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ドイツにおける美学思想の現代的意義
広島工業大学紀要研究編 第 41 巻(2007)pp. 305-314 論 文 ドイツにおける美学思想の現代的意義 ― カントの場合(Ⅲ) ― 岩 本 忠 夫* (平成18年10月30日受理) Die gegenwärtige Bedeutung des ästhetischen Gedankens in Deutschland ― besonders bei Kant ― Tadao IWAMOTO (Received Oct. 30, 2006) Zusammenfassung Es gibt zwei notwendige Voraussetzungen für die schöne Kunst. Zuerst ist schöne Kunst die Darstellung einer bestimmten Erkenntnisart oder Vorstellungsart. Ein menschliches Subjekt fasst sie in Reflexion als formale Zweckmäßigkeit, die in dem Subjekt das Gefühl des Wohlgefallens hervorruft. Zweitens ist Kunstschönheit eine schöne Vorstellung von einem Ding. Ein Mensch, der schön einen Gegenstand darstellen kann, ist Genie. In solchem Sinne ist schöne Kunst die Kunst von Genie. Kein begrifflicher Zweck gibt für das Hervorbringen der schönen Kunst die Regeln. Natur selbst gibt durch das Subjekt des Genies der schönen Kunst die Regeln. Nur Genie kann die ästhetischen Ideen darstellen, und dadurch erteilt er den k ünstlerischen Werken Geist und Lebendichkeit. Mit anderen Worten bemüht er sich, die Vernunftbegriffe zu versinnlichen und das Denken des Menschen zu beleben oder zu erweitern. Unsere Geschmacksurteile auf Grund der Naturschönheit oder Kunstschönheit fördern unser sittliches Gefühl, und auch das sittliche Gefühl fördert die Geschmacksurteile. Schlüsselwörter: Erkenntnisart, Genie, Idee, Lebendigkeit. だからカントがこれから芸術について論じようとするとき 美 的 芸 術 にも,芸術の成立のための不可欠条件である技術という用 芸術はドイツ語では Kunst であり英語では art という語 語をまず吟味することから始める。 で表わされるが,両者共にその語義は芸術を意味すると同 技術とはまず理性の働きによる自由な選択意思(Will- 時に技術,技巧をも意味している。これは当然のことであっ kür)による産出(Hervorbringen)でなければならない, て,芸術は本来技術,技巧の裏づけがなければ成り立たな と確認される。それゆえカントが例示している蜂が作るあ いからである。たぶん芸術にとって技術は必要条件ではあ の精巧な巣を始め,人間以外の動物が営むあらゆる形成物 るが十分条件ではない,という関係性にあるものだろう。 は技術とはみなされない。なぜなら彼らはただ自然によっ カント(Kant)の論述の基本的手続きは,特に外面的に て与えられた本能の命ずるままに巣を作ったり穴を掘った 互いに似ている事象間に,如何に些細に見える場合でもあ りしているからである。 る相違を明瞭に示し,原理的に区分をしてゆくことである。 次に技術は学問(Wissenschaft)から区別される。たと *** 広島工業大学工学部知能機械工学科 ― 305 ― 岩本忠夫 えばあるガラス細工や陶器などの製作手続きを,その素 生ぜしめるために産出されるとすればそれは美感的芸 材の加工工程,加熱温度等々をどんなに詳細に知識として 術(ästhetische Kunst) で あ る。 さ ら に そ の 美 感 的 芸 知っていてもそこに技術が伴っていなければよい製品を作 術はそれが感覚的表象の快(Lust der Vorstellungen als ることができない。だから技術的能力は学問的論理能力か Empfindungen)を生ぜしめるのか,それとも認識様式と ら区別される。 しての表象の快(Lust der Erkenntnisarten)を生ぜしめ ただし注目すべきは技術がさらに次のように区分され るのかによって,快適な芸術(angenehme Kunst)と美 ることである。技術が自由な選択意志による産出であると 的芸術(schöne Kunst)とに区分される。美感的判断の するならば,そのような自由な選択が許されないような産 対象となりうるのは当然主として美的芸術である。 出は本来の意味での技術とは言えない。前者を自由な技術 興味深いことはカントがある事象を区分するに際して, (freie Kunst)と称するならば後者は手仕事(Lohnkunst) ある原理上の分離線を引いてきっぱりと分離しているよう と称する。自由な技術による産出には喜びが感じられるが, でも,そこにある連続性の余地を残していることである。 手仕事は強制的に課せられる労働であるから労苦を伴いそ 先程の技術についての区分でも然りである。そしてまた機 れだけ製作の喜びは希薄なものになってしまう。 械的芸術といっても実際にはそこに美的芸術の要素が十分 技術がある観点にしたがってこのように区分されてくる 付着し得るし,快適な芸術と美的芸術の区分についても実 とカントの意図はおのずから明瞭であって,芸術を裏づけ 際にある芸術作品に接してその作品がはたしてそのどちら ている技術は自由な技術でなくてはならぬということであ に所属すべきかを截然と区分けすることはできない。カン る。しかしこのような技術の区分にもにもかかわらず,技 トの哲学上の区分は観念的,原理的なものである。思考す 術にはある機械的なもの(etwas Zwangsmäßiges)が必 るとは分析的に考えることでもある。分析のためにははっ 要とされる。なぜならばいかなる技術的産出過程にもある きりとした基準がなくてはならない。芸術をある原理的基 一定の目的に対応する製作過程を踏まなければならず,そ 準によって区分しながらも,しかもその間に柔軟な適応性 のときは必ず形式的,または物理的法則にのっとることが を設けている点で『判断力批判』はなんとしても画期的で 要求される。たとえある芸術がその既成の形式を破壊しよ ある。しかし留意すべきは認識様式としての表象に関わる うと意図する場合でも,むしろそれだけ一層新しい形式を のが美的芸術であることであり,それによって惹き起こさ 自覚しなければならないのである。カントは精神が働くこ れる適意の感情は趣味判断に基づくものであり,カントは とができるのは身体という形式においてであると述べてい 「美的芸術は一つの表象様式であって,この表象様式は, る。 それ自身だけで合目的的であり,たとえ目的なしであると 第 44 節よりカントは芸術について論じ始めるが,まず しても,それにもかかわらず社会的伝達のための心の諸力 芸術の本質に迫ってゆくために芸術の区分を行なう。彼 の開化を促進するものである」1) と主張している。快適さ はすでに趣味判断,または美感的判断の哲学上の位置づ はあくまでも感覚上の快であって主観的,一回的であり普 けを十分論じているので,ここで真に芸術に値するものと 遍妥当性を有するものではなく,したがって伝達の可能性 して考えられている美的芸術(schöne Kunst)の提示を を主張できない。快適さは享受(Genuss)による快であり, 我々はかなり容易に理解することができる。美学(schöne 美的芸術の快は反省(Reflexion)による快である。前者 Wissenschaften)という用語は誤解を招き易い。学問はあ が感覚上の快だとすれば,後者は知的快である。美的芸術 る事象の論理的説明であるから,それはどうしても認識 は認識様式または表象様式の反省的判断と結び合うもので の概念的説明が可能でなければならぬ。しかし美しいもの なくてはならない。この指摘は注意すべきである。この点 の判断は概念的規定の範囲内にないゆえに,美しいものを は後述のカントによる芸術のジャンル間の評価の基準と深 説明する学問は存在しない。しかし古典や歴史をはじめと く関わってもいる。 する学問的知識は芸術の産出のための必須の条件をなすも 我々が自然のある美しい対象から受け取る快の感情は無 のである。だから芸術の成立を準備づけているものとして 心である。それが動植物であっても,生命を持たない山や 学問的知識は芸術の成立の背景を理解するために必要であ 川などの自然物であっても同様である。ある小鳥のさえず り,美学とはそういうものでなければならない。文学,絵 りを聞いたとき,そのさえずりはある目的に動機付けられ 画,音楽などに関する学問はすべてそのような意味におい ているであろうが,しかし小鳥は人間のようにある明瞭な て学問であり得る。 目的意識によってさえずっているのではなくただ自然の本 さて芸術の区分に関して,芸術がある認識の対象をめざ 能に従っているだけである。それが無心ということである。 して産出されるとすればそれは機械的芸術(mechanische そのさえずりを聞いて快の感情が生ずるのは,我々の側に Kunst) で あ り, あ る 快 の 感 情(Gefühl der Lust) を も特定の関心に捉われていない無心の判断力が働いている ― 306 ― ドイツにおける美学思想の現代的意義 からである。この快の感情の根拠としてカントがその対象 は,そのとき趣味判断の条件として構想力が十分働いてい の形式的合目的性を指摘するとき,それは我々がその対象 て特に自然概念の束縛から自由になっていなければならな から自然概念と目的概念との結合を直観的,予感的に把捉 い,つまり構想力の自律性が発揮されていなければならな したときである。だからカントは自然美と芸術美について, いからである。また芸術は自然のように見えなければなら 自然は芸術のように見えなければならないし芸術は自然の ないということもやはり同様に構想力が特に目的概念の束 ように見えなければならないと主張するが,両者において 縛から自由でなければならず,それゆえ芸術品は人為的努 美感的判断力が共に働くのは形式性と目的性が無心の自在 力の跡を残さないこと,すなわち目的の束縛感から解き放 性,任意性によって結合するからである。それは自然的多 たれていることが求められる。しかしカントの説明に耳を 様性または様式性と言ってもよいであろう。 傾ける必要がある。 「芸術の産物が自然であるかのように カントが美的芸術を快適な芸術から区別する際,快適な みえるのは,その産物がそれにしたがってのみあるべきも 芸術は感覚的な快適さを得ようとする主観的享受を目指す のとなりうる諸規則と,なるほど一点一角にいたるまで合 ものだとし,その中に「いかなる関心をもおびていないす 致していることがみとめられるが,しかし,苦心の跡をと べての遊戯」をも付け加えている。我々現代人が芸術の中 どめず,教則どおりの形式をちらつかせていないというこ に含めて考えようとしているものの多くは,カントの意味 とを,言いかえれば,規則が芸術家の眼前に浮かんで,彼 する所に従えば美的芸術の外に置かれるべきもののようで の心の諸力を拘束していたという痕跡を示さないというこ ある。いわゆる大衆文学,大衆音楽,あるいは市場価値に とによってである」2) と彼は言う。美的芸術が自然のよう ねらいを定めて製作される美術品などはほとんど美的芸術 に見える条件として,芸術家は芸術品を産出するために厳 としての資格を認められないかもしれない。そのとき主知 密に規則的拘束力に従わねばならないが,出来上がった作 主義者としてのカントのリゴリズムを指摘したくもなるで 品はそのような産出過程での拘束力,人為性を感じさせて あろう。しかしそうではなく逆に感覚的快適さばかりを追 はならない。それゆえ美的芸術は機械的芸術とは異質の意 い求めてそこに居直っている現代人への鋭い警告に耳をす 味で完全性が求められることになる。第 15 節での主張の ませるべきではなかろうか。 ように,美感的判断には対象の完全性が関わることはない 一方カントが意味している機械的芸術も,科学技術にば のであったが,しかし芸術作品はあくまでも人為物として, かり専念している現代によく適合するものである。近代は ある目的が求める規則に厳しく束縛されて産出されるので 自然概念の追求と自由概念の追求とが共に手を携えて,科 ある。出来上がった芸術作品は目的をどれだけ完全に実現 学技術があたかも人間的営為の究極目標であるかのごとく しているかという完全性を問われる。しかしその完全性は に推進されている。カントがこのような現代の事態に立ち 機械的芸術ではどれほど目的を実現しているかという完全 会っていたとすればどのように発言するであろうか。カン 性であるのに対して,美的芸術ではどれほど自然に見える トの言う実践理性はあくまでも自由に基づく自律的判断で かという完全性である。 ある。しかし現代の科学技術は生を促進すべき快適さの追 求を原動力としていることは明らかであり,その根源は動 美的芸術の産出は天才を必要とする 物的本能に由来するものである。人間性の発露である理性 美的芸術を産出できる能力を持った芸術家は天才 の自律的判断とは別物ではないか。このように現代におい (Genie)でなければならない。生まれながらに,自然がそ て圧倒的力を振るっている科学技術は,客観的合目的性に の才能を賦与していなければならない。その根拠はなにか。 規定されて産出される機械的芸術と深い親和性を有するも 美的芸術の産出は,ある目的が与える規則に忠実に従って のであることが容易に理解できる。「判断力批判」第 15 節 成し遂げられるのだが,その目的および規則は天才だけが でカントは完全性が趣味判断と関わるものでないことを強 生得的に心得ているものであって,それを概念的に説明す 調していた。科学技術上の産物は無限に完全性を要求する。 ることは不可能だからである。カントは「主観の内なる自 そしてまた芸術作品にも客観的合目的性に沿った完全性が 然が(その主観の諸能力の調和をつうじて)芸術に規則を 求められはする。そのような意味で我々は芸術品に名人芸 与えなければならない」と述べている。主観の心の働きそ をしばしば求める。しかし芸術品でその完全性が前面に歩 のものが自律的に,人為的営為であるにもかかわらず実質 み出るほどその芸術家の客観的目的意識が露となり,その 的には自然的営為として芸術品を産出するのである。この 芸術品から束縛感と窮屈の印象が生まれるようになる。こ とき芸術家が従った目的およびその目的に規定された規則 のような機械的芸術が珍重され追い求められるようにな は理念(Ideen)である。理念は超越論的(transzendental) ればなるほど美的芸術は背後に退いてしまう。自然美にお 領域に属していて,それを概念的に伝達したり学習したり いて自然は芸術のように見えなければならないということ することは不可能である。このような美的芸術に固有な産 ― 307 ― 岩本忠夫 出過程によってその芸術品は独創性(Originalität)を獲得 断の対象である場合にはそれらのある目的概念からその判 する。また天才が天才と呼ばれるゆえんは,天才が産出し 断は自由ではないだろう。更にコップや椅子といった実用 た独創的作品が模範(Muster) ,又は範例的(exemplarisch) 物から趣味判断が働く場合,それらがコップであり椅子で であること,すなわち芸術家が模範としなければならない あるべき目的概念を趣味判断の基礎的条件として考慮に入 ほどの高みに達しているからである。 れなければならない。 「自然美は或る美しい物であり,芸 カントが美的芸術であるための固有の条件として独創性 術美は或る物についての美しい表示である」と述べられて にさらに模範性を付け加えた意図は,芸術家たちが安易に いるように,自然物の美はそれが何であるかは問題になら 独創性らしきものばかりをねらうことを厳しく戒めている ない。しかし芸術美はそのある物が何であるかが問われ, からである。彼は第 43 節において自由な技術といえども そこから必然的に生ずる目的概念が趣味判断を基礎づけて 「或る機械的なものが必要」であると述べたが,美的芸術 いると考えられる。 も同様に厳格に規則の強制(Schulzwänge aller Regeln) このように考えるとカントは自然物の中でも生命を持っ に則って製作するのでなければならず,しかもその芸術品 ていないもの,生命を持った植物,動物,そして実用的製 が範例的であればあるほど,より高度の規則に耐えられる 品から美的芸術品にいたるまで,それらの間にある段階的 才能と訓練を必要とする。ただし機械的芸術にあっては, 移行を容認しているのである。ここにカントの論述の矛盾 必要なのは勤勉に学び,修練を積み重ねることであって, を指摘するのは妥当ではない。存在しているあらゆるもの それによって機械的芸術を作り出す技術を習得すること は段階的連続性を具備している。カントは確かにそれらの ができる。しかし美的芸術は天才による芸術であり,美的 間に原理的区別を導入しようとするが,それは認識を得る 芸術作品をそれによって産出できるような教則を示すこと ための必須の手続きである。しかし事象の段階的移行とそ は決してできない。模範として示されている芸術品それ自 の区別とは矛盾し合うものではない。自然概念と自由概念 体のみが規則を語りかけているのであって,芸術家はそこ とは触れ合わないが,矛盾し合うものではなかった。その に与えられている規則にちょうど調和するような心の状態 間に経験的判断力を介在させ両者の連続性を保証した。美 を,またその理念をみずからの内部に喚起できるのみであ 感的判断にあたっての目的概念の有無は程度の差である。 る。 総じてカントの論述は普通考えられているよりもはるか カントが強い影響を受けた天才的科学者ニュートン に柔軟性に富んでいる。彼は多様な事実に対して,その多 は,カントに言わせれば言葉の本来の意味での天才では 様さに応じて多様に理解しようと努力している。それが彼 ない。なぜなら学問上の手続きを踏みながら学習を積み の執拗な論理性の原動力である。すべてがそうだ!などと 重ねてゆくことによって人はニュートンまで達すること いった雑ぱくな思考や思考停止に陥らないように彼は常に ができるのである。両者の間にあるのは程度の差だけであ 警戒している。慎重かつ用心深い思想家であるカントから る。しかし美的芸術における天才と凡才との間は種別的に 学ばねばならないのはこの点であろう。 (spezifisch)へだてられている。しかしそうだからといっ 既に本論考(Ⅱ)で言及したように,たとえある対象が てカントは学習によって次第にその高みへ達することがで 如何に完全性としての内的な客観的合目的性の要求に応え きる科学者よりも,生得の才能によって美的芸術を産出で ているとしても,それには趣味判断は一切関わらないとカ きる天才をより高く評価しているわけではない。 ントは言う。その根拠はそれがいかなる客観的な概念的目 美的芸術の産出には天才を必要とするという論述に引き 的にも規定されることはなく,主観内での対象の形式的合 続いて,第 48 節で天才と趣味との関係が考察され始める 目的性に触発されて起こる適意の感情だからであった。と に及んで問題は急に複雑微妙となり注意深い吟味が必要と ころが第 48 節では,美感的判断の対象が芸術品である場 なる。自然物と芸術作品との違いを問わず趣味判断は普遍 合は「まず第一に,その物が何であるべきかについての 的妥当性をもって働かねばならない。特別に芸術的意図な 概念をその根底にもっていなければならない。しかも,或 しにもっぱら実用的目的のもとに製作された例えばコップ る物における多様なものと,目的としてのこの物の内的規 とか椅子とかでも趣味判断が働く場合はいくらでもある。 定との諧和はその物の完全性であるのだから,芸術美の判 しかし自然物において我々に趣味判断が生ずるためには, 定においてはその物の完全性が同時に考慮されなければな ある目的概念を介在させる必要はまったくない。例えば山 らないが,自然美(そのものとして)の判定においてはこ を見て趣味判断が生ずるときある目的概念は不要であり, のことは全然問題とならない」3)とカントは言う。これは 本来小鳥がさえずるのはある目的をその動因として考えら 第 15 節の趣旨と矛盾しているようであるがそうではない。 れるとしても,そのような目的の考慮なしに小鳥のさえず 目的概念に規定された芸術美の場合でも,その芸術品の完 りから趣味判断が生ずる。しかし馬とか女性とかが趣味判 全性は美感的判断に際して「同時に考慮されなければなら ― 308 ― ドイツにおける美学思想の現代的意義 ない」のであり,その判断の「基礎と条件として役立つ」 思考する誘因となるような,構想力のそうした表象のこと ということである。かつてカントは機械的芸術と美的芸術 である」と説明される。我々は普通概念的判断によって思 の区分を行なったが,しかしそれでも両者は共にある目的 考している。この判断は悟性的判断の場合もあるし,理性 に規定された規則に従っていることが必要であった。ただ 的判断の場合もある。しかし美感的理念が働くのは,ある し機械的芸術はこの概念的目的の規定が決定的に働いてい 概念を構想力が表象する際に,その概念に豊かで多様な含 ると考えるべきであり,美的芸術はあくまでも美感的判断 蓄を付与するからである。構想力が生みだす含蓄豊かな表 のための基礎的条件として考慮されねばならないに過ぎな 象力は概念化の可能性を超えて進んでゆく。しかし構想力 い。 が諸概念に複雑微妙な含蓄を自在に与えるとしても,それ しかし 48 節がもっと微妙な問題を含むのは,美的芸術 でもその表象は「経験と類比的な諸法則にしたがって」い における趣味と天才との関わり方であろう。ここでたしか るのであり,その意味で美感的理念は心の内的自然に拠っ に自然物ではない芸術品が芸術であるためにはある目的概 ていて,その限りでこの理念は普遍妥当性と伝達可能性 念がその基礎になくてはならぬと言明されているが,しか を持っている。ある概念又は概念的対象物は,天才の心の し前の節においては「美的芸術は必然的に天才の芸術とみ 中で構想力の自由な類比的付加,変形能力によって独創性 なされなくてはならぬ」としている。その理由は,美的芸 と生命感情豊かな芸術品へともたらされる。我々が芸術を 術の産出に規則を与えるのはある概念的に規定できる目的 語るときしばしばデフォルメという用語を使用するのはこ であってはならず,自然が天才という自然児の主観を通し のことと関係している。芸術作品が創造性を獲得している て美的芸術に規則を与えていると考えねばならぬからであ 限り,そこには広い意味でカントが言う,経験を変形する る。しかしここで重要なのは自然美と芸術美の本質的相違 (umbilden)過程が踏まれている。 はどこにあるのかということである。最も目的概念が欠如 美感的理念を描出する(darstellen)ことは,概念に含 した自然美と最も目的概念の規定力が強い機械的芸術を両 蓄されている無限定の可能性を感性化し,その概念をめぐ 極とするならば,美的芸術はその二つの磁場の中間に位置 る思考領域を拡大することだといえる。カントがこの美感 していると考えられる。しかしその美的芸術についてカン 的理念に理性概念(知性的理念)(Vernunftbegriffe <die トは「だが,美的芸術の作品に数えあげられるものは,一 intellektuellen Ideen>)を対応させているのは興味深い。 編の詩,一曲の音楽,一棟の画廊その他であって,しかも, 美感的理念は構想力による感性的表象を介して描出され そのときは当然美的芸術の作品であるべき或るものは趣味 るが,そのような美感的理念に十分な概念的説明を与え を欠いた天才を,別のあるものでは,天才を欠いた趣味を, ることはできない。また理性概念を構想力の感性的直観 しばしば認めることができる」4)とコメントしているが, を通して十分描出することはできない。たとえば構想力 ここに美的芸術を更に区分しようとする意図が示されてい が直観的描出によって概念をどんなに拡大し,活発化し る。すなわち趣味性が優越している美的芸術と天才性が優 ても,例えば永遠性とか愛とかの理性概念を十分に捉え 越している美的芸術とである。 ることはできない。理性概念は経験的直観が及ぶ範囲を超 えたものを指し示しているからである。しかしそのような 天才と趣味との関係 美感的理念を描出する構想力は理性概念を何としても感性 美的芸術であるための必須の二つの要件は,まず美感 化し,生命感を与えようと努めるのである。「構想力(生 的判断力としての趣味にかなっていることと,もう一つ 産的認識能力としての)は現実の自然がそれにあたえる は精神(Geist)が感じられることである。そして美的芸 素材から,いわば別の自然を創造することにおいてきわめ 術にこの精神を与える力こそがまさに天才の芸術的生産 て強力である」5)が,とりわけ理性概念(知性的理念)の 能力である。では美的芸術におけるこの精神とは何を指し 感性化を求めてやまない。生産的認識能力(produktives ているのか。それは「心のうちの生命をあたえる原理のこ Erkenntnisvermögen)としての構想力は悟性的認識にお と」である。我々がある芸術品を批評するとき,しばしば いては悟性の拘束を受けつつもそれでも感性的直観によっ 精彩を放っているとか,生き生きと語られているといった て創造的認識を志向するものであるとすれば,それは一方 評語を与える。芸術品が生命感情に溢れていることは,そ 自由な理性概念に感性的直観を与えようともする。このよ の芸術品を判定する際にきわめて重要な条件をなすもの うにして構想力は悟性概念と理性概念とを経験的直観を介 である。この生命感の内実は言葉に言い表し難いが,カ して結びつけようとしていると考えられる。 ントは「美感的理念を描出する能力」(das Vermögen der 『判断力批判』第 43 節から主として論じられてきたカン Darstellung ästhetischer Ideen)だと考える。では美感的 トの芸術の本質論のうち特に微妙なのは多分趣味と天才と 理念とは何を意味しているのか。それは「多くのことを の関係であろう。このことに関して整合性のある理解を得 ― 309 ― 岩本忠夫 るためには,カントが自然美と芸術美を同じ趣味判断のう 点で美的芸術は概念的目的の規則内に自己限定している機 ちに置きながら,しかもある原理的区別を設けていること 械的芸術の産出過程と異なっている。だから美的芸術の産 に着目しなければならない。この両者を区別している概念 出は理念規定的な合目的性の追求とも言えるであろう。理 が天才である。カントは自然美と芸術美のどちらに軸足を 念として経験の範囲を超えた何かを産出しようとするので 置いているかといえば,明らかに自然美の方である。その あるから,自然が与える素材から「別の自然を創造する」 ことは既に第 42 節で入念に検討した。芸術が概念に基づ こと「自然を凌駕するものへと加工」することだと云える く完全性を求めて産出される限り,芸術が作り出した形式 訳である。美的芸術が求める合目的性はいわば概念の超越 美は自然美を凌駕する(übertreffen)としても,それで 論的認識だと言うべきかも知れないが,それが美感的理念 も自然美のほうが芸術美に優越するとカントは主張する。 であるためには,その超越論的認識が多様性としての形式 このカントの基本的考え方は,第 50 節で美的芸術が示し 美,すなわち認識様式,表象様式に裏付けられていなけれ ている趣味と天才とについて趣味の方に優先権を与えてい ばならない。いわば超越論的認識意欲が認識様式によって ることとも関連している。 制御されていなければならない。趣味判断が成立するため 自然美でも芸術美でも同様に形式的合目的性が惹き起こ の条件が形式的合目的性だとする大原則からすれば,美的 す適意の感情に基づく美感的判断すなわち趣味判断が働い 芸術の産出に際して活動的な構想力による美感的理念の追 ていなければならない。しかしそれが芸術美である場合は 求が野心的になればなるほど,一方でそれを制御する力が その芸術品の産出にあたってある概念的表現目的がその根 強く働かねばならない。既に述べたようにカントは「趣味 底になければならず,その概念的目的が命ずる規則に従っ を欠いた天才」 「天才を欠いた趣味」という言い方をして て作品を産出しなければならない。従って自然美では問題 いる。ではどちらが美的芸術を成立させるためにより必須 にならない完全性が芸術には求められる。自然美の趣味判 の要件かと問われるならば,彼は躊躇なく趣味をより本質 断では自然物がそれ自体として美しいのであるが,芸術美 的な用件だと断定する。彼は芸術に関する本質論を終える ではある物の美しい表示が問題であって,そこに完全性も にあたって次のように述べている。 「理念が豊富で独創的 問われている。すなわちそれは芸術作品がどれだけ生命力 であることは,美のためにそれほど必然的に要求されはし 溢れ,創造性豊かであるかということである。それによっ ないが,あの構想力がそれ自身は自由でありながら,悟性 て概念にまつわる思考力が多様かつ生き生きと働かなけれ の合法則性に適合することは,かえって必然的に要求され ばならない。だから芸術は特に高度に抽象的な理性概念を る。なぜなら,構想力がどれ程豊富であっても,それは, 感性化することにおいてその特性を最もよく発揮すると考 構想力が没法則的に自由であるときには,無意味なもの以 えられる。そのような意味において描出された対象が美し 外の何ものもうみだしはしないが,これに反して判断力は, いかどうかが問題ではなく,美しく生き生きと描くことが その構想力に悟性を適合させる能力であるからである。」6) 問題なのである。だから例えば嫉妬とか,病気とか,争い 構想力が悟性の求める法則という形式に則って,目的とい とかいったそれ自体決して美しくない対象が選ばれても, う広い意味での内容を満たさなければならないとしても, それらを美しく表示することを妨げるものではない。 構想力はそれでもなおかつ多種多様な容器を考案する自由 さて芸術が対象を美しく表示しているとき,それが生命 を保持しているのである。 感溢れ,想像性豊かであることが必要であったが,しかし それ以上にある個別的様式性も同時に具備していなければ 芸術のジャンルについて ならなかった。第 44 節が求めていたように,美的芸術で 『判断力批判』第 51 節より芸術の各論的考察が始まる。 あるためにはそれが美的対象の形式的合目的性に由来する 美的芸術をどのような原理にしたがって区分すべきかがま 適意の感情を生ぜしめるものでなくてはならなかった。そ ず問題となる。カントは自分の設けた区分原理を一つの試 の適意は美的対象から人の主観内に惹き起こされる認識様 論的なものだと断った上で,我々が会話によって何かを伝 式の表象としての一つの表象様式によるものであった。そ 達しようとするときに使用する三つの手段に着眼する。す うだとするならば芸術美における美しい表示ということは なわち言葉(Wort)と身振り(Gebärdung)と音調(Ton) ある概念の拡大活発化,すなわち創造能力であると同時に であり,それぞれに言語芸術(die redende Kunst)と造 その概念の生産的認識に伴う認識様式,表象様式が主観内 形芸術(die bildende Kunst)と諸感覚の戯れの芸術(die に形式的合目的性にかなった適意の感情を生ずるものでな Kunst des Spiels der Empfindungen als äu erer Sinnen- くてはならない。もともと芸術的産出における概念的目的 eindrücke)が対応する。 の追求とはむしろある理念に迫ろうとする営為,すなわち 言 語 芸 術 は 更 に 雄 弁 術(Beredsamkeit) と 詩 芸 術 「心の諸力を合目的的に高揚せしめる」ことである。この (Dichtkunst)に区分されるが,言語芸術のこのような区 ― 310 ― ドイツにおける美学思想の現代的意義 分はカントの時代の芸術的背景を考慮に入れるべきであろ 値の比較をどのような価値基準によって行なうのであろう う。特に雄弁術は現代の文学ジャンルの通念からすれば違 か。まず美的価値において最高位を与えられるのが詩芸術 和感があるが時代の違いを考えればそれはそれで是認でき である。詩芸術は最も純粋に天才の芸術であるがゆえに準 る。雄弁術はその本来の目的が芸術であることと矛盾して 則や実例を用いることができない。詩芸術においてはある いるとカントは指摘している。それに対して詩芸術は概念 概念にまつわる構想力が最も自由に働く場が与えられ,無 的思考を美感的理念によって活発化するものとして,雄弁 限に多様な形式美を生み出すことができる。そのような産 術にはるかに優越している。 出過程で自由な構想力はしかし悟性との諧和を常に計らね 造形芸術は感官直観(Sinnenanschauung)によって美 ばならないが,その構想力の自在さのゆえに概念に触発さ 感的理念を表わそうとする芸術であり,それはまず彫塑 れつつ悟性概念の領域つまり経験領域から超感性的理性的 (Plastik)と絵画術(Malerei)に区分される。前者は「感 理念の領域へと思考を拡大してゆくのである。カントによ 官の真理」の表現であり,後者は「感官の仮象」の表現で れば詩芸術は「心を拡張し」 「心を強める」のである。こ ある。興味深い点は更に彫塑を彫刻芸術(Bildhauerkunst) のように詩芸術に高い評価を与える一方,彼は雄弁術につ と建築芸術(Baukunst)に区分し,絵画芸術を本来の絵 いては市民の冷静な判断力を狂わせる危険性を持つものと 画術(die eigentliche Malerei)と造園術(Lustgärtnerei) して否定的評価を下している。 に区分していることである。彫刻芸術の対象はその形式が 音調芸術としての音楽が美的芸術の中でどのように位置 自然によって規定されているが,建築芸術の対象はある一 づけされているかは興味深いことである。音楽によって生 定の人為的目的に適合していなければならない。しかしそ ずる快が趣味判断による適意なのか,それとも感覚上の快 のような実用的目的に制限されつつも,構想力による美感 適さなのかカント自身もはきっきり判別できないのであっ 的理念の自由な表出の可能性は残されている。そうだとす たが,ここでの音楽論から理解する限り音楽による快は れば建築物ばかりでなくあらゆる種類の家具類も建築芸術 この両方を含んでいると考えるべきである。既に述べたよ の範囲内に含めることができる。次に本来の絵画術は「自 うにカントによる諸対象の区分は原理的基準に基づくもの 然の美しい描写」であり,造園術は「自然の産物の美しい であって,事実上は程度の差と連続性を許容しなければな 配置」である。絵画術には室内装飾物,調度品,装身具に らない。ともかく音楽は,詩芸術が自由自在な構想力の働 いたるまで含められる。 きによって心を拡張するのと同様に,その自由な律動感に 諸感覚の美しい戯れの芸術は「感官の調子」であり更に よって心を活発化し生命感情で満たす。しかし音楽による 音楽(Musik)と色彩芸術(Farbenkunst)に区分される。 快はむしろ快適さの快により近く,その点を考慮に入れる しかしカントはこれらの芸術が惹き起こす快が快適さの ならば理性の働きから音楽は最も遠ざかる。そのような観 快なのか美感的判断に伴う快なのか区別が困難であると言 点から評価するとすれば音楽は「その他のあらゆる美的芸 う。 術よりも価値が少ない」ことになる。しかし詩芸術での言 以上のようにおよそ二分法にしたがって区分された美的 葉による表現過程では一定の意味的,韻律的脈絡がそれに 芸術の各ジャンルは,その二つ以上が結合している場合も 対応した一定の心の情動感を伴うとすれば,音楽での律動 多い。演劇(Schauspiel) ,歌謡(Gesang) ,歌劇(Oper) , 的表現過程でも一定の心の情動感を生ずるものでありそこ 舞踏(Tanz)などがそうである。しかしこのような複合 に概念との関わりがないとしても,言語表現が与える理念 的芸術によって趣味判断の適意がいっそう付加的になると と類似する理念を想起させるとする考え方は大いに注目に はいえない。カントは再度享受による快適さの快と合目的 値する。 な形式美による適意の快との区別を確認すると同時に,趣 美的芸術であるための必須の要件は,趣味判断にかなっ 味判断の理性的判断との親和性及び芸術美に対する自然美 ているということ,すなわち形式的合目的性を十全に具備 の優越性を強調している。美的芸術が概して快適の芸術の していることであった。そのような判断が生ぜしめる快の 傾向を帯び易いことをカントは戒めるのである。単なる享 感情は決して感覚的な快適さではなかった。そうするとい 楽や気晴らしのための快適の芸術は心の開花(Kurtur)を かなる概念にも基礎づけられないで,もっぱら感覚の戯れ 促進しないのである。「総じて自然の美は,人がそれを観 としての音楽はカントにしてみれば何としても快適の芸術 察し,判定し,賛嘆することに早くから馴らされるなら, の部類に属すべきものと思われるのであろう。その点造形 7) うえで述べた前者の意図のために最も有益である」 とカ 芸術ははるかに明瞭に概念に裏づけられていて,構想力を ントは述べるがこの前者の意図とは理性的判断力の促進で 介して悟性と理性の緊迫した関係を感性的に示し,それだ ある。 け我々の認識能力に訴えかける力が強いのである。 「造形 カントは上に述べたような芸術ジャンル相互の美的価 芸術は変わらない印象をあたえるが,音楽は変わりゆく印 ― 311 ― 岩本忠夫 象しか与えない」とカントは言う。音楽はたしかに趣味判 性的自律とそこに由来する人間の尊敬とを決して損なうも 断に求められている独自の認識能力に対してより間接的に のではないということである。 しか関わらない特徴があるのかもしれない。そのような意 味でジンメルが言うようにカントはやはり主知主義者であ ると言える。 趣味判断の仮象としての矛盾の解決 カントの『判断力批判』は大きく二つの部分から構成さ れている。第一部が「美感的判断力の批判」,第二部が「目 人間の中の動物性と人間性 的論的判断力の批判」である。カントの美学論として本論 音調芸術は美的芸術と快適の芸術の両方の要素を含ん 考が考察の対象としているのはその第一部である。この第 だ芸術であると考えられる。しかしそのようなことは現実 一部は更に二つの部分から成っている。第一篇が「美的判 の芸術品では幾らでもあり得る事である。一つの芸術品に 断力の分析論」,第二篇が「美感的判断力の弁証論」である。 芸術を区分するうえでの二つの原理が同時に存在していて これまで主として作品内在解釈の作業を進めながらカント も差し支えない。カントはそのような複雑な混交物として の美学論の本質的部分を明らかにしようと努めてきた。そ の現実を強引に両極に引き離そうとするのではない。ただ して今や第一部,第一篇の終わりまでたどりついた。その 現実を構成している複雑な要素を原理的に区分けして知的 際彼の美学論が特に現代的諸状況を解明する上でどれ程の に整理する手続きを厳密に進めているだけである。特に現 照射力を持ちえるものであるかを同時に考えてきた。ある 代のさまざまの芸術ジャンルでの複雑極まりない芸術活動 事象をできるだけ客観的,本質的に考察しようとするとき, の所産をまのあたりにすると,その複雑多様さに呆然とす その事象が人文的,社会的なものであればあるほど,ある るほどである。しかしそのように芸術の複雑化が進めば進 明確なパースペクティヴを前以て獲得していなければなら むほど,その芸術性を判定するための基準としてカントの ない。本論考の最終的目標は必ずしもカントの美学論自体 芸術論及び芸術区分は有益な示唆を与えてくれるものであ にあるのではない。むしろ『判断力批判』は我々が直面し る。 ている状況を明瞭に理解するためにきわめて有益な観点を 人間が人間として他の生き物から区別されるのは,人間 与えてくれるものである。 のみが知性を持っているからである。カントはそのことに 判 断 は そ れ が 普 遍 的 妥 当 性 を ア・ プ リ オ リ に 要 求 人間性(Menschheit)の根拠を見出している。これは彼 できる限り,その判断に関する矛盾すなわち二律背反 のみに限ったことではなく古代ギリシャ・ローマ時代以来 (Antinomie)を必ず解消することができる。このことを ヨーロッパ人が獲得したこの上なく貴重な信念である。し カントは弁証論的(dialektisch)であると言う。そうする かし同時に人間も同じ生き物の仲間である宿命を免れる と美感的判断も本論考(Ⅰ) (Ⅱ)で十分検討してきたよ ことはできなく,本能的に生命の促進を求めてゆく動物性 うに普遍妥当性をア・プリオリに要求できる判断であっ をも併せて認めなくてはならない。我々はこの人間性の原 たのだから,その判断にある二律背反が生ずるように思わ 理と動物性の原理との緊張関係の中に生きているのである れたとしても,その矛盾は見せかけの矛盾,すなわち仮象 が,しかし人間が真に人間であるためには前者の人間性の (Schein)であって当然それは弁証論的に解決を与えるこ 原理を深く自覚していることが大切であろう。 とができる。カントは美感的判断において一見二律背反し 広い意味での理性的,知性的認識判断能力を人間が備え ているように見える定立,反定立を示しその仮象性を明示 ていて,その人間固有の主体的,自律的判断で己の行動を しようとする。定立は「趣味判断は概念を根拠としている 律することかできるということ,このことの中にこそカン のではない。なぜなら,さもなければ趣味判断に関して論 トは人間の自己尊重(Selbstschätzung)の根拠を認める 議することが(証明によって決定することが)できるから のである。そのような知性的判断に伴って生ずる適意は身 である。 」8)であり,反定立は「趣味判断は概念を根拠と 体的,感覚的要因によって生ずる快適さから区別される。 している。さもなければ,趣味判断の相違にもかかわらず, 快適感はすべて享受的な楽しみの中にあるもので,動物 その判断に関して論争すること(他の人々もその同一の判 的生存本能に根拠づけられているものである。したがって 断と必然的に一致すべきことを要求すること)すらもでき 我々の非常に多岐にわたる楽しみはすべて,「健康の感情」 ないからである。 」9) である。この仮象として表れる二律 として生の促進,身体的健康の保持・増進に役立ち,その 背反に関してカントは,この定立と反定立の,趣味判断の 要求を満たしていることを示すものである。その限りでは 根拠となるべき概念が本来別のものを指示しているべきで カントは快楽説の創始者エピキュロスの教説を承認する。 あるにもかかわらず,両者において混同されていると指摘 しかしそこには一つの断固とした限定が設けられている。 する。すなわち定立で意味している概念は「規定された諸 それはこのような人間の動物的生存本能が人間に固有の理 概念」である。しかし趣味判断に普遍的妥当性を与える根 ― 312 ― ドイツにおける美学思想の現代的意義 拠は決して規定的概念ではなかった。しかし規定的概念で 論」ではなく「合目的性の観念論」である。もし実在論で あることが不可能であるとしても,やはり趣味判断の根拠 あるなら対象と合目的性との現実的一致が与えられるであ としてある無規定的概念があるにちがいないのである。一 ろうが,観念論として対象と合目的性との一致が概念的目 方反定立の際に意味している概念は「規定されていない概 的の欠如したまま主観の内にア・プリオリに生ずる判断で 念」である。そのような概念であっても趣味判断に普遍妥 ある。もし我々が趣味判断において対象の実在的合目的性 当性を与えることができ論争のための条件を満たしている に依存するならば,その判断はア・プリオリなものではな のである。 くなってしまう。例えば美感的判断の対象が自然物であっ 我々が何かについて判断を下す場合,それは何らかの て,その判断が自然の目的に依存しているものならば,そ 概念的根拠を必要とする。既に『判断力批判』の序文は自 れは他律(Heteronomie)の判断になってしまう。また判 然概念と自由概念の根本的区別に言及していた。第 57 節 断の対象が美的芸術の場合でも,その芸術品が実在論的目 の注解Ⅰもこの根本的区別を,新しい文脈の中で再確認 的によって産出されたものであるならば,その作品は快適 しようとするものである。自然概念はここでは悟性概念に さを目的とするかまたは概念的目的を追求しているかであ 対応しており,自由概念は理念に対応している。理念にお り,美的芸術の条件を満たさないことになる。 ける表象は対象の認識ではなく,対象との原理的連関であ る。そのような理念は美感的理念と理性理念とに区分され 趣味判断と人倫性 る。前者は表象を直観でとらえ後者は表象を概念でとらえ 美的なものが人倫性(Sittlichkeit)と深く関わっている るが,両者ともその表象に認識を与えることはできない。 ことにカントが常に言及し続けてきたことは特に注目しな 理性理念がある表象を概念でとらえてもこれを認識でき ければならない。第 59 節は美が人倫性を象徴しているこ ないのは,その概念が超越論的概念(ein transzendenter とを直接指摘している。ある概念の実在性(Realität)を Begriff)だからである。このような理性概念に対して悟性 証拠づけるためには,その概念についての我々の直観が前 概念は経験的裏づけをともなって十分に認識できる。カン 提されねばならない。それが経験的概念であるときは実例 トは「美感的理念は構想力の開陳不可能な表象」であり「理 (Beispiele)によってその実在性を立証するし,それが純 性理念は理性の論証不可能な概念」であるとも言う。たと 粋悟性概念であるときは,図式(Schemata)によって立 えば愛とか名誉といった理性概念は,理性的判断が自由か 証する。しかし理性概念としての理念の実在性を論理的認 つ必然的に生み出した概念であるがそれを経験的,直観的 識として立証することはできない。なぜならその理念には に捉えて論証することはできない。しかしそのような理性 直観が伴うことがないからである。ではそのような直観の 概念(理性理念)であっても美観的理念であっても,それ 範囲外にある概念に感性的直観を与えようとするならば, らを人間の理性が客観的概念として,または主観的直観と どのような方法が可能であろうか。カントは象徴 (Symbol) して各々の判断の原理にしたがって捉えているのであり, による感性化を挙げている。たとえば三角形といった悟性 それらの判断は普遍的妥当性を備えている。 概念はア・プリオリかつ直接的に例証できる。しかし平和 自然が天才の主観に与えている,美観的理念を捉えそれ といった理性概念はいかなる感性的直観も結びつかないの を描出する能力はそれ自体自然の中に含み込まれており, だから,構想力がその能力を拡大してその概念を何とか感 それが天才の心の中で「概念一般の能力と合致するための 性的直観へともたらそうとする。たとえば平和という概念 構想力の合目的的な調和の気分にしたがって」行なわれて をハトの概念によって感性化したとする。そのとき平和と いるかぎり,たとえそれが主観的判断であるとしても趣味 ハトとはまったく別の概念であるはずだが,それでも構想 判断と同様に普遍妥当性を持っている。このような自然か 力がある概念を直観化するときの思考の手続きをたとえ類 ら与えられた美感的理念を捉える天才の能力も,判断力一 比(Analogie)によっているとしても踏んでいるのである。 般を支えている超感性的基体 (das übersinnliche Substrat) その直観化は間接的であり反省的であるよりほか仕方な とカントが呼んでいるある無条件的なものを前提としてい いのだが,それでもこの象徴的な表象は直覚的な表象様式 る。 (die intuitive Vorstellungsart)の一種として,その一つが 図式的な表象様式(die schematische Vorstellung)であ 趣味判断における合目的性 るとすればもう一つは象徴的表象様式(die symbolische 趣味判断をその合目的性の特質から位置づけすると Vorstellung)であり, 共に描出(Darstellung)または例証 どうなるか。まず趣味判断はア・ポステリオリな経験論 (Hypotypose)によって伝えられる。カントはこのような (Empirism)ではなく,ア・プリオリな理性論(Rationalism) 象徴的な表象様式による描出にドイツ語は富んでいると としての判断である。次にその理性論は「合目的性の実在 して例えば根拠(Grund)を支え(Stutze)あるいは土台 ― 313 ― 岩本忠夫 (Basis)と表現するなどを例示している。 美感的判断力が理性的判断力を促進し,逆にまた理性的判 美感的判断力に方法論は存在しないとカントは言う。既 断力が美感的判断力を促進する。このことはまた美感的判 に述べてきたように客観的な概念化が不可能である美感的 断力が退化してゆくと理性的・倫理的判断力も退化し,理 判断力の特質からその学的法則化はできないのであった。 性的・倫理的判断力が退化してゆくと美的判断力も退化 ただ芸術作品それ自体が一つの範例となり得るのみであ してゆくことを意味している。もっぱら快適さと身体的生 り , 師から学ぼうとする芸術家たちはその範例に触発され の促進ばかりを追い求めている現代的状況がそのことに当 て,その主観内に師と同様の心の状態を自然発生的に生ぜ たっていなければよいのだが。人間を他の動物から区別し しめることができるのみである。同じような趣旨において ている人間性を裏づけている,一つの判断力としての美感 自然の美を捉える能力あるいは美的芸術を理解する能力を 的判断能力を開化させようとする努力を我々は怠っている 養うための学問は存在しない。ただあるのは間接的な方法, のではないか。その兆候は現代のいろいろな局面で感じ取 すなわち古典文学を通じての趣味判断のための「心の諸力 ることができる。 の開花」 (die Kultur der Gemütskräfte)を促す以外にな 文 献 いのである。カントは,時代が進むにつれて我々が自然に 直接触れる機会がますます少なくなるだろうと予言してい 1)Immanuel Kant : Werke Band Ⅴ Kritik der Urteilskraft る。そうだとすれば美的芸術という範例によって自然を心 und Schriften zur Naturphilosophie. Herg. von の中に感知し,そこに外的規則と内的自由の調和を自覚す Wilhelm Weischedel. Darmstadt. 1983. S.404. ることが大切となるだろう。カントは『判断力批判』の第 2)Ibid. S. 405. 一部「美感的判断力の批判」を次のような言葉で締めくくっ 3)Ibid. S. 411. ている。 4)Ibid. S. 413. 「畢竟するに趣味は,道徳的理念の感覚的表示を(この 5)Ibid. S. 414. 両者に対する我々の反省に含まれている或る種の類比を用 6)Ibid. S. 420f. いて)判定する能力である。この場合に快は,かかる判定 7)Ibid. S. 429. 能力と,道徳的理念に由来する感情(これは道徳的感情と 8)Ibid. S. 443. 呼ばれる)に対するいっそう深い感受性とから導来される, 9)Ibid. なおこの感受性もまたかかる判定能力に基づいているので 10)Ibid, S. 465. ある。趣味が,単に各自の個人的感情だけに妥当するので 11)哲学辞典,平凡社,1992. はなくて,人類一般に妥当すると断定して憚らないところ 12)原 佑:カント全集,第八巻,理想社,1988.(カント の快は,実にこのような快なのである。そこで趣味を確立 の原典からの引用訳は哲学の専門用語への配慮から本 するための真正な予備的訓練は,道徳的理念を開展し,道 書の訳に従った。 ) 徳的感情を涵養するにあるということが明らかになる,真 13)篠田英雄訳:判断力批判(上) ,岩波書店、2005.(10) 正の趣味は,感情が道徳的感情と一致せしめられる場合に 10) のみ,一定不変の形式を帯びることができるからである。 」 ― 314 ― の引用訳は本書の訳に従った。)