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ーも う一つの告白について一
『対話』のルソー 一もう一つの告白について一 昭 山 路 (1) よく知られていることであるが,「告白」の最終巻である第十二巻は,ルソ ーの自作の朗読が,不気味な沈黙によって黙殺されることによって終ってい る。年代史的にいうならば,1771年5月に,この朗読会は,エグモント伯爵夫 人邸で行われており,ルソーはすでに59歳に達している。ルソーはこの前年 に,10年に近い追放と放浪の生活から,ようやくパリに戻り,プラトリエール 街に,居を定めたばかりであった。かれは音楽の写譜と植物採集という,かれ の理想とする,平和で静かな孤独な夢想の生活,かれが長い間,実現すること を望んでいたく大計画〉をふたたびパリで始めようとしていたはずであった。 事実,長い放浪生活の間に,書きっがれてきた「告白』は,この時,いちおう 完成されたと推定されるのであり,ルソーは親しい信頼すべき友入たちにたい して,その草稿を朗読しはじめている。しかしながら,ルソーは,もう一方で は,かれが「告白』を書くことによって求めた,自己の無実と真実との承認 が,他者の敵意と沈黙にょって黙殺されていることを感じないわけにはいかな い。 「告白」第十二巻は,自己をとりまいている暗黒の陰謀にたいする長い, めんめんとした歎きによって書きはじめられ,無言の拒否によって終ってい る。ルソーとかれのく陰謀の観念〉,の問題については,文学史的な立場から 一29一 は,そうした陰謀の実在性について,さらに精神分析的な立場からは,自我と 迫害妄想といった観点にっいて,多くの論考が行われているが,それらの問題 は,この小論においては,直接的な関心の対象ではない。これから,わたしが 考えてみようとすることは,「告白」がなぜ中断され,『対話」というまったく 異なった形式によって,新しい観点からジャンージャックの魂の歴史が書きつ がれなければ,ならなかったかということである。ルソーのいわゆる自伝的作 品とされている三つの作品,「告白」,「ルソー,ジャンージャックを裁く,対 話』,「孤独な散歩者の夢想」は,それぞれの作品が中断をふくみながら,ルソ ーの晩年においてあいついで書きつづけられたのであったが,これらの作品 は,それぞれ異なった形式において書かれている。このことはくありのままの 自己》とはなにかという,自己の内面の探求という一貫した立場が,ジャン= ジャックの生のそれぞれの時点において,自己の体験にそくしてさまざまな角 度から,問いなおされてきたことを意味している。さらにまた,一般的に言う ならば,自伝という形式において真実の自己を語ることの困難さをも示してい ると言えよう。 『告白」の中断と「対話」の成立という問題にたち戻るならば,ロベール・ (1) オスモンも指摘しているように,「対話」執筆の直接的な動機は,たしかに, 「告白』による自己の真実と無実の承認という企図が,沈黙によって否定さ れ,失敗に終ったということであろう。 <わたしの著書を読んだことがなくても,自分の眼でわたしの生まれっ き,性格,品行,性向,楽しみ,習慣を検討して,わたしを不誠実な人間と 考える人があるとすれば,それこそまさに息の根をとめるべき人間である。〉 (2) 「告白」第十二巻 ルソーは聴衆をまえにして,すでに自己の述べてきた真実にたいする異議を 感じているのであり,他入の眼に反映し,他者によってとらえらている自己の 姿に不安を感じている。かれは,一方では信頼しうる,正義と真実を愛する人 一30一 々によって認められることをつねに願いながらも,またもう一方では,他人の 意見の虚しさ,公衆の判断の謬りをおかし易いことを呪わざるをえない。それ ばかりでない。ジャンージャックは,いまや,陰謀という果しないく暗黒のし わざ〉のなかに閉じこめられている。<どんなにもがこうとしても,そのおそ (3) るべき暗黒を見とおすことができないのだ》。かれは「対話』の文章を書きお えたあとでさえ,「この著作に関するその後の物語」という実に奇妙な話をつ け加えなければならない。この物語にしたがえば,かれは「対話」の草稿を他 人に手渡すことができない。かれをとりまいている人間は,すべて敵であり, だれをも信用することはできないのである。そこで,かれは熟慮したうえ,原 稿をノートル・ダム寺院の奥深い祭壇の上に置こうとする。いずれそれが直 接,国王のもとに届けられると,かれは考えるのだ。ノートル・ダム寺院に原 稿をたずさえていくのだが,内陣の祭壇へと通じる通路の柵が閉ざされていて, かれはその目的を達することができない。この通路は,いつもは開いていたは ずなのである。人間だけではなく,神からも遠ざけられていると,かれは思わ ないわけにはいかない。さらに思いたって,古い友人であるコンディアックの もとへ原稿を持参してみるが,この友人からも黙殺されてしまう。思いあぐね て,たまたま訪れてくる英国時代の若い知己,ブーッビーに原稿の一部を寄託 してみるが,この外国人もまた陰謀の一味に加担していると疑ってしまう。最 後の手段として,ルソーは「今なお正義と真実を愛するすべてのフランス人 へ』と題した回状を作成し,街頭で人々に自己の心情を訴えようとして,これ もまた冷やかな拒絶にであうことになる。一言にしていうならば,「対話」 を書いているルソーは,あらゆる手段によって,自己の真実の承認を求めてい るのであり,そうした真実の地上における承認は,あらゆるものから拒否され ている。かれは,友人からも,一般の大衆からも,さらにはなにかの偶然によ って神からも遠ざけられている。かれはく暗黒の壁〉に閉じこめられ,<生きな (4) がらにして埋葬〉されていると感じている。ルソーは,自己の正義と真実が絶 (5) 対的に拒否され,かれ自身の存在は,しかも《全員一致〉によって排除されて いると考えるのだ。 −31一 《人々がわたしを別入と見たいのなら,それがどうだというのだ。わたし (6) の存在の本質はかれらの視線のなかにあるのだろうか。〉「対話』 ルソーはつねに他者の眼を感じ,それを意識している。かれが,真理,正 義徳,愛などを説いている言説は,つねに明晰であり確信と力に充ちあふれ ているのだが,人間について語りはじめると,かれは突如として,曖昧にな り,不明瞭になり,まわりくどくなり,歎息を繰りかえすことになる。「対話』 でも,陰謀とそれをめぐる人間たちにたいしてくだされる観察は,執拗かっ, 晦渋なのである。かれはたしかに,この社会における人間はく外見と本質》と の分裂にひきさかれ,本質から遠ざけられ,疎外されているという確信は抱い ている。入間は,〈利己心〉とく省察〉によって,悪しき判断をくだし,偏見 によって行動している。ジャンージャックという《わたしひとり〉だけが,自 己の真実にしたがって生きているのだ。たしかにそうなのであるが,<ひとり (7 の人間をその自然のままの真実において見せたい〉というかれの希求が充足さ れることは,きわめて困難なのである。かれは最終的な審判を「告白』の冒頭 においては,声を高くして,<この書物を手にして最高の審判者の前に出て行 こ勢と,至高の神に仰ぐことを宣言して・・る.しかし,それ以前に,かれ は,予断と偏見によって,自然の純潔な状態から限りなく遠ざけられている社 会の承認をえなければならない。しかも「対話』を書く時点においては,そう した他者とは,〈全体的》かつく全員一致〉の敵意をもつ他者としてあらわれ ているように思われるのだ。したがって,ルソーは,たとえそうした他者の意 見がどんなに虚偽のものであろうとも,そして,そうした意見によって影響さ れることが,どんなに虚しいことであろうとも,そうしたく暗黒の壁》を打破 し,外見としてあらわれている世論に異議を申し立てなければならない。そし てくわたしの本質は他人の視線のなかにある〉と思われるような,不安と混乱 一ジャン・ゲーノはそれをカフカの不安になぞらえている一から,ジャン =ジャックは脱出しなければならない。 32一 (1) 「告白』を書いていたときのルソーは,そうした問題,つまり読者の判断に たいしてははるかにオプティミストであったように思われる。 <なんとかして自分の魂を読者の眼に透明にして見せたい。そのために, わたしはみずからの魂をあらゆる観点から示し,あらゆる照明によって照ら しだし,読者の眼にふれぬ一つの動きもないように努めている。そうすれ ば,こういう心の動きを生む原理を,読者が自分自身で判断することができ (9) るであろうから。〉「告白」第四巻 ルソーは,たしかに自己の真実を判断することを読者にゆだねている。かれ が願っていることは,自己の魂のあらゆる軌跡を読者に示すことによって,他 者の承認を受けることなのである。しかしながら,どのようにしたら自己のす べてを語ることができるのであろうか。直接的に自己を語ることが,はたして 自己の真実の証しとなりうるのであろうか。こうした疑問は,たえず,自伝的 な作品に向けられていることなのだ。ルソーの同時代の人々,あるいはそれ以 前においても,自伝的な記録は,数多く書かれていたのであり,それらの多く は,たんなるメモワールにすぎず,そこに語られている事件にたいする興味, あるいは歴史的な事実の記録として意味をもっているにすぎない。だからこ (10) そ,ルソーはくわたしはかつて例のなかった仕事をくわだてる。》と断言する のである。ルソーにとっては,なによりもまず,<わたしは自分の心を感じて (11) いる〉という比類のない確信が存在している。しかしながら,そうした確信, すなわち,ジャン=ジャック自身が真実であるという確信はどのようにして, 読者に伝達されるのであろうか。そのことの困難さは,ルソーにとっても十分 すぎるほどわかっているのだ。かれはすべてを語ることによって,<どんなご (12) ともあいまいであったり,隠されていたり〉してはならないと考えている。し かしながら,そうした企図を実現するためには,<わたしの計画と同じような 一33一 新し嗜絡を探求しなければならな・・.《なぜならば,わたしがたえず動か されていた,さまざまな,矛盾にみちた,しばしばとるにたりない,そして時 としては崇高な感情の果しない混沌を整理するためには,どんな口調と文体を (14) 取りあげたらよいというのだろうか〉。「告白」を書くにあたって,すでにルソ ーは,みずからのすべてを語ることの困難を明確に認識している。ルソーがこ こでみずから認めていることは,新しい言語表現の必要ばかりではない。かれ は,みずからの性情と行動の矛盾にみちた特異性をも認めているのであり,そ うした特異な,時としては,みずからによってさえ説明しがたいような,感情 の唐突なあらわれ,あるいは,静と動の両極を含んだような変り易り性格とい ったものをすべて,一貫した自己の真実として提示しようとしている。それは 《わたしの一身に起こったこと,わたしのしたこと,考えたこと,感じたこ (15) と》のすべてを語ることなのである。そして,そうした多様なデテールの断片 のなかから,ひとりの統一一性をもっジャン=ジャックという人間の真実の像 が,綜合されることになるのだが,その役割をルソーは読者にゆだねている。 こうした,いわば危険な賭を なぜならば,ジャンージャックの生はあま りにも矛盾にみちており,読者はあまりにも偏見におちいりやすい一ルソー に可能にしているものは,かれ自身の内面の確信なのである。「対話』のなか で,<自然の画家は自分の心のなかからでなかったら,どこからそのモデルを 引きだすことができたのだろうか。かれは自分が感じるように自然を描いたの (16) だ。〉という自己にたいする確信なのである。ルソーにとっては,<自分の心を 感じること》とは,<自己を知る》ことを意味している。したがって,自己の すべてを語るということは,生のあらゆる詳細な事実を語ることを意味してい るのではない。かれは,中断していた「告白」をふたたび書きはじめるにあた り,自分の過去にたいする記憶が衰えたことを歎きながら,そしてまた,過去 の忠実な記録が失われてしまっていることを明らかにしながら,なお,かれの 確固としたよりどころについて断言している。<それは一連の感情のつながり であり,これがわたしの存在の連続をしるしづけ,また,その感情の原因ある (17) いは結果になった事件の連続をも明らかにするのである》。ルソーにとって心 一34一 の歴史を描こうとすることは,他のいかなる作業にもまして,<自分の感じた こと〉を示せば十分なのであり,自己の感じたことだけが真実なのであり,そ のためには,《ただ自我の内部》に戻っていけばよいのである。 さらに,そうした自己のく感情のつながり〉を描くことは,現在の感情をも 描くことになる。《かつて受けた印象の想い出と現在の感情に同時に自分をゆ だねながら,わたしの魂の状態を二重に,ということはつまり事件が起きた時 (18) 点とそれを書いた時点における状態を描くであろう。〉ルソーは一貫した感情 のつながりによって,たんに自己の歴史を再構成しているだけではない。ルソ ーにとって書くということは,現在の感情に自己をゆだねるということを意味 している。ルソーは,同じ文章のなかで,<いつでも心にうかんだ文体を選 び,無造作に気分によってそれを変更するだろう》と語り,《ひとつひとつの 物事を感じたままに,見たままに,たくまずのびのびと,不統一を気にかけな いで語るだろう〉と書いている。たしかに「告白』には,そうした作者の感情 ののびやかさ,自由な気分,そして甘美な追憶に自己のすべてをゆだねている ような陶酔が読みとられるのであるが,『対話」においては,書いている主体 が,現在の感情と過去の追憶にみずからを自由にゆだねているような,幸福な 一致は見いだされない。 「告白』において,自己の現在と過去を同時に見すえ ながら,二重に自己を語ることに成功したルソーは,「対話』においては,ま ったく異なった方法をとることをよぎなくされている。 それは,《必然的に,わたしが他者であれば,どんな眼で,わたしのような (19) 人間を見るか〉ということであり,一言にしていうならば,他者の眼を設定す ることを,ルソーはよぎなくされている。「対話』では,『告白』のもつ自己 にたいする大らかさとさえ思われるような確信が,あたかも消失してしまった かのようにさえ思われるのだ。『対話」においては,作者はフランス人,ルソ ー,ジャン=ジャックの三人の人物を登場させるが,作者にもっとも近い,と 思われるジャン=ジャックは,直接,語ることはない。フランス人とルソーの あいだでジャンージャックという人物の真実をめぐって対話がなされる。そし て,ジャン=ジャックにもっとも遠い場に,そして,はじめはむしろジャン= −35一 ジャックにたいする反対の世論を代表しているフランス人と,ジャン=ジャッ クにたいする直接の観察者であり,ジャン=:ジャックの心情にたいして深い共 感をいだいているルソーとのあいだに,ジャンージャックの真実について最終 的にはある合意が成立するという展開なのである。したがって,作品の構成か ら見るならば,ルソーは,みずからの自我を三っの人物に解体し・それぞれの 立場の綜合というかたちで,あらためて自己の真実の像を提出してみせようと している。 こうした「対話』における方法の転換は,いかなる理由によるものなのであ ろうか。すでに述べてきたように,ルソーほどこの時代において,自伝を書く にあたり,そのことを意識し,その方法と文体について,意図的であった人は すくない。したがって本来,書きつがれるべき予定であった「告白」が中断さ れ,あらためて,まったく形式の異った「対話」という作品が書かれなければ ならなかったとしたら,そのことの理由は,「告白』の展開のなかに求められ るべきであり,はじめは,『告白」を書くことによって充たされていた作者の内 的欲求が,『告白」という作品の形式のなかで,やがて十分には充たされなくな っていったということであろう。r告白』の第一部において描かれているもの は,幼少時代から青春にいたる魂の形成の歴史であり,そnはまた同時に現在 の時点からの過去にたいする純粋でけがれのない美しい追憶でもある。そして そうした追憶が,トータルな意味での生の体験として,作者を支えている。さ らに,それはルソーのあらゆる営為の根源にあるものであり,作者が自己の内 面にたち戻っていくとき,つねに見いだされる,あの原初の感情でもある。し たがってルソーはくたえず新しいよろこびをもってそこにたち帰り,心ゆくま でに謎すすめ鴇ことができたのであ。た.しかしながらかれが死に到るま で,繰りかえしてその不幸と,それがもたらした運命を歎くことになるパリで の文学生活を描こうとするとき,すでにそうした喜びは消えようとするのだ。 第二部において展開されているのは,第一部のそれが美しい魂の遍歴の物語で あったのにたいし,同時代の現実の社会における自己の反抗の歴史なのであ る。かれが自己の真実と正義について語ろうとするとき,かれはたえずく不 一36一 幸,裏切り,不信》といった社会の虚偽と偏見に直面しなければならず,現実 のルソーはたえず他者の敵意に脅迫されていなければならない。この第二部の 書き出しの部分にすでに陰謀にたいする妄想がはじめて語られている。<頭の 上の天井には眼があり,まわりの壁には耳がある。いじわるで油断もすきもな (21) いスパイや見張りにとりかこまれて,不安で気分も統一できない。〉とルソー は書かざるをえない。「告白』第二部を書いているときのルソーは,遠い,すで に透明なものとなっている,あの過去の追憶にすべてをゆだねるわけにはいか ない。パリの社交界のさまざまな事件は,たえずかreの意識を混濁させ,かれ の意識のなかに確信としてあるような統一性を分裂させようとする。「告白」 という作品の意図と形式が,ルソーが自己の内面の源泉に近づこうとして,幼 少時代や青春の記憶をよび戻していったとき,きわめて幸福な一致を見いだし ていたにもかかわらず,ルソーの文学的な反抗をあらわそうとするとき,そう した幸福な統一性は失われることになる。第一部において,生の体験のレベル において追求された統一性は,第二部においては,思想のレベルにおいても求 められなければならない。ジャンージャックという特異な矛盾にみちた性情の 人間の統一だけではなく,ジャン==ジャックの生と思想の統一が,要求される のである。そうした観点からみたとき,「告白』の記述はたしかに不十分なの であり,それがそのまま「対話」の主要なモチーフとなって,ルソーの自伝が 書きつづけられていくのだと言えよう。 (皿) 「告白』第二部の記述のなかで,ルソーが自己の文学的主体の確立にっいて ある日突然おとずれた啓示のことを物語っている部分は,もっとも印象深いも ののひとつである。「告白」にさきだって書かれた,「マルゼルブ氏への手 紙」とあわせ読むならば,ルソーがヴァンセンヌへの途中で,『メルキュー ル・ド・フランス」のなかにディジョンのアカデミーの懸賞論文の題目を発見 したときの,めくらめくような感動は,十分にわれわれを納得させるのであ る。ルソーはまさしくその瞬間に,かれの文学的な営為の根本的な原理を見い 一37一 だしたのであり,この時から,かれの精神の内奥で,混沌とし,未分化の状態 にあった真正の感情が,一定のかたちをあたえられ,真理と自由と徳にたいす る情熱として激流のように噴出することになる。ルソーと世界との関係は一変 したのである。<これをよんだ瞬間,わたしは別の世界を見,別の人間になっ (22) たのである。〉というルソーの言葉を,そうした創造の秘密を明きらかにした ものとして考えるならば,それをルソーにかぎられた独自の体験とすることは ない。しかし驚くべきことに,ルソーは,そのすぐ後でくそしてこの瞬間か ら,わたしは破滅してしまったのである。これ以後のわたしの生涯とさまざま (23) な不幸は,すべてこの錯乱の瞬間の必然的な結果なのだ。》と書くのである。 (24) ルソーは, 「告白』の第九巻においても, 「学問芸術論』の成功によって,か れが参加することになった文学生活について,同じように書いている。《それ までは,わたしはただ善良であった。これ以後,わたしは有徳となる。……こ の心の高揚が極点に達していた少くとも四年間は,人間の心に宿りうる偉大か つ崇高なもので,わたしの力におよぼぬものは天とわたしのあいだで,なにひ とっなかったのである。〉しかしながらルソーは,こうした状態は,<わたしの 本悔とは正反対の状態》であり,<わたしが別人となり,わたし自身であるこ とをやめた》時期なのだと断言する。事実,かれは死に到るまで書きつづけら れた自伝的作品のなかで,繰りかえし,みずからが選ぶことをよぎなくされた 文学者としての生を,言うならば自己のそうした宿命を,取り返しのっかない 不幸として,歎くことになる。「告白』においてもく以来,わたしの魂は振子 のように静止線の右左をゆれ動くことしか知らず,たえずくりかえされる動揺 (25) は,魂が静止線にとどまることを許さなかったのである。》とかれは書いてい る。しかしながら「告白」を読んでいるかぎりにおいては,かならずしも, 〈わたしが別人になり〉,《わたしの本性とは正反対である〉状態とは,いかな ることを意味するのか,つまびらかではない。すでに述べたように,ルソーは 「告白』においては,かれの本性を一変りやすく矛盾にみちた一あらわ す,多様なエピソードを提出しているのであるが,そうした多様なデテールの 再構成と一貫したジャンージャックの像の決定は読者の判断にまかせられてい _38一 る。それのみならず,ルソー自身が・みずからの徳への陶酔と自己の本性との あいだの矛盾を明確につかみきっていない。なぜならば,かれが「学問芸術 論』を書き, 「不平等起源論』を書いて・自己の体験的な思想をより明確なも のにしていった事実は,一方では「告白』の記述をそのまま信ずるならば・た しかに徳への陶酔による激流のような,かれの根源的なイデーの噴出であった ことも確かなのである。 スタロバンスキーは,こうしたジャン=ジャックの《革命〉について次のよ うに語っている。《自然と道徳の抽象的な概念を擁護し,さらに自己の理想の 実存的な実現を求めながら,ルソーは自己の固有な経験的本性との矛盾におち い響1》「舶」繕きながら,ルソーの願。ていることは泊己の内部にたち 戻っていくこと,本性への回帰なのであるが,かれはもはや書くことを通して しかそのことをなしえない。《それまでは,わたしは善良だったのである。〉す なわち,ルソーはくもしわたしが,そう生まれついたように,いつまでも自由 で,無名で,孤独であったとしたなら,わたしは善いことばかりしていたであ ろ聡と「夢想」のなかで歎くように,純粋でまじりけのない,直接的に自己 を享受しうるような書くことを必要としない生は,もはや追憶のなかにしか存 在しえない。しかしながら,そうした自己がありのままの自己でありえたよう な幸福の追憶こそ,ルソーのあらゆる文学的営為の根源としてあるものなので あり,それは,怠惰で,無為な,孤独の夢想のうちにこそはぐくまれたもので あった。 しかしながら,ルソーの文学的主体の確立は,放浪と孤独の夢想とは,はる かに遠い,異なった地平においてなされているのだ。「学問芸術論』において, かれは,きびしくパリの社会を攻撃する。 <いっそう精緻な研究といっそう繊細な趣味とが,ひとをよろこぼす術を 道徳律にしてしまった今日では,つまらない偽りの画一性が,われわれの習 俗で支配的となり,あらゆるひとの精神が,同一の鋳型のなかに投げこまれ ているかに思われる。たえず上品}が強要され,礼儀作法が命令している。 −39一 つねにひとびとは,自己本来の才能ではなく,慣習にしたがっている。ひと びとはもはや,あえてありのままの姿をあらわそうとはしない。こうした不 断の強制のなかで社会とよばれる群を形成しているひとびとは,同じ環境の なかに置かれると,いっそう強力な動機によって方向をそらされないかぎ (28) り,まったく同一のことをなすであろう。》 ルソーにおける疎外の問題についての,基本的な展望が,この文章のなかに すでにあらわれている。現実の生のレベルにおいては,ルソーは,パリの社会 生活に,困惑し,とまどい,たえず抑圧を感じている。ルソーの前半生は, 田園における放浪と夢想の生活であり,素朴で,自由なものであり,ジャン ージャックは,勝手気ままに,自分の流儀で,自己を享受していたのであっ た。ところが,パリという都市での,洗練された礼節と趣味にしたがった社交 (29) 生活は,《俗社会にあってはすべてが拘束となり,義理となり,義務となる〉 のであり,ルソーにとっては耐えがたいものである。ルソーは,自己の性情と 本来的な性向によって,そうした社会に対立しているだけではない。かれは, いまや思想のレベルにおいても,そうした社会を許容できないのだ。そこで は,ルソーが主張するように人間の本性は,絶対的に善良なものと考えられて いたわけではなく,本質と外観(etre et Paraitre)のあいだの中間的な存在と して社会に生きている。人間の内奥の情念は,あしきものとされ,理性による きびしい統御が要求されており,それゆえにこそ,礼節と趣味が求められてい たはずである。そうした時代の道徳にたいして,ルソーは真向から対立し,そ れを全面的に否定しようとする。かれは生きかたのうえで,まず本質と外観が 一致すること,ありのままの自己であることを願っている。さらに,そうした 人間における分裂が,同時代の哲学や思想をまったく画一的な無力なものに し,真実の言葉がそこから失われていることを,激しく攻撃している。したが って,かれは書くことによって,自己の言説が真実であることを証明しなけれ ばならない。さらに,自己の言葉がありのままの自己の表出であることをも証 明しなければならない。「学問芸術論」の著者は,古代の徳の讃美者なのであ 一40__ る。かれは,いわゆるく自己革命〉によって・まず第一にみずからが独立した 自由な生活者であることを誇示して見せる。自己の生きかたと思想を一致させ ようとする願望,自己のく理論と行動〉を一致させようとする試みは,まず外 見からはじめられることになる・しかしながらこうした奇妙な試みが成功する はずはなく,理論と行動の一致をやはり書くことによってしか証明できないの である。スタロバンスキーは,<もしルソーが究極的には,かれの変り易い本 性に戻ることを願っているとしても,そして感覚と直接的な感情の支配に自己 をゆだねることを願っているとしても,もはやそのことを純粋に享受すること はできないであろう。だからこそ書かねばならないし,言葉と文学の媒介を通 (30) 過しなければならないだろう。〉と言っている。 事実,パリにおいて書くことをはじめたルソーは,パリという社会におい て,自己がく本質と外見〉を分裂させられることをよぎなくされていることを 見いだしたのであり,さらにまた,そうした疎外の問題を自己の存在の問題と して社会に提出することによって,社会全体に対立している。すなわち,書く という行為が,本質的には自己の分裂をいやすための行為であるとしても,ル ソーはそのことによって社会にたいし,全存在を賭けて対立しなければならな い。ルソーの理論的な著作は,そうした社会の本質的な矛盾と人間疎外にたい し,自己の内奥にある真正な感情を噴出させ,それに一定の形をあたえるとい う積極的な心情の吐露という性格をもっている。それに反して,自伝を書いて いるルソーは,そうした反抗の結果として追放され,迫害され,社会のなかで 孤立することをよぎなくされた自己の宿命を,歎息し,呪いながらも,それを 自己の本性に由来するものとして,究極的には受容しようとしている。 (N) 『対話」が書かれた時点において,ルソーは,まさにそうした迫害の極みに 置かれているのであり,「夢想』が最終的な諦念と受容を描きだしているとす れば,ルソーはr対話』という作品を書くことによって,そうした自己の宿命 の究局の受容に到達しえたのだとも言えよう。冒頭で述べたように「対話』 _41一 は,「告白』によるジャンージャックの真実の承認が沈黙によって拒否された とき,あらためて『告白』と異なった方法によって読者の承認をえようとする 意図によって書かれている。なおそれに加えて,ルソーはたしかに,パリ,フ ランス,ヨーロッパの全体が一致してかれに敵対しているかのように感じてい る。たとえ,そうした陰謀が現実のものであれ,あるいはそうでなかろうと も,陰謀は,ルソーにとって,かnに対する敵意,誤解,偏見,迫害といっ た,かれをこの社会から疎外し,排除しようとするものの,いっさいを集約し ている。<わたしの知らない,また理解できないひとつひとつの動機について 考えることはできないから,すべての動機を包括できる一般的な仮説のうえに (31) たって論をすすめること〉であると,ルソーは「対話」の冒頭において,かれ の立場を表明している。さらにまた,かれは《必然的にわたしが他者であれ ば,どんな眼で,わたしのような人間を見るかということを語らなくてはなら (32) なかった。〉とも書いて,他者の視点からジャン=ジャックを見ることの必要 性をも明きらかにしている。そして,一般的な仮説として推論された,陰謀の 論理は,ルソーが置かれている,反抗しがたい宿命を,社会の排除の論理の もとに明きらかにする。また,他者の眼の設定は,他者の偏見をく利己心〉 (amour propre)の原理に還元することによって,〈自己愛〉(amour de soi) によって行動する,<自然人》ジャン=ジャックの真実をより確実なものとす ることになる。(こうした「対話」の問題については,稿を新しくしたい。)そ して,ルソーの自伝的作品の本来のモチー7から言うならば,「対話」はあく までも,かれの変りやすい本性の一貫性,そしてさらにはかれの本性と作品の 統一性を,「対話」独自の視点から解明しようとしたものであることは言うま でもない。そして,そうした探求のうちから,ジャン=ジャックの真実がなお 確固たるルソーの確信として,なにものにもかえがたいものであることが確認 されたとき,そして同時に,他者の敵意,偏見がいかんともしがたいものとし て確定されたとき,《こうしてわたしは地上でたったひとりになってしまった。 (33) 自分自身のほかにはともに語る相手もない。〉という,最終的な諦念と受容の 世界が開かれることになるのである。 −42一 ︶︶︶ ︶ ︶ ︶6 ︶︶8 ︶︶︶ ︶ ︶ ︶︶1 ︶︶︶ ︶ ︶ ︶ ︶︶5 ︶︶︶ ︶ ︶ ︶1 ︶︶1 ︶9 ︶ 20212223 1 3︵ 4︵ 5︵ 1︵ 0︵ 1 1︵ 3︵ 1︵ 4 6︵ 1︵ 7︵ ︵2 ︵︵ ︵7 ︵︵9 ︵︵ ︵1 ︵︵2 ︵︵ ︵1 ︵︵1 ︵︵ ︵8 ︵︵︵ 註 Robert Osmont:In〃oduction des Dialogue&0. C.,1. Confessions, liv. X旺.0. C.,1, P.656. Co卿∬ions, liv.)皿.0. C.,1, p.589. Dialogues, 1.0. C.,1, p,706. op. o舐, p.665. (∼ρ.cit., P.985, Confessions, Iiv. 1,0. C.,1, P,5. Ibid. Co吻∬ions, liv. IV.0. C.,1, p.175. Co吻∬ions, liv. 工.0. C。,1, P.5. 乃id. Co嘘∬ions, liv.皿.0. C.,1, P.59. Ebauches des Confessions,0. C.,1, p.1153, ∬bid. Confessions, liv. IV,0. C.,1, p.175, Dialogues, Ir. P.936. Co碗∬ions, Iiv. V旺.0. C。,1, p,278. Ebauches des Confessions,0, C.,1, p.1154. 1)ialogeces, 工.0. C.,1,665. Confessions, Iiv. V旺.0. C.,1, p.279. Ibid. Confessions,1iv. N皿.0. C.,1, p.351. Ibid. Co吻∬ions, liv. IX,0. C.,1, p.417. 乃id. Jean Starobinski:ノLJ.1∼ousseau la transi》arenceθ’1’obstacle, P.75. R動θ7げθ5,6 eme promenade.0. C.,1, p,1057. 1万scours secr les sciences et 1θε ar ts.0, C.,1江. p.8, 1∼everies,6 eme promenade.0. C.,1, p.1059. Jean Starobinski:0ρ. cit. P.75. 1万alogues, 1.0. C.,1, p.663. op. ci彦。 p.665. 1∼everies,1 ere promenade。0. C.,1, p.995. 一43一