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WIJC141109救いのサンプルとして生きる

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WIJC141109救いのサンプルとして生きる
2014 年 11月9日 タイトル:「
タイトル:「救
:「救いのサンプルとして生
いのサンプルとして生きる」
きる」
聖書:
聖書:第1テモテ1
テモテ1章11-
11-16節
16節
序
論
●私たちは、
たちは、先週、
先週、井上薫先生ご
井上薫先生ご夫妻をお
夫妻をお迎
をお迎えして、
えして、素晴らしい
素晴らしい主
らしい主の恵みと祝福
みと祝福にあずかった
祝福にあずかった。
にあずかった。
●日本の
日本の歴史の
歴史の中で、大出世を
大出世を果たした最
たした最も有名な
有名な人物と
人物と言えば、
えば、何と言っても「
っても「豊臣秀吉」
豊臣秀吉」であろう。
であろう。
彼については
については、しばしば「
しばしば「草履(
草履(ぞうり)
ぞうり)取りが天下取
りが天下取り
天下取りになった」
になった」と言われるが、
われるが、織田信長に
織田信長に仕える足
える足
軽であった下級民
であった下級民が
下級民が、ついには、
ついには、国のトップに立
のトップに立つという前代未聞
つという前代未聞の
前代未聞の出世であ
出世であった
であった。
った。
●しかし、
しかし、それに勝
それに勝るとも劣
るとも劣らない奇跡
らない奇跡が
奇跡が、精神的、
神的、霊的な
霊的な事実と
事実として、
して、井上薫
井上薫先生の
先生の生涯に
生涯に起こった
のである。
のである。
1.かつては、
かつては、麻薬で
麻薬で心も体もボロボロ、
もボロボロ、ずたずたにされ、
ずたずたにされ、最低な
最低な世界に
世界に生きていた。
ていた。
2.誰かが自分
かが自分を
自分を殺そうとしているのではないか
そうとしているのではないか、
のではないか、警察が
警察が踏み込んでくるのではないか
んでくるのではないかという
のではないかという幻覚
という幻覚
と幻聴から
幻聴から来
から来る恐怖に
恐怖に絶えずさいなまされていた
えずさいなまされていた。
いた。
3.夜も寝られず、
られず、寝ていても片手
ていても片手に
片手に日本刀、
日本刀、もう片手
もう片手に
片手に出刃包丁をいつも
出刃包丁をいつも持
をいつも持っていなければ落
っていなければ落ち
着かない状態
かない状態であった
状態であった。
であった。
4.やくざとして、
やくざとして、親戚からは
親戚からは嫌
からは嫌われ、
われ、迷惑がられ
迷惑がられ、
がられ、いとまれ、
いとまれ、果ては、
ては、一般の
一般の人々だけでなく
人々だけでなく、
だけでなく、
ヤクザの
ヤクザの仲間たちから
仲間たちからさえ
たちからさえも
さえも、麻薬常用者
麻薬常用者として
用者として見捨
として見捨てられて
見捨てられて行
てられて行った男
った男であった。
であった。
5.それが
それが、今はどうだろう
はどうだろうか
だろうか?! 「先生、
先生、ぜひ来
ぜひ来てください」「
てください」「お
」「お話を聞かせてください」「
かせてください」「うち
」「うちの
うちの
息子を
息子を助けてください」
けてください」などなど、
などなど、引っ張りだこで、
りだこで、教会から
教会から、
から、個人から
個人から頼
から頼まれ、
まれ、招かれ、
かれ、国内
外の学校、
学校、刑務所、
刑務所、少年院、
少年院、リハビリ施設
リハビリ施設を
施設を訪ねて、
ねて、証しし、
しし、講演しておられる
講演しておられる。
しておられる。
6.自分を
自分を、また、
また、人をダメにし
をダメにし、
にし、周囲の
周囲の人々に
人々に迷惑をかけ
迷惑をかけ、
をかけ、社会の
社会の厄介者だった
厄介者だった男
だった男が、今やその
人々にとって
人々にとって憧
にとって憧れであり、
れであり、頼りであり、
りであり、希望であり、
であり、正に宝になったのである。
になったのである。
7.それは、
それは、イエス様
エス様がなさった奇跡
がなさった奇跡である
奇跡である。「
である。「だれでも
。「だれでもキリストにあるなら、
トにあるなら、その人
その人は新しく造ら
れたものである。
れたものである。古いものは過ぎ去った。
った。見よ。すべてが新しくなったのである」
しくなったのである」(Ⅱコリント5
リント5
の 17)と聖書が
聖書が言っているとおりである
っているとおりである。
である。
●このような奇跡
うな奇跡は
奇跡は、井上先生だけでなく
井上先生だけでなく、
だけでなく、キリストを信じるたくさんの人々
るたくさんの人々、
人々、否すべての人々
ての人々の
人々の生涯
の中に起こった。
こった。有名な
有名な例は、世界的に
世界的に知られているジョン・ニュートンと
トンと言う人物である
人物である。
である。
1.彼は、かつて、
かつて、個人生活では、
では、女と酒に溺れ、仕事の
仕事の世界では
世界では、
では、父親から譲られた仕事
られた仕事とは
仕事とは言
とは言
え、人をまるで家畜以下のように扱う血も涙もない「
もない「奴隷売買」をしていた男
をしていた男であった。
であった。
2.しかし、
しかし、彼もまた奴隷売買船での航行中、
行中、大嵐の中でイエス様
エス様によって、
って、その生涯
その生涯をまったく
生涯をまったく
変えられた。
えられた。過去のすべての罪を赦され、
され、神の子とされ、
とされ、新しい生涯
しい生涯へと踏み出したのである。
したのである。
3.クリスチャンとなった彼
ンとなった彼は、その後、牧師となり、
となり、また教界
また教界のリ
教界のリーダーとしても活躍。教会を
教会を
通して人々
して人々に
人々に仕えただけでなく、
えただけでなく、
4.ウィリアム・ウィ
アム・ウィルバーフォースを助けて 18 世紀英国の奴隷解放運動を通しても、
しても、社会の
社会の変
革・改革に大いに貢献す
貢献する人物となった
人物となった。
となった。
5.彼が自分の
自分の人生を
人生を振り返って作った歌が、世界中の
世界中の人に知られる、
られる、あの有名
あの有名な
有名な賛美歌 Amazi
Amazing
Grace である。
である。
●神様がなさること、
がなさること、その救
その救いのみ業は、「Amazing Grace」としか言
としか言いようのない、
うのない、考えられないよ
うな神
うな神の愛と恵みと力による奇跡の
奇跡の業である。
である。
●そして、
そして、それは、
それは、聖書の
聖書の中に記される使徒パウ
使徒パウロに顕された救
された救い業(わざ)
わざ)をも思い起こさせる。
こさせる。
●今日は
今日は、そのパウロが自らの救
らの救いを語る聖書の
聖書の箇所からメッセージを頂きたい。
きたい。
1.確かに、
かに、救いの現れとしては、
れとしては、私たちほとんどが
とんどが経験した救
した救いは、
いは、井上先生、
井上先生、ジョン・ニュー
トン、
トン、更には、
には、使徒パウ
使徒パウロのような「
うな「劇的」な要素は無かった、
かった、或いは少
いは少なかったかもしれない
なかったかもしれない。
かもしれない。
2.しかし、
しかし、その本
その本質において、
において、すなわち、
なわち、罪びとが、
とが、ただキリストの十字架によって、
って、その罪の
すべてを赦され、
され、神様の子とされ、
とされ、造り変えられた
えられたという
れたという事実
という事実においては
事実においては、
においては、まったく同じである。
である。
3.神様は、この聖書
この聖書の
聖書の箇所から、
から、私たちが
たちがそのことをしっかりと学
そのことをしっかりと学び、掴んで欲しいのである
しいのである。
のである。
4.即ち、私たち一人一人
たち一人一人が
一人一人が、その本
その本質において、
において、パウロとまったく
ロとまったく同じ、遜色のないイエス様
エス様の
十字架による救いを持
いを持っていることを自覚
っていることを自覚し
自覚し、確信し、感謝し、伝えて欲しいのである。
しいのである。
1
本
論
Ⅰ.キリストによる救いの本質の第一は、キリストに出会う前私たちは、みな罪人であったという事実である。
A. 13 節でパウロは言う。「私は以前は、神を汚す者、迫害する者、暴力をふるう者でした」と。
1.言うまでもなく、
うまでもなく、これは、
これは、パウロが、あのダマスコと言う町に行く途中で、イエス・キリス
トとの劇的な出会いを
出会いを経験す
経験するまで、
るまで、神様に対してしていたことを
してしていたことを振り返って述べている言
ている言
葉である。
である。
2.彼は、イエス様
エス様を神様の御子、キリストと信
トと信じられない自
られない自らを、
らを、むしろ正しい道、正しい生
しい生
き方と信じ、逆にイエス様
エス様を信じ、クリスチャンと呼ばれる群れに加わる人々
わる人々を
人々を異端として、
として、
中央政府からの権威を受けて、
けて、次から次と捕縛し、投獄し、暴力的拷問にかけ、
にかけ、死刑にまで
追いやるという激しい迫害を加えていた。
えていた。
3.これこそが、
これこそが、彼が犯してきた罪であった。
であった。彼は、知らなかったかもしれないが、
らなかったかもしれないが、神様の道に
反逆し、背いていたのである。
いていたのである。
4.その自
その自らを振り返って、
って、自らを罪人であると呼ぶことをはばからなかった。
ことをはばからなかった。15 節を見ると、
ると、
そのことはっきり分
そのことはっきり分かる。
かる。即ち、彼は言う。「キリストイエスは罪人を救うために来られ
た。・・・私はその罪人のかしらである」
のかしらである」と。
B. 私たちのほとんどは、パウロのような形で、神に逆らって歩んできたという経験は持たないであろう。
1.しかし、
しかし、私たちすべては、
ては、教会を
教会を迫害したパウロや、
ロや、奴隷商人であったジョンや、
ンや、ヤクザで
あった井上先生
あった井上先生たちとは
井上先生たちとは、
たちとは、形は違っても、
っても、同じように神
うに神様に逆らい、
らい、神様に背いて歩んで来
んで来
たのである。
たのである。これが聖書
これが聖書のメッ
聖書のメッセージである。
である。
2.思い出して頂きたい。
きたい。ルカ 15 章に記されたあの「
されたあの「放蕩息子と
息子とその兄」の物語を。
(1)弟は父親の財産をひったくる
をひったくるように奪い、それを女に、ギャンブルにと湯水のように使
い果たしてしまい、
たしてしまい、全財産を失い、友達からも見捨
からも見捨てられ
見捨てられ、
てられ、身も心もボロボロになった。
もボロボロになった。
(2)一
(2)一方、兄は、父親の元に残り、まじめな生活を送り、表面上は忠実に父に仕えて働いた
のである。
のである。
(3)しかし、
しかし、聖書のメッ
聖書のメッセージは、その二人ともが、
ともが、表面的な形においては、
においては、正反対に違っ
ていても、
ていても、その心
その心は、同じように、
うに、父親から離れ、父を悲しませていた罪びとであった
と告げる。
(4) 罪には、
には、放蕩息子型(ふまじめ型
じめ型)の罪と、パリサイ人
リサイ人型(まじめ型
じめ型)の罪とがあるのであ
る。形は違っても、
っても、どちらの人々
どちらの人々も
人々も、神様の心を痛め、悲しませているのである
しませているのである。
のである。
3.それゆえ、罪の深さは私たちがどんな
たちがどんな悪をしたかではない。
したかではない。むしろ、
しろ、罪の深さ、罪の本質は
神の御心を痛めること、
ること、そのものの中
そのものの中にあるのである
あるのである。
のである。
(1)それが
(1)それが人殺
それが人殺や
人殺や、銀行強盗のような社会
うな社会を
社会を巻き込むような、
うな、いわゆる大罪であれ、
であれ、
(2)妬みや恨みから友人・家族の心を傷つける汚い言葉を吐く、あるいは、
あるいは、嘘・偽りを言
りを言う、
など、
など、日常に
日常に見られるような罪であっても、
であっても、
(3)神の前には同じ罪であり、
であり、神様の御心を痛める罪であり、
であり、その救
その救いのためにはイ
にはイエス様
エス様
を十字架につけるしかない「
につけるしかない「大罪」なのである。
なのである。
(4)即ち罪とは、
とは、形がどうであれ、
がどうであれ、神に従わない心
わない心の傲慢とかたくなさであり
とかたくなさであり、
であり、神に従わな
いすべての思いと行
いと行為であり、
あり、神を神としない心
としない心の冷たさ、
たさ、更には神
には神への無関心である。
である。
(5)それゆえ、パウロは、「
ロは、「ユダヤ人
ダヤ人にも、
にも、ギリシャ人にも、
にも、神に対する悔い改め・・・をは
っきりと主張
っきりと主張したので
主張したのです」と言った。
った。注目したいのは、
したいのは、彼が、第一に
第一に主張したことは
主張したことは、
したことは、人
に対する悔い改めというより、神に対する悔い改めであったことである。
であったことである。
4.先日、
先日、井上先生の
井上先生の話しを聞
しを聞いた後の交わりで、
わりで、二人の人が期せずしてこのように言
うに言われた。
われた。
(1)一人
1)一人の
一人の方は:「私
:「私は、井上先生の
井上先生のお話を聞きながら、
きながら、先生の
先生のようなヤクザにはならなかっ
た。ドラッグもしなかった。
もしなかった。でも、
でも、同じことを神
ことを神様の前にしてきたんだ。
にしてきたんだ。同じ罪の苦し
みを通って来
って来たんだとしみ
んだとしみじみと感じた」と言われた。
われた。
(2)もう
(2)もう一人
もう一人の
一人の方は:「井上先生
:「井上先生のお
井上先生のお話
のお話を聞きながら、
きながら、私は信仰を持つ前に、長い間、罪につ
いて誤解していた
していたことを思い出した。
した。当時、私は、罪人と呼ばれるようなそんな悪いこ
2
とはしてこなかった。
とはしてこなかった。私は罪人と呼ばれるようなそんなに悪い人間ではないと
人間ではないと思ってい
た。でも、
でも、神様の前にはみな同じ罪人なんだと分
なんだと分かったとき、
かったとき、十字架の意味が分かった。
かった。
私にもイエス様
エス様の十字架が必要だと分
だと分かった」
かった」と言われた。
われた。
5.人はみな、
はみな、等しく神
しく神様の前に罪人なのである。
なのである。
Ⅱ.キリストによる救いの本質の第二は、その罪人をイエス様は愛しておられるという事実である。
A. この世の常識、人間の通常の性(さが)から言うなら、罪人は愛されない、むしろ嫌われるのである。
1.井上先生のことを
井上先生のことを思い出して頂きたい。
きたい。先生が
先生が麻薬に
麻薬に手を出して、
して、ボロボロになり、
ボロボロになり、苦しん
でいたとき、
でいたとき、即ち一番助けを必要としていたとき、
としていたとき、ヤクザ仲間
ヤクザ仲間さえも
仲間さえも彼
さえも彼から離れて行
れて行った。
った。
2.あの放蕩息子のことを
息子のことを思い出して頂きたい。
きたい。お金があったとき、
があったとき、彼のそばにいると良いこと
があると思えるとき、
えるとき、彼の周りにはたくさんの友人がいたかもしれない。
がいたかもしれない。しかし、
しかし、一旦彼が
落ち始め、金もなく、
もなく、惨めになったとき、
になったとき、誰一人彼に
誰一人彼に近づく人も、助けようとする人もいな
かったとある。
かったとある。
3.なぜか? 残念なことであるが、
なことであるが、人は自分にとって
自分にとって役に立つと思う人には喜んで近づくが、
くが、
あまり役に立たないと見
たないと見るや、
るや、色々と言い訳をしながら徐々に離れて行
れて行く。
4.ましてや、
ましてや、そんな人
そんな人と付き合っていたら、
っていたら、自分に
自分に都合の悪いことが起
いことが起こる。
こる。とんでもない火
の粉が自分にも
自分にも飛んでくると思うとき、
うとき、急いで離れていくのである
れていくのである。
のである。
B. しかし、イエス様はその正反対であった。罪人に近づかれるのである。罪人のところに来られるのである。
1.15 節でパウロは言
ロは言う。「キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世
にこの世に来られた」
られた」と。
2.イエス様
エス様は天の父の元におられた。
におられた。この世
この世に来る必要も義務もなかった。
もなかった。地上にくるように
誰かに命令されたのでもない。
されたのでもない。たまたま地上にいたのでもない。
いたのでもない。わざわざ来
わざわざ来られたのである。
られたのである。
3.人間的な
人間的な言い方をするなら「
るなら「好き好んで」
んで」来られたのである。
られたのである。
4.なぜか?
なぜか? たった一
たった一つの理由であった。
であった。それはイ
それはイエス様
エス様が罪人を愛されたからである。
されたからである。
5.再び井上先生のことを
井上先生のことを思い出して頂きたい。
きたい。義理人情で結ばれているはずのヤクザ仲間
ばれているはずのヤクザ仲間でさ
仲間でさ
え彼を見捨てて
見捨てて行
てて行く中、彼を最後まで見捨
まで見捨てなかったのは
見捨てなかったのは誰
てなかったのは誰か? 彼の両親である。
である。なぜ
か? 彼を愛していたからである。
していたからである。
6.しかし、
しかし、その親
その親の愛さえそれ以上何も
上何もすることができなかったが、
ることができなかったが、イエス様
エス様の愛は、
(1)天
(1)天からわざわざ降りて来
りて来て、私たち罪人の住むヤクザな世界
ヤクザな世界に
世界に入り込んで、
んで、
(2)私
(2)私たちの犯した罪の始末を付けるために、
(3)私たちの身代わりになって、
わりになって、小指どころではない、
どころではない、心も体も何もかもを十字架の上で、
(4)神
(4)神と人との前
との前に差し出し、さらけ
さらけ出して、ボロボロ、
ボロボロ、ズタズタにされて、
タにされて、
(5)私たちの罪をあがない、
をあがない、救ってくださったのである。
ってくださったのである。
C. スコット・ローレンスと言う人がいた。
1.彼は、今で言うホームレ
ームレスで、働くこともせず、
くこともせず、乱れた生
れた生活の中で、食べるところ、
るところ、住むと
ころがなくなると救世
ころがなくなると救世軍のシェルターに身を寄せ、食事をもらって生
をもらって生きていた
きていた。
2.そして、
そして、そのたびに福音のメッセージを聞き、イエス様
エス様を受け入れるのであるが、
れるのであるが、そこを離
れるとまた元の生活に戻ってしまう。
ってしまう。それを繰り返していた。
していた。
3.しかし、
しかし、そんな彼
そんな彼が、そんな彼
そんな彼をも変わらずに愛されるイエス様
エス様の愛に目覚めるとき、
るとき、変え
られていく自分
られていく自分を
自分を発見し、それを歌にした。
にした。
4.そのテーマは、こんな罪人の私さえ愛する神様の愛による救いであった。
いであった。彼は歌う:
1、われは思
われは思う わがため 十字架にかかりて
十字架にかかりて 罪のこの身
のこの身 贖い給う 主の愛の深さを
(折り返し) われさえも 愛し給う われさえも 愛し給う
救い主の愛の深さ われさえも 愛し給う
2、われは思
われは思う おのれを釘付
おのれを釘付けし
釘付けし 世のため 父の神に 祈りませる 主の愛の深さを
3、われは思
われは思う 三度もいつ
三度もいつ度
もいつ度も 背きし
罪びとをも なお受
なお受け給う 主の愛の深さを
<英語>
英語>
1. When I think of my Savior's great love, In coming from heaven
heaven above,
above,
To die on the tree For a sinner like me, I am sure that He loves even me.
Chorus:
3
I am sure that He loves even me, I am sure that He loves even me,
And His love is so sweet, Makes my joy so complete
When I think how He loves even me.
2. When I think
think of the thorns on His brow, Seems as if I can see Jesus now,
As He suffered for me, That my soul might be free;
I am sure that He loves even me. [Chorus]
3. When I think how He saves me from sin, Thought often ungrateful I've been,
My vow I renew, "To be faithful
faithful and true;"
I am sure that He loves even me. [Chorus]
D. イエス様の愛は、言葉や感情で終わらない。それは、行動の愛であり、命を与える愛である。
1.今は、冷たい言
たい言葉で囲まれている時代である。
である。「愛している」
している」と言葉で言われるだけでも、
われるだけでも、嬉
しい。
しい。慰められ、
られ、励まされる。
まされる。
2.ましてや、
ましてや、抱きしめて貰い、愛を実感できることは
できることは本当に素晴らしい
素晴らしい。
らしい。
3.しかし、
しかし、イエス様
エス様の愛情はそれ以上であった。
であった。それは、
それは、自らのすべてを与える愛である
である。
4.それは愛の為なら自分
なら自分の
自分の持っている何
ている何もかも、
もかも、命までも失うことをもよしとする愛であった。
であった。
5.それがイエス様
エス様が地上に人となって来
となって来られたことであり、
られたことであり、十字架にかかられた意味である。
である。
6.十字架という愛の事実なくして
事実なくして、
なくして、私たちの救
たちの救いはない。
いはない。教えも、
えも、感情も私たちを救
たちを救えない。
えない。
7.だから井上先生
だから井上先生も
井上先生も繰り返し言われたように私
うに私たちは宗教をしているのではない
をしているのではない。
のではない。私たちを愛
するがゆえに死んで甦った命の恩人であるイ
であるイエス様
エス様を信じ、共に生きているのである。
ているのである。
Ⅲ.最後に今日パウロの救いを通して学びたいことは:神様は、キリストによる救いの本質を知った私たちが、その
救いを自分のところで留めるのでなく、誰か他の人の救いのサンプルとなることを計画しておられることである。
A. 11、12、15、16節「・・・・」を見て頂きたい。
1.そこには、
そこには、パウロが、
ロが、ただに自分
ただに自分が
自分が救われただけでなく、
われただけでなく、福音宣教という仕事
という仕事・使命が与え
られたことが記されている。
されている。
2.しかも、
しかも、特に15-
15-16節
16節を見るとパウロは、
ロは、自分が
自分が救われたことと福
われたことと福音を伝える責任・
責任・使
命とを結び付けて考えていることがよく分かる。
かる。
3.即ち、罪人の骨頂、罪人の頭(かしら)
かしら)のような私
うな私が救われたことが
われたことが、
ことが、誰かの救
かの救いのサンプル
になることが神
になることが神様の御心、ご計画だと言
だと言うのである。
うのである。
4.「あの
.「あの人
あの人でさえ救
でさえ救われたなら、
われたなら、私も救われるかも知れない」
れない」と言う意味で、私たちの救
たちの救いが他
の人を励ますサンプルになるの
サンプルになるのである。
である。
(1)それは
(1)それは、
それは、しばしば今日
しばしば今日例に挙げた使徒パウ
使徒パウロ、ジョン・ニュートン、
トン、井上薫先生の
井上薫先生のよう
なドラマティック(
ック(劇的)な救いの経験の場合がそうである。
そうである。その劇的な経験が多くの人
くの人を
励ますのである。
のである。「彼でさえそうなら、
でさえそうなら、私もできるかも」
もできるかも」という励ましである。
ましである。
(2)その
(2)その意味で、ビリー・グラハム博士の伝道大会で
大会では、昔、シカゴ
シカゴの有名な
有名なギャングで回
心したような有名
うな有名な
有名な人々の
人々の証しが大
しが大いに用
いに用いられた。
いられた。
(3)しかし、
しかし、同時に、それが余りいわゆる普通の人の経験とかけ離れているために、ひとつ
の、一時の感動は呼んでも、「
んでも、「あれは
、「あれは特別なケースだ」で終わってしまうことも多かった。
かった。
(4)多くの人々
くの人々は
人々は、特別な劇的経験もさることながら、
もさることながら、同時にすぐ隣にいそうな近所の叔母
さん、
さん、お兄さん、
さん、私たちと同じような人
うな人の普通の Ordinary
ary な救いの経験をサンプルとし
て聞き、見る必要がある。
がある。
(5)その意味で、ここにいる私
ここにいる私の、あなたの救
あなたの救いがサンプルとして伝えられる必要がある。
ある。
結
論
●キリストによる救いは、
いは、その形や現れがいずれであれ、
れがいずれであれ、神に逆らい、
らい、神に背く罪人を救う救いである。
いである。
●また、
また、キリストによる救いは、
いは、教えや感情による救いではなく、
いではなく、私たちを愛して十字架にかかられた
お方による救いである。
いである。
●神様は、あの井上薫先生
あの井上薫先生、
井上薫先生、ジョン・ニュートン、
トン、使徒パウ
使徒パウロと同じように、
うに、あなたが、
あなたが、現代のパウロ
として、
として、周囲の
周囲の人々に
人々に、罪人を救う為に来られたキリストの救
トの救いのサンプルとなることを願っておら
れ、その務
その務めをあなたに委ねられたのである。
ねられたのである。それはあなたを強くして下
くして下さる方によって可能である。
である。
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