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美術教育学のあ り 方と課題*

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美術教育学のあ り 方と課題*
美術教育学のあり方と課題*
一美術教育学についての試論(その一)一
鈴木寛男・鈴木幹雄**
(美術科教育教室)
目
次
はじめに
(4.2) 美術教育と訓育・陶冶・訓育的教授
(4.3) 美術教育と教授=学習
(4.4) 美術教育と美学的・芸術学的認識の芸術教
今日の美術教育の課題
芸術教育学の一領域のしての美術教育学と、美術
教育学の理論的構成要素としての芸術教育学と美
術教科の教科教授学
4.芸術教育学とその課題
育学的方向転換
(4,5) 美術教育と美術史学的認識の芸術教育学的
方向転換
(4.1) 芸術教育学とその課題
(4.6) 美術教育史研究の役審1」
1.はじめに
芸術教育による自律的な人間の形成という、近代的な意味での芸術教育観は、F.シラーによ
りほぼその理論的な基礎が確立された。(1〕シラーのそれはH.リードの芸術教育観に影響を与え、
リードを通して日本の美術教育に多大な貢献をしたと言える。しかし、厳密に言えば、シラーの
芸術教育観は、その新人文主義的な理念以外の点では、日本の具体的な美術教育に決定的な影響
を与えた訳ではなかった。日本のそれは、チセックやバウハウス等の実践から多くを学び、それ
を応用的に発展させてきたのである。
その意味で、日本の美術教育は、二三の美術教育理論により軌道修正をせまられることがな
い程の伝統を蓄積してきていると言えよう。しかし、同時にそこには経験主義の限界も含まれて
いた。今日、美術教育の可能性を拡大する為には、美術教育それ自身を学校教育の中で十分に開
花させることと並んで、より学問的な視点からその必要性・可能性・原理・方法を明らかにする
ことが求められている。本稿は、未だ未形成である美術教育学に関する試論である。なお現段階
に於て諸々の異論があるものの、本稿では、「美術教育」という用語は、図画工作・美術・工芸
教科の教育を包括的に表わすものとする。
2.今日の美術教育の課題
かって、元東京教育大学教授の高橋正人氏は、美術教育の課題について次のように適切に語っ
た。 r普通教育における美術教育には、現代的な重要性を持つ二つの意味がある。一つは芸術的
活動・技術的活動を通して、頭脳による思考的活動だけでは得られない新しい人格を形成しよう
とする考え方であり、もう一つは、人間の感覚や、能力の中で造形的活動によらなければ、発展
* Bi1dende−Kunst−P葛dagogik(Pedagogy of Art Education)and its tasks
−Considarations about the Bildende−Kunst Pるdago自k (I)一
**Hiroo Suzuki (Department of art Education)&Mikio Suzuki
一53一
させることのできない部面のものを、のばそうとする考え方である。」{2〕
この一節の中に、今日の美術教育の本質的な課題がかなり的確に言い表わされている。今日、
60年代の高度成長を経る中で、青少年を取りまく社会、文化、住環境が大きく変動し、それに伴
って、人間的な感性、感受能力、生活意識、教養といった人格の根底部分が崩壊してきている。
そして、マス・コミによってもたらされた視覚的メディアの商品化は、それに大きな作用を及ぼ
した。美術、造形に関わるこのような現象を、今一度文化史的に振り返ってみる時、美術教育の
本質的な課題をその二点で把えることが如何に重要かが解る。
しかし、その二つの課題は並列的に扱ってよいのであろうか?答えは、否である。高橋氏の見
解は、この点について芸術教育学的に十分な解答を与えることができなかったものの、意義深い
言及をしている。r現代の美術教育に関係するものとしては、ただ習慣的に、絵とか、粘土細工
とか、木工とかを子どもにやらせて、何かはっきりしないが精神的に得るところがあるだろうと
漠然と考えたり…・・・…することから一歩進んで、子どもの造形感覚や造形能力を分析し、それを
十分に成長させるためのいろいろな方法を探究することが、必要であろう。」{3〕(中略一筆者)
われわれは今日、その二つの課題について、子供の生き生きとした自発性と創造的な精神を引
き出すような美術教育をつくり上げ、その授業展開の方法をより一層改善することによって、r
人間の感覚や、能力の中で造形的活動〔及び享受活動一筆者〕によらなければ、発展させるこ
とのできない部面のものを、のばそうとする」美術教育と、r芸術的活動、技術的活動を通して、
頭脳による思考活動だけでは得られない、新しい人格を形成しようとする」美術教育を統合する
ことができるし、又統合しなければならないと考えている。まさにこれこそ、今日の美術教育の
課題と言わなければならない。
3、芸術教育学の一領域としての美術教育学と、美術教育学の理論的構成要素としての芸術教
育学と美術教科の教科教授学
対象とする領域の包含関係に関して言えば、美術教育学(Bildende−Kunst−P乞dagogik)は絵
画、版画、彫亥■」、工芸教育に関する芸術教育学であり、芸術教育学(Kunstp自dagogik)の一領
域である。前者はわが国の、美術教科という教科目に対応している。他方、後者には音楽教育学
なども含まれる。
又、美術教育学はどのような諸科学によって構成されるかという点に関して言えば、美術教育
を原理論的に間う芸術教育学と、美術教科の教科教授学(Fachdidaktik)という主要な構成要素
によって組織されると言える。この問題は未だ十分には解明されていない。その理由は、11〕美術
教育研究者内部での学理論的な論議の日が浅いこと、12〕その結果として美術教育学とその教育実
践の相互検証の関係が確立していないことにある。これ迄のところ、学会内で芸術教育学と美術
教科の教科教授学の確定は十分になされていない。それ故ここでは、それらの一般的な規定に留
めなければならない。その際、G.オットー違の用語法を参考にしている。{4〕
芸術教育学は、芸術教育による人問の成長 発達 社会的形成について考察する教育学の一領
域であり、芸術教育の可能性と必要性を明らかにし、その歴史と理論を解明する学問である。こ
一54川
れ迄の諸々の美術教育理論は、芸術教育学の掲げるこの根源的問題を必ずしも設定してこなかっ
た。芸術教育学は、これらの理論の価値と限界を明らかにし、それらを統合しなければならない。
美術教科の教科教授学は、芸術教育学を構成する教育諸科学の主要な要素であり、美術教科の
教授過程、その目標一内容一方法の連関を明らかにする個別学問である。その際この教科教授学
は、一般教授学の有意味な成果を導入する。
芸術教育学と美術教科の教科教授学の真理性の基準は、この教科教育の実践にあるのであって、
論証可能性にある訳ではない。とくに後者に関して、オットー違は「教科教授学、科学としての
正当化〔の根拠〕をその言表の実践連関Praxisbezugから得る」と命題化している。工5〕
4.芸術教育学とその課題
(4.1)芸術教育学とその課題
芸術教育学は、芸術教育によって子どもや青年をどのような人間に教育しなければならないの
か、そして又教育されうるのか、又社会人になる為にはどのような芸術的、美的享受能力、教養
・そして表現能力を形成することが必要であるのかを明らかにしなければならず、芸術教育の経
験と知識を理論化しなければならない。
それ故に、芸術教育学は、美術教育に関する芸術教育の実践と歴史、教育と人間形成に関する
諸科学(教育学、教育人間学、教授学、発達心理学等)の成果、そして芸術関連学問(芸術学、
美学、美術史学、工芸史、民芸学等)の成果を上記の様な立場から統合しなければならない。
(4.2)美術教育と陶冶、訓育、訓育的教授
陶冶・訓育という教育学の基本的概念を美術教育の中へ導入する作業は、これ迄余りなされて
こなかった。しかし今日、それは、次のような二つの誤ちを正しく克服する為に不可欠である。
ω情操主義:美術による性格、意志、徳性の教育を絶対視する余り、美術教育を道徳教育に従属
させてしまう立場。(2〕技術主義、造形主義:描画能力、造形的表現の技術的能力の形成を絶対化
し、普通教育における美術教育が、芸術による芸術への教育であると同時に、芸術による人間性
への教育でもあることを忘れる立場。この二つの立場は、様々に変形されて現われている。
美術の教師が明らかにしてきたことは、それが困難な道であるとは言え、質の高い美術教育を
編成し、その授業の展開方法を改善していった時に初めて、その二つの教育は統合されるという
ことであ乱この事は教育学的に次のように解明されてきてい孔
ペスタロッチは、晩年の著作r白鳥の歌』に於て、人間性の基本的な能力が、心情、知性、技
術の三つからなることを述べ、この三者を調和的に陶冶することが基礎陶冶であり、これこそ教
育の理念とならなければならないとした。そしてその一面だけを偏重することは、「人間性の基
礎能力の破壊解体・そしてついにその死滅十〕に導かれると指摘した。〔6〕彼の薔礎陶冶観は・そ
の時代に支配的であった、能力の偏った陶冶と、合身分的な教育に対する批判を基礎としていた。
特に重要なことは、彼がこの基礎陶冶の理念を民衆教育の中へ導入したことである。
所で、教科の文化財を教えることと、ペスタロッチのこの、諸能力の調和的形成という理念は
18〕
どのように統一されるのか。あるいは、文化価値の教授と自立Selbst葛ndigkeitへの教育はどの
一55一
ように統一されるのか。その現実的、具体的な統一のすじ道は、現代教授学の中で、陶冶と訓育
との統一という形で解決された。その際、ディースターヴェークによって擁護された、教科の訓
ヒ’」レドウソグ
育的価値の重視が重要なきっかけとなった。今日教授学に於て、陶冶とは知識の一定の総和(文
エアチーウソク
化財)を教授し、人間の知識、認識、技能を形成すること、訓育とは意志、感動、信念、性格、
態度等を教育することと規定されてい孔ペスタロッチ ディースターヴェーク研究者であり、
代表的な教授学研究者である吉本均氏は、授業における陶冶過程と訓育的過程の統一について次
のように説明している。「授業は、つねに、陶冶と訓育という相対的に独自なものの統一として、
矛盾をはらんだ統一として成立しているし、また、そのようなものとして正しく成立させねばな
らないのである。」 r授業は文化価値の伝達を不可分の媒介として行なわれる。しかし、そのさ
い、文化伝達そのものに意味があるというよりは、むしろ子どもたちが、科学や芸術の価値を身
につけることをとおして、探究的思考や創造的知性、あるいは豊かな感性をかれらのなかに開花
させていく、ということである。」{9)その意味で、この陶冶と訓育の統一によって、知的な教科
と心情的、技術的教科の並立ということではなく、基礎陶冶の理念の具体的な実現が果たされ、
その事によってひいては芸術による芸術への教育と芸術による人間性への教育の統一が美術教科
の中で果たされる。
かって、訓育は教会や家庭の課題であり、陶冶は学校における教授の課題とされ、訓育に比べ
陶冶は一段下のものとされた。ドイツでは1854年から18年間、このような誤った考え方に基づ
いて、民衆学校を専ら宗教教材の基礎の上に置く政策がとられ(所謂、シュティールの三条例)9①
その結果、図画の教育は排除された。ol〕
同じ19世紀、ディースターヴェークは教科の権威と価値を擁護して次のように書いている。「
宗教科の教師達は、どの普通教科の教師達よりも超越した権威を自分たちが持つべきであると主
張しておりました。このような臆見は、理論的にペスタロッチ学派によって、つまりペスタロッ
チ自身によって…一・・否定されました。人々は、教科の性質が何であろうと、教授活動それ自体
が道徳的な影響力を持つものだということを理解することができるようになりました。そればか
りでなく、人々は、どの教科の教授活動であれ、真の教授活動は、生徒の性格形成に直接的な影
響を及ぼすものだということも知ることができるようになったのです。」02〕(中略一筆者)
ディースターヴェークは、このように考えることによって、普通教科の教育を、単に実用主義
的な側面からだけでなく、訓育的=人格形成的な側面からも強調したのである。
吉本均氏は、この原理を現代教授学の基本的な原理と位置づけ、「訓育的教授」の原理と呼ん
でいる。 「授業を訓育的成果の豊かなものにするということは、教授内容を道徳=宗教的教材に
求めることにあるのではなく、授業における教授活動そのもののなかで、生徒の意志、感情、性
格の発達が促進されるように、授業の展開方法を工夫することにあるのである。」(下線一筆者)
われわれはこの原理に基づいて、美術教育は訓育的な性格を持ちうるかという問題に答え、次
のように言うことができる。美術教育に訓育的性格を直接的に求めることは誤ちである。しかし
他方、子供の本性に即した意味づけを行うことなしに豊富な造形的イメージを見せたり、視覚的
象徴の解釈術を子供の芸術理解の水準を無視して教えたり、レベルの高い美術や工芸の技術を教
一56川
えるだけでは、如何に芸術的な知識や技術を教えるものではあっても、訓育的な教授にはなりえ
ない。r子どもの感応・表現に深くくいいったかたちで芸術文化を提供し、それによって子ども
の感応・表現をより人間的に豊かで深い」㈹ものになるよう授業展開を工夫した美術や図画工作
の授業の下では、芸術的な表現方法を教え、美術に対する理解と知識を教えることが、同時に訓
育的教授になりうる。{1④この問題は第5節で改めて討論される。
(4.3)美術教育と教授=学習
図画・美術教育の歴史をふり返ってみると、その教育観、教育内容如何で学習内容が如何に変
わってくるか明らかとなる。例えば、「鳥」というごくありきたりのものを題材とした場合でも、
単なる手本の模写が行なわれていた時期(例えばr新定画帖』 (明治43年∼昭和7年)前後)も
あれば、子どものr自由で生き生きとした表現」が追求されてきた時期(大正中期∼昭和初期、
及び戦後)もある。05)
芸術教育において・雌学の学習概念の規轟を退けながらも・学習内容を教授の問題と切り離
して規定しようとする試みがかってなされたが、それは必ずしも成功しなかった。学習の問題は
教授の問題と切り離して扱うことはできない。そしてより重要なことは、美術教育に於ても、教
授=学習の中では教授が支配的な契機であることである。この問題は、例えば岸田劉生による大
正期の自由画教育運動に対する批判の意味の再検討を要求しているが、それはまたの機会に行わ
れねばならない。
教授=学習には、大きく分けて二つの可能性がある。美術教育における教授=学習が、精神の
枯渇した手本の模写、ないし罫画の教授=学習となったり、「舟遊びの人々の昼食」一ルノァ
ールー印象主義を関連づけて記憶させるだけの教授〔鑑賞指導〕=学習となることもあれば、
子どもや青年の生活の中から生き生きとした印象を発見させ、テーマと題材を発見させ、それと
の格闘の中でそれらを生き生きと表現するための芸術的方法と造形的方法(技術)を教え、学び
とるような教授=学習、一枚のタブローに表現された主題と題材と意味、タブローの背景にある、
生活や人生や世界にたいする作家の眼や精神をその作品の形式上の芸術性とともに解り易く教え、
それによって芸術ばかりでなく、人生や社会に対する洞察力や、探究心や、自己活動を鼓舞する
ような教授=学習もある。
1960年に雑誌『教育』は、「シンポジウム・絵画における学習とは何か」を特集した。そのう
ち、鈴木五郎氏が芸術教育としての絵画学習■のなかで重要なものとして、写生と観察法があると
し、観察が重要なのは、絵画学習が子どもの論理性と思考性の陶冶にむすぴつくからであるとし
たのを批判して、久保氏は絵画における学習とは精神の陶冶であるとした。{1田久保氏の用語法は
必ずしも教育学的に厳密ではないが、大切な点は、精神の陶冶という基本的な視点から絵画の教
育内容と、授業の方法を明らかにし、学習の内容を考えるべきであるとしていることである。
一般的に言えば、教授=学習の在り方は、次の要因によって決まる。陶冶内容、教授方法、学
習活動の組織、教師と生徒の相互関係、子ども集団の質。{18,
美術教育に関して、日本の創造美育運動の成果は、子どもの持っている創造性を窒息させない
で発揮させなければならないという原理を明確化したことである。この原理は、ドイツの芸術教
一57一
育運動の中で、とくにワイマール期初期に、G・バルトラウプによってr子どもの中の天分(創
造的精神)」という形で定式化され,ハンス・フリードリッヒ・ガイストによってそのマテリアル・コン
l19)
ポジッションの授業の中で具体化され、追求されたものであった。
美術教育の中に自己活動の原理を基礎づけようとする努力は、西ドイツの芸術教育学者W・レ
ーグラーによってなされている。彼の視野は学習理論的な枠組によって制約されているものの、
美術教育の中で子どもの学習意欲を如何に蘇生させるかという問題意識から、自己活動に基づい
たr人間的文化の獲得」という概念を、美術教育に於ける学習の基礎に据えている。
(4.4)美術教育と美学的、芸術学的認識の芸術教育学的方向転換
(4.4.1)芸術教育学は、美学や芸術学に、美術教育の中でなされる芸術表現や芸術鑑賞につ
いての理論的説明を求める。そして、芸術教育学は、その二つの現象についての美学的・芸術学
的認識を、芸術教育学独自の立場から統合する。その際、芸術教育学独自の立場とは、先の(4.
1)で規定されたものである。芸術教育学は、美学的、芸術学的認識、及び知識をそれ独自のフ
ィルターに通した上で、芸術教育学にとって価値あるものを、それ独自の立場から統合する。こ
の過程を、私達は、美学的・芸術学的認識の芸術教育学的方向転換と呼ぶ。
(4.4.2)芸術教育学は、他方、芸術がどのような社会的、教育的機能を侍っているかにっい
ての説明とその理論を求める。一般的に、日本の美学、芸術学は、この問題についての具体的考
察を不十分にしか行っていないと言える。それは社会学的な美学、芸術学の扱う一課題として、
片隅に追いやられている。その意味で、山本正男氏やコーンの次のような説明は芸術教育学にと
って価値あるものと評価されよう。そのどちらにも、ドイツの新人文主義者達の美学的、芸術学
的思想をより豊かにしようとする関心がうかがわれる。
山本氏は、美や芸術の教育的機能を次のように説明している。美や芸術が人問教育一般におい
て根本原理たりうるのは、ω美や芸術において調和的人間像が具現され(美的教育論)、12〕人問
感情が醇化され、教育の根本となる情操陶冶の手段となり、13〕最高の創造性が発揮され、これに
より人類進化の原動力が養成され(創造教育論)、14〕個性の十分な表現が達成され、人間の目覚
的形成の場が得られ(個性教育論)、(51人間形成や文化の最高目的が生活の美化ないし芸術化に
置かれる(生活教育論)ことになるからだ、と。口1〕
又、シラー研究から出発したドイツの美学者E・コーンは、芸術の文化的機能を次の三点に置
いている。(1〕人格形成的な働き(Pers6nlichkeitbildende Wirkung)、(2)共同社会形成的な働き
(gemeninschaftbi1dende Wirkmg)、(3〕文化的、娯楽的働き(㎞rturvoll unterha1tende
Wirkung)。鯉〕更に彼は(1〕の人格形成的な働きを説明して、それが次の四つからなるとしている。
1)美的諸感覚として人間的諸感覚を形成すること、およびそれを基礎にしてなされる人問的諸
感覚一般の陶冶、2)人間的感情の形成、とりわけ美的感情の形成と、それを基礎にして形造ら
れる人問の人格一般の情感的な領域の形成、3)ファンタジーや、表象能力、世界観的思考、創
造的能力の形成、4)人格をも含めて、社会的態度の形成。賜
これらの諸説が豊かな認識を提供してくれるものであるにしても、上述のように、芸術教育学
はそれを一定の基準に基づいて方向転換しなければならない。その際、次のような立場が確認さ
一58一
れる。
1)芸術の文化的・教育的可能性についての美学・芸術学上の成果には、芸術の有する上記のよ
うな機能が可能的にあるとは言え、それらの機能は自然発生的に実現されるものではないとい
う認識が欠けている。われわれは、芸術教育学の立場から、芸術の持つそのような可能性は、
芸術教科のすぐれた教授過程の中で、質的に飛躍的増大をとげるという事を確認する。
2)芸術の人間学的、教育的機能についての豊かな思想をもたらした、ドイツの新人文主義者、
観念論哲学者(レッシング、シラー、ゲーテ、フンボルト、カント、へ一ゲル等)の理論は、
芸術教育の具体的なあり方についての考察と理論を欠いていたばかりでなく、教科としての美
術教育の中で問題になってくる、個々の芸術作品とその教育的機能との関連についての考察と
理論を欠いていた。この点で、ヴェントウーリによる次の指摘は、芸術教育学にとって重要で
ある。r美学はドイツにおいて、芸術活動の体験よりはむしろ、芸術の概念についての省察と
ともに生まれたものである。これこそ、かってのいかなる他の芸術思想よりも根拠あり確実な、
その哲学的価値のゆえんであり、またこれこそ芸術判断への手引としての、脆弱さのゆえんな
のである。」幽)
3)内省的な方法から出発したドイツの観念論美学の影響を多くうけているわが国の美学、芸術
学は、必然的に抽象的な「美的なもの」、r美的感情」、「美的体験」、「美的態度」といった
基本的なカテゴリーを基礎づけることに主な関心が向けられ、日常生活、及び歴史の中での美
や芸術の具体的発生過程、美意識や芸術的要求の具体的発生〔発展〕過程を軽視している。そ
の結果、民芸運動が明らかにした、民衆の生活の中の実や、民芸の芸術的意味を事実上過少評
価し、芸術家の創作や芸術学者、美術史家の鑑賞だけでなく、子供、青年、大人の素人絵画や、
素人的な工芸製作、或いはまた彼らの芸術鑑賞等も社会的価値を持つことを実質的に軽視して
いる。芸術教育学は、先に(4.1)で示した独自な課題から、このような問題を固有な研究対
家として位置づける。
4)以上の点と関係して、美学、芸術学は、(絵画から手仕事に至る迄の)芸術創作による芸術
教育と、(古典的な西洋美術から友達の工作や図画に至る迄の)芸術作品の鑑賞教育とを有機
的に結合させることによって、美術教育の可能性が飛躍的に増大するという理解を欠いている。
芸術教育学は、このことを明確化しなければならない。
5)芸術教育学は、ラスキンなどの工芸運動の成果、ドイツの労働学校運動の成果、手工教育運
動の成果、更には日本の民芸運動、労作教育運動の成果から学び、工作、工芸の教育的意味を
明確化、理論化しなければならない。
6)子どもや青年の周囲に、視覚的メディアがあふれ、教育的・社会的に深刻な問題となってい
るばかりでなく、美術教育の教科内での努力の成果を覆えず危険性を生み出している。マスコ
ミによってもたらされたそのような現象一それらの問題視は早くから西ドイツの美学者W
・F・ハウク違によって「商品美学Waren旨sthetik」批判として行われた(蛮Lは、芸術教育学
によって美術教育の課題設定、教育内容の次元で再検討されねばならない。
(4.4.3)芸術教育学は、美的感情、美的態度、美、美的なもの、芸術的なもの、芸術創作、
上59一
芸術享受といった問題を、単に純理論的な問題として扱うのではなく、その問題の経験的、発生
的な領域をも理論的に説明していかなければならない。その際、発生的領域とは、個体の発生過
程と関係する発生的、経験的過程と同時に、人類の美的感情、美的態度、美的価値観の発展と関
わる歴史的発生過程を意味する。
その意味で、カントやショーペンハウアー以来「美的態度るsthetisches Verha1ten」が美学の
基本的なカテゴリーとされてきたが、それは必ずしも美学の最も本質的なカテゴリーとみなすこ
とはできないとするB・ドジェミードックの世界哲学学会における主張は、芸術教育学が改めて
検討すべきものである。rなぜなら、この概念は、美的現象を記述し、説明していく上で不十分
であるからである。」鯛
芸術教育学は、一方では上にあげた概念を具体的な子供、青年の生活現実と授業の中へ今一度
据え、美術教育が子どもや青年達の文化的・芸術的要素からそれらをどのように芽生えさせ、形
成させることができるかを明らかにしなければならず、他方では、そのこととの複合的な関連の
中で、人類の過去、現在、未来に渡る美的態度や美的感情等の発展の歴史を、社会史、文化史、
芸術思潮史、美挙史の全体性に於て明らかにし、その中で美術教育はどのような役割を果しうる
かを明らかにしなければならない。その時初めて観念論哲学、観念論美学の豊かな成果が芸術教
育学の中で活用されるようになる。
(45)美術教育と、美術史学的認識の芸術教育学的方向転換
青少年の美術史的理解は、鑑賞教育の枠内で重要であるばかりでなく、それによって子ども達
が自分の芸術創作を意味づけることができるという意味でも重要である。しかしここでは、論議
を拡散させない為に、普通教育内での芸術作品の鑑賞教育という具体的な場面で論議する必要が
ある。日本の美術教育に関する理論的研究の中では、この鑑賞教育の問題は遅れた領域である。
それ故にここでは、基本的な問題の一二に触れることしかできない。
1901年のドレスデンの芸術教育会議で、リピトヴアルクは鑑賞教育の出発点を次のように定
式化した。 「芸術作品の享受への指導の出発点は、〔知識を教える単なる一筆者〕芸術史の授
業となってはならず」、オリジナル作品やその図版を前にして行われる「鑑賞教育の授業でなけ
ればならない。」㎝
しかし、鑑賞教育は、芸術的感受性と享受能力を形成することにより、人間性の教育を行うこ
とを課題決定するや否や困難な問題を抱えこまざるを得ない。古典鑑賞をr自分自身の生に過去
の生の火を点ずる」{28〕行為と解釈することは、鑑賞教育の重要な課題であるが、それは同時に、
芸術作品の内容と形式の問題、視覚的象徴の解釈の問題をも授業の中に導入することなのである。
図画、美術は、子どもにとってきわめて直観的なものであり、ドイツの芸術教育会議で指摘さ
れたように、ペスタロッチの直観の原理に従うものである。しかし、その作品の視覚的象徴の解
釈、内容と形式の問題を扱うとなると、子どもにとってこれ程困難な授業はなくなるという二律
背反性が生じてくるのである。
ヴェントウーリは、芸術作品のこの特殊性を次のように説明している。「あらゆる芸術作品は、
具体的であると同時に抽象的である。その内容が自然や人生の世界に属するが故に具体的であり、
一60一
その形が具体的世界からの精神的離脱であるがゆえに抽象的である。」鵬〕更に次のようにも説明し
ている。 r芸術を生み出す人間活動の機能は、一般にイマジネーションとかファンタジーとか呼
ばれているところのものである。………芸術作品を創造するイマジネーションは、現実から離反
するのではなく、むしろそこにわけ入り、そこから芸術家の感じ方に一致する様相を把握するの
であり、したがって、現実の理性の認識からは隠れているものを浮かび上がらせるのである。…
・外界と交流しているときには、人間は、情念とか感情とかいったものは、あらゆる芸術作
品の根元の位置にある。しかし、芸術家が彼の感覚的・感情的経験に沈潜している限り、芸術は
創造されない。彼は、そこから脱出しなければならない。……そこで初めて、彼は芸術の世界に
入りうるのである。」{鋤
鑑賞教育はどのような原理に基づかなければならないのか、これは十分に解明されていない。
しかし明らかなことは、ペスタロッチが明らかにした直観の原理と、自己活動の原理、自分で考
えるように指導するという教授原理(後者の二つはディースターヴェークの整理による)、これ
らが鑑賞教育の出発点に位置づけられねばならない。直観の原理、それがこの教育の第一原理で
ある。ペスタロッチは、「単なる空語を暗記させる」教育を批判して、r形の教授にはまず形を
有〔も〕った事物の直観の意識が先立っ」とした。{31〕ディースターヴェークは、直観の原理を説
明して、rペスタロッチは、子どもが最初から自分自身の経験を積むように、また積ませるよう
にしました。かれは子どもに、自分の眼でみることを、自分の耳で聞くことを、自然の与える印
象を全身でうけとめることを、要するに、事物や事件を直接に、ありのままに学び知ることを教
えました」{32〕と指摘している。
美術の教師は、その鑑賞指導の授業案を作成するに際して、教材研究を行わねばならない。そ
の時、教師が当然触れるのは、多かれ少なかれ様式論的な美術史研究の成果である。ここで一つ
の疑問が生じてくる。造形芸術の時代様式の教授や、様式論的な美術史学(バーゼル学派(ガン
トナー、ヴェルブリン)の視覚的象徴形式の解釈学、ヴィーン学派(ゼーゲルマイヤ、ドヴォル
シャック)の構造分析学、及ぴパノフスキー違のイコノロジー(図象解釈学))によって得られた
美術史学的知識によって、子どもの本性に則した、「自分の習っていることからの意味をよく弁
えている」{33〕ばかりでなく、自主的・自律的に学習に取りくむように子ども達をさせる鑑賞教育
を編成できるだろうかという疑問がそれである。答えは否である。昔の年代記的美術史研究や、
ユ9世紀初頭から後半迄の間に観念論哲学者達によってもたらされた、不正確な歴史法則に基づい
た美術史記述の否定の上に出発した。様式論的な美術史学の価値は、鑑賞教育に於て無条件的に
現実化される訳ではない。その成果を鑑賞教育に持ちこんだ時に現われてくる最大の欠陥は、芸
術批評と美術史との分離伸平板な作家研究、伝記研究と作品論(研究)との分離である。様式
論的な美術史学的な認識は、社会学的な美術史学や、作家研究の成果とともに、具体的な鑑賞教
育の法則性、原理に基づいて芸術教育学によって統合される時初めて、鑑賞教育に対して価値あ
るものとなる。これを、美術史学的認識の芸術教育学的方向転換と呼ぶ。
(4.6)美術教育史研究の役割
美術教育における成果と矛盾は、それを歴史的に考察し、点検する時最も明確に現われてくる。
r61一
美術教育の理論的考察は重要な芸術教育学の課題であるが、それが歴史研究と結びつくことなし
には、過去の美術教育とその理論を評価することができず、ひいては今日の美術教育とその理論
を評価することができない。
ドイツの芸術教育学者D.ケルプスは、その著r歴史的芸術教育学』のr何ゆえに個々の教科(教
育方法、授業内容、教材等)の歴史を研究することが必要であるのか」の節で、「人間の歴史性に
たいする抽象的な視点によって教師が援助されることはなく、きわめて非歴史的な示唆しかそこ
からは出てこないような制度的な枠組の中でその教師は仕事をするのみである」こと、それは教
育方法や授業内容や教材にたいしても同様であることを指摘している。{35〕又、教師が歴史的意識
を持っているとは、個々の教科や授業内容にまでくいこんで歴史的解明を行うことであり、それ
は次の四点からなると説明している。ω日常用いられる個々の授業内容、方法、メディアに基づ
いて、現代の教授過程がどのような性格を有しているかに対する視点を得ること、12〕個々の教科
の教育目標、レールプラン・指導要領・教材に至る迄、今日の教育学的事態の基底Beweggrmde
を研究し、又そこから始めること、13職務上の諸条件と日常の教育実践の内容に規制された、教
師の共同の学習過程の中に、歴史的意識と政治的意識の連関を緊密に再構成すること、14〕教員が
椙互に励まし合い、歴史的、政治的学習過程から現代に対する結論を定式化し、共同して引き出
す努力の中で支え合うこと。鯛
ケルプスのこれは、教師の立場からする、教科の歴史研究の意義の規定であるが、ωと(2〕は、
芸術教育学の歴史研究の過程をも示してい乱
所で、わが国の場合、大正、昭和初期の芸術教育運動にまで遡って美術教育を整理することが、
今日求められているが、その際重要なことは、芸術教育的な枠組と、教科教授学的な枠組をしっ
かりとした上で歴史研究を行わなければならないことである。いずれにしても、この分野は直接
運動に関わった先人を除けば、未だ不十分にしか行われていない。〔銅
一往一
11〕 r美学辞典』弘文堂、昭和54年471頁参照。
② 高橋正人r教育における造形的・技術的活動」『続教育大学講座8』金子書房、昭和31年44頁。
13) 同上 45頁。
(4〕G.otto(Herausg):Handbuch der Kunst−und Werkerziehung,Band,I.Grmd−
fragen der Kunstpadagogik Rembrandt Verlag 1975.S.444−465参照。
15〕 G・otto:D1daktik als Magd,uber unreflektierte Abhヨngigkeit am Beispiel der
Didaktik der Xsthetische Erziehung.Z.f.Padag.H.5/1978
(6〕ペスタロッチr白鳥の歌』玉川大学出版参照、又稲富栄次郎rペスタロッチの生涯と思想」
福村出版、その第7章参照。
(7〕ホルデマンrベスタロッチー』明治図書、1980年、第三章第四節参照。
(8〕上畑良信「ベスタロッチーの基礎陶冶研究.」中・四国教育学会 r教育学研究紀要』第24巻
6−9頁。
一62一
(9〕
吉本均r訓育的教授の理論』明治図書、1974年、12,3頁。
OO)
シュプランガーrドイツ教育史』明治図書、ユ980年、49頁。
ω
Old Dunke一,Diethard Kerbs (Herausg・):Kind und Kunst II.Geschichte des
Z eichen_und Kunstunterrichts.Bmdes Dentscher Kunsterzieher.1980.S.5
(12〕
ディースターヴェークrペスタロッチは何を望んだか われわれは何を望むか」『市民社会
の教育』明治図書、1976年、173,4頁。
/13
竹内常一r芸術教育における学力の問題」r講座日本の学力9』日本標準、1979年、18頁。
口4〕
注目すべき実践報告としては次のものを参照。朝倉悠三「沈む村の記録」r美術文化』1982
年N皿6、坂本小九郎「少年期の美術教育の中で、主題表現と造形課題をいかに統一的におく
りとどけるか」r美術文化』1981年N皿12など。
σ5)
熊本高工r鳥をテーマにして一子どもの造形表現の変遷」r美育文化」1982年Nα5
口6〕
真篠将r創造的な音楽教育.」r続教育大学講座8』
口7〕
『教育」1960年ユO月号参照。又、久保氏の論文「子どもの精神の陶冶」はr児童画の世界」
にも収録されている。
l18〕
吉本均r訓育的教授の理論』の第w章r教師の指導性と子どもの自己活動」参照。
皿9)
次のもの参照。G.F.Hartlaub:Der Genius im Kinde.1922,H.F.Geist:sch6−
pferische Erziehmg In:bauhaus.juli−sept.ユ929及びOleDunkel,D・Kerbs:op cit.
oo)
121〕
122)
W.Legler:Asthetische Erziehung und Lerntheorie.In:Z.f−Padag.24Jg.1978
竹内敏雄篇『美学辞典』、項目「美的教育」
E・John,E−Uppold,M.Rammler:Kunst md sozialist{sche Bewustseinbildung.
Berlin.1974.S.38
㈱
124〕
ibidem.S.92−93
リオネロ・ヴェントウーリr美術批評史」第二版、みすず書房、1979年、189頁。
囑)
長田謙一r現代における日常生活と美術教育」r美術教育学』第4号参照。
㈱
B.Dziemidok:Main problems in the theory of aesthetic attitude.in:Proceeding
of the XV th.World Congress of Philosophy,vol.4.P.184
恢〕
A−Lichtwark:Die AnIeitung zum Genuβder Kunstwerke−In :Kunsterziehmg
Ergebnisse und Anle馴ngen des Kunsterziehungstages in Dresden am 28.und29.
September190ユ.1902、及び鈴木幹雄rドイツ芸術教育運動の美術教育上の成果一ドレ
スデン芸術教育会議を中心に」(第34回中国・四国教育学会発表資料)参照。
/28〕
シュプラニ/ガー「永遠のルネッサンスについて」(「ドイツ文献学者誌創刊二十五周年記念
の挨拶」)『文化と教育』玉川大学出版部、昭和53年319頁。
鰯
1鋤
ヴェントウーリ、上掲書、ユ3頁。
同 上
12頁。
131〕
ペスタロッチ『ケルトルートは如何にその子を救うるか』玉川大学出版部、昭和53年178頁。
(32〕
ディースターヴェーク、上掲書、166頁。
一63一
㈱
ディースターヴェーク、上掲書、ユ69頁。
㈱
ヴェントウーリ、上掲書、序論参照。ヴェントウーリは、現代における美術批評家と美術史
家の分離の原因は、芸術史と芸術批評の分離にあるとしている。彼の主張の重点は、両者の
統一の重要性にある。
135〕
Diethard Kerbs:Historische Kunsp葛dagogik.Dumont Buchverlag.ユ976.S.ユ4
136)
ibiden, S.15
137〕
先駆的な研究としては、上野浩道の一連の研究(例えば、r大正期芸術教育運動の一考察一
山本鼎と自由画教育運動」 r教育学研究』第39巻第一号)などがある。
皿64一
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