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贄の王

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贄の王
■連載小説『贄 の 王 』
第
贄の王
(四)
回■
紫の光を宿した水晶球が破裂した。
遠藤徹
endou touru
千路に乱れ飛んだ破片は、紫の尾を引きながら呪師弦海の体を通り抜けた。
敵意に尖る幾千もの切っ先であった。にもかかわらず、弦海を蜂の巣にするこ
とはできなかった。あたかもそこに、
弦海の肉体など存在しないかのようだった。
触れることすらできずに、水晶球の破片どもはすり抜けてしまった。摩擦すらな
かったようだ。勢いを失うことすらなかった。そのまま無数の切っ先となって凶
暴に突き進んだ。そして、背後に控えていた侍官や警備兵たちの肉に深々と刺さ
った。奥深くへ と 潜 り 込 ん だ 。
「凶々しい毒の味じゃ、実にあやうい」
背後のあちこちであがる悲鳴なぞ聞こえぬかのように、瞑目して結跏趺坐した
ままの弦海が呟く。白い呪幕衣から伸びだす弦海の顔や手足は、孵化したばかり
のオタマジャクシのように半透明にすき通っていた。しばらくすると、頬には朱
がさし、再び色白の肌の表情が戻ってきた。それでも、弦海の体の色は不安定だ
った。感情の動きに呼応するかのように、ときに色を失ってほとんど透明にまで
近づいたりする の だ っ た 。
「何事でござい ま す か 」
弟子の碑都耶が悲鳴のように甲高い声で問いかけた。紫の破片に右目を潰され
て眼漿を滴らせていた。残されたもう一つの眼球は、自分が最前見てしまったこ
とを受け入れることができずにわなわな震えていた。
あってはならないことであった。
あってはならないこと、起こるはずのないことが、けれども起こってしまった
1
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のだ。
弾けたのは古き方々から授かった水晶球であった。かつて、厳しき修行成就せ
し弦海翁の元に、古き方々のおひとりが顕現なされたのだ。
「よくやった。その愚かさみごとなり。褒めてつかわそうぞ」
そんなお言葉とともに、古き方々のお一人は、自らの眼球を眼窩からはずされ
た。そして、
「これでせいぜい現世の栄華をむさぼるがよい」
意味ありげな見下した笑いとともにその眼球を、いや水晶球を賜ったのであっ
た。一見すればただの涙球である。超越者の涙が凝ったものである。実際、舐め
るとしょっぱくもあった。けれどもこれを弦海が操ったとたん、その中心からは
高貴なる紫の光が湧きいずる。そして、弦海の求めに応じて、あらゆるものごと
を映し出した。この世のできごとで見通せないことはないと言われていた。
新しき者どもの忌まわしい姿を初めて映し出したのも、この水晶球であった。
その姿を見たものは、あまりの嫌悪感に腸が煮え立ち、心の臓が破裂し、脳髄が
かゆみにのた打ったということだ。たとえば、かつて弦海の愛弟子であり、稚児
のひとりでもあった愈壬憎は気がふれた。新しき者どもが日ごと夜ごと自分にの
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しかかる。いたるところから自在に自分を押し開き、挿し貫き、尖った歯で甘噛
みし、悪臭にまみれた舌で嘗め回すという妄想に囚われてしまった。いまだにそ
の地獄から抜け出ることができずにいる。男とも女ともつかないこの世ならぬ美
貌をもっていたこの愛弟子の発狂は、誰よりも弦海にとって痛手であったといわ
れている。今でも弦海は、狂った愈壬憎を手放す決意がつかない。自らの寝所に
作らせた檻のなかでは、恐怖と快楽に悲鳴とよだれを垂れ流す若者がのたうち暴
れている。発音することも聞き取ることも不可能な新しき者どもの名を喉からで
はなく、腸から連呼しつづけているという。
新しき者どもの姿を見ていない。
それゆえ元老院議長の座にある璽椰鵡はまだ、
「ごらんになり ま す か 」
少し意地の悪い口調で、弦海に尋ねられはした。けれども、用心深い璽椰鵡は
首を横に振った 。
「見ずにすませられるうちは見ずにおこう」
そうはいいながらも、璽椰鵡も弦海の水晶球を大いに頼りとしていた。今朝も
弦海は、璽椰鵡からの命によって水晶球を取り出したのだった。極上の贄を献上
した後の現世の流れを読もうとしていたのだった。通常であれば、三つの艶媚孔
をもつ娘を捧げられた古き方々がお喜びにならぬはずはない。献上と時を同じく
して、大空一面に喜びを示す雷網が張り巡らされるはずであった。そして喜悦の
涙と呼ばれる宝物の雨が降る。宝物が武器が珍菓が酒肴が欲する者の上に降り注
ぐ。それから献上者の望みが聞き届けられる。そう、たとえば今回であれば、あ
のぬらついた濡巴の屋敷が天がける龍の姿を取った雷弾の群れによって完膚無き
までに破壊されるはずであった。
ところが、喜ばしい日であるはずが、朝から空は煮詰めすぎた鍋のようにどん
よりと濁っていた。かつて見たこともない赤緑の蘚苔類のような雲が、皮膚病の
ように天をぐねぐねと這い進むのが見られるばかり。そして、占いの呪を唱えた
途端、水晶球、いや古き方々の眼球が絶望にもっとも近い音を発して破裂したの
だ。
「忌まわしき力がこの国に入り込んでおる。その力は強大じゃ。もはや長年の慢
心で腐りきった古き方々に、これを覆すことはかなわぬのやも知れぬ」
呪師弦海の体は、初めて水晶球のなかに新しき者どもの姿を映しだしたときの
ことを思い出す 。
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「あの目は、確かにわしを見ておった。お前のことはなんでも知っておるぞと語
っていた。お前がこれまでにやってきた人に言えぬ行為の数々を、と」
忌まわしい力はわしを飲み込もうとしていた。わしを虜にし、壊してしまおう
としていた。じゃから、わしは代わりにわしにとって最も大切であったもの、す
なわち愈壬憎を差し出したのじゃ。哀れ愈壬憎は、わしの代わりに壊れ物となっ
た。みごとなまでに身も心も冒し尽くされた。
けれども、と弦海は不敵に微笑む。実体をもたないわしの体には、さすがの邪
まな力も作用を及ぼしがたいようじゃ。水晶球が割られたのはその腹いせであっ
た。そう、あの者どもは、常にわしの中身を吸い上げようとしておる。皮一枚を
残して、中身をすべて吸い尽くそうと。けれども、それも詮無いこと。
弦海の笑みには理由があった。弦海は離脱者だったのだ。修行の果てに肉体の
制約を脱したのだった。肉の欲に駆り立てられてやまなかった扱いづらい肉身だ
った。相手の性別など問わなかった。ただただ貪り、そして壊してしまうこと。
それをやめることができなかったのだ。その欲動のせいで、若き日の弦海は、ず
いぶんな所業を繰り返した。人の道に反することを、それが人の道に反するから
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という理由で繰り返した。けれどもそんな暮らしにも飽きた。もうたくさんだと
思った。だから、脱俗したのだ。だから、欲望にたぎり狂って手に負えない肉身
は山で獅子虫どもにくれてやったのだ。おのが身を食らわせることで、弦海はそ
れらの獅子虫たちへの支配力を得た。捨てられた弦海の肉身にはそれでもまだ痛
みを感じる力が残っていたようであった。獅子虫に掘られる痛みにあえぎ苦しみ
ながら、弦海の肉身は、さっさと抜け出した弦海の霊体を恨めしげに睨んだ。睨
みながらのたうちまわった。弦海は動じなかった。それを見つめるのもまた修行
であると観じて、弦海はおのが肉身の末路をその傍らで見送ったのであった。
「 早 く 手 を 打 た ね ば。 こ の 現 世 そ の も の が べ ろ り と め く ら れ て 裏 返 さ れ て し ま う
やもしれん」
璽椰鵡はここにはいない。けれども、璽椰鵡はこの情景を見ている。
弦海は祈祷所の壁や地面に延びだす奇妙なかたちの茸がぷるんぷるんゆれてい
るのを確かめた。傘の中心に濁ったガラス玉のようなものが入っているのが目玉
茸、傘を集音器のように巻いているのが耳茸だった。これらの茸は、今では国中
いたるところで見ることができる。摘み採って食うと告白衝動に駆られる。もっ
とも恥ずかしいこと、誰にもいわずに死んで行こうと思っていた秘密をげらげら
笑いながら大声で語ってしまうことになる。だから、誰もこれを摘んで食おうと
するものはいない。そんなわけで、今ではどの邑の路傍にも建築物にもこの茸が
びっしり貼り付 い て い る 。
これもまた古き方々から賜ったものと聞いている。古き方々の排泄物から生え
出たものだともいうものもある。なんにせよ、これらの茸たちはすべて璽椰鵡の
目であり耳であるのだ。ひとつの場所に居ながらにして国中のできごとを同時に
見通せるようにと、古き方々はこれを璽椰鵡に賜ったのであった。
「さて、どう出るつもりじゃ、璽椰鵡」
耳茸を通して弦海の言葉は、確実に璽椰鵡に届いている。
「この力を相手では身欠獣ですら犬ころ同然。現世の主よ、どういう手段を講じ
るつもりじゃ」
長きにわたった璽椰鵡の支配の長所も短所もすべて見てきた弦海だった。先読
みの水晶球のおかげでずいぶんと璽椰鵡に重用され、権勢をほしいままにしてき
た。
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思えば、修行を終えたあのとき、そこにはすでに璽椰鵡の使いが待ち受けてい
たのであった。豪奢に飾り立てた籠の帳が開かれると、そこには素裸の娘ら、そ
して美しい容貌の少年たちが微笑んでいた。
「ようこそ、水 晶 球 の 主 よ 」
璽椰鵡が微笑 ん で い た 。
「これでは解脱した意味がないではないか」
口ではそういいながら、弦海の目はすでに、少年たち少女たちを矯めつ眇めつ
品定めしていた。捨ててきたはずの黒い欲望が、再び煮え立ち始めたのを弦海は
知った。こうして、解脱者は招きいれられたのだった。
「悟りし者こそ、堕ちる悦びに焦がれるもの。捨てし者こそ、より強く欲するも
の。そうであろうが、弦海よ。爾後は超越せしその力でわれを支えよ。この世の
栄華、ともに味わい尽くそうぞ」
そんな言葉に、弦海はにやりと笑った。結局己の本質は変えられぬと思い知ら
された。肉身を捨てたというのに、捨てて解脱したというのに、それでも弦海の
精神は激しい欲動をいささかも減じてはいなかったのだ。
「なんと」
苦笑しつつ、弦海は自嘲した。
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「肉に淫し、悪徳に耽じておったのは、わが精神のほうであったようじゃ。わが
肉身はその精神に操られておっただけ。なんとまあ、わが肉は無駄に捨てられた
だけであったと は 」
黒い僧が大笑し、つられて璽椰鵡も贅肉をぶるぶる震わせて笑った。
「愚かなる修行者とは、まさに古き方々はよく見ておられる」
なるほど、璽椰鵡と弦海は似ていたのだ。あたかも車の両輪のごとくに。
爾後、弦海は当然のごとく、その超越力をもって権力に奉仕し、謀略に加担し
た。裏切り者をあぶり出し、刀と槍を向けるにふさわしい弱みをもつ敵を探りあ
てた。古き方々のご機嫌をうかがい、贄を差し出すべき適期を告げた。璽椰鵡の
権勢は磐石のも の と な っ た 。
弦海は、その見返りをあっさりと受け入れた。再び欲望の世界に溺れた。解脱
者の身での放蕩は、生身のときに倍する快楽を伴った。その悦びを知らずに死ん
でゆく他の解脱者どもを、弦海は笑った。ばかりか、自分以外の解脱者は、璽椰
鵡をそそのかして迫害した。彼らが死の瞬間に吐き出す生気を、己が力として吸
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い取るためだっ た 。
けれどもそれも終わった。このときが来ることも、弦海は最初から予期してい
たのだ。だからこその放蕩三昧でもあったのだ。
もはやこれ以上未来を見ることはかなわぬだろう。土砂崩れで通行不能になる
山道のように、未来への道は断たれた。靴底で踏み潰される毛虫のように、自分
を支えてくれていた力が巨大な力に屈しようとしていた。まったく別の新しい力
の前に。来歴も知れず、その正体を見ることを目が受け入れられない者ら。けれ
ども間違いなく、血を好み悲鳴を心地よいと感ずる者らの前に。
(第 回 了)
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