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漱石における二三の問題
漱石における二三の問題 夏目漱石の作品を考える場合︑最も重大に考えられる も の の 一 つ に ︑ 彼に お け る 無 力 感 の 問 題 が あ っ た ︒ そ れ が 最 も 端 的 に あ ら わ れ て い る の は ︑﹃ 虞 美 人 草 ﹄ の篇末に添えられた甲野さんの﹁悲劇論﹂の場合であろ 悲劇は遂に来た︒来るべき悲劇はとうから予想して居 た︒予想した悲劇を︑為すが儘の発展に任せて︑隻手を う︒ 5 6 だに下さぬは︑業深き人の所為に対して︑隻手の無能な るを知るが故である︒悲劇の偉大なるを知るが故である︒ 悲劇の偉大なる勢力を味はゝしめて︑三世に跨る業を根 柢から洗はんが為である︒不親切な為ではない︒隻手を 挙ぐれば隻手を失ひ︑一目を揺かせば一目を眇す︒手と 目とを害ふて︑しかも第二者の業に依然として変らぬ︒ のみか時々に刻々に深くなる︒手を袖に︑眼を閉づるは 恐るゝのではない︒手と目より偉大なる自然の制裁を親 切に感受して︑石火の一拶に本来の面目に逢着せしむる の微意に外ならぬ︒ こういう無力感が︑甲野さんを淋しく悲痛な生活気分 や消極的な生活態度に落ちこませたのであったのみなら ず︑こうして無力な﹁手と目より偉大なる自然の制裁﹂ を信じた心が︑やがて﹁業﹂とか﹁私﹂とか﹁我執﹂と かいうものを断滅して﹁天﹂に則ろうとする︑晩年の心 構えを生ませるところまでも続いて行くのだから︑それ が漱石に おけ る最 も重要な 観点の一となることは︑いう までもあるまい︒朝日入社後最初の長篇小説として︑か なり改まった気持で﹃虞美人草﹄の筆をとった作者は︑ 7 い わ ば 彼 自 身 に お け る 最 も 根本 的 な 問 題 を ︑ 当 時の 彼 と し て ︑﹁ 意 気 地 の な い 所 が 上 等 な の で あ る ︒ 無 能 な 所 が 人 公 の 苦 沙 彌 を ︑ 実 業 家 の 金 田夫 妻 や 鈴 木 藤 十 郎 に 対 比 なり顕著なかたちであらわれていたのである︒第一︑主 それどころか︑その処女作﹃猫﹄にも︑それはすでにか 草﹄まで来て卒然とあらわれたものなのではなかった︒ だが︑そういっても︑こういう無力感は何も﹃虞美人 なったのだと思う︒ からこういうかたちでその無力感を押出して来ることに して出来るだけつきつめてみようとした︑それがおのず 8 上等なのである﹂などと規定しているところにも︑それ は 朧 ろ げ な ら ず 揺 曳 さ せ ら れ て い たこ とに な ろ う ︒ ま し て同じ苦沙彌が︑朝飯をたべる子供等の乱暴狼籍に対し な が ら︑ 撫 然 と し て 手 を こ ま ぬく よ り ほ か 仕方 がな くな っているところなどを見れば︑それはいよいよはっきり というより︑むしろ西洋的近代 と感じられるものになろう︒作品の終りの方に行って︑ ︱ 東西文化の比較論を 的な文化への否定観をいろいろと示したあげく︑八木獨 仙 を し て ︑﹁ 夫 だ か ら 西 洋 の 文 明 杯 は 一 寸 い い や う で も つまり駄目なものさ︒之に反して東洋ぢゃ昔から心の修 9 行をした︒その方が正しいのさ︒見給へ︑個性発展の結 評はどこにもなく︑ただそうして悟ったところでどうに 獨仙風の悟りが悪いとか問題にならぬとかいう判断や批 などにも︑それはまた強く感じられるものになっている︒ く︑最後の﹁死んだ方が楽だ﹂に流しこんで行くあたり し悟ったって其時はもう仕様がない﹂と投げ出したあげ か ら ﹂ と い わ せ て 置 き な が ら ︑ す ぐ に ま た 転 じ て ︑﹁ 然 ら︒無為にして化すと云ふ語の馬鹿に出来ない事を悟る 王者の民蕩々たりと云ふ句の価値を始めて発見するか 果みんな神経衰弱を起して︑始末がつかなくなった時︑ 10 もならぬのだと感じているところに︑彼の究極の問題が そういう無力感にあったのであることが明瞭だろうと思 う︒つまりその頃の彼は︑彼自身の思想的立場を少しも 疑ってはいなかったのである︒いいかえれば︑人生にお い て 彼 自 身 よ い と 思 い 高 い と思 う も の を ︑ 決 し て 見 失 っ てはいなかったのである︒ただ︑そうしてよいものや高 いものがわかっていたところで︑それを受入れようとす る人間一般ではないではないか︑強いて受入れさせよう とすれば︑かえってこちらが傷つくだけのことではない か︑というようにばかり考えていたのである︒そう考え 11 て い た 彼 で あ っ た か ら こ そ ︑﹁ 依 然 と し て 変 ら ぬ ﹂﹁ 第 というより言葉 彼の無力感は︑それとは一見うらはらなものと見える優 に 規 定 し た り す る こ と も 出 来 た の で あ る ︒ そ の意 味 で ︑ ういう意味での﹁喜劇ばかり流行る﹂ところと︑侮蔑的 の正しい意味ではむしろ茶番視したり︑世の中全体をそ 彼は人間一般の営む日常生活を喜劇 ︱ とがあったことになる︒そういう意識があったからこそ︑ る衆愚意識と︑そこから来る啓蒙の不可能を思う気もち することを怖れたのである︒そこにはむろん漱石におけ 二者の業﹂のために︑ ﹁隻手を失ふ﹂ことや﹁一目を眇﹂ 12 越意識と︑奇妙に結びついていたものであったことにな る︒当然それは︑そういう優越意識を踏まえた孤独感と︑ 背 中 合 せ の も の で あ っ た こ と に も な る ︒﹁ 驚 く う ち は 楽 しみがある︑女は仕合せなものだ﹂などということを︑ 冷然と口にし得る甲野さんのとりすました優越意識と︑ 彼における孤独意識と無力感との奇妙な融合が︑そのこ とをもまた端的に示 していよう︒ 尤 も ︑﹃ 虞 美 人 草 ﹄ に 比 べ れ ば ず っ と 自 照 性 の 色 濃 い ものであった﹃猫﹄には︑苦沙彌先生︑即ち作者自身を も︑甲野さんのいわゆる喜劇中の一人物として︑鋭く譏 13 笑 す るこ と を 作 者 も 忘 れ て は い な か っ た ︒ そ の 作 品 の 終 君此問題を考へたことがありますか﹂と書 したのだと思うが︑それもそうした無力さを悲しんだり 美人草﹄より︑ずっと深刻で悲痛な感触を持った作品に 一見戲れ書きのような﹃猫﹄を︑正面きった悲劇論の﹃虞 者にはかなり鋭い自己批判があったのである︒それが︑ いていたことなどによっても知られる通り︑その頃の作 か︒森田君 も己れ程頼みにならぬものはない︒どうするのがよいの 下に己以外のものを信頼するより果敢なきはあらず︑而 り近い部分を書いていた頃の作者が︑森田草平宛に︑ ﹁天 14 焦れたりするばかりで︑そうした無力さの根源である思 想的立場そのものを︑吟味しようとする意識などをとも なっていたものでは全然なかったことは︑上記獨仙風の 悟りなどに対する作者の態度が︑はっきりと示していた こ と に な ろ う ︒ 日 露 戦 争 後 の社 会 状勢 の 変 化 が ︑ 強 く 個 性的な生を生きようとするものには著しい梗塞を感じさ せるようになっていた︑そういう時代気運の中に生きて︑ 一面個性的な生を強く求めながら︑上記範囲でも恐らく さ たん 明瞭な通り︑新しい時代の個性主義などに左袒するには あまりにも多くの封建的なものへの好みを残していた彼 15 は︑自我の梗塞だけではなく封建的なものの崩壊をも同 の奇妙な抱合いにおいて︑露呈されるよりほかない作品 されるより︑だからそれがやはり優越意識や衆愚意識と するものになっていたのである︒無力感そのものが追求 な が ら ︑ よ り 多 く は 作 者 の怒 り やこ じれ た 気 も ちを 反 映 である︒だから﹃猫﹄は︑そこに一筋の悲痛さを漂わせ 多く対他的な焦慮や欝屈感に動かされていた彼だったの も味いながら︑そこに彼自身の問題を見出すより︑より 代にそういう人として生きる無力感やそれ故の悲しみを 時に痛惜せずにはいられなかったのである︒そういう時 16 になっていたのである︒その一面である無力感が︑そこ か ら ﹃ 虞 美 人 草 ﹄ に 行 く ま で の 間 に ︑﹃ 草 枕 ﹄ に 示 さ れ た よ う な 超 越 主 義 的 な 逃 避 を 傾 向 さ せ たこ と が︑ 晩 年 の ﹁ 須 永 の 話 ﹂ な ど か ら だ んだ ん に ﹁ 則 天 去 私﹂ へ の 思 慕 に傾いたことと︑或る程度相似た心の動きを示すもので あ っ た 反 面 ︑ そ こ に 示 さ れ た 他 の 一 面 か ら ︑﹃ 坊 つ ち や ん﹄や﹃野分﹄に示されたような︑積極的な主張とそれ にともなう著しい民衆蔑視とを露にするような結果も︑ だ か ら 当 然 生 れ ず に は い な か っ た の で あ る ︒﹃ 野 分 ﹄ は とにかく﹃坊つちやん﹄が一面激しい衆愚意識の上にあ 17 った作品であったことは︑恐らく説明を要すまいし︑そ 者 の 筆 力 と 濃 彩 と に も か か わ ら ず ︑ 極 め て 不 自 然な 作 為 たことになるのである︒あの作が︑縦横に発揮された作 じ 合 せ よ う と し た と こ ろ に ︑﹃ 虞 美 人 草 ﹄ の 世 界 が あ っ そういう分裂したままの問題全体を︑そのまま強引にと の高さとその可能性とを説こうとする人になっている︒ う︒そのくせ﹃野分﹄の作者は︑あれだけ強くその立場 に成ったものであったことも考えやすいところになろ らなる人生の不可能を思う気もちを土台として︑その上 う思えば﹃草枕﹄の超越主義がまた︑そうした意識につ 18 と未整理の上げ底性とを感じさせるのは︑むろんそのた めであった︒ が︑そんなことより︑こんな風に見て来ると︑この作 者の初期の作品を被っているものは︑無力感と優越意識 の相剋であったことになる︒その優越意識故に怒ったり 軽蔑したり説教したり︑その無力感故に悲しんだり自嘲 的に笑ったり逃避を姿勢しようとしたりした︒よくいわ れる作者の狂気も神経衰弱も︑要するにこの矛盾の処置 なさから生れたものだった︒無反省な自己実現に酔って いられた浪漫主義が︑その梗塞するものにぶつかったと 19 ころから来た︑主体的な萎縮と焦慮と︑それらの点への おける最も根本的な問題と見たいと思う︒ ︱ 以上のような無力感と優越意識の相剋 夫﹄にも︑また極めて見やすいかたちであらわれている︒ と に か く そ う い う も の は ︑﹃ 虞 美 人 草 ﹄ の 次 の 作 品 ﹃ 坑 やはり奇妙な抱合いといった方がいいかも知れない ︱ というより あったことになるのである︒私はそれを漱石の出発点に 把 握 は あ り 得 な か っ た 時 代 の ︑ 悲 喜劇 的 な 苦 悩 が そ こ に 自意識はありながら︑ほんとの自己批判や問題の正しい 20 あの作の前半には︑坑夫になった青年の体験を通して︑ 人間というものが周囲の条件によってどんなにでも変え られてしまう︒従って個性とか性格とかいうものなど全 然信ずるに足りないものだというようなことが書かれて いる︒要するに人間無性格論とでもいうべきものだが︑ そこに﹃猫﹄以来の無力感が尾をひいているのであるこ とは︑もとよりいうまでもあるまい︒にもかかわらず︑ その作の後半では︑その同じ青年が︑彼がその中に立ま じることになった坑夫たちに対して︑限りない優越意識 と 侮 蔑 感 と を 寄 せ て い る の で あ る ︒﹁ 畜 類 の 発 達 し た 化 21 物 ﹂ に は ︑﹁ 設 備 の 整 っ た 病 院 ﹂ ど こ ろ か ︑﹁ 道 端 に 咲 に お び え て ︑﹃ 夢 十 夜 ﹄ な ど に 示 さ れ た よ う な ︑ 不 安 や いないのである︒だからその頃の作者は一面その無力感 論に托 され た無力感との矛盾に も︑ まだ全然気づい ては は︑そういう優越意識にふくれ上ることと︑人間無性格 引にとじ合せようとしていただけのことであった作者 髣 髴 す る こ と が 出 来 よ う ︒﹃ 虞 美 人 草 ﹄ の 世 界 を た だ 強 くれ上った民衆蔑視の上にあるものであったかを︑十分 そこに書かれているのだといったら︑それがどんなにふ くたんぽぽの花﹂さえもったいないというようなことが︑ 22 、 怖れを語ろうとする人でありながら︑他面道に拠ってひ 、を叱陀しようとするような人でもあり得たのである︒ と ﹃三四郎﹄を経た後の﹃それから﹄などにも︑或る程度 それに似たものがあったのではないであろうか︒自分の 無力さを痛感する代助が︑それにもかかわらず世俗一般 は極度に軽蔑している︑そうして︑世の中がそんな風に 軽蔑すべきものであるからこそ︑自分は無力なのだ︑と 考 え て い る ︒﹁ 業 深 き 人 の 所 為 に 対 し て ︑ 隻 手 の 無 能 な るを知るが故﹂に︑ただ一人世離れた思索の生活に沈面 していた甲野さんのすがたが︑ここにも髣髴されるわけ 23 であろう︒そういう生活に甲野さんが得意であったよう 現代的であるのは︑云はずと知れてゐると考へたのと︑ 云ふ言葉を︑あまり口にした事がない︒それは︑自分が 代助は近頃流行語の様に人が使ふ︑現代的とか不安と じていなかったのである︒ ら︑彼はその頼りない半隠逸生活に何の不安も怖れも感 たを見るという所以であろう︒そういう代助であったか っている︒多くの人々が代助に甲野さんの成長したすが に︑代助もまた彼一人の自適生活に非常な優越意識を持 24 25 もう一つは︑現代的であるがために︑必しも不安になる 必要がないと︑自分だけで信じて居たからである︒ 代助は露西亜文学に出て来る不安を︑天候の具合と︑ 政治の圧迫で解釈してゐた︒仏蘭西文学に出て来る不安 を︑有夫姦の多いためと見てゐた︒ダヌンチオによって 代表される以太利文学の不安を︑無制限の堕落から来る 自己欠損の感と判断してゐた︒だから日本の文学者が︑ 好んで不安といふ側からのみ社会を描き出すのを︑舶来 の唐物の様に見倣した︒ ﹃坑夫﹄の無性格論や﹃夢十夜﹄の中の幾つかの短篇 に﹁舶来 の唐物﹂に過ぎぬものだったのである︒ うなことが書かれていた︒不安や怖れや頽廃は︑要する い う 言 葉 を 喜 ぶ ほ ど ﹁ ハ イ カ ラ で は な か っ た ﹂ とい う よ さ れ て い た の で あ る ︒﹃ 三 四 郎 ﹄ に も ﹁ 世 紀 末 ﹂ な ど と 迫﹂が︑代助即ち漱石の生活の背景にはないものと断定 に︑ロシア文学の不安の背景にあったような﹁政治の圧 結びついたものにはなっていなかったのである︒ととも ちは︑こうして少くともここではまだ代助の生の態度と のようなものなどを書かずにいられなかった作者の気も 26 が ︑﹃ そ れ か ら ﹄ と い う 作 品 は ︑ そ う し て 不安 も 怖 れ も知らなかった代助が︑強く三千代との愛に生きようと したため︑ついにはその身の置き場もないほどの狂気的 な 不安に お そ わ れ るに 到 ると ころ ま でを ︑ とに かく 描い つまり自我の真実を生きようとすることが︑父とも て見せたものだった︒まことと愛情に生きようとする ︱ 兄 と も 家 と も 社 会 と も 対 立 す るこ と にな る︑ そ の社 会は 夫 婦 と い う 形 式 に も た れ か か っ て 三 千 代 を 死骸 に な っ た 時はじめて引渡そうとしているのかも知れない平岡のよ うな男によって形造られているのである︒そういう社会 27 と対立しながら︑代助にはこれをどうすることも出来な 時期から︑神経的・感覚的・ないし情感的には知ってい い う ま で も な く ﹃ 虞 美 人 草 ﹄ や ﹃ 坑夫 ﹄ や ﹃ 夢 十 夜 ﹄ の 機的 に つ な が れ た の だ とい っ て もい い ︒ つ ま り ﹃猫 ﹄ は ろ う ︒﹃ 坑 夫 ﹄ の 怖 れ が こ う し て 甲 野 さ ん の 無 力 感 と 有 め て そ の 由 来 を 通 し て 描 き 出 され たの だ とい う こ とに な に描かれた無気味さや不安の感覚が︑ここまで来てはじ 眺 め る ぐ ら い の こ と し か 出 来 な い の で あ る ︒﹃ 夢 十 夜 ﹄ 、も 、り 、の頼りなく不気味なすがたを 軒端にへばりついたや い︒ただ平岡の家のまわりをウソウソと歩きまわって︑ 28 た怖れとか不安とか無力感とかいうものが︑ここではじ め て 知 的 全 円 的 な 追 求 の 対 象 と されて ︑ 従 っ て そ れ ら の ものの有機的な関係がとにかく描き出されることになっ たのである︒自意識されてはいても︑まだ問題にはなっ ていなかったものが︑こうして問題にされはじめたのだ といってもいい︒不安や悲しみを見つめるよりも︑より 多く対他的な怒りに足をさらわれかけているようなとこ ろから出発して︑従って問題を多くは外の世界に見出し ていた作者が︑こうして彼自身の内面的な問題に目をう つ す よ う に な っ た の だ と い う こ と も 出 来 よ う ︒﹃ そ れ か 29 ら﹄が漱石作中でも殊に画期的なものであったと見られ な ら ぬ こ と に な っ た ︒ そ の 発 展 と し て ︑﹁ 宗 教 か 死 ﹂ で た よ う な ︑﹁ 怖 れ る 男 ﹂ の 世 界 を な お じ っ と 見 つ め ね ば か っ た ︒ そ の 結 果 が ︑﹃ 彼 岸 過 迄 ﹄ の 須 永 市 藏 に 示 さ れ 解決のつく問題ではないことをも︑同時に見ねばならな まで近づかせたけれども︑それがいわゆる宗教によって を ︑ そ の 不 安 や 怖 れ の 処 置 な さ 故に︑ 一 応 は 宗 教 の 門 に では︑主人公宗助の不安と怖れを見つめた︒そうして彼 そういう画期を経た後の漱石は︑まずすぐ次の﹃門﹄ る所以である︒ 30 な け れ ば ﹁ 狂 気 ﹂ の ほ か は な い よ う な 悩 乱 を ︑﹃ 行 人 ﹄ の一郎を通して描いた︒その次が﹃こゝろ﹄の先生の﹁死﹂ で あ る ︒﹃ 猫 ﹄ 以 来 の 主 題 が ︑ こ う し て こ の 作 者 と し て はそのどんづまりまで︑リアリスティックに追求され尽 したことになるのである︒そういう意味では︑主題その も の と し て は ︑﹃ 門 ﹄ 以 来 別 段 の 発 展 は そ こ に は な か っ たことになろう︒旅に出た須永が﹁離れて眺める﹂こと に よ る 救 い を 筆 に す る と こ ろ か ら ︑ だ んだ ん と ﹁ 則 天 去 私﹂への思慕を必然的なものと思わせるようになってい る過程に到っては︑前に触れた通り︑旅の画工をして﹁非 31 ︱ 人情﹂のありがたさを力説させた﹃草枕﹄の世界から︑ が認められたのである︒ くなりまさっていたところに︑この期の彼の作品の展開 いたことになるのである︒その追求が一作ごとに鋭く深 た問題と︑この期に入ってはいわば必死の格闘を続けて かけていながらまだ十分意識的には追求されていなかっ の で さ え あ っ た ︒ 漱 石 は こ う し て そ の 初 期 時代 以 来 触 れ 美 人 草 ﹄ の 世 界 へ の 展 開 と︑ ほ と ん ど 軌 を 同 じ う し た も それによって正しい天意の顕現を期待しようとした﹃虞 ﹁手を袖に﹂して﹁偉大なる自然の制裁﹂の実現を 32 ただ︑そうしてその追求が一作ごとに深まったことが︑ 漱石の世界を沈痛にも時には凄惨にさえもして行ったの で あ り な が ら ︑ 甲 野 さ ん や ﹃ 坑夫 ﹄ の 主 人 公 が 示 し て い た優越意識が名残りなく消し去られるところまでは︑容 易に行ききれなかった︒打砕かれた﹃門﹄の宗助には或 る意味でそれがなく︑須永市藏にもそれが比較的稀薄で あった点で︑それらの人々がさすがに﹃それから﹄の追 求を経た後の人物らしい感じを与えたのであったが︑﹃行 人﹄の一郎になると︑またしても甲野さんなどによほど 近 く ︑ 自 分 の 方 が 周 囲 の 誰 よ り も正 し く て 高 い のだ とい 33 うようなことを︑明かに口に出してまでいうようになっ んとに払拭されて︑一見﹁魚と獣﹂ほどにも違うと見え い と 思 う ︒ そ う い う と こ ろ に 残 さ れ て い た優越 意 識 が ほ 拭しきれずにいたものであることも︑やはり否定出来ま う手段を必要としているだけ︑なおそういう感じ方が払 るための手段であったには相違なかろうけれど︑そうい 段であったように︑これも﹃行人﹄の孤独さを必然化す 狼狽や惑乱をより効果的に印象させようとするための手 上 っ た も の に し て い た の が︑ 或 る 意 味 で 後 半 の 見 苦 し い ている︒代助の前半を甲野さんに近い優越意識にふくれ 34 る主人公とその周囲の人々とが︑結局同じ矛盾や思想的 混沌を生きる︑同心円上の無力な存在に過ぎぬものであ ることを確認したのは︑やはり﹃道草﹄であった︒そこ にあの作の到り得た深さと成 熟とがあったので︑そこま で 行 っ て 一 さ い の 我 執 が 払 拭 さ れ た 時︑﹃ 虞 美 人 草 ﹄ や ﹃彼岸過迄﹄ではそれとなく観念されたり︑志向された りしていただけの﹁則天去私﹂が︑ようやくはっきりと 所期されるようになったのも︑極めて当然なことであっ たことになろう︒どの人物もすべてが相似たようなエゴ イズムの塊りである反面︑かつての甲野さんにはどこま 35 でも上わ手の好意を寄せられるだけの女でしかなかった た﹃明暗﹄全体の世界には︑単なる感覚的触発以上の或 章に漂わされていた不安の感じも︑清子の生と対比され な る の で あ っ た ︒﹃ 坑 夫 ﹄ の 前 半 や ﹃ 夢 十 夜 ﹄ の 或 る 短 た問題が︑こうしてこの作者なりに究め尽されたことに じ め て ︑﹃ そ れ か ら ﹄ で は っ き り し た 追 求 の 対 象 と な っ っ た の で あ る ︒﹃ 坑 夫 ﹄ の 前 半 で 朧 ろ げ に 意 識 化 さ れ は の世界は︑こうしてその必然の上に造型されることにな 清子のような女として描き出されることになった﹃明暗﹄ 糸子が︑敬愛すべき理想的典型として晶華されたような︑ 36 る裏打を持つものとして︑ほのかな︑しかし深刻なニュ アンスとして提示されるようになっている︒エゴイズム に 生 き る 人 々 相 互 の 人 間 不信 が ︑ そ う い う 不 安 を 必 至 と するのだと作者は説明しているのである︒それが観念と してはやはり﹃それから﹄に提示されたものの︑動かぬ 具 体 的 把 握 へ の 成 長 で あ っ た と 同 時に ︑ そ の 問 題 へ の 作 者の終始変らぬ解答であったことになるわけであろう︒ そういう解釋を下す人であったが故に︑夫を信じきった 清子のまかせきったような生の態度に︑何よりも尊いも のを見出さずにはいなかったのである︒それが﹁まこと﹂ 37 や 誠 実 さ を 何 よ り も 尊 ぶ と こ ろ か ら 出 発 し た漱 石 の 結 論 だ が ︑ そ う し て 漱 石 に よ っ て 理 想的な も の の よ う に 描 点からも理解されるわけだろうと思う︒ れほど問題にせずにはいられなかった必然は︑そういう 途な生だったことが思われるわけであり︑彼が我執をあ にかくその願いを生かしたのである︒恐ろしいほどに一 するためだけのものだったことになる︒そうして彼はと に終始変らなかった彼の信念を︑現実的に立証しようと であったとすれば︑彼のリアリズムなるものは︑要する 38 かれた清子の生は︑夫からの電報が来ればすぐにも今い る温泉場から発って行かねばならぬという︑或る意味で は極めて不安定な︑それだけ不安な生活だといえぬこと もないようなものだった︒そうでなくても︑彼女が夫に ま か せ き っ て 生 き て い る 態 度 は ︑﹃ 虞 美 人 草 ﹄ の 小 夜 子 が小野さんを信頼しきって生きていた態度と︑そう大し た相違があるわけのものでもなかった︒その小夜子が後 には不幸に泣かねばならなかったのが一つの悲劇だとす 即ち人間の問題に れば︑清子の生にもそういう悲劇が孕まれていないとは ︱ いえまい︒要するに信頼する相手 39 なるので︑だからこそ漱石の晩年の心境には︑すでに小 な る の か も 知 れ な い ︒ そ の 意 味 で は 漱 石 の 世 界に は さ し たのである以上︑これもまた当然の結果であったことに 命題を︑実証するためのような 彼のリアリアズムであっ とにもなろう︒その頃からすでに予想されていたような れはまた問題が﹃虞美人草﹄の世界に帰るのだというこ して問題が結局人間にあるのだということになれば︑そ い倫理的要求が孕まれずにはいなかったのである︒そう エ ゴ イ ズ ム の 苛 辣 な ま で の追 求 が 示 し てい る 通 り ︑ 厳 し 宮豊隆が指摘しているように︑また﹃明暗﹄そのものの 40 たる発展がなく︑ただその道筋が螺線型に深まって行っ た︑一種の堂々廻りがあっただけのことになるのだと思 う︒ が︑そうした堂々廻りの間に示された漱石のリアリズ ムは︑そうした結論を必至とする以上のものにも︑相当 多く触れかけていないことはなかった︒だから彼が著し く 写 実 主 義 に 傾 き は じ め た頃 か ら 後 の 作 品 に は ︑ 作 者 の 視野に入っていたものと︑そこから作者のしぼり出して 来た結論のようなものとの間に︑相当のズレが認められ る場合が少くなかった︒例えば﹃坑夫﹄が︑先に見て来 41 た通り︑その前半には︑人間は結局周囲の条件に支配さ いうことを感じさせるのではないかと思う︒ の主題とのつながりとかの場合になると︑殊に強くそう 四郎﹄とか﹃彼岸過迄﹄の世界と﹃行人﹄や﹃こゝろ﹄ い う こ と を 思 わ せ る 材 料 に な ら ぬ こ と は な か っ た ︒﹃ 三 も の ば か り を 痛烈 に 非 難 し て い た な ど と い う の も ︑ そ う りながら︑後半では坑夫の人間的︵ 人格的︶な低さその て人間のあり方を規定するものの力を認めていたのであ と見ることは出来ないというように︑人間の外側にあっ れるものなのだから︑個性とか人格とかいうものを絶対 42 まず﹃三四郎﹄は︑作者自身も作中でそういうしめく く り 方 を 見 せ て い る よ う に ︑﹁ 三 つ の 世 界 ﹂ を 描 い た も のだということが出来る︒第一は三四郎が後にして来た 郷里の世界であり︑第二は廣田先生中心の学者やインテ リゲンチァの世界であり︑そうして第三は美禰子やよし 子の作る華やかな社交︵ ?︶の世界である︒作者はそれ を︑三十円あれば四人家族が半年も暮らせるというよう な貧しさと明治十五年以前の古風な空気の澱んでいる世 界と︑陰気に世離れているかわりに高尚でのんびりした 世界と︑それから上記の通りの華やかな社交の世界とい 43 うような対比においてばかり捉えているのみならず︑第 第三の世界ではよし子のようなおだやかで角のない女さ 生を教授にしようとする運動を起して失敗している時︑ ぶれているといって︑無能な大学教授を排斥して廣田先 二 の 世 界に 属 す る 與 次 郎 が ︑ 今 の 人 間 は 皆 イ ブ セ ン に か 相貌を持ったものにさえなっているのである︒例えば第 第二の世界と第三の世界とは矛盾どころか明かに同一の でよろしいにしても︑作品そのものの示すところでは︑ のさえ感じているのである︒そうしてそれは一応はそれ 二の世界と第三の世界との間には何か矛盾したようなも 44 え ︑﹁ 知 り も し な い 人 の 所 へ 行 ︵ 嫁︶ く ﹂ こ と な ど は 頭 から拒否して求婚者を蹴飛しているし︑まして美禰子の ように派手に動く女はどこまでも自主的に生きようとし つまり誰でもいいような男のところに︑ ていながら︑かえってその道が歩ききれずに︑よし子に ︱ も求婚した 兄の友だちだからというだけのことで嫁して行ってい る︒それは廣田先生推戴の運動に與次郎が失敗したのと︑ 相似た生の挫折でなかったとはいえまい︒強く自主的に 生きようとしながらそういう自分が生意気に見えはした いかを怖れている美禰子は︑明治十五年以前の空気︵ 熊 45 本︶をなつかしがる一方︑與次郎の演説に賛成したり美 れば︑野々宮 さんもその月給 の乏しさをかこっているば あれば家族四人が半年も暮らせるなどという貧しさがあ なのである︒そういう彼女の生きている熊本に︑三十円 なくて︑三四郎にうるさがられるほど積極的に生きる女 本のおみつさんさえ︑おとなしいばかりの箱入り娘では 見立てもしたのだろう︒しかも︑そう思って見れば︑熊 からこそ彼女は彼女と三四郎とを等しなみの﹁迷羊﹂に 郎と︑同じ心境の分裂を生きていることになろうし︑だ 禰子中心の新しい空気にひきつけられたりしている三四 46 かりか︑そのうちから三十円を廣田先生の借家の敷金か 何かに用立ててしまったため︑よし子のヴァイオリンが 買えなくってしまう一方︑與次郎と三四郎とがやはりそ れだけの金のためいろいろな手数を費さればならぬこと になっている︒たった三十円の金がここでもやはり四人 も五人もの人間にとって重要な意味を持つものとなって いるのである︒もしその第一の世界を︑作の冒頭︑三四 郎が上京の車中で接触した奇妙な女と老人の世界まで押 しひろげて考えるとすれば︑女が或る意味で美禰子と並 行的な存在であるのはいうまでもないばかりか︑戦後の 47 生活難やそれにともなういろいろな問題の割切れなさ りであったら︑そこにずいぶん重大な発見があり得たの ら︑それらの相似た事柄の意味をも少し考えてみるつも しているものの問題に触れかけていた人であったのだか 漱 石 が ︑ す で に 人 間 の 外 側 に あっ て 人間 の あ り 方 を 規定 さまざまを見て︑それを或る程度確実に描き上げている と︑相似たものだということになろう︒そういうことの の悩みを教会行きで処置しようとしている美禰子の場合 ている老人の場合もまた︑ストレイシープの片づかぬ心 を ︑ 結 局 ﹁ 信 心 が 大 切 だ ﹂ と い う こ と で片 づ け よ う と し 48 ではないかと思う︒にもかかわらず︑それだけの写実主 義的沈潜はなくて︑僅かに主人公三四郎をしてその三つ の世界の対比だけを問題にさせているのは︑すでに彼自 身 の 視 野 に 入 っ て い る も の の 意 味 を ︑ そ の 客 観 的 な 事態 そ の も の の あ り 方 に 即 し て 探 り 出 そ う と す る態 度 を 欠 い て︑それを持合せの観念だけで安易に処理しようとする 態度に住していたからのことであった︒見ているものと それに対する作者の解釋とのズレが︑こうして必至のも のとならずにはいなかったのである︒すでに﹃坑夫﹄に おいて人間のあり方を規定する外側の力というものに触 49 れかけていた作者が︑美禰子を在るが如くに動かせてい 分明確でない不透明さを残すことになっているのであ せてしまったのであり︑それだけその題材の描敍に︑十 く捉えている題材の意味を︑その解釈において狭く片寄 きくひろげて見せたようなものだったのである︒せっか 夫﹄の前半と後半とに示されたズレを︑も一度さらに大 は 殊 に は っ き り し よ う ︒ そ う い う 焦 点 の 打 ち 方 は ︑﹃ 坑 ように解釈しようとしていた点などになれば︑そのこと リシィという︑女性特有の内部的条件だけによる問題の る社会的条件の問題を忘れて︑アンコンシァス・ヒポク 50 る︒宮本百合子が漱石に筆力の弱さというようなものを 感じていたのも︑恐らくそういうところから生れた観察 であったのであろう︒ ﹃ 彼 岸 過 迄 ﹄ に な る と ︑ 森 本 と敬 太 郎 と 須 永 と い う そ れぞれタイプの違った三人の青年が︑そのタイプ︵ 性格︶ の 相 違 に も か か わ ら ず ︑ い ず れ も 活 動 し て い る社 会 の 外 側に閉め出されて︑それぞれが孤独と逸脱と物足らなさ の生を余儀なくされているかたちが描かれている︒しか も ︑ そ の 活 動 す る社 会 に 君 臨 し て い る よ う な 実 業 家 田 口 は︑その三人の一人である敬太郎を︑何かわけのわから 51 ぬ探偵類似の仕事にわけのわからぬまま働かせたり︑極 拒否するなどというのも︑かなり象徴的な意味を感じさ 残の封建的感情を無視して︑須永にその娘を与えるのを 口約とかいうものに縋りつこうとしている須永の母の衰 えまいと思う︒一方︑そういう田口が︑血筋とか許婚の て ︑ い ろ い ろ な こ と を 考 え さ せ な い 作 品 の 世 界だ と は い はどうしても入れない人間のあり方とかいうものについ 操り動かしている力の本体とか︑そういう本体の世界に 人間をそのタイプ︵ 性格︶の相違など無視して背後から めてかんたんに彼に位置を与えたりしているのである︒ 52 せぬことはあるまい︒にもかかわらず︑そういう含み多 い世界を描いている作者は︑そういう世界に住む須永の 不幸の理由を︑彼が実際はその母の子ではなく︑父と小 間 使い と の 間 に 生 れ た 罪 の 子 であっ たこ とと︑ そう いう 罪 の 子 で あ る が 故 に ︑ 結 婚 す る 気 もな い 女 と 親 し く し て い る 男 を 嫉 妬 し て ︑ 彼 の 頭 に 重い 文 鎮 の 一 撃 を与 え る こ とを空想するなどという︑未生以前からの盲目的な力に 押流される人間でしかないこととに︑見出そうとしてい るのである︒それは﹁須永の話﹂一節をさえしめくくる には足りぬ結論であったと思うが︑しかもそこでそうし 53 た結論に到達した作者が︑一方には﹃行人﹄のような作 上記のような﹃彼岸過迄﹄の世界全体に対する総括的な 深 刻 な 心 の 消 息 で あ る こ と はいう ま で もな い が︑ そ れ が あった︒それらの作品の語るところが︑いずれも極めて 去私﹂への思慕をいよいよ明確にすることになったので 迄 ﹄ の 最 後 に 提 示 さ れ た 離 れ て 眺 め る 態 度 か ら ︑﹁ 則 天 た の で あ る ︒ そ の 結 果 が 度 々 書 い て 来 た 通 り ︑﹃ 彼 岸 過 外処置し得ぬものであることを立証してみることになっ 描いて︑そこでいわゆる原罪の怖ろしさが︑死による以 品に傾くとともに︑他方には﹃こゝろ﹄のような作品を 54 結論にもならなければ︑そこからの十分妥当な展開とも い え ま い ︒ も う く ど く ど と 述 べ て い る 余 白 がな い が ︑ 原 罪とか我執とかいうものも︑実はすでに﹃猫﹄にもかな り 色 濃 く 押 出 さ れ て い た も の で あ っ た の で あ り ︑﹃ 虞 美 人草﹄の藤尾が﹁我執の女﹂と規定されていたのであっ たことも︑恐らく周知であろうと思う︒そうして早くか ら 持 合 せ て い た 観 念 を 実 証 す る ため か の よ う に ︑ 写 実 主 義的探求を進めていたのであった漱石の作品が︑その写 実主義が触れかけていた問題のすべてを掬尽した結論に 到 達 し て い る も の で な い こ と は ︑ こ う 見 て来 れ ば い よ い 55 よ明瞭であろうと思う︒早く明治四十三年の昔に︑武者 ろの装置を設けること ︱ 文学でいえば即ち作品の虚構 あげて︑列席の人々を煙にまいているが︑それがいろい が ︑﹁ 物 理 学 者 も 結 局 自 然 派 だ ﹂ と い う よ う な 怪 気 熖 を さんの光線の圧力を試験する装置の話をきいた廣田先生 推 定 さ れ る の で は な い で あ ろ う か ︒﹁ 三 四 郎 ﹂ で 野 々 宮 無理を孕むものであることも︑それだけの説明からでも を怒らせた﹃門﹄などが︑そういう構成上の不十分さや 評 さ れ た ﹃ そ れ か ら ﹄ や ︑ そ の 参 禅 の 唐 突 さ で正 宗 白 鳥 小 路 實 篤 に よ っ て ︑﹁ 結 局 運 河 だ ﹂ と い う よ う な 言 葉 で 56 性が︑どこまでも自然や真実を探り生かすための︑その 意味で従属的なものであることを無視したものであった ことが︑やがてこうした漱石の題材の取扱い方や作品構 成法上の問題と︑結びつくものであったように思われる︒ そういう態度にもかかわらず︑どうかすると当時の自然 主義作家一般などより深く広い写実主義的諦視を示した 漱石が︑も一つ正しく十分な写実主義的態度への徹底を 持っていたらと︑惜しませずには置かぬところであろう と思う︒そういう点では︑漱石は明かに自然派を通り越 した人ではなかったのである︒ 57 最 後に ︑ そ う い う 探 求 と 実験 の 過 程 を経 るこ とに よっ ア文学の不安を上記のように解釋して見せた人が︑やが と外部との触着から来たものであることを見た人︑ロシ れ た 人 ︑﹃ そ れ か ら ﹄ の 代 助 の 不 安 が あ あ し た 生 の 要 求 う ︒﹃ 坑 夫 ﹄ に お い て 人 間 を 動 か し 変 え る 外 部 の 力 に 触 されねばならぬものの多くが含まれているのは当然だろ 視した結果の結論なのであってみれば︑そこになお検討 慕が︑その過程において上記の通りさまざまな問題を無 て︑動かぬ信念ないし願望とされた﹁則天去私﹂への思 58 て主体的な我執や原罪にのみすべての根本を見るように なったところに︑それが設定された生の態度であったと いうだけでも︑何か腹ふくれぬ思いを感じさせるのでは ないか︒それが当然一種の自己放棄であってしかも上記 の通り厳しい倫理的要求を孕むものであった点その他︑ なおいろいろ考えてみねばならぬことが多くあるわけだ が︑例によって紙数を超過した模様なので︑それはまた 機 会 が あ っ た 折 に 譲 ろ う ︒ 不 備 と ︑﹁ 二 三 の 問 題 ﹂ な ど と表題しながら︑書いている間にいつの間にか漱石につ いての一つの素描のようなものになってしまったこと 59 を︑謹んでお詑び申上げる︒︵ 60 ︶ 二十五年十 一 月﹁ 学 ﹂