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Title ドイツ社会民主党と植民地問題 Author(s) 山田
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ドイツ社会民主党と植民地問題
山田, 義顕
待兼山論叢. 史学篇. 7 P.1-P.22
1974
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URL
http://hdl.handle.net/11094/47971
DOI
Rights
Osaka University
ドイツ社会民主党と植民地問題
はじめに
義
里
買
1
l八五年、ドイツ帝国は、アフリカおよび南太平洋諸島に植民地を獲得し、﹁植民地帝国﹂として新たな
田
︶
g
r
︵
2
︶
由民間口︸岡市可曲ユ巾
∞ G N S −rHl
巾
日
四
ヴイニズムの波にのみこまれていく。そのなかで、ドイツ社会民主党 円
−
円
のみは、すくなくとも、第一次世界大戦勃発に至るまで、反世界政策陣営の唯一のトレiガ!とし
ロ2M仲田ロr−白ーロ向山田
小党分立の状況にあるドイツ諸政党も、政府の世界政策をめぐって離反と結合をくりかえすが、 次 第 に シ ョ ー
はいずれも、内政的基盤の再編成を積粁として、対外的に帝国主義的世界政策を推進したものである。
はじまる﹁結集政策﹂去巾∞25−
gm由唱。−Er 、 一九O七年に成立する﹁ピュ l ロl ・ブロック﹂骨こ凶巳。宅∞−申込
醸成されるなかで、内政問題と対外問題は密接な結合を示し、ドイツにわいてもそれは例外でなく、 一八九七年に
ないつつ、ヴイルヘルム二世名ニZ E 同治下のもとで強力な対外膨張政策にのりだす。国際的に帝国主義的状況が
︵
出発点に立つ。この海外膨張は、その後一時的停滞を示すが、ドイツ帝国は世紀転換期には諸列強との角逐をとも
一八八四
山
門ご巾同
TM円’
]
[
ロ
で指導的役割をはたしていた党の世界政策批判は、国際的にも多大の影響を与えるものであった。しか
て重要な地位を占めることになる。すでに、世界最大の労働者政党とL て第二インターナショナル
巾
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白
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片
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寸
ロ
巾
目
品
ロ ζZZ巾
︿C
﹂の事実を注視するとき、大戦前の党の附界政策批判の
︵
3
によって開始された﹁結集政策﹂は、関税政策、艦隊政策、
︶
−
ZEZロ巳−F
L巾 句 目 立 己 は、汎ゲルマン主義を唱え、政府与党として世界政策の強力な推進者
h
4
2
4
︶
︶
は、帝国議会に
おいて常に一 OO前後の議席を有し、その動向いかんでは﹁結集政策﹂を瓦解させることができた。しかし、その
方、カソリックという宗教的幹で国民各層を党内に共存させていた中央党含田 NS可ロ冨田七
25
ロントが形成される。また、それとともに、膨大な陸海軍費および植民地統治費の財源が確保されたのである。
︵
5
関税政策の強化を代償として艦隊政策を認めるところとなり、ここに、両者の結合のもとに世界政策遂行の共同フ
︵
の役割をはたしていたが、東エルベの農業家層をその支持勢力とする保守党色芯問。ロ田市コE2 司包宮山も、保護
国民自由党
懲役法案を三位一体として政府陣営の再編を企図したものである。すでに、大商工業ブルジョアジーを中心とする
周知のごとく、ミケル﹄CESS
内容に焦点を絞りつつ、党史の一側面に検討を加えんとするものである。
本稿は、 とりわけ、帝国主義の現象形態のひとつと考えられる植民地政策にたいする党の理論的、実践的批判の
具体的内容の質が間われてよかろう。
という予期に反した行動をとった事実が知られている。
し今日、大戦勃発に際し、党は従来唱導していた労働者の国際的連帯の理念を放棄し、政府の戦争政策を支持する
2
性格からして、党は世界政策に直接的利害関係をもつものでなく、帝国議会でのその地位を活用して内政改革を中
7
心とする自党案の採用とひきかえに政府陣営に加わ︵む。植民地政策に関する党の立場は、従来原住民保護とキリス
︵
︶
︵
8
︶
ト教布教という倫理的、宗教的側面から批判的であったが、九0年代に、﹁片手にバイブルを、片手に銃をもち、両
﹁白色者同開
手で植民を逐行する﹂とい争政府キャンペーンを受け入れる。要するに、中央党は、政治指導権を掌握するために世
界政策に関しては、いかなる立場をもとりえる状況にあったといえよう。自由主義左派は、パムベルガ l
9
2・
i ・リヒタ l 開zmgmk宮市 H を中心として、八0年代には私的企業にたいする国家援助を拒否し、植民
2
m
切回同ロゲ
︵
︶
一九O三年に八一議席と着実に党勢を拡大しつつあっ
れて批判的立場から言及されてはいるが、原則的見解はなお確立していない状況であった。多くの議会主義政党に
この時点にいたるまで、植民地政策批判は、党内で比較的重要視されていない。帝国の対外膨張に関しては折にふ
の根底にもっているのである。
︶
日
︵
た党の世界政策批判は、当然、政府を憂慮せしめ、﹁結集政策﹂も社会民主党にたいする政治的対抗という意図をそ
として立ち現われる。 一八九八年帝国議会選挙で五六議席、
世紀転換期に、諸政党がナショナリズム攻勢にまきこまれるなかで、社会民主党のみがそれにたいする批判勢力
左派の一部を与党とする帝国議会多数派の形成をみ、 世界政策推進の共同フロントが確立されたのである。
を生じるや、その批判も次第に温和なものとなった。こうして、保守党・国民自由党・帝国党・中央党・自由主義
︶
叩
︵
地政策を財政的見地から非難していたが、九0年代前半期、選挙敗北とマンチェスタi主義をめぐる対立から分裂
ドイツ社会民主党と植民地問題
3
とって内政・経済政策が党の主要目的であり、対外政策は内政の目的を達成する手段であったように、社会民主党
においても対外政策にたいして社会主義の原則から理論的批判を定立することはなかったのである。彼らが常に植
︶
一八八四八五年の﹁航路補助金問題﹂|それは、植民地に向かう
た。植民地政策は、﹁資本主義的発展に不可欠の要素﹂ でも、また、﹁不可避的産物﹂ でもなく、ドイツの産業に利
策にたいする党の公的見解は、それが国擦関係を悪化させ、 ド イ ツ 産 業 の 発 展 を 遅 滞 さ せ る と い う 面 か ら 導 か れ
国民から閉めだしてしまうことは進歩の妨害である﹂、として進歩の理念から党の立場を位置づけている。植民地政
︶
問
︵
萌芽を培養し﹂なければならず、﹁諸国民は平和な自由競争において文明の成果を追求すべきである。一国民を他の
︶
凶
︵
クラシ l の影響下にあった。党は、﹁すぐれて文明促進的政党として: ・
L 市民社会の基盤のうえに発展しえた文明の
しかし、、この潮流は党内で支配的勢力となるにいたらない。党理論の主流は、ラッサ|ル主義とブルジョア・デモ
壌の徴候をそのなかにみている。
︶
口
︵
党指導部のリ lプクネヒト 者ニZ Eピ5E2E は、植民地政策を﹁社会問題の輸出﹂と捉え、資本主義社会崩
場からそれを非難せんとした党機関紙﹃ゾチアルデモクラ lト﹄骨吋∞。NEZ25rE同によって代表される。たとえば、
︶
日
︵
私的汽船に国家が補助金を与えるものであったがiを契機として植民地問題が論ピられたとき、 マルクス﹂ヒ並衰のムす一
働者階級の解放の遅延ーをみる。この見解は、
︶
日
︵
中央派は、植民地政策を資本主義の存続、延命手段と規定し、そのなかに社会主義運動への危険すなわち、労
︵
それが、後には党内における三派急進派・中央派・修正派l の力学的関係によって規定されているのである。急進派・
U
ぎ寺い。したがって、﹁マルクスの子﹂と自負しながらもその批判の具体的内容は奇妙に混乱した点が窺える。しかも
︶
日
︵
民地政策を拒否しつづけたのは、現存国家と資本主義体制に反対するという立場をそのまま拡大適用したものにす
4
︵初︶
︵幻︶
ZZどによれば、それは、冒険的で︷支配者の好んでもちいる﹂
益 を も た ら す も の で も な い 。 カ ウ ツ キl 関 白 ユ 関
合理的政策にすまないということになる。
放棄した自由主義理念を肩代りして受容することになったのである。党組織の拡充を至上日標とする党指存部は、
︵忽︶
熟のまま体制内化し、帝国内でブルジョア・インタレストを充足させるにとどまっており、社会民主党は、彼らが
義的、進歩主義的、文明論的視点が窺えるであろう。ドイツの自由主義勢力は、イギリス・フランスに比して未成
植民地政策にたいする党の必識むよび反証を総括すれば、以上のように、社会主義的、什由貿易主義的、自由主
ゴ
ド
M
円ぬ︿。ニ日常は、ドイツの立場から植民地政策を文明化の
︶︵部︶
かれは、勝州湾借用をとりあげ、その獲得の﹁方法﹂を非難したが借用の﹁目的﹂に同意する。 ﹁ドイツ国民は
えたベルンシユタイン開EZL
∞25ZE は、植骨地政策に関しても好意的態度を示す。
︵
手段として評価し、私的企業による植民地進出を是認しているが、修正主義をうちだし党路線の全面的変更を唱
に一八九O年、改良主義を唱導したフオルマi ル
。g
的な立場にたいして、新たに具体的、積極的にこの間題にアプローチしようとする潮流が党内にあらわれる。すで
あった。しかし、植民地政策に反対投票するにとどまり、具体的な党政策をそれに対置することのない党の伝統
︵お︶
てもふたたび植民地問題に関する論議が活発化するが、それはおわむね、従来の立場を踏襲するにとどまるもので
一八九七年、腰州湾強制借用にはじまる中国進出を契機として、 ドイツ世界政策は本格期にはいる。党内におい
分裂を回避する意味からこうした理論的不格合に決着をつけることなく世紀転換期を迎える。
ドイツ社会民主党と植民地問題
5
︶
お
︵
中国が分割されてドイツが中国の一部を分与されることに、なんらの利益ももたない、しかし、中国に関するすべ
ての諸問題について、ドイツが決定的な発言権をもつことに::ドイツは一大利益をもっている﹂。この点に関して、
﹁躍川湾の獲得は::ドイツ外交政策の最大の悪行ではなかった﹂し、また、−腰州湾の租借が、中国でのドイツの将
一九OO年マインツ党大会は、はじめて﹁世界政策﹂を議事日程にのせる。それは、ドイツ世界政策と党内修正派の
働者階級の成長を促進することが肝要であったといえよう。
︶
況
︵
か っ た の で あ る 。 ヨ ー ロ ッ パ 諸 列 強 と 同 じ く 、 ド イ ツ 資 本 主 義 も 強 力 な 対 外 政 策 を も っ て 、 帝 国 の 、 したがって労
にとっては、植民地政策は資本主義の延命手段でなく、したがって、労働者にとってもなんら主要な闘争目標でな
︶
初
︵
csm印巾︸は、原住民教化の面から原住民の強制労働を認めるにいたる。多少のニュアンスの相違こそあれ、修正主義者
者階級が、海外植民によって間接的利益を受け、 ヨリ高い賃金を獲得できると主張したし、クウエッセル FEgFm
労働者階級の利益をドイツ帝国の発展と同一視するという国家社会主義的傾向をうちだす。 か れ ら は 、 ド イ ツ 労 働
宮内﹃阻止の巳当2 やヒルデプラントの2ZEEL巾
﹃SL らは、ベルンシユタインの路線をさらにおしすすめ、
ゲ
−
立はこれを認める。この観点は、党内の改良主義的指導者に多大の影響を与えることになる。たとえば、カルヴァ l
︶
鈎
︵
としたのである。また、かれは、諸列強の植民地に矛先を向ける政策を恒否したが、ドイツの経済閣での植民地設
義擁護者と速断することはできないが、すくなくとも、帝国主義国家の勢力均衡のうえに諸列強の衝突を回避せん
パ 文 明 に よ る 野 蛮 な 植 民 地 の 開 発 こ そ 崇 高 な 義 務 で あ る と い う こ の ﹁ 文 明 論 的 植 民 地 観 ﹂ を も っ て 、 かれを帝国主
できるはずである﹂。かれは、この根拠を﹁ヨリ高度な文明がヨリ高度の権利をもっ﹂という点に求める。ヨ l ロッ
︵幻︶︵お︶
来の利益の保証獲得に帰着したかぎり﹂、﹁社会民主党もまた、その原理をいささかも傷つけることなくこれを是認
6
−ωzm刊巾吋は次の決議案を品す。植民
挑 戦 に 応 じ て 党 の 原 則 的 立 場 を 確 立 せ ん と し た も の で あ る 。 シンガー司2
︶
沼
︵
︶
お
︵
弁︸戸行力?7
地政策は、−常に増大する資本を投資するために新たな機会を狙っているブルショアジ l の食欲な欲望に、また、新
たな販売市場をめざす衝動﹂に起因する。この政策は、﹁土地の暴力的略奪﹂と﹁原住民の抑圧と搾取﹂
ものであり、また、−対抗する列強の競合と摩擦をひきおこし﹂、﹁危険な国際的衝突の萌芽を含む﹂ものである、と。
︶
出
︵
そして、党の任務は、この一強欲・搾取政策﹂にたいし、一人間による人間のあらゆる抑圧と搾取の敵として決定
的な反抗﹂を行なうことにある、と。
︶
お
︵
この決議案は、大会にて圧倒的多数で可決される。しかしなお、それは、革命的に定立されたとは言い難く、倫
︶
お
︵
て余りあるものである。
一方、第二インターナショナルも、
E・︿吉田内己によって起草された決議案は、植民地膨張が資本主義に
ったのである。オランダのファン・コ l ル E・
︶
幻
︵
ア戦争を支持し、帝国主義的政策を丈明化の点から促進しようとした折から、インターの姿勢が問われることにな
て植民地問題をとりあげている。ドイツにおける修正主義の登場だけでなく、イギリスではフェピアン協会がブ l
一九OO年パリ大会で、列強の軍備拡張、国際的緊張、軍事衝突と関連させ
則﹂に賛成し、 −勢力範同の限定﹂に反対すべきである、 との修正案が無条件で採択されたことは、そのことを示し
策の本質は、なお充分認識されていなかったといえよう。﹁シナおよびヨーロッパ外の領域に関して、門戸解放の原
の理念がその基底にある。したがって、国家権力の行使による独占化と対立者の排除をめざす帝国主義的植民地政
理的要素を容赦なく除去する発展史的厳粛主義がその基礎になっているが、党の場合には、倫理的文化的人類発展
理的観点にのっとって原住民の権利の保証を要求するという側面も顕著である。マルクスの場合には、あらゆる倫
ドイツ社会民主党と植民地問題
7
︵
羽
︶
.小司避的な付随現象であると同時に、 ヨーロッパ戦争の脅威とショ iヴ イ ニ ズ ム の 源 泉 で も あ り 、 そ の 目 的 は 資 本
戦争勃発の危機に際しての各国諸政党の具体的措置は不問に附されているけ したがって、
︵
ω
︶
一九O三年選挙で八一議席︵第二党︶を獲得し、川年のドレスデン大会において修正主
︵叫︶
一倍して投票保留の行動を行ったのである。
すでに述べたように、﹃組織第一主義﹂の方針から内政問題を主要な闘争目標としていた党は、組織の急速な拡大
うことをこの事実は意味している。そして、それは、党内勢力の変化に起同するものであった。
主観的にはどうであれ、客観的には帝国の植民地政策を正.白から引否しえない状況が党内指導部に生ピていたとい
の立場を採るものと忠われた。しかし、帝国議会党フラクションは、
義勢力を圧倒的多数で否決︵二八八対一一︶した党は、この法案にたいして当然、攻撃を加えるとともに法案拒否
ひきおこすところとなるい
横暴さを衆自のもとに曝し、帝国政府が反乱鎮圧費合含める値民地予算案を帝国議会に提出するや、激しい論議を
一九O三年末、 ドイツ領西南アフリカに生じたヘレロ人を中心とする原住民の反乱は、 ドイツ植民地経営の無能、
議からの逸脱は、社会民主党の場合、 はやくも一九O四年に露見する。
策をいかに評価するかは、党、 とりわけ議会代議士によって決定されることになるのである。そして、インター決
各国諸政党は、自国内での位置、あるいは政府の政策に応ピて具体的戦術をとることになる。すなわち、政府の攻
拘束力を有しておらず、
こうして、インターは、国際的連帯の立場から原則的立場を確立したが、インター幹部は各国諸政党にたいする
︵
却
︶
場合には、労働者の国際的反抗でもって応ずることをインター幹部に委任する決議が採択された。
植民促進のための支出には、議会で無条件に反対する﹂ことを各国社会主義政党の義務とし、国際的紛争が生じた
家の利潤を高め、資本主義体制を岡持することにある、としている。そして、﹁軍国主義、海軍拡張政策、あるいは
8
とともに党内に異なった潮流を共存させることになる。当時、帝国の経済的発展と符号して、労働組合運動の台頭
︵位︶
・S の
が著しく、 しかも社会民主党の傘下にあった﹁自由労働組合﹂任問 3Z
22早田与え苫ロは、組合員二百数十
︶
必
︵
万を数え、党に多大の影響を与えていたのである。この組合は、﹁労働貴族﹂という中産階級意識をもった階層を中
核とし、労働者の生活改善を訴える経済闘争を基本的路線としていた。それゆえ、党の理命的闘争、対外政策批判
には無関心で中立主義を掲げていたが、組合の要求貫徹の手段としての帝国議会の重要性を認めざるをえなくなり、
その動向を無視する政策は党分裂同避の立場から排除することができなかった。
一九O 三 年 選 挙 の 大 躍 進 は 乙 の 労 働 組 合 勢 力 に 負 う
次第に組合代表を党内に送り込んでいく。かれらは、その立場から資本主義の漸次的改良による社会主義国家の建
それゆえ、
一方に
一九O六年ふたたび放棄されるが、この間題はすくなくとも帝国の植民地政策にたいする党の公的姿勢が温
和化し、原則からの逸脱が現実のものになったことを意味している。
針は、
レlメン党大会は、 フラクションの行為を激しく非難したが、結局、事後承認されることとなる。この投票保留の方
党フラクショシの投票保留は、党内勢力の均衡を意図する指導部中央派の動揺を一示すものといえる。 一九O四年ブ
わいては組織の維持、拡充のために修正派との妥協を模索しつつあったのである。先述の植民地予算案にたいする
央派が、急進的党員|とりわけ地方党員|の支持のもとに修正主義勢力を押えた結果であるが、中央派は、
見したところ矛盾したかにみえる一九O三年大会決議は、党の伝統を固持しようとする急進派と党指導部を握る中
ところが大きく、
設を志向する修正派との結合を強化していったのである。
ドイツ社会民主党と植民地問題
9
ドイツ政府の世界政策は、 一九O五年のモロッコ危機、 一九O六年のアルヘシラス会談の不首尾、さらには大陸
︶
C
耳は、ここに、世界政策陣営を再編すべくナショナル・ブロックを企図する。
は、政府支持層を獲得する唯一の手段であったし、
宇小九∼、
﹂の愛国的アピール
政府ブロックを形成するであろう諸政党|保守党・国
て政治に無関心な国民の愛国心に訴え、 その政治的無気力からかれらを呼びわこさんとしたむ
反国民的分子と刻印したのである。植民地に関するキャンペーンでは、祖国の重要奇利益が危険な状態にあるとし
︶
羽
︵
きるかどうかの偉大なテスト﹂と規定し、反政府政党をドイツの名誉に挑戦し、ドイツ植民地帝国に脅威を与える
J の選挙を﹁ドイツがヨーロッパ強固から世界強国に発展で
日、帝国議会解散にふみきったのである。ビュ lロlは こ
︵絹︶
質的転換を遂げつつあったが、ピュ i ロlは、この陣営が選挙後政府与党に旋回する確約をとるや、同年十二月十三
︵
U
同年、リヒタi開高gEnZ2 という個性ある指導者を失った自由主義左派は、リベラル・イムベリアリズムへと
宰相ビュ l ロl
∞2ロ﹁阻止さロ切己
建設案、植民省設立案のことごとくを廃案にもちこんだとき、﹁結集政策﹂は実質的にその存在意義を失ったのである。
の再編成が危急の問題となる。一九O六年五月、中央党が社会民主党、自由主義左派と組んで植民地追加予算案、鉄道
台頭とともに、党は反政府陣営仁加わったのである。ここに政党配置関係は大きな変化を示し、政府にとってもそ
︶
必
︵
せんとする政府の意図は、中央党の不興をかド、エルツベルガ
1555 何日宮高2 を中心とする党内急進派の
当然圏内にも反映し、 ﹁結集政策﹂は、中央党の離反とともに崩壊の危機に瀕する。中央党の議会支配を極力排除
同盟というカイザ lの夢の挫折、英露接近の動きを契機として、次第に孤立化してい︵句。ドイツ外交政策の動揺は、
0
1
民自由党・自由主義左派、等々ーを結びつける唯一の共通問題でもあったのであ信政府は、植民地問題をこの愛
︶
日
︵
国的アピールに利用した。植民地膨張は国家の栄誉と安寧を守るための政策であるがゆえに、帝国はそれを推進す
︶
臼
︵
る帝国議会をもたねばならない、と。また、植民地の経済的将来をパラ色に描き、ドイツ文明をアフリカに拡大す
︶
臼
︵
∞22コ55
ることはナショナルな義務である、とも主張されている。政府だけでなく、ブロック政党あるいは諸々の愛国的・
反社会主義的団体も、祖国の栄誉をスローガンとして幅広く国民各層に訴えかける。
︶
臼
︵
選挙キャンペーン当初、攻撃の矛先は中央党に向けられ、とりわけ国民自由党のパッサi マン何同dE
一九O三年ドレ
一九O 六年マンハイム大会で成立をみて
とする傾向が主潮を占めていたのである。もちろん、政府のアピールに抗して鋭い論調でそれを批判した党機関紙
︶
臼
︵
理論が説かれることはなく、低関税、低間接税、植民地費用および陸海軍費の削減のなかに労働者の利益をみん
したが、それを全体の一部とし、なお内政問題にウェートをおいていた。その信条たるマルクスの階級闘争、革命
国的アピールの力を過少評価していた。党は、選挙で植民地行政の腐敗とスキャンダルを喧伝し、海外膨張を批判
︶
日
︵
いた。この党組織と豊富な資金をもって、一九O三年選挙以上の勝利を確信していたのであるが、党指導部は、愛
︶
幻
︵
スデン大会で表面的には決着がついていたL、自由労働組合との和睦は、
社会民主党は、﹁盲目的自信過剰﹂とオプチミズムの精神で選挙に突入する。修正主義問題は、
︶
国
︵
いっそうの脅威を与え、また、社会主義革命を危倶する国民層の一部にも党の進出は恐るべきものに写ったのである。
挙の大勝、その組織力と統一性、 さらには中央党と組んで植民地法案を廃案にもちこんだその勢力、などが政府に
び保守党は、文化闘争の経験に鑑みて過激な攻撃を極力避け、社会民主党に攻撃の的を移していく。 一九O三年選
︶
出
︵
らは円。田 gzm。旨\のスローガンを掲げ、中央党の教皇至上主義を激しく非難したのである。しかし、政府およ
ドイツ社会民主党と植民地問題
1
1
も存在していたが、植民地問題や愛国主義のもつ意義はできるだけ減殺され、国民の経済的利益を前面におし、だす
︶
一方、中央党・社会民主党・ポーランド党
一九O二一年選、挙と同じ選挙区で
代わる現実的改良主義的な政策の採用を主張したのである。また、植民地に関する党の原則的拒否を非有効的な政
資本主義の崩壊を必要以上に誇張した点に敗北の以因を求める。かれらは、従来の教条的な立場を放棄し、それに
︵門出︶
ところで、党はこの選挙敗北をいかに認識していたのであろうか。修正派は、非社会主義的共鳴者を考慮に入れず、
キャンペーンこそが党敗北の主要なファクターであったとい−えよう。
闘われた以上、それが敗北の主要な原因であったとは言い難い。党が極力過少評価した政府の植民地論議と愛国的
︵町田︶
八%の議席しか獲得できなかった原因は、もちろん選挙区制にも問題があったが、
闘いを強いられたかということが、如実に示されたのである。社会民主党が、二八・九%の投票率を得ながら一0 ・
政府の意図したごとくその票の多くは自由派に流れたのである。反国民的分子として刻印された政党がいかに苦しい
︵日︶
この選挙は、八四・七%と勺 7前代未聞の投票率を示し、ーそのことは中間浮動層の投票参加を意図しているが|
党の地位を確保したが、社会民主党は議席の半数近くを失い、四三議席︵一二八議席の減少︶ へと落ちこんでいる。
民総結集を計った﹁ビュ i ロl ・ブロック﹂が完勝したのである。中央党はなお一 O O議席を得、依然として第一
の野党は一六八議席︵一九O三年は一二六議席︶に凋落し、もはや議会多数派を形成することができず、ここに国
党は、計一二六議席︵一九O一二年選挙では一七七議席︶を獲得したが、
選挙結果は、ナショナルな問題を争点としての政府の強さと中央党の宗教的紐帯の強固さを示す。ブロック諸政
びたび主張されている。
︵
ω
点が顕著であったといえよう。キャンペーンのなかでも、抑圧と搾取のない植民地政策を支持するということがた
1
2
題
︵山田︶
策と弾劾し、ドイツの海外発展をドイツの経済的利益から公然と支持する論者もあらわれる。
一方、指導部中央派
は、選挙敗北を偶然の産物とみなし、労働組合との協調によっていっそう組織の拡充に努めるべきだとの方針を採
︵臼︶︵閃︶
り、この敗北を契機として、党の革命性が鋭いものになるだろうとの楽観的見解を一示すにとどまっている。
党は、ドイツ国内で呼びおこされたナショナリズムの魔性を的確に認識できなかった。世界強国というドイツの
威信が鼓舞されたとき、諸政党はその政党原則、階級利益を放棄してその波に飲みこまれていったが、社会民主党
においてもそれは例外ではない。 一九O七年選挙は、この傾向を決定的にした最後の事件といえよう。 この後、陸
︵白山︶
開海軍政策、植民地政策という本質的にナンヨナルな政策にたいする反抗は終結したのであり、この意味で一九O七
一九O 七年シュトゥッツガルト第二インター大会および同年のエッセン党大会で決定的となる。
調年は、たんに社会民主党のみならず、ドイツ政治史’のうえでのタl ニング・ポイントであったのである。この社会
党
主 民主党の穏健化は、
4ぷ
1
LL
民
会
ツ
一九。六年マンハイム党大会以後、中央派と修正派・組合派との接近が顕著であり、
党が第二インターに送った代表団は、修正派と中央派わよび組合代表者から構成されており、急進派はほとんど
︵釘﹃
﹁社会主義は、八五世界の
起草を委託してい同炉、
すでに一九O四年のアムステルダム大会は、植民地委員会に植民地間以一にたいナる決議案
場をとることは充分予期できることであった。
︵田山︶
急進派は孤立した状態におかれていたのである。この点からして、ドイツ代表団が植民地問題にたいして妥協的立
加えられていない。すなわち、
hl
い
ー
パ
,
四
ファン・コ l ルと社会民主党右派を中心とする委員会多数派は、次の決議案を提出する。
3
1
︵初︶
生産力を発展させ、あらゆる民族を最高の文明に導くであろうという考慮のもとに、大会は、あらゆる植民地政
︵
︶
ったといえる。また、ここでインターの限界が指摘できる。インターは、﹁あらゆる人問、あらゆる以族の平等﹂と
つ進歩的側面と破壊的側面という矛盾の止揚のなかから労働者の解放、社会主義社会の建設を導き出す試みはなか
なかに精神的物質的進歩の原動力を、後者は、略奪と搾取、生産力および文明の否定をみている。植民地政策のも
両者の論争は、植民地政策が人聞の発展にとっていかなる意味をもつかということに還元される。前者は、その
植民地原住民の生活改浮は、資本主義国家の労働者階級のそれと同様拒否すべきであると規定する。
少数派は、植民地政策は社会主義の根本原則の否定であるから、﹁社会主義的植民地政策﹂は論理矛盾であるとし、
が帝国主義とな守つけるにしても、われわれは手に武器をもってそこに行かなければならない﹂とさえ述べている。
︵符︶
段階を経過しなければならないこと、そして、それがヨーロッパの過剰人口の受容ならびにヨーロッパ商品の販売
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に不可欠であることを挙げてその立場を根拠づける。ダヴイツト開牛耳阻止ロEE に至っては、﹁たとえカウツキ|
的立場に挑戦したのである。多数派は、植民地政策が植民地および母国の発展に役立つこと、植民地は資本主義の
両決議案は総会において論議されるが、従来公的な場で沈黙を守っていた修正派がここに公然とインターの原則
を導く使命というものは、征服や搾取の欲望をおおい隠す仮面として奉仕するものにすぎない﹂と。
︵礼︶
植民地原住民の隷属、労働強制、根絶を遂行せんとするものであるとの見解をもっ。資本主義社会が主張する文明
委員会少数派は、・原則にのっとって次の修正動議を山す。﹁本大会は、資本主義的植民地政策が、その本質に 仰
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のインターの原則から逸脱する多数派案にたいして、社会民主党中央派のレ l デブl ル、カウツキーを中心とする
策に原則的に反対しない、 というのも、それは社会主義体制のもとでは文明促進的に作用しうるからである﹂と。こ
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勝利の後にはじめて現実のものになるとの認識があった。この限りにおいて、州民地原住民はヨーロッパ労働者の
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間接的同盟者としか評価されず、資本主義の悦作者として同情されこそすれ、インターの実践的闘争のなかにその
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沌
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一括投票の立場から全員一致して多数派案を支持するが、総会はからくも少数派案
解放を組み入れる姿勢が欠如していたのである。
さで、ドイツ社会民主党は、
して、党政策の変更を求めるや、従来批判的の立場はもはや現実的なものとはみなされなくなったのである。
植民地政策はある状況のもとでは文化的問題でもあり得る。ただ肝要なことは、それが追求される方法にある﹂と
︶
位
︵
しつつ党勢力拡大に専心する。植民地問題も、党皇帝たるべ lベルが、﹁植民地政策の追求はそれ自体罪でない。
圧倒的勢力を得だ中央派・修正派・組合派連合は、急進派の提案をことごとく拒否し、他政党との選挙連合を模索
激しく非難するが、中央派は、党分裂の回避、組合への配虚から修正派と結び、問題の所在を暖昧にする。党内で
︵前︶︵別︶
インター大会の三週間後に聞かれたエッセン党大会で、急進派はインター代表団を原則からの逸脱であるとして
が、植民地政策のなかに自国労働者の利益をみいだしていることの証左ともいえよう。
ヨーロッパ各国の社会主義政党の左派と非植民地川有国の代表であったといV7ことは、植民地所有国の代表の多く
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汚
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を採択し︵賛成一二七、反対一 O七、棄権一 O ︶、原則的立場を守り抜く。ここで、少数派案に賛成投票したのは、
ドイツ社会民主党と植民地問題
5
1
おわりに
一九O七年、ビュ l ロi ・ブロックの成立とともに、政府は植民地関係法案︵西南アフリカ追加予算、入植者補
︵山間︶
その生命、権利は国家によって保障される一方、鉄道建設による植民地開発が促進されたのである。さらに、
︵筋︶
O七 年 、 西 南 ア フ リ カ に お け る ダ イ ヤ モ ン ド 発 見 を 象 徴 的 事 件 と し て 、 植 民 地 は 次 第 に 本 国 の 需 要 を あ る 程 度 満 た
すようになる。
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及し、その責任を﹁この政策のトレ lガl﹂ に 帰 し た が 、 そ れ に た い し て 、 党 が ミ リ タ ン ト な 行 動 を お こ す 可 能 性
︵釘︶
一九一四年八月四日、世界大戦勃発に直面して、党フラクションは、﹁帝国主義政策のカタストローブ﹂に言
設を認めるに至り、ここにおいてその植民地政策批判は、実体として機能しがたく、認識の後退が現実となーたので
︵部︶
党は、 一九一二年のタンガニlカ鉄道の部分的修復に賛成投票したことを契機に、一九一四年には、東アフリカ鉄道建
九
地経営を開始する。この後第一次大戦に至るまで原住民反乱は勃発せず、原住民は植民地の資産の一部とみなされ、
︵お︶
償費、外務省植民局の省昇格︶を相次いで成立せしめ、デルンプルク∞巾ZEZU2田 宮 品 の も と で 合 理 的 な 植 民
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