大学大橋毅彦教授にご教示いた 37 @池田克己﹃法隆寺土塀﹄︵大阪一新史書房、 一九四八年四月︶。 38 @前掲君本昌久﹃詩人をめぐる旅﹄、六七頁。 39 @路易士﹁詩評三種﹂︵﹃詩領土﹄第五号、 一九四四年一二月三一日︶。 40 @前掲﹃堀田善衛上海日記 濾上天下一九四五﹄、一八頁。なお小説﹁漢好﹂の冒頭にはこのことを題材にした描写がある。 41 @木山英雄﹃周作人﹁対日協力﹂の顛末﹄︵東京”岩波書店、二〇〇四年︶、杉野元子﹁梛雨生と日本﹂︵﹃日本中国学会報﹄五五、 42 @痙弦については、松浦恒雄編訳﹃深淵 痘弦詩集﹄︵東京一思潮社、二〇〇六年︶参照。 二〇〇三年︶参照。 43 日中戦争下の﹁純粋詩﹂ 六七 ︵すずき・まさひさ 政治経済学部准教授︶ 44