Comments
Description
Transcript
法規範と法実務 ーゲル マ ン部族法典研究の現況!
翻 訳 法規範 と 法 実 務 ーゲルマン部族法典研究の現況1 ハソス・クルト・シ ユルツェ 小 倉 欣 一 訳 分は、法史学者であった。かれらは、法律学の修練にしたがっ て、沢山の歴史的事象から最も重要な事象と発展傾向を抽出 た。ドイッの研究は、多くの個別的考察と包括的な全体叙述を し、明瞭で論理的に矛盾のない体系をつくりあげようと努め 一、部族法典の史料的価値をめぐる論議 ドイッ歴史学は、十九世紀後半と二十世紀初頭に、フラソク ︵1︶ の﹃ドイッ法制史﹄であった。 ﹁古典的﹂著作は、言うまでもなく、ハイソリヒ・ブルンナー 造についての壮大な画像を描ぎ出した。この﹁古典的﹂時期の 通じて、ゲルマン時代とフランク時代の国制、法関係、社会構 帝国の法制史・国制史研究の分野で大きな発展をとげた。その 指導的人物は、学界において名声を博した。ルドルフ・ゾー ム、カール・フォン・アミラ、コンラート・フォン・マウラー、 ブルンナー、ゲオルク・フォン・ベロウ、リヒャルド・シュレ 古典的ドイッ法制史・国制史研究の代表者たちが、その法史 ゲオルク・ヴァイツ、ヴィルヘルム・ジッケル、ハイソリヒ・ ーダー、クラウディゥス・フライヘル・フォン・シュベリーン 史料︹法源︶を優先させたことは、驚ろくにあたらない。中世初 学方法論にもとづぎ、一般的見解を構成するのに最も便利な法 期の法史料のなかでは、とりわけ二種類の規範的史料が重視さ の名が挙げられる。それゆえ、学説史上この時期を﹁古典的ド れた。すなわち、﹁部族法典﹂︵<o一訂−&・ω鼠B日需冨9言、ラ イッ法制史・国制史研究﹂の時代と呼ぶのは、正しいであろ うo 二七一 当時、ゲルマン時代と中世初期の研究に取組んだ学者の大部 法規範と法実務 早法五八巻二号︵一九八三︶ 二七二 れたのみならず、ゲルマン時代と中世についてのまったく新た 必要な修正がほどこされ、研究水準のいっそうの向上がはから な、従来とは異なる画像が描かれた。事実、斬新で、しかもさ テン語では一〇αq・の︶と、研究上一括して﹁章令﹂︵囚巷一葺一貰凶窪、 ︵2︶ ラテン語では。巷ぎ再εと呼ばれる国王の勅令である。 軍隊王権︵留寄巴“頴8詩α巳αq葺目︶としてのゲルマソ王権の 部族法典は、ゲルマン民族の法生活の証拠として、またフラ 性格、中世初期国家の従士制的編成、初期の﹁貴族支配による 例えば、ヨーロッパ史の基礎範疇としての貴族支配、神聖王権・ れは、さし迫っての必要でもあった。なぜなら、部族法典手書 人的結合国家﹂︵貰互oぎ彗の魯角頴諺89お号ゆ且器富緯︶と まざまな点で大ぎな興味をそそる見解が提出されたのである。 本の伝承は、ぎわめて複雑であり、学問を史料批判と刊本編纂 近代的な﹁制度的領域国家﹂︵ぎ魯窪け一8亀R包ぎぽ房け壁け︶の ンク帝国の法、国制、社会に関する史料として用いられて高い の困難な課題に直面させていたからである。学者たちは、研究 相違、あらゆる支配の核や芽胞としての﹁家﹂、フランク帝国の 評価をうけ、この種類の史料の研究が集中的に進められた。そ 集会や私的な会合を重ねて、部族法典それぞれの成立時期、さ 内部構築にとっての﹁軍事定住﹂と﹁国家植民﹂の意義、人間 生存の特殊な形態としての﹁開墾自由・国王自由﹂︵即&巨αqの・F まざまな編纂の前後関係、序文の信愚性、良き刊本の作成など ンツ・バイヤーレ、コンラート・バイヤーレ、マルティン・リ として私闘︵閃o圧o︶の果した役割についてであった。 囚酵蒔珠蚤ぽδ、中世の法生活における正当な実力行使の方式 ︵3︶ の問題を論議した。ここでは特に、ブルーノ・クルシュ、フラ ンツェル、カール・アウグスト・エックハルト、ルドルフ・ブ ダンネンバワi、テオドール・マイアー、ワルタi・シュレー 新たなドイッ歴史学の代表者たち、すなわち、ハインリヒ・ フナーの基礎的考察を挙げておぎたい。かれらは、細部につい て見解の相違や議論の余地を残しながらも、中世初期の部族法 ジンガー、オット1ブルンナー、カール・ボーズルは、学問上 典がぎわめて価値の高い史料であると考える点で研究上の一致 をみていた。 一般的承認をうけた。それらは、新しい﹁支配学説﹂となった。 の高い地位を占め、新見解は、比較的短期間にドイッ史学界で に限られ、国際的な中世史学界では、全体として、従来の研究 もっとも私の印象では、この承認は、主として西ドイッ史学界 の三十、四十、五十年代にその土台を揺さぶられた。新世代の 学老たちは、この時期に、従来の研究成果を根底から批判し、 古典的ドイッ法制史・国制史研究の学問的構築物は、今世紀 基本的に別個の見解を表明した。その際、個々の理論に絶えず る。ドイッの学老たちは、たしかに多くの重要な個別研究や示 成果に固執Lているようにみえる。ドイッ民主共和国のマルク ス主義中世史学は、新理論をすでに世界観からLて拒けてい って歴史家であり、もはや法史学老ではなかった。その研究の のではない。近年のドイッの研究を代表する者たちは、まずも ﹁解釈学的法史学﹂というこの非難は、偶然に唱えられたも 逆行として非難された。 主要な関心の一つは、かれらの見解によると、あまりに法史学 い﹁解釈学的法史学﹂︵容魯δ露馨O冨魯RUOαQヨ讐誌ヨ霧︶への 唆に富む研究計画を発表しているものの、新学説についての基 おそらく国際的な承認をうる上での一つの障害となっているよ 礎となる、史料に即した全体叙述を公刊していない。これが、 することにあった。この関連において、部族法典と国王勅令の 的に片寄りすぎていた古典的法制史・国制史研究の方法を克服 ︵4︶ うに思われる。 識にとっての最も重要な証拠としての地位を失った。部族法典 ような法史料もまた、フラソク帝国の法、国制、社会構造の認 他方、 ︹それらの学説に対して︺批判が加えられることも稀 フランツ・シュタイソバッハ、フランツ・ペトリといった数人 であった。ヘルマン・オバン、エドムント・E・シュテンゲル、 と国王勅令の内容は、人々が中世初期の国家編成と社会構造に プランデルとハイヶ・グラーンーヘックによって疑念が表明さ ときには、脇に追いやったのである。その際、部族法典と国王 ちの見解の証明に用いた、しかしそれらがこの見解と矛盾する せぬ態度をとった。かれらは、たしかにこれらの史料を自分た で、ある研究者たちは、部族法典と国王勅令に対して首尾一貫 で、法史料の利用をまったく放棄するにはいたらなかったの ついて抱く画像と実にしばしば合致しなかった。しかし他方 の声望あるドイッの学者は、留保付で新理論を受け入れた。若 ︵5︶ 干の批判がスイスから発せられ、個々の理論の妥当性につい て、東ベルリンの歴史家エックハルト・ミュラー−メルテンス、 前プラハ大学教授フランティセぞグラウス、法史学者カール・ れた。私自身は、まず世良晃志郎によって、ドイッの新研究の 則的に正しい観察が論拠とされた。それらは、﹁法規範﹂を含 勅令は、性格上規範的史料であるという、もちろんそれ自体原 クレッシェルとヘルマン・クラウゼ、並びに歴史家据ルフ・シュ 二、三の主張に対する批判的考察のきっかけを与えられた。し み、﹁法の現実﹂とは一致しない、というのであった。 ︵6︶ かし、新学説の妥当性に関する立ち入った学問的論議は、残 歴史家たちの部族法典に対する不信は、おそらくもう一つ別 ︵7︶ い。それらを除くと、批判は、まったく無視されるか、古くさ 二七三 念ながら、ほんのわずかの事例についておこなわれたにすぎな 法規範と法実 務 二七四 放棄することに、あっさりと同意するわけにはゆかない。喜こ もちろん学問は、中世初期の大量の史料群をこのようにして 早法五八巻二号︵一九八三︶ の根拠をもっていたといえよう。従来の史料批判的研究は、そ ばしいことに、数年来再び歴史家への従属から解放されはじめ の集中的な努力にもかかわらず、史料の成立と伝承上の多くの 困難な問題を解決でぎなかった。それゆえ、部族法典を国制史 流ゲルマン言語学老ルート・シュミットーヴィーガントの仕事 る。ここでは、とりわけ、ゲルハルト・ケブラー、ヘルマン・ を挙げておきたい。中世初期の法、国制、社会構造の認識にと た洪史学者たちもまた、新たに法史料の研究を開始したのであ 間、老大家力ール・アウグスト・エックハルトに委ねた。エッ ︵8︶ クハルトは、多数の刊本を上梓した。しかし、それによって、 た。歴史家と法史学者は、刊本編纂から手を引き、それを長い 問題がすべて解決したわけではなかった。 って、部族法典のもつ意義が、これにより再び新たに間われる と社会史の研究に用いる者は、不確かな地盤に足を踏み入れ ところがしばらく前から、部族法典の史料的価値に異議を唱 ことになった。 ︵11︶ ネールゼン、クラウスディーター・ショットの著作、そして女 えるために、さらに他の論拠が用いられるようになった。法史 との関連を失い、無意味となった・ーマ法概念が、その後にな 視させる論拠として役立てられた。部族法典においては、現実 原則に負うている。フランク帝国は、メ・ヴィング朝以来﹁多 研究上、法の属人主義︵田お8島聾留ω寄9け$︶と呼ばれる われわれは、さまざまなゲルマン部族法の適用と法典化を、 二、法の属人主義の原則 ってもなお使われているにすぎない、と主張された。例えば、 かに支配部族、つまり﹁帝国部族﹂であったが、服属した・ー 部族国家﹂︵≦巴&穿Rω冨讐︶であった。フランク人は、たし の影響を指摘し、この見解が、部族法典の記述を根本から疑問 ︵9︶ 学者ヘルマソ・ネールゼンが、ローマ法的思考の諸部族法典へ カール・ボーズルは、こう断言している。﹁長い論議の末に、 式をいまだ用いて表現しており、これらは、現実にもはやほと け社会状態をラテン語句や、古代末期・ーマ卑俗法の空虚な形 の点の確認にあるように思える。すなわち、洪史料は、とりわ 部族法の規範によって裁かれるように要求することができた。 は、ローマ法によって生活した。だれでも、法廷では、自己の どのゲルマソ部族も、独自の部族法を保持し、ガロ・・ーマ人 マ人やゲルマン人に、当初からフランク法の強制を断念した。 ︵12︶ 私には、六、七世紀の社会分析にとって最も有効な方法は、次 ︵10︶ んど合致せぬか、プ・グラムにすぎないものである﹂。 疑義が生じた場合には、人々は、﹁法の申告﹂︵讐鉱9巴o一糞一の︶ ・ードヴェヒヘの敗北後、その部族法の保持を許された、と記 ンツの著作家アガティアスは、アレマン人がメロヴィング王ク ク帝国では、フランク法と並んで、ローマ末期卑俗法と、ブル で臨んだようである。八世紀後半から、それに関する若干の文 ゲルマン人の諸部族やガ・・冒ーマ人に対しても、同様の方策 ︵15︶ フランク人の手本にならって整えられた。フランク人は、他の Lている。﹁国法﹂︵ω寅讐巽9窪︶、すなわち行政形態のみは、 の形式にのっとり、特定の部族への、したがって同時に、独自 グント、西ゴート、アレマン、バイエルン、テユーリンゲン、 書史料が残っている。フランスの地中海岸セプティマニア地方 の法をもつ人的結合体への所属を開示した。それゆえ、フラン ザクセン、フリーゼンの諸部族法が通用した。ランゴバルト部 ︵16︶ に定住した西ゴート人は、七五九年国王ピピンに、将来にわた 族法もまた、カール大帝が七七四年ランゴバルト王国を支配下 に服属せしめて以後、通用することになった。 年後、国王ピピンは、アクイタニア地方の再統合に成功した。 かれは、この地方を支配するため、たしかにフランク人の顕職 り自己の部族法の適用を許すという条件でのみ服属した。約十 保有者と家士斎登用した、しかしラテン系住民には・:マ法の は、それらの部族の政治的主権の喪失を明らかに容易に償いえ たようにみえる。なぜならば、自己の生得の法の保持は、ゲル 保持身ーおそらくはアラリック抄典︵田o≦震ご臼≧象凱︶の 他部族の法慣行に対するフランク王権のこのような寛大さ マン諸部族の自負心にとって、ぎわめて重要であったからであ 形で1保障した。後にカール大帝の確認をみた国王ピピンの 擾は、この点に関して典型的であった。ランゴバルト人は、北 ク人であろうと、自己の法を保持すべぎである。もしその他の ている。﹁すべての者は、ローマ人であろうとサリー・フラン 一勅令には、法の属人主義の原則が、きわめて明瞭に述べられ ︵13︶ ンゴバルト人の南方への移住に加わった一部のザクセン人の反 る。部族意識と部族法とは、互いに密接に結びついていた。ラ イタリアを征服後、かれらにザクセン部族法の放棄を求めた。 ︵17︶ て生活することが許されねばならない﹂。 二七五 地方から来た者がいるなら、その者は、自己の故郷の法によっ それは、明らかに、かれらの部族的自立性の放棄を意味した。 それゆえ、ザクセン人は、その要請を拒否し、故郷へ帰ったの ︵M︶ である。 フランク人は、当初から、より寛大な態度をとった。それ は、すでに五世紀末のアレマン人の服属の際に示された。ビザ 法規範と法実務 早法五八巻二号 へ 一 九 八 三 ︶ 三、カール大帝と部族法典の編纂 カール大帝︵王位七六八年∼八一四年︶は、フランク帝国の 二七六 わずかの新たな項目をそれらの部族法に付け加えたにすぎなか った。しかしながら、自己の支配下にあるすべての部族から、 ︵19︶ まだ書かれていない法を収集させ、法典を編纂せしめたのであ る。﹂ らの記述は、種々の部族法典の現存手書本によって証明されて ・ルシュ修道院年代記とアインハルトのカール大帝伝のこれ 威信を外政面で絶頂にまで高めたのみならず、内政面の諸改革 にも着手した。内政面の計画には、法的安定性を増大させ、司 典︵い貫ω象8︶とリブアリー部族法典︵い窪困げ奉忌︶は、当時 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ いる。フランク人の最も重要な二つの部族法典、サリー部族法 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ 法を改善することが含まれていた。・ルシュ修道院年代記 ︵>目巴oωピ帥ξoωぎヨ窪器︶には、八〇二年に次のような記事 が載っている。﹁皇帝は、帝国の有力者たちの助けにより、帝 した法を書きとらせた。裁判官には、書かれた法によって判決 うにしようとした。かれは、必要な場合には、法を改め、改訂 カール大帝の戴冠以後の時代にようやく現われた。さらに、テ ゴバルト部族法典︵びお翻い彗αqo匿&O旨目︶の手書本の大半は、 奉ユo旨日︶、ブルグント部族法典︵い粟國自讐&δ自ヨ︶、ラン 族法典︵[震≧帥Bきぎ毎目︶、バイエルン部族法典︵9図ω鉱亭 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ め ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ を下し、贈物を受けてはならず、すべての者に、貧富を問わ ユーリンゲソ、ザクセン、フリーゼン、カマビー諸部族法の収 明白に新たに編纂され、流布したのである。また、アレマン部 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ︵18︶ ず、正義がかなえられるようにと命じた﹂。 集と記録も、疑いなく、文字による部族法の確定をめざした皇 国のすべての法を収集させ、だれにも自己の法が付与されるよ トのカールの立法政策に関する言及によって裏付けられる。 ロルシュ修道院年代記のこの記事は、大帝伝作者アインハル ちテユーリンゲン部族の法典︵い粟>凝ま旨ヨ9≦Rぎo議目 帝の努力に起因した。アンゲル部族とヴァルネン部族、すなわ ヤ ヤ ヤ ち ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ﹁皇帝の称号を受けとった後、カールは、自己の部族の法に沢 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ 山の欠陥があることに気がついた。なぜなら、フランク部族に フリーゼン部族法典︵いoαqoの即芭02目︶、そしておそらくカマ ぎ。o馨↓ビュ漏o旨目︶、ザクセン部族法典︵び賃ω貰o崖目︶、 た、カール大帝の下ではじめて、たぶん八〇二∼八〇三年のア ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ は、二つの法があり、きわめて多くの点で互いに食い違ってい ビー・フランク部族法典︵9図写き8置目O富ヨ奨o歪目︶もま ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ した箇所を一致させ、誤った箇所や不用な箇所を訂正しようと たからである。それゆえ、かれは、欠けた箇所を補充し、矛盾 考えた。けれども、この良き計画を完遂でぎなかった。ほんの ーヘソにおける帝国議会と関連して、編纂されたものであろ うo ︵21︶ この見方と矛盾するものではない。 皇帝の称号の取得と立法との関係を、﹁皇帝の称号を受けた後 それは、皇帝戴冠後に明白に強化せられた。アインハルトは、 リー部族法典を小脇に抱え、あるいは卓上に置いて法廷に座し れた法典をどう扱ったのか。端的に言うならば、裁判官は、サ ーセンは、コ体フランク人裁判官は、外来のラテン語で書か 論文集﹃中世の法と文書﹄の序文において、ぺーター・クラ たのか﹂と問うた。これは、疑いなく、きわめて重要な問題で ︵22︶ いるからである。ゲルマン時代と中世初期の司法は、口頭によ ある。なぜならば、それは、成文法と法実務との関係を問うて な法律行為の遂行とが肝心であり、法の妥当性は、その成文化 を通じて、既存の状態を承認したのは、大フランク帝国内部の る。諸部族独自の法生活は、それによって疑いなく強化せられ 如何にはよらなかった。法律文言と象徴的な法律行為は、編纂 にのっとり進められた。特定の法律文言の使用と規定の象徴的 た。皇帝権力を統一的﹁帝国法﹂によって補強しようとする、 る法廷審理にもとづいていた。それは、定められた通りの形式 近代的観点から自然な思考は、当時明らかに実現をみるチャン い文化要素である﹂と、ぺーター・クラーセソは、すでに引用 された法典よりも重要であった。﹁法と裁判は、文書よりも古 身も、周知のように、自分がフランク人であると意識してお おそらく、まだあまりにも強かったのであろう。カール大帝自 に文書主義の支配に屈していった。他方、歴史学は、文書主義 域であったと付け加えることがでぎる。しかしそれらは、次第 裁判は、文字の発明後も長らく、人間文化のかなり自律的な領 した序文の他の箇所で述べている。われわれは、さらに、法と ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ り、生得のフランク法の放棄など、もちろん絶対に拒否したと が、他の諸部族の法典編纂に少なからざる影響を及ぽしたこと 法規範と法実務 二七七 によってはじめて、一つの時代の法生活への深い洞察が可能と 思われる。サリー部族法典やリブアリー部族法典のフランク法 ︵20︶ スがなかった。帝国内に居住する諸民族、諸部族の自負心が、 法生活が諸部族を構成単位としていたことの重要な証拠であ うと努めず、個々の部族法典を改訂し、あるいは最初の成文化 し、皇帝が、法を一種の﹁帝国法﹂︵菊o一魯霞9窪︶に統一しよ 疑いなく、・ーマ諸帝とその立法活動を模範としていた。しか に﹂︵宕誓曽零8ε唐ぎ需ユゆぴぎ目S︶という表現を用いて 四、法規範と法実務 、 きわめてはっきりと示した。このフランク人統治者は、その際、 カール大帝は、すでに八OO年以前から司法の改善に努め、 は 早法五八巻二号︵一九八三︶ は、学問にとって方法論上の根本問題である。 なる。それゆえ、成文法と現行法、法規範と法実務との関係 中世初期の部族法典が法実務に対してもつ意義を間うなら さまざまの世紀からの沢山の手書本やその断片の形で伝承され ば、文書伝承から出発せねばならぬと私は考える。部族法典は、 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ている。それは、とりわけ、サリー部族法典、リブアリー部族 法典、アレマン部族法典、バイニルン部族法典にあてはまる。 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ また、ブルグント部族法典、ランゴバルト部族法典についても ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ 数種の手書本がある、しかし、アレマソ部族の協約書︵評95 >富唐撃8毎糞︶、テユーリンゲン部族法典、ザクセン部族法典、 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ カマビー・フランク部族法典、フリーゼン部族法典の手書本 ︵23︶ ・ ・ 、 、 、 、 、 は、わずかである。手書本の最も多いものは、サリー部族法典 であり、八十種以上の完全なテキストや断片が残っている。そ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ち ヤ ヤ ヤ れに続いて、アレマン部族法典には、約五十種、バイエルン部 族法典には、約四十種、リブアリー部族法典には、約三五種の テキストがある。したがって、フラγク帝国で使用された部族 二七八 失した手書本が載っていると指摘した。このように多くの手書 ︵蟄︶ り、法典の手書本が、実務においても用いられたことを示唆し 本の存在は、ヨー・ッパの中世にとって驚ろくべきことであ ている。羊皮紙は、高価であった。それゆえ、人々は、もはや かったであろう。もちろん、それによって、手書本がときには だれも用いない法を書きつけるために、羊皮紙を浪費しはしな 定するつもりはない。 歴史的・古物蒐集的な関心や愛書趣味から作成されたことを否 法文の実務における使用に対しては、法廷にあって、民衆語 ラテン語で書かれているではないか、という異論が出されう が用いられたのに、フランク帝国内の諸部族法典は、もっぽら る。法文の使用は、たしかに、ラテソ語の知識を前提にする。 しかしそれは、根本的な障害にはならなかったと私は考える。 なぜなら、世俗領主たちも、おそらく稀ならずして、フランク である。フランク人のかかる公用語は、語彙や文法について高 人の﹁公用語﹂たる簡単なラテン語を理解できたであろうから 法典のテキストは、総計二百種以上が残っている。しかもこれ 王の勅令や証書、ときにはまた法文をも読ませ翻訳させる人材 ク人官職保有老は、自分たちのために、ラテン語で書かれた国 を確実に登用できたであろう。 度の要求がなされたわけではなかった。さもなければ、フラン ある。中世の蔵書カタログから、われわれは、伝承過程での紛 カロリング時代には、疑いなく、教養ある俗人がいた。カー らは、明らかに、元来存在したテキストの一部にすぎないので 失がきわめて大きかったことがわかる。ルドル7ブフナーは、 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ち ヤ ヤ 中世の書籍目録には、リブアリー部族法典だけで十三種の、紛 ル大帝自身は、たしかに書けなかったが、ラテン語を理解し、 ︵25︶ 自分でも完壁に話したのである。カール大帝の宮廷の高貴なる ︵26︶ 教養層は、明らかに聖職者に限られていなかった。俗界貴族の 教養の程度は、フリアウル辺境伯工ーベルハルトとマコン伯 エックハルトの蔵書目録、バルセロナ伯ベルンハルト夫人ドゥ オーダの携帯本︵¢げRζき仁巴芭からうかがえる。ラテン語 、、、 ︵27︶ の知識は、われわれが当初想像していたよりも、おそらくずっ と普及していたであろう。そこから、翻訳の少なさも説明でき ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ よう。サリー部族法典とカロリング時代の国王勅令との古高ド との相互関係において、 マールベルク註釈は、法典と法廷陳 述とを結びつけるので、それゆえ同時代の法文利用者たる伯、 った。⋮⋮他にはほとんど証拠のない法廷陳述の断片として、 トゥンギヌス、ラヒンブルゲンにとり、実務上重要なものであ マールベルク註釈は、法史学者にとっても言語学者にとっても 大ぎな価値をもっている。﹂それ以外の法文における、ラテソ た文言や例言なのであった。ゲルマソ言語学の研究は、多くの 語の単なる説明にとどまらない民衆語もまた、法廷で用いられ ︵31︶ 、 、 、 、 、 、 、 ラテン語表現が、民衆語の法律例言を翻訳したものにすぎない イッ語訳もまた、﹁語られ、朗読されうる民衆語たるべきこと ︵32︶ を義務づけられた古高ドイッ語文﹂とみなしうる。 ことを証明している。サリー部族法典の東フラソク語・古高ド 成文法が法実務において演じた役割如何という問題の究明に イツ語訳断片が知られるのみである。 ︵28︶ 的な障害とはならず、しかも手書本に民衆語の法律語彙が沢山 あっては、メ・ヴィソグ時代と力導リング時代とを区別せねば ともあれ、ラテソ語は、法廷における法文の使用にとり根本 らかに示唆している。それらの語彙は、人々が法廷で用いなけ 記載されていることは、手書本が実務に用いられた可能性を明 部族法典、アレマソ部族の協約書の編纂は、メ・ヴィソグ時代 ならない。サリー部族法典、リブアリi部族法典、ブルグソト 、︵29︶ ればならない特定の法律文言の存在を証明している。その著名 におこなわれた。それは、アレマン部族法典とバイエルソ部族 がまったく不明である。すでにハィソリヒ・ブルンナーは、法 代には、法文が法廷で使用されたという証拠は乏しく、その点 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ なものは、サリー部族法典の若干の手書本にみられる、いわゆ 法典についても、ある程度たしかにあてはまる。しかしこの時 ヤ ち ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ る﹁マールベルク註釈﹂︵ζ巴ぎ品誓ぽ虫o器窪︶ である。こ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ れは、フランク人の法律文言であって、﹁法廷で審理の際に用 いられた文言の残津﹂なのである。ゲルハルト・ケブラーと並 典の法実務における使用につき幻想を抱かぬようにと警告し ︵30︶ トーヴィーガソトは、こう主張している。﹁訴訟、判決と言語 二七九 び、古高ドイツ語の法律語彙に最も精通するルート・シュミッ 法規範と法実 務 早法五八巻二号︵一九八三︶ の行為であったことになろう。 二八○ た、しかし、少くとも伯、ヴィカール、ケンテナリウスがサリ われわれは、ヘルマン・ネールゼンの見方が、いささか悲観 ヤ ヤ ー部族法典やリブアリー部族法典を所持しえたであろうことを せねばならぬであろう。マールベルク註釈は、ともあれ、もと 的すぎるように思えても、その議論のきわめて多くの点に同意 ︵33︶ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ 認めていた。ヘルマン・ネールゼンは、いっそう懐疑的な判断 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ったと言えよう。そして、サリー部族法典の最古のテキストに ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ もと法文と口頭による法廷審理との結合を目的としたものであ を示した。かれは、立ち入った研究にもとづき、八世紀から九 世紀の変り目にいたるまで、サリー部族法は、成文形態で法生 活上なんら有効な役割を演じなかったという見解に達したので させようとする意図がうかがわれる。法のある種の成文化の努 依拠する新たな編纂や改訂から、法文をその後の法発展に合致 力は、メロヴィング時代の国王勅令にも認められる。 のフランク帝国において、ある法規定がサリー部族法典︵r霞 ω当8零暑εの構成部分であったという事実は、法の現実に カール大帝のもとで、法生活における文書主義の意識的な推 ある。その研究成果は、こう総括された。﹁メ・ヴィング時代 とり、その法規定の妥当性の著るしい増大を意味しなかった。 リアに宛てた勅令のなかで、成文法の慣習法に対する優位を告 進の時期が始った。七九〇年その息子たる国王ピピンは、イタ 示した。﹁法があるならぽ、法は慣習に優越し、いかなる慣習 ︵36︶ く、口頭による伝承の中にしっかりとつなぎとめられたので、周 重要な法規定は、人々がサリー部族法典を学んだからではな 知徹底したのである。サリー部族法典への収録は、ある法規定 も法の上におかれてはならない。﹂︵呂=賃o貫質器8一巨8亭 に、その法規定を法実務上の無視から守ることにはならなかっ 白である。﹁裁判官は、書かれたる法にしたがって正しく判決 疑いない。皇帝自身が八〇二年に与えた次の指示は、もっと明 は、﹁法﹂︵一〇図︶という言葉で成文法が理解されていることは、 ︵37︶ 段o欝島審ヨ︸9づ色鼠8房仁9¢3ω后o壱9緯弩8σqごここで が変化した社会的経済的諸条件にもはや合致しなくなった場合 ︵34︶ 、 、 、 、 、 、 、 したものでなかった。フランク王は、むしろ、西ゴートや東ゴ ネールゼンの見解によれば、けっして﹁成文法の支配﹂を意図 を下し、自己の裁量によってはならない。﹂︵9日急8ω器窪亭 た。﹂国王ク・ードヴェヒの命によるサリー部族法典の編纂は、 ートの隣人たちのように、立法者として君臨することを目指し 身目ω。江℃富ヨ一。αQ。目一仁暮。陣&一8旦β8ωΦ窪&oヨ象鐸旨ヨ ︵35︶ たのである。もしこの見解が正しいとするなら、古きフランク ω慧目.︶編纂された法典が、判決の基礎とされるべきであり、 ︵38︶ 部族法の法典編纂は、司法よりも、政治的プ・パガンダのため かがわせる。 は、しばしばそれと異った様相を呈していたであろうことをう 裁判官の裁量ではない。この指示は、もちろん同時に、実際 族、ザクセン部族、フリーゼン部族の定住地、それゆえ帝国の 使用にも影響を及ぼしていたといえよう。テユーリンゲン部 わめて異った水準に立っていた。それは、法生活における文書 もちろん、大フランク帝国のそれぞれの地域は、文化面でぎ 広大な地域では、九世紀初頭まで、カール大帝のザクセソに対 諸部族法の成文化に対するカール大帝の尽力については、す 八○○年の皇帝戴冠後に強化せられた。しかしカールは、早く でに他の関連で指摘したところである。その尽力は、たしかに ては、成文法は存在しなかった。法生活は、もっばら、口頭の する二つの勅令、ザクセン勅令︵O昌一ε苺oω貰o鉱2ヨ︶とザ ・・・・・⋮ h41︶ クセン地方鎮圧令︵O巷一ε一舞δ8冨三ぼωOO震○臣卑①︶を除い から、その事業は、素材収集の段階にとどまったことがわか は、これらの部族の法を記録せしめた。しかし、現存テキスト 方式と象徴的な法律行為によって営まれていた。カール大帝 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ も統治の最初の数年間に、成文法の弘布に意を用いていた。ニ ︵39︶ 、 、 、 、 、 、 、 、 ・ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ 種のサリー部族法典手書本には、それらが皇帝の命により作成 されたと記されている。これが、いわゆる改修サリー部族法典 訂をみたテキストは、カール大帝のイニシアティブにより作成 ソ部族のかなり古風な法は、もはや体系化、近代化をみるにい る。ともあれ、テユーリンゲン部族、ザクセン部族、フリーゼ ︵い賃ω巴一80臼窪富鼠︶であって、それゆえに、この修正し、改 の立法事業が、口頭でのみ伝承された法に対して、書かれたる 二八輔 族、すなわちテユーリンゲソ部族の法典と記された、テユーリ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ の知識を重要視したのであろう。アンゲル部族とヴァルネン部 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ イ修道院は、ぎっと、テユーリンゲソ部族法とザクセソ部族法 る。ザクセソとテユーリンゲンの広い所領を管理したコルヴァ に、唯一の手書本が、ザクセソ勅令とともに、伝承されてい ーリンゲソ部族法典については、ザクセンのコルヴァイ修道院 ちろん、ほとんどなんらの役割も演じなかったであろう。テユ たらなかった。これらの部族の法生活においては、法典は、も されたと推定できる。・ルシュ修道院年代記には、カール大帝 法を優先させようとする努力と密接に結びついていたと明白に 述べられている。﹁⋮⋮改修せる法を書き記すこと、そして裁判 官が、法典によって判決を下すように⋮⋮。﹂︵⋮:o目窪号鼠目 ︵40︶ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ 一〇αQ・糞ω。き。おg葺一且一8の℃。﹃ω。暑葺ヨ一&一8ωω。暮:⋮⋮︶ 典、アレマソ部族法典、バイエルソ部族法典を記載する沢山の ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ 改修サリー部族法典、リブアリー部族法典、ブルグソト部族法 手書本の存在は、これらの部族の定住地域で、法文が法実務で もまた役立てられたことの証拠とみなすことができる。 法規範と法実 務 二八二 ー部族法典、ブルグソト部族法典、アレマン部族法典、バイエ 別の立論も可能である。サリー・フランク部族法典、リブアリ 早法五八巻二号︵一九八三︶ ンゲン部族法典の第二の手書本は、現存していない。だが、そ ものであった。ザクセン部族法典についても、二種の手書本が ある。それは、法廷で原則的に﹁書かれた法﹂︵一。×のR督釦︶に 本の多さは、人々が法文をもまた使用しえたことの証拠なので ルン部族法典、ランゴバルト部族法典の領域から伝承した手書 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ れは、歴史家ヘロルドが利用し、一五五七年刊本の底本とした 残されているのみであり、フリーゼン部族法典にいたっては、 よって審理が進められたことを必ずしも意味しない。しかし、 あろう。 法文の所持は、事情によっては、きわめて有利に働いたことで ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ない。カマビー・フラソク部族法典については、十世紀の二種 われわれは、そもそも、ヘワルドの刊本から法文を知るにすぎ の手書本と、その後の書き抜きが残っている。もちろん、中世 持を重視したと推定でぎる。それゆえ、出所が究明できる大部 なかでも教会、すなわち特に司教座と修道院は、成文法の所 初期に手書本の数は、じっさい、ずっと多かったであろう。な イは、ザクセン部族法の説開を、その法典が多くの者のもとに ぜならぽ、十世紀に歴史家ヴィドゥキント・フォン・コルヴァ った。教会は、外界と密接な関係をもち、日々の生活において 分の手書本は、司教座聖堂か修道院の所蔵に由来するものであ 世俗の法としばしば対決した。その際、成文法をもち、必要な 見出せるからとして、放棄したからである。﹁われわれの法の多 重に記録されたザクセン部族法典が多くの者のもとで見出され け、アレマン部族法典とバイエルン部族法典は、法文のなか 場合に法廷でこれに依拠しえたならば、有利であった。とりわ 様さについては、しかし、この小著で述べないことにする。慎 るであろうから。﹂︵UoざαQ仁目<Ro毒匡舞暮o昌oω押毎目昌80韓 ω貰o巳8段一αqg尋α①ωR督帥。︶ に、教会の利害にかかわる多くの規定を含んでいることで有名 一昌ぎ。ま亀o駐器おお︸2目巷鼠巳弩畠汐お巳碧畦一霞 ︵42︶ い判決が下されるように、つねに法典を携行せねばならない、 わせるきわめて重要な示唆がみられる。なぜなら、伯は、正し それにもかかわらず、テユーリンゲン部族法典、ザクセン部 バイエルン部族法典には、法廷における法文の使用をうかが である。したがって、アレマニエンとバイエルソでは、教会が ︵猫︶ 法典の編纂と適用に大ぎな影響を及ぼしたと考えられる。 用に関するカール大帝の勅令が、わずかな範囲で遵守されたに ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ の数の少なさは、これらの部族の定住地において、成文法の使 族法典、フリーゼン部族法典、カマビー部族法典の伝承手書本 すぎないしるしだとみなさねばならぬであろう。しかしまた、 ったからである。カール大帝が、七七六年ランゴバルト人の反 レマソ人、バイエルン人に対して裁判をおこなわねばならなか ︵44︶ 、 、 、、 、 、、 、 、 の小型手書本がある。それは、この規定が少くとも数人の伯に のために、大勢のフランク人、アレマン人、バイエルン人を北 乱の後に、最も重要な地位に信頼でぎる人間を就け、この目的 と定められているからである。バイエルン部族法典には、数種 よって遵守されたことの証拠である。人々は、この種の法典な マコン伯エッカルトの蔵書のなかにも、法典類が多かった。 したがい、それぞれの故郷の法の適用を求めた。 ︵49︶ イタリアに派遣した。これらの人間は、法の属人主義の原則に ︵48︶ ら、苦もなく法廷に携行しえた。有名なインゴールシュタット ︵苑︶ 手書本は、きわめて小さく、鞍袋に入れて楽に持ち歩くことが できた。 世俗領主の所蔵になる部族法典手書本は、あまり知られてい 族法典、サリー部族法典を所持していた。ブルグントのマコン ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ かれは、教会法手書本一種、ローマ勅法集二種、ブルグント部 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ で、それ以上のことは、期待もできない。われわれが、カロリ ンク人からなる混在住民に対処せねばならず、それゆえまさに 伯として、エッカルトは、ガロローマ人、ブルグント人、フラ ない。しかし、世俗領主の文書館や図書館が残っていないの ング時代の二人の世俗領主の蔵書について知りうるのは、幸運 自己の伯裁判所で使用する法文をもっていたのである。 な偶然による。フリアウル辺境伯工ーベルハイトは、テオドシ アヌス法典︵O&賃↓富&8壁建ω︶、アラリック抄典︵㌍o阜 法典類の手書本がみつかったことは、偶然ではない。実務上の カロリング時代の官職保有者の双方の蔵書に、比較的多くの ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ リブアリー部族法典、アレマン部族法典、バイエルン部族法典、 貰置唐≧醇§︶、教会法手書本一種と並んで、サリー部族法典、 ランゴバルト部族法典の集成手書本を所蔵していた。かれは、 かったフリアウル辺境伯は、サリー・フラソク部族法典、リブ はない。さまざまなゲルマソ部族の構成員に対処せねばならな 価値をもつ法文がまさにいつも存在したことは、偶然どころで 、 、 、 、、 、 、 ・、 、 ︵46︶ この手書本を、おそらく、後のフェリエール修道院長ループス わゆる﹁帝国貴族層﹂の一員として、エーベルハルトは、広汎 ︵47︶ に八三〇年頃作成せしめたのであろう。帝国の最高指導層、い せ、ブルグントのマコン伯は、ブルグソト部族法典とサリー・ アリー部族法典、アレマγ部族法典、バイエルン部族法典、当 然ながらさらにランゴバルト部族法典の集成手書本を作成さ 二八三 フランク部族法典で足りた。ローマ法の手書本二種のうちに な結びつきをもち、立派な図書館をつくりえた。もちろん、か して、ランゴバルト人や・ーマ人のみならず、フランク人、ア れは、法文を必要とすることもあった。北イタリアの辺境伯と 法規範と法実務 早法五八巻二号︵一九八三︶ は、おそらく、ブルグント王国のローマ人法 ︵い①図園o目き即 文を変化した政治的、経済的、社会的条件に適応させようと努 法遺産を伝承している。その後の数多の編纂本では、人々が法 二八四 ω自αqに&δ自目︶が含まれていたであろう。 こなわれなかった。サリー部族法典は、後の修正本において めた様子がうかがえる。しかし、根本的、徹底的な改訂は、お ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ もちろん、法廷での成文法の適用は、疑いなく大きな困難を 法の発展に追いつかないことから生じた。これは、たしかに、 のままであった。確実に法実務では用いられなくなった多くの も、戦士的・農民的な生活様式を営むゲルマン部族の古風な法 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ともなっていた。その主たる困難は、法文が実際に用いられる 法史学上きわめてしばしぽみられる現象である。しかし、成文 の種々の編纂を﹁公けの編纂﹂︵⇔ヨ象9①幻o留窪8︶とみなし 法文が、法典にとどめられている。それゆえ、サリー部族法典 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ 法と慣習法との食い違いは、中世初期のフランク帝国にあっ てよいかどうか、研究上も論議がある。それは、序文にどの程 ︵50︶ て、とりわけ大ぎかった。実際明らかに、メ・ヴィング時代に る試みが欠けていたわけではない。それにもかかわらず、法典 おいても、成文化した法を変化した諸条件に適応させようとす リー部族法典ほど大きくない。アレマン部族法典とバイエルン ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ 他の部族法典にあっては、法文と法実務との食い違いが、サ 度の信愚性を認めるかに大いにかかっている。 ヤ の いる。新たな手書本の作成に際して、人々は、おそらくきわめ あったといえよう。だが、ひとたび編纂された法典のもつ保守 部族法典の規定は、実際に用いられた法にきわめて近いもので には、しばしば、すでに時代遅れの規定が引続き盛り込まれて て古い法文への畏敬の念から、それを法実務に適応させること 大公領はもはや存在せず、最後のアギ・ルフィング一族は、フ 的傾向が、ここにもみられる。例えば、七八八年以後バイエルソ ヤ ヤ ヤ ヤ を放棄したのであろう。したがって、法典の古さは、記載され できなくなった規定さえ、書ぎ写されている。もっとも、筆写 た法規の古さと原則的に同一ではない。その意味がもはや理解 エルン部族法典の新らしい手書本にあっても、バイエルン大公 ラソケンの修道院の壁の奥で死に絶えたにもかかわらず、バイ なかった。 とその一族全体について、大公位へのすべての請求権を荘重に いう規定が含まれているのである。最後の大公タシロは、自分 は、つねにアギロルフィング家の出身でなければならない、と ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ 人は、おそらく通常、聖職者であったろう。かれらは、部族法 ヤ ヤ 典について、とりわけ正確な知識をもちあわせていたわけでは 例えば、サリi部族法典は、国王クロードヴェヒの統治の晩 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ 年に作成された最古の手書本において、フランク部族の太古の 放棄すらしているのである。 った条項は、サリー部族法典の手書本から削除されていない。 れ、成文化された法となった。それにもかかわらず、無効とな た。もちろん、法の内容にわたる修正は、たいてい補足の形で 義の表現なのである。慣習法という広い層が存在し、これこそ よる確定をみた形における部族法典は、それゆえ、法の保守主 ため、法文が修正されることは、きわめて稀であった。文字に ︵55︶ そもそも新たな手書本の作成に際して、法規定が無効となった ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ カール大帝とルードウィヒ敬塵帝のもとで、古来の法伝承に 対する多少合理的な態度の発達をみた。人々は、文字により伝 おこなわれた。これらの﹁新条項﹂︵Zo<色9︶は、研究上、 の慣習法の局面で、法は発展を続け、新たな社会的諸条件に適 が、中世初期における法秩序と司法の本来の基盤であった。こ 承された法を改め、より良き表現に代えることが必要だと考え ﹁部族法典付加勅令﹂︵O碧ぎ一碧壁一茜籏霧豊鎚①民騨︶と呼ばれ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ︵51︶ ている。とりわけ、カール大帝の指示により公布された、八○ 一〇αqo旨︶下されたと記されている場合に、そこではたいてい、口 応した。史料のなかで、判決が﹁法にしたがって﹂︵の①窪&魯一 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ 三年の﹁部族法典付加勅令﹂︵08ぎ﹃3一品ま島匿血一ε目︶と いのである。 ︵56︶ 頭で伝承される慣習法が意味されており、成文法のことではな 同年の﹁リブアリー部族法典付加勅令﹂︵O巷ぎ毎巴茜一匹び− ︵52︶ 轟ユ器&隻¢響︶の名を挙げておきたい。ルートヴィヒ敬塵帝 ︵53︶ も、統治の最初の数年間に、部族法典を補足する沢山の勅令を 五、テーゼ形式でのまとめ 響を及ぽした。もちろん、その程度は、部族法典によってさま ローマ末期の卑俗法は、疑いなく、中世初期の法の発展に影 れた部族法典から出発したが、実際に用いられている法をも考 作成させた。人々は、これらの勅令による立法の際に、編纂さ 慮に入れたことは、疑いない。編纂された法規定と、その後に ざまであった。フランク帝国の最古で、最も重要な法典である ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ 生じた変化との緊張関係は、八一九年のサリー部族法典付加勅 われている。そこには、寡婦の再婚にあたっては、サリi部族 令︵O巷ぎ富一囲一留浮器”α山富︶の第八条にはっぎりとあら い。ルート・シュミット隠ヴィーガントとヘルマン・ネールゼ サリー部族法典は、ローマ末期の法思考の影響がきわめて小さ ヤ ヤ ヤ ヤ ンの研究が、それを立証した。伝承された部族法典は、無内容 ︵54︶ 、 、 、 、 、 、 化したローマの法規範や法概念を引ぎ続き用いているにすぎな 二八五 と述べられている。慣習法は、時の経つうちに、サリー部族法 法規範と法実務 典に記された手続きとは相違し、今やこれが﹁公けに﹂認めら ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ 法典の規定によらず、その後通常となった手続きに従うべし、 ヤ ヤ 二八六 は、成文法が意義をもったことを示唆している。しかし法の発 早法五八巻二号︵一九八三︶ い、という若干のドイッ人歴史家の主張は、根拠をまったく欠 は結びつかなかった。口頭による法の表示と象徴物による法律 展は、まずなによりも法実務において生じ、文字による確定と 行為とが、法文よりも重要であった。 いている。法文のラテソ語表現は、反対に、新たな概念内容で 足りぬ場合には、人々は、民衆語の法概念をラテン語化した形 部族法典は、その伝承形態のゆえに、歴史学を、依然とし 充たされている。法的事実を表現するのに、ラテン語の語彙で で、あるいは註釈の形で用いた。 もなう。しかしながら、部族法典は、その内容が近年のドイツ る。したがって史料としての利用は、多くの不確かな要素をと 中世史学の社会史理論に合致しないからといって、簡単に無視 て、史料批判、編纂、解釈上の困難な諸問題に直面させてい 映している。ひとたび編纂された法典を、法、国制、経済、社 部族法典の現存手書本は、さまざまな時代に作成され、しば 会構造の変化に適応させることは、ぎわめて稀にしかおこなわ らば、部族法典は、フランク帝国の社会構造の究明にとって、 されてよいものではない。伝承の特性と諸問題に注意を払うな しぽ多様な言語層からなり、それゆえ法発展の種々の段階を反 れなかった。時代遅れの条項が、立法行為により無効とされた 宰①跨段旨<gωO=毛国包Z一8。。→ω鴇一①目aの&$頃帥&評。げ 一噛ド︾岳節鴨一89切螢巳卜。uロ①ロびo碧げ魯g<8Ω窪島5 注︵1︶ 頃Φ冒ユ魯ω菊¢ZZ国閃“U窪富島o菊9窪詔窃o岳oゲ叶ρω巷傷 重要で、かけがえのない史料たりうるのである。 のは、例外にすぎなかった。したがって、成文法と実際に用い られた法とのある種の食い違いは、考慮に入れておかねばなら ない。 カール大帝は、部族法典を近代化しようと企てた。この分野 でのかれの努力は、疑いなく、八○○年の皇帝戴冠の結果でも 一W侮●一\N︶。 山震Uo象ω魯窪園①魯富註ωω窪ωo訂皆鯨︾ぼ①一ピpαq鳩一。↓色︶ U国O↓ωO=国Z 園国O国↓ωO国ωO=一〇寓↓や ゲΦ冨島σQo鴨げ窪 密喜凝雲切警①ε●さらに、=︾20譲α胃男曽o缶目力 ∪Φ耳ω。匡帥&㎝O①ω。ま。窪ω2亀雪冒竃一#Φ一巴酔①﹃●<o旨簿毒山 oO客 魯唐量一①p白①冒震一3。。︵”ミ︾↓↓国2切︾O頃由国≦o ︵2︶研究状況の基礎的な総括は、即&o開閃qO国2国””9①国? あった。カールは、ローマ皇帝の伝統を立法面で再現しようと 成果を挙げることがでぎなかった。フランク帝国の大部分で 努めた。だが、大帝も後継者のルードウィヒ敬塵帝も、大ぎな は、明らかにそのためのあらゆる前提が欠けていたのである。 手書本は、カロリング時代にフランク帝国のかなりの部分で カール大帝は、法における文書主義の貫徹に努めた。沢山の o&ぎ ︿8︾魯一σ①濤国菊い国閃巨山国評。訂箆閤︾¢閃ζ毘Z7じ ]﹁Oβ一の ︻︸︾乞ω=○閏一≦帥ロo 名卑HO口 伽一① 囚鶴も坤けq一⇔吋一Φ昌り ゑ①一日餌噌 一。。“中の項目を参照。国王勅令についての基本文献は、即き8置 q⇔傷国O周圏¢O﹃鶴︷け一ヨ剛同¢げO口山①唱叶ωOプOP勾OOげ“Oα叶覧昌αqOb 一〇〇c ︵“○σ酔ぼ⇒αqO附 H①Oげ酔の≦置ω①βωOび即︷ユ一〇び① ω叶q匹一Φロ一 ωゆP創 刈O︶脚 出R日弩⇒内菊>qoD国”じ一〇ロびR一蜘震いΦ図︼W臥g毒吋一〇毎目。 ︵3︶ これらについては、国き。 ・図●ωO謡dいN図”∪一①O声罐畠鉢デ のβO﹃q昌αqO口 降ぴO村 α一Φ 即一ΦH昌鎖ロロ一〇 〇〇ぴΦ口 <①附ぴ帥犀b陣o 陰ωΦ 一昌 血OH ︾伽O一︶ 肘①Oプ酔o oωけ餌口山一ωOげO 頃同①一ゲ①諦 qP島 国α嵩一αqのN一口の9 0b一〇同− 竃量。訂ロ一〇$あ.県1お脚菊o鼠ω℃因︾2U国い”O窪巳げR島3R H昌“男Oの一ωOげ厩臨け ︷ゆ厩 冨鎖図 ω唱陣口傷一Φ弓 N仁9 刈㎝’ OOげ9吋けω汁偉oαq讐 く霞砂器琶αqαR図臼o一ぼαq①嵩。即ぎ恥窪の①獣①け窪σω岳号 o ︾目Oゲ一く 一〇︶HO①q 因帥﹃O賦切αqO同NO詳● 囲口“ UOβ酔oロOゲ①o O︸ ω。一ー悼O⋮ 国Φ影oO菊︾国21頃O国O因”U一Φ坤餌ロ江ω魯Φ○げ①誘o露o窪一ヨ ω叶①=信口喰︶ ω一αQ旨印目一口αQ①昌 一〇①刈 ︵<OHけ困似磯O qβユ 屑○村ωOゲ仁口砂qΦ口︶ ωOβ山O吋げ餌口αbつ一︶。 O’旨Pゲ円げ¢β仙O門虻 ω叶瓢匹一のbNβ一げHO嘱同①O犀叶嵩OゲOb口P山唱O臨江のO﹃①口 ζ響①巨件Rpωε凝貰什る認︵巨竃oぎαq同碧げ一窪N賃Oo。。。露魯8 ティセク・グラウス、従士制の役割については、ハンス・クーン ︵7︶誠実の概念については、ワルター・シュレージンガ;とフラン ︵4︶ 区巽一ω○ωい“∪一ΦOH章巳甜窪鎚R誉&①旨窪の①ω巴一ω。訂津 作であるが、必要な裏付けを欠いている。 ン、隠ヘックとフランツ・イルジークラー、家支配の意義について とシュレージンガ!、フラソク貴族については、ハイケ・グラ: ︵8︶ 伽節ω≦①同犀<ΦHNΦ陣OげP一の図鋤門一︾信αq¢ω一閏いO函国︾即︼︾↓田Nqの鎚B[ ヨ曾αq①ω一①一詳自山R㌶露①ほぐ8トaぼΦo穿国O区頃>男Uβ 照。 ︾巴sごお︵“b ﹂巨鐸ぎ8菊Φ毎営国響9一s凄ヨ一b。y を参 竃一けけ〇一四一梓Φ増● OO吋旨節ロ一ωOげOの q口伽 柵α旨一ωOげΦω 閃①Oび一 一P 伽O口 一一八七 け①p牢きざp鍔畠o訂巳Φ戸のα窪凝露這謡︵“Oα鼠薦R σqΦ吋目餌PゆωOゲOP即①Oげ一ω餌口︷NΦ一〇げ口信⇒暇Φ口・H。○ω叶αQO件①口層≦OのけαqO− ︵9︶国醇目鎖昌2国鵠いω国2あ匹鱒お箕①。窪凶且ω&窪︾旨一犀①q& 法規範と法実務 =一〇〇けO貝一〇餌 一︸ 一〇㎝O曽 ω. 刈一1一⊃ b 一脚 囚餌同一 Mハ閃O国ωO寓国い]﹃” 頃山蝿ω 。巳ω魯①早①仁pH営 o菊︾dω”⇔び霞α一Φω。αQ磐弩糞①びq①轡2 儀①吋閃同O日bρ① 瓢 口 α 匹 一 〇 閏 H Φ 一 〇 ⇔ 甲 国 ① 吋 犀 昌 一 〇 ① q Q ︵H勾O円o oOプ自PひqΦ口 国。浮霞α霞⇔い田甲ζ国即↓国zω函9。噌こR9島①噂一&£αq ⇔OOIω刈G 刈①︸ 一〇㎝O︺ ω。 q Q6 は、シュレージンガーとカール・クレヅシェルの論争を参照。 ω旨磯ωαq①ω。霞oぼρ出①出け一−野お紹山O①ご評冨畦口く岡園”短国窪− 。げ毛鉱NΦ器魯聲08。鼠。穿ρH巳N魯の。ぼ一津伽R留く一αq昌− ω一〇口 N口”一︾帥ω ℃尻Oぴ一Φ憎P 伽O門 ]﹃吋Φ一げ①一一 一昌 伽①吋 自①信汁ωO︸︺[O口 信口α ︵5︶ 閃H一けN 譲国菊Z■回”ωけ自α一〇P 賊9冠 9一叶叶O一帥一什①門一一〇げ①旨 くの同︷働ω− 留ωζ響巴巴器お桑ζH國︶。は、興味をそそり、想像力に富む著 巨ζ一雰①芭8憎国営①留葺ω。ぼO。ω色ω。冨駐鴨。。。匡。ぼ。留ω おいた。 零露魯お閃きαおy幹騙中9を参照。最も重要な文献を挙げて 伽。ω閃訂営ω︸切包ぼおお︵匡ω。辟5窪N瑛<R貯器琶鵯αq①5 おR。である。 Q 国弩ヨ葺の巨叶①臣号窪のoの⇔露。窪ρ切m巳一〇︶甲牢鋤同旨ω①瞠 ︵6︶ ω臨h日昌αq︷母菊o。ぼωαqΦ。。。露。ぼρO醇ヨ即巳践の畠Φ︾ぼ①浮昌αQ 。。 早法五八巻二号︵一九八三︶ 象窪岳畠舅頓窪山窃≧①旨き巳の畠窪Hpω蜂旨ω閏邑げ畦αQい甲● 二八八 。?一。。 G b国菊ω乙即蝕αq。一器ω。困琶山蜜巳&邑Φ 寄。ω僻︶︺ω﹂。 ωε島臼N葭即①畠$αq①。D魯一。窪。田且刈︶。 切○ωご9①の毎&閏αq臼山Φ目目&①旨①口O。ωΦ=ω魯聾冒 。︸即葺﹃ωO頃ζ6日− 守爵巴①旨き巳ω。竃ロ菊Φ。ぼ︶ω●鰹−刈o ぎ匹窪p。一〇琶塁巳。。魯①ロ即①号誘20一一窪。H巳u J巴嘗似σqoNロ旨 ︵10︶ 窪き旨窪聾。竃昌αQ段目き一。D&。⇒<〇一厨8。浮①目山象① 家葺o琶措ン9お脚以下も参照せよ。囚畦一ω○ω■“∪冨8− 。謹爵g構飢葭d葺R。。。窪oぼs. ωΦ目霞犀量磯曾 ︷辞ωo臥巴。ω。窪。年窪目伍O同后冨昌ぼ傷震い賃留一8帥・﹃” ≦田○︾2P即ぎ江路①巨島守o⇒汀聾㊤巳ωo訂切①N①一魯暮σqob ○①ωの一一ω。︸一織房。 。 魯聾り函巳露ン=けΦ鵠葺同.切卑轟σq。 ¢目≦p。巳﹃お●ぎ”Oの。 。①一一。 U巳εo瓦≦勉=四畠αQΦ≦箆ヨ。“ω叶客黄畦=。誤︵匡ζ08αqH8露雪 N鷲OΦω。露魯8号ωζ葺巴巴冨βωp。包に︶りψ一8−一〇N・ のΦ跨p 。a囚α閃■団搾∪器閃①。窪冒︷急ゲ窪峯箒巨叶①び 鴨p勺竃○一〇管号−募酔o岳9の困餌ωω①這刈b。︶国①︷け倉ω﹄一。− い霞≧山琶雪8毎饗H巳ゆ①貯餌αq①N岳冨ヰ爵自。一。筥帥睾一の魯窪 謡㌣∪田ω●”≧①匿斡目一ω3仁&甲雪野魯ぎ評。蕊q& 一費・一ぼαq一の&震N。一酔。H巳︾呂①犀$山R2蝕8窪げま蓉αq巨 国①。貰ψ。−零る臼ω●”ω$ヨ旨霧話。一昌旨畠くo一訂眉贈魯Φ冒 一︶ω.G 。。 。 N中∴囚震一2国dζ国く国因“9①αq①目。一箕①。窪一一号① ︵12︶国。一畦一昌切菊d22国閃“UΦ9の魯①勾。。ぼωαqΦω。霞。窪ρ評& ζ鐸。蛋茶りω蒔目践⇒的の巳。刈。。︵匡2&8①の田&一︶φミ一山。ω。 ︷旨力①o洋。。σq①。露o算ρ○①同旨雪馨一。 D畠①︾ぼo出琶αqo。Ou一〇お︾ び一。 ・︼W畦8一島しW①岳ロ這O一\這H9ψo。O中 国艮註。ζ§αq伍①ω一旨Φg&o尽一窪ギ一く簿−琶傷ωぼ餌沖。。窪の 区α﹃−≦一①b一8どψo。o 。中9 ︵14︶勺m三島U一m8霊ω︶霞の8ユ帥霊農oぴ霞山o旨旨日p①一ωa ︵13︶閑①ぽ富益≦国Zω区qω一ω鼠ヨ旨Φωげま目αQ琶山<①蔑器ω琶鱗 Z国頃]﹁ω国Z”ω犀一Ωo︿①口N①Oゲけ Na<団のOげ①昌 ︾b一一犀Φ ロロα鼠一汁けΦ一騨同什①﹃ b88①凶ω陣いきαqo訂泣δも。H邑ω豊目8一ぽ實o霞一〇ご8 因①魯“切穿一\頃&窪一。刈。。︵“<R藻Φ旨一一&琶αQ。p号。。≧①− ︵名一①︾ロ含Rざ口αqΦ︶“U国勾ω・“N母︾ζ奉浮痒ロ&閏蒙下 ︹しかし、かれらには、ランゴ、バルド人によって、自己の法を保 の魯ω艮R①箆82①器の梓凶旨きけ賃&の爵目饗鼠ゆ資目8&雷ω9 と判断された。︺この解釈については、譲o罵繋凝=国ωω■国即” 持することが許されなかった。それゆえ、祖国へ帰ることがよい 氏く詳簿αQRヨ螢巳ω畠角国Φ。窪ω弩即Φ一。冨qαq①p一巳国①o窪ロ& 。yω。魔㌣㎝O汐Ωp。島島gRω○頃○↓↓”℃8g。。曽U露 ω山■b。。 ロ&園Φo算﹃”田①≧①目斡目①旨一p伍R閏三訂①F︵口<Ro ω魯鐵江醤蜜葺Φ巨おさ一〇ミ︵日く自霞似αq①q&守誘3琶αq①p 。 。 。 ふ。馴国R目簿琶 旨響巳ω島Φロ蜀ω蜂葺の甲①一げ畦αQい卑’島︶導oo・G 巴o営き巳ω3窪因Φ。窪●冒二W①一#餌晦①差日︷昆訂一①ヨき巳ω3①ロ ω・一①一占謹⋮∪両勾ψ”9①津①陣窪︵浮段一︶ぎαq窪9︶ぼ ぎ中ぎζω号RN蝕件●H筑N巴件。。。ぼ蒲儀R留≦αQ昌−ωま蜜pαQ ω。寓oぼρ切α.刈︶一U国閃ω●一N農ピΦぼΦ<8α窪ω鼠注窪 囚巳㌣≦一①ロごコ︵”閃o話。﹃琶鴨ロN霞伍①gω魯窪因①。ぼωαQ①− ) 78汀一。穿窪山震湊蚕号旨一①α霞≦一累①塁。訂津窪N仁Oα鼠苧 N鴛囚葺畦ざ糞ぎ巳鼠叶創段ω愚富づ鼻のぼ中匿ζω3Φロカ①一。7 け自 伽霞竃Ro且凝R琶α§α①p閃g旨窪g&勺訂ω窪一ぼR ( 11 ζ葺①匡①昌ω300き①留ω︷旨げg一5山げ○げ窪]<[葺Φ一巴冨お” αR≦誘①湯魯錬汁窪讐ピ①首臥鵬。剛堅o一〇αQ一ω。7げ望o冨号① o鮮。房一ω魯魯︾評餌山①巨① ︼W亀ぎ一㊤巽︵“︾浮き亀仁昌αq魯伍段も 。中 函一器ωo︾切帥民お︾類①津鱒︶uψOo この解釈については、類磐の溶ωO頃dいN国”Uδ○β︷胃訂雰− ︵15︶ 。中 <①ほ器の毒αq山R国震〇一ぎσQ①嵩の一“ω。刈。 Oぼo巳8ロζo一琶p 。8富①ζの鉱ω。ユ讐oおω一︶ω﹄潔“即昏o一 ︵16︶ 2賃げo葛eoσ。。箆Φ賞鼠け02の。Q8声目①旨oOoけ匡ωρ¢一一寓 じた者たちによって、かれの王国のす、べての法を収集させ、どん 公、伯、そしてその他のキリスト教徒の民衆を呼び集め、法に通 な者にもその者の法が付与され、必要な場合には、修正を加え、 判決を下し、贈物を受取ってはならず、富んだ者も貧しき者も、 修正された法を書き取り、そして裁判官は、書かれた法によって じた。︺ す、べての者に、かれの王国において正義がかなえられるように命 くぎ図畦。岸竃mαq巳〆巷陣邑N9勺o馨ω島。8言Bぼも①H芭① アインハルトからの引用原文は、次の通りである。田臨畦象 ︵19︶ 8目窪︶8菖嚢。牙①降。お叶ヨβ鼠一。魅εω8u島ω巳傷①8ω①− 召旨甲き。一&霧鼠げ。耳一罐①pぎ巳ξぎ置一〇。一。。︿巴傷。 辞き﹃暮。。一9︿醤什①目も帥旨ゴ。。嘗&Φお旨勺ぎ冨巳おαq乱 ンク人は、ナルボンヌを征服した。そして、そこに住むゴート人 鐸巳牌ρ質曽毒ρ8ρ器嚢。。需8Φ轟β質〇一鯨帥8巳αqR①︶ω& 島く。お器−8αq富く#2帥①餌①①冨旨a8器雪蝕ω。門。冨旨F 閃同四bOO円仁睡︶bOHB一菖Φ賊Oロ叶①Oω﹃㎎O貸ω9即導げゆσ¢HO:’︹フラ に対して、もしかれらが都市をフランク人のピピン王国の部分と ξ。 。一島冨巳器≦奉甘 ω践。㌍g臨留の一冨鷺o︿ぎ。田9。身Φ器葺︶器。§飢ロ騨一Φσq①巨 ︾ロロ巴霧い鎖弩窃富営①島①ω窯O記ωRぎ8おω翻ω●。。O馴 。巷一言F魯①節ぎも段︷Φ。声ロ。駐げ畠&島山一壁Oヨ巳β跨鼠目曾 ロopの声筥匹o。・o臨げ①器8洋$臨。n旨g計昌︷Φo一蛭 昌鋒o昌夢ρ轟①の魯。ごω卿o巨墨露Rき“ご猛ρ轟①ω&讐簿 ルードウィヒ敬度帝の治世にようやく、リオン司教アゴバルト が、法の相違を無くし、帝国全体に法的統一性を創り出すよう求 ︵20︶ ︵肚︶ 菊&o開ω○=ζ”即壁霞ωo箒。。閃oo窪βロ伍&琶﹃魯①。。即①o窪。 ω唇。 。。 。一︷。︶’ めた。︵山①ぼ臨oびω即d2濱国因”U①舞胃ゲ①園8げ富鴨胃霞魯8罰 ω轟旨①汁o営①&貰。菩一8目ρ器昌08器①診搾gΦ旨撃留ge 一一八九 族法のフランク化の程度は、ゾームによって過大評価されてい o ρ幹一中 もっとも、諸部 〇段筥9巳ω蔚魯①︾げ8鵠β⇒槻廿一〇。。 ぎ一N。一諾。ぼ§餌醇留≦αq昌あ象葺ロ晦︷辞寄魯房鴨ω魯一魯8一 岳三gpぎおαQ唇器oごω蜂ごgゲ魯巳。 。窪蛭︹皇帝は、⋮⋮大 法規範と法実務 p。 唐毒①声8p帥8①忌の器旨︺ωaoヨ器のげo日ぼ①。。︾冨εR①のo叶 一罐Φ旨ω鼠びΦおg日一&一8の唱Rの鼠唱葺旨ぼ蝕8誘①旨Φ一 ぎおαq8霊〇一①αq一g冨象qp一。巳2Φ﹃o巨巳一①αq①糞 0ぼ一ω葺きob8巳o窪ヨ一〇咀ω一簿o践薯ωg︷o鼻o欝器ω一①αqΦの ぎ需β8嘆.: 8話8荘く即身8の8邑奮g話ぎ8 ) 8露の巳臣匿&38剛o。言ヨ窃叶堕巳巴ε&uき8 して委譲するなら、かれらに自己の法の保持を許すと誓った。︺ ) oヨ器ωぎ巳需ω8毎日一。鴨G・訂びΦきρ欝旨幻o唐帥巳ρ目旨魯 ︹訳文の原文は、︺属○閏08一9一巽す型Z増﹂o。8Pさ“q什 ( 17 ( 18 早法五八巻二号︵一九八三︶ る。 <o旨冨αq①琶q閏oお鼠毒αq窪り]W帥巳Nω︶いω。O。 ︵22︶ 即①。算琶山ω魯臣二唐ζ葺Φ巨酔①びω一αq目畳ロαq①ロ一〇ミ︵聞 手書本の数については、鵠︾20白O幻日国ヵωdO霞Nd菊 ︵23︶ 並びに、菊9ぽ ω○=竃HU↓−ぐ﹃H閏O︾2∪けω声琶旨①霞o包暮 信ロ氏 ∪閏C目ωO=国2勾国O国目ωO国ωO国H↓国弓Fの該当する項目、 くo房ωのb嘱”oげρω.一〇蒔︷ホ OΦ目げ巽山 区σゆピ国閃“U冨 国話一①ロ ︵属σ①昌︸ 一旨ぴqopロ一︶ 一ヨ 巴o目国ロロ一ωoげo昌 園Φoげ計 ω。 斜O い⋮ 閤○⇒H餌α 切国網閃閃い国”い①図 ω騨一9︿卑H一〇同自目q い一〇﹃許傷H信O犀<¶一〇ー 傷Rαq魯oαRヲαqo一の録黛①︻国餌包の。ぼ昂α窃ω錯R房魯窪 一一九〇 一一〇 〇 ー一NN旧菊麟一プωOに家HU円ー≦H閃の︾2U”ω貯㊧目琶oのHooげけ仁ロα ⇔げΦ屋o欝g⇔αQ’Hロ”閃霧富o﹃ユ坤︷二H巧。︸ロロ財費Φロ伍お帥の堕一〇〇癖︸ω。 <o一犀o oの唱目鎚oゲρω●HOO中・ R旨角巳。 。魯窪寄。穿器質8げ9 一狭閃婁ω。ぼ5︷辞函毘 ︵29︶ ω叶o︷鎖bω○ワ嗣U国即閏いO︵甲国園一U一Φ 餌詳oω叶op ωoげ一〇げ酔①口 ①一昌o嘱 o一 図坦けげ ω○︼国ζHU↓i ω一〇αQ塩ユ①山 ω鋤伍①ぴ 一〇〇㎝︾ ω’ 鼻一〇1斜ωG 項目・.さ謡邑§Φ98§、.ぎ頃︾2∪薫O即目召do缶 ≦田○>ZU一ω貯帥日讐oωお号コ一且<o岸ω超声号ρψ一〇。o。中・ Nq即U閏q↓ωO頃国Z 菊国O頃↓ωO国ωO団HO頴↓閏ポ ︼W螢雷山 囲H卸 ︵30︶ 即仁ユ一 ωO田竃HUハ門・ぐ弔一閃O︾2︼︾Hト一Φbp鋤旨p一〇〇〇ぴ q口伍 閃同叫bー 一露o 。︸ω﹄旨牢 ︵詳細な文献目録を付している。︶ ・3ぎ評g島目餌い露︾一即筥讐8毎βω﹂O監 ︵詳しい 筏。 くo一訂お魯ぴζ爵魯窪H80︶9図O目やを参照。 一〇①斜導ω。一■一〇. Z国=︼Uω国2”︾犀けq帥一即似叶βづ畠︼⋮U中①o障戊く諦魁ぴω.餌①刈. ・” 一〇㎝どω●図OO−bo一①嚇 力o一ロ一一m厩餌 ωO頃2国国]ワ閏力“ωoげユ坤罵oゲ聞①津 留塁一①のo碧即巳璋。のo鎖δ一ぼ靴①冨﹄員ζ色きαQΦのい●=巴嘗①p 一〇躍りω﹂歯㎝脚︾轟島冨Udζ︾ω”鍔窟δ一①舞一、曹ユg8 一ぶoユ叶①口馨帥瓜①吋o節山旨一昌房酔目蝉缶く9Hb”Uo ζo望Φp ︸αqo ㎝評 ︵36︶ 問厩帥poo一ω■oq一ωの︾Zω頃○閏”○ゲ帥ユΦ目効㊤qpΦ①け 一。仁¢螢αqΦ 餌① ︵5 3︶ 2国調いω国2”︾犀一q騨一律似け仁ロ傷国融①犀臨く即隣“ω。藤①刈臨。 ︵34︶ ︵3 3︶ ω閑d22国勾”∪①日ω3①カ①魯一のαq窃。窯o窪p切き伍炉ω●命O ︵32︶ 曽ロ8−Oぴ。馨冒目αq。﹃萄①ω§げ①︷辞藝︸琶αq鶴&奮。 ωけ臥きもoO2∪国力国OO国園”∪一① 巴昏ooげ山①呉ωoげ①い①図 菊&o累切qO国Z国勾”困①ぎ①¢舜霞讐魯茸αq窪豊伍窪 ( 31 文献の指示あり。︶ 一④㎝憩堕ω’刈Oい ︵25︶ 国一⇒ゲ曽目α一くぽ即囚鋤吋o嵩ζ勢αqp納囚餌O諦o一N9 閃い国O囚国“2ω円閏一Z“閤帥槻一傷①同O同o寓o口b似ωo一5謡oい一口”函郎同一 カール大帝の宮廷における精神生活については、ぢω鉱 ︵26︶ く o b 国 o一 目 q 叶 ω 団 q ζ ︾ ワ ﹃ 2 ︸ U偉のooo一山o同幡 一 〇 ① 貸 ω. 図“ー㎝O● 餌R9島ρ℃①おα艮。冥Φ即ロ且O。の。窯。窪ρゲ①轟仁茜紹Φげ窪 傷①叶Ho一の 餌同一ω叶oo﹃帥一Φo ①O導一〇〇ωuω。Q o刈ー一〇“一 ︵27︶ 勺一Φ目目o 園HO馴両“︼い①㎝ げ一げ旨o叶げ①ρロΦの 一巴oのo餌Ho一哺口αq一①ロω。Hロ一トo竃o﹃Φ口︾αqo 閃山旨臨一〇 山Oω ︷同βびo口 竃一け酔①一帥一酔Φ噌の● Hゲ増 ω①一げψけぐ・Φ残ωけ餌口傷”一の qHF 畠 陶げHo 名一同犀一一〇ゲ犀Φ詐● ︸o帥oげゆヨ <﹃○い[︾ω○=に国一昌Φ郎山一一αq① 一■O㎝刈︶ ωー 一㎝Oー一〇 〇Q Q. H︶一〇餌一酔げOO﹃傷①信一Q oOげ①︻、Φ図一ω騨一一〇卑1 H凱︾目匡く︷辞囚巳冨茜①ω。窪。窪①ω。り ︵28︶ ω什①犠節βω02∪閏園国OO国力” Go い ︵腿︶ Φq ) 出感爵置。げ雪ω鼠筥旨①ωお。窪窪いH巳∪①gω。ゲ①の︾吋。岳<P o gβ山ζ鉢謬傷一一〇ぴ犀①搾一bp]Wo周①一〇げα①同函帥℃津q一曽H一〇β● H⇒一國Φoげけ ω畠毒αq①pじ uゆ&琶︸ω●b。零−曽。⋮2国属5国2”卜吋言巴一聾 =&ω。ぼ5冒霞竃廻属﹂s刈︵”くo旨蝉σq①琶血団o学 =昌α閏い中O即臨く諌餌“ω。蒔刈一■ 中● ︵認︶ ζO囲︷︵Q角b一けq一帥誌即剛層2きωωo餌℃.N①、 ︵肝︶ 竃O国○的も同q︸餌誌餌ど2周●000帥b.一〇・ ︵39︶ Oo創勺費﹃ぶ8旧Oo穿oo叶。O践。認o 。6これについては、 ︵ω︶ ︾口昌帥一Φのい国q噌Oωげ帥ヨΦ口ω①の蜜の頃ωO同一も酔O村①のHりω’ωO. ゆ菊q2Z国刃U窪房畠①即8﹃宏αqΦ胃窯魯富朗9命曾を参照。 ︵岨︶ ζ○=O帥℃即仁一帥凱簿担ZH。鱒OqPαN刈● ︵覗︶ ︿剰一山ρパ一b山くO昌OO博<Φ畷”図①のαq①ωけ帥oω騨図O昌一〇蝉①Ho騨唱。図Hく・ ︵43︶それゆえに、アレマン部族法典は、教会の偽作であるとする見 >HびO津Φ⇔ 国唱門 餌一Φヨ帥”μ一ωOげO口 舅H山ゲαq①o oOげ一〇げ件O一 頃O略僅 H一り 解すら出された。 これについては、ゑ昌箒冒ωO国Z田∪国即” 日ま一お窪ご胡uω﹂8牢を参照。 ︵50︶ ︵51︶ 男ON q 昌 α q Φ⇒ ω O げ Nβ噌Oσ①村円げO一⇒一ωOゲO⇒ピ卑昌αoωαq①ωOげ陣oげ一¢QQ︶, 一〇一融● 霊。貸①匹O頃円い①ω9げ一一〇夢98ω︵註。︾昌琶Rざ轟き︸ ω。 幻信山O開]W¢O頃Z団因”∪一〇即OOげけωρ仁O障①b”ω●“㎝暁・旧閏同帥口ゆO一¢ 2国出いω国Z”︾犀葺巴一感梓●琶傷国瀬ζ貯ぎ甘特にω・&O中 瞳ド い0 9 ω O︾Zω国○問”譲餌ψ ≦帥同Φb 伍一Φ内曽も一け口H帥H一①”り ω。 NQQ 中’ O 9⇒伍 薩一● ζ︵甲頴 ︵∪帥℃一け償一帥嘆一帥 H 2尉。 ︵52︶ 一癖bの’ ω●臨①中. ω・蒔趨い 一ω偶り ]■ωO︶ 一ωO β口山 蝿昌侮 閏︸中O犀陣岡<一什傷けリ 竃︵甲甲︷ O顛℃凶け亘一曽円一餌 一 ZH. ロ⇔伍 国中Φ犀叶一<一け郎け︸ 竃O国 ︵∪帥b一什仁一騨目一鋤 囲 Z門’ Z国頃[ω国Z ”︾犀叶qm一一叶餌一 ︵53︶ 2国頃■ω国Z”>院け信四一一け餌叶 ︵54︶ ︵56︶ リプトに、帰国後加筆し、註を加えて、訳者に送付したものである。 原題は、U一①ヰ浮巳洋Φ巨3岳魯①ロω富匿58お。浮Φ亀ω08一一g 九日関西大学で開催された法制史学会大会において使用したマヌスク ︵妬︶ ℃一①同﹃Φ菊HO国図一いOooげ一ぴ一一〇侍げ①ρ信①oo’ ω.OO 跨● の了承をえて、頭書のように改めさせていただいた。なお、文中の ︷辞臼Φω8芭鴨。。。霞9器伍oω閃β鼻窪邑号霧 であったが、著者 ︹︺内は、訳者の補った部分である。 ︵47︶ これについては、囚與︸頃虫糞けび国国図菊O↓国”くo房器質8ぼ 嘱一P︷四〇昌 一〇刈G Q ︵口Z勉叶博0500 o㎝ 中。 0ご ご帥P蜘 一︶︶ ω9NQ H昌”︾ω℃①一く叶① αの賊2帥け一〇5①bげ臨阜ロロαq 一目 ζ一叶一①一餌一什Φ巴鴇 ω一αQ醤簿− 償昌魁 ωq鴎αQ信旨傷Φ村 一昌 ○ぴΦ哩一叶山冨①口 刈刈療IOONり問博①出り蝿鷺αq 一〇①O ︵閂 ︵48︶国山猛己頃U︾≦胃ωO国閤︾”評き犀ΦP≧Φ目壁冨P︼W昌Φ旨 法規範と法実務 二九一 仁口山 毒Φ門山①口匹 Φ ω ! N O 一 犀 ω げ ① 類 島 駒 叶 の ① 一 昌 陣 目 O o o酔幡以餌⇒騨一のOげΦ⇒ 園O一〇げ’ 訂σ8け⋮一一ぼロヨ一①αQ置葺の①営冨コ①。蜜ヨ一&一。ご目ご98糞ー 創立百周年記念行事の一環としての法学部主催の講演会、並びに十月 ︵即o怜Uび鵠弩の閤醇酔ω魯巳器︶が、一九八二年十月五日早稲田大学 本論文は、西独マールブルク大学ハンス・クルト・シュルツェ教授 訳者の付記 ︵55︶ QO ︵妬︶ 函Op肘帥αω国嘱国勾い国“い①図ゆ帥一q︿蝉村一〇信Hb導ω・﹀︻H図臼 ︵必︶ 一い国﹀︿ ω︾Hq<︾園一〇菊q竃 囲H 一騨 ” OO旨Oω <①NO ωOO似一昌 ( 49 )