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100年前の恩を忘れない遠い国の人々

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100年前の恩を忘れない遠い国の人々
作家
元国際線乗務員
黒木安馬
【プロフィール】高校時に米国留学後、早稲田大学を経てJAL国際線客室乗務員として30年勤務。世
界初の「カラオケ・フライト」や「1万メートル上空・北島三郎機上コンサート」
などを実現させる。千葉の自
宅は1300坪の山林を開墾してプール、
テニスコート、
コンサートホール等を手作りする。現在、㈱日本成
功学会社長として自己啓発や社員教育で講演中。著書に『成「幸」学』
(講談社)、
『あなたの人格以上
は売れない!』
(プレジデント社)、
『 出過ぎる杭は打ちにくい!』
(サンマーク出版)、
『 面白くなくちゃ人生じゃ
ない!(
』ロングセラーズ)、
『リセット人生・再起動マニュアル』
(ワニブックス)、
『 小説・球磨川』
(上下巻・ワ
ニブックス)
などがある。
E-mail:[email protected] URL:http://www.3percent-club.com
21世紀だ!
人生・農業リセット再出発 116
100年前の恩を忘れない遠い国の人々
「本州最南端 空をただいま通過
繰り返し。貧しい食料を持ち寄って炊き出しを行
中です」と機長のアナウンスが流れる。「市ではな
懸命の治療を続けて69名の命を救ったのである。
く串本町ですよ!」と、すぐにコックピットに連
事故から20日後、日本海軍の「比叡」と「金剛」
絡を入れるが、時速1000㎞で上空1万mを飛行
の二隻は彼らを乗せ、村人たちが海底に潜って回
中とあって、紀伊半島南端の潮岬はあっという間
収した遺品と全国から寄せられた義援金とともに、
に後方に流れていく。
トルコへ送り届ける航海に出た。後に日露戦争の
の町、串本市の上
1985年3月17日、イラン・イラク戦争が激化し、
ない、大切な鶏を食べさせ、言葉も通じないまま
バルチック艦隊攻撃時の電文「本日天気晴朗なれ
さね ゆき
イラクのサダム・フセインは、イラン上空の航空機
ども浪高し」で有名になる秋山真之も、この時に
を48時間後に無差別撃墜すると宣言した。イラン
訓練生として乗船していた。こうした貴重な体験
に残っていた日本人216名は恐怖におののいた。
が、秋山を大きな人間に育てたといわれる。
日本政府は危険すぎるからと自衛隊もJAL救援機
駐日トルコ大使は言った。「わが国では、エルト
も派遣できないまま、時間はいたずらに流れた。
ゥールル号事故での献身的な日本人の救助活動は
ところが絶望の空に一機のトルコ航空機が姿を現
子供でも知っています。私も小学校の歴史教科書
し、イランの首都テヘランにあるメーラバッド空
で学びました。今の日本人が知らないだけですよ。
港へ着陸してきた。その飛行機は大急ぎで日本人
だからこそ、テヘランで困っている日本人に恩返
全員を乗せて離陸し、攻撃開始1時間15分前に危
しをしようと、危険を顧みずにトルコ航空機は飛
機一髪の脱出劇を成し遂げる。救援機にすぐ乗務
んだのです」
できるよう日本でスタンバイしていた我われは、
串本は、大和朝廷をつくるべく九州日向国から
中東の隣国同士だからそのような芸当ができたの
船でやってきた神武天皇が上陸した熊野地域の一
だろうと軽く考えていたが、数年後、トルコ大使
画でもある。その山深い土地で案内役をしたのが、
に会った時に当時のいきさつを聞いて驚いた。
太陽に住む3本足の八咫烏であり、それが日本サ
やたがらす
120年前の明治23年、当時のオスマン帝国から
ッカー協会のシンボルになっている。近代サッカ
木造軍艦エルトゥールル号が国際親善のため日本
ーをわが国に紹介した中村覚之助の出身地が熊野
にやってきた。3ヵ月の滞在後、横浜から帰国の
地域だから、敬意を表しているのである。そんな
途に着いた同船は、9月16日の夜に台風の直撃を
ことは知らなくても問題ないが、神武天皇上陸の
受け、串本の樫野崎にある魔の岩礁「船甲羅」に
日が2月11日であり、その日が日本の建国記念日
激突して大破する。パシャ提督を始めとする656
になっていることを知る人が何人いるだろうか?
名の乗組員は闇の大波に呑み込まれて遭難、樫野
世界中をまわってみて、これほど自国の歴史を
の村人たちが暴風雨の中を救助に立ち向かった。
顧みない、子供たちに教え伝えようともしない民
フンドシを脱いで帯がわりにして瀕死の負傷者た
族はほかにいない。自国の文化や歴史を否定した
ちを裸で背負い、60mの絶壁を命がけでよじ登る
時、その国は滅ぶといわれて久しい。
農業経営者 2010 年 9 月号
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