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第 一 回日本医学会論争 - 広島大学 学術情報リポジトリ

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第 一 回日本医学会論争 - 広島大学 学術情報リポジトリ
"・ yi--^7-﹂? C'---'蝣-㍗.
第一回日本医ー学会嶺争
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わが国における最初の全国医師鷺'4-fである的一同日本医学会がひ
らかれたのは'明治二三年四月である。当時へ この会合の可否をめ
ぐって多-の論議がまきおこったがへ森鴎外はその主要論客であ
り'しかもかれはへ この問題を主契機として、結局、当時の医界主響
力と決定的な対立関係に入ることになる。この事件は'悶外初期に
は'なおあきらかにされていない。以下へ私は'調査しえたところ
おける員も頂要なできごとと言ってもよいのであるが、その委細
によって、この論戦の全経緯を展望したいと思う0 (拙稿﹁森門外
の批評運動1その一'医事評論について﹂<﹃広島大学文学部紀
二〇i'Ji>'川 ﹁L71・j-'iy叫Wjii﹂<m代叶<?十一&.TRft',i>牀.蝣蝣
U)
二
二二年六月一五日の﹃東京医事新語﹄五八五号に'つぎのような
負
﹁往年吾唱和会シ乙国会卜名ツケ私二我医学社会ノ為二相謀ル所
﹁第一回日本医学会創立広告﹂が掲載されたo
二会スルノ秋ナ-比時二当り璽竺内国同業ノ有志者相会シ学術上
アリ采ル明治廿三年ハ国会開設ナ-糊菜怖慌会ナ-全国ノ人士璽仇
シ我㌍&,貝印謀り創立資トシテ先ツ仮二各会百円ツ,ヲ総出シ日本
ノ知識ヲ交換スルハ莞シ我医学社会二於テ無益。アラサルへシト信
医学会第一回ヲ偲サントス甲丁創立主意欝フ四方二琉チ同志諸君ノ
・
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、
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賛成ヲ希望ス其開会月日細則等二軍アハ会員ノ概数臣マ-テ後チ更
:
二送附r<可シ﹂
るo 発起人は、岩佐純'伊東方成、池田謹頚、石E?恵症、橋本網
常、長谷川墾戸塚文海、高木兼買、長与専芳'大沢謙二、佐滋
・
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蝣
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蝣
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遊'宍膏賀純三宅香'の一一一一人の乙酉会員であり'いずれも'明治
この提唱に対していち早-論陣をはったのは﹃医事新聞﹄であ
る。六月二五日の同語三〇五号は、事の次軍で報薫するとともにへ
・
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-192-
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'﹁︻ 芋'..1- ︰ ∵_
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日本医学会﹂がそれであるが、かれはそこで、実力者としての乙酉会
において'端的にその点を指弾するにいたった。天随子の﹁領金ト
員の発起は一応認めるとしても'発起人の日金醍出の件は不快に堪
いう論説をかかげている。田代はそこで'この企画を基本的には祝
福しながらへ この会を純粋な学術会とすることに疑問を提出して
えぬとして、つぎのようにきびし-論じている。
良などの﹁業誤上ノ問題﹂を試したりすることの方が実りがあろ
契際問題についての対策を話し合ったり'また'医薬分業、医風改
起者ハ皆ナ主人ニシテ来会者ハ悉ク客タルノ如キ丑況アラバ如何1
権利ヲ享受スルヲ至当ナ-トスレバ此挙ハ脚力撞着スル所アラン発
知ラズ布クモ学問的ノ珪会二貴成尊卑ノ差別ナク一様ノ会式一様ノ
﹁若シ諸君ニシテ海内ノ医師ヲ招待饗応セラル上仔念ナラバイザ
いる。真の学術研究は、こういう一時の祭礼のようなものによって大
う'というのがその言い分である。そしてへ この会の名称を﹁日本
フシテ一層先輩H.f拝ノ弊風ヲ助長シ又夕是レヨ-シテ相ヤク苛金ガ
-且ツ万ガ一二モ此会ガ侶マ先輩・L後進ノ問二横ハル沌濠ヲ益探
した利益をうけることはないので'それよりへ脚気とか食料とかの
医学会﹂ではな-'﹁日本医会﹂とすることを希望し、もし学会と
の研究生を省いたのか、とつっこんでいる。
田代のこの意見に対し'発起人石黒忠恵は'ただちにへ個人の資
乙酉会の独走に疑心をもつ医界の一空気を代弁したものと見てよい
の言を首持していることなども注目されるが'とにかくへ これはへ
学問界二勢力ヲ有スルノ偶ヲ作クルガ如キ事ア-トセパ如何へ﹂
ヽ ヽ
するならばへどうして'会員を開業医に限って'医科大学生その他
枯において(そうことわっているo)丁重な返串を寄せ、それは'同
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こ
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おなじ一文のなかで'乙酉会を医者社会の蔭長であるとする他人
琵の一二〇六号(七・五)に掲敬された。石黒は'そこで田代の注意
に謝しながら'﹁差間へ﹂があって挙純な学術会にした旨を述べへ
である。ここでへ この時の鴎外の立場について説明してお-必嬰が
そして、こういう論難に対してただちに応じて立ったのが森田外
可申欺其完成を数回後年に期侯事に候﹂と'望を将来によせてい
あるが'かれは'当時'﹃東京医事折詰﹄の主繁の座にありへ緒論
s
る。またへ会員を開業免許牧碍老以上にかぎったことについても'
﹁如此致提供へは後年此会発育して独逸の万有学会の如くにも相成
便宜の方法として逃げたうえで'最後に、乙酉会員がそのまま発起
﹃東京医頚折詰﹄は'第一回日本朕学 の後援団体たること軒的し
閥によってへその時評所動を一手にひきうけていた.しかもへその
べき地位にいたわけである。したがって'鴎外が﹃医事新尚﹄の批判
ていた様子で(実際会合が開かれたときには'折詰千部が参会者
人となったことについて弁明して'﹁或は世上にいらさる御世話の
にいち早-立ってこたえたのも、その立場上まず当然ということに
にくぼられている。)へだからO厭外は当然この提唱の按謎老たる
実はへ この最後の陳弁の部分にこそ、当時の医界の'この華々しい
SES
世話人と申され候も欝計膜へとも斯学の為に執る労と頓とは甘受の
提唱に対するひそかな椅疑はあったと見てよいので'﹃医事新聞﹄
積りに候﹂と述べている。
は'石黒のこの弁明になお納得せず'三一1号(八・二五)の論説
-193-
とに微妙なものを持っていた。かれが'結局のところ、有益な遊動の
、・'-・"蝣'i-:"1・!"二
二琴こというその応答の論法は'そういう立場の聖昌としてまこ
のばれる。
酉会の提案をめぐって契際にかなり騒然たるものがあったことがし
瓜全勇に十八日とあるは誤りVI一〇二二∨)は'活字の上にお
.
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∵
∵
∵
二
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ツの﹁自然学者茨ビ医家ノ<rt﹂の条例との比楼討究論決であるoか
'
れはまずへかつて自分たちが﹃望見医事折詰﹄五六六号(二・三)
.
であったわけだが、その一方'かれは'﹃医事新開﹄の論説の敏を
において'ドイツのその学会に匹通すべき日本医学会の生誕を希望
-
口をきわめて称揚しへその論者をもってへ小池学士と太韓遺士とあ
した文茸にふれつつへ実際にあらわれた乙酉真実がドイツのそれと
∵
いて'以上のやりとりの上に生まれたのである。これだけでも'乙
発起人はだれであってもかまわぬはずだと言い'日金の熊田とい-
わせて﹁天下ノ一二的﹂とまで呼んでいるのである。つまり'論者の
ことも実際に必要なのだと弁じたのは、立場上いわば当然の発言
堅忍に理はあるけれども現実にはその心配はないtといぅのがかれ
ずいぶんちがうことを指摘し'以下へ逐条的に'第一回日本医学会
の会の催す一時の賃合であって'ドイツ学会のよLjな恒久の性質の
はつぎのようなものである。Hへ日本医学会は、乙国会とい-久存
それはいかにも釈外らしい植民なものであったが、その主項諭戊
を弁じて'乙酉会案の特質をあきらかにしていったのである。
広告ならびに主意詔と'﹁自㌍'蝣S?者茨ビ医宏ノ会﹂の条例との異同
の論法にほかならぬのだが'一文のアクセントはむしろその懸応の
方にかかっていて'全体としては、それは'乙国会同人に対する間接
ヽ釘
ヽさしといった現をロ≡しているのである。鴎外個人の心底には'
の
天随子に共感するものかつよ-あったと見ておそら-まちがいない
だろう。
だが'その買頭は'もちろん第一回日本医学会擁詮の弁であった
:,.∴
ドイツ学会の¥.H別はすべてか員の多数に上って決められることにな
た'会員の提田する医学的物件の処理班芹があいまいであるO聖
の研究発表(hrとは異質である。Br ﹁学術的潰述﹂の性柁規臣へま
ヽ ヽ ヽ ヽ
.
の﹁学術的洪述茨ビ実験﹂におかれていて、員は主としてその知
識を受ける立場におかれている。これは併行等立するドイツ学会員
の会員とちがっているOまた、会の頂点も、乙西余の取した詔名家
開業免状所有者以上となっていて'ドイツ学 のよ-な研究考三体
口へ日本医学会の目的は﹁知識の交換﹂にあって
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と,
・).それへ1¥-J'ほ'ふ!iJ.^に苛'.'-・'*jyも
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ドイツの学会のよ-な﹁学問ノ琉推﹂にはない.この目的措定は'
ってあらわれた。同課五九九号(九・二一)に'﹁充分二公訴ノ在
わが国区界の班水軍に適切なものである0日へしたがってへ会員も
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外)の琴乙がきをつけてのせられた、刑轟居士の﹁日本医学会二付
テ﹂がそれであるo胃士は'そこで、西洋とちがってごくわずかな
﹁真正ノ床学者﹂を持っ∪いるだけのわが国では'西洋風の内国学
会をひらいたところで大した効目邦はないと'時期餌早諭をとなえへ
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あわせて'乙酉会員の日金脱出の非合理をさらにきびし-難じた。
∴..言'.'
-㌧;:・・'・:;サ.蝣
-191-
め、細則もまた乙国会が決めるもののよ-である。こ-い-ありよ
っているのに'日本医学会のそれは'すでにその概則を乙酉会が定
が、﹁若シ謂悲ニシテ強ヒテ乙国会ノ名ヲ以テセン-欲セハ何ソ他ノ
医学会二就テ﹂がそれである。格別新見の撃茄があるわけではない
号へ一三五号二〇・七へ一〇・l三)にのった、出入子の﹁日本
て'一層はげし-日本医学会案を追及したのである。同誌三一四
●
うは(臼・陶の事態をふ-めて)'﹁純然タル一学会ノ規則﹂とし
回のそれは果たしてひらかれるのか、ひらかれるとすれば'だれが
本医学会﹂でt.﹁日本医学会﹂でなかったことを﹁痛惜﹂Lt第二
ざっとこんな風に論じ進めて'最後に'今匿の計画が﹁第一回日
伍に衣をきせないで難詰し'乙国会を﹁退位学士ヤ肇之書生ヲ遣障
へル如キハ倣浸不遜実二他ヲ偉力ラサル者ト謂フ可シ﹂と'もはや
二医学社会ノ為メこ諜ル所アリ-云ヒ仮二各百金ヲ醍シテ云々ト言
学会ニモ通牒シテ共二与二発起者ノ位置二立サル特二吾嘗柑謀り私
ヽ ヽ ヽ
ては、﹁白蝶ノ班畷﹂であるo
創立し'だれが解放すものかtと問いかけ'結局へ つぎのように論
スル一大拝縄ナリ﹂と旦言うにいたっているOさらに'三一五号で
ころか'﹁知識ノ棚下シ'分配﹂の会であるとしへしかもへそれを
vj'口い-- '蝣蝣-.]'・>TJ-*c.v†つT、謂昌i打I:. '-->*.∴Tは、JjK'Cf- 1^;
断する・
受ける者は'およそ学問と縁のない全国開業医であるのに(正規の
﹁余等ハ此会ノ他年我邦二起ルベキ彼ノ独逸ノ自然学着衣ビ医家
ノ会二匹通スル学会ノ為二其端ヲ悶ケルヲ疑ハズ而レドモ ﹃第一回
ヽ
日本医学会﹄ ハ白ラ特殊ノ面目ヲ存ジ'此典型隆二之ヲ明年へ項刻
るに日本医学会としたことを'羊頭狗肉として攻撃している。そし
ヽ
て'田代詩把の﹁業取説﹂の試苛性を再強調することで文を閉じて
教育を経た者は百分の二にすぎぬと言っているO)へ これを名づけ
.(キサ¥∴り ;V=iff-ji'Iシーテ丁',ITS?.何回目i震︰ ト 比﹂蝣-・13
ヽ
ノ集合二応用スベクシテ之ヲ永遠二保護スベカラズ若シ他年成就ス
ノ遺雌ヲ践マントス.レバ'余等其決シテ能ク為スコトナキヲ知ル﹂
いるのだが'悶外の分析は'こういう論難に対してむしろ一根拠を
れはのちのこととしてtとにか-'こうい-かれの班妙な立論の上
たちで、いわゆる﹁老報土たち﹂と対決することになるのだが'そ
また'やがての悶外は'この出入子の論法をそのま享っけつぐか
提出したという班がな-はないのであるO
私たちがこの文章の全体を読んで感.Jざるをえないのは、さきの
﹁医事新開二就テ﹂とはほおなじニュアンスである。かれの諭旨を
欠陥のあるものだが'知識交換の会としては現状に即応した芸韓を
I第一回日本医学会案は、純学会案としては
みとめることができるoただし'将来の真学会はこういう性質のも
に、私たちは、この時問における的外の、まことに弼味'^4かい位冒
さらに要約すればt
のであってはならない01ということになる。つまり'現状諭と
と塔勢とをうかが-ことができるのである.
(かれをそこへ推挙したのは'軍医長老校本順である。)へまた、
り'こ.Eエ:i.:.豊上し't-irciZふかい憲言 .', '蝣・, '墨U OiiiiかiJも
さきにも述べたように'このころのかれは'当時の一流誌であ
してこれを肯定し、本質論としてこれを否定したわけで'細心な
いo)へ諭はやはり、その否定的側画において重-こたえるO
表現の注意にもかかわらず(特に石出IZ忠盛への配院がいちじるし
ヽ ヽ
だから、﹃医等新聞﹄は、鴎外のこの論をさらに一つのてことし
195
いる。鴎外は当時陸軍軍医学校教官である。)当然'かれには'たと
え暗黙の-ちにも'第一会日本医学会提唱のスポークス・マン的な
l年に陸軍軍医学校長<初代V、二三年に陸軍省医務局長になって
今度の挺案の立役者石黒忠痕の直国の部下でもある。(石黒は、二
ロニー﹂であったと言い'そのことは、﹁当時の誹者大抵これを餌
は'自分のこの論を'﹁調剤の苦心を坑曲の筆に寓﹂したものへ ﹁イ
イツの万有学会のよ-に兼良することを期してもいる。のちに鴎外
換﹂とい-ことばにも'取外の言-ような存苛がふ-まれていたと
たであろうことは容易に察せられる。広告に-たった﹁知識ノ交
はかならずLも思われないし'石黒の書翰は、はっきり、この会がド
役割が期せられていたと推測してよいだろう。事実、かれは、一応
ヽ ヽ
その役わりをつとめた。反対者に対し'現状論の立場から'この学
一月﹃筏生醗病志﹄)tもしそ-であったとすれば、いよいよこの
解したり。﹂と述べているが(﹁六たび反動機関を諭す﹂二六年一
ヽ ヽ
けれども'その論のはiJぴはへいま見てきたように、あまりにも
そして'私は、闘外がこの年の一一月に﹃東京医等新語﹄局から
と推察される。
一石が主催者がわにあたえた波紋は決して小さ-なかったであろう
会完の妥当性を説いたのである。たとえ後項は指摘してもt,その全
ヽ
体は自照として論じたのである。
含みの多いものであった。ドイツ学会を範としている鴎外個人は、
ヽ
ヽ
ヽ
1
かった為に、是では東京医事新語の為不利だといふ説があって、遂
逐われるにいたった(推挙老校本翁からは試買された。)主要因は
あきらかにこの学会案に不満であった。乙国会が主柾をにざるへそ
ここにあったのではないかへ と思-のである。二四年九月の談話
の非民主的な運営についても'参会者の資格についても'詔名家の
﹁森糾大 代S-:悶--C*T'-"t﹂ (fr>'-㌣蝣'.ilリれ墨⋮﹄七〇Ito か
試供を主体とする会合様式についてもへその講演あるいは研究発表
では、﹁﹃スタチスチック﹄社と辞諭が起りへ久し-結んで解けな
ヽ
の質の問題についても'かれは不満であったoその点において'か
ヽ
にその方の郡を犀め﹂た、とあるが'たとえそのことが口契にされ
でへかれはへこの会を'学会ではな-、知識交換の会へあるいは知
れの内心は反対者のE:j兄とほとんど等しかったと見てよい。そこ
たにしても、一統計雑誌との諭季などは大した問題だとは思われな
ヽ ヽ ヽ
の会の意義を承認しようとしたのである。そしてへそのことによっ
識授受の会と規定し'そういう明確な弁別の上に、一応暫定的にこ
rJれたて蝣tolハ・-ことは巾するに \ない-i. 'f^J外山f-;r.,!::﹂・.(T抹t
いo全体として'万頚にわたる'悶外の必要以上の争気が荷厄介に
やは 学・!=!﹂-;蝣*・蝣・蝣中心とナス、乙filialと.Ut Aな㌫ ご!JJ
て反対者を説得する とともに、主催者がわにも釘をさそ-としたの
njるこ-蝣蝣jV-H'^pは,'jいか。7:l・.合のり.〟:V-^i-.し・) ',t.人 は'
である。おもてに抗誰の立場をとり、うらに批判の針をふ-ませた
この論法はへまことにひねった'苦肉の策戦とい-べきだが'これ
ヽ ヽ
e^j創刊t.y.-tiかて、蝣f:si: '﹁∴︰ 崩.Iに≠-,蝣-・,.るや絹にi>ac 1
迫放流後の宣言﹁敢て天下のlA師に告ぐ﹂ (二二年一二月﹃医事
追放のよいきっかけをつくったものと言ってよいだろう0
はへ後年のかれが'柾力の-ちかわにいて'それをチェックしてゆ
こ-としたへ虜の動きを懸起させる。あるいは、これはその建りと言
だが'鴎外のこうい-立論が'乙国会のかわに不快の念をあたえ
ってもよいかもしれない。
-196-
将たり'伶付孤立、狼の狼を失ひしが如-海月の蝦を離れLが如し。﹂
と述べた背景は多分ここにある。乙西金メンバーは、明治医界の長
老たちであり'これと対立した鴎外は'結局ひとり狼になってし
まうのである。たとえば、最初に日本医学会案に-つてかかった﹃医
事新聞﹄も'以上にかかげた諭の以後には'まったく批判を出さな
-なり'主等田代義徳はこの会に参加して'一つの役わりを果たす
ようになる。またへ鴎外のなかまである青山胤通へ中浜東一郎へ賀
る。ただ鴎外ひとり、荘前において発起人あてに手紙を出し'第一
古鶴所'小金井艮精なども'すべてこの会・に参加して講演してい
回医学会にふさわしい自信のある発表ができないとい-'針をふんだ理由をもって招碑試演をことわり(二三・四二二 手紙)へ結局
参加しなかった。(そう措定できるO)確執はここで決定的になっ
たわけである。
三
だがへ この、結果の説明は宍はすこし早すぎたので、そのまえ
て鴎外のあとをついだ開田和1郎との問に、私が﹁東京医事折詰
に'新たに﹃医事新論﹄によった鴎外と'﹃東京医事折詰]]におい
﹃緒論﹄論事﹂と名づけた(﹃近代文学論争事典﹄)一達の論事が
おこっている。これが'医学会諭事と密接にからみあっているので
ヽ ヽ ヽ
●T
ヽ
ヽ
ヽ
の功経をたたえるとともに、緒論の倒藍にふれもこれは,倒したの
ではなく'倒れたのだと述べへ時勢にしたがって誌面を改革すると
てへその大的をかかげた。詮ずるところへその要点は'二二年度の
新誌が'時評としての緒論を巻頭にかかけてへ原著にくらべてどち
らかといえば時論の比重が韮かったのに対し'新年度は'原著をさ
きにしてこれに比重をかけ、時評相は﹁維録﹂として軽い扱いにし
ょぅとするところにあった。岡田はそれを、学術進歩の現況(日本
∵ 蝣 蝣 蝣 ・ ・ ' ・ ' . . : . 蝣 - 蝣 ・ - 蝣 - : - . - . ¥ > : , - 蝣 蝣 ) に . ' _ - - ・ > ﹂
ところが、これが'追放の憤頂なおおさまらない鴎外の軒にさわ
処置としたのである。
ったのである。かれはただちにへ ﹁悪再﹂﹁ひらき封一迫﹂を訂い
て(﹃医事新論﹄三号八二・九∨)はげし-これに反饗したO岡田
の言-新時勢がはたして緒論と不満合であるか否かを問いつめ・緒
論は時勢によって倒れたのではなも輯定の分子によって倒された
のだtと反諭したのである.なかで'かれは、別に敵でもない岡田
・'・'W 川 、∴
がこうい-発言をあえてするのをへ侠客の徒労的な﹁喧嘩買﹂にた
らも'﹁喧嘩買ハ何処二力在ル﹂を書いてこれに応酬した。(﹃東
時代が進めば、医学者は学術研究を通して﹁政事﹂を助けるとい
京医事新語﹄六二1号<二・二二∨)
ぅ風になるはずだし、また日本医学会がひらかれれば﹁原著も繁を
加﹂えることになろうからへいずれにしろ緒論柵の命脈は短縮され
もはや詳述はさけなければならないが'岡田がー﹃東京医事新語﹄
ある。
の前に書いた文翠は決して﹁悪群を出す積り﹂のものではなかった
ざるをえない運命にあるへとい-のがその文旨だが、同時に,自分
と釈明しへ ﹁以後先生より些事に閑し如何なる抑議論を差向けらる
六一四号(二三・一・四)に書いた﹁明治廿三年ノ璽泉医事折詰﹂
がそのきっかけをつくった.かれは'そこでへ二二年度の編者鴎外
-197-
1も私Lに於ては決して是に応ずることを致しません﹂と'対時の
解消をはかった。岡田には'はじめから'鴎外を敵として立つほど
の底章も'勇気もなかったと見てよいだろう。
このやりとりでは'両者ともに、具体的にだれが閃外を逐ったか
は言いた-ないと述べていることが印象的であるが'言いたくない
と言うのだから、もちろん両者ともにそのかけの力を知っているわ
けである。そして'それが乙酉会方面のものにほかならなかったこと
てつくったもので、それが実験医学に正接関係がないのは当然のこ
の発未の場としてではなくそれの〓柘の広田﹂を諭ずる冊とし
とである。しかもへ これはへ 宍験医学の地をつ-るに電要な仕事
で,比校していえばへ いまの雑誌に原票として出る一治験'一病朕
いo岡田も変覆居士も'この理を解せず'学問の鴇瞳と学問の応用
の報告などは'学問として﹁歯牙に珪-るに足ら﹂ないものが多
は、その努力によって悶外のかわりにすえられた人物にはかならな
に,真に学術研究と称するに足るものの少いことを指摘した。
聖訳されたその﹁日割一覧表﹂を批評して'予想どうりへその題目
一回日本班学会のことに箔を-つLt ﹃薫夙医事折詰﹄六二五号に
ざっとこんな諭旨であるが'つづいて後半で'岡田の期待する第
とを混同して諭を立てている.
かったのである。(医科大学教授である岡田はtのちに鴎外再姑の
は,いままでの論述によってほぼ明かだと言ってよいだろう。岡田
媒約人となったO悶外が本質的に酌と見なした人物ではない。)
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" ' ・ ト 、 蝣 ・ . . . - 蝣 - 蝣 蝣 .
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- . - ; - i : . . - . - ) ・ ; ; ; い
て,﹁第一回日本医学会余波の諭﹂を書き'自分の医学<ih諭の最
・ * ' " ' . 1 ' .
しかし,問外は、これだけで黙しきることはできなかったOかれ
を宣言した。
-
こEEC^r:^州た﹃曇蝣-蝣zmi?川..1C次の斗二二五サ八一 この再駁論のほかに'鵜外は'﹁翼川的﹂のl文を同母にのせ
く、鴎外と岡田との問の仲誠に立った限部冒峯の手紙をかかげると
ソ︼工蝣'i1.蝣.蝣-蝣蝣:・'蝣-蝣"-一、
諭﹄の創刊を祝するとともに、主客対話のかたちで'緒論における
悶外の'偶挺輿統計諭へ律詩へ和歌等の﹁燦間クル文字﹂を実験
1'.I'"-,'',-,-・∵︰・'・一
向に菜問をあげることを期待し'あわせて'医科大学外に独立した
鴎外の活動に喝采を送ったが、悶外は'以上の両論に軍見る文を﹃医
i . - ・ ' . ; - 蝣 -
' ∵ ) . い , - 1
い趣旨のものであった.かれは、医学会の日程を通覧したところ'
∴ > r-'1-1-∴ ∴
意に浦たぬものがあったとして'知識交損の会として期待した日本
¥J心q-too
文(﹃墾凪医事新語﹄六二六号八三・二五∨)に執鋤にからんだの
- 蝣 ・ . I . ・ 小 、 ∵ ︰ ・ L
後学
の.
し干
めし
-璽
く帆
り'
を'
つ'
けるとともに、同会の些別に岡田和一郎が発表
Hip昏SJj五﹂(H九)にr.-^-1た。﹁<-T.一回
蝣日
/本
冒.医
新語と﹂がそれである。
m外はへその前段において'岡田と変速居士の言うところを一つ
一つしらみつぶしに反駁したが、つまるところ'その主張はこうで
るものでP,この点を﹁論徹﹂したのちでなければ'実験医学の面目
あるK学のmHは'ほとんど皆社ムllrの全体・政治・習理に関係す
を惟問にあらわすことができない。緒論経へはじめから'医学研究
-19S-
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
●
ヽ
たのである。つまり、﹁角カノ寄附然-﹂在京名士の試演がならん
のである。野におりた鴎外は'これで'言いたいことを一昼言いき
本心からの期待をtもはやはばかるところなくはっきりうちだした
字'.;が祁∴こし)-<;'j﹂-・S'
.'.
;'
-j
.-i
てr
いV
一v
Oi'
)I
と'
w
間)
臨批
椎判
のし
会の正当なる組相を以て起らむを待つものなり。﹂という
でいて'会員の発表者が少-'しかも談話(討議)の時間の乏しい
四
なかった。そして諭事は終結したのである〇
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きことを初奨Ltそのためさらに一日の談話会を悶-よう敢旋の労
をとってもよいへと述べたのである。
これに対し'鴎外は、かれ自身がとっくに指摘したことにいまご
ろようやく気かつく迂愚を笑うとともにへその処方は'知識交換を
立っているOなかでも中心人物は石肌一恵憩である。そしてへ以後一
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軍楽隊の吹奏祖に開会、先進出田を&'る朕式からはじめて、岩佐
賢璽艮府知守りをはじめとして数十名の多きにおよんでいる。陸軍
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わたって(六二七号-六三一号)精把にこれを殻遺しているが'参
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かならないではないかという諭EEiで'その矛盾と非共襟性とを閏い
たのであるが'なかははあげ足とりにちかいこの反駁には'論敵に
むかっては執粉に蔚後のとどめまでささずにはおかない鴎外のはな
はだし-拘軌的な性相がよ-うかがわれるという以上に'とりたて
て言うべきことはない。
また実際'このいまさららしい岡田攻撃はへこの文全体としても
いわばつけたりで'かれがこの諭で卯柾にうちだそうとしたのは'
日本顔学会の継続開化を否定することであった。かれはここで
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医学者として名のある岩はほとんど演痕に立って
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軍馬の整理にあたっているありさまで'﹃東京医事新語﹄の形容に
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るという立場を-ずしていないがへその会合の席上で、第二回日本
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る。この相宿を改正して真学会にすればよいという意見をもきびし
この柾の会は二圧と開かれてはならないと開花に言いきったのであ
いていたと言ってよいだろう。
ぅっっをぬかしている日本医学ム1n'水軍の低さに対する憤りがうずま
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は、これを恒久の会とするはっきりしただ図は元していなかった。)I さわざを遠くからにかにがし-傍説していたのである。その場にな
く否定して'﹁これを変じて学問軸拒会となさむとするは'猶拙門出
K-v.rてことし。﹂と叫に'﹁小蝣-'y'i'宇:t'即.=小手 しかも'さきに批判の声をあげていた宕たちも'みなへこの勤い
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ポーズなどは'飼猫のこぎかしさとして'悶外にはかえってにがに
にのみこまれてしまっていた。直前にわずかに岡田の示した批判の
を開始するのであるo有名な﹁傍親機関﹂諭雫がそれである.もはや
会が結成されようとするや、鴎外はふたたび立って'決巳化的な舌戦
日本医学会が開かれ'また、それを機に恒久団体としての大日本医
を示していると言ってよい。この論理に長じたすね者を直接相手に
は、資料に撤するものがないがtということは、かれらの黙殺政策
ところではないが'第一回の論戦でなおかならずLも明かでなかっ
ほかならぬへと断言するにいたるのである。その委細はい空は甲っ
医主体の開業医を倍冨て、学問柾を真学者から奪おうとする策謀に
反動額ときめつけ'それは、伝訳者にすぎぬ医界元老達が'皇洪
一切の通院をかなぐりすてた悶外は'第一回・第二回日本医学会を
がし-思われたにすぎない。
するのはうるさいし、長老の権威にもかかわる。かといってへ個人
一方へ 逆に'主催者がわがこういう鴎外の反抗をどう学兄たか
語に上った閏外をだまらせるすべもない。紗たる一﹃医巧所論﹄の
た鴎外の意中は'ここで一層明瞭になるわけである。
悶外以外の学者はすべて第二回の会合に参加し、また'乙酉会メン
しかも、この場合も'問外のたたかいはまった-孤立しており'
主張などは無視するに如-はないと思われたであろう0そして'大
バーは決して諭戦場裡に望場しなかったことなど'すべて的一回の
勢は鴎外をとりはずしたまま進んでいったのである。
もちろん'鴎外にも一応の仲間はいたし、かれ自身、その組頂化
場合と軌を一にしているのである。さすがの悶外も'真学者なお頼
やむことになるのである。そして、以後かれはまったく純然するわ
に努力しなかったわけではない。二三年に梧成された日本公衆医事
けであるが、やがてかれが小倉に移されるにいたる遠因は'この経
むに足らずと言わざるをえず'結局'その矛はむなしく空を撃って
主張をほとんどそのまま採用したものであることは、すでにへ桧原
緯における孤立的田事'特に軍医界の実力岩石只(およびその一派)
会はその具現であるがt のち、二六年五月に'同会第一一賃会が誤
純一氏も指摘している。(﹁森問外﹃傍訊問関﹄諭﹂<和枝女子大
決した﹁医学会に関する意見﹂ ﹁医会に関する意見﹂が'悶外の
学紀嬰﹂一二号∨)しかし、たとえかげで釈外を支持Lt声援を送
との対立にあったと見ておそらくよいのではないか。
それはとにかく'その発端をなす論戦の宍ズ細は以上のとうりであ
私はこのたたかいを鴎外の生洋において最も重視するものだが'
ヽ ヽ
る者はいたとしても'直接笠をとって鴎外に組する名はだれもいな
る。 (三七年一一月)
かったLt 日本医学会に背を向けた岩もいなかったo河村敬富に上
れば'悶外は' 青山胤通のスポークス・マンと見られてい{)ふL
小 & ・ ? < )
もあるらしいがへしかしへ鴎外の徹底的にラディカルな動きは、そ
うした仲間関係をこえてしまっていたと見ることが正しいだろう。
医界元老を向うにまわしての鴎外のたたかいほ以上の論戦でおわ
ったのでは決してないOむしろこれは出発点にはかならなかったの
で'やがて'二六年四月を期して'璃外があれほど排斥した第二回
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