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長崎水道の歴史遺産 - 全国上下水道コンサルタント協会

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長崎水道の歴史遺産 - 全国上下水道コンサルタント協会
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き
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歴史遺産
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さ
ん
長崎水道の歴史遺産
長崎市上下水道事業管理者
野田哲男
■1.はじめに
長崎市は、九州の西端、長崎県の南部に位置し、
長崎半島から西彼杵半島の一部を占めています。
西側、南側、東側で海に面し、五島灘、橘湾、大
村湾が広がり、鎖国時代は日本で唯一西洋に開か
れた場所として知られ、異国情緒豊かな町となっ
ています。
また、
「坂の町」としても知られ、市街地は300m
■2.近代水道の創設
から 400 m級の山々が連なったすり鉢状の地形の
古くから海外交流が盛んであった長崎には疫病
中に位置し、わずかな平野部とそれを取り巻く斜
なども多く持ち込まれ、特にコレラの蔓延には
面地にたくさんの住宅が立ち並んでいます。この
度々悩まされていました。
独特な地形で形成された夜景は特に美しく、
昨年、
そのコレラ蔓延の原因が、飲料水の汚染であっ
香港、モナコとならび「世界新三大夜景」に認定
たことから、安全な飲料水の必要性が叫ばれ、近
され、たくさんの観光客の方が訪れております。
代的な水道の創設へつながることとなります。
(写真1)しかしながら、美しい夜景を作り出すこ
長崎の水道は、明治 24 年(1891 年)3月に横
の地形も水道事業者に対しては、幾多の試練を与
浜、函館に次ぐ近代水道として、日本最初の水道
えてまいりました。
専用ダムである本河内高部貯水池及び本河内浄水
場の完成に始まります。
この水道を設計した吉村長策技師は、給水区域
を 長 崎 区 80 町 及 び 外 国 人 居 留 地 と し 、人 口
4万5千人、戸数7千 200 戸あまりに対し、将来
の人口増加と予備を含めて計画給水人口6万人、
一人一日給水量 20 ガロン(約 90ℓ)、一日給水量
120 万ガロン(約 5,400㎥)と設計しています。
また当時、長崎区の予算が4万円足らずだった
時代に総事業費の見積額は30万円という膨大な費
用となり、ダムと浄水場の建設に対し、激しい反
対運動が起こり、賛成派と反対派が町を二分して
写真1 世界新三大夜景に認定された長崎市の夜景
の争いになりました。それでも当時の県令や区長
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を決め、明治 36 年に第1回拡張事業として、本河
内低部貯水池、西山低部浄水場、翌 37 年に西山貯
水池、西山高部浄水場が完成しました。
大正時代に入ると第一次世界大戦による好景気
に誘われて大小の諸工業の発展が水の使用を増大
させ、第2回拡張事業に着手、計画給水人口は 27
万人となり、大正 15 年に小ヶ倉ダム、出雲浄水場
が完成しました。濾過池、配水池は長崎で初めて
の鉄筋コンクリート構造物であり、また、小ヶ倉ダ
写真2 日本最初の水道専用ダムである本河内高部ダム
ムは、文化庁登録有形文化財、土木学会推奨土木
遺産に認定されています。
(写真3)
昭和になると軍需工業の用水確保が急務とな
の努力により、明治24年5月16日、日本で3番目
り、第3回拡張事業として市北部に浦上貯水池と
の近代水道として給水を開始しました。
浦上浄水場を建設、昭和 20 年2月にはダムが未完
本河内郷の谷間に新しく完成した大きな土手
成のまま給水を開始しましたが、
同年8月9日に投
と、これに満々と水をたたえた人工湖、濾水池、
下された原子爆弾により浦上水系の水道施設はこ
配水池はどれも今まで見たことのない景観であ
とごとく破壊され、配水機能は全く停止したまま
り、市内はもとより他県からも見物に来る人が多
終戦を迎えました。
(写真4)
く、混雑整理のため入場券が発行されました。こ
戦後になっても長崎の慢性的な水不足は解消さ
の本河内高部貯水池は昭和60年に近代水道百選に
れず、昭和37年には、大村市と分水協定を締結し、
指定されています。
(写真2)
市域外からの給水を行うこととなりました。
しかし
■3.水とのたたかい
給水開始からわずか3年後の明治27年、最初の
給水制限が行われました。この年は年明けから降
雨量が少なく、貯水池が満水とならないまま夏場
を迎えました。人口の増加とようやく水道になじ
んだ住民が噴水や道路散水にまでどんどん水道を
使用したため、貯水量は激減していき、節水の呼
びかけを行いましたが、給水栓のほとんどを占め
る共用栓がすべて放任給水だったため、効果はな
写真3 文化庁登録有形文化財小ヶ倉ダム
く、7月から昼間12時間給水の給水制限を行いま
した。その後も9時間給水、一人一日5ガロンの
計量給水、1ガロンの計量給水とどんどん厳しく
なり、10 月にはついに完全断水となり、給水制限
は 12 月まで続きました。
その後も毎年のように制限給水が繰り返され、
長崎は以降、80年以上にも及ぶ水とのたたかいが
始まることとなります。
雨量不足に加え、日清戦争の勃発により水需要
は増加し、明治 31 年には、拡張工事を起こすこと
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写真4 未完成のまま給水を開始した浦上ダム
ながら、大村―長崎間の導水計画は諫早市を経由
われたのもこの頃でした。
して陸路を通る場合は約 60㎞となり、維持補修も
昭和42年に認可された第6回拡張事業も市域外
考えると大変な費用になることから、大村湾を横
の西彼杵郡外海町(現長崎市)に神浦ダムを建設
断する海底導水が採用され、大村市側の取水口か
し、12本の導水トンネルを経て長崎市内の浄水場
ら海岸まで 12㎞、海底導水管6㎞、長崎市側陸上
まで原水を運びました。16.3㎞の導水施設のうち
部分 15㎞の総延長 33㎞の布設工事が行われまし
13.9㎞は導水トンネルであり、湧水に悩まされる
た。当時、海底6㎞の導水管布設は全国でもめず
難工事でありました。
らしく画期的な方法だったとのことです。
(写真5)
この後も拡張事業は、第7回と進められました
こうして昭和40年10月、大村市からの導水工事が
が、第6回拡張事業が完了した昭和56年には当面
完成し、一日最大1万2千㎥の原水が受水可能と
安定した水の給水体制が確立されました。
なり、昭和43年2月の道ノ尾浄水場の完成により、
第5回拡張事業が完了しました。
このように長崎水道の歴史は給水制限や断水の
■4.おわりに
苦労に追われ、次から次へと新しい水源を探し求
こうした先人の苦労により、平成6年に西日本
め、ひと安心する間もなく、人口増や天候不順に
一帯で起こった大渇水を最後に渇水の心配はほと
より、新たな拡張事業を強いられるという繰り返
んどなくなりました。
しの歴史でもありました。
斜面地が多い長崎市の水道は、ポンプアップと
元々地下水が乏しく大きな河川がないという地
減圧を繰り返しながら、配水を行わなければなら
形上の理由から、山間の谷に堰堤を築いて雨をた
ないため、元々たくさんの施設を擁していました
めるという以外に方策はなく、また四季それぞれ
が、平成の大合併により、近隣町の中小水源をは
に順調に雨が降らないと貯水池はカラになり、給
じめ、さらに多くの水道施設を引き継いでおり、
水制限や断水に陥るという状態でした。
現在、15のダムと46の浄水場、配水槽や減圧槽な
昭和 39 年から昭和 42 年頃にかけての異常天候、
どの配水タンクは 250 近くにも及びます。
異常渇水は特にひどく、陸上自衛隊給水派遣隊が
長崎市の水道普及率は 97%を超え、現在は維持
来たり、最も厳しかった浦上水系では2日で3時
管理の時代へと入っていますが、人口減少時代を
間しか水が出ないという状況でした。新聞やニュ
迎え、給水量も横ばい状態となっています。
ース等でさかんに「長崎サバク」という言葉が使
給水収益についても年々減少傾向であり、今後
の経営状況は一層厳しくなるものと見込まれてい
ます。このような状況の中、120 年以上の歴史を
持つ本市水道事業にとって水道施設や老朽管の更
新は、喫緊の課題となっております。また、東日
本大震災以降、水道施設の耐震化対策も重要とな
っており、市町村合併により引き継いだたくさん
の水道施設の統廃合など課題は山積しています。
今後は、引き続き市民サービスを低下させるこ
となく安全でおいしい水の提供を行いながら、歴
史ある本市の水道事業を安定的に経営していくこ
写真5 海底導水管布設工事の様子
とが水道事業者に課せられた使命だと考えます。
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