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鮎川信夫と『新領土』(その8) - Doors
鮎川信夫と『新領土』(その8) 117 鮎川信夫と『新領土』(その8)1 中 井 晨 39. 1940年―新体制の季節 不安定な阿部内閣のもと、第75帝国議会は1939年12月26日に開会され、 年末休会となった。しかし、人々は、いつものように新年を迎えた。その正 月の賑わいを、徳川夢声が記している。 その正月は興行物大当りであった。丸の内、築地、新宿、浅草、どこ もここも大入満員で、当事者はひどく鼻息が荒い。いずれの小屋も、切 符買う人の行列である。五日の晩の寒さなんてものは近来にないものだ ったが、それでも唇を紫色にした令嬢や、オーバーの襟をたてた青年が、 ジツと一列に並ぶ。あの一列に並んで、番の来るのを待つという心理― ―これこそ人類が文化的動物である、という証拠のような気もするが、 一面、それがはなはだ昆虫などの習性に似てるところもある、と想えて 妙な気がする2。 寒空の下に蟻のように列んだ人々が見た映画は、前年10月に施行された「映 画法」によって、「国民文化ノ進展ニ資スル」べく「行政官庁ノ検閲ヲ受ケ 合格シタルモノ」であった3。 用紙不足はより深刻となった。日支事変後、新聞の紙面は13段組が14段組 となり、新しく鋳造された7ポイント活字が採用されたが、この年、1940年 1月1日、各新聞の紙面は15段組となった。1段15字詰めは従前のままとされ たので、7ポイント活字はさらに小さくなり、6・286ポイントとなった4。 山川菊榮は『セルパン』に「近頃の新聞を讀んで」を寄せていう。 「近頃は、 「言語文化」8-1:117−138ページ 2005. 同志社大学言語文化学会 ©中井 晨 118 中 井 晨 誌面が小ぢんまりして纏まりがよくなつた。が、段がふえ、活字が小さくな る一方なのには閉口する」と。 尤も近頃の學者は器用だから、電氣は暗くても眼に影響はないやうに いつてゐるやうに、活字は小さくても視力に關係はないといふやうな意 見を、ちやんと用意してゐるかも知れない。肝心の記事には虫めがねの いるやうな活字を使ひながら、ミダシの方はコケおどしの大きな字で、 四段ぬき、五段ぬきの氣前のいいところを見せてゐる。標題に浪費して ゐるスペースをも少し節約して、記事の方をゆつたりさせることはでき ないものか。 志茂太郎ならずとも、新聞の活字と紙面づくりは、堪えられぬものとなって いた。「虫めがねのいるやうな活字」で組まれた、肝心の記事はどうか。山 川はいう。 内容の點からいふと、事變以來、政治欄の没落―といつてよからう ―や、經濟欄の不振を、文藝、スポーツ、家庭、娯樂といつた方面の 記事で補はうとする傾向が見えるやうに思ふ。社説は指導性を缺いて、 時候の挨拶みたいにお座なりな、氣のぬけたものが多い5。 1月14日に阿部内閣は総辞職し、16日に米内内閣が組閣された。議会が再 開されたのが2月1日である。翌日2日、斎藤隆夫は「支那事変処理に関する 質問演説」をおこなった。 支那事変の処理は申すまでもなく非常に重大なる問題であります。今 日我国の政治問題としてこれ以上重大なるところの問題はない。のみな らず今日の内外政治はいずれも支那事変を中心として、この周囲に動い ているのである。それ故に我々は申すに及ばず、全国民の聴かんとする ところももとよりここにあるのであります。一体支那事変はどうなるも のであるか、いつ済むのであるか、いつまで続くものであるか、政府は 鮎川信夫と『新領土』(その8) 119 支那事変を処理すると声明しているが如何にこれを処理せんとするので あるか。国民は聴かんと欲して聴くことが出来ず、この議会を通じて聴 くことが出来得ると期待しない者は恐らく一人もないであろうと思う6。 3月7日、鮎川は、『荒地』のための、「文學の摂理」に記す。 大體現代には一般に知るといふ働きが缺けてゐるやうに思う。或は現 代の知そのものに、どこかしら缺けたところがあるのである。「すべて の人は生れながらにして知らんことを欲する」―これは周知の如く、 アリストテレスの「メタフユジカ」の最初に出てくる言葉である。ただ 人生に於ける平凡な眞理であるに過ぎない。しかし現代人の偏頗な知的 活動なるものは、かかる平凡な眞理をさへ裏切るものである7。 彼はつづける。 知るといふ働きの缺乏してゐる重大な原因は、現代の特種な社會的理由 に基づくものであるかもしれない。けれどもつと重大な病根と思はれる ものは、さういふ外的世界の混亂が、直接個人の内的世界の混亂となり その中に捲き込まれてしまつて、現象の廻轉するベルトに從つて自己の 人間性も擦り減らしてしまつてゐるといふ事實である。 鮎川が「文學の摂理」を書き終えたこの日、3月7日、斎藤は議員辞職となっ た。 詩人懇話会主催で「日本詩の夕」が開催されたのが、3月23日である。長 谷川賞を授与した長谷川にとって、この夕べは「詩の復活」を思わせるもの であったが、この日は前日からの風が吹き荒れていた8。しかし、やがて収 まる。保釈中の 野季吉の日記である。 三月二十六日(火)風全くおさまり、麗なる春となる。小庭の椿一輪靜 かに咲き、木瓜も健やかなるつぼみをそろへる。 120 中 井 晨 この日、3月26日、斎藤の議員辞職問題で混乱した議会は閉会となった。そ の後につづく政党の解体、そして、大政翼賛政治へとつづいたこの年を顧み るならば、この第75回帝国議会をもって、最後の議会と見なすべきであろ う。 第一書房から竹内てるよ『靜かなる愛』が刊行された同じ3月30日、岩波 新書に三木清の『哲学入門』とともに、西田幾多郎の『日本文化の問題』が 加わった。 大なる傳統のみ大なる創造を生むことができる。ティ・エス・エリオッ トは云ふ、傳統とは受繼がれるものでなくして努力して得られるもので ある、それは歴史的感覺を含んで居る、時と時を越えたものとが一つと なる歴史的感覺が人を傳統的にするのであると。過去と未來とが現在に 一となり、永遠の今の自己限定として物を創造し行くのが傳統である、 所謂カタリストの如きものである。 歴史の創造のために、その文化の伝統が触媒として働く。もちろん、個々の 伝統を背景にした民族は、それゆえ、相容れることはない。だが、西田は、 慎重であった。彼はつづける。 歴史的空間に於て、何處までも民族と民族とは相對立する。然らざれば 歴史的形成と云ふことはない。併し單なる力の對立は闘爭であり、相互 の自滅である。創造に於て一となる所に、人間があるのである9。 民族の闘争は相互の自滅となる。闘争は創造のためでなければならない。 三木は、「現象の廻轉するベルト」に翻弄される鮎川たちに応えるように、 真理の在処について語った。これまでの哲学では、真理はすでに存在するも の、と考えられている。 恰もアメリカがコロンブスを待つてゐた如く、眞理はそれを見出す人を 鮎川信夫と『新領土』(その8) 121 待つてゐたかのやうに考へられてゐる。眞理は以前から存在するもので 、、 あつて、我々の仕事はただその隠されてゐたのを發見するといふだけで ある。(傍点原文のまま) プラグマティズム これにたいして、三木は、ウイリアム・ジェームズの実用主義の立場を紹介 する。それは、真理を「未だ存在しないものとの關係において定義する」も のである。 眞理は、彼に依ると、 に存在する或るものを模寫するのでなく、存 在するであらうものを告知するのであり、將に存在せんとするものに對 して我々の行為を準備するのである。 三木はいう。 實用主義にとつては、恰も我々が自然の力を利用するために機械を創造 、、 する如く、我々は實在を利用するために眞理を發明するのである。新し い眞理は發見でなくて發明であるといふのが、眞理に關する實用主義の 根本的見解である10。(傍点原文のまま) 誤解を恐れずあえて図式的にいえば、エリオットの伝統観に触れながら示 される西田の立場は、未来を可能性として含みつつも、根のところでは、伝 統、すなわち過去に蓄積されたもののなかに真理を発見し、それを永遠の相 のもとに継承しようとする。したがって、西田のいう「永遠の今」は、過去 の真理の模写ではない。それは「発見」されるものである。他方、ジェーム ズの立場によれば、真理は、「將に存在せんとする」未来にある。それは、 過去や伝統に囚われることを意味しない。真理は未来において「存在するで あらうものを告知する」ゆえに、現在を利用して「発明」されるものとなる。 三木が、ジェームズと立場を同じくしていたかどうかは、問わない。注目 すべきは、彼が、哲学の入門たるこの書で、過去ではなく未来を展望する立 場を力説したことである。それは、当時の知的状況からすれば、哲学におけ 122 中 井 晨 る新しい突破口を暗示するものであった。「實用主義の根本的見解」をその ままに実践することは困難であろう。マルクス主義はもちろん、文学におけ る行動主義とおなじく、新しい学説として止まらざるをえないであろう。た だし、「機械の創造」とならべて「真理の発明」を説く魅力的な哲学の背景 にあったのが、科学的合理主義、あるいは技術主義であることは、あらかじ め注意しておかねばならない。 4月、鮎川は大学に進んだ。軍事教練は前年から必須科目となっていた。 新学期をむかえて古書街は賑わった。「用紙飢饉と印刷の輻輳とは再版を不 可能として、それが古本街に反映し神田、本郷、早稲田方面の軒並みの書店 に顧客を氾濫せしめ、それに加えて新学期の教科書や参考書を需むる学生連 を迎え、いっそうの活気を添えて」いた11のである。すでに見たように、そ の5月に、丸善が新たに古書課を創設したのも、和・洋書の流通が困難にな った状況に対応するためであった12。 この年の春、小尾俊人は小さな出版社に入った。その仕事のひとつが、納 本届けと製本済みの現物二冊をそえて内務省警保局へ運ぶことであった。窓 口から覗いてみると、多くの役人たちが机の上に本をひろげて読んでいた。 彼は回顧して、記す。 検閲をしている、あらさがしをしている、要するに仕事をしているわけ です。これが集団的読書というものか、と思いました13。 役人たちは、集団観察ならぬ集団読書に精力を注いでいたのだ。岩波新書も また、この手続きを経て読者にとどいたのである。筆者たちが行間にこめた メッセージを読者が埋めなければならぬのは、そのためである。 この間、出版者の身辺はどうであったか。 3月8日、岩波茂雄は津田左右吉とともに、出版法第26条違反で起訴された。 1月以降の『神代史の研究』『古事記及び日本書紀の研究』『上代日本社会及 び思想』『支那思想と日本』の発禁処分を受けて、司法権が発動されたので ある。同条は、もちろん、「皇室の尊厳を冒 し、政体を変壊し、または国 憲を紊乱したる文書、図書」を出版した「著作者、発行者、印刷者」にたい 鮎川信夫と『新領土』(その8) 123 する罰則を定めたものである14。 『セルパン』7月号の「麥通信」は、風薫る季節をむかえて、第一書房社 員会が結成されたことを告げ、「第一書房の出版文化の根本方針」について 読者の共感と支持と鞭撻を願って、その「綱領」を発表することになった。 長谷川巳之吉の署名で「第一書房社員會の精神」が掲げられた。 第一書房の精紳は常に潔癖に正しく生きようとする所にその努力があ る。從つて利害と打算を超越してゐる。その主眼とするところは實力が ありながら不遇に埋もれてゐる純潔な正しい人達に力を貸して行く事で ある。これは第一書房主の武士道である。 第一書房社員は右社長の武士道にプライドを感じて協力する者となら なければならない15。 「麥通信」はまた、竹内の詩集の感想を掲載している。ひとつが、田中冬 二の手紙である。田中はいう。「私はこの詩集を世の多くの夫人達に是非讀 んで貰ひ度いと思ひます。それは詩集といふやうな觀念を離れ愛の書として すすめてもよいと信じます。」16 同頁の広告欄によれば、「紙飢饉の時代をも顧みず手漉和紙本文二色刷り といふ美本をつくつてこの詩人への餞けとしただけあつて、詩集發賣と同時 に非常なセンセイシヨンを惹起し、忽ち初刷り千五百部が賣切れとなつた」 のである。 だが限定版であるので増刷は到底不可能。我が社は茲に全女性にこの詩 集を讀んで載くといふ信念のもとに、詩集の出版としては眞に劃期的な 普及版三千部を發賣するととにした17。 他方、社員会など結成しようもない個人経営のアオイ書房、武士道などと は無縁の愛書家、志茂が刊行しようとしたのが、田中冬二の詩集であった。 『新領土』5月号の広告に志茂は記す。 「三年越しの「故園の歌」も愈〃完 成の日が近づいた」のである。これは「文字通り、吾が出版界、印刷界開闢 124 中 井 晨 以來、それこそ空前にして絶後の(絶後の方は敢て保證の限りではないが) 驚くべき新機軸を試みた」ものであり、 「その何たるかは、甚だ殘念ながら、 かゝる公開の場所で具體的に發表の許されない或特殊の事情」があった。 いづれにしても、此の一書こそは、あらゆる本年版の本邦詩書出版に冠 絶する大豪華美書―イヤ、今年版なんて、そんなケチな問題ではな い。 刊未刊のありとあらゆる本がタバになつて來いつてもんだ。マ アいゝ見ればわかる18。 しかし、 「一つ大弱りに弱つた問題」があった。 と申すのは、本文用紙たる別漉の鳥の子である。これはモウずつと前に 作らせて用意しておいたのであるが、その當時二百部限定の豫定であつ たところ、その後の新作を収輯して大分ペ−ヂ數がふえたために、紙が 足りなくなつた。ところが最近の原料キキンのため、かうひふ飛切り贅 澤な鳥の子は作れなくなつてしまつたのである。モトモトなるたけ數を 少なく、一冊一冊存分手をかけて心のこもつた本を―といふ建前のア オイ書房本である。數の少くなる事は、こつちから願ひたいところでさ へあるのだが、弱つた事に、豫定の二百だけモウとつくに豫約をとつて ある事である。刷上げてから、効果の不充分なものは容赦なく選り出し て棄ててしまふならひだから、どうかすると百部くらいゐになつてしま ふかも知れない。 志茂が考えた方策は、これまでの申し込み者と新たな希望者をあわせて、抽 選とすることであった。抽選参加の受付は5月15日とされた19。普及版を作 ることなど、彼の念頭にはないのである。 アオイ書房は、つづいて『新領土』6月号に、竹久夢二の新聞連載の自伝 『出帆』、その134回分の挿絵原画をもとに、和紙和装上中下三巻帙入りを上 版したことを告げる。 鮎川信夫と『新領土』(その8) 125 本誌の讀者諸君には此の本は極めて縁の薄いものだらうと思ふ。書房又 ナンデ今頃夢二なんどいぢくり廻してをるんかとの反問さへ聞えて來さ うである。 現代詩の雑誌、 『新領土』の読者に彼は訴える。 何はともあれ、本誌の讀者諸士の中からも、有識のあるあつて(ムロン 全部それに相違ないが)本書の申込者が一人位現れないと、天下の「新 領土」たるものの名誉にも關する次第であるので、拮据五閲月、こゝに 漸く全巻完成の機に臨み、とまれ一應告知(はヘンかな)マアとにかく 訓示(イケネエ)の光榮を有するものである20。 告知、訓示、通達、通牒、これらのことばは、世間を席巻していた。それに 対応するのが、請願、要望、陳情であった。 この年3月、日本雑誌協会、東京出版協会、中等教科書協会、文芸家協会 の4団体は、連名で「印刷用紙供給改善ノ急務ナル理由ヲ述ベテ思想戦拡充 ノ断行ヲ望ム請願書」を議会に提出した。衆議院本会議は「用紙の増産と供 給円滑化を図られたし」との要望を採択した21。斎藤の議員辞職問題で混乱 した、その会期中のことである。 用紙不足に物資不足が加わった。6月3日付で中等教科書協会が商工大臣と 東京府知事に宛てた「陳情書」に例をみるように、製本に必要な製本用針金 の不足にたいして、糸綴じとして製本様式の簡易化が行われるが、それでも なお、針金の配給は減少の一途であった22。日本雑誌協会もまた、この月、 東京府と中央針金線配給協会に陳情書を提出した23。 5月1日、鮎川は「おそらくは實らぬであらう樹木/おそらくは咲かぬであ らう花花」と、エリオットのように「乾燥した粘土の上に風だけの虚しさ」 を唄った24。しかし、季節は、確実に訪れた。 野の日記から。 五月五日(日)煙のやうな雨、をだまき草の藍色の花さく。散髪のかへ 126 中 井 晨 りに、絲瓜の苗を三本買つて來て、先づ小鉢に植ゑる。 五月十日(金)初夏らしく、爽快、群鳥の聲どもこころよし。 庭いじりを趣味とする春山もまた、中野の自宅近辺の季節と第一書房近辺 の風物を伝えている。『新領土』に寄せた「後記」である。 ボケの花からはじまつて、椿、櫻、蘇枋、菖蒲、つつじ、チユリツプ、 櫻草へと、すつかり花の季節になつた。近くでライラツクを植ゑてゐる ひとがある。そこからことし咲いた花の全部、二房を貰ふ。(五月八日) 滿鐡本社近くの虎ノ門の小公園に燭臺のかたちをした五葉樹(マロニ エ)の花が滿開であつた。(五月十日)英國大使館脇の小公園ではアカ シヤの大きな木に白い花房が一杯さがつてゐた。(五月十三日)これか らの花は白いのが目立つて、夏がくる。ことしは薔薇がすこしおくれた。 柿が三、四百實をつけてゐる25。 詳細な季節のメモが、ハルビンで買った手帳、おそらくは、あの「クロース の表紙に花環の模様」を押した手帳に記されたものであったと想像するのも 愉しい。 5月15日、鮎川は、「雨の歌」に、季節を唄った。 芳醇な薫りは 南方のドアを開き おまへたちの舌の上へやつてくる 花を踏み 小さな像をこえて それは一羽の鳥よりもはやく歸つてくる 樫の木はゆれ 白い床のうへに あらゆる憎しみはふり落される 鮎川信夫と『新領土』(その8) 127 この新緑の季節はまた、季節が交替する時期であった。 來るものと去つてゆくものが 同じ廊下で はげしくすれ違つていつた26 時代は、激しく動いていた。5月29日、鮎川は森川へ書く。ヘルデルリーン の「ヒユペーリオン」を読め。文庫にある、と27。その岩波文庫の一節であ る。 アヘロンの河岸に迷ふ亡霊の如く私の生命の侘しい地方へ歸つて來た。 萬物は年老いては再び若返るのである。何故私達は自然の美しい輪廻か ら除外されてゐるのか。或は輪廻は私達にもあるのか28。 季節とともに、歴史が動いていた。ふたたび、 野の日記から。 五月二十九日(水)「オリンピア」(民族の祭典)の試寫(歌舞伎座)を 觀る。素晴らしき映畫なり。ドイツの逞しい精神を感ず。日本選手に拍 手す。 六月七日(金)西田幾多郎氏の「日本文化の問題」をよみ始む。心奪は る。 六月十四日(金)パリはついに開城した。沈んだ氣持になる。 六月十七日(月)梅雨の本降りとなり、世間一齊によろこぶ。小庭の 樹々草々、よみがへる。 6月19日、春山は昼すぎに家をでる。梅雨の晴れ間が訪れたのである。ハ イキングである。電車でひょっこり出会った社の同僚と同行することになる。 次号の『セルパン』8月号の編輯を控えた息抜きでもあったのだろうか。蘆 花公園の恒春園から祖師谷大蔵へぬける道すがらの風物である。 128 中 井 晨 道路の兩側にイテフの若木を並木のやうに植ゑたところ、ザクロの若 木を植ゑた畑、美しい芝生などが千代紙の模様のやうに連つてゐる。芝 生はタイルのやうに一尺四方位に切りとつて賣りに出すのである。 森のむかうにナチスの旗がひるがへつてゐる。ヒツトラア・ユーゲン トのシユルツ君の講演會が村の小學校で行はれてゐるらしい。どつかに ポスターがでてゐた29。 日独協定は日常の風景にまで浸透していた。第一書房が「戰時體制版」の 新たな一冊として、室伏高信訳『我が闘爭』を刊行したのは、翌日、6月20 日のことであった。 『民族の祭典』に感動した 野は、しかし、季節と歴史の狭間におかれて いた。 六月二十四日(月)沈々たる夜中に、小刻みの鈍い音を聞く。蛙の群聲 かと思ふ。さうでもない。雨の音かと耳をすます。さうでもない。やつ と馬蹄の音だとわかる。この瞬間、私の氣持はひろく流れ出して、時勢 と結びつく。こんな事が、この頃の生活の瞬間々々にあるやうだ。 米内内閣は崩壊に瀕していた。この日、6月24日の正午、近衛秀麿は新体 制確立の決意を明らかにした。 『東京朝日新聞』の夕刊は、5段抜きの見出し で、「近衛公聲明」を伝えた。 内外未曾有の變局に對するため強力なる挙國政治對制を確立するの必 要は何人も認めるところである。自分は今囘枢密院議長を拝辞し斯くの 如き新體制の確立のために微力をさゝげ度いと思ふ。最近頓に活 にな つた所謂新黨運動もこの新體制確立と云ふ意味ならば誠に結構である。 然し單なる 成政黨の離合集散や眼前の政權のみを目標とする如き策動 であるならば自分はこれと事を共にすることは出來ぬ。挙國體制の具體 的内容又之を具現すべき方策等については各方面の意見を聴き愼重なる 考究を遂げた上これが實現に努力しようと思ふ30。 鮎川信夫と『新領土』(その8) 129 発行日は、「(二十四日發行)昭和十五年六月二十五日」とされている。前日 の版は何らかの理由で遅れたのである。紙面のいずれかの記事について、検 閲が働いたことが推測される。 同紙は、「近衛公聲明」とともに、「獨佛休戰協定の全貌」を伝えた。 野とおなじように『民族の祭典』を観た村野四郎は、「この世界戰爭は正に 民族の祭典ではないか」と『新領土』に書いた31が、その「民族の祭典」で、 まず、ドイツが勝利したのである。世界戦争の推移のなかで、わが国が日独 伊三国同盟の締結に進むことは、ある意味では、必然であった。 春山は三省堂の昆虫採集売場で、採集の道具や参考書など一式を揃えた。 昆虫といっても、目的は蝶である。さっそく、7月14日と21日の日曜は、朝 から出かけた。その間にも、昼すぎから出かけることもあった。15日から20 日の間のことである32。その日の目的地は石神井池であった。帰路、彼は沼 袋駅前で饒正太郎と会い、場所を中野駅前に移し、明治屋の二階でお茶をの む。饒は『新領土』創刊号に「環境を改造し、修正する」ことを主張し、連 作「 年の計畫」を発表したが、その後の活躍はたどれない。しかも、前 年『新領土』9月号以降に掲載された同人名簿には饒の名前はない。二人の 話題は不明である。その日に採取した蝶のことにすぎなかったかも知れない。 満州旅行、あるいは、執筆中の『滿州風物誌』のことであったろうか。ある いは、環境を改造することの難しさを語りあったのかも知れない。『セルパ ン』8月号が書店に並ぼうとする頃、そして、次号9月号の編輯作業を控えた 一時であった。それはまた、新体制確立と交錯するつかの間の、夏の一日で あった。 春山が編輯する最後となった『セルパン』9月号の特輯「新秩序に於ける 生活と文化」に、清水幾太郎は「個性、科學、國民生活、學生」を寄せた。 建設されようとしてゐる新體制が何等かの意味で全體主義的であるこ とは明らかである。假令ドイツ風でなくイタリア風でないにしても全體 主義的であることは確実である。凡ての新體制は個人主義を原理とする 近代社會の否定として現れねばならぬからである。私がこの新體制に向 130 中 井 晨 つて期待する一つの點は、 に多くの人々に依つて説かれた個性の尊 重といふことに關係する。日本に建設せらるべき全體主義的な新體制は、 深く個性の尊重を自覺したものであることを要する33。 「個性の尊重があつて始めて全體は力強く動き出すことが出來る」のである。 彼はいう。「個性が無視されて、ただ形式的に多くの人間が一致して見ても、 そこから本當の力は湧いて來るものではない」と。 しかし、清水の論調は一転する。 國民の各自がその個性に應じて活動せしめられる時に、またこれが大き な綜合の中に實現せられる時に、全體はその生命を發揮することを得る のである。個性の尊重は先づ全體そのもののためであることを知らねば ならぬ。全體を離れてただ個性を野放しにしたからとて、それで個性の 尊重が行はれると信ずるのは誤謬である。今日の時代はそのやうに單純 なものではない。現在では、全體を媒介とするのでなければ、個性の尊 重と伸長とはつひに實現されないのである。全體の確立と發達とが個性 を媒介とする如く、個性の尊重も全體といふ媒介を經て漸く實現される のである34。 単純にいえば、この論理は、西田の立場と、「伝統と個人の才能」を論じた エリオットの伝統主義と重なる。ただし、決定的なちがいは、 「今日の時代」 あるいは「現在」に於いて、媒介としての「全體」が、強く要請されている ことである。それは、清水の領域である社会学がいう、全体、あるいは社会 ではなく、また、思想や哲学の立場でもなく、時代と歴史を牽引する、「今 日の時代」のための言説であった。それは、「電氣は暗くても眼に影響はな い」という、学者の言説と軌を一にする。 個性を媒介する「全體」なるものは、日本精神であることは明かである。 清水は、つづいて記す。 日本精神と科學の振興とが根本に於いて對立の關係に立つといふ如き 鮎川信夫と『新領土』(その8) 信仰は 131 に捨てねばならぬものである。 ここでも単純にいえば、日本精神あるいは日本文化を、科学を生んだ西欧の 論理と格闘しながら、語ろうとしたのが西田であったとすれば、日本精神と 呼ばれるものを、ただちに、科学的精神なるものによって止揚しようとする、 当時の論壇の動きを代弁するのが、清水であった。それは、文部省が進める、 新体制下の科学振興策をも背景にしていた。その要は、新聞も伝えるように、 「動亂の世界情勢に即應して、我が國が眞に國防態勢を整へるためには先づ 科學の急進を必要とする」ところにあった35。明快である。ただし、清水に よれば、科学者のみならず「國民の全部が行住坐臥不斷に科學的に考へるこ との方が一層望ましい」のである。 物質的に見ても精神的に見ても、吾々の日常生活は無意味な迂路と無駄 とで充されてゐる。科學的合理的な行動様式は日常生活に於いて著しい 無視と侮蔑を蒙つてゐる。合理的な態度がただ教室や研究室だけで、而 も自然や物質を相手にした時だけ通用するといふことであつては、科學 的精神の涵養などといふことも到底所期の効果を挙げることは不可能で ある。科学振興の最も根本的な地盤は國民生活の様式をその隅々に至た るまで科學的合理的に組織することにある36。 科学は、三木にとっても、大きな関心の的であった。そして、ジェームズ の立場もまた、科学主義にあったといえる。清水の立場も、大きな枠組みで は、同様であった。ただし、ジェームズと同じように、清水にとっても「實 在」とは、「現実」にすぎない。自然科学が機械を創造して自然を利用する ように、真理は、 「発見」されるものではなく、 「発明」されることによって、 現実に応用されるのである。 それでは、いかにして真理は発明されるか。「國民の全部が行住坐臥不斷 に科學的に考へる」ことをしても、そこから真理は発明されないであろう。 また、発明はどこまでいっても科学と技術者の仕事である。しかし、「今日 の時代」にふさわしい真理、あるいは、社会全体を統括する理念を発明し、 132 中 井 晨 それを未来への政策として実現することができる人々がいた。近衛は新体制 たる、旧体制に替わるものの実現に努力する決意を語った。その決意を支持 するものは、正月の寒空の下に昆虫のように列んだ人々も含めて、いわゆる 旧体制からの脱却を求める多くの人々であり、また、もちろん、その決意を 自らのものにしようとしていた軍部であった。ただし、決意は具体化されね ばならない。現実を改変する決意を、政策として具体化する過程で、未来へ の決意のなかに「眞理を發明」したのが、官僚であったといっていい。図式 化していえば、彼らは、科学者ならぬ技術者集団であった。その真理を保証 するのが、すべてではないが、今日の時代を説く思想家あるいはジャーナリ ストであった。 5月17日、「新聞雑誌用紙統制委員会」が設置された。春山が満開のマロニ エを眺め、アカシアの白い花を英国大使館脇の小公園に見た頃、志茂が用紙 不足のために詩集を抽選とし、希望者の締切とした頃のことである。翌日、 18日の夕刊は、「内閣に用紙統制委員會新設 制限更に強化」の見出しのも と、小さな活字で伝えた。十五年度の物資計画によって供給源が必至となっ たので、新聞雑誌の事情に応じ用紙配給統制の強化をはかることになったの である。「用紙配給統制は従來企畫院が裁定にあたつてゐたが新聞雜誌界の 實際事情にそぐはぬ憾みがあり用紙統制の徹底が期せられないので新たに内 閣に新聞雜誌用紙統制委員會を設置するに決し」たのである。内閣書記局長 を委員長とする委員の顔ぶれも決定した。そして、「専務は内閣情報部が掌 る」とされた37。すなわち、企画院から離れて、事務局は内閣情報部に置か れたのである。これが、出版新体制の、すべての始まりであった。 第二次近衛内閣は7月22日に成立した。26日の閣議で決定された基本国策 要綱は、8月1日に発表された。すでに、内閣情報部の情報官、田代金宣は、 「政治はそちらで、とばかり「永久國策」出版新體制の立案に一生懸命だつ た」。彼は、のちに、このように記している。 愉快だつたのは、歴代内閣稀れに見る國民的輿望を負うて登場した第二 次近衛内閣の「新體制基本國策要綱」が八月一日發表され、それが恰か 鮎川信夫と『新領土』(その8) 133 も僕等が一足先に具體的に着手した「出版新體制の趣旨」にピツタリと 符合してゐたことである。日本の國家の中から舊體制の毒素をすつかり 拭き取つてさうして強い世界最高峰の國家體制を造り上げようといふ新 内閣の 史的な初聲明が、僕等の に企圖した出版新體制運動の趣旨と 全く同じであつたといふことは、僕等のやうな下の方で眞面目一本でコ ツコツと働いてゐる者にとつては何よりの喜びと言はなければならな い。僕はその夜感激の餘り遂に眠らずにしまつた。この仕事を仕上げず には死んでも斷念められないぞ、と幾度も呟いて蒲團の中をころげ廻つ た。想へば、僕が不動の決意で今でも出版新體制の完成に努力できるの は、この時の近衛新體制聲明の感激の深さに主因するのぢやないか、と 痛切に感じられるのである38。 コロンブスがアメリカを発見したように、田代は、近衛内閣の国策に、彼ら が求めていた「永久國策」たる真理を「発見」した、というべきであろうか。 しかしながら、田代たちからすれば、内閣の国策が、田代たちの「発明」し た真理を発見した、いうこともできよう。つけ加えれば、彼は、新聞記者た る民間人から官僚に転じたのである。上の一節の筆さばきにジャーナリスト のそれが覗えるのもそのためである。 この年、1940年、1月号のオーデンの「一九三九年・九月」に始まった 『新領土』は、9月号に「今月より當分澁谷例會を中止」39することを告げた。 すでに見たように、『新領土』にかかわる会合は月二回開催されていた。ひ とつは、毎月10日に日動画廊喫茶部で開催される「同人例會」、ひとつが、 毎月20日渋谷駅前銀座グリルでの「公開例會」である40。この渋谷の公開例 会は9月20日に予定されていたはずである。それを中止としたのは、新体制 の動向を配慮したものと推測される。そして、新体制のもとで、『新領土』 はやがて終刊を迎えるのである。 田代らが1940年の夏に準備した出版新体制案は、8月23日に発足した新体 制準備委員会を経て、12月19日、「日本出版文化協会」となって実現した。 新聞雑誌用紙統制委員会設置から七ヶ月。あっという間のことであった。他 方、3月に起訴された岩波茂雄は、二年以上が経過した1942年5月、第一審判 134 中 井 晨 決を受け、控訴した。1938年2月1日の第二次人民戦線事件で検挙された 野 季吉にようやく判決が下ったのは、1942年8月である。禁錮2年、執行猶予4 年41。控訴中の岩波は、1944年10月1日、突然、時効により免訴となった42。 太平洋戦争下のことである。 注 1 本稿は、拙稿「鮎川信夫と『新領土』(その1)」『言語文化』第2巻第4号 (2000年3月)、491-532、「鮎川信夫と『新領土』(その2)」『言語文化』第3巻第4 号(2001年3月)、497-554、「鮎川信夫と『新領土』(その3)」『言語文化』第4巻 第1号(2001年8月)、89-178、「鮎川信夫と『新領土』(その4)」『言語文化』第5 巻第2号(2002年12月)、231-274、「鮎川信夫と『新領土』(その5)」『言語文化』 第6巻第1号(2003年8月)、1-90、「鮎川信夫と『新領土』(その6)」『言語文化』 第7巻第1号(2004年8月)、1-56、および、「鮎川信夫と『新領土』(その7)」『言 語文化』第7巻第4号(2005年3月)、415-482を受けている。 2 徳川夢声『夢声自伝(中)昭和篇Ⅰ』[講談社文庫](講談社、1978年) 、146頁。 3 「映画法(昭和14年法律第66号) 」「中野文庫」、http://www.geocities.jp/nakanolib/ hou/hs14-66.htm。 4 朝日新聞百年史編修委員会編『朝日新聞社史 大正・昭和戦前編』(朝日新聞 社、1991)、509頁、および、575頁。他に、「年表」荘司徳太郎・清水文吉編著 『資料年表 日配時代史―現代出版流通の原点』(出版ニュース社、1980年)、(4) 頁を参照。 5 山川菊榮「近頃の新聞を讀んで」『セルパン』第110号(1940年3月1日)、69。 6 斎藤隆夫「支那事変処理に関する質問演説 昭和十五年二月二日、第七十五議 会における演説」『回顧七十年』[中公文庫](民生書院、1948年;中央公論社:増 補版、1987年)、269頁。この版では、議事録から抹消された部分も収録されてい る。 7 鮎川信夫「文學の攝理」『荒地』第5輯(1940年5月5日)、69。末尾に「十五年 三月七日」と記載。引用にあたって、句点を補った箇所がある。 8 野季吉『 野季吉日記』(河出書房新社、1964年)、32-33頁。以下、この日 記の引用については頁を注記しない。 9 西田幾多郎『日本文化の問題』[岩波新書](岩波書店、1940年3月20日)、378379頁。 10 三木清『哲学入門』[岩波新書](岩波書店、1940年3月20日) 、141-142頁。 鮎川信夫と『新領土』(その8) 135 11 「古本街は大賑わい、軒並みに読書子殺到」『東京日日新聞(夕刊)』(昭和15 年5月1日)、『昭和ニュース事典 第7巻』(毎日コミュニケーションズ、1994年)、 267頁。 12 丸善株式会社編『丸善百年史―日本近代化のあゆみと共に 下巻』(丸善株 式会社、1981年)、1200、および、994頁。 13 小尾俊人『本は生まれる。そして、それから』(幻戯書房、2003年)、13頁。 14 「[津田左右吉]出版法違反で岩波茂雄とともに起訴」『東京日日新聞(朝刊)』 (昭和15年3月9日)、『昭和ニュース事典 第7巻』、490頁。 15 長谷川巳之吉「第一書房社員會の精神」「麥通信」『セルパン』第114号(1940 年7月1日)、124。 16 「田中冬二氏の手紙」「麥通信」『セルパン』第114号(1940年7月1日)、125。 17 「竹内てるよ著「詩集 静かなる愛」(広告)」『セルパン』第114号(1940年7月1 日)、125。 18 志茂太郎「田中冬二詩集「故園の歌」(広告)」『新領土』第6巻第37号(1940年 5月1日)、裏表紙。引用文中、原文の「ダバ」を「タバ」と訂正した。 19 志茂太郎「田中冬二詩集「故園の歌」(広告)」『新領土』第6巻第37号(1940年 5月1日)、裏表紙。『故園の歌』は前川千帆の装本と挿絵で、7月に刊行された。 部数は、予測どおり、100となった。 20 志茂太郎「夢二自傳繪小説「出帆」(広告)」『新領土』第6巻第38号(1940年6 月1日)、裏表紙。『出帆』は限定400部となったと思われる。この年の刊行である が、発行日の詳細は未詳。 21 「年表」荘司徳太郎・清水文吉編著『資料年表 日配時代史―現代出版流通の 原点』、(4)頁。 22 商工大臣・東京府知事宛中等教科書協会(6月3日付)「陳情書」中等教科書協 會編纂『中等教科書協會有終史』 (中等教科書協會、1941年6月30日)、132-133頁。 23 「年表」荘司徳太郎・清水文吉編著『資料年表 日配時代史―現代出版流通の 原点』、(4)頁。 24 鮎川信夫「形相」『新領土』第7巻第37号(1940年5月1日)、31。 25 春山[行夫]「後記」 『新領土』第7巻第38号(1940年6月1日)、111。 26 鮎川信夫「雨の歌」『新領土』第7巻第40号(1940年8月1日)、182。末尾に 「5.15,1940」と記載。 27 1940年5月29日付消印森川義信宛葉書、牟礼慶子編「森川義信宛鮎川信夫書簡 全集未収録資料・書簡」『現代詩手帖』第44巻第11号(2001年11月)、40。 28 渡辺格司訳ヘルデルリーン作『ヒュペーリオン―希臘の世捨人―』[岩波文庫] (岩波書店、1936年11月30日:1998年)、20頁。 29 春山[行夫]「後記」 『新領土』第7巻第40号(1940年8月1日)、221。 30 「強力挙國體制確立に 近衛公、積極決意聲明」『東京朝日新聞(夕刊)』(昭 136 中 井 晨 和15年6月25日)、1面。引用では、ルビを省略し、異なるポイントについても、 同等の扱いとした。 31 村野四郎「後記」『新領土』第7巻第40号(1940年8月1日) 、223。 32 春山[行夫]「後記」『新領土』第7巻第41号(1940年9月1日)、272-273、および、 275。 33 清水幾太郎「個性、科學、國民生活、學生」「新秩序に於ける生活と文化」『セ ルパン』第116号(1940年9月1日)、17。評論題は目次による。 34 清水幾太郎「個性、科學、國民生活、學生」、18。 35 「戰爭は科學と技術だ 大學に黄金時代 定員數を一躍三倍に」『東京朝日新 聞(朝刊)』(昭和15年7月25日)、7面。 36 清水幾太郎「個性、科學、國民生活、學生」、18。 37 「内閣に用紙統制委員會新設 制限更に強化」『東京朝日新聞(夕刊)』(昭和 15年5月18日)、1面。 38 田代金宣『出版新體制の話』(日本電報通信社出版部、1942年2月1日)、8-9頁。 その「自序」に「昭和十六年十一月」と記載。引用にあたって、横組みでは繰り かえし記号が使用できないので、「コツコツ」とした。 39 [永田助太郎]「後記」 『新領土』第7巻第41号(1940年9月1日)、376。 40 永田助太郎「後記」『新領土』第6巻第36号(1940年4月1日)、360。 41 紅野敏郎「[ 野季吉]年譜」 『 野季吉日記』 (河出書房新社、1964年)、300頁。 第一回公判が開かれたのは、「日本出版文化協会」が発足する前日、1940年12月 18日である。 42 岩波書店編『岩波書店八十年』(岩波書店、1997年) 、229頁、および、247頁。 Nobuo Ayukawa and Shin-Ryodo (8) Akira NAKAI Key Words: Publishing business in 1940; the Paper Control Committee on Newspapers and Magazines; the second administration of Konoe; the New Order The shortage of pulp supply prevailed with no sign of recovery. After the outbreak of the war in China in 1937, newspapers prepared a newly cast, 7- 鮎川信夫と『新領土』(その8) 137 point typeface, so that they could take full advantage of their reduced pages. Again, beginning with the new years’ issue of 1940, they introduced another font set of 6.286-point typeface to combat a further ration cut in printing papers. As well as the Newspaper Law, the Publication Law retained its hold on writers and publishers. It would suffice to give just one case: Soukichi Tsuda’s works published by Shigeo Iwanami were banned, and both were arrested in March and eventually prosecuted for violating the dignity of the Imperial Court and the political constitution. In April Ayukawa got a place in Waseda University, which Tsuda had already left. The streets of secondhand bookshops were full of customers, because, as one newspaper reported, the “famine” of paper and the “congestion” on the part of printing houses made the reprint editions unavailable. It was on the 17th of May that the Paper Control Committee on Newspapers and Magazines was established. With the director of the Cabinet Intelligence Committee as its secretary-general, and with its head office based in the Committee, it comprised officials from the government ministries concerned, as well as those from military and naval forces. The Committee set up an executive meeting within, which immediately began its appointed mission. The party cabinet of Yoneuchi was deteriorating, and on the 24th of June Fumimaro Konoe made a statement that he would put his every effort into establishing a New Order for the nation. On the 22nd of July the second administration of Konoe was inaugurated, and as early as the 1st of August the “Fundamental Guidelines for National Policy” were introduced. An intelligence officer from the executive meeting recalls, “Putting aside those matters of politics, we worked hard, and I was surprised and deeply moved to find that the guidelines happened to coincide with the plan we had prepared.” Whether it was a coincidence or not, the draft was to be 138 中 井 晨 implemented under the general call for the New Order. On the 3rd of August the Paper Control Committee approved its final plan, and two days later the Home Office handed it over to the representatives of the various publishers’ associations. It was to disband them to establish a unified body, which was supposed to work in accordance with the government ministries and agencies, and the Cabinet Intelligence Committee in particular.