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Page 1 Page 2 文献紹介 M・J・ペトリ編『へーゲルと自然科学』 近年、十

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Page 1 Page 2 文献紹介 M・J・ペトリ編『へーゲルと自然科学』 近年、十
\n
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文献紹介:M.J.ペトリ編 「ヘーゲルと自然哲学」
伊坂, 青司; ISAKA, Seishi
モルフォロギア, 12: 108-114
Date
1990-10
Type
Journal Article
Rights
publisher
KANAGAWA University Repository
伊
坂
青
司
このような事態 の中 で' これま で排斥され てき た自然哲 学が、
外 と いう事態 の根本的解決 は望 むべくも な いであ ろう。
M・
1 ・ペ - リ編 ﹃ヘーゲ ルと自然 科 学﹄
近年' 十 八世紀末 から十九世紀 始 めにかけ てド イ ツで興隆し
た自 然哲 学 (
N
at
urph
i
o
s
o
phe
i
)を再評価 しょうと いう気運が'
点 を懐胎 して いると期待され'再評価 の光があ てられ る こと に
人間と自然と の関係 に ついて自 然科学 の枠組 の限界を越 える視
な った のであ る。 ドイ ツの近代 にお いて形成された自然哲 学 はへ
ド イ ツを中心 に高 ま ってきて いる。自然哲学と いえは これまで'
と いう レ ッテ ルを貼 られ て歴史的な遺物 のよう に見られ てき た。
ラ ソスの百科全書沢 によ って普遍的原理と して 一般化され た自
そ の起源 から自然科学 にた いす る批判的態度を含 んで いた。 フ
自然科学 とそ の実 際 的な応用 の圧倒的な力 の前 に'「
非科学的」
一時 は単 なる虚妄と して排斥され てき た自然哲学 に'なぜ ここ
ツ精神が近代的な自然科学 の原 理をそ のまま鵜 呑 みにしたわけ
然科学的方法が' ドイ ツにおけ.
る啓蒙思想 の潮 流 の中 で輸 入さ
ではな か った。自然を分析的 に数 量化す る自然科学的方法 に対
そ の背 景 には'近代自 然科学 の学問的基礎 の上 に築 かれ てき
にき て再 び光があ てられ て いるのであ ろう か。
ろう.そ のような疎 外は、人 間 にと っての外的環境と いう意味
して'逆 に批判的 な抵抗 の姿勢が ドイ ツ哲学 のなか に芽生 え'
イ ツの精神世界 に'啓蒙 的悟 性が力を香 い始 めた。 しかしドイ
で の自然 のみならず'人 間自身 の内 なる自然 にま で及んでいる
独自 の方法と自然観が形成され る こと にな る。自然科学 の悟性
れ、伝統的な形而上学と素朴 な信仰 のな かにまど ろんでいたド
と いう のが' 現代 の危機的様相 であ る。近代自然科学 は、自然
た現代社会が、自 然 と人間と の調和と いう根源的な理念 に反 し
に対 する人間精神 の優位と いうガリ レイやデ カ ルト以来 の近代
なされ る 一方、自然科学 にょる自然支配 に対抗 して人間精 神と
的方法とドイ ツ哲学 の理性的方 法とを調停 しょうと いう試 みが
て' ます ます自然 から疎 外され つつあ ると いう現実があ るであ
的原 理生 別投 として成 り立 って いる。すなわ ち近代自然科学 は'
自然と の根源的同 7性 に回帰 しょうと いう哲学的動きも生 じて
人間 の知 による自 然 の支配と いう枠組を基杢 剛投 にして いた。
しかしこのような枠組 に固執す るかぎ り'人間 の自然 から の疎
1
08
く る。
自然 と人間と の関係 を根本的 に問 い直そうとす る自然哲学が'
ても刺激的な文献と な ろう。 しかも それ は'各分野 の論文 の単
てテ ー マごと に論文 を配 し、更 に各論文 にはそ の執筆者 を中 心
なる寄 せ集 めに止ま らず、各分野 から系統的 に問題 を選 び出 し
にしたデ ィスカ ッシ 2ソが付 されて いるO
自 然科学 に対 して 7定 の距離をと り得 たドイ ツにお いて形成さ
れた. そ して現代 の危横的 状況 のな かから'自然哲 学 の再評価
大きな テ ー マと各 論文 のタイ トルを列挙す ると、 次 のよう に
(
3)
な る。
lヽプ ラ- ソにおけ る観念論的自然概念 の起源
2、 ヘーゲ ル哲 学 の全体構想 の中 の自 然 の位置
Ⅰ' へ-ゲルの自 然哲学 の根本問題
の動きが ドイ ツを中 心 にして' そ の内外 で広-生じて いるので
(
1)
あ る。
このようなドイ ツ自 然哲 学 の再評価を試 みる第 一人者が' こ
こに紹介す る 「ヘーゲ ルと自然科学」 の編者' エラ スムス大学
(ロッテ ルダ ム)のM ・l ・べ-リであ る。彼 はす で に、これま
の第 二巻 F自然哲学」 の英 訳 に詳細 な コメソク ールを付 して'
で ヘーゲ ル研 究 の中 で最も 遅れて いた Fエソツィク Pペデ ィ﹄
3、 ヘーゲ ルにおけ る自然哲学 と自然科学
4、数学哲 学と ヘーゲル弁証法
5、量'数 学そ して自然哲学
6、 メタ数 学 の弁証法 のために
1'空間、時間 '運動
Ⅱ'自然哲学 と個別諸科学
ルの自 然哲 学 について の断 片的 な研究 はあ った にしても、 べ ト
ヘーゲ ル自 然哲学を同時代 の自然諸科学と の関係 にお いて解読
(
2)
す ると いう業績を世 に問う て いるo も ちろん これま で、 ヘーゲ
リ のこのような全体 に亘る詳細 な研究 に よ って、 「
非科学的」
3' ニュートンに対す る ゲ ーテ の色彩論 に ついて の ヘーゲ
コ- 1
2' ヘーゲ ル自 然哲学 におけ る物質 と光 のカテ .
と して 1蹴 され てき た ヘーゲ ルの自然哲学 の全体を歴史的文脈
にお いて理解 し'そ の歴史 的位置を確定す る方途が開 かれたと
い っても よ いであ ろう。
5'植物と動物
4、有機的 なも のに ついて の ヘーゲル哲学
ルの擁護
解 釈す る文献学的研究 に止まらず'それを現代 の自 然諸科学 に
ペ トリ の仕事 のも う ひと つの特徴 は' ヘーゲ ルの自然哲学を
る こと にあ る。﹃ヘーゲ ルと自然哲学﹄にはペ-リのこのような
照ら してそ の現代的意 義を問 おうと いう問題意識 に貫 かれて い
7'自然 におけ る霊的なも のの起源
6、 ヘーゲ ルの有楼体理解 と病気概念
問題意識が如 実 に表 れ て いて' そ の意味 で本書 は、 ヘーゲル研
究者 のみならず、恐らく自 然科学 に携 わる現代 の研 究者 にと っ
1
0
9
学を批判 す る ゲーテのそれと の関 係 にお いて論 じたべトリ自身
き出されただけ の数式 (
数学的 シンボ ル) には還元されな いの
あ る。 色彩 についての学問 は' ゲーテにと って計測 によ って導
て の体 系的 で学問的な意味を見 失 ってしま った、と いう こと に
の論文 「ニュート ンに対す る ゲーテ の色彩論 について の ヘーゲ
であ って'むしろ 「計測と計算」を意味づけ る 「
体系」を前提
こ こで はそ の中 から符 に' ヘー ゲルの色彩論を ニュート ン光
ルの擁護」 と'それ にた いす るデ ィスカ ッシ nソを取 り上げ て
みよう。
いうわけ であ る。 こうして 「
其 の学問 (
科学) は必然的 に体 系
であ る」 (
3
2
9) と いう のが、 ゲ ーテの色彩論体系 のうちに読 み
的 であ るのとま ったく同様 に'体系 は必然的 に学問 的 (
科学的)
にして こそ初 め て 「学問 (
科学)」 の名 に値す るも のにな ると
べ トリが この論文 の な か で立 て て い る中 心的な問題とは'
「ニ ュー- ソ光学 に対 す る ゲーテ の批判 はどう評価 さ れ る べき
のような普遍的 で哲学的な原理が 含 まれ て いるか」 (
3
25
)と い
か、 そし て このような批判 に ついて の ヘーゲ ルの擁護 には'ど
ト ンが観察と実敦と いう現象 レグ ェルにとどま ってそ の理論的
込もうとす るべトリ月身 の方法論 でもあ る。 べ トリは' ニュー
しろ観察と実敦 にと って の 「形 而上学的前提」 (
327)を帯擾的
前軽 への問 いにま で至らな か った のと対 照さ せて' ゲーテが む
う ことであ る。
.
へトリ は' ゲーテが ニ ュート ン光学 の批判 を始 めた十 八世紀
らぎ始め てそ の限界が貫 皇して いた ことを、 ゲーテの色彩論 の
末 には、光を粒 子 に還元す る 1
ニ ートソ光学 の正統性が 既 に揺
る 「
形而上学的前揖」と は何 であ ろうか。 それ は' ゲ ーテ色彩
それ ではt .
へトリが ゲ ーテの色彩論 のう ちに読 み取 ろうとす
に認 めて いた ことを主張 して いる のであ る.
光 学 にた いす る不満が存在して いた にも かかわらず' ニュート
論 の根本 に前提 され て いるとみなされ る 「色彩 に ついて の主観
時代背景 として措 いている。 しかし同時 に'当時 は ニュート ン
ン光 学 の無批判 的 で教条的な解釈が いまだ に抜雇 して いた時代
的知覚」(
3
31
) であ ると いう。 確 かにゲーテは'主観的な知覚
色彩論 の体系を 「
包括的な全体 」 (
33)
)と して構築 したと みる
ことも可能 であ ろう。
作 用を板木前提として色彩諸現象を考察 し'そ こから出発 して
.
へトリの強調す るように'決 して時代錯誤 ではな か ったと いう
こと であ る。
しかしはたして' ゲーテ色彩論 にと って の根本前長 は 「主観
ゲーテの色彩論 は' まさ に時代 の要請 に沿 ったも のであ ってt
.
へトリ によると' ゲーテによる ニュート ン光学批判 の最 大 の
この点 に、 .
へトリ のゲ ーテ色彩論 に対す る理解 の不十分さを認
的知覚」と いう レグ ェルにとど まるも のな のであ ろう か。実 は
でもあ った。 そ の意味 で' ニュート ン光学批判 の先陣を切 った
論点 は' ニ ート ンとそ の追随者 たちが光をプ リズ ムによ って
めざ るを得 な い。 そ のために、 ニュート ンを批判す る ゲ ーテ の
分 解 Lt こう して得 られ た色彩を 「計測と計算」 によ って 「一
次元的 に シソポ ル化」 してしま い' そ の結果彼 ら は色彩 に つい
11
0
もうひと つの理由 は' ・
へトリが ヘーゲ ルの色彩論 の核 心を、
るまでには至らな いのであ る。
「
経敦的な物理学」 (
33
8) のう ちに見 て いると いう こと にあ る。
しょうと し た かと いう この論文 の最大 の論点が'当初 の意図と
色彩論を ヘーゲルが いかなる 「形而上学的前提」をも って擁護
は素腹 に十分 に明 ら か にされ て いると は言 いが た い結果 にな っ
いる。確 かに ヘーゲ ルは、色彩 に ついて物 理学的観点 からも考
に物 理学 の領域 にお いて展開 され て いるか のよう に描き出 して
ど物 理学的観点 から扱 い'あた かも ヘーゲルの色彩 論が 圧倒的
実際 にべトリはt へIゲルの光と色彩 に ついて の理論を ほと ん
べ トリの理解 にあ る。そ の 一つは' べ トリが ゲ ーテ の色彩論 の
そ の理由 は' ゲーテと ヘーゲルのそれぞれ の色彩論 に対す る
て いるのであ る。
根本 前提を主観的知覚とそれ に現象す る色彩 に限定 し'それ以
なす にすぎな い。 べトリが 言うよう にへ な るほど ヘーゲ ルが 生
理学的色彩 よりも物 理学的色彩 により多- 言及 して いる にして
察 して いるが' しかしそれ は' ヘーゲルの色彩 理論 の 一部分 を
も'そ のことをも って ヘーゲルの色彩 理論 の中 心 に物理学的色
上 には遡 及 して いな いと いう こと にあ る。 しかし ゲ ーテは'無
として の(光と闇)を見 て いる のであ る。彼 は F
色彩論-教 示篇」
彩を据 える こと はできな い。 こう して ペトリの解釈 にょると'
限 に多様 な色彩現象 の根 源 に'諸色彩 にと って の 「
根源現象」
のよう に述 べ て い る。「と りあ えず最少隈 のことを述 べるなら
学的領域 にお いてそれぞれが色彩 論を展開 した こと にな り' 両
の序 論 の中 で'光 と闇 に ついて'色彩を生 み出すも のとして次
は'色彩を生 み出す た めには光と闇'明と暗 'あ る いはより 一
(
.I)
殻的 な公式 を用 いれ ば' 光と光ならざ るも のが要求 され る」
。
ってしまう のであ る。 さら にべトリは' ゲーテが生 理学 的色 彩
者 の間 に理論的共有 を云 々す る こと はそもそも 困難 な こと にな
からさら に 「生物学的光学」と いう新 たな研究領域 を開 拓 した
ゲ ーテは生理学的領域 において' それ に対 して ヘーゲルは物 理
「われ われが これま で 提 示 してき たも のは' このような 根源 現
更 に光と闇を (根源 現象)として'次 のよう にも述 べて いる。
象 であ る。 われわれ は 一方 に光'す なわち明 る いも のを'他方
と述 べる 1万、逆 に ヘーゲルは 「生物 学的光学と いう新 し い研
テ の色彩論 全体 の前提 をも っぱ ら知覚 レグ ェルの生理学的領域
彩論を自然哲 学形成 の初期 の段階 から 一貫 して擁護 し' 一八 三
と ころで ヘーゲ ルは' ニュート ソ光学を批判す る ゲ ーテ の色
う に至 っては、両者 の色彩理論 に共通部分 を認 める こと は増 々
困難 にな ってしまう のであ る。
\
究領域 にと って の色彩論 の意義を強調す る彼自身 の独自 の哲 学
に闇'す なわ ち暗 いも のを見 る。両者 の間 に曇 りを入れると'
体系を可能 にす るチ ャンスを取 り逃 してしま った」 (
33
8)と 言
に限定 して いる。 そ の結果' ゲーテと ヘーゲ ルの色彩論 の理論
トリ は' この (根源 現象) にはほと んど触れ ることなく' ゲー
これ ら 二 つの相対 立す るも のから' この仲介 の助け によ って同
(
5)
じく相対 立す る二 つの色彩が 展開 し て - る」
。 しかしなが ら ペ
的共通性を指摘す る こと はでき ても'そ の具体的内容を展開す
1
H
リ
11
めて いな い。 いま だ ニュート ン光 学 の追随者が 抜底す るなか に
〇年 の Fエソツィク ロべデ ィ﹄(
第 三版) の ﹃
自然哲 学﹄にいた
っても、 ゲーテ色彩 論 の擁護と ニュー- ソ光学批判 の調 子を弱
け であ る。 こ のような ヘーゲ ルの色彩論 の基本 的枠 組 は、初 期
によ って、 可視的 な 「色彩 の戯 れ」 とな って現象す ると いうわ
ぅな不可視 の理念的 な統 一が 実 在化個体 化 の運動 を介す る こと
あ って孤 立 した闘 いを余儀なく され て いた ゲ ーテを' なぜ ヘー
うな ︹
光 と闇 と の︺統 一は'直 接 に規定 され たも のであ り、 そ
の体 系構想 から 一貫 して いる。 例 えは ヘーゲ ルは' 一八〇 五/
〇 六年 の自然哲学構想 の中 で次 のよう に述 べ て い る。 「このよ
の単 一性 は否定 性 をそれ自身 にお いて持 ち、 そ してそ の統 一は
の問 いに対す る解 答 は' べトリ自身が 当初掲げ て いた ゲ ーテと
物 理的実 在と して現われ る。 それ は色彩 であ り' 現実 的自然 は
ゲ ルはこれ ほどま で に擁護す る ことが でき た のであ ろう か。 こ
ヘー ゲ ル両者 の 「形 而上学的前 提 」 にま で遡 及 し、 そ の具体 的
こ こでわれ われ は' べ トリ の ヘー ゲ ル色彩 理論 に対 す る物 理
版の F
自然哲 学J からt へIゲ ルの色彩 に ついて の論述 の典型
更 にも うひと つ' 一八 三〇年 の ≡ ソ ツィク ロペデ ィ」第 三
諸 色彩 の晴朗 な国 であ り' そ の生き生き と した運動 は色彩 の戯
{
8)
れ であ る。 そ のより 一層 の発 展 は'諸 色彩 の実 在化 であ る」。
内実 を明 ら か にす る こと によ って与 えられ る であ ろう.
学 的 観点 から の論 述 を離 れ て' 改 めて ヘーゲ ルの色彩 理論 の核
ヘーゲ ルは既 に彼 の哲学的 キ ャリ アの初年 に当 る 一八〇 一年
心部 分を明 ら か にし なければ ならな い。
の結 合 であ る。 それ は、 この二 つの規定が 区 別され て いなが ら、
的 な箇所 を引 用 し て お こ う。 「色彩 は光 と闇と いう 二 つの規定
同時 に 1な るも のと しても措 定 され て いるような結合 であ る.
に' シ ェリ ングを介 して ゲーテと出 会 う のだが ' そ の頃 のゲー
この両規定 は分離 され て いなが ら、 同時 にま た 一方が 他方 のう
テ は 三部 から な る色 彩論 の体 系 の公 刊 に向け て構想 を固 め つつ
あ った。 一方 ヘー ゲ ルは' 一八〇 三/〇 四年 から 一八〇 五/〇
ち で反照 して いる。 それ は 一つの結合 であ るが' そ の結合 はそ
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ung) と名 付 けられ るべきも
れゆ え' 個体 化 (
(
7)
のであ る」。このよう に ヘーゲ ルにお いて は、光 と 問 の統 一が 色
六年 の冬 学期 にかけ て 「自然哲学」 の体 系構想 を具体化 してゆ
ゲーテに直接 的 にあ る いは間接 的 に接触 しなが ら'自 ら の色彩
彩 現象 の板杢 別投 と して想定 され ており' それ は 「
物質 的 な観
(
8)
(
9)
念 性」と か 「非物質 的な物質 」 とも 言わ れ て いるよう に' 一種
き' そ の中 で色彩 論 につ いても 次第 に内容を豊 か に展開 す る こ
理論 を彫 琢し て い った。 そ の基本 的 な理論 は、 次 のようなも の
であ る。
ヘーゲルの色彩理論 は'色彩 現象 に ついて の生 理学 的あ る いは
の形 而上学的 な存在性質 を有 す るも のと して考 えられ て いる。
と になる。 そ の間 ヘーゲ ルは' 色彩 論 の体系 の完成 に傾 注す る
ヘーゲ ルは、色 彩 現象 の根源 に (光 と闇) を想定 し、 そ こか
物 理学的観点 から の論述 よりも' む しろ このような形 而上学 的
ら多 様な色彩が 現 象 して- ると考 え て いる。す なわ ち' 光と 闇
と は互 いに対 立 しあ いなが ら 一つの統 一をな して おり' そ のよ
1
1
2
を想定 して いる こと は'前 にも触れ ておいた。 確 かにゲ ーテ自
と ころで' ゲ ーテもま た色彩 の 「根源 現象」と して (光と闇)
域 に取 り上げ るが よ い。 そうすれば彼 は-根本 現象 な いし根 源
光 のうちにあ るが ま ま にしておき'哲学書 は根源現象をそ の領
テ は' 「
哲学者」が 根源 現象を哲学 の領域 に取 り入れるよう に
れ か つ存在 し'それ ら に ついてはも はや説明 の余地が な いと こ
(
ll)
ろまで追求しょうと努 めたから であ る」。 ま た 別 の箇所 でゲ ー
観点 から の論述 の比重が 圧倒的 に大き いのであ る。
身が 述 べて いるよう に'彼 にと って生 理学的色彩 こそ 「色彩論
(
10)
全体 の基盤」を なすも のであ って'そ の限りでは、内容豊 かに
促 しても いる。 「
自然研究者 は根源現象を そ の永 遠 の平安と栄
展開 され た生理学的 色彩 に ついて のゲ ーテの論述 は'形 而上学
的理念 の優越 した へIゲ ルの論述と は大き-異 な っている。 し
ここで言われ て いる 「
哲学者」が ヘーゲ ルであ ると推 測す る
現象 において自分 の今後 の研究 のため に貴重な素材が与 えられ
(
12)
ることを見出す であ ろう」。
こと は'的 はず れ ではな いであ ろう。 たとえ ヘーゲ ルが' 「根
かし'多 様な色彩現象 の生理学的研究を支える理論的枠組とし
こと は' ヘーゲ ルの色彩 理論とまさ に軌を 一にして いると いわ
たにしても、 (光 と 闇) と の対立と統 1に ついて の内容展開 に
源 現象」を自 ら の概 念と してそ の哲 学 に導 入す ることが なか っ
て' ゲーテも また色彩現象 の根源 に (光 と闇) を想定 して いる
なければ な らな い。 しかも'光 と闇 の両極的構造を根源 にすえ
の段階 から 三部体系 に至 るま で 一貫 して いる。 ここにこそ' ヘ
ゲルの色彩理論 の現代自然諸科学と の関係 や' ヘーゲル自然哲
による討論部分 に言 及してお こう。デ ィスカ ッシ nソはt へI
4
t
J
て最後 に' べ-リ の論文をめぐ るべ トリ自身を含 めて五名
よ って、 ヘーゲルは ゲーテの期待 に応 え て いた のであ る。
て色彩現象 を研究しょうとす る ゲーテ の発想 は'決 して 一時的
ーゲ ルが そ の初期 の自然哲学 から Fエソツィタ ロ.
へデ ィ﹄第 三
学 の体系全体 の中 で の位置づ け の問題 にま で及 んで いる。
なも のでも' また付 随的なも のでもなく て'彼 の色彩論 の初期
本質 的な根 拠があ った のであ る。
ヘーゲ ルの色彩理論と現代物 理学と の関係 に ついて の質問 に
版 に至るま で三〇年 間 にわた って ゲ ーテの色彩論を擁護 しえた
ゲ ーテも またそ のことを十分 に自覚 して いたと思われ る。 こ
領域 に局限され るとする解釈を繰 り返し'現代 の光 学理論 に対
対 して、 べトリは改 めて ヘーゲルの色彩 理論がす べて物 理学 の
して寄与 しうる接点 を見出そうとして いる。更 にべトリは' 色
の点 で'哲 学 の思弁 性を押絵 して いた ゲーテが' (光 と 闇) の
て いる こと は興味深 い。 例 えは ゲーテは' r色彩論-教示篇 ]
だと の観点 から ヘーゲルの色彩理論 の不十分 さを指摘 して いる
彩理論が物理学 のみならず生物学 の観点 からも研究され るべき
根源 現象 に関 しては珍 しく 「
哲 学者」 に対 して好意的 に言及し
の序論 の中 で次 のよう に述 べ て い る。 「
哲学者 からわれわれ は
が'生物学的色彩理論 の具体 的内容 は示され ては いな い。
感謝 され てしかるべき であ ると思われ る。われわれ は種 々の現
象をそ の板層ま で、すなわ ち' それらが まさ に現象として現わ
11
3
また編者 .
へトリは ロッテ ルダ ムの エラ スムス大学 に在敬 し
二 九七〇年) は' ロンド ンと ニュー ヨークで出版 さ れ て
て いる。 また彼 の英訳と註 による Fヘーゲ ルの自然科学」
ま た ヘーゲルの哲学体系全体 の中 での自然哲学 の位置づけ に
ついては'特 に論 理学 と自然哲学と の関係が問題 として取 り上
いる。吏 に フラ ンス' イタリアなど でも'自然科学 を再評
げ られ て いる。論 理学が先行す るか自然哲学が先行す る かと い
う問題 に ついて' 論理学 から出発す べきだとす る質問者 のオ ー
価す る動きが生 じてき ている。
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そ の他 に も ペ - リはtHe
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ソド ック スな立場 に対 して' べトリはむし ろ自然哲学 から こそ
出発す べき だとす る刺 激的な立場を表明 して いる。 しかしそれ
はt .
へト-自身が 告白 して いるように、 ヘーゲ ルの自然哲学を
論 理主義 だとす る非難 に対す る 「戦略上」 の予防線 であ って'
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86.も編纂 して
いる。 これ は、国際 ヘーゲ ル協会 の出版活動 (
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ヘーゲルの哲学体 系構想 の形成過程 に即して論証された議論 で
あ ると は言 い難 い。 べ - リの意図 は'「
非科学的」と 一蹴され
環として 一九 六 二年以来出版 されてきた 一五巻 目にあ たる。
(
3) 全体 は三部構成をとり'第Ⅲ部 は ヘーゲ ルが 個人 で収集
てき た ヘーゲルの自然哲学を'現代自然科学と の具体的な切 り
した文献 の案内 と' ヘーゲ ル自然哲 学 の研究文献 の解介。
結 び の場 におき' そ の其 の存在 理由を琴 不す る こと にあ る。
.
へトリ の論文及びそれ について のデ ィスカ ッシ ヲソは' これ
(
4) 「ゲ ーテ全集 (
第 一四巻こ r
色彩論」'木村直 司訳'潮出
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1) 前掲書 三 一入貢。 (
1
1) 同 三 一六貢。 (
12) 同 三四七貢。
原著 He
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6) G.W.F.He
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5) 同 三四七頁
版社' 1九 八〇年' 三 1五貢。
ま で見 てき たよう に不十分 な点 や首肯 し難 い点も少なくな い。
現代自然科学 に対 して若掻的 に開
(
討論出席者) の 意 図 は' 自然科学研究を単 に歴史的な文献解
し かL rヘーゲ ルと自 然科学」全体を貫く編者 ペトリと執筆者
読 の域 にとど める こと なく
かれ たも のにしようと する意欲 に盗れ、高 く評価 されてよ い.
註
Fヘーゲ ルと自 然 科 学」 から の引 用文 には算用数字 のみを付
してそ の頁数 を示す。 引用文中 の ︹ ︺内 は筆者 の補足 であ る。
して いるわけ ではなく'ドイ ツの少 な から ぬ都市 に分散 し、
(
1) rヘーゲルと自 然科学﹄ の執筆者 は' 特定 の地域 に集中
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