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規範・責任・自律を考えるための基本的スキーム 2015 年 6 月 13 日

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規範・責任・自律を考えるための基本的スキーム 2015 年 6 月 13 日
規範・責任・自律を考えるための基本的スキーム
2015 年 6 月 13 日
「規範・責任・自律を考えるための基本的スキーム」
九鬼一人
以下では義務論の形式的な要件について、問題提起することが、この小論の課題である。
もとより、義務論のすべての要素を、小論で論じることはできないが、この手続きを通し
て、規範、さらには価値合理性を捉えるさいの基本的スキームを呈示したい。繰り返して
言うが、規範に対する必要条件の一部を挙げながら、規範概念の解明を期しているに過ぎ
ない。
一、センの議論の紹介
センは規範の普遍性、パーフィットの言うところの行為主体中立性を、その論理的特質
に注目して、次の三つの概念に区分する(Sen,A.K.,1982,pp.21-22)。
行為者中立性(DN) 人 i がこの行為を行ってよいのは、人 j がこの行為を行うことを人 i
が許すことができる場合、かつその場合に限る。
観察者中立性(VN) 人 i がこの行為を行ってよいのは、人 i がこの行為を行うことを人 j
が許すことができる場合、かつその場合に限る。
自己評価中立性(SN) 人 i がこの行為を行ってよいのは、人 j がこの行為を行ってよい場
合、かつその場合に限る。
そ れぞ れの 中 立性 を否 定す る と、 三つ の 相関 性 ( パ ーフ ィッ トの 行 為主 体相関 性
Parfit,D.,1984,p.27)が得られる。そのさい「許すことができる」を「止める義務を負わない」
に適宜書き換える。
ところで、以上では具体性に欠けるので、高名なウィリアムズの例に即して考えていこ
う。ウィリアムズは「帰結主義」を批判して、――就職すれば兵器開発したところで、消
極的関与しかもたないのに――化学生物兵器研究所に就職することを回避する〔仮想主人
公ジョージの〕「非帰結主義」的選択を挙げている。そんな彼に以下のように説く先輩化学
者〔センはハリーと名づけている〕がいるかもしれない。「私なら、その問題をさほど気に
かけていたわけではないが、それについていえば、ジョージが結局拒んだところで、研究
職はなくならないのだし、研究所が姿を消すわけでもないのだから。なおいっそう重要な
こととして、たまたま知っているところでは、ジョージが就職を拒否したとしても、良心
がとがめてやましいと感じない同輩のところに職が回るだろうということだ、そうした人
が 採 用 さ れ た ら 、 ジ ョ ー ジ よ り 熱 心 に 研 究 を 邁 進 さ せ る だ ろ う 」 (Williams,
B.A.O.,1973,pp.97-98)。にもかかわらず就職を拒否するジョージは「自分の人生そのもの」
という全体を考慮して、「非帰結主義」的に行為を選択すると言えよう。
この例だと「非帰結主義者」ジョージが就職することを許せるとジョージも先輩化学者
ハリーも考えているとは限らないから、①この例で「観察者中立性」は成立しないと考え
る(先輩化学者ハリーを平和主義者とセンが修正したために「観察者中立性」がもちこまれ
てしまった)。すなわちジョージにおいて「観察者相関性」が成り立つ。②「非帰結主義者」
ジョージがジョージもハリーも就職できると考えているかは微妙な問題なので、この点は
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規範・責任・自律を考えるための基本的スキーム
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開かれたままにしておこう(ただし、おせっかいな人は得てして、自分が親切なら、他人も
親切だと要求するものだから、行為者中立性が成り立つのではないか)。③と同時にジョー
ジはジョージの就職を許せないとしても、ハリーは自己の価値観を追求して自分が就職す
ることは許せると考える。つまり「自己評価相関性」」が成り立つ。
これとは対比的な義務論的制約として、以下のものを考えよう。若松良樹,二○○三年,七
○頁で引証されているネーゲルの例である。
「あなたはお婆さんに何かをさせるためにその小さな孫の腕をねじりあげるべきではな
い。たとえその何かが極めて重要であり、それに匹敵する利益を他の誰かが子供の腕をね
じるのを妨げるために無視したら理にかなっているとは言えないほど重要であったとしも
である」(Nagel,Thomas,1986,p.177)。
まず➀この例にみられるように、あなたではなく、他の誰かが子供の腕をひねっても、
当の利益を確保すべきこととして、あなたは何ら不合理性を感じない。それゆえ、行為者
相関性が成り立つ。②また、観察者相関性として、他の誰かは当の利益のために自分が腕
をひねるのはよくないと考えるものの、あなたを止める責務までは受け入れていないので
ある。③さらに、あなたがひねるのは自身で、許されないのと同様、他の誰かにとっても
自分がひねるのは許されない、よって自己評価的中立性が成り立つ。
以上の論点をカントに即して見てみよう。ノーマンによれば、カント倫理学は以下のご
とく、批判的に検討されている。「…普遍性の要求は合理性の要求から導出されうると主
張する論拠があると、私は考える。つまりこの主張によれば、私の行為が普遍化可能であ
るべきだということが、私が理性的に行為するための必要な条件なのである」(ノーマン著,
邦訳,一三三頁)。たしかに理性的/合理的であるためには、私の行為は整合的である点で、
普遍化可能でなければならない。普遍化可能とは「適切に類似したすべての状況で、同じ
仕方で行為せざるをえなくさせるような普遍的な原理の下に置かれるのでなければ、合理
的ではありえない」(対偶!!)ことである。単にこうした整合性のみならず、カントは理由の
.
非個人性をも要求している。「仮に R が私にとって、行為 A を行なうのに妥当な理由であ
るとすれば、それはまた、万人にとっての理由なのである」(ノーマン著,邦訳,一三四-一三
五頁)。したがって普遍化可能性には、以下のような限界がつきまとう。
ノーマン著,邦訳,一四七頁以降。「困っている他人がいても助けないことを、自分の格率
にしている人を想定してみる。カントの主張によれば、その人は自分の格率を普遍化でき
ない。なぜなら、もしその人が困った場合、おそらく他人に自分を助けて欲しいと願うだ
..
ろうからである。だがそのような事実にもかかわらず、彼は自分の格率を普遍化可能であ
ると、私は提案したい。彼はまったく整合的に次のように言うことができる。すなわち、
「なぜ困っている他人を助けるべきなのか、私にはその理由が分からない。私はこの格率
によって論理的に、次のような見解に加担することになると認めている。すなわち、私が
困った時、なぜ他人が私を助けるべきなのかについて十分な理由が存在しない、というこ
とがそれである。ところで私はたしかに、他人から助けて欲しいと願うだろう。もしそう
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する立場にあるならば、私は他人に対して私を助けてくれるように説得を試みもするだろ
う。しかし同時に私は、他人が私を助けることを拒否しても、それが合理的に正当化され
るということも全面的に受け入れる」」。
二、義務論的制約と帰結主義の共通点
理性的存在者は、他の理性的存在者の権利行使の自由を侵害しないとともに、もしそれ
を侵害したとしたら自分自身の適法的行為をなす自由をも侵害することになる。つまり当
の人格が自分のなした行為に対して責任を負うことを承認するのは、他人の追及や強制に
よってではなく、当人が理性により適法的行為をなすように命じられており、他人の権利
行使の自由を侵害せぬように自らに強制していたときである。
実際『人倫の形而上学』のなかでカントは、道徳性を強制という観点から捉えなおして
いる。
...
「しかし、それでも人間は自由な(道徳的)存在者であるから、内的な意志規定(動機)とい
....
う点では、義務概念は自己強制(法則だけの表象による)にほかならない」(Ak.Bd.VI.S.379380)。強制は自己からのみ由来するのであって、他人の知るところではないi。「倫理学は、
私が契約で結んだ約定を、たとえ先方がその履行を私に強制することができない場合であ
っても、それでも履行せねばならないと命令する」(Ak.Bd.VI.S.219)。強制は他人からなさ
れずとも、私が引き受けなくてはならぬものである。
カントに見られるように、人間が理性的な存在者であるとすれば、理性の所有により倫
理的に自律(autonomia)的な存在でなければならない。普遍化可能性のなかの「自己評価中
立性」(SN)は、(DR・VR と並んで)自律の必要条件と理解しうる。あなたは親切にしない
ことを認めるとしても、あなたは、他人が自分に親切にしないことは、必ずしも認められな
い(行為者相関性)。他人があなたを助けないことは、あなたに認められるとは限らない。
しかし他人には、あなたが困った時、なぜ他人があなたを助けるべきなのかについて十分
な理由が存在しない(他人があなたを助けることを拒否しても、それが正当化されるとい
うことも全面的に受け入れる・観察者相関性)。ひいては、あなたが他人を助けないのを
自身で認めるなら、他の誰かが助けないことは、その当人自身によって認められている場
合のはずである(自己評価的中立性)。
例えば『人倫の形而上学の基礎づけ』から引けば、
「まったくもって善意志とは、普遍
的法則と見なされる信条自体をいつでもみずからのうちに含むことのできる信条を、もつ
意志である」(Ak.Bd.IV,S.447)となっている。自律とは、道徳法則が企投する理性的存在
者にふさわしい概念である。
これと似たことがらが功利主義についても言える。というのも功利主義的(もしくは帰
結主義的)発想も、カントの義務論的発想とまったく異質であるわけではないからである
(大庭健,一九八八年,一六五頁)。この観点から功利主義の普遍化可能性を検討してみれば、
「状態S において第 j 位置にいる個人が「誰でも第 i 位置に置かれたら持つであろう」と
𝑗
想像する効用関数𝑈𝑖 によって定まる期待効用の総和」(大庭健,一九八八年,一七三頁)と普
遍化し、カ
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ントのごとく〈想像〉による収束の可能性を追求しうる。つまり功利主義では、ヘアを念
頭におけば察しがつくように、相手の立場に立つから、規範は「状態 S において自己評価
者位置 j にいる個人が「誰でも〔自己評価者:補足引用者〕第 i 位置に置かれたら持つであ
ろう期待効用の総和」(ただし行為者位置 j・観察者位置 j という含意ももちうる)のかたちで
置きかえ(=相手の立場に立つ)、普遍化される(普遍化の詳論については、大庭健論文に委ね
ざるをえない)。
三、結びii
義務論的制約に従うかぎり、DR・VR・SN 対に忠実であるという本稿の解釈では(価値共
有者のうちでの問題設定になっているため)、このアイヒマン問題を回避しえない。これを
克服するためには、人間の関係性の毀損という論点を持ち込まなくてはならないだろう。
また規範としてのコードも、ジンメルにおけるがごとく、裁量を個人の人格に委ねてい
るという側面があり、その裁量の遊域については、DR・VR・SN 対の分析では、十分でな
いことに思い至るべきである。
文献〔掲載順・注掲載
SEN,AMARTYA K.,1982,”RIGHTS AND AGENCY”,PHILOSOPHY & PUBLIC AFFAIRS,VOL.11,
PP.3-39.
PARFIT,DEREK,1984, REASONS AND PERSONS , OXFORD,CLARENDON PRESS.
WILLIAMS,BERNARD
A.O.,1973,"A
SMART,AND
B.WILLIAMS
CRITIQUE
OF
UTILITARIANISM",
(EDS.),UTILITARIANISM
FOR
IN:.
&
J.J.C
AGAINST,
CAMBRIDGE: CAMBRIDGEUNIVERSITY PRESS,PP.75-150.BIBLIOGRAPHY,
PP.151-155.
若松良樹,二○○三年,『センの正義論―効用と権利の間で』勁草書房。
NAGEL,THOMAS,1986,THE VIEW FROM NOWHERE,OXFORD,U.K.:OXFORD
UNVERSITY PRESS.
リチャード・ノーマン著,塚崎智/石崎嘉彦/樫則章監訳,二○○一年,『道徳の哲学者た
ち』ナカニシヤ出版。
中島義道,二○○六年, 『カントの法論』ちくま学芸文庫。一八四頁。
KANT,IMMANUEL,1914,DIE METAPHYSIK DER SITTEN, KANT’S GESAMMELTE
SCHRIFTEN KÖNIGLICH PREUßISCHE AKADEMIE DER WISSENSCHAFTEN,
BERLIN :G.REIMER,BD.VI.
KANT,IMMANUEL,1911,GRUNDLEGUNG ZUR METAPHYSIK DER SITTEN KANT’S
GESAMMELTE SCHRIFTEN KÖNIGLICH PREUßISCHE AKADEMIE DER
WISSENSCHAFTEN ,BERLIN :G.REIMER,BD.VI.
大庭健,一九八八年,「現代において倫理学とは何でありうるか」日本倫理学会編『倫理
学とは何か』慶應通信,一四九-一八八頁。
廳茂,一九九五年,『ジンメルにおける人間の科学』木鐸社。
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規範・責任・自律を考えるための基本的スキーム
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大庭健,一九九一年,『権力とはどんな力か』勁草書房。
コールマン著,久慈利武訳,二○○四年,『社会理論の基礎(上)』青木書店。
SIMMEL,GEORG,1892~93,EINLEITUING
IN
DIE
MORALWISSENSCHAFT,EINE
KRITIK DER ETHISCHEN GRUNDBEGRIFFE,BD,Ⅰ,BERLIN.
SIMMEL,GEORG,1890,ÜBER SOZIALE DIFFERENZIERUNG,SOZIOLOGISCHE UND
UNTERSUCHUNG, LEIPZIG,
SIMMEL,GEORG,1907,SCHOPPENHAUER UND NIETZSCHE,EIN VORTRAGSZYKLUS ,LEIPZIG
PSYCHOGISCHE
i
所有権の保障は以下のロジックによっている。「所有権を侵害しないように行為せよ」と
は、
「「それぞれの権利者間の権利行使の自由」という単純な内容のものではなかろうか。
すなわち、各人はそれぞれ特定の債権、所有権を対人的対物的に有し、X が自分の権利を行
使する自由は、Y が彼の権利を行使する自由を侵害せず、同様に Y の権利行使の自由は X
の権利行使の自由を侵害しないのである」(中島義道,二○○六年,一八四頁)。
ii ここでアイヒマンの場合の、自律を見てみよう。彼は、ユダヤ人虐殺をカント倫理学によ
って正当化しようとしたと言われる。つまり熟慮を重ねて、カントの定言命法を適用して、
「ユダヤ人を絶滅すべきだ」という結論をえたと言うのだ。……彼の悪は平凡なものでは
なく、根源悪(それは傾向性への屈服である)の誘惑にさえ逆らって、悪に積極的にコミット
していたというのである(アーレント)。このことは、ある信念を抱いたとき、それを普遍化
することは、どのような信念にあっても可能という義務論の倫理的限界を指し示している
かのようにも見える。
彼はたしかに「誠実」であった。歴史的アイヒマンに限れば、「ヒトラーへの盲従」とい
う他律的な要素を、社会で共有していたという面を否定できないが、ヒトラーの指示を、
自分のうちの定言命法に則ったものと確信していたとすれば、それは意志の自律ではなか
ろうか。というのも、良心の呼びかけに真摯に耳を傾ければ、道徳的正邪の判別が可能で
あるということは、定言命法には含まれていないからである。もし良心の命ずる道徳的善
さの対象を「発見」するということならば、それは帰結主義的で、自律をある意味、逸脱
している。しかるにアイヒマンの場合、自律の可能性は排除されていない。
また逆に、DR・VR・SN 対によっては義務論的制約のコード的側面の一部しか把握でき
ない。これは個人-社会問題というジンメル的問いに接続する。つまり廳茂, 一九九五年,一
三四頁以下によれば個人-社会問題は、以下のように倫理と科学を関係づける二視角に即し
て規定されている。第一が倫理現象の経験的な研究の可能性。この系譜はパーソンズに連
なる(一九○一年のリッカート宛手紙参照)。第二が「歴史の意味」を、倫理学的色彩をもっ
た概念と捉えることで、倫理は科学のアプリオリな条件となる。
科学のアプリオリな第二の条件としてコードが考えられる。コードとは大庭健の記述に
よれば、
「①外界を見-分け、聞き-分けるときの〈分節化の様式〉
、②他者の振舞を行為とし
て分節化する〈意味論的規則〉
、③諸行為とその結果に関する〈経験的な規則性〉
、④諸結
果を〈評価する倫理的規範〉
、⑤行為連関の〈機能に関する了解〉、という相互参照的な「規
則」のシステムであった」(大庭健,一九九一年,九五頁)とのことである。しかるに社会学の
場合規範の、あるしゅの側面にのみ注目する。たとえば「ある特定の行為に関して規範が
存在するのは、社会的に定められるその行為の制御権を当の行為者が保有しているのでは
なく、他の人々が保有しているときである」と暫定的定義が、コールマンによって与えら
れている(コールマン著,久慈利武訳,二○○四年,三七四頁)。つまり、ある意味 VN(DN?)が課
されているのである。つまりコードと相関が強いのは、適法的行為であって、そのなかに
は道徳法則に対する尊敬を動機としない、自律的でないもの、帰結主義的なものも含まれ
るであろう。
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それに対してカントの適法的行為は、あらかじめ決まっているわけではない。アイヒマ
ンがたまたまユダヤ人虐殺に自律を見出したように、適法的行為も定言命法をたよりにし
て自力で見出さなくてはならない。倫理的問題に取り組むとき、社会の掟に歯向かうこと
があっても、それとの葛藤の中で悩み苦しまなくてはならない。したがって、小論の DR・
VR・SN 対による規範概念の規定(それは価値共有者の間の「並行的」自律に他ならなかっ
た)は言わずもがな、大庭の描くコード像は、社会が天下り的に倫理的答えを用意する以上、
カント・ジンメルの描く規範に比して「厚み」を欠いている。コードはある場面では、相
互参照的に措定される「規則」というよりは、悪に対してすら可能性として拓かれた慎慮
に身を置かなくてはならなくはないだろうか。たとえばジンメルが規範を個人と社会の間
のどこに位置づけるか、最後まで苦慮した葛藤の姿と、カントの自律の「厚み」は重なる
ところがあると言えよう。廳茂,一九九五年,第四章「科学と倫理」より。Simmel,Georg,
1892~93,Einleituing in Die Moralwissenschaft,Eine Kritik der ethischen Grundbegriffe,Bd,Ⅰ,Berlin,S.54 でジンメルは、当為とは「純粋に形式的な性格」しかもっていない
と捉える。当為とはいっしゅ「心理学的機能」(op.cit.BdⅡ,S.310)である。
ジンメルが、それに対して志向したのは、人間の学問における倫理と科学の関係づけの
視点を保持する方向である。とくに価値評価の絶対性を否定する文脈で、このアプリオリ
な条件としての倫理学は決定的意味をもつ。ヴェーバーの価値前提が個人的であったこと
と並行的に、ジンメルは個人的倫理観から価値前提を選び取った。そのさいの倫理観とし
て「文化の諸要素を個性的に組み合わせる人格」の可能性が拓かれ、個人の自由(Simmel,
Georg,1890,Über soziale Differenzierung,Soziologische und psychogische Untersuchung,
Leipzig,S.107)が立てられる。これは彼が「社会学的」思考の特徴と考える「全体への帰依」
を、意識的に斥けたことを意味する(廳茂,一九九五年,一四五頁)。
たしかに「人類たちの生はあらゆる瞬間において相変わらずゲゼルシャフトの生である
ということ、社会的な--というのはすなわち、個々人の相互作用のなかに一切の個別者の被
規定性を求める--考察方法はそのつどの瞬間に、なんらかの仕方で人類に対しても適用され
うるということが意識されるようになったということ、このことが社会的な現存の形式と
人類一般という事実とを同一視する方向へ誘っていったのである」(Simmel,Georg,1907,
Schoppenhauer und Nietzsche, Ein Vortragszyklus,Leipzig,S.207 とはいえ、
「あらゆる善良な
貴族階級は、他の人間に対してでも、外部から与えられた法に対してでもなく、自分自身
に対して責任があるという意識によって、彼らの特権を単に享受することから免れる」
(op.cit.S.246.)。ジンメルの場合、社会の枠が先取されていても、なお個人の裁量が重視さ
れているのである。「ニーチェは、習俗や律法の外在的拘束から解放された「自立的な」存
在を「主権的個体」とよぶ。このような個人は、内側からの「彼の価値尺度」をもちその
ためには「
「運命に抗して」」(廳茂,一九九五年,二三八頁)すらも闘う存在である。……結局、
約言すれば、自己への「責任という異例の特権」を許容された主体ということである。
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