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沖 縄 - 明治大学

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沖 縄 - 明治大学
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ノ
ト
うやがん
金
山
手
大
男
明治大学教養論集 通巻五一三号(二O 一六・一)一九│三三頁
縄
た。神女たちが歌を止めたのだ。
了を、親島である大神島に報告するためである。火の粉が閣をこがした。やがて閣の中でとつぜんざわめきが起こっ
若男女が大ぜいあつまってきた。 一人の男がカヤの束に火をつけて岬の突端の積み石の上にのぼった。祖神祭の終
午前三時ごろから七時すぎまでの四時間余、とぎれもなく神歌はつづいた。日はまったく暮れた。島尻部落の老
のであった。
祭りのクライマックスを描いた谷川の次の叙述は私をして陶酔させ、向うみずな数知れぬ沖縄への旅に誘うに充分なも
すという場面。私が民俗学に興味を抱く以前にこの祭りは途絶え、 一度もその場に立会うことはできなかったが、この
神歌を歌い続ける。そして、最終日には寵り家から出て、村の創始者が住んでいたという跡へ下りて来て、神を送り出
聞である。この祭りでは五十から七十の、祖神と呼ばれる村の神女たちが、村の聖地である大森に寵もり、食もとらず
ウヤガンフンムイ
私が沖縄に抗いがたい魅力を感じたのは、たまたま目にした谷川健一の宮古島の祖神祭に関する次の文章に触れた瞬
沖
そして今まで立つこともおぼつかなげに見えていた神女たちが、黒木の長い杖を打ちふりながら、 はだしのまま
走り出した。人びとは必死になってそのあとを追いかけた。神が離れる前の一瞬、神女たちの中の﹁神﹂は最高に
ふくれあがり、神女たちの身体からはみ出し、あばれ狂う。以前は崖をとびそこねたり、官一見草にからまれたりして
死んだ例もあったと聞く。
数十分後、神女たちは樹の根や草むらで失神して倒れているのがつぎつぎに発見され、人々に背負われて小屋に
はこばれたoq琉球弧│女たちの祭﹄)
この文章の中の﹁神が離れる前の一瞬、神女たちの中の﹃神﹄は最高にふくれあがり、神女たちの身体からはみ出し、
あばれ狂う﹂という表現こそ、私の中の何かをしてはみ出させ、あばれ狂わせるに十分なほどの力動性を与えるもので
あった。以来、私の旅はこのような感動を実体験すべく日本各地の祭り、 そして沖縄の聖地に向けて開始されたのであ
じか
一人の旅人として全く丸腰でふらふらと入っていきたいというのが私の本音であった。求めるのはただ、神と人と
るという。深夜零時、太陽信仰の神杷り神事が始まる。暗閣の中、拝所のまわりだけが薄明るく照されている。深夜の
城市にある玉城という裂地に到着。翌朝の太陽がゴホウラ貝の形をした城門を突き抜けて、グスク内の拝所を直射す
たま︿すく
二OO七年六月二十一日、 つまり夏至の前日、最終便で那覇に着いた私は、出迎えた友人の車で午後十一時過ぎに南
自然とに直に触れ合うこと。観光旅行の域を一歩も出ない旅が何年も続いた。
て
、
﹃常世論﹄のみ。もとより調査研究などといえるものではない。むしろ、研究者としてのあざとい武装を完全に解除し
ガイドブックはただ柳田国男の﹃海上の道﹄と柳宗悦の﹃沖縄の人文﹄と岡本太郎の﹃沖縄文化論﹄と谷川健一の
る
。
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厳かな神域の雰囲気に、 いつしか私も溶解していった。
ぐすく
と︿さかんだから
拝所に額づく神女、我喜屋末子さんの一挙手一投足に我を忘れて見入る。﹁十種の神宝﹂の神調が始まると、夜の静
寂の中の城は神さびた世界に一変する。しばし、分別による二相二見の自我もこの神的空間に溶解する。神事にはい
カンノヤ
つもある演劇性がつきまとうものだが、これが仮に芝居としても、余りにも完壁な揖劇的時空間。人聞の想像力の営み
はすべて、大日如来(太陽) の膜想の一コマ一コマにすぎないということなのか。
神事のあと、暗く険しい山道を、張り巡らされた綱を頼りに一卜山。麓の金城家の神家にて一服。二問だけのガラン
とした空間にすぎないが、両聞にはそれぞれ神棚が普通の仏壇の高さに設えてあり、左の神棚には金城家の担謹が、右
一睡もしないまま、また暗がりの中を玉城へ。去りがちの天候が気がかり。やがて、東の空が白み始め
の神棚には土地の土産神やグスクの神々が杷られているという。初めて会う人がほとんどなのに、神家の中では人の心
が暖かい。
午前四時前、
るが、相も変らず雲は厚い。﹁やっぱりだめかなあしという嘆息があちらとちらから閣える。雲の速い動きに一纏の望
みを託す。やがて、 日の出。奇跡か、雲が切れ切れになりはじめ、あたりは歓声につつまれる。雲の切れ間から差し込
む光線が、 一人ずつ通るのがやっとの大きさしかない域門を突き抜けて、前夜の神事の舞台となった拝所を直射する。
まさに神秘的な一瞬、大腸神と私との初めての出会いである。
不思議といえば不思議である。それに先立つことコプゲ月前、大学時代のクラス会があり、見たこともない男と出会う。
大学紛争時代のこととて、沖縄返還闘争に明け暮れて、大学にほとんど顔を出さなかった彼とは、文字通り初見である。
少しばかり沖縄に興味を持ち始めた私と、復帰以前から基地闘争に参加し、現在沖縄物産の小売商を営む彼との諜請で
ある。その場で夏至の神事の件を切り出され、千載一遇と、参加を即断する。沖縄の神霊と祖霊をめぐる基層文化への
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私の旅の始まりである。
朝日を浴びながら、はるか眼下に広がる原野を眺める。そうなのか、ここは神の園なのだ。在住の名護教授の太陽信
せいふゐうたき
仰に関する解説も、 いつになく一つ一つ細胞に浸み渡るように入ってくるようだ。
遇めの朝食を名護先生宅で済ませたあと、斎場御獄へ。琉球王府第一の聖所だけに何度か訪れているが、たましいの
旅には先達が必要である。我喜屋さんや名護先生によって東内されるこの参拝は、 やはりそれまでどこか身にそぐわな
いものを感じていた御獄信仰に私を一気に近づけてくれる。なんだろう、この熱い想いは、そしてこの涙は。神と人が
出会う場所に、やっと私も立つことができたということなのか。
翌朝、那覇の我喜屋さん宅で待ち合わせたあと、久高島へ。この霊威高い神の島も、無論初めてではない。二OO三
年一人で入島して闇雲に歩き回わったものだが、所詮観光旅行の域を一歩も出るものではなかった。やたら人々を呼び
止めて質問をぶつけてくる変な旅人にとまどいつつも、暖かくもてなしてくれたことは忘れられない。
今回も、今は途絶えたイザイホl の舞台であるクボl御獄は、島民の目もあり、さすがに立入ることはできなかった
が、それでも、かつて洗骨が行われていたというミガ l (井泉)やその周辺の聖地をゆっくり時聞をかけて見てまわり、
原形的な宗教情念の根幹に触れえた一日であった。
久高島では墓参はない。大切なのは遺骨ではなく霊魂。それをマブイというが、人が死ぬとこのマプイが、常世すな
わち沖縄でいうニライカナイに赴くという。しかし、 マブイは肉体に宿っているので、死者の肉体が完全に消滅しなけ
れば、 マブイは解放されない。このプロセスを久高島に残る葬送歌が明示しているので、原語は省略して、島に通いつ
めた写真家、比嘉康雄の訳で引用しておこう。
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3 沖縄ノート
年が余りました
ティラパンタにきました
干潟は
波が立つ
波の干潟は
煙が立つ
二ルヤリュ lチュにきて
ハナヤリュ lチュにきて
金盃をいただこう
銀盃をいただ ζう
(﹃日本人の魂の原郷
沖縄久高島﹄)
一、二節は﹁寿命になり葬所にきました﹂ということ。ティラパンタのティラとはティダ(テダ)と同意で太陽のこ
と。パンタは断崖絶壁のことで、太陽が沈んでいく西の果てというイメージである。首里の玉城の東にあるのが斎場御
獄、その真東に久高島、そして東のイシキ浜を遥拝所としてそのはる東の彼方にニライカナイ(久高島ではニラ l ハラl
という)という構図である。
さて、難しいのは三節から六節が何を表現しているのか。比嘉の質問に対する神女の西銘シズさんの答えは、三ー五
節は死者の肉体が腐乱して溶けていくさまを、 ユタユタと立つ干潟の小波にたとえて歌ったもので、六節は溶解した肉
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体が煙となってニラ 1 ハラ!の方角へ飛んでいくさまを歌っている、というものであった。
この葬送歌が葬儀で歌われるのはシマレベルの神職者であるクニガミと始祖神を把る神女に限られるということだが、
とかく祭事における女性優位の沖縄の伝統だからそれはそうだろう。大切なのは、 マブイがどのように肉体から解放さ
れて、どこへ向うかということだからだ。
かつては風葬された遺骨は洗骨されて聾などに納め、それをジュリ l墓(集め墓)に安置したというが、 そうした風
習も今はない。最初に島を訪れた時、本島で火葬を済ませた遺灰が船で帰還する光景に出会い、遺霊に対する敬意と愛
惜のためか、汽笛が三度長く鳴・りされたのは今も記憶に新らしい。
沖縄の風葬とは本土における療のようなもので、かつて人はゆっくり時閣をかけて死に移行し、かっそのプロセスを
夜な夜な歌舞音曲で生者と死者が分ち合ってきたのに、今では一瞬にして骨にされ、 マブイはニラ l ハラ l へと旅立た
ねばならない。神の島とされる久高島でも、最早死をじっくりと時聞をかけていわばアナログ的に生きるということが
できなくなったということなのか。しかも、死にゆくプロセスが短かくなればなるほど、反比例して一一ライカナイは遠
くなり、人が神になるのがどんどん遅くなるような気がするのはなぜだろうか。すぐれた民俗学者の仲松弥秀は次のよ
うにいう。
想えば古代人は短時日のうちに神となることが出来たようである。文明の進んでいるといわれる現在は三十三年も
経たなければ神と成ることが出来ない人間となり下ってしまった。その三十三年といっても子孫の長い供養の援助
を蒙らねば不可能のようである。(﹃神と村﹄)
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琉球弧を神々の島々として、独自の研究をかさねてきた仲松の言葉に、われわれが文明化の中でなにを失って来たの
かをのぞき見る思いがする。
わが国の文献記録にみる殖の最長記録は天武天皇の二年二ヶ月だが、火葬はそのような殖の風習に劇的な短縮化をも
たらした。そのわずか半世紀のちの天智天皇第四皇女である元明天皇の粛はわずか一週間。積の機能を折口信夫のよう
に招魂ととるにせよ、五来重のように死直後の荒魂を和魂に昇化する鎮魂儀礼ととるにせよ、火葬の普及とともに益々
魂の浄化に効果を発樺するとされた仏教の興隆により、七七日の儀礼など、葬送の効率化が実現されたのである。文献
上の最初の火葬は一苅興寺の僧であった道昭の西暦七百年となっているが、大切なのは魂であり、死体などは所詮魂の抜
け殻にすぎないとする当時の死生観にあっては、肉体の焼却などには何の抵抗感もなく、むしろ死体の腐敗にまつわる
死臓の不快や死霊への恐怖から瞬時に解放される火葬は、おそらく道昭以前にも広く行なわれていたにちがいない。
いずれにせよ、琉球弧では神となったマブイはシジと呼ばれ、子孫たちのいわば守護霊としてあがめられ、ときに孫
の肉体の中に匙えるというが、それは、循環する日本人の霊魂観の元裂をなすといってよいだろう。 マブイを通して現
世と他界、生者と死者はつながっているのだ。
今でも三十三年で人が神(仏)になれるのかどうか、 それは知らない。ただわれわれが確実に失ったのは、霊魂や他
界を含め、自分命令取り巻く世界を理解し、納得するための神話である。生から死への、現世から他界への通過儀礼にま
一つの有機的なまとまりとして表現している濃密なコスモロジ lのことである。
つわる神話が見失われたということだ。無論、ここでいう神話とは大昔の神々の物語ではない。神と人間と山川草木を
と
、
古今 Q d ?
ヤ!
初めて私が沖縄を訪れた際、その頃は全く興味本位でしかなかったのだが、在地の友人の紹介で、浦添市にあるユタ
の家をたずねたととがある。よく当たるというそのユタは、珍しくも男性だったが、その判示は概ねありきたりのもの
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で、さしたる感銘も残っていない。しかし、その原因はなにもそのユタの力量ばかりにあるのではなく、私の方にももっ
と切迫した事情が必要だったろうし、従ってユタと私との聞にもう少し深い心のつながりもなければならなかったのだ
ヤマトンチュ
ろう。私の問いが興味本位では、彼の判示もぬるいものにならざるを得まい。また三十分という余りにも短い時間では、
どんなに優れたユタだろうと、大和人の私との聞に、いわば精神的共向性ともいうべき共通の基盤を築けるわけがない
だろう。
むしろ、私が感銘を受けたのは、 ユタの家の畳の間で何人もの女性たちが、黒糖をなめ、サンピン茶を呑み、世間諾
安しながら、自分の番を待っている光景である。非科学的であると分っていても、なおユタを訪ねるのはなぜなのだろ
うか。病気や事故などの不幸を、十分な把りを受けていない祖霊の崇りと判示するような非合性ゆえに、人心を惑わす
元凶としてユタがヤリ玉にあげられ、弾圧されてきたことはいうまでもない。しかし、そのような度重なる禁圧と迫害
にもかかわらず、 ユタはいまでも滅び去る気配はないのは、その存在を沖縄という社会が必要としているからにほかな
らない。
谷川健一もいうように、はじめからノロとユタが載然と分かれていた訳ではない。琉球王府が任命する公的な一品女組
織が村々まで及んだ結果、ノロとユタの機能が分離したのである。ノロの役割はなんといっても自分の共同体の豊鱗と
安穂、そして王家の安泰を祈願すること。それに対してユタはもっぱら個人の吉闘禍福に関わってきたのである。谷川
は次のように雷う。
だが南島では古代日本と同様に、現世と他界に二分された世界観を信じて、今日に到っている。他界における個人
の魂の救済に関与するユタは、現世における村落共同体の繁栄を神に願うノロに劣らぬ重要さをもちつづけている。
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ユタの関与するものはもっぱら病と死である。ここに魂の呪師としてのユタの姿が浮かび上がる。このような人間
の生命の根源にかかわる主題をどう解決するかという悩みは、人間の誕生と共に生まれたのである。人間は病と死
の克服のために何らかの理由づけを必要とし、 それを説明し、解決を与えてくれる人を必要としたのである。人間
社会の始まりにはノロとユタの区別はなく、ただ神に懸かれた人があっただけである。(﹃南島文学発生論﹄)
いずれにせよ、こ ζには仏教伝来以降の、日本における神道と仏教の棲み分けに近い、この世とあの世に関する分業
化が起ったとみてよい。沖縄の庶民も葬祭儀礼なしに生活していたわけではない。死は人生の中でも最も大切な事件だ
ユタは、僧侶が葬式や法要のにない手であるという以上に、死者や祖霊と深くかかわり合う役割を占めていたのだ。
もとより、昔の南島には個人などという存在はなかったといってよいだろう。農業も漁業も﹁結い﹂という共同作業
分化、貧富の拡大へは一本道である。
みている。 つまり、以前の地割制が廃止されることで生産手段の土台をなす土地の私有が始まるのだ。そこから階層の
しかし、琉球処分以降、資本主義の流入により、 それまでの平等で、相五に扶助し合う共同体に歪みが生じたと私は
たのであり、その頃はノロをはじめとする神人だけで愛情深い共同体は守られていたのである。
カミンチュ
昔の沖縄にはユタはいなかったというのも事実だろう。無論、神女はいたのであり、ただノロとユタが未分の世界だっ
侶の代行者などというよりはるかに大きなものがあったといってよいだろう。
ていた沖縄でのこと、 ユタはその媒介者の役割を与えられていた。仏教の稀薄な南島社会のユタの任務には、単なる僧
ころであったといってよい。まして、死者と生者との関係はきわめて濃密で、祖震が子孫の運命を左右すると信じられ
ノロが死械を忌み嫌うなら、 そこに近づくのはユタしかいなかったのである。それはむしろ社会的要請の然らしむると
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で進められていたし、人々は御獄を中心とする年中行事を遂行する中でそれぞれ役割りと位置を与えられ、なまじいの
個人性などは易々と共同体の中に溶解していたのである。私有財産の成立とともに個人が発生し、自由競争に巻き込ま
れではじめて、孤独などといった個人的な悩みも生じたということだ。個人性の成立とその悩みの発生なくしてユタの
出番もない。
とすれば、以上のようなことは沖縄に限らない。沖縄と醍度の差こそあれ、本土の農民の中にも暖かな相互扶助の慣
習があったことは言うまでもない。近代以降、彼らも回舎ぞ追われ、都会の中で自由競争に破れ、孤立に耐えられない
者は新しい共同体を求めざるを得ない。彼らが追われて出てきた共同体に代わるものが、明治時代でいえば数々の教派
神道、戦後でいえば、創価学会や立正佼成会などの新興宗教教団であり、 それぞれが悩みを抱えた個人にとっての、文
字通り﹁新しき村﹂として機能したといってよいだろう。
ともあれ、沖縄ではユタだけが、 ニライカナイとか竜宮とか後生と呼ばれる来世、すなわち死後の世界と関係をもっ
存在といってよい。しかし研究の世界でもユタの言うことは眉唾だとしてその託宣の内容は余りまともに研究の対象に
さ れ て こ な か っ た 嫌 い が な い で も な い よ う な 気 が す る α しかし、谷川はユタの言葉のはしばしに、きわめて重要な伝統
的知識が受けつがれているとして、次のように言う。
ユタは勝手に伝承をこねあげる向きがないとはいえないけれども、 その伝承の中には、 ひとりのユタの恋意を超え
た、きわめて古い伝承が含まれていることを見のがすわけにはゆかない。ひとりのユタの物語の中に、世界各地の
創世紀や神話と共通するものがあって、空おそろしく感じたことがしばしばあった。(﹁ユタと沖縄の人びと﹂)
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ユタを必要とする社会は、生者が死者と、人が神と共に生きている物語空間、すなわち神話共同体である。なるほど、
愛する者の死が、先祖供養の手抜かりからくる虫剤りだといわれでも、所詮それは科学的因果とは無縁である。しかし、
そのような説明によって、その死を納得できる枠組が人聞の心の中に存在することも否定できない。 ユングを持ち出す
までもなく、客観的事実よりも人間的真実とでもいおうか、当面した事態を納得し、意味を確保する方がはるかに重要
である場合も少なくない。非科学的とか迷信とかと非難されようと、 ユタたちは神と人問、死者と生者、あの世とこの
世を一つづきのものとする視点に立って、身辺の様々なことを説明しようとしているのだ。
いずれにせよ、神と人、死者と生者が親しく共存している世界がまだ日本の一部に残っているというのは心強いこと
だ。私のささやかな南島体験も、日本文化の古層にいささか触れることで、改めて人聞にとって自然な生き方とはどの
ようなものかと、問いかけてくる。人聞の自然あるいは本性とは何かという問には、無論容易に答えられるものではな
いが、沖縄の祭礼を少し項間見た今では、人聞を超越した世界や生と死という根源的事象を一貫して説明できる原理と
ともに生きるのが、人聞の自然であると、とりあえずいっておこう。沖縄という文化圏の意義とその魅力について、谷
川も次のように言っている。
私たちが沖縄にとくべつの関心を抱くのは、私たちが沖縄と関わりあうことで、自分の全体性の回復に目ざめるこ
とが可能だからではないか。(﹁わが沖縄﹂)
実は、ここに述べられている﹁全体性﹂こそ、人聞が近世・近代以陣自信をつけていく過程で、すなわち神や自然か
ら自立していく過程で見失ってきたものにほかならず、それをこそ、私は神話ともコスモロジ!ともいうのである。
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想えば、人聞の歴史とは神への反抗と、母なる自然からの逃走の歴史である。人間中心主義への路線は、この霊長類
の発生の時点から既に敷かれていたのだ。全体性からの離脱、よかれあしかれ、それがホモサピエンスの宿命である。
しかも、その本性たる理性に特化して母性原理から父性原理に突き進んでいくのも必然である。
この傾向は日本の宗教の歩みも例外ではない。﹁一切衆生悉有仏性﹂という絶対平等を旗印にした仏教が、国家建設
の原理として利用され、男性的﹁選択﹂の論理に取り込まれていくプロセスは誰の目にも明らかだろう。
ともあれ、仏教色の薄い沖縄では、数十年前まで、坊さんを呼んで葬式をしたり、法要を営むということがなかった
と聞く。それだけユタを中心に自足的な神話や民俗信仰に恵まれていたということだろう。
ここでは、生き神としてのオナリ神信仰が生きており、粉れもなく産み、育み、愛するという母系制原理が島々を支
配している。古来、神と人、死者と生者とをつなぐ媒介として選ばれたのが亙女であったということは、彼女たちが神
や祖霊に近いという直覚があったからだろう。ぞれは沖縄各地の祭礼における女性の役割の圧倒的優位というかたちで
今も残っている。宮古島の今はなき祖神祭の一コマについては本論文冒頭に引用したが、やはり谷川は別の所で祖神祭
について次のように、この祭杷を語っている。
その中で、この島民のウヤガンたちが五回目の山寵もりを経て、その岬で円陣を作って神歌を歌っています。その
神歌は延々と何時間も続きました。その神歌を歌うツカサたちを連巻きにして、島の集落の男たちが見守っていま
した。まあ泡盛なんか飲んでいましたが。しかし、時にはですね、その円障に近づきまして、まさしく土下康をし
て、ミソパイといわれる礼拝をしておりました。その円陣の主は、その男性たちの母であり、あるいは姑であり、
妻であり、あるいは娘である。その身内の女性たちにたいして、男性が神として礼拝していることに対して、私は
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ほんとうに感動いたしました。と申しますのも本土ではそういうことはあり得ないわけです。しかし、ここではそ
れが行われている。そしてしばらくすると、島の女性たちがやって参りまして、自分の母であり、姑であるツカサ
に対して、体を後から探むんですね。足を探む、背中を諜む。そしていまにも倒れんばかりにして、最後の力を振
り絞って歌を歌っているツカサたちを最終的には羽交い締めにして支えているわけです。(司富古島の神と森を守る
会会報﹄)
このように、 ツカサを速くから土下座して礼拝している男たちと、彼女の体を支えている女たちの、祭杷における位
置づけの差は明らかである。沖縄の神祭りというものは、本来このように母から娘へ、姑から嫁へと伝わってきたもの
で、これ以上直接的な伝達はありえないだろう。
初防
HY
そもそも、 ノロ︿ツカサ)には古来按司の姉妹など身近な女がつくのが慣例であった。姉妹にはそのままオナリ神、
つまり生御魂として兄弟を守護する霊力があると考えられてきたのである。伊波普猷は母系制宗教ともいうべきこの信
仰について、次のようにいう。
古来日本民族には、かつて自分らの聞に住んだ人を、その死後に、或いは極めてまれにまだ生きている人を、
社の神に祭る風習があるが、 その遠い別れたる南島人の聞にも、現に彼らと共に生活している人もそのまま神とし
て崇める風習が遣っている。
一切の女人が、 その兄弟等に、﹁をなり神﹂として崇められている。(﹃をなり神の島﹄)
近い頃まで、国家最高の神官たる聞得大君以下地方の神職なる祝女が、神と称せられたのはもちろんのこと、そ
﹂では今なお、
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このような女性優位の風習が﹁聞得大君﹂という、余り他に類例を見ない制度を作ったのである。兄が部族の王すな
わち按司に即位すると同時に、 その姉か妹は聞得大君となって、 その夜、金の扉風で固まれた部屋に入り、金の枕が二
つ並んでいる揮の上に一人で寝る。やがて、眼には見えない神が現われて彼女と交わり、以後彼女は神の言葉を聞き得
るようになる。彼女がそれを兄王に伝えることで、国をよく統治できるというのが、沖縄の祭政一致のかたちにほかな
らない。
このように、をなり神を通して、神も祖霊も決して分離されず、生者とともに生きている時空、南島民のコスモロジ l
を支えてきたのは、 そのようなものだ。このように、現世と他界、神と人との聞にはなんら優劣もなく、自由に往還が
可能であり、むしろ他界(ニライカナイ)に住む祖霊が現世の子孫を守護していると考えられていた。この双分された
世界の中で、人は生から死へ、死から生へと、安心して生死を繰り返えすことができたのである。沖縄の強固な他界観
が彼らの安定した死生観を支えてきたのだといってよい。
その沖縄も近代化の波は無論免れない。しかし、その他界観や霊魂観とともに死生観にも大きな変化が生じてきてい
るが、それでもなお、消えつつある祭礼や葬礼や募制の中に、沖縄ならではの濃密なコスモロジ!の余韻を感じること
ができる。たとえば谷川は死者の世界を次のように叙述している。
沖縄の古い墓は海岸の洞窟を利用した風葬墓である。洞窟の入口は完全にふさがれてはいない。うすぼんやりとし
u
た黄色い外光が洞窟の内部に差し込み、死者のまぶたをやさしくこすり、死者を まどろみにみちびく。死者たちは
H
高
級宗教
μ
が発明した死者の歯がみする暗黒な世界はな
黄昏に似たおだやかな薄明の中で、 ひとときの休息をたのしんでいる。沖縄では墓のことを﹁ょうどれ﹂と呼ぶが、
この語はもともと夕凪を意味する言葉である。 そこには
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3 沖縄ノート
かった。(﹃常世論﹄)
こうした黄昏にも似た薄明の中で、谷川も安らぎたいといっているかにみえるが、 それは日本人一般の中にもかすか
に生き残っている一種の集合的無意識のようなものかも知れない。それがなんらの科学性にもとづかず、念願にすぎな
い神話だとしても、人間というものは神話という物語性の中で生きるのが自然であるという直観が、古来日本人の中に
はあり、それがわれわれの霊魂観、他界観を含む、全体的宇宙観の土台をなしているということだ。この想いは柳田国
男の次の文章にも明らかだ。
一つの学問のもう少し世
魂になってもなほ生涯の地に留まるといふ想像は、自分も日本人である故か、私には至極楽しく感じられる。出来
る、ものならば、 いつまでも此国に居たい。さうして一つの文化のもう少し美しく開展し、
法学部教授)
の中に寄与するやうになること号、どこかささやかな丘の上からでも、見守って居たいものだと思ふ。(﹁魂のゆく
へ﹂)
︿本論文は、人文科学研究所二O 一五年度特別研究﹁詩歌の中の生老病死﹂の一環として作成されたものである﹀
(かねやま・あきお
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