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第十一号 - 法然上人鑽仰会

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第十一号 - 法然上人鑽仰会
第四十 一巻 ・・
第十一号
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可行
品川興便物ロ可V 師月一回 -日且
制和十句五月二 +n
(m副拘 三十開館内月= ト八 n u M舗
H 省(特別出門最包漕}
総筋三三 E 時
-a 喝行
Eト住 1月=十 五目印刷劇印刷五十年十一月
副町拘
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、,
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、
、
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作 み合 ふ ζ
校拶十政衆
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今月は教
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ド〈さた山てお念仏
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合せて仏間
人なあやめた Faハ
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、
めまずとな十川けとたり闘
人 ANニ-とが伐拶とたります。
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巡のい仰となり
、平和 の相と
、
品川刑制ばかりJ制ぼ必人てはありません。
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いて 合 せますと
争の相(すがた)とにつま寸、山っ
知た償金捌
京〈て〉宮山り
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有応えた役
人んなで本総たた
以化かけト伐の市内川刀子とた勺てい烹寸。
久門,受信前川・・卜訂正的 HLFL1リ、 .b似川川吋
11m去
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死刑制の教級生絞けていま寸が
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平日1
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、
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MAAH
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一氷山中が側々
お五も卯の qkf-A
こ L 会侠妙と
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.
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十 一 月号
ー
目次
拝み合ふことが民拶 I'~支衆 ...・ H ・.... .・H ・...…………………..一回善努
阿修.Ilと死と仏縁と・… H ・ H ・....・ H ・.....・ H ・...・ H ・.....・ H ・. .…一村上
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1
.
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沖縄開教の祖袋小上人...・ H ・. .……… ………………'"・ H ・....嵐
瑞激…(6)
完 … (2)
一一袋中寺の再建;8獲を祝して一一
現代のモラルを考える⑨「争い」
践と妨の問題………・………...・ H ・-…'"..・ H ・. ..・ H ・- … H ・ H ・-岩井信道… M)
汗藤昭俊…帥
普恵、の相克…...・ H ・..…・・… H ・ H ・.....・ H ・....・ H ・.....・ H ・-……・成田俊治… ó6)
ご法酌こいただく
ìt;然上人の人と生前 îb
女性たちへの 1IW.æ....... …........・ H ・...・ H ・-………...・ H ・..… ~U
図正道 ・ 'Ó9)
ハワイに生きる (1 11 ) 一日系入社会史ー.,.・ H ・.. .....・ H ・ H ・ H ・...新
{京畿道 …同
・の四季⑨円応内師寂宝元光…………....・ H ・..…………… "f~
錦洞… 悌
釈経歌集「続々法の衣」に就いて⑤.........・ H ・-…....・ H ・ ... :ú
品俊徳…伺
念仏ひじり三国志.Jj}訟然上人をめぐる人々 ...・ H ・.....・ H ・. .……守内大吉 …帥
表紙久住静雄画
カ Y 争
、 .t.k学賞衡舗
後
、
、
、
、
、
か た。品食
、
気を散ら
、
し てもな
らないとおもい
、
、
上真究
助 教段)
(東北大学
、
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ト
突然階
『マハ l,pl ラ9 』の一節の利訟のノ
何行か 川 き進んでいっ十。そのとき
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のただならぬ戸がした。くにか池に協ちていたの
を作りはじめ
、
、
私どもは子を失った。親の落度によって子
し…・2
、
広は建築 材 を運 ん でいた。 数十本ずつ立てかけてあった角材
二十五年 前 日校一年の刀具体みであった父
。にしたがって
は過去からの自分をかえりムることにもなっていた。
これは忍にもこたえた。まんじりともできないまま "での夜
が死んた。母親として実には大きな打繋であったようだか
こんなことで
だ。
一一一以になった 下から
、
まためんどうくさいような気も
、
、
、
阿修羅と死と仏縁と
まもなく家に入ろうとしてぷ関心米ると
、
、
c
、
広はちょっと庭に下りて 池の金魚,L餌を与えたりし
七月二一--円作後 以の日与しが降りそそいで
て
、
、
、
丈夫だろ
ま
た 大
三女のくにが 、外 に出ょうとして 玄関のところに 出 てきて
そのとき
ふ とな
いて、赤いサソダルを 股 こうとしていた
外な気がして 、く にが 外 に出ては あぶないのではないか
、
、
というような%もして
と いう一抹 の不安のようなものがあったが
う
して
そのとき台所か店削にいたらしい主に戸をかけよ・フか
黙ってぷ凶から人り すぐに階段をのぼって
と思ったか
窓から外を見た い気持 もおこったが
、
- 2-
村
'
二階の バ 斎にゆき 、机 の前 に坐った。何たか外の万が気にな
り
t,
、
の中から五寸角を選び出して、門の軒下に運ぶのであった。
そのとき故後に広が一本の角材を別にかつぎかけ がむしゃ
、
らに引っぱると、残りの角材が倒れかけたのであわてて数
、
父の頭にあたった。これがために
、
米た 、訟 の性分や生き方に 、問 地があった
、
、
と%づいた。
、
物心ついて以米 民争の世界において、意識的 無窓識的
、
、
、
緊張と多忙の状態が
、
停滞すること
、
もっともはげしい戦いにあたっている。例えば自
いつも心が休まらない。それが験いのすがただ。そし
いま
、
向
歩前に進んだところ、立てていた角材がみな倒れて、訟が手に、生きることを戦いとしてきたことに気づいた。特定の敵
があるわけではなく、むしろ大ていは口分との戦いであるに
にしていた角材の先 が
上をめざす。そのために、努力も要し
、
んたと思っても、休むやいなや
、
どんどん下に流されてしま
れる川をさかのぼって進むようなものにも思える。かなり進
、
は、仕事の廃業 生活の放棄にもなりかねない。あるいは流
転車は速く走らないと倒れる ι 立ちどまり
て
しても
続き
、
父は意識不明におちいり 五日後に息をひきとった。意識不
明になる直前に、父は私に「お前にあたらないでよかった。危
、
わるかった。この在に二階を矧摂
自分の思うことを通そうとする。また上を望み
なかったなあ」と言ったのをおぼえている。これが父のさい
、
、
いつまでも残っている。
どのことばだったようだ。志の乱暴な、がむしゃらな行為に
よって父は死んだ、という思いは
池を造ったのが
これもいけなかった。いままで通り階下にA 斎があれ
n分の
こういう性分が切放をも起こすことになっ
、
況に口分の生活、仕叫がある。そこに生きがいもあるにして
やっと一月前から二階で仕がをするようになったのだ う。流されてはならしと、ヒろうヒろうとする。そういう状
、
いま、子をなくした。小さい子供が危ない といわれてい
、
、
たのに
、
して
が
ω
もっと注意がゆきとどいたはず。この昆般を選んだとき も、こういう生き方を選び、まもっているところに
ば
、
ことをも合めて、何でも思ったことを、かむしゃらにやって
、
に 敷地のすみに涌水。あるのを比て、池を作るのによいと 性分があるのだ
思ったものたか、これもわるかった。だか、本当はこんな
たのだ。
-L
ゆb
このように、広にとって生きることは吸いであった。そし
て験いを辞さなかった。戦い令官サとするのは阿修蹄だとい
-3-
-・4
、
、
、
、
、
それは
と
この 訟 の阿修羅
父を死なせ 子を死なせることになったのだ
、
生きているかぎり
この性分はなおるだるうか。瞭いでない生き方が出
、
ぅ。との 阿修羅の性分が 広なのであって
の性分が
、
思った。
だが
来るだろうか。悲しいことだが
むりなようだ。
、
むかしほど幼い子供が病気で死ぬことが多く 弱い子供は
生きてゆけなかったよ・フた。大てい廿の詞は下供の死に会っ
著器のはしがきに
、
、
、
仏教研究を始めら
控目にもらしていた。和辻
子供を亡くした
ている。私の親にしてもそうた。訟の恩師の金合門照先生に
、
しても、その先生の字仲介伯舟先生にしても
親の思いを
、
、
子供が病気で死ぬことが少くなったといって
とかいわれている。
哲郎博士にしても子供をなくされてから
、
子供のころを思いおこしてみると、仏さまが身近かにおら
e
父は長いお緩を唱え
、
寺をはなれ
、
、
と
物心ついてか
い ってよかろ
広たちは坐っていた。
、
、
、
仏さまのもとをはなれて
、
祭に住
有りがたいものでと思うようになっ
重い問題でもあった。しかしいつかは 、小 さいときか
そしてこの仏縁をどう受けとめるべきか
、
、
とはいえ皆で仏さまの前に坐っていた 鮮明
c
何事も知らないまま、仏さまは朝夕拝むものた
れた。きっと父や祖母の読経と念仏のμ 官聞いて背ったよう
におもえる
、
、
妹が生まれて一月足らずして死んだときである。
と思っていた
な記憶は
a
こうい・フのが 広にとって仏紙であった
陪いタ万に
う
らの
、
らの仏縁というものを
てい た。
とはいえ
、
み、自民昆に住み、アパートに住み団地に住むようになっ
、
、
大ていはそのことさえも忘れて すさんだ
、
戦をことと
どぴ
いま私は改めて仏縁を知ることになった。泣いても悲しん
、
交通災容をはじめ、チ川加のゆ故が少なくない。判私どもは
て 仏さまに速くなった。これを時々心におもうこともある
3 いきんは
れた
も
、
が
ζとは他人事ではなかったのだ。そして
する生き方をしてきたものだ。
そういう
そういう悲しみに会わなかった。これは孝いなことだとよく
、
思 って いた。
だが
、
-4-
でも死んた子は生きかえらない。やがて納摘し茶児に付しつ
巧
いまやチの死をどう受けとめるか 判私どもの問題となってい
た。
‘
、
、
くにがゆくように
っ くにには繕漢に行ってもらうのでなければ困ると思っ
た。そしてたた縄漢に、阿弥陀仏の同に
、
これが難信の法だと
極楽のことを説く『阿弥陀経』には
と願っていたようだ。
、
、
、
かの国を観ずベし」
、
、
もい を
たいままん
、
、
、
とおもう。
いや そうではなくて
くにはもう
、
、
その仏の凶にいて
、
、
くには
、
い
官私どもの子供ではない。仏の世界に
、
比える。すばらし
い大きなたのしい
ろに仏 警抵のつどいがH
公園た。なくなったくにに見せたい。そこで くにと遊びた
い
、
みんなで
、
南部情阿弥陀仏
、
、
くにの写真に向っ
みんなで お経を読み念仏をとなえて拝
、
、
おがむ。くには仏た。仏の位界から 微笑んで相私
、
、
、
、
、
仏紙が授かった ぽとけさまが授かった ということは
日々良いを市としている阿修繊の世界を生きている小で た
どもを比ている。そういう%がする。
といって
て
む。くにに仏を見る思いがする。いつも
かったのだ。朝夕
る。そして前私どもには仏縁が授かったのだ。ほとけさまが授
もはや
本ど
地もを見ているのではないかともおもえたりもする。
いっている。むずることのむつかしさを教えている。今や
上に未知の土地なく 月世界にもゆける時代に 極楽はどこ
あきらかに
。
にあるのたろうか。何とかしばらく未知の数千億光年の宇宙
、
、
、
、
、
古代人つ仇想力の大きさに驚嘆し その世斜にひか
、
、
、
、
、
大妨なことなのだ
、
+ng
とおもうようにな
5 ー
ま
のかなたに求められるのたろうか。そうではあるい
、
『
観無量 寿 経 』 に は
汝まさにお
「阿弥陀 仏 は こ こ を 去 る こ と 速 か ら ず
かけ て
、
とい い 極来世界と阿弥陀仏を心に観ずることを説いてい
さきの問に対する解答があるようだ。とはい
る。この辺に
級楽を心にえかくことは そうできることではない。
え
当麻蛇
『観然抗 ん 経 』 に も と づ い て 極 楽 を え が い た の が
zb
会をえ
その写真観鍛を借りて凡る機
前躍だといわれる。さいさん
、
恥ともにとって
る。《昭和五十年九月三
で
れた。弥陀三噂を中央にして、池あり迩花あり、楼開あり楠 とい一瞬でも、仏つ伎界にたちかえること、阿修織の性分を
一瞬でもよいから、離れる、ということたろう。それはそれ
樹あり茂みあり花あり 門司あり その中にいたるとこ
あり
』回目・2
-
‘
、
袋中寺の再建落慶を祝して
は七十余名で
この
沖縄開教の祖袋中上人
ー
今度、冷上京沖縄別院良中年の持越と社会制祉袋小闘
大さであった。
、
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嵐瑞激
(兵出m
陣
M山町来迎寺住職)
篠
は川州知市、市長等以内名 k が多数
、
列席されて非常な阪いであった。交別に袋小ヒ人顕彰股
が一宗をあげてのが業として、本土現地一丸となって遂
行され、袋小伊の泌店法.泌が十月三十日に厳修されまし 覧会や 記念伝迎合各誕地で実施し 何れも未刊むの盛
たことは、先のだんヱ別院袋中寺創設に関係したものと
、
沖縄の念仏教化の祖袋中上人を顕彰しよう
、
、
那羽市松下町
地元沖縄の仏教連合会 、史 蹟
大正十三年十月
、
に伶土宗管長山下現有門主の抑惹になる「袋中上人行化
保存会の人々によって
とする動きはそれより先
して、点に布難いことであり、落耐闘を祝して小文・を記す ところで
、
先の袋中寺は附和十二年に 袋中上人三百年遠謀追思
ことにした。
のため 、憤 王法林寺のじケ原良哉師の心願によって辿立
人は、そ
の刊抵抗似貝戊迫枯川
のと
次して誕生された袋小LL
、
般向の惟、天文二十一年勺五五一一〉 制山以内心凶桃川仙
され、同年四月什じ円入仏随時以法会と大必成会が災地さ碑」が建設されたのにはじまる。
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時の数学 mhk
江議激炎師、即日宏〈羽川 L…
、
人阪旬 n新附社が後援し、れケ間以・以説的
れた。この時は し
をはじめ
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-
ぬ叫
の後京都府飯岡両方寺にて凶化されるまでの八十八ヶ年
M主定山均等尼僧六名と拙僧が随喜し、参拝団
袋中施主制H相
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一一一
一一一一一一十
一一一一一一
の生涯は
、
、
、
不倦精進の学解と教 化 に終始された。解行詰
き兄以八しい人(厳白光明寺開山〉と田川って豪放謙虚
、
、
更に足利学校にて校主九筆和尚に禅学更に会悼の円性
、
に制作学、会作の釣叶斎にH初
問 断、
に合館、制向の月内 L
、
、
、
、
好学の一一一つを兼ね備えた偉伯であった。生まれつき俊敏 天女地理 兵法 医術を習得するなど サ九才旧息楢葉
で虚空疎菩躍の化身と祢せられ 叔父存洞師も 出入記の平
成徳寺第十三代を継ぐまで 奥羽関点近畿各地を一地摩し
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ふ可同
、
、
、
出史観のドに訟限叫
同心、三味
、
六時の勤行怠ることなく行軌一雨
、
不俗精進の教化活動を健闘された。
、
五車伝法の確立、中n写会刊本の経山慨を蒐集して一切
、
上人の来航は名辺派紋問の凶同進出 名越派伝汁川の政
の所説が多く
、
神道 、本地もの 長諜瀦の図像部に及ぶ
、
る半百部円余巻の将作、その多くかけほ恕的批判的で卓見
経を市都念仏寺に経維を創建して保作し、内外山内にわた
術
厳絡に
その後円以六万泊
発得して念仏一て昧の行期れとなった。
に捌き、阿弥陀仏の小に真実の自己を且て
十八年に忠心川 Mmの牝介主丸を殺さ
著して均外活動を活発に行った。しかし三十九才の天正
、
や制作山川の的と悉
、袋
党 介入の論滞対祁批判の桜山作六滞を
点字H
巡って大戒を瓜受されたことは求法の熱烈さ、以剣であ
、
、
て、求法に努力された。殊に門防相慌を台制。訟決的正よ
原作川の品により「賢上のに
品処
川する、錐の護小にあるが
如くその未必ず耐火わる」の立の袋中の名を付した程であ り原本の米迎寺にて笠現重受するため 熊野、尚野山を
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拳ー'E:
、
ったことを示すものである。
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った。 L人は欠ノリ如米守 、山 崎のしり称h午 大択の門辿
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かく内外山内に通暁して博覧強以
寺の名越派の諸檀林や榊上寺に入りて学解に精進され
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袋中自家「琉球神道記」巻末 ・兎文〈袋中庵蔵〉
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、
幅広いものであり、上人の蒐集されたもの 著作の小に
、
は現在財宝や車一袋文化財の指定をうけていて学的に公
認なものが多い。
上人の数化伝道は東北 ・近後を中心に南方沖縄に及
ひ、帰依した人々も徳川家康の異母弟訟平定勝の子定綱
や酒井雅楽頭忠凶夫妻、琉球国王尚寧主をはじめ諸大
名、僧侶、在俗庶民庖など広汎であった。それ故新寺の
、
、
述立 廃車寸の従輿二十余ケ寺門弟の教義多数に及んだ。
特に度長七年、上人五十一才の時入明の宿志を来さん
として九州市必方に渡り使紛を求められた 。当時阿海の交
通貿易事情は江戸幕府が開創せんとする時点であり、良
、
泌賊か広的貿易に過ぎなかった。しか
期にわたる戦凶の役、並臣秀古の対外政策によって公的
交渉が聞かれず
府内
・
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肥
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-
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外冊。があり
・
、
坊作
併に倣的仰と疏
怖から大隅、蕗摩の問に入りて便船を
γ
・
し諸外国、特に琉球同より九州各大名の港に米て管貿易
・
平戸
するもの多く活気を円以していた。当時の港に博多
山川
上人はかかる
あっ
球とは衝品川な関門刊
に
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昭和十二年の袋中寺
入仏隠眠法相官の模様
、
此むな
、
ト枕小曾一λ附を挽帯して山泌され開
海賊船まがいの飢聞に船印二本会総て水と食料を杭み
仏俄仏具と研究
門に計作せんとしたが、政明人災怖して入れ子
く速く日米南蛮を担って琉球に入浴された。
当時入明を志した僧に根尾の俊正日明忍があり鹿公十
二年七月出港して入明を企てられたがやはり失敗して
、
対応に滞在された。
求められたが失敗され、ついに法友で平一戸の法
昔与の綜
の機 会 を 待 っ た 。
Vの許に留錫して梁船
滋園長老〈願
誓寺浄土寺聞く寛永六年寂
-8-
l'JIWを去る袋小上人一上人絵詞伝
上人は慶
、
同
長八年沖縄
に到り
十一年同闘
、
この上人の沖縄教化布教は浄土宗門伝道史上の不滅の
上人以前に彼の地に念仏を伝えたるものな
その以後と態も伝道したものがない。
功楽であり
、
川v
巳は涼く上人の午徳に帰依
政側球同第二十四代のm
尚m
く
に及ぶ土産品として文化財を贈り
、
情口問など三十六円附
、
それが現在柄王法林
HH
只掛紋
なし
して、は怯川仲与を郊覇市久戊地町に剣山比して四恨の供誌を
寺宝蔵に収蔵されている。
LL
人帰朝に際しては
をいA
い
るまで
の地にあっ
、
二一ヶ年余か
て念仏を弘
この外貴族〈大名方〉士族、平氏の各階層からも多く
、
泌された。
・
砂結 織
・ 物〉に功労のあった
、
のわ民引がいた。特に土荻でれH以
の
M内
位階を持っていた役人
鱒じ家が山た。
常のような資生応接(府宇
このことは
、
、
琉球
琉球三
のん尚切の為に琉球神道山 流球往来を帯作し 儀 mwM
々
琉球の史
代記
郎つ人形芝居に見られる念仏一回仰はゆがめられた獲であ
アンニす村の京太
っても、球防に必ず如くよ人が経典の佳句に基いて、白押
、
山世制問 球
俗寸をもって人々を教化した泣徳を偲ふことができる。
現在日桜花、小禄u
、H志の三浄土役
川向に必慨さ
探を継ぎ、過去
今度の再配の好&を逃せず、ム人のが
H
中
れて、教化
にそうであったように沖縄人の袋中寺として活発な活動
、
の拡大なり
関内記
しことを知
を切望するものである。
、
ることがで
きる。
ー
9
-
嫁と姑
山
石
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し、
道
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るのでしょう。ここに災例
kJ
〈第九回 〉
現代のモラルを考える
時
、
、
本来も近くなった学生に
その点訟を与えてみたいと思います。
若い人込も楽しく非すことがで
を御紹介して
「皆さんはどの様な結婚を望みますか」
両混と別仰山であること
Ll
、
こ
10 ー
-
ある女子短大で
-
と附いてみるとその答が
自動車があること
月収
五万円以上のこと
3
2
、
これか節目であります。その 小 で両殺と別的のこと
、
これ等の答が一番多くあったそうです。愛情なんかどちら
、
でも・以いので かなりの生活を安定しておくることができ
る
れは実際には双方とも気楽で良いのにはちがいありません
、
そうもできない場合もありますし 愛情こめて 一生懸命
んでいる人 が多い。女性だけのことではなく これにまきこ
、
に打てて米た両親には全く不本意なZ素であります。
、
が
まどまだ円本の社会にはこの 間 岨で悩
ヘ
浄土宗布教師会近後支部HRJ
f
京都市伏見区阿弥陀寺住職、
,
まれる男性諸君は 、本 当になきけない思いをさせられるので
、
題
nf
争
問
井
ありま す。どのよ・つにすれば幸せな家庭がきづけて老人も
少し話 題は古いが
の
'
、
ることになりました。上のイを主人つお除さんに制んで行く
お賭さんが二人目の子供を産むので自分。里へしばらく仰
、
と平気
ますと 娘はやはり二人キリの気楽な所へやりたい
-R
犬
でいいました。貰う嫁はみっちり訟が教
日
す科
る、柏駅
は朝棋のい
同し位の年頃の凡と昧を持った家庭か二併ありました。都
合よく妹娘 を
一交換して二組の新婚さんができました。つまり ない所へ。何とも理屈に合わないことをこのお母さん気がつ
m変
AH
娘を嫁にや っ た 先 か ら 息 子 の 嫁 を 貰 っ た わ け で す 。 大
いているのでしょうか。
の良い話でしたが、片方の家で、お母さんとお母さんの仲が
+R-R
わるくなりました。頑問なお母さんがどうしても壊を隊縁す
るというのです。お父さんや息子がなためまして、
、
、
はは
l
ト
の中で一
うちの嫁には何か私に知られたくない
l
、
、
あけてはならないと官
お母さんに取ってはどんなに不便な
、
X った一ことに
不愉快なものであったでしょう。お嫁さんが
われた抑入の一角が
つのものでもさがそうと思いますと
ものがあるのかしらと思いました。せまいアハ
お母さんは
と何気なく言い残して出かけました。
て下さいね」
「お母さん、すみませんけどここだけはあけないようにし
ることができなかったので
、
「もしζの嫁を離縁等すると、先方へ縁づいている家の娘 のですが 自分が平常使用している押入の一角が充分片づけ
も r
小学になるよ」
と申しますと
「いいえ広の娘にかぎって思いことはありません。打開され
る理由はありません」
といいます 。どこかに自分勝手な考え方があるようです。
-R+R
ある人が年頃になった息子の嫁をさがしてほしいと宮って
頼ん でまいりました。
、
「お宅には娘さんかありましたねあの五はどうなのです」
「ハイ娘の方もよろしくお願いします」
「汚れものが入っていてはずかしいから」とでもつけ加えら
そこでお嫁さんはどのよ・つな人がよるしいかとさきますと、 れていたら本当に何でもなかったのです。お付さんは微笑な
がら
お協喝さんの下着でもお洗溜でもしてあげていたζとで
しょう。お互い一言の立葉づかいにも気をつけると共に、相
、
ように教えたいと申します。娘さんはどのような所へと聞き
やはり若い娘を貫いたい、そしてせいセい自分の家風に合う
-11 一
‘
お母さんの時には、息子の月給で親子夫婦孫の間人か充分
手の言ったことを曲げて受取ることのないようにしたいもの それを機会に主輔の座右お嫁さんにゆづりました。
です。
、
i
買
+R
暮せて 少々の預金もできました。ところがお嫁さんがやっ
お母さんが遠方へ嫁かせてある娘の所へ久し綴りで出かけ てみると、たちまち赤字であります。お嫁さんはお母さんに
ました。生みの娘の所ですから気波がございません。つい十
手紙
さんはとうとう家出をしてしまいました。
、
実家の父も出してくれなくなりました。闘ったお嫁
五千円一万円と抗って米ていましたが、あまり総月のことで
、
すので
廿っても出してくれないし、ル仏万なしに自分の史家へ行って
、
お小使いも少なくなった.たろうと思いまして
こんなに永くいらしては活物にもおとまりだ
日程と思っておりましたのが一ヶ月にもなりました。
、
お壊さんは
ろうし
嫁がやってできない筈はありません。足りないのを出してあ
お母さんに立わしますと、本かすれば少し残りますのに、
気でしたらごゆっくりして来て下さい お小使いを送りま
げることは知っていましたが、苦労さずのも一つの経験だと
、
す」という親切な手紙であります。他人から見ればよく気の
思って
と共にそれ等のものを送ってまいりました。「お体さえ御元
つくお線さんたと思われますが、お母さんはそうは思いませ
してくれなかったのでしょう。
r
まっていたのです。何故、刊紙に家計のやり点を相殺
, hg
のA
んてした。
「もう帰ろうと思っていた時に、この綴なものを送られて
けただけでは世のやを被れるも のではあり玄ぜん。
お母さんには豊富な経験と知織があります。今のお嫁さん
は、何故それを学ぽ・フとはしないのでしょう。学校教育をう
、
帰ることができません。これは嫁が少しでも長く訟を
安
は
ですからね」
-R
こちらにおこうと思うからですよ。私かいなければ、句業
d
んはこう思うのです。
、
をして州っていたたきます。それは結構なのですが お嬢さ
どうも因った受取り方です。もう少し索直に人の親切を喜べ 息子のお友達がよく遊びに来ます。お母さんは大変行届い
た人ですから充分すさる程おもてなしをしてお群保には満足
ないものでしょうか。
-R-R
今まで家計を受持っていたお母さんが病気になりました。
'
せめて主人のお友辻がホた時には訟がおもてなしなしてあ
げたい。しかしお母さんが内はくして下さるので、口分の出る
時がない。お母さんのお料理はおいしくて訟にはとてもでき
ません。お話もお母さんが上手です。でも、下手でもいいか
ら主人のお 友 達 に は 私 も お も て な し が し た い の で す 。
G
他人から見れば三人共
、
これももっともな話です この家庭はかつてはお母さんも
お嫁さんも学校の先生であり、主人は現在もおっとめです。
いわゆるインテリ家庭でありながら
によくできた人でありながら、夫婦離婚という悲しい棋にな
、
この家に仏檀も神棚もなかったことです。いわゆる無信
りました。どこかにやはりかけたものがありました。それ
は
仰の家庭でありました。
現代の思想は社会主義、実存主議、科学主義によって代表
されているといえる。特に社会主義と科学主義の影響は大き
とを教えます。そして災に相手の立粉に立って物がを行える
日仰はまず、相手を批判する前に、n 己を深く以約するこ
以上あげました極 Aの例はすべて私の開聞の人々の中にあ
った史話を御紹介したのであります。
解や窓凶をかくすことは共車問主技者の恥といわれるが、お互
ておさえて成功する。現代はこの影級官が非常に強くれ分の丸
北盤としている。いいAH
いをし、相官γを屈服させ、カをもっ
ことでの入成功するといっている。つまり、ここでは小いを
では階級闘争によって既与の全社会組織を β により紙粧する
マルクス、ェンゲルスの「共産党日付」にすべてこれまで
'ν
ことができるようになりますと、その家庭がそのままおか土
って屈服したり、いいまかされたりして、来して
ζに
そ平安
の社会の雌史は階級闘争の歴史であるとかかれている。そこ
のような楽しいものになりまして、娘と姑の問題なぞ、何で
円
俊
昭
藤
斉
に、いい合い、止揚しようという形式になっている。カによ
+R+
一大正大学教俊一
もないことになるのではないでしょうか。
- 13-
三弘
‘
があるであろうか。
の中で、組略であってはならない、無礼なことをしてはいけ
ない風潮を助長した。人間生活の中には合理的で実証される
をもてといっている。常にへり下った行為、気持をもてば、
をすべておさえている。対大己訟という A物では、謙卑の心
ている。これはやいのもとを全くなくすことで、小いのもと
ない、人を応鹿にするようなことをしてはいけない、といっ
ものばかりはない。心情的なものや、精神的なものはいわば
科学主義の小でも史柾されないもの、不合理なものは認め
理n
化しよ
不合理なものである。すべてを分析し対立化し、AA
そこには争いは生じない。
親驚上人は越後浄興寺サ一条禁制の中で、無知国の身をもっ
うとした動きの影響が現代に大きな後遺症をのこしている。
それは精神的不健全性である。
、
仏教では争いのもとをなくし、自己を反省し、相手をよく て誇論を好むととを禁じている。何も分らないものが いい
理解することによって解決しようとする総合性的方式をと 合いをする必要はない。人間なんてものは全く融かなものな
ともに、一緒に追を求め
きる。本には弟チは一人もいない
伝教大師の根本大師臨終遺告の中に、おこったり、なぐっ
ω
令いの磁をつくることになる。それよりは、相手の違う怠見
る同行者なのだといっている。全くすばらしい言葉である。
のだ。その瓜かで 、何も分 らぬものか 、何んでいい合いなん
る。法然ヒ人のじ何条制誠に、別の考えをもった人といい合
。そこで いい小いをし
いをしてはならないといましめている
かする必要かあるかというのである。また、 h
例名な歎処紗で
ても何もならない。いい令いをすることによって錨々一巡った は、本の弟子、あなたの弟子とい・っと、そこにいさかいがで
をよく観察し、己れの立場を考えて行動した方がよいと教え
って、いい合いをして、利口な人から笑われ、馬鹿な人をま
ているのである。また、同じところに、自分勝手なことをい
、
たりしてはならないといましめている。これは僧侶の共同生
延磨寺禁式第二十二条の中に
どわすようなことはしてはいけないといっている。口分の母 活をいましめたものであるが
- 14-
箇条の誠の中には眠れ泌を起してはならない、他人の好忠をい
えだけをのべたところで必ずそこには足りないところがある も、闘争、照宮はいけないとしている。また恋心伯郡四十一
し、そんなことでいい争いをしてもいいことはない。人をま
、,
ってはならない、安部はいけない、人を恨んではならない、
どわすこと だ け た と い っ て い る 。
追従してはいけない 、人 を凝ってはいけない、成議してはい
道一%禅師は坐禅弁巡の仕方をのべている弁近法という引物
,
F
ロヅ ハ
人は自分速の行きづまりな感じて、東洋的なも
の、仏教的なものに自を向け、仏教に対して31 ロッハ人は
ヨ l
けない、極言、山中守川をいじてはいけない、他人の物を併用し
直接に按しようとしている。字笛の総体は色心で表わされて
けない、無礼放守口は気にとめてはいけない、人を打つてはい
てはいけない、多言戯笑はいけない、口論をしてはいけな
存在ではない。色心はそのまま如来の理初であると考えられ
ている。色心が只っていても、もとは一つであった。本来不
、
色は問中なる物質的存在ではないし 心は Mm
に精神的
こであった。だから、対立のままが統合で、統
AH
のままが対
、
のない平和な世界は仏教ではやはり基本は、個々人の心のお
い、問答諭ぷを好んではいけない、というようなことが』か いるが
き方にあることを指摘している。個人が今いのないことを刻
立であるというのが仏教の考え方になる。西国哲学では絶対
れている。そこには争いのない世界が想定されている。争い
むならそう い う 世 界 . か あ る こ と を 教 え て い る 。
矛盾的自己同一といった。ここにはあるべきものとしては、
、
争いのない平和の世界があるがあるものとしては争いの世
現代世耕では、袋、社会、同家の内外にφ いがみちてい
る。新興宗教は戦後の欠陥、病、賞、争いに日をつけて信者
界がある。そこで、あるべきものを知ることが必要である。
ことである。つまり、仏の教えに目覚めることが、争いの世
mm介にいく
間を伸ばした。病と争とは仲々解決できない。家の巾では嫁
界から予いのない世界に人ることになると与えられる。
と姑、社会にあっては労働組合、学生巡動、住民運動、制白 あるへきものを知ることが無明の此界から、明の
段たるものは戦 φ である。 φ いは無バの φ いから、門論、喧
棋による心作用に求め、
・
の、ゃいの世界に生きながら、型の、仏教の、ゃいのない伏
のない仏の世界に、私迷は生きることができる。広迷は俗
俗世間、つまり争いの世界から、聖なる世界、つまり争い
者運動と、対立は激化、論争は益々践んである。国家間での
・
限
嘩、闘争、革命、戦争と数限りない形式で行われている。仏
教は φ いの原悶となるもの食
その解決をはかった。
ζとができる。それは、仏教を信じ、仏教を知
り、仏教を行ずることによってできると説く。たとえば、念
界に生きる
でいる。広川出は仏教の教えている心による、総合性による解
仏を行ずることによってそれができる。現代最も必要なもの
は仏教的な行や信であるといえる。人間の額廃の一つは、や
反、合の対立によるのではない。
決を忘れてはいないか。世の中は、世界は必ずしも、正、
社会主義、科学主義がとうとうと流れ、すべてをおし包ん
15 ー
-
、
相手を威圧し
、
やっつけ
争いをかりたて
、
人間疎外
といわれる如く
緋させ
、
、
制神的荒廃を深め
一五ではそれがより本
銀的な生活立欲を麻
白己焚失をもたらし
、
、
その獲得へ。道程は 冷酷刷なまでに他
、
、
して征服欲
ていることも事実である。人間の際限のない物質的欲望
そ
、
争いのた
権力欲
白己の利
、
、
hrいのもとをたくそうとする。そこに仏教行者のやいの
、
いの世界の讃夫であるといえる。仏教は予いを讃美しない
し
、
な い世界がある。争いを讃突し
めに怒りをかき立てて
・
民族聞の対 Z。また国家憶力
・
社会秩序に
益を得る争いの陀川介は、限りのない矛町を生み、限りない今 を伽つけ倒して主で仰げようとする修岬仰の枇界にも等しい。秒一
強
・
、
、
日々人すべてこれを符定し 平和の
拡張だけの抱力闘争。そしてまた現象的な平和を破壊す
、
挑戦しようとする体制運動 平和刊を口にしつつ自己自派の誇
いを継航していく。・てこには永遠に平和がない。私斗は現代 界的には国家間
の争いによって組み立てられている社会を仏教的に見直すこ
あるべき社会を知ることかできるである・フ。
、
・
、
人頭の掌福を川町ぶか 自己自 身 にかかわる問題となれ
るが如き争いに対しては
回復
、
他人の
F
に負けさせたくない親の腕や心
、
ば感情をむき出しにしてまで争う人びと。また隣人にれけま
いとする虚栄心
正には家庭における貌と子の断絶。
、
このように広達のまわりには争いの渦が幾重にもまき 人
争いのみにくき
、
恐ろしさに来してどれほどの人が気づ
、
生これ妥協と闘φ といわれるのも半ば理があり 仏教でい・フ
俊治
、
〈仏教大学数授〉
き
闘m の松山介とでもいえよう。このような闘坊の束縛に気づ
、
いているである・っか。たしかに現災社会の自H比
にえる争いに
、
しかし
、
白己の内に目をむけ
争いの根元である自己の
ν
・辿は出位なそして物質的に掛かた文化供一日を享受してい
る ついては 反対もし批判もし、時には反省もするであゐう
、
、
が
、
心の内なる争いに気づく人はごく稀ではないだろうか。自己
、
ているのが現実である。しかし、〈物は栄え 心は怖れる V
~
それをもって掌福感に涯り そこに人間生活の価値を見出し
-1
6-
とによって
善悪の相克
、
判私
回
現代の科学技術の急速な進歩と 物吐の豊富さにより
成
ー
、
の心の内での φ いとは、すなわち心の碍様であり 心の島忠
「人はあるべきゃうわと・ぷ七文字を持つ、
べ仰
きは
也舶 の
有るべき様、俗は俗のあるべき様也:
。::此あるべき械をそ
むく放に一切あしき也」とは、平安来から鎌倉初期にかけて
の相克なのである。
000
、
栂口砲の明惑と人尚弁の言葉であるがこれは前者の立場を端
的にいいあらわしたものである。彼は動乱の世をあしき世
、
の動乱の世 ι生き 戒律復興による旧仏教の復興をさけんた
、
柏崎
u
をなしつつ
広迫は心の中に相対的な持と悪とを同時に持ってい
、
るものである。替を身えると同時に悪も考え
恋をなすという「普悪不二-が人間存在の本米のあり方なの
、
握し、あしき世となった原閣を あしき祉の構成員たる人間
、
)H 末法とし、切での末法という俊史的現実を客観的に把
である。ある行為を警と考え尖行しようとすると同時に、一 〈悪
方ではその行為によってもたらす利害得失を考えて その行
、
この「あるべきゃう」は
A
老若 mNK
、職業
に適刈される生前総純であ
、
幸福な社会にするために
個人のあり万に求め、正しい社会
ο
為を中止してはどうかという惑の誘惑が心の中に起る。逆に
説いたのである
人間一人一人か「あるべきゃう」でなければならないことを
、
物を盗み 、人を中傷誹窃して不利をもたらすなど邪悪な心が
身分などを問わず、すべての人
e
起る時には そのような行為はいけないという連の心が起る
また思の誘惑に負け邪悪な行為をおこなえば、決
のである
、
心の%あるまこと〈曲川〉
おのづから氏訟に付合ずべき也
、
、
と
、
.
たた心のじっぽうに火あるふるまいは
-
はもちゐんのこと、人間としての「あるべきゃう」を求めた
して平気ではおられず、所澗・民心の町立を感じるのである。 る。特に彼のいう「あるべきゃう」は例々の人々のあるべ
姿
このように柏市とL
相克をつづけて
- とが一つになって羽藤 ・
、
この常と忠とについて、思は何定さるべ主ものであり
いくのが、人間のありのま忌の療であるといえよ・フ。と川附
のである。それは
に
将は行定さるべきもので、思なすて常に弘主ねばならない
日
伎の阪鮮のう
田 であり、まことめることにより仏教的道徳行為となる
が依 川
とする考え方もまた人間のあり方を示すものである・フ。持忠 とい・ミそして常に人は常に作朗般の鈍に
に思へば人知しと思・フべからず
曇り除れなく彼の錨にうつ
をわけて替をすすめ心の中の思を克服しようとするのが型道 つることを思・フベし。地は陰れたる所なれ
、ば
日必は心中に織
門の玄場とするならば、ザ・思不二で忠から離れられなnい
d
る恥かましき事なり」と日々の反省を求め さらに「心身正
、
をムつめていくのが浄土門の立場であるといえる。
、
17 ー
-
さて
.
.
の内の恵を克服し、人として実践すべき道を説き示している
給へり。願も自ら叶ひ、望もたやすく遂るなり 」とい い、心
しくして有べき様にたに揖舞は、一切の諸天持神も拾を必り
が現尖の人間であるとされたのである。日己が卯忠生死の凡
の凡夫」といわれたが、それは現実に犯した罪とともに、銭…
始よりこのかた生死流転し罪を冨ねている凡夫であり、これ
然 M」「十必の法然 J」
Mといわれ、「甑悩具足せる界忠生死
このような心の中の悪をしりぞけ、替を生かし
、
と
時には忠む耳打ち破
実践しなければならない、努力しなければならない
、
引にて供、ただ心をひとつにして、よく御念仏せさせたまは
、
「心のみたるるは これ凡夫のならひにてちからおよばぬ
分が許され荻われる絶対者(仏〉を見出し得るのである。
善悪に対して如何に無力であるかを知り俗、ありのままの臼
夫であり、救われ難い存訟であるというれ党に立ってこそ、
のである。
、
000
ところが
、
ていくことが、果して状々に実践できるかどうか。もちろ
ん
いうことは常に怠品していることであり
ではどう
かれているが、これは心の中の苫必の心を自らの
hM
もおもき罪も、念仏だにもし候へばうせ候なり」と上人は説
、
ることもあろう。しかしたとえ.患を打ち破ったとしても一時 ば その買を減して往生せさせ給ふべきなり。その妄念より
、
悪から離れようとしても雛れられないその苫悩 そ
、
することもできない凡犬のために、念仏を山中すことにより、
行為し
的であり持続することはできない。また忠と知りつつ思惟し
仏の本願力によって妄念も拝も自ら消え失せるという阿弥陀
n 己の能力ではどうすることもできないという自
。
000
仏の慈悲を示されたものといえよう。
恥込は、現在あまりにも外に口が向きず
他に対して煩悩のまま今いの心をもぺ寸前に、自らをふりか
.さ
てはいまいか。
して遂に
-18-
覚。この白覚こそ、高必の対立を也えた超越的絶対者への帰
依となるの で あ る
し、その中に生きる人間の本質をぷめ、現実心守ざる円己つ
明怒上人と同時代に生きた宗祖法然上人は、明恐上人とは
対照的に、末法を主観的に把慌し、ホ訟を京訟として行定
態度、方法を説いたのであるが、その根底は、自ら反省に反 えり自分自身の本当の姿を知ることがまず必要ではないだろ
省を重ねたところに見出し得た赤線々な人間性すなわち劣機 うか。自らを・本当に知り、人聞の弱さを本当に自覚した時、
の発凡であり、凡夫の内覚であった。上人は自ら「愚痴の訟 ゃいは消え失せるであろう。
‘~
、
、
、
いろいろ慌
.
.
、
、
、
∞
、日 常生訴の仁で
上 人 の時代はすでに末法濁惟に入
ある程度その影響を受けたであろ・フことは想像する
、
「せぬは仏 かくすはヒ人」とい・フ明治的な例界一
れに投じて
、
、
、
般の風潮の中にあった。 k人は みずからは「型」の総
切礎琢磨 よく -…
h 恨の境涯を守り抜かれた
り
に難くない。しかし
も
このお滑婦の潟きに随順した法然k 人は
宝
の人と生活
の態度
法然上人
たち
特に女性に関しては「阪を挙げて女を視ず」という
、
色日をつかうとか 、巧 肯定弄するとか
、
を用い て とにかく積極的 に女に近づこうとすることを
は
阪 を挙げて」というの
包
U 括信灸を守った人であった。「
く
法然上人が町私淑された店の醤尊大師は戒仰刊にきびし
女性
i 聞 i 法 ;
、
w
、
、
体的 に
理屈ではわかっていながら精神的肉
、
いやというほ ど見せつけられて心を痛められたに違いな
ずるずると煩悩に滞込んでゆく弱き 凡夫の本位を比桜め
忠実に遵守した一典型といってもよいかもしれない。 い。そして
三従」「外面如 菩薩内面如夜叉」の女性 観 を、 そのまま
、
を中心として 尋常ならざる教化を人々の上よ及ぼしなが が 多くの「上人』か 形は尚山形でありながらかげでは
ら ポ女人に附しては個人的な交渉は一切なかったと見 本能的 ζ生ずる色欲煩怖のとり ζとなって女犯、常
MWの
H
るのが至当であるう。初期の仏教教団が教示した「五誘
制惑にひきずりこまれてゆかざるをえない現実つ姿を
長安
道
; く i語:
、
正
i…剛 L.・…;
、
回
j にj ご j
意 味する詩 句だと思う。 したがって大師は 生涯
ノ\
、
量
みずから「 組依将導」を称して教畿の上では全両的に
- 1
9-
畠
られた末
とうとう、この弱き凡夫たちをこそ放ってや 第一は
、
k人を生んだ舟演の生涯
第二は教化の対象とな
、
らねばならない、とい・フことに気かっき、いわゆ
「名
恋無名の多くの女人との交流、第三は晩年に起っ
っる
た布
、
、
のどちらかであろう
、
、
、
、
、
問ゅの動向
、
さっぱり知ることができ
と想像するのが常減である
、
- 20-
人正機」の念仏を主却されるようになっ・んのである
だ削火活犬人との混垢についてである。
た。
「批
から、人ずからは「型」の生活を保ちなからも、あえま
てず、 k 人の ihについて、伝記はただ「恭氏」とい
白分も戒定怨三学の器物にあらず、と
立れ、「弱さ」 うだけであって、多くを諮らない。わかることは
「恭
2さ
、
を共にする人聞の一人として、他力本願念仏の一路
にと
遁いえば古い時代に日本に焔化した大陸系民篠の子
氏」
進するとともにこれを強調せられたのである。まさに
孫であろうということと、その弟に、後に上人ハ勢歪丸)
「人間の宗教」を樹立されたといわれるゆえんである
が。
山門家の縁を受ける簿蛇与の院主観覚がいたことぐらい
したがって、周辺の女性に依する態度も、おのずか
でら
ある。勢歪九は、決作同久米の刈条稲岡庄に その耶
特別骨ほどきびしく作品性忌避なお々されることはな
っ純であった波間同川内のf として生れ 永治元〈一
のか
抑倣
た。女性も同じ人間ではないか、というのが上人の
楓〉
切年保 九一叫の時、庄の預所明石定例の夜襲に遭
一立
回一
である。すなわち生涯における女性関係も、すこぶる
っ淡
て両親とともに一家離散の運命を啓くと伝えられるの
淡としたものであって、「女性関係」という現代的な語 その際 、父 時間は深傷がもとで死亡し 、相 手
で
あ
る
が
調の暫きからさえ今一く泣く航った人間主沙の一環
すもぎ
のに
定例
勢遺 λが物際から政った小矢で回間を打たれ逐
その消息がど・フであったかは
なかった。「ぷつくる人」「ぽ〈食べる人というコマ 電したことは伝記にも明らかでありなから
ーシャルに限の色変えて mNKL
別を大騒ぎする今門的な
色眼鏡など、爪の垢ほども感じられない、男女平等鋭
なに
い。当時の武家制度ないし社会的償習から考えて
、多
たか
立ったものである、といったほうがわかりやすいかもし 分失とともに殺されたか、その跡を追って自刃して
来て
れない。
J
山市叶る山
前 脱党の門に入ったことになっている。『勅伝』
こ・フいった比地に立って、上人と女性との関係を広
がは
、別伝期によると、同じ年の冬、母に 送られて叙父に
本なりにおよそ次の三つの場介に分けて考えてみよう。
'‘
、
みのあまり駐を捨てた隠遁者になる決意をさ
とれ
いた
〈巻一一〉などになると、思愛の飾付断ち緩い、このほ下訣
、
、
、
、
真偽ぷ詳の文力として脱されているべ法然 k人全然』付
、
それにしても独り残された「的泌
別の・石川怖を、いかにも史実らしく揃写しているが、きびうのである。しかし
しい武家社会の中で、館の当主を失い、一一続積の忠男を 氏」は その後どうして暮したのか 訪日目わからない。
七、八十歳の老母になるまで上人がこれを放置しておか
手放した若い未亡人が 敵方からそのまま家屋敷を与え
れたと考えるのも不円然であるし 母儀との往復占簡も
、
られ、安泰に生き延びたとは到底々えられない。かりに
生きるとすれば 、屈 掃を忍んで敵の窓門に降り 接収公
、
『知恩伝』や『ト巻伝』には、後年 京山大谷
、
、
行年三十七歳で亡くなった母の
、
法名として「解脱院搬空誉恭氏妙海大姉」という文字が
四七〉年十一月十二日
のような形で生ける屍となる以外に途はあるまい。「泰 録)ものの、やはり不可解な謹といわざるを得ない。
大い
民」が そ こ ま で 落 ち て で も 命 を 永 ら え た か ど う か
ちなみに、美作誕生寺にある位牌には 久安一一一ハ二
、
刻んであり、行方遍知恩寺の什宝と伝えられるものに
ただ
に展開の湧くところである。
に伐んだ法然
は、上人が承安三ハ二七三〉年三月 T五日とい フ
・ 日付で
k人が、近くにな庵をつくって母の所屈と
し、朝夕絡を備えて孝義を尽したと伝え、また 、阪 副副本
色ぽぴと
とヂ
、
、
の『法然上人伝記』だけは、父が非業の死をとげたのは 両親の位牌を作りハ父時間西光、母妙海)
肌身離さず大
よ人登山(ト五歳〉の後のことであるとし、学析の中に 切に必持して念仏阿向されたことをうかがわせるに足る
はこの必を支持する人さえいる。すなわち、叔父の銀 文乃がある。
ハ究)覚が小児のほ人でないことを凡抜き、両親に勧めて 察するところ、「恭氏」は上人の立教関宗を克ずして
これを比叡山に送ることにしたところ、父時国は別れ矢
に逝したか、さもなくば弟の手に引取られて命を永らえ
際して「自分は敵をもっ身であるから、登山の後もし敵
たか そのいずれかであろうと考える以外に道がない
、
、
に討たれるようなことがあったら、どうか後世を勧って が、思えば上人は 幼にして母と離別したからこそ宗教
革命の伶人としてより広い孝義を尽せたともいえるので
ほしい」と頼んだという。そして予言どおり両三年ほ
ど経ってから無頼の徒に殺されたので、上人は嘆き悲し ある。
-2
1-
f
殿上へまいるべき認置ではないが
、
、
「上より召せ
民で
次に、教化の対象としての女人との交流について、上 出向であった 。上 人も、みずからいう甲斐なき辺国の土
人白身、道俗貴践、老若男女の別を問わず、機会あるご
ば、二度まいりたりきっ,西方針溺抄乞」と告白せられて
こでは、たまたま伝記や消息類を通して採り得る女性た いるとおり、本来は気が進まなかったにもかかわらず、
とに多くの武顕庶民と接して念仏を勧められたので、こ
鎌介の二位の仰い応ハ三日附比庇厄)に対しての筏しぷは、
ある。
年九月、立以門院の受戒もこういう意味で来されたので
ちを挙げるにすぎないが、それでも kは宜秩門院ハ後鳥
おヒの命令であるから仕方なくい州に応じらム、また、専
羽天皇中宮任子、九糸派突の女)や鎌倉の二位の祢尼ハ源
修頼
念仏を勧めるよい機会にもなればと思われたからこ
朝後由主政子、北条臨吋放の女)から、下は室の泊の名もなそ
き、出向いて行かれたのだろうと思う。総久二(一一九三
、
兼突が
遊 'K
に笠るまで、各川にわたることがうかかえる。
、
、
-V
とぬ言し
いずれも利下の質問に対する答の形
、
、
つもない。遊女たちには せいぜい別認のように諭した
- 22-
上人は 、九条 殺突の支持を得たこともあるが
「近代の名的舶が一切成作を知らず 」令玉僕
内容的に違う。これは明らかに相手から念仏の功徳を尋
ねられたことに対する返信ともいえるものである。しか
し、受身である点は変らない。 「九条股下の北政所へ進
いきおい上人が
ずる御返事」という消息も残っているが、これも同様、
、
かったので
乃簡の往復による交流にすぎない。その他、尋常なる尼
ているように、当時の他界で戒柿悼の追を学びしかもそ
の効験いちじるしと信ぜられる「名僧」はほとんどいな
選ばれて宮中や貴族の邸宅に
、
、
、
い ろい
室の泊の遊女などに一示す御詞、が
、大 初太郎尖秀の張、 M
広性寺伯突の
女 M たち、尼型如日山
出入りできたのである。した
「持戒
伯母なる女房
、
それは「受戒」のた
めの要請が主目的で
ろ淡されているが
がって
の行は、仏の本願にあらぬ
行」(「熊谷入遣に与えた御返 式が多く 、こち らから積極的に また、女性だからとて
わざわざ芙鮮を連ねるなどという構え点をした交なは一
とっては 、むしろ摘し障しの
事 LV
ときめつけていた ヒ人に
ー
、
。
ま
おとこに経ならふ事、いかが侯ベき。く
、
、
、
、
、
かみをおぼす
悪道の業にて候。
尼法師
、
、
、
、
、
くるしみあるべしとも凡えず候。
女のものねたむ事は 罪にて似か。符 世々
ことに心うき事なり。
に女となる果報にて
罪にて候か。答 一ニ
月のはばかりの時
尼になりて百日精進はよく候か。答 よし。
経よみ候はいかが。答
るしからず。
主
経をば僧にうけ侯べきか。答、われとよみつ
ベくば僧にうけずとも。
うえで、弥陀舶来はそのような罪人のためにこそ弘奮を られる。その若干の例をやげてみよう。
述てられたのた、と説かれているにすぎない。女性を意
識しての発言はほとんどないのが特長である。もっぱら
に立っと人らしさが・フか
が えよう
、
男性と同様の扱いをしておられるのである。男女平等綬
げにもさやうにて世を渡り給うらん罪防
、
いまだおこりた
、
ことにかろからざれば 酬報またはかりがた
し。もしかからずして世を渡り給ひぬベきは
すみやかにその撲を折て給
かりごとあらば
ふベし。もし余のはかりごともなく 叉身命
、
ただそのままにてもはら念 仏 すベ
をか へりみざるほどの道心
、
ll
『幼伝』九〉
しハ「室の的の遊次に示す御糾」
まはずは
、
、
、
は 建磨元〈一一一一-〉年の冬、激されて都に帰り、東山
問ということについて若干触れておきたい。法然上人
vて
c 、品以後に晩年に起ったという「ぷ提希夫人「の訪
、
産の忌みいくかにて似ぞ。叉忌みもいくかに
ただ、女性からの具体的な日常生活上の疑問について て候ぞ。答 仏教には忌みといふ事候はず。
ば堂
は それなりにズバりと答えておられる。たとえ「
ハご百四十五筒条問答」||『和語灯録恥五〉
上方の女防たちより問いまいらすると見え」令和ぷ灯録
口議官執記
〉
符に
一 る質疑応容を集めたつれ阿十五倍条問'
は、旧来の風俗智慣と念仏との関係に戸惑いする女性た
ちに対して親切に要領よく答える上人の姿勢が随所に見
- 23-
.
.
ますなり」と仰せられた。そこでこの「危錠希夫人」と
ろ
k 人の
、
、
源空が義をった へたる
Q勅伝』何十五〉
、
ということが問題とされる
殺されようとしたところを釈尊に救いを求め、
、
、
その慨を総め、 am
久こそ・一ニO〉年二十一此でmm
となっ
四〉年引い邸玄州主となり、山他府ニ(一-一一一一)年に病を得て
、
研究』)。彼次は後鳥羽天
皇の第二皇女で 元久元(一二O
、
故伊藤絡先氏によれば この武夫人は当時加茂斎主だ
った穂子内親王ではないか と想定される〈 『浄土宗史の
く、実の凡犬である、とするのが駒内務によるわが伶上京
の解釈である。
できた悲劇のヒロインではあるが、菩諸問の続化ではな
その数えによる十六想観を修して無生法忍をうることが
閉され
と、彼女はわが子阿聞役のために頻婆沙羅王ともども幽
尊在世当時マガタ国の主妃で、『鋭無叫嵐官河経』による
ようになったのである。いうまでもなく、ぷ蛇希とは釈
、
よ人は「あれこそ意提希失人ょ。賀茂の辺におはし
年が明けるとすぐ病床に臥
大谷 の 禅 房 に 入 ら れ た が
ははたしてだれであったか
、
されるようになった。その
頃のある日、突然どこから
、
ともなく一人の貴婦人が取
で居室を訪れ たまたま常
随の弟子勢観一房源管だけが
その此婦人は
、
障子の外で様子を聞いてい
ると
源空が所存は
、
にて侍るべき。
が はず申さんものぞ
選択集にのせ侍り。 これ にた
れに法門のことなど何うべきか、と訪ねたのでk、
人は
病状古川川掬
って薬を進めるとともに 、ご往生の後にはた
畠
外へ飛び出してみると
、
、
「北をさして行くが かきけす
、
の病床を見舞いうる可能性はあっても 少し年齢が若す
云々と答えられたという。そしてニ吉一エド一面お物語りがた
あ(法名門片如性)。しかし、逆算をすると彼女が斎院を降
また蕊・で帰って行く賞対人の後姿を追って淑智がした建勝二年にはまた十三歳にしかなっていない。上人
って
- 2
4-
1.
.
‘
、
やうに見えずなりにけり」という。不審を抱いた源智が ぎるきらいがある。そこで 三回全信氏は、これを修明
「今の符人はどなたですか」と上人にうかがったとこ 門院市千に擬せられているq作土宗史の諸研究hy 市子は
,
、
し かし
、
、
、
いずれにせよ
きんど、
上人がなぜわざわざ実名
、
、
、
、
、
、
、
、
問
・
上人
消息
、
、
対話その他を通じて おおむねいえることは
・
かりに三つに大別して述べてみたが
以上 法然上人が教化の対象とせられた女性たちへの
柄であったことはいうまでもない。
後鳥羽上皇の後宮で この頃三十政余りの女鹿りであっ
夫人」とつぶやかれたのを 源知刊が耳にしたのかもしれ
た。また
ない。上 人 は 生前尼狸如房(正如房〉の臨終に長女の消
反
面
に
は
こ
れ
を
源
智
の
母
で
あ
る
平
家
公
遣
の
女
房ではなかろうかとする 突飛だが面白い文学的発想も
息をつかわされている〈和語灯録』巻凶〉から 旧 知 の間
ある。
、
を絡して「な従希夫人」と呼ばれたのかその点に疑問と
興味は決されている。思うにと人は 他でも高貴な財人
答
しか
が常に「女」ということを意識せず
、
凡夫の代表として位置づけられる怠
、
、
、
ま
お 陀孫もおだても感情の乱れもない。男女平等を女
、
教義を 小 心
、
伝』巻 問、正治二年四月鋒生門 の礎石発掘の記事 中 〉、観経ド
ヒ ロインで
、
も淡白なれ刈持で 全く男性に対すると同級
、
、
受けるところである。生みの母親に対してさえ 「楽思
字どおり武き泌されているのである。あらためて感銘を
た
その態度には相手を卑下したりする点は徴院もなく
、
常に上 人 の脳憾に強く刻みつけられ
こ
彼の鈴覚とよ人の
、
、
、
さらに級織な推理としては
としてもっぱら念仏往生の追を説かれたものばかりで
、
こういう呼び名を使われたのかもし
始終受身の
を「念総希夫人」の別名で呼ばれている例があり⑤九巻 態度を
ラマの
蛇希夫 人 のことは
ていたところから
れない。あるいはまた
れは源智の品た一般の闘霊的脊端で
茂斎 主として平治元こ
病気が重なって起きた現象のようにもとれる。同じく 賀
、
一
五九〉年から嘉応元三二ハ九)
wh。v
、
う。ま さ に「 人間」教演の宗教者
やはり上人の何 人 にも
と いわれるゆえん であ
こだわらない教化カのしからしめるところであろうと思
もない念仏の功徳もさりながら
、
以災報恩謝」の俗念を昭一持されたことを思う
入無為
、
と、ますます感動に耐えない。性的な偏執のつけこむ隙
、
年まで在 臓 をした
後白河法内誌の阜女式子内貌王が正
治三こニ O 一)年正月二十ぶ日に苑じているが この女
、
『勅伝h巻十九所載の
、
頭に 涯 ベて「意提 希
く
なった彼女のこ とを ふと思い出された 上人 が
く
「
尼聖 如一房」と同一人物に
擬 せられているから 、十一 年
性は出家して「添加法」と号し
前に 亡
病 の 鰐 さにうとうとと夢 幻 のごと
-2
S-
事
i
〈中〉
道
、
で入旅しただけでは合法的結掘削と凶められないと
移民
一九二四年まで大下して泌を渡ったのである。併し日本
、
義
り交わして慌がまとまれば日本で入籍させ 一三ヶ月後に
ハワイに咋び寄せる所謂写真結締花嫁が一九
O 八年から
IllRH 系人社会史
、
新
た。
、
式者からその証明守を移民局へ提出することに改められ
、
牧師 開教使、神官叉は判訴の司式によって結掃し 司
的であり、倒人の伯教の口山を奪うものだという反対迎
動が起り、一九一二年以後は各門の欲するハワイ公認の
ω
向内で牧師が司式して集団結節式を行った。この移民向
八年〈明治問一年)日米両国政府間の 「紳七協約 」によ
り、在初日本人労働凱引の近親者と写点結婚おのみが呼び 内での淋式を「波止場結婚」と時んでいた 之は仲介人道
寄せられることとなり、ここに新鋭移民はそのあとを絶
つに至った。
こうなると思惑泌りに金が貯らなくとも粍々と日本へ
知るわけにいかず、ここにいよいよ長期定住時代に入
、
新たに日本から婆を迎える者が多くなり 写真を取
‘
、
、ー
り
,
-2
6-
保
ワイに生きる
呼寄移民時代〈定住時代〉
ノ、
米大陸に於ける排日運動その他の恕山により 一九O
五
、
名門白人〉にまかせるよう。
との運動を起し
マキキ型城教会の奥村多在術牧師は納
長をすすめる学生会議まで聞いている。これは均時間校
、
の気分から永住へと進んで米たが、外的には人拙無視、
静まり、倒人生活も社会も何となくうるおい一時的定住
、
一九00年代初めに設計日を受けn
たu
、
、
1
・F
、
ノレア知事になって許可された。
・
幼主総合が仏教宇佐と付属日本酪
一九二O年〈大正九年)ハワイ伝道会社日本人部
は七月十日の会合で
2
れ 翌年ウ十ルタ
「仏款はハワイ叫の将米にとって相容れない」と抱絶さ
、
一九O六年(明治三九年〉本願寺が宗教法人の組
ジョージ -R ・カ l ターは
織申請をしたが 当時の知持 A
でその一部を挙げると
この時代には仏教に対しても攻援が加えられているの
に呼応したものである。
為、 AA
附H地を代えする利主組合が帰投運動をおこしたの
を卒採する円系・一世の半紋以上が商梁抑門限指令巡んだ
、
これが排日に伴う日本語学校僕減運動が白
、
i
栄述主撃の二世及び利栴を求める一部の日本人|キリス
フに属する人が多かったーで
ト教関係者にこのグル
に叩顕する人述
B に属するのは一世の鋳興小旅階級に属しアメリカ人
にまで持ちこんで勝利を収めた。
えられた攻撃に対し敢然と闘った。そして最後には裁判
Aに属するのは大多数の日本人で 自分述の文化に加
人の手によって起されて表面に出て来た。
があったが
前時代からこの時代にかけて臼本入社会に二つの底流
差別、虜待に.児に排日が加わって来七のである。
花嫁を迎えて和やかな新家庭が的加し 荒んだ気風も
ノ
カラーの仕事は
・
、
もっと適絡な計資協
、
J っている。
、
仏教はアメリカに
、
前 述の奥 村牧 師は 二世に仏教を布教するのはア
とって異端の宗教だと
メリカ人との同 化 を間宮するもので
3
教える等の理由を挙げた。
、
政府のいう通りにせよ、アメリカ人側に妥協してこそ在 学校に援助するのは木当だと決設し 仏教は日本人のキ
リスト教化を妨げ 二世にも日本の天皇へ忠誠を尽せと
留同胞の生きる道があるのだと主張し、更に新アメリカ
、
ホワイト
27 ー
-
{‘
日本人二世は肉体労働者に止まるよう。
二世は向等教訓けの希望を持たぬよう。
運動と称し
32 1
~、~、~切内《ι
、
移 民禁止 時 代ハ永 住土着時 代 )
て日本へ引揚げたが
大部分の者は差別待遇の屈帰の中
、
社会的地位
、
自営業の分野にも進
、
経済力
、
、
、
、
生
その中でも日系市民〈米関籍を持つ日
取り挙げられて来た。之も元をただせば白人第一主義の
、
人種差別から起ってきたものである。徐々にカを持ちか
けてきた日系二世の進出を全体的に正えつけ 経済と政
、
、
、
wI
時の二世は同じ米国
将米の芥拡が約米されるようなオ
、
地元の白人商社では日系ニ吹の大学卒業者を採用
は他の耕地でも働けない。
耕地ではルナハ監脅〉に嫌われて仕事を失った者
ているこ前州諸〉を放楽することを強いられた。
教師採用の条件として日本国籍〈法律で隠められ
公益事業会社では二世は除外された。
フィスの仕慌には採用されない。
例人命来でも
政府とか真珠掛川軍港の代引は氏、ぇ弘い。
仕事口の 差 別 待遇
市民でありながら次のような差別を受けたのである。
、
るからむ額できないものだという全米的態度を作りあげ
、
一九二四年ハ大E= 一一年〉七月一円排日移民法が実施治の枇叩介で弱い存住にしてしまおうということを理検づ
され 帰化権を持たない日本人のアメリカ入園が厳禁さ ける為に
「二世は一つは自分の生れた問 米国に も
れた。当時極く少数の者はハワイの将来に見切りをつけ う 一つは両親の組問日本にと 二重の忠誠心を持ってい
をかためた。そして生業に励み
、
、
から之を一大転機として却ってハワイに什を沌める決心 るためのものであった。従って
出
ここにゼるまでには半世紀に遣い忍内の殿山 λが
、
特に二世の教育にはカを尽した。
不動産への投資もはじめ
、
活水準もよくなり
併し
、
あった。即ち移民当初よりの口本政府の短期制同方針に
k芯
より出稼ぎ根性となり永住の決心を遅らせ 同化不能の
人種と見なされてきたが 結局は 徐々にではあるが障
碍を乗り越えてハワイに定おし 身辺の事情と環境の支
の時期に 到述したのである。
配に順応して永住
、
ζの時期に至っても依然として人積差別に基く種々の
三世)の忠誠問題がハワイの立州問題にからんで
・
4
A
2 l
4 3
5
6
28 ー
/,
問 題があったが
系二
バ
-
_
.
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せず
、
トツフ経営陣には必ず白人を入れた。
るようにお造りにならなかった。キピ畑の仕市は
神階僚はハオレハ白人)を熱積地の肉体労働に適す
D
白人 居住地区から の日 本 人 閉 め出し
ルルに作られ、その後各ぬにも建てられた。
,
H
H
七O 二名〉〔内女八名〕・
7アフ烏ホノウリウリ抑偶者三
H
きれ同戦争巾にハワイの二、三股たけで編成された首大
兵併のニ枇兵は武掠を.取りあげられ丸腰の労働部隊に活
せと迫まられ唯一名を除いて他は辞任し ω スコフィルド
、
OO 名以上〉され 米関市民権を持つ日系二世ですら
付日系政治家は辞任することによって誠立と愛阿心を示
てじ 三
付
隊
、
て五回
町
一一戸述住・宅
、
勲功鈴も米国陸軍史上新記録し勲彰部隊と称設さ
、
というようなことが新聞紙上に発表されたのである。
「戦闘は日系兵のみがやっているようで誤解される」
ない。太平洋戦線でジヤツプと闘ってこそ: : :」
「イタリアの戦線で倒ったとて忠ぷ心の註ぬにはなら
れても尚且つ
出し
の殺死者八 O 六名中六二 七八%の五O 六名の戦死者を
、
米布混成の四四二部隊が赫 Aたる武勲を立てハワイ
一 O九
O兆
(尚一系は土地の所小仰を民じられていた〉
山口人向さではないというよ・つな発官が位々となさ
れたむ
これが一九四一年ハ昭和二ハ年)太平洋喰争開始と同
時に、ハワイの一世、二快の指導者は抑留(米大陸送り
不公平な賃金
一九O 一年
勝地のカシ民円給大工円給
ハワイ人て、九州
英同人問、一白ハ兆二、九
O
ポルトガル人二、一一一
H七
日本人て五
d
一人ニニドル
-1、に'レ
-'''J
豚小屋式長民
一九O九年頃一ヶ月二十六日就働
ポルトガル
ポトりカソ』
日本人
不 公 平 な教育
白人の子弟のみの英語標準学校が一九二四年ホノ
- 29-
7
B
C
切水
欽耐となりこの聖織も今正に観楓と柄盃を傾けるに絶
好のシーズンであろう。だが、人は徒らに酔阪で庇勝に
、
開山門応国師元光の
当時の禅林の世俗化附閉店仰に対
、
駄霜苛烈な道念の生誕や
、
民衆との掠般教線鉱強を使命とすること
五山十測と称され幕府や貴族の支持帰依の中で全盛を
いるのだろうか。
浮世の憂さを忘れるだけに止まり
全山を泌す ・上下錦一色 ・千仰の 厳根 涯を援けて題
す ・天下の奇観北の渓を継す。」
、
は当然だが、他面世俗化が臨海となることも戒められな
生涯井伊大老彦痕峻土の崩所があり計無川の U川流と幅削 諮った禅宗が
あるように昔から紅葉の名所として知られている。花の
滋賀八日市駅から京三塁程のところである。この詩にも
し身を以て紙抗した、すさまじいばかりの気迫全知って
・
gj同
臨済永淑守派大本山である北つ与は、鈴鹿山脈の弘、
「断出勢い崩れんと欲す ・採澗拭うよりも浄し
僻がある。
道 錦
円応国師寂室元光
F
八世俗化に抵 抗し た気什の 3v
林
江戸末期の名跡詩選に償問天簡が永源寺宕楓と題した しりと六百年の法灯を伝持している。
@みP
訟の越渓にあって、生寸は必象山を背負って、静かにどっ
30 ー
-
書の 四季
ければならないことであった。寂宝元光か師事した約翁
徳倹は、執権時額に訴はれて来朝した建長寺道隆の法弟
、
「切に遺骸を留めて以て人に之を見せしむべからず。
潔峨烈であった。遺誠に
既に回準らば同志を勤めて只だ首拐
、
土を掩い石を量み
、
とあるように桁な担めたら石を内けば足りる、廿喰や絡は
厳神児を品すること一週せんのみ」
が行測に迎えられることは容必であったに違いない。事
みて僚を正さねばならぬことだ。
不用と守口うのたろう。耕衣錦制や宝絡に賢を尽すなど顧
として道望厚く
実、後光厳帝より天竜寺に迎えるとの勅旨を拒んでい
今の岡山津山に藤原小野宮史劇の子
、
年〈一一f
九O)
出生した。十三依出家十
te
係として、正応
元光は美作高田
隔絶しようとした精神は、先HV
wk僧徳門普紋も AK
く
の抗
一%光の
して中降明本の門を叩き寂包一の号を附与された
r
六"は仏灯問師維翁徳倹に削が一万光を称した。一二
ん
十肱入・
Q
か。この事は唯単純に所謂世捨て人という隠位、治極的
思想と生涯を決定づけたのはこの中峰明本によるところ
e
権勢に如びず招請を拒み、二五年余定住することなく、
佐々木古江の寄進によって音鉱山川の清流と断佳宏望むこ
五十践を過ぎて漸く往生院に仮錫した。そして江州大守
の型地に永源寺を辿立したのである。禅師を
w
黙って門を
元光は超蓮特偉の資性を内包しながらも人と争うこと
叩いたもの二千を数えた。点治六年九月一日(一一一一六
、
つこと浮盛よりも軽し』と言はれ、その強靭な道念は高
世の志なく、勢利を視るや腐芥よりも賎しく 主候を待
もしなかったと言はれ、一見温順な中に『確乎として応
だと官うべきであろう。
の激しい道念が緩めて積極的果敢な生涯を全うさせたの どの名僧を座制伸して、事E元年(二-一二六〉印刷した
ある無字国の鉱抗であり警鐘であったと思うのである。そ が大きいとぞっ。六年間の人元中、一見史古林治拙無比な
な生涯ではなく、寧ろ当時の世相権力宗団に対する勇気
同じであるし、-民党や一体にも泌ずるものではなかるう
守り通そうとしている。世俗えの陸路、濁り、権力から
る。元光は禅の純粋さ清潔感というものを潔癖なまでに
た一山一寧にも参伸してるから、こうした状勢下で元光
山総仁南禅の官剰を燈任しているし ま
,
- 31 -
元光が入元して参禅した中峰明本は元代著名古家越子
七U 七十八訟を以て入寂した。
、
ji
の果てに漸く退んた型地で・あった。だがその永源寺さえ
も丁度釈迦や達磨の入滅に示した奇瑞と同じく 、すべて
、
王侯権勢の支援外護を受けて その威容を今に伝える
教えている。
n と親交が告のりまた、その川市も学んだ人である。鎌倉市
叩
空である。徹底した制作の兵髄を示、
し本 店聞に立ち遮れと
、
北朝にかけての末、元の悌僧の米朝や邦併の入宋入元は
当然ながら持 迅駄においても貧庭堅、張即
盛んで
、
史に独自に「ささがき 」 と呼ばれるように
水川V両
、
、
した永源寺さえも高野の父老に付与して
、
各 n に散り
之、蘇東城、また趣子品、鮮子枢など本絡派の明一刊を学んのとは対象的に 元光は時流を静観 、権力を遠ざけ 、本
。
だ禅僧のけ川が初求されていた
小師別本は子品の仲川を学 米の凶日に微した生艇を武いた。遣制は門弟二千
人 を櫨帰
び
、
リズムカルで張りがあり
-
・
・
の竹の葉の画法に似た連事で
去礼」と、微盛の執着も残してない。だが一ハ百忽後の今
Aとして聞く、現し世の名利何
円、臨演の名刺として泌
a
動秀な汗を』いている。元光は入元して明本に多祁しな
ナるものぞと編制する ・ん光の生注こそ広は本物たと思う
君知るやみ山の奥のもムぢ業の
し、敬仰してやまない先賢の一人である。
人知れずとも赤き心を
と
ら
先賢のみんだこの感懐は、永田
mA寸にもそのままあては
まるようだ。人知れず紅葉しても 、人は之を求めて自
道を作る。
円応川帥寂主厄光の大叫が俗耳をつんざい
、て
山戸
なって問えて来る。
- 32-
•• •
•••••
がら出訟も学んたことと忠はれる。
政然たるもので、法 M
酬を誠めて仏道勤新進を力説し
、
呼吸の乱れさえも感じられな
遺誠二十行の行草告は九月一日臨終を前に門弟に一ぷし
、
出かれたものであるが
い
、
た、道念の堅聞、師弟吸を物語っている。臨終利那の迎
、
「陸後の吋山 倍前の流水 鶴林の双鉄、能耳の笠躍、
備は
ス是れ宅情に生子を紙ぶ
鼻象山を背にし音無川に臨む永源寺は元光が行雲流水
Jt
‘
、
、
-
、、
、
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唱, L
二五
二五O
二四九
二四八
咽
八第五回〉
石畠俊徳
油断のひまも足許にみ ん
り
教へられ行く道ぞかし我ひとり
弥陀績むまでは迷ふなりけ
旗間以や招き紹きていつしかと
円
も暮れて行
無常の mm
に枯れ果てぬらん
A越えて水上述く到るらん
明日自主の行衛定めず
迎ひ待ちてみるみる今
瀬
千鳥も浪の訟を渡りて
心の駒の走り出でけり
続打ちて常に静まれ兎もすれば
人毎に此の世に残るものもなし
く
〈
大津市 石山 ・浄光 寺住職)
遂に行く道とて遼き他所ならず
d臼
れ
d羽Iφ 侍
耐川・為
l
能々学すとも
〈高品刀弟子融〉
二五ニ
二五三
二五回
j
耕一次司令《々、去の友司に就いみ
,
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2d土噌
J
節々のよきもあしきも呉竹の
説かれし訟を聞くぞ議・なる
結び釆し縁あればや一戸の
avhL
手に湿りつつ心たしかに
願へただ元の替の訟の御名
続々法の衣
ニ 四五
二 四六
二四 七
、
たとひ一代の法を
節
文不知 の愚どんの身になして
念仏を 信ぜん人は
五
此の世はかかるあらましぞかし
つ
を
し
t
r
せ
む
ひ
第
ね
む
ふ
二五五
二五六
二五七
二五八
二五九
二六O
ニ占ハ
来なにつけて猶頼まるる
とことはに絶えず称ふるお念仏の
つもるじびきの鍛なるまで
はらはらと法の花散る級楽の
台に行くは喰弥陀の願
'A
たまたまに人と生れて米し身をば
嬉しともせん過ぐ人もあり
鴻の音の暁毎に将ばん
訟の花咲く陀に生れ来て
引く息の出づる間待たぬ命をも
知らず顔にも過しけるかな
いかばかり功積ムても阿弥陀仏の
誠より山る戸にしかずや
契り杭くが伴かはる世なれども
弥陀の普ひは違はぎりけり
たち渡る宗のあなたに影すみて
臨もへだてぬ法の月かげ
今夏に悔ひの八千たび尽くより
射ろか
願はで過ぎし身の愚さを
残りなく行く道なれば老わかき
二六五
一一占ハ六
二六七
二六八
二六九
二七O
二七
二七二
こじ三
二七四
二七五
い-e・M
ょ
後の宿りぞ楽しかりける
越の花開くを観ても潔き
頼めば盛な緩れ給はず
富士よりも仰げば高き弥陀の影
やがて仏の御手にかからん
小田巻の糸ひく践も称ふれば
咲くも染るも笛の恵みぞ
吉野山高維の裟も管法に
苦しみも憂きをも知らぬ同に行く
我れ痩楽の道ひらくらん
種蒔きて置け今の世の中
骨円朝に称ふる御名の戸の内に
あはれ手をひく縁しをもがな
えに
附くして仏の御影知らぬ人
斯くばかり生きとし生けるものの上に
人と出でしも誰が恵みぞや
位山登り染めても背しムは
同じ心の世の中ぞかし
須磨の浦明石の月も我が胸に
すませば澄める弥陀の光りに
兎に向に占ハツのちまたに迷はるる
- 34-
は
ふ
を
よ
く
よ
く
台、
く
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一一占ハ
ニムハ
二六四
打延へ願へ法の友どち
J金
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ひ
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た
い
の
二七六
-一七七
二七八
二七九
二八O
二八
二八二
身を心せよ弥陀の一筋
最上川河瀬登せるいな船の
仏はいなと苫はでうくらん
いっとても額めや閣の夜の海の
浮き木の亀も法にあふ世を
千代よろづその鶴屯も頼まじな
限りなき法に契る此の身は
弥陀を額みし真心の人
漏る人もなき法の門我れとわが
入り得ずよそに心かよはす
紫の雲の迎ひは誰が為めぞ
浮世の海のりに渡さん弥陀仏の
助くる甲斐はなもならずして
いつまで包む心なるらん
散る時は仇に散り行く物ぞかし
はかなく花に心そまれば
野に晒らし後は口問と成れる身を
二八六
二八七
二八八
二八九
二九O
二九
二九二
tvE
似円
無后と言ふ真白糸人に成りはてて
幼な心にお念仏たせん
野に遊ぶ牛のうの文字知らぬ身も
廿《侭たすく弥陀の本願
満ち干るは伎の有機よ末終ひに
みのりの海に皆浮ぷなり
煮る如く焼かるる如く火の宿を
早くも出でよ心ばかりは
嘆くとも返らぬ事を嘆くなよ
早く仏の誓ひ緩みて
自室の果て知らぬ身をいつまでか
虚しき空に立ち迷ふらん
手の舞ひも足の踏みども忘るまで
よろこベ宗の里衆汗策
式部の晩年
品、れらの九十六賀を併すとて、円
式部は、明治十 三年の 一U
の記録『商品志賞婦九十六質経に付部減配、引川州快活
KH掛川
山の左阿弥にて盛大心行われたことは、向出家に泌する当時
その九十六段の訟娩、徒歩にて京都より伊勢に米り、
誌』ハ明治十三年同月十じ問視開〉に明らかである。
十
ニ八三
附々に分け行く道のしるしあれど
説き置きし仏の法の山々を
唯ひとところ楽に照る影
F
聞き得ぬ人や耳なしの山
九
二八四
ニ八五
35 ー
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やよいの比
さか野を
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-3
6-
二見浦に出て朝日をおがみて
とよさかのぼる日のおほ御神
貴
二見がたたてる叫献を御杖にて
やましたかくれ幾子なくなり
志
ー
行く遂にて
J;,
首〉
く短
その模様は、背水泉橋によって絵巻物とされ、先づ開巻第
館一席
一に、近術家mm
公の「合秀敷栄」の回大字に飾られ
明治十七年には、その日の詠を中心に『変の会追悼和歌
う。以ってその一施を知るべし。
以上の七時州、いづれにも式部の遺詠が飾られて居たとい
席は鮪釜席で、近藤芳介は「釜の湯のわきて北口を偲ぶかな木
の芽たむくる今日のまどいに」と、詠じて居る等。
、
「既に百たらず九のそち余りのよは
ひをそ送られたりけ
3 岡抑高席、第七
日和歌吟詠席、第五席は俳活席、第六府は
祭典場、奏楽席、第二府式都遺愛H陳
m 列、第三時州第四席は当
、
月、させる病などとしもなくて、糞なる米のまろうどとな
んで
、
式部の基がある。
〈正面〉商品志賀締之墓
谷町研樹
孝子
千畝迎之
九十七劇志賀姉
ともに η 燕と成にける説
ハお側〉 谷 蔭 に 折 残 し た る さ わ ら び も
ハ左側〉 明治十四爽巴年五月二八日
国に法名は正野院隆誉妙音大姉と称ナ。
、
本稿は、向氏の御ゑ諾を得て、右ニ慈の一ホ教によって、策
の御労作がある。
『商品式部の研究(憩沖洞妓措郷じ鴨〉
昭和三十六年五月には、同氏の評
『商品式部今一歌集』ハ一一一行部限定、非先品〉
の五十年忌を記念して、五月二八日に刊行した小冊子である。
昭和三十三年十月には、後瀬一山政調狩
- 37-
型機院に於て 一-一回忌の盛大な追苔法要
に援
雅会が似された。
ます。〈つづく〉
部の木像一鱗が造立され、明治十六年九月十六日には、千畝は を巡ばせて頂いた。附記して同氏の御厚相同に対し拝謝中上げ
明治十五年、式部の一周年忌には、和田登維によって、式
昭和五年刊行された司あを業のかげ』は
山本将闘が、式部
式部の八十八賀の年に生れたれば、この名ありと)の基と並 』が編まれた草稿が残っている。明治三十年、式部の十七
集
回忌の記念に、千畝が出版した『かたみの墜一巻がある。
とある。商品家の基俊正面中央に清音。八十八ハ消音の娘、
山長楽寺に葬りぬ。
明治十四年五月二十八日に裂す。享年九十七歳。京都東
と必し、『明治名家家集 』の解題には
られにけり。」
る。きるをいかなる風の誘ひたりけん。いにしとしの皐
『去の合追悼和歌集の
a端
』に、千畝は
~
東山の中艇にそびえていた八坂の搭。
.
.
.
.
.
.
.
.
.
.
.
.
0
1
:
:
部宙で
、
である。
i
法然、きのぐ吃
ら聞いた。
、
との地名が由来した。
、
八坂とは 北は真葛カ原から南は清水療に及ぶ地域をきし
ている。坂がやたらと多いので
、
、
奈良湖の初期 朝鮮から渡米した人々が住みついた。彼ら
は織物を主体に航・雌し 栄えた。八坂ノ造〈みやっこ〉と呼
はれた。大半が日付鹿の出身である。民寺(うじでら)とし
-3
8-
〈ユピ〉
寺前略至。
、
絵
さらに住蓮は この八反の犠にまつわる歴史を訟源の口か
挿
ものだった。
、
4
と、俊 采,
MR激は州問念がる。寺院の詑造物には阪が人
ない て辿てたのが法制 hv
で 五沢搭は彼ら一扶の繁栄を祈念した
「この平安京では最 -nH
の培だったのにのう」
焼失したのである。
いまは跡万もない。つい先ごろの治承三年の問月
r...........~
とこでいささか渡米人の状況について触れておく。
、
日本 では「渡米」と言い慣らしてきたが朝鮮の史家によ
、
、
と行済
ド附小川のボ
mH
、
、
R-
新羅
、
ぷを結ふ南
百済 新羅である。北中国の前奏と 高句麗
、
れば「亡命 」 で あ る 。
七世紀の半ばごろまで朝鮮半島で三
は国の併立が統いた。
高句麗
-結
VM
ぶ北必ブロックと
ii!
…みとられて静かに三十年の生前を閉じたのであった。
"似=一位紙政を動かした以仁王は、この光明
山に逃げこんで慣搬に"
王の選出血の前で読経する戸を聞くのであった。{チ治川へ出陣した
"
仁“
ことになったが、ある日後ば、師の箆源が山川穴三
の条
府宮
間以で
.の院択に按した。まもなく住速は、許しを仰げて光明山の引山中に住
-は、そこで、七唱の高塔の建立に打ちこんでいる雄々らかな震源
明遺律師 の共をして光明山に俊乗房霊源を訪れた 住遭房信固 …
1321 前号のあら す じ
事
て法然上人 に会う。しかも聞けば、邦鋼卿は突然の発病で死への…
五条大納曾邦綱織の門前ではじめ…
れて京の街に出たが、大初公必
やってくる朝鮮人は「渡米」だっ 一年が明けた治承五年(一一八一)ニ
、月
住惑は電源にともなわ…
ω
方,フロックが力の均衡を保ってきた たしかにこの三国時
代、主として百済たが、
た。
、
ところが七世紀の戸を捌くと、状況が変貌する。北小田の
半島の北半を領
っ
した高句鹿は附朝、続く店側との除臓で波併しつくした。か
前秦が波んだため、北方.フロックは破綻し
つての同盟者だった新織は、この高句麗を併告してしま
た。さらに勢いをかつて百済まで滅ぼしたのである。
、
新聞輝治下で生きられない向句眠 行済の人々は大単して円
。
本列島へ亡命した 。壬家の一族すらまじっていたと守われ
る
彼らは簡単に日ぶ人と倣和し、この列めに線をおろした。
、
しかもその持てる高度な文化は、日本の政治にも強く 影認し
た。ほんらいが豪族群の連合一岡山みだった円本の政権にこの
。
h 会同していった
払団帰化人は 引
八坂の府が.大成期に建立されているのもこの市怖と
ω
絡して王位をねらった任伯弓削の池鋭を、この亡命族の
h
事の形式をえらんたにせよ
、
民払の純潔を守ろうとするぎり
、
となれば、和気消麿が字佐神宮で受けた神託は そんな神
出身だったと説く現代の朝鮮史家もいるほとだ。
を
豪族鮮の頂点に立ってきた夫♀家、たまたま女帝紀に彼女
無縁ではないはずである。
言える
うである。だから奈良王朝は例鮮色の波厚な政権だったとも
「奈良」という古楽自体が朝鮮語で「都」という意味だそ
にの枇をよっていたのである。
即“径が熱病の汲てについこ
・遂を急いでいるという。というのも、この二月四日には平穏園清…
- 39-
f、
ぎりの斗いでもあったのか。
、
、
数
日
間
、
、
時雨沢に滞在した重源は こう言い残して いづ
、
こへかへ立ち来った。
、
重源の念仏ひじりグループに属して 、阿
時雨沢の勢至立には吹主がいた。出羽い天台俗である。
、
ては光明山の七重塔を完成させるべく 新たなスポンサー探
すでに五条大納骨問邦綱の死がったえられていた。設相仰とし
太秦の泰氏などとここ山援の地に強力な経済基盤が固められ
、
真偽はともかくとして 朝鮮帰化人の文化性 経済機能が
高かったのはまされもない喫央だろう。八坂一族をはじめ
がしに走らねばならなかったのであろう。
俊来日ωE淑が住謹に八坂の係の由来を諮り聞かせている時
ていったのである。
寂酋と名乗るが
弥陀号をうけていた。心阿弥陀仏と号した。
、
無住の仏堂もあれば 在家の民政もあてられる。冷男出女
、
完全なる日本 人 H となっ
H
緑化人泰氏の出身であっ
、
心阿弥陀仏は彼湖 住建をともなって京洛の街なかへ下っ
てゆく。四カ所ほどの念仏興行所があった。
念仏興行所||
点、周辺で生活する人々から呉邦人のイメークは全くなかっ
たはずである。八坂一肱も葉氏も
ちなみに法然上人の母鏡ですら
てリ同化していたのである。
た。
、
心阿弥陀仏から念仏の功徳を聴き 大衆合唱
、
が集っていて
、
するのである。先制のメロディにのせて間無阿弥陀仏をとな
八援の法観点吋から米へ数町登ると 深い山な λ になる。消
水寺の真北に位慨する霊鷲山の 山嫌である。との霊駕山は山
える。
容が、釈時説法の地に似ていたので、同じ名を冠したと伝承
される。
- 40-
、
律令がさためた「僧尼令」によると、僧は与院に簡屈して
嗣家の安泰を祈ることたけが使命であった。みだりに慈にあ
露鷲山 略して霊山の麓には正法寺を小心にして、幾つか
仏法と大衆との密会所でもある。
の別院堂字が散在してい十。その一つ、時雨沢の勢.セ務躍伶なぜそんな形で筏会しなければならたかったのか。れっき
とした比叡山の伯が、山を捨てて念仏ひじりなどという特範
な姿を借りて、大衆に布教しなければならなかったのか。
俊乗房麗源のはからいによる。
に住蓮は住みつくようになった。
光明山にいても修行にはならぬ。此処で念仏ひじりとなる
がよい。
i
、
、
こみはじめた。
さきに高倉帝の崩御に遇い
そして、遣法だからと一言ってこのひじりたちを取締る権威 らしたものの
、
の地胤説もあったほどで、空也は山に筒らずいかな
、
、
、
、
、
いままた平相国消盛か死ん
、
阿カ所ある念仏興行所。最も善男持女が集るところが錦小
…一
一…
仲、ぶ気味な運命が平家の頭上をおおいはじめている。
も機能も官 憲 は 失 っ て い た の で あ る 。
念仏ひじりの鼻祖はト世紀にあらわれた笠也上人だと言わ そんな状況で蓑和は募れ 年号も抱月永とあらたまった。
F
れる。
天
る与院にも住することなく、強を遊行して 念仏の功徳右説
空也上人の死後、しばらく途絶えていた念仏ひじりが
もない。天 下 泌 胤 説 が 出 た ゆ え ん で あ る う 。
、
ニ
「僧尼令」に薮逆し続けた空也だが、
m則されたことは一度
力を従供したのである。
くれたからである。
、
G
、
行では 修誌が終ると必ず一一腕の芋粥が供されるのである。
進に
して
wと
w
近隣の大高間山本が供養のためにと米や苧を興行ご
一
布教激化たけではなく、河川に橋をかけたり、井戸がなけ 路の弁天代であった 周聞には商家が玄ち波んでいて 常述
のほかにゆきずりの男女も弁天堂の念仏会に参加してくる。
れば井戸を削倣ったりした。彼に教化された念仏衆がその労働
か、もう一つあった。ここの念仏奥
数多くの人が北る理府
いてまわった。
-
41 ー
、ふ たつながら
だ。平家は権威の象徴と実力者を月余の聞に
妖法を説 い て 民 衆 の 財 貨 を か き 集 め る 贋 物 。
失ったのである。近江で緩勤していた源行家らの鮫徒は蹴散
士ロ水の法然房を筆頭に真の教済を説くひじりたちもいた。
遠く鎌倉の源頼朝 越前にまで迫った木曽議
真贋入り人だれていた。
にあふれたのが、この時代の突栂であろう。
らわれて大祭と接触してはならないのである。説法も不百
可年を経た今、真贋とりまぜて泌然と必にあふれ出したの
まして大衆ともどもに念仏を唱えることなど 違法も叫.たし 乱世が採まったからであろう。それだけ紋怖を治求する民衆
の戸が強まったからであろう。
かった。
こんな「僧尼令」があったればこそ、逆に念仏ひじりが巷住建は、心阿弥陀仏を補佐して この念仏興行に身を打ち
;
.
所>
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f ペLJ
ノ
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ノ
、
当時の浴中は 慢性的な飢餓状態にあった。餓死者が続出
、
している。反平氏勢力の蜂起で 各地からの輸送が途絶えた
一椀の芋粥にありつける。
,O符がしのヴるのである。興行ごと
A
、
それでもお商は近必に米や野菜を入手する1ルトを湿って
ためである。
た。
、
念仏を唱えにゆきさえすれば
満腹とまではゆかぬが
、
辿池に臨む弁 .KA
のV
現LT は タ恐れが迫ると柄引測にみちて
におびただしい教の川女か弁 X ザへ朱ってきた。
くる。係りの女どもが大釜に薪をくべて苧拐を煮ている。腕
、
、
メロ
7イ心のせて市無阿弥
弁天命ーの内部まで漂ってくる。
にそれを鐙りはじめる。
米の匂い、宇の肴が
心阿弥陀仏や化躍に指導され
高まるのである
。
、
、
陀仏をとなえるいおの戸は この匂いを嘆いで いちだんと
、
、
、
説法することを心阿弥陀仏は忘れない。
き
「餓鬼道に堕ちた者はな 空腹の余り飛びついて刷喉を焼
一粧の米も辿らなんだ という話もある」
者たちに注必の戸をかける。
「ゆっくり、ゆっくり食えよ。背を焼くぞ」
腕がくばられると、心阿弥陀仏はがつがつ食いはじめる信
-4
2-
ハ
111
、~..,'
.
/
、
のを食わせてやるぞ」とけいながらめいめいの瓜に屈だけを
盛ってやった。女房子供はがつがつ食いはじめ、たちまち苦
念仏は塩
、
くばられると、警を取ることを待たせて、一人一人の椀に少
と腐った。
がい顔になって吐き出した。こんな心まずいもつがあるか
b
く、無理して詰めこめば人間は死んでしまう のだ
「塩たけを椀ζ 一杯も食ってみよ ψ食いきれぬだけではな
そこで仏教説話つひとくだり合悟りはしめる。
だ、お前らはふだんの成みに汗水を戒さねばならない。そし
、
Kどもが腕に盛り付
たちまち飢え死するから
てちょっぴり念仏の塩を、生活の中へふりかけるのだ。割引か
、
けをはじめたときだ。蓮池を鈍って小舟が一一眼糟ぎ寄せてき
ある夕暮れ、大釜の乎掛か点よって
巧みな説法に、住蓮は聞き惚れた。
な」
ら娩まで念仏だけを唱えていたら
u
け刈た限にはうまそうなのだが、味か 一つ物足
た。最初の肌から食べた。 「・フまいかと主人は訊く。彼は
首をかしげた
りない。「そうだろう」と言って主人は白い粉をふりかけて
くれた。すばらしい尖味に変じた。次の血もせ・フたった。白
、
い粉をふりかけぬと企く無味である。
た。三人の男が降り立った。太万を抜きつれている。
女どもを脅迫して
、
腹 一杯食いつくしたあと 主人は家で待っている彼の女房
「さあ その釜ごと寄越すんた。この舟に果せる」
、
大釜を迎ばせた。
子供にお上皮をやろうと J った。さっき食べたご馳走のどれ
盗賊である。
を所望するかと聞いた。「あの円い粉を下さい。あれをふり
かけると、何もかもが美味しくなります。きっとあれが一番
、
下粥だけではない。迎んた女の一人が柴貌なのを凡てとっ
と白い手を掴んで引き寄せた。
、
「さあ お前も舟に乗れ。可愛がってやる」
た盗賊は
うまいものにちがいない」と即鹿に符えた。なるほど嵐か
た。
最高の斐味か」と主人は笑いながら、ひと袋の迩を彼に与え
わが家に民った彼は「さあ、今夜は快凶介で故前にうまいも
- 43-
招かれた。見たこともないような御馳走が山盛り並べられ
M
のK
晩鋒に
ぷ伸二で、たいへん貧乏な男かいたあるとき主 -M
塩を混じただけで、苧の甘味がいちたんと高まるのよ」
「これは盗だ。からいはずた。きあ人んな食してムよ。この
彼は溢をひと袋 何処かから仕入れてきた。椀が
、
,.
量づつの盗を投じていった。
ある日
(
「時雨沢へ連れて帰ろう」
織りこんで、常寸粥を食べはじめた。
堂裏のただならぬ気配を察して、住蓮はものかげから様子野盗は三人とも若かった。照れ臭さそうに善男善女の聞に
と、創刊行が来てたとき、心阿弥陀仏は野盗どもの処世を決
をうかがっていた。もはや臨時はならなかった。提棒を握っ
「待て。わしが相手になってやる」
「屋根がだいぶいたんでおる。奴らに修理させてやろう。仕
「あの述中を、ですか」
めた。
て飛び出していった。
「何をてこの坊主奴が」
武辺では聞こえた住蓮である。野盗の
、
三人は太刀をふりかざして迫ってきた。
興福寺の大衆院で
三人ぐらい始末するのに手ひまはかからなかった。たちまち
この人は、ほんものの宗教者だ、と住速は敬服して心阿弥
事を与えれば、人間識でも正直になるもんじゃよ」
、
時雨沢の勢歪堂へ住ムついた三人の野盗のうち 二人はじ
陀仏の横鮒酬をあうためて見山した@
後ずーっと住躍の侍者として・身辺から維れぬ運命となる。
ったのであろう。桶丸と呼ばれたアバタ而の若者は、これ以
きに何処かへ接をくらましてしまった。盗賊の巣が恋しくな
-4
4-
縫鯵で叩き伏せ、凶器を奪った。
、
乱闘を聞きつけて、弁天主のなかから信者たちが池辺に集
ってきた。
「ぶっ殺せ」
「後巻きにして 池のなかへほうりこんでしまえ」
それを制したのが心阿弥陀仏たった。
輿寓して口々にわめく。
でうなり戸を放っている。
念仏興行に出かけぬ闘の心阿弥陀仏は、 いつも勢歪堂の奥
「皆の胤然、何を言うか。殺せたの繁巻きにしろだのと。これ
らはたしかに心得違いの野滋じゃ。しかしもとをたたせば、
ろう。さあみんな一緒に竿粥を食べるのだ」
わしらと閉じ人間だ。彼らも飢えて、こんな所業に出たのに
t叫 "・"山 1
病疾ではない。経巻をひらいて苦吟しているのだ。
部厚い経巻が彼の前にある。
.
;
住速は押さえつけていた棋棒の力をゆるめねばならなかっ
た。
f、
、
法皐の側近が、これの調戸〈メロディを付すること)を命
、
うたいこなせない。小ぶしにも多岐にわたる音質が
律である。高低の落差が激しく 、よ ほどの声量を持った者で
ないと
ぜられた。心阿弥陀仏が比叡山にいたころ発唄に長じている 要求される。
「何と言っても六時礼讃は誰にでもうたいこなせるものでな
ければならぬ」
二人はうなづき合っている。
大衆の小へ溶けこんでゆく念仏。それを助背ずる六時礼読
、
「さよう 今様だ」
との沢 で は い ち た ん と 濃 密 に な る 。
しかし遅々として進まぬ様子であった。
、
時雨沢はその名勺とおり、時雨が多い。霊鷺山に降る雨
のを知る者が、調戸を託したのである。
が
戸外の雨脚を眺めながら、心阿弥陀仏の出向昨を耳にするこ
今日も雨が降りこめている。
、
税盛がmM山余した。
、
、
適当な琵琶仰がいるか
「琵琶か。それはいい思いつきだか
と
「蛇也になどのせて調戸してみたら」
仏像に献上する聖歌では大衆が取りつきにくいのである。
、
とは 耐えられぬいら立ちをおぼえることがしばしばあった。もまた大衆のものでなければならなかった。深山に絞陪して
後内河院からやってきた若い貴人が、かしこまって心阿弥
陀の調戸に耳を傾けている。これまでに出米上がった郎分の
おさらいだ。
d葉をさしはさんだ。
「一人、います。盲人の琵琶法師が」
住濯が
若い貴人の名は視盛。のちに大和前旬親盛入道||法名を な」
見仏と呼ばれた人である。
「楚唄ではいけなL
い
45 ー
-
である。
は、前にも触れたらところが後白河法皐の手もとへ届いたの 党唄は天台声明の基本である。多分に宗教儀式化された管
と、心阿弥陀仏はうたい終える、
と円分に Z い聞か せるよ
六時礼輔副だと必明した。
うに弦く。やはりこれまでの調戸に不泌を感じているのだ。
店の普滑増大師が作したもので一
、日を六時に分けて 諸仏
「矩唄のままでは、鯵解にすぎる」
これの写本を、必然が五条大納宮邦絹に依頼していたことと親盛も同司する。
時菩曜の功 徳 を 額 詠 し て い る 。
,.,
雨は完全にあがり
、
何度か顔
、
一で
-背水のM
禅
一 法然の説法を聞きにいったとき
品えはじめていた。
、
この上ではないか。あの伽羅観音掌に い るの
、
写 本 に限をさらすことは出来ない。心
盤鷲 山 の取きのあたりに明るい笠すら
、
、
、
n分が関戸した
じっと聞き入るばか り だ。
此世及後生
京思覆護我
往生一安楽園
胤仏常摂受
令法種増長
、
さらに再び「京思覆謹我」と心阿弥陀仏が読み上げたと
琶をはじきはじめていた。
何度目かのときだ。行人の手か動いた。織を引き谷せ 琵
くりかえし出てくる文句た。
願共諸衆生
、
のを捨てて 六時礼輔副を棒読みにしている。
心阿弥陀仏も余けな先人制を与えぬため
阿弥陀仏が読み上げる戸に
生仏は盲 人だから
を合せ 宮棄もかわしたことのある盲人生仏のことを思いう
かべたのだ。
「どこにいる」
、
「このすぐ近くです。泊施守の観音堂に住しています」
「清滝 寺なら
か」
「呼んで怠りまし ょうか」
住越は気軽に座を立った。
泊施寺と は 引 滋 寺 の 別 名 で あ る 。 背 竜 寺 と も 書 い た 。
古人の他出はあり得なかった。
、
住蓮の話を聞
、
琵琶ははっきりとしたメロディを炎でていた。
、
心阿弥陀仏が呼んだ。
「やわらかい。女人でもうたいあげることができる」
親盛も膝を乗り出していた。
女人でもうたいこなせる||
、
党 唄は女 性を般拒す
これは だいじなことだった。従来の
46 ー
-
議安ひっかふって住蓮は時限沢を出た。掌わい雨脚 は少し
弱まっている。
こんな雨の目
すぐに立ち上がった。
伽 羅観音の 前 で琵琶を爪びいていた生仏は
、
くと
、
「それだ」
、
厳重に
き
、
、
「六時礼讃のことは 法然さまからもかねて聞いておりまし
た。写本が手には いったら 調戸してみよ とも言われまし
た。すぐに怠りましょう」
ニ人は引導寺を出た。
、
た い へんな怠気込みである。
、
さ
琵琶 に湿気を与えぬように 木絡にこれをおさめ
布 をつめて
合
<六時礼讃の音律>
思
.
.
、
、.
47 ー
-
心阿弥陀仏がうれい気にたずねる。鎌倉の頼朝は左馬頭義
、
「木曽どのは どんな人だろう」
ってくることだろう。
平んみの没務は限に見えている。京国の町開門家武士が攻めのぼ
わされるようにもなった。
六時礼掛酬の同州斤だけではなく、政治の話題が四人の削でか
知人や話題が多かった。
、
って未知な間柄で この降雨沢で初対頭だった。だが共通の
、
入れ違
は後白河院の側近たった。ただし大和前司朗抗感とは
生仏が時雨沢へ通ってくる日が多くなった。浴中へ心阿弥
陀仏が念仏奥行に下ってゆく以外の日は、いつも勢歪立にい
た。送り迎えは若 uの
h 柚九が、生仏の手を引いた。
生仏はひところ六放鉱の子家民放で暮した拐た。それ以前
いのである。
なものだった。あとは細部にわたって同巧梨幽してゆけばい
この瞬間に、六時礼読のザ山本メロディか出米上がったよう
るのであった。
、
そこなわず 燭々と百人生仏の琵琶は新しい音律を流露させ
、
舞い唄のようにやわらかく それでいて宗教的な壮重さを
である。
る。戸企も昨日貿も女性の咽喉では消化できないものだったの
・...,
、
械の子である。ポ舵もはっきりとしており 十一ニ&の年まで
、
「はい」
、
「それは良かった。これからの仏法はな深山に寂居してい
そのとおりでございます」
京都で暮している。宮廷政治を、雰囲気だけは知っている。 「念仏興行に粕を出しているというのか」
「それがまるでわからない。術刀先生必賢の息チ というだ
けで、院におかれても皆目見当がつかないようだ」
ひじり(由私的〉だけが民を救うことになる。それに
の乱世
たんでは何も山来ない。仰は必へ掛けこんでゆく時代た。こ
しても珪源どのは、格変ら.す忙しく飛びまわっているぞ」
「ああ、市州さまはいまどこで何をなさっているのですか」
、
親盛は川をひそめる。
、
心阿弥陀仏の不安は浴中の大衆のものであり 親践の憂慮
「図会式土の乱暴者でなければいいが」
は後白河院をはじめとする廟堂の貴絞たちのも のだった。
あれ以来、絶えた時雨沢に姿を視さない重穏だった。
「椛醐あたりに住してい るそうた。しきりに諸・米に出入りし
「寄進 :::光明山のですか」
て寄進を求めている」
関白九条米突の日記「玉薬」もその聞の消息を笛きつづ
「いや、もっと火設な復興だ。米大与の大仏復元だ」
帽。。
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法皇ヲ
東大寺洛加ノ聖人 浴中ノ諸家ヲ廻リ之ヲ匂
4
所或ハ
、
始メ務リ、世股ヲ論ゼズ。女院御伊加銅ト斤
、
- 48-
とんな共通した恐怖がある。
「しかし三位中将は式見のお方
a
と、生仏が元気づけるように言う。盈衡の勇気をたたえる
のである。
「もはや平家の鼠勢は一個人の武辺ではとうにもなるまい」
心阿弥陀仏は結論して、迫り来る新しい陵史の実体を見透
そうとする。
そんな混迷の浴中で、ある日住蓮はばったり路上で明遍と
、
した。(つづく〉
。
A
銭一千貧文、モシクワ金六同一五
この明過に俊韓米一一肘霊源を紹介されて以来のことを
人たるう と住症はあきれてみたり
どこまで砧刈的なおmu
み永元年 の 以 も 終 ろ う と す る 越 し 強 い 午 後 だ っ た 。
出会った。弁天堂の念仏興行からの戻り道であった。
住蓮は
物語った。
「それで い ま は 、 主 鷲 山 に 住 ん で い る の か 」
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後 記
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