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明治三十年“月の雑誌 「文芸倶楽部』 に次のような大 塚楠楠緒子の歌が

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明治三十年“月の雑誌 「文芸倶楽部』 に次のような大 塚楠楠緒子の歌が
漱石と槽緒子
山
きに御座候・:・独身に候へば疾に避暑とか何とか名をつ
中
塚楠楠緒子の歌がある。
明治三十年一月の雑誌﹃文芸倶楽部﹄に次のような大
なんでこんな歌が出来たのだらうが、大塚も仕合せな
がら可笑しく⋮﹂ ︵明治二九・七・二八︶
事に被存候へば向後は硫球か台湾へでも参る事かと我な
苦を忍んでぐずく到居候御笑ひ被下度候小生は東京を
出てより松山松山より熊本と漸々西の方へ左遷致す様な
これを漱石が読んで、﹁お安くない歌だ。大方大塚が留守
男だ﹂と語ったというエピソードが、﹃漱石の思ひ出﹄に
この手紙には妙になにか捨てばちな気分が流れてい
る。国家有用の人物として着々業績をあげながら、才色
た、おのれの境涯をかえりみて、三十才の漱石は冷たい
べ、西へ西へと流浪しながら﹁物品﹂のごとき妻を得
兼美の夫人をも得た友人の、その明るい境涯にひきくら
自嘲をおぼえざるをえなかったのであろうか。ともか
く、妻鏡子の前で﹁大塚は仕合せな男だ﹂とつぶやいた
漱石の心には、もろもろの想念の奥に、楠緒子の面影が
﹁先日は独乙着の御手紙正に拝受仕候愈御清適御勉学
な手紙を書いている。
座を担当した大塚保治は、当時新鋭の学者として、結婚
まもない楠緒子を残し、単身ドイツ留学中であった。大
学以来の友人であるその保治に宛てて、漱石は次のよう
しるされてある。東京帝大に日本人として始めて美学講
落葉がくれに桜散るなり
君まさずなりにし頃とながむれば
けて逐電可致筈の処当六月より兼て御吹聴申上置候女房
附と相成申候へば御荷物携帯で処々ぶらつくも何となく
厄介なるのみならず随分入費倒れの物品に候へば釜中の
子
御模様結構の事に存候国家の為め御奮励有之度切希望仕
候次に小生当四月より当地高等学校に韓任矢張英語の教
授に其日くをくらし居候不相変御無事に御目出度のん
14
和
それから十四年ののち、明治四三年十一月、楠緒子の
あぎやかに浮かんでいたことはたしかである。
いて、ある原体験のようなものを想定する考え方は以前
漱石の作品にいわゆる道ならぬ恋の多いことは周知で
ている。私は江藤氏のように艘登世との問の現実の不倫
くて楠緒子であるという二者択一の態度をあきらかにし
もっとも、最近の小坂氏の漱石恋愛説は、登世ではな
想定は充分なりたちうる。
た、その二重の宿命にあったのではあるまいか、という
登世においてひそかに経験したようなものを、別なかた
ちではあれ、楠緒子においてまた味わわざるをえなかっ
い。むしろ有りそうな事態である。
漱石がくりかえし、暗い三角関係にこだわったのは、
ーズアップされたのは艘登世の存在である。しかし、東
大文科の二秀才として、同室で生活したこともある漱石
と保治とが、楠緒子をめぐって微妙な三角関係を体験し
たかも知れぬ、という想定も決して突飛なものではな
からあるが、近来、江藤淳氏によってくまどり強くクロ
ある。なぜこれほど執拗に三角関係にこだわったかにっ
いる 。
計音に接した漱石は、哀傷をこめて手向けの句を作って
有る程の菊投げ入れよ棺の中
漱石が楠緒子に恋愛感情をいだいていた、というのは
︵1︶
︵2︶ ︵3︶ ︵4︶
早く芥川龍之介の説である。その後、柳田泉氏が﹁或る
老博士の談話﹂として、塩田良平、板垣直子氏などが噂
によればというかたちで伝えてきたものは、漱石がかっ
て大塚保治とともに楠緒子の結婚候補者であったらしい
こと、さらに一説によれば、二人を両天秤にかけた楠緒
︵3︶
子が﹁漱石を裏切って保治に走った﹂という、伝説めい
た話である。けれども、これらの風説は従来出所不明で
あり巷説の範囲を出ぬものと信じられて来た。小宮豊隆
氏をはじめとする漱石門下と、楠緒子の師事した佐々木
信綱氏がともにこの説を認めぬことなどもそこに影響し
る。一方また、漱石保治楠緒子をめぐる噂は、全く根も
あろうという説に、やはり賛成したいと思うものであ
おける父母未生以前の女の原像が、早世した艘の登世で
︵5︶
しかし、先年高田瑞穂氏が楠緒子の存在に注目し、近
︵6︶
くは和田講吾氏がこの伝説のよみがえりを示唆し、もっ
葉もない風説ではなく、漱石がとくに三角関係をくりか
を想像することに反対であるけれども、しかし、漱石に
とも最近になって小坂普氏が、漱石楠緒子恋愛説をかな
ているようである。
︵7︶
り積極的に実証しようと試みている。
15
く、鋭敏な青年漱石にあるシコリを残したはずの女性で
あって、漱石における女性不信の念に、それは微妙にか
ないのではないかと思う。楠緒子は保治と結婚すること
︵8︶
によって、﹁漱石をペテンにかけ﹂たかどうかはともか
な眼で見た漱石と楠緒子のイメージは修正されねばなら
の土壌を富ましたと思われる。したがって、二者択一的
むしろ相互補完的に漱石の体験を形づくり、漱石の文学
る。両者は相互に排除しあわねばならぬ理由はなくて、
えし描いた理由の一半が、そこに秘められていると考え
日蔭町の寄席の前まで来た私は、突然一台の幌侮に出
蝕するやうな不愉快な塊が常にあった。私は陰響な顔を
しながら、ぼんやり雨の降る中を歩いてゐた。
つ私の眼を惹くものは見えなかった。私には私の心を腐
終通りつけてゐる所為でもあらうが、私の周囲には何一
自然木の柄を伝はって、私の手を濡らし始めた。・:・始
れが鉄御納戸の八間の深張で、上から洩ってくる雫が、
雨の降る日だったので、私は無論傘をさしてゐた。そ
ナ
角へ出る代りに、もう一つ手前の細い通りを北へ曲っ
遠くから其中に乗ってゐる人の女だといふ事に気がつい
合った。私と偉の間には何の隔りもなかったので、私は
ア﹂o :°
かわってきていると思われる。楠緒子はそのままでは到
底、父母未生以前の女の原像たりえぬ女性であった。ま
私の眼には其白い顔が大変美しく映った。私は雨の中
ナこo °°°.
英国帰朝後の漱石と楠緒子との間にひそかな相聞歌がと
りかわされたこともなかったと考えられる。このあたり
い人が、鄭寧な会釈を私にして通り過ぎた。私は微笑に
悼が私の一間ばかり前へ来た時、突然私の見てゐた美し
して、当時、欝の状態のきざしていたと思われる漱石に
通常の意味の恋愛の尺度をあてはめることはできない。
の消息を無視している漱石楠緒子恋愛説に疑問を提しな
漱石の千駄木時代といえば、英国から帰朝してまもな
く、明治三十六年三月から三九年十二月にいたる間のこ
たいそう印象的な情景である。
事に、始めて気が付いた。﹂
伴なう其挨拶とともに、相手が、大塚楠緒さんであった
を歩きながら凝と其人の姿に見惚れてゐた。::すると
がら、作品の分析を通して、私なりの漱石と楠緒子の像
をあきらかにしてみたいと思う。
﹁私がまだ千駄木にゐた頃の話だから年数にすると、
或日私は切通しの方へ散歩した帰りに、本郷四丁目の
もう大分古い事になる。
16
ろう。
りなど、その精神の諺状態を、よくあらわした言葉であ
を腐蝕するやうな不愉快な塊が常にあった﹂というくだ
きれていない、暗い時代である。文中の﹁私には私の心
とである。漱石の精神がロンドン以来の異状状態を脱け
は写真の下に書いてある女の名前をまだ読まずにゐた。
早速何処の何老の令嬢かと尋ねた。すると不思議にも彼
てゐる所だと告げた。彼は其顔が眼の前にある間、頭の
中の苦痛を忘れて自ら愉快になるのださうである。僕は
て、今斯ういう美人を発見して、先刻から十分許相対し
ゐる、ある美人の写真を眺めてゐた。其時彼は僕を顧み
しんだ。﹂
住所を記憶するかと云った風の眼使をして僕の注意を怪
ば、細君として申し受けることも不可能でないと僕は思
ったからである。然るに彼は又何の必要があって姓名や
僕は彼を迂潤だと云った。夫程気に入った顔なら何故名
前から先に頭に入れないかと尋ねた。時と場合によれ
陰響な雨の降りそそぐなかを、一台の幌車に乗って次
第に近づいてくる女の顔。細い雨の糸につつまれて、ほ
のかに浮かびあがる白い顔を、漱石はただ美しいとのみ
感じていて、それがある特定の誰かであるという直覚の
働くような心的状態になかった、ということは注意して
よいことだろう。相手が会釈をして通り過ぎた時、はじ
めて夢から覚めたように、それが楠緒子であったのを了
失状態は、楠緒子と二人だけの美しい ﹁卵形世界﹂︵小
ていて、﹁自分の心を奪い取るような﹂﹁外にある物﹂を
は、﹁内へとぐろを捲き込む﹂須永の病的憂響を共有し
須永は松本のように、写真を﹁実物の代表﹂として眺
める現実感覚を働かさない男である。松本の注意にけげ
んそうな眼付をしてみせる須永は、楠緒子の微笑に、一
瞬驚かされた漱石と、おそらく同一人物なのである。
解したのである。したがってこの一文から、当時の漱石
にとって、楠緒子という一女性の存在が、小坂氏のいう
ように﹁心を腐蝕する不愉快な塊﹂からの﹁避難所﹂で
坂氏︶における幻想的恋愛の経験などではないであろう。
見出せない点で、須永と血縁にあると考えられる。
あったという解釈はできにくい。先方が挨拶しなければ
この時の漱石は、ちょうど﹃彼岸過迄﹄の ﹁松本の
ば快愈した須永自身であって、響状態を脱した漱石自身
須永の尊敬する、須永によく似た人格の松本は、いわ
﹁心を腐蝕するやうな不愉快な塊﹂を持っていた漱石
話﹂のなかの須永の様子を思い起こさせる。
ボンヤリやりすごしたかもしれないほどの現実感覚の喪
﹁彼は咲子の机の前に坐って、女の雑誌の口絵に出て
17
しいが、興津へ行ったのは保治だけだと、直接漱石から
松岡氏は漱石も保治とともに興津へ行ったと聞いたら
︵10︶
漱石は言っていました﹂。
があります。若い頃小屋は随分かわいらしい男だったと
れる漱石をみるうえで私にはたいへん興味深い。
ありかたが若き日同じような精神状態にあったと考えら
聞いている豊隆氏の言を信用してよさそうである。
の分身であるといえるであろう。この須永という青年の
明である。林原耕三氏のように、保治、楠緒子の結婚式
漱石と楠緒子の最初の出合いが何時であったかは、不
当日という説もあれば、漱石、保治の交友関係関始︵明
︵9︶
﹁昨年は御存じの如く夏中寄宿舎に蟄居﹂という文句が
明治二六年七月二七日付の漱石の手紙によっても、保
治が一人興津清見寺に宿泊しており、漱石は帝大の寄宿
舎にとどまっている。翌二七年五月三一日付の手紙に
治二六年か︶まで遡りうるという説もある。
松岡譲氏の﹃漱石先生﹄に次のような一節がある。
﹁昔大学院学生の時代、大塚さんと先生と二人で興津
のものの置き去りにして行った蚤を一身に引き受けたの
田米松に宛てた手紙に次の一節がある。﹁夏休みに金が
なくなって大学の寄宿に籠城した事がある。而して同室
あって、漱石が二六年夏、興津はむろんどこにも出なか
ったことがはっきりしている。明治三九年一月十日付森
海岸を散歩された時に、関秀作家の麗人大塚楠緒子さん
が博士を見初められた、それが縁で結婚されたといふロ
マンスがあるのださうだが、どうもあの時見初めたの
は、大塚でなくておれのやうだったとは、先生の時々洩
ヘ へ
には閉口した。其時今の大塚君が新しい革鞄を買って帰
って来て明日から興津へ行くんだと吹聴に及ばれたのは
らされた譜誰であったとか﹂。
ヘ ヘ ヘ へ
﹁諮誰であったとか﹂という言いかたから、これが松
と云う話を聞いたら猶うらやましかった﹂。
興津海岸を舞台に漱石、保治、楠緒子の三角関係の心
羨やましかった。やがて先生は旅先で美人に惚れられた
﹁たしか明治二五、六年頃、小屋保治は大学卒業前の
理劇があったかもしれぬという漱石恋愛説の臆測はこれ
で怪しくなってくるけれども、しかし、漱石が結婚式当
岡氏のまたぎきであることは明瞭である。漱石の早い弟
子達の話を聞いたものと思われる。その弟子の一人小宮
年、静岡県興津の三保の松原に旅行し、そこで初めて楠
日まで、楠緒子と全くの一面識もなかったことにはなら
豊隆氏は次のように語っている。
楠緒子にほれられたかもしれない、と笑って話したこと
緒子と逢ったらしい。この旅行に同道していたら、俺は
18
,
き人物とともに帰るかるた会の帰りのことが描かれてあ
に霜夜のかるた会の思い出がつづられてあるが、小説
ない。楠緒子の随想﹁わが袖﹂︵﹃心の華﹄明三七・七︶
に、男らしくないとも、勇気に乏しいとも、意志が薄弱
女だとしか僕には認められない﹂という男であった。要
するに、こちらを向いていない女を是が非でも向けてみ
せるという熱情にとぼしい。それは須永の考えるよう
何方へ動いても好い女ならレ夫程切ない競争に価しない
﹁客間﹂︵﹃早稲田文学﹂明三九・三︶にも漱石とおぼし
る。漱石はかるたのうまかった保治と同席して緒楠子の
は他人を愛するために、あまりにも自分のオモリが重い
だとも評しえられようが、しかし、根本的にいえば須永
男なのである。﹁内へ内へと向く﹂﹁命の方向﹂が須永の
美しい容姿に接する機会があったのかもしれない。﹁彼
い女の黒蛇の目に鮮かな﹁加留多﹂という文字のあった
岸過迄﹄のなかの電車を下りて雨の中へ消えて行く美し
﹁命根に横わる﹂一大特色であるゆえんである。楠緒子
とめぐり合う前後、響状態のきざしていた若い漱石の投
須永には﹁頭﹂と﹁胸﹂の争いが常にあって、その内
影をここにみうると私は思う。
ことがわざわざ描かれているのも意味ありげである。
﹃彼岸過迄﹄の須永は、若い女殊に美しく若い女に対
しては﹁普通以上に精密な注意を払い得る男﹂である
部の軋韓が﹁命の心棒を無理に曲げ﹂、﹁人知れず、わが
命を削る争いだといふ畏怖﹂をいだいている。
明治二七年九月四日付で子規にあてた漱石の手紙に、
ヘツト ハ ト
の所有者になって見たいという考えがおこるけれども、
ことを自白している。そして、たまにはその美しいもの
﹁然し其顔と其着物が何う果敢なく変化し得るかをすぐ
﹁理性と感情の戦争益劇しく﹂﹁天上に登るか奈落に沈む
予想して、酔が去﹂るのだと云う。そういう須永には、
か運命の定まるまでは安心立命到底無覚﹂という激した
一節がある。須永の﹁畏怖﹂として表現されているものは
艘登世のはかない早世にあって、﹁骸骨や是も美人のな
おちているとみていいのではないか。
れの果﹂という句を作ったことのある青年漱石の面影が
としめていたようであって、以後この精神状態は急速に
明治二七年のこの頃、現実の事態として漱石を苦獄にお
同じ手紙のなかで漱石は次のようにのべている。
悪化の方向をたどるのである。
須永は﹁劇烈な競争を敢てしなければ思う人が手に入
手を懐うにして恋人を見棄てて仕舞う積り﹂の男であ
らないなら、僕は何んな苦痛と犠牲を忍んでも、超然と
わがもの
る。﹁夫程切ない競争をしなければ吾有に出来にくい程、
19
﹁::小生の漂泊は此三四年来沸騰せる脳漿を冷却し
て尺寸の勉強心を振興せん為のみに御座候去すれば風流
ても考へ直してもいやでいやで立ち切れず::﹂という
ような一節があって二三年の頃からすでに憂響の重い雲
他の能事無之::去月松島に遊んで瑞巌寺に詣でし時南
を阻害する﹁落付かぬ﹂何ものかであるらしい。ここに
は何か明らかでないけれども、ともかく平静な勉強心
はただよい始めていたようである。﹁沸騰せる脳漿﹂と
天棒の一棒を喫して年来の累を一掃せんと存候へども生
韻事杯は愚か只落付かぬ尻に帆を挙げて歩ける丈歩く外
来の凡骨到底見性の器にあらずと其丈は断念致し候故踵
る。情ない程落付かない。仕舞には世の中で自分程修養
うろくとしてゐる。二六時中不安に追い懸けられてゐ
は﹃行人﹄の一郎の述懐を思いおこさせるものがある。
﹁実際僕の心は宿なしの乞食見たやうに朝から晩まで
を回らして故郷に帰るや含や再び半肩の行李を理して南
相の海角に到り日夜鍼水に浸り妄りに手足を動かして落
付かぬ心を制せんと企て居候折柄八朔二百十日の荒日と
﹁兄さんは自分の心が如何な状態にあらうとも、 一応
Hさんの手紙の一節をあげることができようかと思う。
の出来てゐない気の毒な人間はあるまいと思ふ﹂。
また、﹁理性と感情の戦争﹂に符合するものとして、
没して瞬時快哉を呼ぶ折・.・.﹂
相成一面の青海原凄まじき光景を呈出致候是屈究と心の
平かならぬ時は随分乱暴を致す者にて直ちに狂瀾の中に
この異様な動揺を告白する手紙を書いてのち、漱石は
くなってゐます。だから兄さんの命の流れは、刹那々々
ぼつく中断されるのです。食事中一分毎に電話口へ呼
び出されるのと同じ事で、苦しいに違ありません。然し
それを振り返って吟味した上でないと決して前へ進めな
寄宿舎を出てしばらく菅虎雄のもとに寄禺する。まもな
く漢文の置手紙をのこして転々とするが、十月宝蔵院尼
鎌倉帰源院へこもって参禅し、翌年四月には松山中学赴
心ですから、兄さんは詰まる所二つの心に支配されてゐ
中断するのも兄さんの心なら、中断されるのも兄さんの
められたりしてゐるやうに、寸心の安心も得られないの
寺へ下宿。幻聴、被害盲想があらわれる。その年の暮、
任となるわけである。
です﹂。
て、其二つの心が嫁と姑の様に朝から晩まで責めたり責
﹁此三四年来沸騰せる脳漿﹂とあることによって、漱
子規あてに﹁此頃は何となく将世がいやになりどう考へ
石の異状が、明治二七年夏に突発したのでないことがあ
きらかである。それを証すように明治二三年八月九日付
20
﹃行人﹄のこれらの事例は.千谷七郎氏によれば.
出現により、﹁自分の所有でもない、又、所有する気も
ところで、須永は㌦快活で世馴れた高木という青年の
ぶが、﹃行人﹂の一部もまた、強い風雨に突進し、血管
青年漱石は二百十日の狂濤に身をおどらせて快哉を叫
ゐる前で、高木の脳天に重い文鎮を骨の底まで打ち込
んだ夢を、大きな眼を開きながら見た﹂のである。熱烈
い力﹂の渦に、危く呑まれそうになり、﹁千代子の見て
ない﹂千代子のことで暗い嫉妬心にさいなまれる。高木
が居さえしなければ決しておそってはこなかった﹁怪し
︵11︶
﹁生命的不安﹂﹁頭と心の不和対立﹂をあらわしていて、
響病の病態をきわめてよくとらええたものであるとい
の破れるような大声をあげる。一郎が香厳の撃竹の悟り
に押し流され、兇暴な情念の嵐を感じ、愕然と驚いたの
に愛してもいない嬰る気もない女が原因で、恐ろしい力
,つ。
に憧れたように、二八才の漱石も瑞巌寺を訪ね、また帰
は、ひとり須永のみではないであろう。それは保治と楠
緒子の急速な接近、やがて婚約を知った時の、漱石の動
源院に籠ったのである。
こうしてみると一郎の異状の原型は、すでに明治二七
年夏の漱石のなかにあったことになる。そして﹃彼岸過
揺であったのではないか。漱石の意識の内部に殺意を秘
めた兇悪なデモンの住むことは、感想文﹁人生﹂︵明二
ろである。そして、妻にしようとも思わぬ女が、自分以
九︶にも﹃漂虚集﹄﹃夢十夜﹄などにもあきらかなとこ
迄﹄の須永はいわば、一郎の前身であり、一郎の異状へ
いたる過程の姿であると考えられるから、須永は明治二
七年夏以前の漱石を投影したものとみてもそれほど不自
同時に女への抜きがたい不信の念をはらんでいる。
外の男へ関心を示すことに嫉妬する男の﹁我儘﹂は、
然ではないであろう。
な競争を敢てしなければ思う人が手に入らないなら﹂
須永は千代子の﹁天下に只一人の僕を愛している様に
かるた会出席当時の漱石は、おそらく須永同様﹁劇烈
﹁何んな苦痛と犠牲を忍んでも超然と手を懐うにして﹂
しまういらだちから、﹁婁る積りのない女に釣られそう
見﹂える態度が﹁忽ち全くの他人と違わぬ顔﹂に変って
になった﹂という言いかたをしている。またこの千代子
女を見棄てようと思っていた青年であろう。﹁切ない競
い女なら夫程切ない競争に価しない女だ﹂と思っていた
は松本の口を通して、﹁此間僕の伴れてゐた若い女は高
争をしなければ吾物に出来にくい程、何方へ動いても好
にちがいない。
21
た奇妙にも興津嫌いである。それまでHさんのいうなり
に行先を決めた一郎が、急に興津だけはいやだといって
り、須永はなぜかそれを好まない。﹃行人﹄の一郎がま
と千代子との間にかわされた会話には次のような箇所が
だのが出て来る所は嫌いだ﹂というのである。興津は羽
行かない。理由をきくと、﹁三保の松原だの天女の羽衣
等淫売だって、僕自身がさう保証したと云って呉れ玉へ﹂
ある。
と言われてもいる。松本の愛嬢宵子の死にあって、須永
﹁不人情なんぢゃない。まだ子供を持つた事がないか
のね。ぢゃ妾なんか何うしたの。何時子供を持った覚が
くからにちがいない。
伝説と直接の関係はないはずで、これを関連さしたの
は、一郎のどこかに興津と天女の羽衣とを結ぶ連想が働
衣伝説にちなむ三保の松原の岬の見える場所であるが、
あって﹂
治、楠緒子の結ばれた土地である。美しい羽衣が天女の
興津は漱石の手紙や小宮氏ほかの証言によっても、保
ら親子の情愛が能く解らないんだよ﹂
﹁まあ。能く叔母さんの前でそんな呑気な事が云へる
女だから、大方男より美しい心を持ってるんだらう﹂
﹁あるか何うか僕は知らない。けれども千代ちゃんは
︵12︶
なると知って、暗い嫉妬におそわれた、そのおぞましい
思わなかった女であるにかかわらず、ほかの男のものに
石は思いみたのかも知れぬ。はじめから所有したいとも
この須永の段階にとどまらないのが﹃行人﹄の一郎で
記憶と興津とは漱石の意識の深層でおそらく混合してい
たのである。その兇悪な情念への恐れが、一郎にも須永
舞とともにはかなく消えうせた時の漁夫伯竜の心持を漱
あって、妻の直︵楠緒に通ずる︶に対する不信は、実の
にも、奇妙な興津嫌いをおこさせた原因であろう。
﹁あるか何うか僕は知らない﹂と須永は実に﹁峻烈﹂
させるに到るのである。そのほか﹁草枕﹄﹃虞美人草﹄
弟による貞操実験というほとんど狂気に近い方法を案出
ところで、嫉妬心だけあり、競争心のない、病的に重
な言葉を吐くのである。
﹃三四郎﹄﹃明暗﹄など、漱石の作品に流れる女性不信に
こりえないであろう。同様に、漱石が保治と結ばれた楠
な お
は根づよいものがあるが、そこには楠緒子をめぐる青春
の苦い痕跡が沈んでいたのではなかったか。
緒子に味わったものは、正当に失恋とは呼びがたいもの
ヘ へ
い自我を持つ須永のような場合、本当の意味の失恋はお
鯛の話がでてくる。ただの鯛でなく、とくに興津鯛であ
﹃彼岸過迄﹄には、鎌倉の宿で小鰺と比較される興津
22
七年夏以降、松山落ちにいたるまでの漱石の動乱は、こ
こにその原因をさかのぼることができようかと思う。漱
騰させる結果になった。いわゆる﹁理性と感情の戦争﹂
を、いよいよ激化させる仕儀になったのである。明治二
く沈んだが同時に予期せぬ兇悪な情念に呑まれようとし
た結果、漱石は、﹁三四年来沸騰せる脳漿﹂をさらに沸
問題にされなかったのは、主人公格の白井道也のほうに
と同様、女の特別な﹁親切﹂を描きながら、暗い嫉妬が
坊っち﹂は、失恋であるというよりは、親友との間に微
妙な疎隔を生じた孤独であるにちがいない。須永の場合
分の苦痛を書いて、一篇の創作を天下に伝える事ができ
るだらうに﹂と思うのである。高柳のこの時の﹁ひとり
﹁天下に親しきもの只一人﹂の中野を、単なる朋有以上
と目している。その中野が恋人に会うため、高柳を一人
残して立ち去ったあと、﹁恋をする時間があれば、此自
であろう。おそらく漢たる女性不信の念が寂蓼の底に深
したのでもなく、失恋の結果はじめて神経衰弱に落ちい
石恋愛説のとなえるように、漱石は単純に楠緒子に失恋
かって、この時代の漱石を投影するものとして、﹃野
んど追求されていない、ということになる。
でにここにありながら、この時点では、それ自体はほと
女をめぐる二人の男という、漱石の三角関係の原型がす
小説のテーマの重点がおかれているからである。一人の
分﹄の高柳とそれをとりまく人物達が、和田氏によって
四国松山から九州熊本へ、さらに英国ロンドンへ渡っ
って動乱したのでもないのである。
と、友人中野の恋人との間の具体的交渉は作中になにも
分析された。大学卒業後、結核を患い生活に苦しむ高柳
た漱石は、明治三六年一月ようやく東京へ帰つた。この
れていたが、この頃本郷の通りで幌車に乗った楠緒子に
出合ったいきさつは、先にしるしたとおりである。松山
時また、漱石の精神状態はロンドン以来の異状にみまわ
落ち以前の経緯からみても帰朝後の状態から考えても、
書かれていないが、その会話などから、高柳も中野の恋
人を知っており、かの女も高柳に好意と同情を寄せてい
とたしかにいえるかもしれない。
供されたのなどは﹁もはや単なる好意を越えて﹂いる、
い﹂︵小坂氏︶て、楠緒子との間にひそかに相聞歌をか
この頃の漱石が﹁下世話に言う焼けぼっくいに火がっ
るのが明らかで、高柳の転地療養費がかの女の発議で提
けれども、高柳がかの女に恋愛を感じていたかどうか
わした、というような事態はおこらなかったと私には思
は不明である。高柳は寡黙な厭世家で、人交わりをしな
い、病的憂奮の影のある男で、須永に近い人物である。
23
な存在であったけれども、その業績は遠く一葉に及ぼな
楠緒子は樋口一葉なきあと、一時女流文壇のはなやか
考えてみたい。
われるので、以下楠緒子にっいてもその作品をみながら
に愛し合っていた男女がひきさかれ、女が死ぬという設
悲惨な死も偶然に帰せられており、作者の投影を感じさ
せない。ただ、継母の心ない一存によって、暗黙のうち
念が出ている割には可憐なお玉の描写は類型的で、その
にも描かれていて、楠緒子の好むタイプである。男の執
ない。
定には、楠緒子の内部に芽ばえたある種の悔恨が影を落
しているのではないか、という臆測がなりたたぬことも
囎楠緒子の才筆を愛した近松秋江もコ葉の如き死身
ことを惜しんでいる。
思う男をあきらめる盲女の恋の哀れを描いた一葉ばりの
猶え忘られぬもの︾一つなれ。運命の手にもてあそばれ
﹁桜鼠のひとへの袖、これにこそ我深き思しみて今も
一節がある。
随想﹁わが袖﹂︵﹃心の華﹄明三七・七︶に次のような
な処、または、きみ子のやうに地味で実質な処がない﹂
かの女が閨秀作家として世評にのぼった最初は、﹁し
作品である。
つの袖うれひある胸に抱きて、画のやうなりし彼の松
を寝ねがてに明かしけん。磯うつ浪に濡れそぼちたる二
のび音﹂︵﹃文芸倶楽部﹄明三〇・一︶という、ひそかに
この﹁しのび音﹂に及ばず、特に結末は幼稚で不自然
な作だけれども漱石との問題を考えるうえで、ちょっと
原、鴎の羽根のやうなりし彼の白帆、眺めやり眺めつく
し、その夕、みだれつる我思はさはれさすがに若く輝き
しその頃、か弱き身の苦しく煩はしくつれなくて、幾夜
興味のあるのは﹁いつまで草﹂︵﹁文芸倶楽部﹄明二九・
七︶であろう。女主人公お玉の継母の一存で縁談がこわ
たるものなりつるを、あ㌧それ将た幻より果敢なく月日
と共に、かなたへ葬り去られ、我春はとこしへに逝きし
れ、かの女に嫌われたと思いこんだ清三は、意地で別の
女と捨てばちの結婚を急ぐ。なりゆきを始めて知ったお
玉は悲嘆にくれ、折しも襲った大津波に溺れ死ぬという
ものである。主人公清三が呉服屋に似合ず憂奮で、誇り
何枚かある昔の着物の、それぞれにまつわる思い出を
つづった優しい随想であるが、﹁彼の松原﹂はどうやら興
かな﹂
高く頑固なところなど、そう思って読めばどこか若き日
の漱石を彷彿させるかもしれない。こういう男性はのち
24
さそうである。楠緒子は十年前のその夏を、﹁運命の手
憶が興津の夏の保治との恋愛であるとみてさしつかえな
りぬけれども、これはのちの楠緒子の作品にも一貫した
由があいまい不明であり、そこに葛藤のないのがものた
が自然ではないか。主人公が幼馴染の少女と添われぬ理
想から見れば、むしろ漱石を置いて先に保治と結婚した
楠緒子のひそかな心残りを、かりに男に身を変えてー
藤村が女に身を変えたようにー歌ったと解釈したほう
津をさしているかと思われる。﹁苦しく煩はしく﹂乱れ
た思いも、さすがに﹁若く輝﹂いていたという青春の追
にもてあそばれ﹂という感慨において受けとめている。
いた、亡き女の面影にちがいない。帰朝後﹁心を腐蝕す
ひと
る。非在の女とは、おそらく漱石の意識の奥底に沈んで
い女を夢の中で生かす可能性をテーマとしている。漱石
の関心は現実のかなたの非在の女にあるのであって、い
わば異次元の現実に生きうる可能性を問題としていて、
現実の三角関係や、その克服を問題としていないのであ
けれども、私の見るところでは、コ夜﹂は実在しな
なのかもしれない。
ひそかに悔恨を訴える楠緒子に、あるいはこたえた作品
ヘ ヘ へ
聞歌というにはあまりに間遠すぎる欠点はあるにしろ、
情で三角関係を克服する禅的小説﹂であるとすれば、相
作品である。﹁一夜﹂がもし小坂氏のいうとおり﹁非人
た表題をもっているけれども、まったく主題のことなる
書いた﹁一夜﹂︵﹃中央公論﹄明三八・九︶は、一見相似
いちや
この﹁ひと夜﹂の書かれた七年あと、帰朝後の漱石が
弱点で、その意味はまたのちに述べる。
かえりみて﹁幻より果敢なく﹂、わが青春の永久に去っ
たことを思う作者の背後には、あきらかに悔恨をひめた
寂蓼が流れている。
﹁わが袖﹂は明治三七年、楠緒子三十才の作であるけ
れども、夫保治の留学中、二三才の作者が書いた﹁いつ
まで草﹂のなかに、すでに三十才の楠緒子の不安がきざ
していたのだ、といえないこともないであろう。
新体詩﹁ひと夜﹂︵﹃韻文学﹄明三一・三︶は、今晩が
婚礼という日の夕暮に、幼馴染の少女に初めて恋をうち
あけて、切なく別れるという内容のものである。最後に
妻となる女の車の音が近づき、男が﹁さらばゆかましは
なしてよ/悪魔の如くなやまし∼﹂などと急に冷淡な態
ない。
度をとるのは興ぎめで、野情詩としての出来ばえはよく
﹁恋も都も打ち捨てて/思はぬ妻とたびまくら﹂とい
う一節から、﹁ひと夜﹂の主人公は松山落ちして鏡子を
癸った漱石であると小坂氏はいうけれども、詩全体の構
25
るやうな不愉快な塊﹂をいだいて周囲の現実に脅威と嫌
していて、﹁幻影の盾﹂のなかで岩上に胡弓をひく赤衣
のだともいえよう。﹁エィルヰン﹂のなかの無学文盲の
質主義的、合理主義的近代に背を向け、=心不乱﹂の
情において漱石が求めえた安息と救済のイメージは、冥
たのは、現実に対する漱石の底深い嫌悪の情である。物
騎士の時代に求めあえて不合理な神秘の世界を現出させ
の女は、このシンファイを借りている。時代を遠く古代
ジプシー娘、シンファイの﹁信力﹂の美しきを漱石は愛
悪をつのらせていた漱石にとって、それははるかな救済
のイメージであったはずである。丸顔の男も、眼の涼し
い女も、非在の女をよみがえらす、その夢の話の切実な意
味を理解しえない。﹁夢の話は中途で流れた。三人は思
ひ思ひに臥床に入る。::彼等の一夜を描いたのは彼等
の生涯を描いたのである﹂という、コ夜﹂の孤独と寂
いちや
蓼とは、﹁今宵ばかりのあひびきに人目をしのぶ木の葉
よ
蔭﹂という﹁ひと夜﹂の甘い感傷にこたえたものではな
楠緒子のハイネの訳詩﹁くらら姫﹂︵﹃明星﹄明三六・
界にある永遠の女性、亡き登世の面影であったろう。
ェ、騎士の恋を扱っているからといって、これを漱
石の﹁先行作品﹂と呼ぶことはできない。姫のロマンチ
ックな恋の相手が名をなのってみると、姫の嫌いなユダ
ヤ人であった、というような落ちのある作と、﹁幻影の
盾﹂のテーマとは無関係である。
漱石が保治の妻楠緒子と、作品のうえで相聞歌をかわ
すには、あの興津にまつわる苦いシコリが、いまだに重
くおどんでいたはずである。明治三七年の六月、漱石は
楠緒子の作品を酷評して次のように書いている。
﹁太陽にある大塚夫人の戦争の新体詩を見よ、無学の
老卒が一杯機嫌で作れる阿呆陀羅経の如し::﹂︵六月
三日付野村伝四宛書翰Y
26
いだろう。また、﹁一夜﹂と前後して書かれた﹃漂虚集﹄
の諸作が、すべて楠緒子の作品と関連があるなどとも考
えられない。たとえば﹁幻影の盾﹂も﹁莚露行﹂も騎士
の恋を扱っているけれども、マローリーの﹁アーサー王
の死﹂や、テニスンの﹁国王牧歌﹂に取材されたことは
漱石自身が語っている。漱石は﹁小説エイルヰンの批
評﹂︵﹃ホトトギス﹄明三二・八︶のなかで、﹁物質主義、
進化主義の横行する今日に、古今の迷信たる呪謁を種に
して小説を書﹂いた作者に共鳴し、﹁首尾よく灰吹から
蛇を出した﹂ことを褒めている。主人公が盾の霊力によ
って冥界の恋を成就する﹁幻影の盾﹂には、いわば﹁灰
理を忘る︾﹂の真実を二十世紀文明に抗して作品化した
吹から蛇﹂の構想がその根底にある。﹁情の切なる時は
一)
当時の漱石は大塚夫人と内密な幻想的恋愛にふけりう
るような心的状態になかったことがあきらかであろう。
漱石は寺田寅彦に宛てたはがきに、﹁水底の感﹂︵明三
七・二・八︶という新体詩を書いた。作者を藤村操女子
とし、水底深く沈んでかわす愛のちぎりをうたったもの
である。
藤村操は漱石の=口同での教え子で、二度ほど不勉強だ
といってひどく叱られたことがあるそうである。その後
教室へ出なくなり、しばらくして自殺したので、漱石は
随分心配したらしい。﹁藤村はどうして死んだのだい﹂
と一番前にいた学生に小声で聞いて﹁非常にシリアスな
︵1︶
顔をして﹂いたという、野上豊一郎氏の回想がある。操
の死後様々な伝説が生じ、自殺の原因を失恋に帰する議
論も多かったが、操の妹恭子を妻にした安部能成氏も失
︵14︶
恋説を否定せず、むしろ肯定にかたむいている。漱石の
﹁水底の感﹂にはそういう背景があった。操を女に見た
ヘ ヘ へ
てたのは、みさをという優しい呼び名のためかもしれ
ず、クラス最年少︵一六才=ケ月︶の美少年であった
といわれる印象のためかもしれない。しかし、おそらく
︵15︶
最大の理由は、漱石の﹁オフェリア・コンプレックス﹂
であろう。漱石は波に髪をひろげながら、水に漂う女の
イメージを、永遠に溺れ死んだオフェリアのイメージを
愛していた。﹃草枕﹄のなかに、スヰンバーンの水死し
た女の詩や、ミレーのオフェリアの画が出てくる。そも
とこしな
ぞも、﹃草枕﹄の結末で画工の胸中に成就した﹁椿が長
は、漱石のオフェリアなのである。﹁甦露行﹂ のエレー
えに落ちて、女が長えに水に浮いてゐる感じ﹂ の画面
ンも、また、水に浮んで流れて行く美しい乙女であった。
﹁水底の感﹂は、或日寅彦との問に操の話が出て、寅
定される。
彦が帰ってから出来た詩を、漱石が書き送ったものと推
の華﹄明三六・七︶がある。当時議論のあったいわゆる
楠緒子に、藤村操の自殺を扱った新体詩﹁華厳﹂︵﹃心
﹁哲学的自殺﹂という側面でうけとめ、かの女なりの衝
激を素直に吐露した、硬い感じのものである。
これより二年半ほど前、楠緒子は﹁みなそこ﹂︵﹃女学
世界﹄明三四・二︶という、西洋種の翻案らしい小説を
書いている。パオロという青年を愛した少女が、別の男
につきまとわれ、いさかいの最中に湖に落ちて溺れ死
ぬ。みなそこで男を恨み、パオロを恋い慕って嘆き悲し
む物語りである。少女の亡霊が語る形式をとっていて、
古い湖の藻草の底から、少女の悲しいすすり泣きが聞え
る、といった体の古伝説を作品にしたてた趣きがある。
27
これをひとからげにして受けたのは小坂氏であって、ど
づけられていたのではなかったか。
さを漱石は愛したのである。そしでその愛はおそらく、
この﹁みなそこ﹂と﹁華厳﹂とを受けて漱石が﹁水底
の感﹂を書いたということであるが、みたとおり楠緒子
がらを、心から惜しんだ若い日の漱石の切実な体験に裏
永久に帰らぬ人となった登世の、冷たく透き通ったなき
し ぬ
の二つの作品は全く別の発想と主題とから成っていて、
うも漱石ではないようである。
今、社交界の名花、大塚令夫人となり、三児の母とな
ってつつがなく生きている楠緒子は、その﹁理想的﹂な
ヘ へ
世でしか契る事のできない愛﹂に心ひかれるとすれば、
美しさに及ばなかったのではあるまいか。漱石が﹁あの
﹁水底の感﹂の藤村操女子は楠緒子を念頭において
﹁あの世でしか契る事のできない愛と死﹂とをうたって
いるのではあるまい。それは楠緒子とは別固の、漱石の
すこやかな生ま身の女のあの世の愛にではなくて、すで
に冷たい遺骸である、花ざかりの女の愛にであったろう
と思う。かくて、水と女と死とは、わかちがたい根源的
美貌にもかかわらず、漱石の眼には、長良乙女の永遠の
うちにある、オフェリアコンプレクスである。
にしたとみえ、漱石は日置長枝娘子歌、見菟負処女墓歌
﹃草枕﹄のはじめに茶屋の婆きんの語る長良乙女の伝
説が出てくる。若く美しいその乙女の水死について参考
イメージとして、漱石の内奥に沈んでいた、と私には考
えられる。
一首井短歌全体をノートに書きとめている。二人の男に
う、哀切な古物語りに漱石はかなり心動かされたらし
懸想され、どちらへもなびきかねてついに入水したとい
りと衣服よりぬけ出で﹂て、湯けむりのなかに立つとい
いという画家の念願を知り、女主人公がその場で﹁する
しおかしい。﹁湯の香﹂は湯あみしている女を描きた
一一︶を念頭においた相聞のひとつであるというのも少
なお﹃草枕﹂が楠緒子の﹁湯の香﹂︵﹁女鑑﹄明三八・
い。この長良乙女の運命に似て非なるは生きている那美
うすわらひ
さんであった。﹁人を馬鹿にする微笑と、勝たう勝たう
と焦る八の字﹂のみがあらわれている那美さんの顔は、
だから﹁女が長えに水に浮いてゐる感じ﹂の画にはなら
とこしな
う、いかにも不自然で喜劇的な味さえある作である。
のシーンがあるが、これには周知のモデルがあって、
﹃草枕﹄の那美さんにも、たしかに一糸まとわぬ浴室
ない。漱石の理想は二人の男に愛されて自ら死を選んだ
アにあった。流れに漂う長い髪と、蒼ざめた永遠の美し
という、その心優しい長良乙女、いわば日本のオフェリ
28
︵17︶
だろうか。私の印象では、﹁湯の香﹂の画工も女主人公も、
の立場で余裕を持って眺める﹂画工をはたして描いたの
こたえ、漱石は、岩に立つ那美を自然の一景として非人情
﹃漱石の思ひ出﹄によれば事実である。
﹁﹃湯の香﹄の画工が岩に立つ姫の裸身に囚われるのに
い幸せを描いていて、比較的すっきりした短篇である。
意中の理学士を思い切り、情にほだされて薬種屋の御新
在の夫に、もったいないほど大事にされている女の淋し
男と結婚した女の心境がテーマである。﹁御新造﹂は現
﹁炎﹂︵﹃明星﹂明三八・五︶は、ともに心ならずも別の
楠緒子の﹁御新造﹂︵﹃女学世界﹂明三八・一︶1
﹁神聖な美術﹂のために、裸身を描き、また描かれたもの
造になった打明け話を、級友に物語る趣向であるが、級友
の夫がその理学士であるというかすかな暗示を作者はあ
であって、囚われたのは大騒動をした侍女や家令である。
ヘ ヘ へ
る夫の執念への恐れといらだち、意中の男にも取り残さ
たえている。﹁炎﹂は、死後までも夢にあらわれ嫉妬す
漱石はたかが﹁湯の香﹂ 一篇にこたえるために、わざわ
ぎ非人情芸術観を展開したのではあるまい。非人情は当
れた佗しさなどを描いているけれども、女主人公を戦争
時の漱石が嫌悪した二十世紀の現実に対するいわば一種
の﹁防壁﹂であって、それがついにコつの酔興﹂にし
︵16︶
が二作に共通した特徴である。楠緒子の作には三角関係
未亡人にしたててごたついたうえ、テーマを拡散きせて
しまっている。心ならずも別の男と一緒になった、その
を扱うものがわりあい多いけれども、このあたりをたい
かすぎぬことも、漱石は始めから自覚している。いまだ
響の病状が一進一退をくりかえしていた漱石にとって那
古井の温泉場は、ただいっとき俗塵を逃避しうる桃源境
にほかならない。﹁汽船、汽車、権利、義務、道徳礼義
一 ﹂
弱点であって、かの女が近代作家としてよく成長しえな
かったゆえんである。ただこれらは先にみた随想﹁わが
袖﹂以後の作品であって、さすがに﹁ひと夜﹂のように
男に身をかえた感傷ではなく、女主人公を真正面にす
事情や心理の葛藤が納得のゆくように描かれていないの
で疲れ果てた後、凡てを忘却してぐっすり寝込む様な功
ていサラリと書き流していて、人物の内面的追求がきわ
めて弱い。新体詩﹁ひと夜﹂にすでに徴候をみせていた
くれする美しい那美さんが、顔に﹁憐れ﹂の表情を浮か
徳﹂のある、快よい夢想世界なのである。そこに見えか
べえた時、主人公の画工の胸中の画とともに、漱石の夢
想世界もまた完成されたのである。それが漱石の意識の
内奥にある、あの水と死と女の根源的イメージに深くつ
らなるものであったことはいうまでもない。
29
ある。たとえば、かたぶつで面白味のない夫に、女友達
はなく、また作者かも知れぬ、ということがいえそうで
せな日常がやはり淋しいのは、薬種屋の御新造ばかりで
﹁いつまで草﹂の清三に似ている。もったいないほど幸
して、﹁炎﹂の俊之助は、どこやら若き漱石をしのばせる
え、三角関係の未練を描こうとはしているのである。そ
ならずも別の男と結婚した女、というテーマに執着し、
まり保治との結婚が、本来気にそまぬわけではなかった
から外なるまい。保治との恋愛と結婚が、どこかに誤算
を含んでいたと気がついて以来、おそらく楠緒子は、心
藤の追求に淡白でありうるのは、楠緒子自身、別の男、つ
寂蓼を描いて、しかも、その止むをえなかった事情や葛
恋はれし人を今ぞ恋みる
楠緒子が意中の人とではない、別の男と結婚した女の
淡かりしとばかり春の夢さめて
からラヴレターを書いてもらい、妻がその逢引の場所へ
七・一︶など、平穏無事な結婚生活に対する楠緒子の無
出かける、という喜劇仕たての ﹁密会﹂︵﹃明星﹄明三
みずからの悔恨を、そういう形でくりかえし書くことを
とほくとほく流れて去にし春の水
る。
女が気をもんで話題を探す気づまりな会話も種がつきて
宅で落ちあった男女の微妙な心理を描いたものである。
思い思いに人の妻となり夫となって十年後、偶然知人
30
好んだのである。そこにはまた一面、﹁恋われし人を今
恋ぞみる﹂という歌の心持があったあったことも事実で
まり漱石を、﹁恋われし人﹂であったとひそかに思う、
あろう。作中かっての意中の人として想定する人物、つ
柳を暗に表明しているだろう。また、平和な毎日なが
ら、互に死んでしまった昔の相手をひそかに忘れかねて
いる二度目の夫婦が、内緒で訪れた墓地でぱったり出合
ノも、﹁あきるほど平和﹂な結婚生活に対する作者
い、それを潮に睦しくなるという﹁水たまり﹂︵明三九・
﹁淡かりし﹂春の記憶に、楠緒子の三角関係のテーマは
この頃の自画像に近いものを描いて、楠緒子らしい味
支えられてもいたのである。
水のゆくへや恋のゆくへか
﹁客間﹂︵﹁早稲田大学﹄明三九・三︶である。
わいの、またかの女としては佳作の部に入るのが短篇
この頃楠緒子は保治との結婚生活に満たされぬ思いを
カ章世界﹄明三九・五︶と題して次のような歌があ
て、ふりかえっていたのではなかったか。当時﹁暮春﹂
深め、青春の一時期をようやくあきらかな悔恨をこめ
のもだえを感じとれないでもない。
一)
(『
緊張がみなぎり、とうとう男が何事をか告白しようとし
たそのとたんに、障子が明いて主人夫婦が入って来る。
﹁それで無事に男と女とは生き存らへて居るのである﹂
力があって、心と心とは確かに通じて居る筈であったも
の気持を幾分軟化させたかもしれない。漱石が弟子達の
のを:﹂というような﹁客間﹂の一節は、あるいは漱石
間﹂にあったかもしれぬ。大塚夫人としては相当思い切っ
かもしれない﹂と笑って話したという根嫁は案外この﹁客
た告白であることを、漱石は承知していたと考えられる。
前で﹁︵興津へ︶同道していたら俺は楠緒子にほれられた
に制しきれず何事をか告白しようとする男は、楠緒子の
小坂氏によると、萬朝報に連載した楠緒子の﹃露﹄
というのが一篇の結びである。
あらまほしき漱石の面影であろう。この時男の告白を望
むっつりと口数すくなく、あらぬ方を眺めていて最後
むのは作家楠緒子であるが、障子をサラリと明けたのは
対する愛の告白がある﹂という。
神坂博士を偶像的に崇拝しているが、いつしか恋心とな
り、或夜かれが﹁轟と身を擦り寄せ﹂﹁貴嬢私の細君に
小説ということを意識したのであろうが、こういう調子
女学生風俗がしのばれる程度の通俗小説であって、新聞
とがからむというストーリイである。要するに、当時の
とめでたく結婚する。これに鈴音の親友鎮子の悲恋と死
緒子の願望がよみとれるということである。その後、神
坂が外国婦人と関係のあることを知って、鈴音の夢はい
っきょに崩壊し、かの女は以前軽蔑していた番頭の慶作
るような通俗的シーンであるが、この﹁艶なる夢﹂に楠
成らんですか﹂と手を握ってささやく夢をみる。辟易す
ひし あなた
女学生の鈴音は、洋行がえりで博学明晰、眉目秀麗な
︵明四〇・七1九︶にかの女の ﹁決定的に大胆な漱石に
明敏な大塚夫人楠緒子である。こういう軽快な処理に、
︵3︶
﹁作家といふより聡明な文学的令夫人﹂という評のでて
くる根糠もあるのであろう。ところで、漱石が楠緒子の
いう意味の単純な﹁恋われし人﹂でなかったことはみ
てきたとおりである。しかし面白いことに、この短篇
﹁客間﹂は漱石の注意をひいているのである。明治三九
年三月三日野村伝四宛のはがきで、﹁筆が器用に出来て
居る。苦る文章を考へたものであります。思ひつきもわ
︵ マ マ ︶
るくありません。あの人の作としては上乗であります。
三小説のうちの傑作﹂と、他の小栗風葉、小川未明の作
に比して相当な点数をあたえている。だいたいこの前後
から、漱石の楠緒子に対する態度は少しづっ変化してき
た模様である。たとえば﹁此恋は語ったのでは無い明か
したのではない。然れどもただ其処に、室を貫く神秘な
31
いで、俗物才子に格下げするような真似は、できないの
の作品のなかで内密な愛の告白をするなど楠緒子の聡明
が許さないであろう。それにもし神坂博士が心中ひそか
に愛する人の面影であるならば、最後にかれの仮面をは
が普通でる。
﹃露﹄にこたえた﹁漱石の愛の決定的傍証﹂なるものが、
ヘ ヘ へ
﹃露﹄が愛の告白などと無縁な作品であることは、
小坂氏の深読みであることをいえば、さらに確実となる
だろう。
﹃露﹄発表中、漱石が松根東洋域にあてたはがきに、
﹁男女相惚の時什籔﹂﹁天竺二向ツテ去レ﹂など、禅問
答風の文句がある。小坂氏はこれらをいちいち漱石が楠
る。翌日また東洋域がもらったはがきに、﹁心中するも
三十棒/朝貌や惚れた女も二三日/心中せざるも三十
棒/垣間みる芙蓉に露の傾きぬ/道へ道へすみやかに道
へ/秋風や走狗を屠る市の中﹂というのがある。悟道の
る。﹁心中﹂という言葉を東洋城がその頃口にしていた
老憎よろしく語りかけることで、漱石は若い東洋城をい
たわり、元気づけるための心づかいをしていたようであ
ことは漱石の六月二四日付のはがきに﹁心中は美である
由御尤に存候::﹂とあるのをみてもわかるが、八月二
六日に﹁以来心中ヲ論ゼズ。閑アラバ女ヲヌキニシテ尻
ヲ端折ッテ来レ﹂と書き送っている。同日、さらに重ね
て別のはがきで、﹁無暗に心中杯を思ふ勿れ。神経徒らに
緒子の愛を﹁はっきり知った事を示す﹂とか﹁二人の愛
できる。これらのはがきについては、東洋城に﹁妻もた
衰弱す﹂とあり、漱石の細やかな心づかいを知ることが
ぬ我と定めぬ秋の暮﹂の句のあることからおして、当時
が現実では成立し得ない﹂﹁禁忌的恋愛であったことを
告げている﹂とか解釈しているけれども、これは実は漱
﹁黒い煩悶が東洋城の胸中を領していたようだ﹂と徳永
月十一日付の手紙以降は﹁大塚楠緒子様﹂と書かれい
て、内容もかなりくだけてきているが、大塚御奥様と書
なお、つけ加えれば漱石が﹁露﹂の新聞掲載を交渉し
て楠緒子に宛てた、四十年七月十二日付の手紙は、﹁大
塚御奥様﹂という改まった宛名になっている。四一年五
山冬子氏がのべている。
︵18︶
石の恋愛ではなくて、東洋域の恋愛なのである。先のは
日にも東洋域にはがきを出していて、﹁漱石易断二日ク
がきの署名には﹁夏目道易禅者﹂とある。漱石はこの前
全然無罪。安心安眠ヲ可トス。先方デ何トカ云ッタラ屍
ヲカマスベシ﹂とある。二つのはがきにはあきらかに連
続性がある。愛弟子の東洋域がこの頃思案にくれて、漱
石のところへ持ちこんだのが、恋愛問題だったわけであ
32
いていたこの当時の漱石に﹁ほれられたかもしれぬ﹂と
かの関連をみいだすことはできない。
ヘ ヘ へ
〇・九︶という作があり、漱石の独特な盲人嫌ひに何か
関係があるか、とちょっと思わせる。﹃彼岸過迄﹂にも
また、この頃の楠緒子に﹁盲目﹂︵﹃中央公論﹄明四
﹃行人﹄にも異様な失明者があらわれるけれども、﹃夢
十夜﹄第三夜に象徴的にあらわされたように、盲老は漱
いう受動態があったとしても.能動態を考えることはで
楠緒子に﹁虞美人草﹂︵﹃心の華﹄明三九・七︶という
である。この漱石における盲人恐怖が、漱石研究にのこ
石の深層に沈む、暗い罪障感とかかわる陰惨なイメージ
きにくいだろう。
れそれの嬰栗の花に自分の運命を占う話で、 一夜の雨に
は し
いであろう。
が、いかに次元を異にしているかはすでに説明の要はな
楠緒子における盲ひの意味と、漱石における盲者の問題
るその娘夫婦の情景とを交互に描いたものだけれども、
結局﹁病に盲ひた二つの月と恋に盲ひた四つの眼は、ば
たりとあっても気づくまい﹂という結末でとちている。
て、尺八を吹きながらさまよう盲目の老人と、安宿にい
楠緒子の ﹁盲目﹂は、男と駆落ちした一人娘を探し
されたコ大突破口﹂であるという意見さえもある。
︵19︶
作があり、漱石にも周知の同名の小説があるので、何か
意味ありげな印象をあたえる。楠緒子の作は、ひとりの
海軍士官の花嫁になることを空想する姉妹の少女が、そ
二人の花がむざんに散った朝、その士官も戦死してしま
うという、まず少女小説の類いである。これが漱石の
﹃虞美人草﹄とどのような関係もないことはいうまでも
ない。
﹃虞美人草﹄予告 ︵﹃東京朝日新聞﹄明四〇・五・二
八︶には、﹁昨夜豊隆子と森川町を散歩して草花を二鉢
買った。植木屋に何と云ふ花かと聞いて見たら虞美人草
だといふ。折柄小説の題に窮して、予告の時期に後れる
のを気の毒に思って居ったので、好加減ながら、つい花
の名を拝借して巻頭に冠らす事にした﹂とある。自分の
五︶という長篇がある。当時朝日新聞の文芸欄を主宰し
楠緒子にはほかに﹁空薫﹂︵明四一・四、続篇明四三・
体にもたしかに漱石調がある。﹁動詞現在終止形の結び
る。漱石の﹃虞美人草﹄を模したといわれた作品で、文
ていた漱石のすすめで、朝日新聞に連載されたものであ
小説の題名を弟子にまかせたことのある漱石だから、こ
れも本当のところかもしれないが、﹃三四郎﹄のなかの
け し
﹁寂箕の嬰栗花を散らすや頻なり﹂から来ているという
謙じ面白い。いずれにしろ楠緒子の﹁虞美人草﹂と何等
33
に愛される輝一が、中学、一高を優等で卒業し、漱石と
る憾なきしにも非ずであるが、恐らくこれほど漱石調は
︵3︶
ないであらう﹂といわれている。小坂氏は女主人公雛江
方、会話の運ばせ方等、勿論多少は慮を描いて猫に堕す
上ならではと存じ凡て差控申候﹂という手紙を楠緒子に
連載がはじまってまもなく、漱石は、﹁文章に御苦心
の様に見受申候趣向は此後如何発展致し可申や御完結の
う。とく,に後篇がよくないα
きよ い よ
送っているけれども、最後に女主人公のラヴシーンにち
ょっと触れ、﹁今迄ノウチデ一番ヨカッタ﹂と書いてい
漱石調の文章を苦心して書き、漱石への敬愛を隠して
いない友人の細君に対する、漱石としてはいきさか得意
る。
な応対である。朝日新聞入社以来の漱石は、須永の病
題にしているけれども、何しろ文体を真似て書くくらい
同じ頃母を失い﹃坊っちゃん﹄の清と一字違いの伊予に
愛されている。などの類似をみて輝一、漱石の暗合を問
無意識の一致や模倣は、いくらでもおこりえただろう。
的憂諺をようやく脱していたはずであって、松本が、
の歴然たる傾倒ぶりだから、ディテールにおける意識・
楠緒子は漱石の妻鏡子、長女筆子の名前さえ拝借してい
かれたとも、私には思えないのである。
鳥﹄の紫の帯上げの女や、﹃夢十夜﹄の白百合の女が描
﹁空薫﹂のラヴシーンを﹁直接的モチーフ﹂として﹃文
て、愛の﹁吐息﹂であるなぞと読まなくてもいいし、.
う。したがって、﹁一番ヨカッタ﹂という一句をとらえ
としての漱石が、気嫌をよくしているのは当然であろ
て、朝日の主筆池辺三山さえ褒めていたという。推薦者
ていたのである。また﹁空薫﹂は当初一般に好評であっ
﹁一口に言へば、もっと浮気にならなければならない﹂
と忠告した、その意味の﹁浮気﹂を愉しめる漱石になっ
るくらいである。︵﹁白馬﹂﹁来賓﹂︶輝一が﹁野分﹂の中
野輝一と同名であってもさして不思議はない。これを深
刻に理解し、漱石の愛嬢ひな子が輝一を愛した雛江から
の命名であるとするなどは、相聞説のゆきすぎである。
漱石の五女ひな子は、三月二日雛祭の宵に生まれてひな
子と名づけられた。ちなみに﹃彼岸過迄﹄に書かれたひ
な子は宵子と呼ばれている。
ともあれ、楠緒子はこの派手で驕慢なヒロインを懸命
に追い、かなりの才筆をみせて奮闘している。雛江は藤
尾を念頭においたのであろうが、結局、利害にさとい淫
婦型の女を作りあげ、ゴテゴテと筋を仕組みすぎて、通
俗臭のある失敗作に終ってしまった、といっていいだろ
34
﹁空薫﹂の雛江とは似ても似つかの、たをやかな﹃文鳥﹄
年の漱石が起居をともにしたことのある美しい女性は、
そらく日常をともにした者のもつ親密な空気である。青
鏡で光線のいたずらをした思い出によっても、それはお
暗い冥府に住まう登世であろう。﹃永日小品﹄の女が主
なほど強く誘いゆく運命の女は、この世の女ではなく、
る。永劫のかなた、はるか世界の根源へむかって、残酷
自分を従えてゆく女の持つ、一種残酷な力と同じであ
小品﹄の、百年前から自分を待っていて、百年の後まで
度逢いに来ますから﹂と命令し、断言して死んでしまう
女性は、あるいみで残酷であるといえる。それは﹃永日
る。﹁百年、私の墓の傍に坐って待っていて下さい。屹
と聞き返す主人公の態度には、やはり特殊な親しさがあ
楠緒子ではなくて艘の登世であった。また、いたずらを
した主人公にくらべれば、あきらかにおとなびている
人公を導いてゆく、﹁細く薄暗く、ずっと続いてゐる﹂
の女の記憶には、私の感じではある親密な空気がただよ
っている。座敷で仕事をしていたその女に、裏二階から
﹃文鳥﹄の女の記憶は八才年下の楠緒子であるより、あ
露路は、はるか冥府へつづいている路であるはずであっ
て、漱石が幌車に乗った楠緒子と出合った、本郷辺の小
った﹂という一行は、角川源義氏のいうとおり、今は死
んだ、と読みかえてさしつかえないものであろう。
路ではないであろう。﹃永日小品﹄の女と﹃硝子戸の中﹄
によめのほうであったと思われる。﹁此の女は今嫁に行
誰もこない﹁伽藍の様な書斉﹂へはいって、﹁筆の音
の淋しさという意味﹂を朝も昼も晩も感じていたという
つの出合いの差異である。﹁はっと思って向うを見ると
﹁待ってゐた﹂女であるが、楠緒子は遠くから次第に近
ヘ ヘ ヘ ヘ へ
の﹃永日小品﹄の女は ﹁百年前の昔から此処に立って
ヘ ヘ へ
五六間先の小路の入口には一人の女が立ってゐた﹂、そ
の楠緒子との違いをなお象徴的にあらわしているのは二
﹃文鳥﹄の主人公は.家庭的に深い孤独の中にいる。そ
こにおいて唯一の救済のしるしであった白い小鳥には、
かってわが身辺にあって、ゆきとどいた面倒をみてくれ
ひと
ついてきて、﹁鄭寧な会釈を私にして通り過ぎた﹂女で
ヘ ヘ ヘ ヘ へ
あった。明るく機智にとんでいたと聞く大塚楠緒子は、
た女の優しい面影があったのではないか。
力をどうやら持たなかったようである。
﹃永日小品﹂の女のような、存在の闇への底知れぬ吸引
ごろに枕の傍へ口を付けて﹂﹁死ぬんじゃなからうね﹂
長い睡の間から涙を一筋ほほにつたわせて死ぬ、あえ
かに悲しい﹃夢十夜﹄の女性は、漱石二五才の夏、とこ
ひと
しえに帰らぬ人となった、その女登世であろう。﹁ねん
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指導した時のような、遠慮のない懇切な指導をあたえな
がうように不帰の人となった楠緒子への哀傷は、病床の
た。胃潰瘍の大吐血で九死に一生を得た自分と、すれち
数日、楠緒子のことが念頭をはなれていないらしいこと
漱石は小説家としての楠緒子に対して、野上八重子を
かった。八重子にあたえられた忠告をみれば、作家とし
子は、その時、冥府の女のひとりとなって、漱石のなか
れていたが、﹃それから﹄・の三千代はあきらかにこれと
不信の念が﹁草枕﹄﹃虞美人草﹄﹃三四郎﹂の女性達に流
のである。その意味ではこれもまた楠緒子への手向けの
緒子とかかわった自己の青春の意味を検証しようとした.
石は大患後の第一作﹃彼岸過迄﹄に須永と千代子とを描
の根源のイメージと和解したのではなかったか。追悼の
句に漱石の恋を感ずる人があっても不思議はない。生前
の楠緒子と相聞歌をかわすことがなかったかわりに、漱
によ,っても伺える。かって長良乙女に及ぼなかった楠緒
ての漱石が楠緒子の作に言うべきζとは、充分あったと
思われるけれども、漱石は最後までそれをしなかった。
別な﹃文鳥﹂﹃夢十夜﹄﹃永日小品﹄の女の延長上にあ
る。けれども、漱石が三千代を友人の妻として﹃それか
作といえるかもしれない。
その甘さが逆に、興津のシコリをついに消しえなかった
ことの証嫁であろう。記憶の底に沈澱した、漠たる女性
ら﹄の恋愛を構想した時、楠緒子の存在が全く念頭にな
須永と千代子はさらに﹃行人﹂の一郎と直に発展する
いで、異った条件を設定しながらも、本質においては楠
かったかどうか。おそらく﹃それから﹄.は漱石に対する
ヘ へ
楠緒子のあらわな敬愛という事実を土台にして着想され
けれども、直は二郎にとって艘でもある。﹃それから﹄
千代のイメージに連なりながら、窮極において先生に信
における二重焼きは、ここでは具体をそなえた二重関
係とーして構想されたことになる。﹃心﹂の静は一面三
ていると思われる。漱石の内奥に住む父母未生以前の女
のイメージと、現実のなまなましい可能性としてある三
ら﹄の恋愛はなりたったものと思われる。その独創的緊
角関係の、いわば想像上の二重焼きによって、﹃それか
分身であるといえよう。
頼されぬ女性である。そして先生とKとはともに須永の
やはり艘登世と楠緒子とは、漱石作中の三角関係を補
張が、﹃それから﹄を﹃三四郎﹄から飛躍させ、そこに近
やがて明治四三年十一月、楠緒子の思いもかけぬ早世
完的,に形づくっているようにみえる。漱石における暗い
代小説としての実質を保証したものではなかったか。
にあって驚いた漱石は、愛惜をこめて手向けの句を作っ
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である。
三角関係の宿命的二重性という観点に執着したいゆえん
注
︵1︶ ﹁夏目漱石﹂﹃ 明 治 大 正 文 豪 研 究 ﹂
︵2︶ ﹁物故文人独談 議 ﹂ ﹁ 随 筆 明 治 文 学 ﹂
︵3︶ ﹁明治女流作家 ﹂ ﹃ 明 治 女 流 作 家 論 ﹄
︵4︶ ﹃漱石・鴎外・ 藤 村 ﹄
︵5︶ ﹁﹁有る程の菊抱げ入れよ﹄小考﹂﹃近代文学の明暗﹄
︵6︶ ﹁﹁野分﹄の構図i作家漱石の原点−﹂﹃言語と文芸﹂
︵7︶ ﹁ある相聞歌−漱石と大塚楠緒子ー﹂﹁文学﹄昭四七.
昭四六・三
七
︵9︶ ﹁漱石山房の人々﹄
︵8︶ 柳田泉﹁座談会明治文学史﹄
︵10︶ 昭和三三年八月二二日談﹁近代文学研究叢書11﹂
︵11︶ ﹁漱石の病跡﹄
︵12︶ 平岡敏夫﹁﹁彼岸過迄﹂論−青年と運命ー﹂﹁文学﹄昭
︵13︶ 比較的評価の高いのが塩田良平氏で、﹁作家としては一葉
四六・一二
の下位にあるが、気品に於いて睦子と対立し、知性に於いて
稲舟の好情を圧してゐる優れた作家﹂であるという、評価の
﹁樋口一葉や田村俊子の足許にも及ばなかつた﹂とある。﹃日
低いのは吉田精一氏で﹁近代女流作家中のまつ三流以下﹂
本女流文学評論﹄
コ く セ コ ユ
︵14︶ ﹁我が生ひ立ち﹂
︵15︶ ガストン・バシュラール﹁水と夢﹂︵小浜俊郎・桜木泰行
︵16︶ 重松泰雄﹁濾石初期作品ノートー草枕の本質ー﹂﹁日
訳︶
本文学研究資料叢書・夏目漱石﹄
︵17︶ 小坂氏はこの作が﹁霊の感懸﹂を描いて漱石の﹁琴のそら
音﹂の﹁刺戟済﹂になったというが、何かの間違いではない
だろうか。のちの﹁客間﹂が﹁心中を示咬している﹂とい
︵18︶ ﹁夏目漱石より松根東洋城へ﹂﹁文学﹄昭四一.=﹂
う意見も、・同様である。
︵19︶ 北垣隆隔﹃漱石の精神分析﹂
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