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一 - 明治大学

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一 - 明治大学
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明治大学教養論集 通巻五一 O号(二O 一五・九)四五六三頁
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一八八八年
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た万事バランスよく行くように上手く取り計らってくれるまではねiブルックナーは宮廷礼拝堂の職務のために夏中
はブルックナーには知らせずに、もういっぺん印刷を延期する他には手がない。彼のお気に入りのフランツちゃんがま
になっているのだ。それに対して僕はもちろん、レティヒのところで、否を唱えて孤軍奮闘したけれどね。かくなる上
在したマーラー氏のおかげですっかりブルックナ lは怖気づいてしまって、またぞろ旧稿の総譜を印刷に付するつもり
ころなのだ、第三交響曲のための君の提案をどうしたらいいか、彼は分からなくなっている、それも偶々ウィーンに滞
て、新たなキャンペーンのためにも力をつけてくれるといいが。僕はとりわけブルックナーのためにもそう願いたいと
の兄ヨ 1ゼフが弟フランツに宛てた書簡を緩くと、﹁願わくば、君が両者の聞に立ってて二週間でも我々の許に留まっ
一八八八年七月シャルク兄弟はブルックナ!の第三交響曲の出版の紛糾した状祝をめぐって書信を交わす。十三日付
七
ウィーンを離れられないのだ日﹂ 一週間後の二十日に再びヨ lゼフはフランツに認める、
﹁親愛なる弟よ!
一番いいのはこの機会を先ずは暫定的に冬眠させておくことだが、 それを彼につゆ
パ イ ロ イ ト が 始 ま る 前 に 君 に 一 筆 啓 上 す る が 、 第 三 交 響 曲 の た め に 君 が ブ ル ッ ク ナ 1 に執筆を表明した序文を、どう
かまだ書かずにおいてくれたまえ。
悟られではならない。印刷が延期になり、そこへまた君が書信をしたためたりすると、この件で彼が現に今陥っている
残念ながら神のみぞ知る紛糾を、なおさら昂じさせるだけともなりかねない。ことマーラーに関しては、 レlヴェが彼
の見解並びに我々の見解を熱心にブルックナ l に 説 い て 聞 か せ た と こ ろ だ 。 と い う 次 第 に て 、 い ず れ に せ よ 、 万 事 静 観
していてくれたまえ。君が戻ったら、折がめぐって来るかも知れない、 つ ま り 君 の 影 響 力 が 個 人 的 に 有 効 に 働 く 折 が 来
るかも知れない:・﹂
もとより良かれと思って周囲の取り巻きが熱心に勧めたキャンペーンはまさに同時代の評価を求めてのことであった
つまりは余りに独特にして唯一無二の師の音楽話法を、必ずしも作者の真意を映すものではなく一種の舌足らずの
*
*
七 月 三 日 に ヨ ア ヒ ム は ブ ラ1 ム ス に シ ュ ト ゥ ッ ト ガ ル ト で の 音 楽 祭 に ま つ わ る 書 信 を 認 め て い る 。 日 く 、 日 リ ヒ ャ ル
*
懐したとも伝えられる﹁未来の同時代人﹂ マーラーの面目躍加として面白い。
しても弟子や支持者による改訂の勧めにマーラーが同調しなかったらしいことは、己の時代は先の世に巡ってくると述
ブルックナ lも私淑するヴァ lグナ 1流に合わせることこそ成功の便法と許容しての暫定的処置であったか、 いずれに
招来したものと拙速の判断を下した故か、あるいはそこまで軽率の独諮問ではなかったにせよ時流即ち一世を風躍し且つ
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ト・]バルトの手紙は、恥を晒して告白すれば、すでにシュトゥットガルトの最終日以来すでにずっと、 つまり一週間
も、僕の手許に留まっていた。シュペ l マン氏から渡されたものだ。願わくは君の姿が音楽祭にみられなかったことの
無念、我々皆が感じた無念にその内容は尽きるものであらんことを。シュペ l マン宅は君にも気に入ったことだろうに。
愛すべき人たち、大人も子供もだが、魅力的な、飾り立てたところはないが、宮殿とも見紛う館での、居心地良いもて
なし、掠しい部屋ノ¥、それに底。 コンサートホ 1 ルの暑さは野蛮なほど酷かった。だが聴衆の関心はそれにもめげず
のものだった。君の協奏曲は上首尾に行った。クレンゲルはハウスマンよりらくらくと弾いた。 ハウスマンが熱演だっ
たのに比べてね。ーーところで今になって一言いたいことは、どんなに僕が ζの総譜に感謝しているか、またそこに記さ
れた予期せぬ親愛の情のこもった言葉に感謝しているかということだ。これほど見事な芸術作品の成立のよすがになり
得 た と は 、 僕 の ヴ ァ イ オ リ ン も ま ん ざ ら で な い と 誇 っ て よ い も の だ ! また近々新作を目にしてそれを音にして聴くこ
とが叶うようになりたいものだ、我々共にね。
プログラムを二部お送りする、学校がどんなことをしているか君にも分かって貰えるように。君にも聴いたら喜んで
くれたことだろう。ーーヴィ 1ドマンからよろしくとのことだし。
終 い に 触 れ ら れ て い る ﹁ 学 校 ﹂ で は 一四日にバッハのカンタータ三曲が演奏された。またシュトゥットガルトの音楽
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祭で演奏されたのはヴァイオリンとチェロの二重協奏曲であるが、今なお著名なクレンゲルがその一翼を担った。
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一日とんで六日に
ベ ル ク 伯 爵 夫 人 を は じ め と す る 面 々 に よ り 結 成 さ れ た 機 聞 か ら 六 百 フ ロ lリ ン の 年 俸 を 得 る と と も に 、 そ の 返 礼 と し て
こ の 八 月 に は シ ュ タ イ ア で ブ ル ッ ク ナ l は レ ー ダ ー や ア ル メ ロ lト ら と 度 重 な る 会 合 を も っ た が 、 彼 ら を 含 め 、 ラ ン
演奏を披露した。
ルトリウム﹄が演奏され、ブルックナーはミサの執り行われた後に、これも予め新聞に予告されていた通り、オルガン
日 に 当 た る ニ 八 日 の 火 曜 に は ザ ン ク ト ・ フ ロ lリ ア ン で の 麗 務 に 、 ラ ッ ソ の ミ サ が 一 曲 と 、 ブ ル ッ ク ナ l の﹃オッフェ
日とこ四日には三たび戻って第三交響曲フィナーレ楽章の日毎の改訂の記録が残されている。聖アウグスティヌスの祝
協 会 の 主 催 に よ り ブ ル ッ ク ナ 1 の﹃アヴェ・マリア﹄がゲレリヒとシュミットにより上演されたことを伝えるが、一一一一一
固また、先と同様の自作改訂の日付が同じ曲の第四楽章に日毎に記され、二二日に︽音楽新報︾はリンツ・ヴァ1グナl
五 日 に は プ ル ッ ク ナ 1が 、 か ね て 新 聞 に 予 告 し て あ っ た オ ル ガ ン 演 奏 会 を 同 地 で 開 催 す る 。 十 六 日 か ら 二 十 一 日 ま で 連
ン フ ア ル ト が ブ ル ッ ク ナ ! の 第 七 交 響 曲 の ア ダlジ オ の 主 閣 に よ り 即 興 演 奏 を 披 露 し 、 ブ ル ッ ク ナ ー は そ れ を 寿 ぐ 。 十
主としてそれは平行五度の追放に向けられ、弟子たちも手伝ったという。十二日にはリンツの音楽家マルティン・アイ
は 、 パ イ ロ イ ト 詣 で を 終 え て ザ ン ク ト ・ フ ロ lリ ア ン へ ま わ っ た プ ル ッ ク ナ ー が こ の 曲 の 改 訂 に 勤 し ん だ 証 し で あ る が 、
四五から一五回、七日には前に戻って六五から七二および一一四から一二八小節目にそれぞれの日付が記されているの
て こ 日 に は 同 じ く 九O から九一小節に、三日には九こから一 O 四小節、四日に一 O五から一一一一一、
一 八 八 八 年 八 月 一 日 の 水 曜 日 に は 第 三 交 響 曲 第 四 楽 章 第 七 三 小 節 か ら 八 九 小 節 ま で に こ の 日 の 日 付 が 記 さ れ 、 つづい
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年に一度オルガンコンサートを行う契約を結んだ。
﹁親愛なる友よ!
*
ねてくれると嬉しいが。九月二二日まで当地に滞在し、それから僕はアウスゼ!とミュンヒェンを経由して、どちらに
場 合 場 合 だ よ ! それにしてもこんな長患いはまったくみじめなものだ。君が帰途にこちらへ足が向いたら、僕らを訪
が、今はまた陽気になってきた、溌刺とはまだいかないまでもね。死んだ者を嘆くか、それとも幸せだったと讃えるか、
回復の兆しがみえつつある。とても憂欝でしばしばあまりに弱々しく、ベットで身を起こしてすら失神する始末だった。
する貧血と衰弱で冬から春にかけては僕の絶望の種だったが、またじつはもう心中では葬ってしまった気分だったが、
た。かくなるよは晴れの九月を望むばかりだ。全体としてはまあまあ何とか上首尾に運んだが。二番目の娘は益々進行
て企てたのだが、あいにく五日間のザルツブルクの秋時雨に付き纏われた。ここいらの夏は今年は総じてひどいものだっ
く以て宿命的なことだ。家内との五日聞のベルヒテスガーデンとザルツブルク行き小旅行は、旧友たちとの再会を日し
し か し 相 も 変 わ ら ず 下 手 な 冗 談 を 絶 や さ な い 。 彼 女 の 方 は も う ま っ た く の 老 人 だ 、 七 一 だ よ ! 年をとるというのは全
は君の作品について大いに熱中して喋ったよ。リュプケたちにもザルツブルクで出会った。彼は重い病を患っている、
の旧友の別荘でリンデやシュ l マン夫人にも会った。あの方はもとよりもう若くはないが、しかし年寄りでもない。我々
しないが、 つい何日か前にやっとベルヒテスガーデンでフェリンガ 1夫妻から君の住所を知った次第だ。彼の地では僕
かり惚れ込んでしまって、元気溌刺たるこれらの歌の新鮮さと熱気をたびたび愉しんでいる。ながらく君の消息を耳に
ジムロックが親切にもジキソウショウに君の﹃ジプシーの歌﹄の校正刷を送ってくれた。君のこの作品に僕はもうすっ
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も二、二一日泊まりながら、ウィーンへ戻る。あっちでは一 O月一日に仕事を再開するからね。││ハンスリックはここ
何日かの内に僕を訪ねたいと言ってきた。じきにまた君の消息を知らせてくれたまえ!
君の
吋戸、ビルロlト﹂
と、これはこ二日にザルツブルク近郊はザンクト・ギルゲンからのブラ1ムス宛ての書簡であるが、それに応えて後
者が﹁君の手紙はことのほか嬉しかった。ずっと待ちわびていたーーまさに願ったりのものだった。善意と、書く意欲
と、またありとあらゆる考えられ得る限りの点で、君は僕を凌駕している﹂と喜びを吐露した返事を出したのは一週間
後の二九日であった。
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ウィーン新!日音祭抗争 一八八八年(二)
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を 神 と 奉 る 党 派 か ら は 、 ヴ ァ グ ネ リ ア 1ナ 一 派 の 頭 目 と 罵 倒 さ れ て 、 ブ ル ッ ク ナ ー は さ し づ め ヴ ァ レ ン シ ュ タ イ ン の 立
或る一人から愚痴の的とされ侮られ、 その他の人々からは故意に無視されてーーとりわけ反動的な党派、ブラ 1ムス
すでに二十年来神格化され崇敬の的となっているのである。
ムスに比肩するその実力が衆目の認めるところとなって、ようやくまだ四年を閲するのみ、かたやブラ!ムスといえば
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だないまでも、 その名が話題に上るようになり、また新たな世界を切り拓く唯一真に独創的な実力が、すなわちブラ l
かなりの高齢にもかかわらず、ゲルマンの作曲家たちの中に当然ふさわしい地位を認められて仲間入りすることは未
にまったくというわけではないにせよ今日に至るまでほぼ知られぎる存在である。
がーーまさしく不可解でもあれば腹立たしくもある世の無関心の結果として││公刊されぬままになっている。たしか
親 し げ な 、 こ の ア ン ト ン ・ ブ ル ッ ク ナ 1は 、 世 に 受 け 入 れ ら れ な い に も か か わ ら ず 生 半 な ら ぬ 数 の 彼 の 作 品 の そ の 大 半
は、大きな禿げあがった額をして、 つよいウィーン詑りで喋り、かなりの巨漢だが、心情はいたって素朴、溌刺として
る時が来る芸術家であるが、そのせいか現代にはほんの僅かしか受け入れられていない。この六O歳を優に越えた天才
と題されたその文享に日く、﹁たしかにブルックナーこそは来るべき未来に所属する芸術家、必ずやその真価が報われ
ての記事の第一部が、また一週間後の十三日には第ニ部が掲載された。︽未来の交響曲作家アントン・ブルックナ 1
残されている。六日にはパリの音楽新聞︿音楽案内﹀にヤコブ・ヴァン・サンテン・コルフによるブルックナ l につい
一八八八年の九月もまたひきつづき、朔日から始めて日毎に小節毎に第三交響曲終楽章の改訂に勤しんでいた記録が
九
常日頃ブルックナーが抱く死への格別の関心の証であった。翌日の日曜にはウィーン男性合唱協会の歌唱に付き添われ
記事の筆者の立場は文面からまたおのずと明らかであるが、ブラ l ムスの手紙に、即ちヘルツォ lゲンベルクとの交信
場に置かれるに至ったが、シラーをして謂わせるなら、彼こそは﹁両派の恩寵と憎悪とで満身創痩﹂となっている。││﹂
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第三稿に当たる。
*
*
とはいえ是非とも貴女の宛先は教えていただきたい、 それに││こんなことを申し上げても貴女は余計なことと思わ
うわけで手紙を書くことが、とんともう興をそそらず、慰めにもなりません。
立 た し い 成 行 で し ょ う ! いったいどれほどの長期間にわたって貴女の葉書は左様ならと言い続けていたことか、とい
その間僕は帰途に就いてツュ 1リヒでぶらぶらしていたという次第。詳細申し上げるつもりはありませんが、なんと苛
貴女の手紙は当地ウィーンでみっかりました、 それはトゥ l ンに行ってしまって、貴女の方はバ 1ゼルにいヨりした、
のもので、﹁尊敬する貴女、
日付なしの九月とだけ記したウィーン発の一八八八年のブラ lムスの手紙はエリ lザベト・ヘルツォ lゲンベルク宛
*
二八日まで交響曲改訂の記録はつづくが、末日三O 日には楽章全体を総覧して完了の旨、記している。これが同曲の
て新たに埋葬し直された。ブルックナ!の合唱隊︿フロ1ジン﹀も新慕に花束を捧げた由。
て遺骸は中央墓地へと移され、それには楽友協会の執行部と教員、ならびに就中とりわけシューベルト連盟が立ち会っ
二二日の土曜日にはヴェ lリンガ l墓地でシューベルトの遺骸が掘り出されるのに立ち会うことを得たが、これまた
の中に、このヴァン・サンテン・コルフは悪玉として登場したこともあった。
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れるでしょうか、時々は一言お聞かせ下さい、ご様子を。貴女を識るほどの人皆が、貴女のことを想い、心から気にか
けているのです、僕はといえば、・まさにいの一番にそのとおりです。
さしあたり貴女に僕がこの上なく益体もない歌曲集を幾っかお送りしたとしても、旅立ちのときにそんなものは置きっ
ぱなしにして下さって一向構いません。旅路で僕がまたぞろハインツと出くわしたことは貴女もおもしろがって下さい
ますか。僕も亦グロ 1トの︽秋︾の作曲を試みているところです。取っつきの悪い代物です(難渋退屈なI
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旅の荷を解いているところで、散らかり放題です。で、こんな雑な葉審にご容赦下さい。でもまたご様子をお聞かせ
下さい、出来るだけご機嫌よろし?っ
貴女にこのうえなく恭順なる
一戸田司・﹂
因みに受取人の夫ハインリヒにも同詩の作曲がある。
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一度ならず弾き手は声に出して叫ばずにはいられなかった。格別にそれらしいところに来ると、
やおらこう語った、﹁いや、じつに先生は厳格でいらっしゃった。 でも、だからこそ彼に就けば学ぶことができたので
と、ブルックナ!は楽譜を手に取り、もう一度作品を、あらためて初めから終いまで見渡して、彼の師の甥に向かって
陶然として﹁そう、 そう、まさしくこれこそわが親愛なる先生だとよく分かる﹂、と。弾き終わって最後の音が消える
満足の笑みを洩らす。
ルモニウムに向かうと、 そのフ lガを弾いてみた。先ずは過して弾いてみてから、再び繰り返して弾きながら、領き、
のために少しでも役立つなら師に報いられょうかと、胸中の葛藤と折り合いをつけることが出来た。さっそく手近のハ
いともかぎらない、 それを見てもらいたい、との懇切な説明を受けてようやくブルックナーもやや平静安取り演す。そ
要なことで、 そのためには作曲されたまま推蔽も経ずに残された曲の中にあるいは技術上の誤謬なり不注意の誤記がな
ます!﹂と応える他に術がなかったのも領けないではない。こんな要請を持ち込んだその主から、印刷に付するのが肝
この私に、私の恩師のフ 1ガに改良のぺンを加えろとでも仰るのですか?l│けっして、たえてそんなことは出来かね
るや、ゃにわに及び腰とならざるを得なかった。興奮に顔を紅潮させてどもりながら、﹁何ということを一体お考えか。
上の介入を予想していなかったブルックナ lは、依頼者が、文字通り推敵して修正して改訂することを求めていると知
ゼヒタ!の作曲したフ lガの推敵を託されたのである。版刻の際に日を光らせて誤謬が生じないように監視すること以
それに先だち甥のモ 1リッツ・ゼヒターからブルックナ lは依頼を受けた。ゼヒタ l の伝記的な書物の刊行にあたって、
一八八八年十月十一日は若き日のブルックナ!の思師ジ l モン・ゼヒタ l の生誕百周年の誕生日に当たっていたが、
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た女の子をことを語り合うことも出来たらしい。
*
に戦懐が走ったよ。永遠なるものを、有無を言わせずこんな小さな器に盛る術を心得ているのは君だけだ。││それか
て、これは君のレクイエムの第二番目の合唱ゃ、運命の女神の歌で僕を捉えたのと同じものだ、今度の歌でも僕は総身
う か ! さしあたり僕は︿墓地にて﹀[作品一 O五の四]に一番深く震擦された。灰色の、厳しくも美しい戦傑のすべ
の、ときに深く、ときに明るく澄んだ輝きの中に何という悦びが宿っていることか! どうしてこれが言葉に尽くせよ
た 。 見 事 だ ! す べ て が 全 く 以 て 見 事 だ ! もう知っている真珠のことは語るまい。 それ以外の宝石に就て語ろう。こ
君に一言語りかけずには今日という日を閉じることは出来ない。君の新作の歌曲の数々に僕はいたく心揺り動かされ
﹁親愛なる友よ!
同年十月十六日にピルロ lトはウィーンからブラlムスに認める、
*
あったらしく、飲食を共にして歓談し、同年にプラ lタ1 で催された大博覧会では、ともに散策しては懲りずに見初め
ドイツ・ボへミアの森連盟の長を勤める著述家にして教育者でもあったモ lリッツ・ゼヒタ!とは気の青けない仲で
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しく私の方を見ては、人差し指を上げて、 こう仰ったのさ、︿吾輩にはなにやら、貴君も亦あの連中の一人とみえる
に出かけて行って、課題を提出した。ある一箇所に来ると、 つまり私が法則を逸脱した箇所に来ると、かれは非難がま
ブルックナ 1が好んで師に就て語った逸話によれば、﹁私が聖堂オルガニストだった頃のことだ、ゼヒタ l先生の所
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4韓帽を君は残酷にも僕から
ら︿さすらい人﹀[作品一 O六の五可これがいかに僕を惹き付けたかお分かりだろ。初めの 2
もぎ取って行ってしまったが、多分、その尋常ならざるリズムの方がさらに魅力があったろうか。でも僕は幸せだ、こ
こにたくさんの本質的なものが新たな装いでまた見つかったのだから。││︿菩提樹に霜がおりで﹀[作品一 O六の一ニ]、
なんと美しく、なんと心慈かれることか。
それに、ふたたび君が普のように民謡調をしばしば響かせるようになったこと、これがなんとも僕には嬉しい。︿嘆
き﹀[作品一 O五色己、︿柳の花﹀[作品一 O七の四]、それからまた︿乙女の歌﹀︹作品一 O七の五]はなおさらだが、
ことのほか気に入った。なんとまた情愛篤く、親密なことか。よく僕は思うのだが、僕はもう、君の詩の扱い方、旋律
の掴み方、をすっかり分かったつもりでいるが、 でも君はつねに何か新しいものを持ち出してくる。・:﹂
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57 ウィーン新旧音楽抗争 一八八八年(二)
の心のこもったお手紙には筆舌に尽くし難い喜びを覚えました次第にて、 マルタ様がリンツにお着きになるまで、
A. ブルックナ l、 一区ヘス小路七番﹂。
い ま す よ う ! 貴方の御手に接吻の御挨拶を申し上げつつ/貴方を敬愛する友
やんごとなき知事夫人様に小生から御手への接吻をお伝え下さいますよう、知事様にも小生からの敬愛をお伝え下さ
です。
小 生 は 完 全 に 健 康 と は 申 せ ま せ ん 、 そ の た め 先 ず は シ ュ レ lタ ! 教 授 に 診 て も ら う こ と に な る で し ょ う 1 1咽頭のため
小生おそろしく多忙を極めまして、そのせいでいささか気が滅入っております。是非とも御健康でい鳴りして下さい、
あればこそ貴方のお姿を頻繁に拝みたいのです。
しきお写真を頂戴出来ますようお願い致します。(実情を申し上げますと)今すぐお会いするわけには参りません。
こんな御厚意に衷心から御礼申し上げますとともにまことに押しつけがましいことでは御座いますが貴方のかくも麗
した。という次第にてこの宛先は、小生が住所録から探し出したものです。
もう見つからなくなってしまったのです。家のカティのせいかもしれませんが││探してみましたが甲斐のないことで
お手紙を先ずは服の陪しにしまって心から大切に致して待ちわびておりました。ところが突如として小生のこの宝物が
そ
この手紙の宛先は、 その地の弁護士エルンスト・イェ lガl博 士 の と こ ろ で 家 庭 教 師 を 務 め る マ ル タ ・ ラ ウ シ ャ ! と
で
の
一八八八年十一月五日にブルックナーはさる女性に返信を認める、﹁小生のことをいかがお考えでしょうか? 貴 女
十
いう人であった。リンツの住民登録帳にはマルタではなくマリアと記載されているが、音楽家からの手紙は無事届いた
ら し い 。 果 た し て ブ ル ッ ク ナ l の切なる願いは叶えられたとみえ、二三日付の礼状が残る、﹁貴方の素敵な絵姿を頂戴
して、小生の喜びがいかほどかとても言葉には尽くせません。衷心から御礼申し上げます。かくも見事に撮影された方
は、何時も仰るように取るに足りないなどと言っていただくわけには断じて参りません。高調な知性を具え、見事な教
養を蓄えられた、閣しき女性であります、しかもこの上なく高貴な婦人道徳を身につけておられます! さらなるお近
づきを許されるなら誰もが、ただただ感歎して、貴女が今あるが憧にあり続けて欲しいと神に願うことでしょう!:・﹂
今月ち亦、改訂熱冷めやらず連日のように暦にその記述が認められるが、 一一六日にヨ lゼフ・シャルクは弟フランツ
に認める、
﹁親愛なる兄弟!
君の回復が進んでいることを聞いて嬉しい、お望みのものを同封する。あんまり気を張り詰めて仕事をしすぎないよ
うに。とくにブルックナ lに頼まれてお知らせするが、彼からくれぐれもよろしくとのことだ。最近も︿ク lゲル﹀で
彼と二人きりで夕べを共にしたときも、彼は君のことを、君が本当にお気に入りだと一一一日うことを、語って語って語り巳
まなかったから、 つい僕もほろりとした次第だ。今彼が異常な努力を払って取り組んでいる第八と第三の数多の改変も、
君の判断に倹つということだ。とくに断って置かなければならないが、柊曲のホ長調と君のお気に入りの筒所との聞の
スラ l の多くが削除された、と彼は言っている。それが為になるのかどうか、僕には疑わしいが。 でも彼の信ずるが憧
*
*
に任せて、彼の上機嫌を持続させることとしよう。いずれにせよ、今すぐ彼にちゃんと手紙を書いてやってくれ給え﹂
*
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9 ウィーン新旧音楽抗争 一八八八年(ニ)
一八八八年十一月二日にクララ・シュ l マンにブラ 1 ムスが認めた手紙が前者の日記に書き写されている、﹁:・最近
お話ししたヴァイオリン・ソナタをヘルツォ 1ゲンベルク夫妻に送ったところ思いがけなくも喜ばしい手紙を貰いまし
た、つまりこのソナタが貴女のお気に召すかどうかしか僕は考えていない、と。ご覧いただけるとは思ったものの果た
して時閣がおありかどうか分からなかったのでヘルツォ lゲンベルク夫妻に送って、貴女の方へ送って欲しいと申した
次第です。 コ1 ニングとでも合奏していただけるでしょうか、また灰聞したところではベルリンにいらっしゃるとか、
ぞれならヨアヒムと一緒に;・でももし通して弾いてみてお気に召さなければ、 ヨアヒムとは合わせずに返送して下さい﹂。
日記にはまだ腕の調子が悪いので二一一日にエリ lゼとコ l ニングに試奏させたこと、第一と同じほど気に入ったこと、
第二もいいがこちら第三の方を優先すること、を記して、﹁患い多い中でこんな英気を養う糧﹂を得たことをクララは
謝している。
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クトの家の音楽室で、ヴォルブがイ?ーガ!とシャルクに自作の数々を自ら伴奏しながら歌って聞かせる次第となった
その何日か後にケッヒェルト家を訪れて熱狂的に語り合ったという。ほどなく同ケッヒェルト家の、都心はメールマル
いたフェルディナント・イェ lガ ー が 、 歌 手 の フ ォ ル ス タ 1嬢には余り感心しなかったものの、曲には強い印象を受け、
で紹介された。 その場に居合わせた、パイロイトでパルジファルを歌い、 づ い 先 ご ろ 引 退 し て ウ ィ ー ン で 声 楽 を 教 え て
しも折々挙行して、 そ の よ う な 催 し の 一 つ に メlリ ケ 歌 曲 集 か ら 三 曲 が エ レ ン ・ フ ォ ル ス タ ー の 歌 唱 と シ ャ ル ク の 伴 奏
歌う機会に恵まれることともなった。娯楽と交友を主眼とするこの定例の会の他にも同協会は、それよりやや正式の催
六 八 番 地 ) に 世 話 に な っ て い た ヴ ォ ル フ は 、 木 曜 毎 の ヴ ァ lグナ l協 会 の 集 い に シ ヤ ル ク に 随 行 し て 顔 を 出 し 、 自 作 を
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前 の 月 の 七 日 か ら デ 1プ リ ン グ の 知 人 ケ ッ ヒ ェ ル ト 一 家 の 館 ( ヒ ル シ ェ ン ガ ッ セ [現在のピルロ 1トシュトラ1 セ
の面々から、果敢なプログラムを敢行したシャルクは翠撞を買ったのである。
その取合わせが火種となる。日く、ベートーヴェンと伍するとは倣慢に過ぎる、と旧態依然たるインテリから成る協会
でベートーヴェンのピアノソナタを二曲、即ち︿ヴアルトシュタイン﹀と︿ハンマークラヴィア﹀の両大曲を取上げた
ンドルフ等の詩に拠るものが披露され、好評を博すると共に批判も受けた。 コ ン サ ー ト の も う 半 分 に 、 シ ャ ル ク の 独 奏
、 アイヒェ
ナl歌手で鳴らしたイェ 1ガーがヨ lゼ フ ・ シ ャ ル ク の 伴 奏 で ヴ ォ ル フ の 歌 曲 を 歌 っ た 。 メ 1リヶ、ゲl テ
一八八八年十一一月十五日土曜日にベ lゼンドルファ l ・ザlルでヴァ lグナ 1協 会 の コ ン サ ー ト が 催 さ れ 、 ヴ ァ 1グ
十
となってその作品を紹介する労をいとわなかったという。
一八日にフランツ・シャルクはヨ lゼフに認める、﹁ブルックナ lが嫉妬を感じているとか。もしかりに華々しく登
場した新星のために君らが彼を蔑ろにするようなことが万一あれば、 それは彼には大いなる痛手だろうが。無論そんな
ことはないと僕は思っている。彼の巨人族的な偉大さと途轍もない森羅万象に呼応する感応力すらも、こんな天才的な
俊敏そのものの活力の発露を前に、当座しばらくはいささか先を減ずることがあるにしてもだ。我らが盟友ヴォルフも
亦、ブルックナ!の抗し難い力をよく感じて、彼を敬うことをすでに学んでいるさ﹂。
年も押詰まってニ八日にフランツ・シャルクはブルックナ lに改めて懇ろな文面を認める、﹁小生が先生から御教示
を頂くという幸運な恩恵に与り得ました素晴らしい時聞を想いつつ、掛け替えなき師であられます先生に、感動龍めて
心底から、幸あれとお祈り申し上げる仲間に小生をも加えていただけますようお願い申し上げる次第です。もはや先生
のお傍に親しく侍ることが叶わないとは、小生にとりまして痛恨の極みと、 その欠乏を嘆かざるを得ないところであり
ます。かくなる上は、新しき作品が、同時代ならびに後代を驚嘆で満たすべき作品が、力強く芽を吹き生い育つことを
祈念して想像することができるのみであります。願わくは新年にでもそれについてお伺いでさることを望んでおります。
それまでは幸多き新年を先生の為に寿ぐととで満足せざるを得ません。来るべき新年には何卒、ミューズの思寵と、
愉快なる気分が、先生に欠けることがありませんように、我々すべてに至福を粛す第九交響曲を完成されますように。
大晦日には、この上なく敬愛致しますお師匠様、 ひ た す ら 先 生 の こ と を 感 謝 に 満 ち た 愛 情 を 寵 め て 想 い っ て 第 九 交 響
*
*
曲の幸を祝って盃を乾すこと怠りないものであります﹂。
*
ウィーン新旧音楽抗争 一八八八年(二)
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通巻 5
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明治大学教養論集
一八八八年十二月十一日にブラ lムスはピルロ lトに気送郵便はがきを送る、﹁親・友[親愛なる友よの短縮]!
パイ氏と僕はつまり明日の十一時に君を訪問するところまで漕ぎつけたよ。君に先ず尋ねもせずにハンスリック殿とカ
にやって来たのである。
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はクリスマスにブラl ムスの第三ソナタをマイニンゲンで弾き、ウィーンでのプロ lベ││ピルロ lト 邸 で の 予 定 │ │
ば い い が ? 心より君の J Br. ﹂ ハンガリーの傑出したヴァイオリニストのフパイ(フ lパイとも呼び習わすが﹀
ル ベ ッ ク も 誘 っ た ! H.は た っ た 今 ま で 此 処 に 居 た が 、 と て も 喜 ん で い る ! 願 わ く は 君 の と こ ろ に 差 支 え が な け れ
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