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スペクテイター』(48)

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スペクテイター』(48)
大阪経大論集・第64巻第1号・2013年5月
翻
317
訳〕
スペクテイター』(48)
第450号から第459号
門
第450号
田
俊
夫
1712年 8 月 6 日(水曜日)
【スティール】
最初に獲得しようとするものはお金で,美徳は二の次だ。
(ホラティウス)1)
観察者殿2)
すべての人はそれぞれ道は異なりますが,共通するもの,つまり,お金に向かって進み
ます。政治家も貿易商人も法律家もお金のお陰をこうむっているのです。率直に言って,
私たちが『スペクテイター』のことで注視されているのもお金のお陰だと思います。私た
ち自身の心の中を覗いてみることが出来れば,私たちの心には自衛本能よりももっと生き
生きとした形でお金という文字が刻まれているのが見えると思ってしまいます。というの
は,誰でも不安気にお金を手に入れようとして帆を揚げている貿易商人とか,お金のため
に心の平穏さを犠牲にしている人々を思い浮かべることが出来るからです。しかし,(お
そらく元来は最も輝かしいものであったはずの)自衛本能という文字が,完全に損なわれ
ていないにしても,傷ついていること,そしてまた,(最初は単に安心を手に入れる手段
としてのみ価値があった)お金という文字が最近では輝きを増していますので,自衛本能
という文字が大きな光にかすんでしまってほとんど感知できなくなっていることに気づく
必要があります。このように,お金は人々が以前非常に貴重なこと,つまり,安心を出し
抜いてしまっています。そこで,私としては,お金は勝利に終止符を打ったのだと言えた
らいいのにと思います。だが,残念なことに,平凡な誠実さはお金のいけにえとなったの
です。これは学者が大いなる善について語っているところです。だが,商人である私は,
この件については,私自身の生活に照らし合わせた平易な語り口で別の説明をしたいと思
います。まず読者には,私が仕事を始めてからというもの,それは1660年のことだったの
ですが,お金に事欠いたことはなかったのだとお知らせしておく方がいいと思います。私
はそのように育てられたのですが,タバコ商として初めからまずまずの蓄えがあったので
1)ホラティウス『書簡詩』1.1.5354
2)この手紙は,第442号の要請に対する返事となっている。
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大阪経大論集
第64巻第1号
す。神の祝福を受けて順調に成功し,ついにはいわゆる10万ポンド3) の持ち主になりまし
た。才人や哲学者たちが主張するように,立派なことを言ったり推論から結論を導き出し
たりして,私の話を擁護するのは無駄だと思います。実のところ,才人が言っていること
に当然な点があるのは快く認めます。この上なく好奇心に満ちた著者たちはそのように思
い込むのであって,彼らはその努力をしているのです。彼らは嘆かわしい先生に過ぎない
のですから。でも,一体,当然というのはどういうことなのでしょう。満ち足りて安楽な
ことなのです。では,満ち足りて安楽とはどういうことなのでしょう。確かに,新たな考
えとか思いつきは口当たりのよい巧みな言葉で飾り立てられ,人々をこれまでにないほど
面白がらせます。だが,それが人々に影響を与えないのは不思議です。たわいのない楽し
みに過ぎず,真に喜ぶのは子供や愚かな女性だけです。
私が現在意図しているのは,読者に財産を手に入れる方法を教授することではありませ
ん。この件は別の機会に譲ることにします。今は私の長くさまざまな経験で手に入れた実
際的かつ確固たる利点を示すことです。でもこれで立派で貴重な祝福のすべてを取り上げ
るわけではありません。(なぜなら,誰にも心温かく安楽に暮らす快適さは分かるわけで
はありませんし,力と卓越が付随するものだと分からないからです。)これはこの上なく
苛酷な苦難とか不幸にさらされたとき大きな支えとなってくれるのです。これがあれば不
道徳や悪徳に対する特別な解毒剤になるだけでなく,人々を当然のごとく敬虔と献身的な
行為へと導きます。私はほかの人たちと何一つ特別な点はなく,またほかの人たちより勝っ
ているとも劣っているとも思いませんが,私の経験からこれを語ることができます。
1665年,私は私の大きな支えだった妻と 2 人の子供を病気のために亡くしました。結婚
して 4 年から 5 年経っていたことを考えて見ると,おそらく,もっと沢山の子供が持てた
ものと思います。だが,妻が多産型の女性であることが分かり,当時千ポンド少々ありま
したが,商売を続け家族を養っていけるように配慮したのです。他の人たちと同様に,妻
子を愛していました。そこで,妻子の死というこういった厳しい痛手をこうむったとき,
自然の衝撃に抗することが出来ませんでした。しかし,私はすぐに発奮し,この苦難を和
らげる方法を見つけました。そして,妻子のことで大きな出費にはならず,妻の財産の大
部分はまだ残っているのだと考えてこれを克服しました。経費は私自身と職人一人と一人
のお手伝いだけに減少し,これまでよりもはるかに安く済むのだと考えたわけです。さら
にまた,今では子供のいない男やもめなので,わずか800ポンドだった妻よりも財産持ち
の女性と結婚できるのだと。読者はこういった考えが大きな効果をもたらすためにふさわ
しく適切なことだったのだと納得していただきたいと思います。日々数多くの人々が一掃
され,金持ちが貧しい人々よりも家族や親族の死にうまく耐えていた嘆かわしい時に,絶
えずそのように考えていたのを私は思い出します。備えはほとんどなくその日暮らしをし
ている貧しい人々は,慰めと満足感を全面的に妻子に求めていたために悲嘆に暮れるしか
なかったのです。
3)「10万ポンド」は原文は plumb (plum) で,OED の初出は1689−1702。
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翌年には大火となりました。その時,神のはからいで,私は幸いにももっと大きな利益
を見込んで,財産の大部分を現金に換えていました。この災害は恐ろしく驚くばかりのも
のでした。火炎の激しさは手のつけようがなく,何箇所かで街全体がまたたくまに崩壊し
ました。その結果,(周知のように)人々は着の身着のまま焼け出されたのです。ところ
で,私はその時どうしたと思われますか。突っ立って立派な大都市の廃墟を見つめること
も,頭を振ることも,両手を握りしめることも,涙を流すこともしませんでした。何か利
することはないかと考えたのです。私の所有している現金で何か利することが出来ないか
と考えて,直ちに火事を免れた品物を買い求めることを思いついたのです。要するに,約
2千ポンドとわずかな信用取引を元手に,私の財産を 1 万ポンドに上げるだけのタバコを
買ったのです。それから,わが町の廃墟と亡くなった住民の悲惨さを罪深く邪悪な人々に
対する神の正当なる怒りと憤怒の結果とみなしました。
この後再婚し,この妻も亡くなりましたので,三度目の結婚をしました。だが,二度目
の妻も三度目の妻も怠惰なつまらない女でした。二度目の妻の贅沢にはとても苦しめられ,
悩み,町の物笑いの的となりました。抑制されると一層燃え上がる女性の気まぐれとか性
癖を抑える手立てはないのだと分かりました。もっとも私は精一杯のことはしたのですが。
(これについては証人が 2 人いますが)彼女がコートエンドの裕福な女たらしと抱き合っ
ているのをつぶさに目にしたのです。この男から 1 万 5 千ポンド手に入れ,彼女がだらし
なく散在した分を取戻し,近隣の人たちには受け取った金の一部を握らせて口を封じまし
た。三度目の妻は結婚しておよそ 2 年後に,子供 3 人を生んで亡くなりました。子供たち
の父親は彼女の田舎の親戚だと推測しています。この男は彼女の推挙で私の家に入れてお
り,職人としての賃金を渡していたのです。この女性がこの 2 年間で親戚の男との贅沢な
食事に費やした額は,(家禽商,魚屋,および食料品店の請求書から割り出せるのですが),
186ポンド 5 シリング5.5ペンスとなります。衣服,ブレスレット,ロケット,接待費など
を合わせると, 3 年と約 9 ヶ月で744ポンド 7 シリング 9 ペンスとなりました。その後,
私は二度と結婚しないことにしました。三度の結婚と不当な扱いによって生じた被害によっ
て,(あらゆる経費を差し引き)8300ポンド儲かっていることが分かりました。
さて,人生において金銭を愛することが,人々を誠実に,真面目に,敬虔にさせるとい
う好結果をもたらすのだということを明らかにします。若い頃,私は才覚を最大限に利用
して,傷物の商品で田舎の行商人に一杯食わせました。行商人が文句をいい,あばいてや
ると脅してくると,私はその損失分を返金しました。行商人のもっともな助言によって,
彼は明らかにこういった手管の愚かさは結局は恥辱,そして,あらゆる関係の崩壊につな
がることを明らかにしていたのですが,私はその後二度とその助言にそむくようなことは
しませんでした。賄賂を受け取る廷臣や開業中の弁護士や医師とか俗事に干渉する聖職者
は,これまでに間違いはただの一つしか犯してなく,絶えず改善に向かって努力している
と豪語できるでしょうか。私は働きだしてこのかた,第 1 子の洗礼のときに 1 回,町のお
祭りのときに3回,取引の推進のときに 5 回の計 9 回しか,酒に酔った覚えはありません。
私の心の改善はひとえにお金に対する愛情と尊重のせいだと言えます。なぜなら,私は酒
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大阪経大論集
第64巻第1号
に目がなく,詐欺的な商売をし,向こう見ずな取引をする傾向があったからです。女性に
関しては,妻以外は知りませんでした。読者に分かっていただかなくてはなりませんが,
仕事とお金を愛することが,考えられる過度の欲望を克服する最大の方策であるという素
晴らしい処方を信頼することです。なぜなら,絶えず所有しているものを注意深く管理し,
さらに多くを手にしようと願い,召使の怠慢と偽りに目を光らせ,お金の出入りや行商人
を捜したり市場の正確な動向を得たりすることに全神経を集中することになるからです。
こういったことが日々一刻たりとも脳裏から離れることはないのです。その結果,私は断
続的に約12年間夫であったわけですが,その間,ベッドでの妻のことしか思い出せません。
最後に,信心のことですが,私は日曜日の午前と午後,教会は欠かしていません。私が手
にした収益に対して感謝するのを忘れたことはありません。土曜日の夜,収支計算をする
ときには,いつも 1 週間の利益に対して感謝しました。クリスマスには 1 年間の利益に対
して感謝するのです。おそらく,私の信心はこの上なく熱心なものでないのは確かでしょ
う。だが,これは私の平静で穏やかな気質のせいにすべきだと思います。私の気質は性急
なものはどんなものであっても受け入れないのです。若くて脂ののっていた血気盛んなと
きには,現在あるいは過去何年間よりも礼拝に大きな喜びを見い出していたのを思い出せ
ます。そしてまた,信心は鈍く手に負えないようにのしかかって来て,加齢とともに目に
見えて衰えて行ったのを覚えています。
これで,お金を愛することがあらゆる不道徳と悪を防ぐことになることの証明になって
いればいいと願っています。これをお認めにならないとしても,お金を追求することで,
徳高い人たちと同じ生き方が出来ることは間違いはないのです。私としては,ここではこ
の点をお考えいただき,出来るだけ早く気転を現金に換えていただきますよう述べておか
なくてはなりません。以上です。
敬具
エフライム・ウィード
第451号
1712年 8 月 7 日(木曜日)
【アディソン】
ついに彼らは本性をあらわし,鋭く噛み付いた。
からかいが機知の座を奪ったのだ。
善良な人々は罵倒され,不当な扱いを受けた。
彼らは大声でわめいたが,彼らを黙らせる法律はなかった。
(ホラティウス)1)
中傷的な新聞やパンフレットほど,政府にとっては憤慨にたえず,善良な人々にとって
忌まわしいものはありません。同時に,風刺作家ほど抑え難いものもありません。出版し
1)ホラティウス『書簡詩』2.1.14850
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てもらえない怒りっぽい著述家は,当然のように,中傷や風刺によってその恨みを発散さ
せます。寓話によると,ある陽気な老婦人は,大きな姿見に映った皺を見て,激情に駆ら
れてその姿見を投げ出し粉々にしたそうです。だが,その後で悔し紛れの喜びを込めてそ
の破片を見ていたのですが,つぎのようなつぶやきを抑えることが出来なかったとのこと
です。この腹いせによって得たのは,私の醜さを増幅したに過ぎず,それまでは一つです
んだのに今では百の醜い顔を見ることになったのだ,と2)。
書物や新聞を出す人は誰でも,その著者であることを明らかにし,名前と住所を公の記
録に残すことを義務とするように提案します。
こうすれば,一般に仮名とか無署名で登場する印刷物によって生じる醜聞を抑えるのに
効果的だと思います。しかし,こういった手段は醜聞だけでなく,同時に学識をも撲滅し
てしまうことが危惧されます。これは無差別に機能し,穀草も雑草も一緒にして根こそぎ
にしてしまいます。大きな慈愛の心をひそかに伝えることを自分たちの取り柄にしている
匿名の著者の非常に名高い敬虔な仕事もこの被害を免れることはできないのです。天才的
な作品も初めから署名入りで登場するものは稀です。書き手は一般に名前を出さずに世間
の反応を見るものです。あらかじめしかじかの条件でなければ出版してはならないという
ことが分かっていると,能力がある著者であっても執筆する人はほとんどいないものと私
は思います。私はどうかといいますと,私が皆さんに提供しています新聞は妖精の恩恵の
ようなものだと言わざるを得ません。筆者が分かってしまいますと消えてしまうものなの
です。
こういった中傷や悪口を言う人たちをとりわけ抑制しにくくしているのは,誰もが後ろ
めたく思っているためであって,卑劣で恥ずべき方法で関心を広めようとする卑劣なへぼ
文士が著名な人たちから黙認されているからなのです。私はいまだかつて,嘘と中傷で大
義名分を裏づけ,ライバル,つまり,敵対者と見なす人たちを非常にあこぎな方法で論じ
た著者にみせしめの罰を与えた大臣がいたと聞いたことがありません。もし政府がライバ
ルの評判を粉々に打ち砕くことでご機嫌取りをする卑劣な文士に対して絶え間なく不快感
を示していれば,政府にとっては中傷であり,人間性にとっては恥じである社会の害虫に
素早く止めをさすことが出来るはずです。こういった処置を取れれば,その国務大臣は歴
史に名を留めることになり,すべての人々はその大臣を不当に扱い,彼が敵対者に対して
用いることをいさぎよしとしない武器を彼に向かって行使する人たちに対して当然嫌悪感
を抱くことになります。
私がここで述べていることが何らかの党あるいは派閥に関することだと考えるような不
誠実な人はいないと思います。クリスチャンないし紳士であれば誰でも,現在蔓延してい
るこの邪悪で狭量な慣行には大いに憤慨せざるを得ません。この慣行は一種の国家的な犯
罪となっており,私たちと政府を分離しているのです。私としては,特定の人に向けられ,
真実の装いをつけて裏付けされている鋭い風刺は,邪心の現れであり,それ自体非常に犯
2)ロバート・バートン(15771640) 憂鬱の解剖』(1621)2.3.7
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大阪経大論集
第64巻第1号
罪的だと見なさざるを得ません。悪評は,ほかの刑罰と同様に,一個人ではなく治安判事
の管轄なのです。したがって,キケロの断章には,12の戒律には死刑はごくわずかなのだ
が,中傷や風刺は死罪に相当すると載っているわけです3)。もっとも,これは今回のケー
スとは大きくかけ離れていますが。わが国の風刺は下品であり単なる悪態に過ぎません。
口汚さが機知として通用するのです。実にさまざまな言い回しで悪口をつくことが出来る
人は,非常に文才があると見なされるのです。これによって,一族の名誉は崩壊し,最高
の地位も肩書きも人々の目には安っぽく取るに足らぬものになってしまいます。高潔この
上ない美徳や高尚な才能は,悪意に満ちた人や無知な人の軽蔑にさらされます。もしわが
国に存在している内密の党派心について何も知らない外国人とか,社会で役割を果たして
いる人が,わが国の現在の心境や反目のことを知らなければ,わが国はこの上なく奇怪な
国に見えるに違いありません。わが国の偉人たちに対する考えは日々発行されているこう
いった不快な著述に影響を受けているわけです。
この非情なやり方は真実や人間性をことごとく滅ぼすことになりますので,心の底から
国を愛しているか,信仰心に厚い人たちから最大限の嫌悪と妨害を浴びて当然です。それ
ゆえ,私はこういったひどく有害な著述に従事している人たちのこと,さらにはそれを楽
しんで読んでいる人たちのことを真剣に考えてみてもらいたいと思います。著述家に関し
ては,これまでの紙面で触れたことがありますが,彼らを殺人者や暗殺者には位置づけま
せん。誠実な人は誰でも,人生そのものもさることながら,名声を高く評価しますので,
秘密裏に罰を免れて行なうにしても,ある人に襲い掛かる人はもう一方も滅ぼしてしまう
のだと考えざるを得ません。
こういった忌まわしい中傷文を読んだりまき散らしたりすることに楽しみを見い出して
いる人々に関しては,私は中傷文を書き上げた作者の罪とほぼ同じ罪を犯しているものと
思います。皇帝ワレンティニアヌスとワレンスが制定した法律では,いかなる人も,中傷
文を書くだけでなく,たまたま見掛けた場合でも,それを破るか燃やさないと死刑になっ
たのです。ところで,この件に関する私の意見は風変わりだとは思われませんので,本日
の紙面は素晴らしい学識と判断力だけでなく,大いなる思想の自由の持ち主であったベイ
ル氏の言葉で締め括りたいと思います4)。
中傷をまき散らす人物は,危害を加えたいという気持では中傷文の作者となんら変わら
ないものと考えます。中傷文を読む人の楽しみについてどういったらいいのでしょうか。
神の目では恥ずべき罪ではないのですか。この点について識別しておく必要があります。
この楽しみは,巧みに表現されている機知に富んだ思考に遭遇する場合は心地よい感覚で
あるか,中傷される人物の不名誉から思いつく喜びのいずれかです。前者のケースについ
ては何も言いません。なぜなら,人間は心地よい感覚の持ち主でないと断言したら,おそ
らく,私の道徳観は厳格なものではなく,砂糖や蜜が舌に触れたときに生じるものとさほ
3)キケロ『国家について』4.10.12
4)ベイルの「誹謗中傷について」からの引用。
スペクテイター』(48)
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ど変わりはないと思う人たちがいることでしょうから。しかし,後者に関しては,こんな
喜びは恥ずべき罪だと誰もが認めるに違いありません。前者の楽しみは持続性はありませ
ん。これは私たちの理性や熟慮を妨げ,隣人の名誉が台無しにされるのが分かると,直ち
に密かな悲しみに襲われるかもしれません。直ちに終息しないとすると,私たちが風刺家
の意地悪に満足しており,ありとあらゆるネタで敵を中傷しているのを見て喜んでいるし
るしになります。そのときは,私たちは中傷文を書いた人物と同様の罰を受けて当然とな
ります。ここで,現代の著者の言葉を付け加えたいと考えます5)。グレゴリウスは,カス
トリウスの名誉を汚した作者たちを破門するとき,これを読んだ人たちも除外しません。
彼が言うには,もし中傷が絶えずそれを耳にする人たちの喜びとなれば,それは誠実な人
に勝る点が何もない人たちを満足させることとなり,それを読む人も書いた人と同等の罪
を受けて当然だからということです。ある行為を認める人は可能であれば,つまり,何ら
かの自己愛が働いてその妨げをしないとすれば,確実に自らもその行為をするというのは,
議論の余地のない格言です。不善の行為を勧めることと犯された罪を認めることには違い
はない,とキケロは言います6)。ローマ法は邪悪を認める人も邪悪を行なった本人も同様
の罰を受けさせることを認めたのです。それゆえ,中傷文を読んで喜ぶ人たちも,その書
き手とそれをまき散らす人たちを認める限り,それを書いた人と同様の罰を受けるに値す
ると結論を下すことができます。読んで喜ぶ人たちが自分で書かないとしたら,それは文
才がないためか危険にさらすのを恐れるためなのです。
ベイル氏はこの点の彼の判断を裏付けるための典拠をほかにも提出しているのです。
第452号
1712年 8 月 8 日(金曜日)
【アディソン,ポープ】
目新しいものを貪欲に求めるのが人間の本性だ。(プリニウス)1)
わが国の人々は目新しいものには目がないのですが,それに比べてユーモアをさほど理
解しないのを,私は不思議に思っています。同胞のこの好奇心を大いに拠り所にして暮し
ている率直な方が 6 名ほどいらっしゃいます。彼らは全員,外国から同じ情報を,しばし
ば同じ言葉で入手します。しかし,彼らの情報の調理方法は実に多様ですので,すべてを
読み上げるまでは,コーヒーハウスに心の平穏をもたらすことができる公益を考慮する人
は誰もいません。こういった情報を盛り付けた料理はわが国の人々の好みにぴったり合い
ますので,熱々で出されたときだけでなく,人々に外国からの情報の逐一に意見を提供す
る明敏な政治家によって冷めた状態で出された場合でも喜びを覚えます。ある一団の作家
が情報源を,別の一団の作家がコメントを,それぞれ活字にするわけです。
同じネタが実にさまざまな新聞に掲載され,場合によっては,同一の新聞に実に多様な
5)Clavigny de saint Honorine, Usage des livres suspects
6)キケロ『ピリッピカ』2.12.29
1)大プリニウス『博物誌』12.5
324
大阪経大論集
第64巻第1号
記事が載ることになります。外国郵便が払底しているのですが,私たちはパリ,ブリュッ
セル,ハーグ,およびヨーロッパの主要都市のさまざまな情報によって,同じ話を何度も
繰り返し耳にすることになります。多くの注釈,解説,意見,解釈にも関わらず,最新の
郵便が到着するまで,私たちは時間を持て余すことになるのです。つぎにどうなったのか,
あるいは結末はどうなるのかを知りたいので,さらに詳しい情報が入るのが待ち遠しいの
です。西風が吹くと,町全体は気をもみ,会話が止まってしまいます。
この全般的な好奇心は先の戦争によって高められかつ煽られました。この好奇心が正し
く向けられると,渇望感が覚醒された人にはとても有益だったかもしれません。あらゆる
目新しいことを読むことに喜びを見い出す人は,ひっきりなしに好奇心のネタを見つけ,
大きな喜びと向上に遭遇する歴史や旅行記やその他の著述に打ち込む人にとって,こういっ
た週刊の新聞に勝るものはありません。夏中戦闘を期待してうつうつと暮らし,おそらく,
最後には失望すると思われる誠実な商人なら,一日に6紙に目を通すかもしれません。彼
は戦闘全体のニュースを読むのに,一紙すべてを読むのと変わらないだけの時間をかける
かもしれません。戦闘と勝利と革命は密接に絡み合っています。読者の好奇心は刻一刻高
められ満たされ,感情は日々の不確かな状態に拘束されずに,あるいは,海と風のなすが
ままにならなくても,落胆したり喜んだりします。要するに,心は絶え間なく知識を求め
ることはしませんし,永遠の渇望感に襲われて罰せられることもありません。これはすべ
て今日のゴシップ屋やコーヒーハウスの政治屋のせいなのです。
人にとってはそれまでに知らなかった事実はすべて目新しいものですが,チープサイド
の服飾品商が現在進行中の州間の諍いも神聖同盟をめぐる諍いにも関心を寄せるとは思い
ません2)。誰もが認めるものと思いますが,少なくとも,わが国の人にとっては,ドナウ
川とかドニエプル川沿いに住んでいる同時代人の歴史よりも自分たちの先祖の歴史を知る
ほうが重要なのです。これとは異なった考えを持つ人々に関しては,同胞のこの顕著な好
奇心を頼りに真面目に働いている企画者のつぎの手紙をお勧めしたいと思います3)。
観察者殿
足繁くコーヒーハウスに通い,今までに聞いたことのないあらゆる事実を耳にして喜ん
でいることは,貴殿もお気づきになっておられるに違いありません。勝利ないし敗北は彼
らにとっては等しく心地よいものです。彼らはある郵便で枢機卿の口が封じられたと知る
と喜びますし,別の郵便で枢機卿の口が開いたと知るとこれもまた喜ぶのです4)。彼らは
フランスの宮廷がマルリーに移ったと聞くと喜び,その後またヴェルサイユに戻ったと聞
2)チューリッヒとベルンの2州対ローマカトリックを信奉する5州の論争。ローマカトリックを信奉
する神聖同盟はギーズ家を代表として1576年に結成された。これに対抗したのがナヴァールのアン
リであった。
3)この手紙を書いたのはポープ。第457号参照。
4)枢機卿叙階式で行われる枢密会議では,教皇は最初に口の堅さをしめすしるしとして新任の枢機卿
の口を封じ,その後,枢機卿には意見を表明し,投票する権利と義務があることをしめすためにそ
の口を開く。
スペクテイター』(48)
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くとこれもまた大いに喜ぶのです5)。彼らは公共のニュース記事に接するのと同じ好奇心
でもって広告に目を通します。彼らは,まだら馬がイズリントン近郊の牧場から逃げ出し
たというニュースも外国の地で戦っている師団のニュースも同じように喜びます。要する
に,彼らはたとえどんなことであっても,目新しいことにはすべて興味をそそられるわけ
です。もっと正確に言えば,彼らは味覚の分からない大食漢なのです。ところで,ニュー
スの最大の源泉が,私は戦争のことを言っているのですが,近々干上がりそうですし,上
述の紳士諸氏はとめどない渇望感を抱いていますので,彼らおよび私自身のことを斟酌し,
双方に利点となる企画を思いつきました。ロンドンから10マイル以内,言い換えると,1
ペニー郵便6) が届く範囲内にある町や村のあらゆる顕著な出来事を掲載する日刊紙の発行
を考えているのです。私がこの情報活動を選ぶにいたったのには 2 つの理由があります。
1つは通信費がとても安くつくことです。そして 2 つ目は毎日手紙を受け取ることが出来
るということです。これによって,読者は最新ニュースを手に入れ,世の中の動向が分か
らないと満足した気持で眠れない多くの感心な人々は満足して眠りに就くことが出来ます。
私としては,毎晩 9 時きっかりには新聞を完成させる計画です。すでに各地に通信員を任
命しており,非常に有益な情報を入手しています。
ナイツブリッジからの先だっての情報によると,馬は今月 3 日に檻に収容されたこと,
さらに,手紙が届いたときには解放されていなかったとのことです。
パンクリッジからは,その地の最古の教会で最近12組の結婚式が行なわれたが,当事者
の名前に関してはつぎの手紙によるとの知らせが入っています7)。
ブロンプトンからの手紙によると,寡婦ブライトはジョン・ミルデューから数名の訪問
を受け,これは大きな話題になっているとのこと。
最近ハマースミスに立ち寄った漁師によると,パトニーからの情報だとその地で有名な
ある人物が教区委員の選挙で落選しそうだとのこと。しかし,これは船乗り仲間の情報な
ので,丸々信用することは出来ない。
パディントンからの手紙によると,雌ブタの去勢を生業にしているかのウィリアム・ス
クウィークが今月 5 日に当地にやって来たとのこと。
フラムからは事態の進展はないとの情報が入っています。パーソンズ・グリーンで上等
なエールの樽の飲み口があけられたとの情報があるが,確認できていません。
以上貴殿に町の人々の楽しみとなる情報の見本を提供しましたが,これを定期的に新聞
の形で提供しますと,自分のことよりも他人のことを知りたがっている公共心のある多く
の人にとって非常に好ましいものになることは間違いないものと考えています。自宅近く
の出来事を知らせるこの種の新聞は,ツークやベンダー8) の情報が満載されており,平和
5)マルリーおよびヴェルサイユについては,第395号参照。
6) 1 ペニー郵便については,第148号参照。
7)セント・パンクラス・イン・ザ・フィールドの教会は当時,結婚式場として人気があった。
8)ツークはローマカトリックを信奉する州の一つだった。ベンダーはベッサラビアにあり,1711年,
スウェーデンのカール12世は宰相と共にこの地に避難した。
326
大阪経大論集
第64巻第1号
な時代にありがちな情報不足のなんらかの埋め合わせをしている類いの新聞よりも,私た
ちにとってははるかに有益なものになると期待しています。貴殿がこの企画を好意的に受
け止めてくださると分かれば,近いうちにさらに二,三貴殿のお手を煩わせることになる
と思います。何卒よろしくお願いします。
敬具
第453号
1712年 8 月 9 日(土曜日)
【アディソン】
ひ弱で並の翼では,空に舞い上がる私の体を
支えられないだろう。(ホラティウス)1)
感謝の念ほど喜ばしい心の働きはありません。感謝の念には本分を果たした十分な報い
があったのだという内的な満足感が伴います。これは困難で骨の折れるその他多くの美徳
の実践とは異なりますが,非常に大きな喜びが伴いますので,これを命じる絶対的な指令
とかその後の償いがなければ,これに伴う自然な喜びがありますので,寛大な人は喜んで
感謝の念を表します。
もし感謝の念が人から人に与えられるべきものであるとすれば,人から造物主への感謝
は絶大なものになります。神は私たちに,直接神自らの御手から生じる恵みだけでなく,
他人から伝えられる恩恵も与えておられます。私たちが享受するあらゆる祝福は,何に由
来するものであっても,善の大いなる創始者であり慈悲の父である神の贈物なのです。
もし感謝の念がお互いに発揮されると,謝意を表す人の心にとても喜ばしい感覚が生ま
れます。感謝の念が大いなる感謝の対象,つまり,私たちがすでに所有するあらゆる物を,
そしてまた,私たちが希望するあらゆる物を授けてくださる情け深い神に向けられると,
魂は恍惚とした状態にまで高められます。
異教徒の詩人の作品の大半は,神々に対する直接的な賛歌か各人の特質と文才への間接
的な賞賛のいずれかでした。ギリシアやラテン詩人の現存する作品に精通している人々は,
考えて見ると,この意見は至極もっともなことだと思われるでしょうから,私としてはこ
れについて詳しくは語らないことにします。わがキリスト教徒の詩人たちの多くが,特に
神に対する考えがおそらく異教徒の心に入ったものよりも限りなく偉大で気高いものであ
るだけでなく,想像力を喚起させるあらゆるものが詰まっており,この上なく崇高な考え
や着想を生み出す機会を提供してくれているのだと考えると,わがキリスト教徒の詩人た
ちの多くがこのように考えないことを不思議に思われるに違いありません。
プルタルコスは,ディアナへの賛歌を歌っている異教徒がおり,その歌で彼は人間の生
贄やその他残酷さと復讐の例を楽しみにする彼女を称えているのだと語っています。この
信心の場に居合わせており,神性ということを真に分かっていたと思える詩人がその信奉
1)ホラティウス『頌詩』2.20.12
スペクテイター』(48)
327
者を叱責するつもりで,自分としては,あなたの賛歌の償いとして,あなたが祝福する女
神と同じような気質の娘さんがいたらどれほどいいでしょうと告げたのです。実際,異教
の信条によれば,こういった偽りの神性を称える言葉を書くとすると,場違いで愚かな言
葉を混ぜないと不可能だったのです2)。
キリスト教が広まる以前では,唯一神に対する真の知識を持っていたユダヤ人は,私が
今述べている神の才能をいかに用いるべきかそのお手本をキリスト教世界に示したのです。
かの国は多くの天才を生み出しましたが,彼らのことを傑出した作家とは見なしていませ
んでしたので,私たちの元へ多くの賛歌や聖歌が伝えられました。これらは捧げられるテー
マの多さもさることながら,詩歌の点でも古代のギリシアやローマの人々が伝えているも
のよりも勝っています。このことについては機会さえあれば簡単にお示しできるものと私
は考えます。
私はすでに皆さんに神聖詩についてはいくつかお伝えしたことがあります。これは非常
に好評でしたので,まだ活字になっていなく,読者に受け入れられると思われる同種の作
品を折に触れ公表したいと思います。
Ⅰ
ああ神よ,あなたの大いなる慈悲を,
私の高まる魂が見渡すと,
その眺めに夢中になった私は,
驚嘆と愛情と賞賛に包まれて途方に暮れる。
Ⅱ
うっとりとした私の心の中で高まる
感謝の念はなんとした言葉と興奮を
示すことでしょう。だが,あなたには
それお読み取ることはできません。
Ⅲ
私は神の摂理によって元気づけられ,
欲望は癒された。
私は静かな胎内に横たわり,
胸にすがりついたのだ。
Ⅳ
私のか弱い苦情や泣き声に,
あなたの慈悲が耳を傾けてくださった。
私の弱々しい思考は,いつの間にか
お祈りへと変わるのであった。
2)プルタルコス『モラリア』22A, 179AB
328
大阪経大論集
第64巻第1号
Ⅴ
私の魂に,数え切れない慰めを
あなたの優しさが授けてくださった。
私の幼稚な心には,あなたから流れ出て来る
慰めが宿るのであった。
Ⅵ
すべりやすい未熟な道にあって
無思慮な足取りで走ったとき,
目に見えないあなたの腕が私を支え,
私を大人へと導いてくださった。
Ⅶ
隠れた危険や罠や死が待ち構えている中を,
私の歩む道から障害物を取り除いてくださった。
楽しい悪徳の罠がある中で,それを恐れるほうが,
もっと楽しいのだと教えてくださった。
Ⅷ
病気で打ちひしがれているとき,あなたはしばしば
私の顔に元気を甦らせてくださった。
罪と悲しみに打ち沈んでいるとき,
私の魂は恩寵を受けて甦った。
Ⅸ
あなたの気前のよい御手が,私のコップを
現世の至福で満たしてくださった。
優しく信心深い友に囲まれて,
私の蓄えは 2 倍になった。
Ⅹ
無数の貴重な贈物を受けるには
私の日々の感謝の気持ちが必要となる。
喜んでその贈物を味わうには
快活な心がないと始まらない。
人生のあらゆる時期に,
私はあなたの善を追い求める。
そして死後の遠い世界では,
栄光のテーマが再び始まるのだ。
自然が衰え,昼と夜の区別がつかなくなると,
スペクテイター』(48)
329
ああ,神よ,私の心に常に宿っている
感謝の気持ちが,あなたの慈愛を
あがめることになる。
永久不滅へと向かって
私は喜びの歌を口にする。
ああ,永久不滅の時間は短すぎて
あなたを十分に称えることはかなわない3)。
第454号
1712年 8 月11日(月曜日)
【スティール】
仕事をしない時間を自分に許したくないんだ。
好きにさせてくれ。(テレンティウス)1)
世の中のことが少し分かっていて目立たない存在であることは,言うに言われない喜び
です。かかわりを持たずに,際限のない好奇心を持って新しいことを観察するのは,思索
に打ち込む人のみが覚える喜びです。いやむしろ,これを楽しむ人たちは思索の対象とな
るものだけを重んじなくてはならないのです。そこから世俗的な利点を引き出すのではな
く,自らの楽しみ,つまり,精神の向上に寄与させなくてはなりません。先週の一晩リッ
チモンドで眠りに就きましたが,不快感からではなく,誰にでも時々ある気ぜわしい気持
に駆られたために落ち着かず,朝 4 時に起き出して船に乗ってロンドンへと向かったので
す。24時間かけて船と馬車で移動することにしたわけです。こうすることで,否応なく遭
遇するさまざまな物が私の想像力を疲れさせ,その時可能であったものよりもずっと深い
平穏さを与えてくれると考えたわけです。現在もそうですが,その時もしばしば行なって
いた奇妙な気質をご容赦いただきたいと思います。私は知人であろうとなかろうと,気に
入った人には挨拶をするのです。これは,私の最大の喜びは見ることで生じるのだという
こと,そして,お宅を訪ねて話を交わすのと同様に私の視野に入って来る感じのよい人物
のお陰であることをお分かりいただけると,許していただけることだと思います。
ロンドンおよびウェストミンスター両市には,四六時中さまざまな年齢のさまざまな人
たちがひしめいています。 6 時の人は 9 時の人に, 9 時の人は12時の人にそれぞれ道を譲
り,12時の人たちが消え,社交界のために場所をあけると,午後 2 時には社交界は頂点に
達します。
最初に下船するすぐに,ロンドンのいくつかの市場港を目指す運び屋の一団に遭遇しま
3)ハッチンソンは,ジョージ・ハーバートの詩の編集で,彼の「賞賛」の最後の 2 行にこれを用いて
いる。
1)テレンティウス『自虐者』90。これは,城江良和訳( 西洋古典叢書』京都大学学術出版会,2002
年)から借用。
330
大阪経大論集
第64巻第1号
した。それぞれの商品を売るために精を出しているこういった人たちの快活な様子を目に
することはこの上なく喜ばしい光景でした。それぞれの河岸には人が溢れ,心地よい植え
込みがあって奇麗になっています。各地の産品を積み込んだテムズ川自体がこの風景に彩
りを添えたのです。船や血色のよい船荷監督の顔つきから,町のどこに向かっているのか
は簡単に分かりました。コヴェント・ガーデンに向かう商人にはその雰囲気があり,彼は
さかんに午前様の道楽者と話を交わします。これはストックス・マーケット2) に向かう商
人たちの生真面目な雰囲気とはまったく異なっているのです。
船旅では目覚しいことは何一つ起こりませんでしたが,ナイン・エルムズ3) に立ち寄り,
コヴェント・ガーデンのサラ・スエル会社宛のカフ氏のメロンを積み込んだあと,私はス
トランド・ブリッジ4) でアンズを積み込んだ10隻の船と一緒に接岸しました。 6 時にスト
ランド・ブリッジに着き,積荷を下ろしているとき,同時に先夜の馬車の御者たちが眠り
の就くためにダークハウス5) で互いに暇乞いをしたときに,市場に向かう私たちのそばを
煙突掃除夫たちが通りがかりました。果物売りの女の一人とこの薄汚れた男たちは,それ
ぞれの仕事をあてこすって悪魔とイヴをめぐってからかい合うのでした。私にはコヴェン
ト・ガーデンほど愉快な場所はないものと思えました。私は果物屋をつぎからつぎへと見
て回りました。周りには感じのよい若い女性たちが群がり,彼女たちはそれぞれ家族のた
めに果物を買い求めているのでした。さまざまな品物が並んでいるその場所を離れる頃に
はほぼ 8 時になっていました。私は,お手伝いさんを一人連れて旅をしている若い婦人の
あとから馬車に乗り込みました。私はすぐにその女性がヴェインラブ家の一員であること
が分かりました。こともあろうに目隠し遊び6) に影響を与え,男たちを出自も何も分から
ない人への恋に導くこういった一団の連中が存在します。この種の女性は通常快活でふし
だらな女です。この種の女性は,服装に注意を払い,顔に頼り,しなを作り,絶えず場所
を移動します。張り合っているように見せながらも見ないふりをし,それでも相手には自
分に笑いかけていると思わせます。みなさんは御者たちがその日の稼ぎをほのめかすため
に馬車を走らせながら御者仲間に指で合図をしているのをしばしば見かけたことがあるは
ずです。彼らは行き先の情報を伝えるために身振りで話ができます。私の御者が追うよう
にとの目配せをするとすぐに,婦人の御者はロングエーカー7) からセント・ジェイムズに
向かっているとほのめかしました。御者が鞭をあてジェイムズ・ストリート8) へと差し掛
かると,セント・マーティンズ・レーンで通行許可証を免れるためにキング・ストリー
2)ストックス・マーケットはロンドン市庁舎の敷地内にあり,元そこにあった罪人用のさらし台
(stocks) に名前の由来がある。チャールズ 2 世の大理石製の騎馬像があった。
3)ナイン・エルムズはテムズ川南岸にあり,バターシーとヴォクソールの中間にあたる。
4)ストランド・ブリッジはストランド・レーンの麓サマセットハウスの東にある荷揚げ場。
5)ダークハウスは以前(1590−1687)狂人を監禁するために使用された。
6)「目隠し遊び」については,第245号参照。
7)ロングエーカーについては,第250号参照。
8)ジェイムズ・ストリートはコヴェント・ガーデンの大広場の北からロングエーカーに通じる道幅は
広いが短い通り。
スペクテイター』(48)
331
ト9) へと道を取りました。この御者は互いに出くわし,接触し,威嚇し合い,ニューポー
ト・ストリートとロングエーカーの交差点でかちあうように気を配りました10)。信じてい
ただかなくてはなりませんが,この恐怖によって婦人の馬車のドアは傷つき,婦人は何の
騒ぎか知ろうと仮面を外したのです。そして,避けようとしていた男性を目にすることに
なったのです。馬車の窓の巻き上げ装置の具合が悪く,彼女は二度と窓を引き上げること
はできず,馬車の事故によって,彼女は時には顔を全部あらわにしたまま,ある時には半
ば隠しながら進んだのでした。こういった婦人の一人は,調教の行き届いた馬に乗る非常
に上手な乗り手のように,2頭立ての四輪馬車では巧みに席につきます。左足のレースで
飾った靴を無造作に向かいのクッションに載せ,体をしっかり支え,つぎに来る揺れをき
ちんとした姿勢で受け止めるのです。
彼女は優秀な女御者でしたので,御者たちの腕前によって,町のあちこちで1時間半と
いうものたっぷりと彼女を眺めることになりました。ついには,彼女の乗った馬車の御者
から立ち去るようにとの私たちへの注意を受けて,うまい具合にこのご婦人は消えたので
す。御者は彼女の行き先を聞いているはずでした。この追跡は終わりとなり,彼女を乗せ
た御者が私たちのところへやって来て,1時間したら戻って来るように指示されたことを
明らかにしました。彼女は「かいこ」11) だということでした。この言い回しを聞いて,私
は驚きましたが,これは御者仲間で大事なお客さんを表す隠語だったのです。つまり,
「かいこ」というのは,週に2,3度町にやって来て,各店を渉猟し,何も買わずに商品
を混ぜ返す女性のことを意味するのです。どうやら,「かいこ」は商人たちから甘やかさ
れているようです。彼女たちは買うことはありませんが,いつも新しいシルクやレースや
リボンの話題を取り上げ,お客を連れて来てくれるからです。彼女たちは,ちょうど借金
取立人が支払いを促すのと同じような役割を演じるわけです。
今や社交界の一日が始まり,荷馬車や貸し馬車と見栄っ張りな供回りたちが入り乱れて
来ました。私は低俗なところから抜け出すことにしましたが,私のあいにくの好奇心が湧
いて来て,乞食やバラッド歌手などを見て回るために馬車に乗って出かけることになり,
いらぬ出費をすることになります。直ちにつぎのようなことが発生しました。ウォリック・
ストリート12) の角で新曲のバラッドに耳を傾けていましたら,私のことを知っているみす
ぼらしい姿の乞食が私に近づいて来て,隣のエールハウスへ入るための 6 ペンスを恵んで
くれないと自分は極度の貧困に喘いでいて喉がからからで行き倒れになると言うのです。
この発言を聞いて周りの人たちの目が私に向けられました。彼は憂いに満ちた表情で家族
も全員脱水症状で死んでしまったのだと懇願したのです。野次馬たちはみんなユーモアを
9)キング・ストリートはコヴェント・ガーデンの北西部からニューストリートとローズ・ストリート
の交差点まで延びていた。
10)ニューポート・ストリートはロングエーカーからポスター・ストリートまで西に延びている通り。
11)商品を買わずにウィンドウ・ショッピングをして回る女性は「かいこ」と呼ばれた。
12) タトラー99号に,行商人たちはウォリック・ストリートへ出られる裏口を持っているとの記述があ
る。
332
大阪経大論集
第64巻第1号
解し,2, 3 人が茶化し始めました。スターディ氏は主張を通し,私をこっそり馬車へと
連れ戻しました。馬車を走らせながら,リッチモンドを出て以来いろいろと変化する世間
を見るのは楽しいことでした。その光景には今でも新しい時刻の所産が満ち溢れているの
です。シティーに向かうに連れてこの満足感が増して行きました。シティーの中心部,商
業の世界の中心地である王立取引所13) に着くまで,鮮やかな看板,整然とした街路,壮麗
な公共の建物,満ち足りた表情で飾り立てられた豊かな商店がその喜びを一層高めるので
した。周りの人たちは期待と売買に胸を膨らませていましたので,私は各人の関心に気を
配りながら彼らを観察しました。実のところ,この日取引所を歩いている人たちの中では
私が最も豊かだと思いました。なぜなら,徳税によって私は行われているあらゆる売買の
利益を共有できたからです。階段を上り愛想のよい女性たちが営む店の前を通り過ぎるの
は少なからぬ満足感を覚えました14)。忙しくリボンをたたんでいる奇麗な手とかカウンター
に並べたつけぼくろやピンやワイヤーを熱心に売っている表情を見るのは楽しいことでし
た。あなたたちを見ているだけなのですと返事をしたのですが,もし彼女たちが私に何か
ご入用ですかと呼びかけなかったら,その場にもっと長居していたに違いありません。階
下が見下ろせる窓のところに行きましたが,いくつかの声が混ざり合って意味不明な騒音
となって聞えて来るのでした。これを聞いていると,私は少々熱心すぎる人について思い
を馳せることになりました。私はある種地口を込めて「高みにいる人たちにとって世間の
喧騒はなんとたわいのないことだろう」と思ったのです。こういったあまり賢明でない考
えに取り付かれ,私は肉料理店でどこまで考えていたのか忘れるのでした。肉料理店では,
誰もが私たちにお馴染みの内気とむっつりさを発揮しながら,ラウンジでスープとか肉を,
まるで,互いの知合いでない限り,そばにいる人に話しかけるつもりはないとでもいうよ
うに無言のまま口に運ぶのです。
その後で,ロビン・コーヒーハウスへ行きました15)。そして,つい先ほど5ペンス食堂
で一緒に食事をしていた人たちが資産に見合う手形を差し出すのを目にしました。そこで,
保管されており,一瞬のうちに一見自らの財産の半額も自由に出来ないと思われる人たち
から譲渡されている財産を非常に愉快に見つめざるを得ませんでした。日々こういったこ
とが行なわれているのでした。しかし,午後 5 時前にはシティーを離れて,お馴染みのコ
ヴェント・ガーデンへ向かい,ウィル・コーヒーハウスで夕べを過ごし,何組かの人たち
の話に耳をそばだてました。私の聞こえるところで,彼らはカード,ダイス,恋,学問,
そして政治の話をしながらお互いに気をまぎらしていました。政治の話に耳を傾けている
と,この街路担当の触れ役の「 2 時過ぎになりました」という声が聞こえて来ました。こ
れを機会に席を立ち,たいまつ持ちに導かれて下宿先へと向かいました。彼の個人的な経
済状態の話,つまり,たいまつに依存している家族の費用や危険や損益の話を聞き出しま
13) 王立取引所については,第69号参照。
14) 商店は取引所を囲む建物の上階にあった。
15) ロビン・コーヒーハウスはエクスチェンジ・アレーにあり,商人たちの溜り場であった。あと2店
は,ギャラウェイとジョナサン。
スペクテイター』(48)
333
した。私の不真面目な一日を寛大な気持ちで締め括るために,たいまつ持ちの賃金の2ペ
ンスではなく 6 ペンスを渡してやりました。部屋に入ると,以上のメモを書き留めました。
しかし,こういった取るに足らない事柄から読者にどんな助言をしたらよいのか途方に暮
れました。でも,読者が私と共に,感謝に対する率直な気持を持ち,遭遇するあらゆるこ
とから感謝の心を受け止める心積もりができれば,大いに有益だと考えたわけです。この
気持さえあれば,出会うすべての人々があなたにも友人の顔を見るときに感じる満足感を
与えてくれることになります。すべてが喜ばしいものとなり,善に包まれ,あなた自身の
幸福も増大するのです。
第455号
1712年 8 月12日(火曜日)
【スティール】
私は一生懸命に骨折っているハチが好きだ。ハチは,
花の咲き乱れている野原を控え目に飛び回るのだ。(ホラティウス)1)
つぎの手紙には,学識者の世界にも家庭生活にも重要と思われる考えが伺えます。最初
の手紙では,寓意の用い方が非常に巧みですので,優れた著述の分かる人にとってとても
満足のゆくものとなっています。その他の手紙には日常生活において有益なことが書かれ
ていると思います。
観察者殿
先日ある素敵な庭園を散策し,別のやり方では考えられないほどの多種多様な草木や花々
の改良を観察したとき,私は自然に教育つまり道徳文化のメリットについて考えさせられ
ました。人々の場合も植物と同様に,育むさいのしかるべき配慮と上手な管理が欠けたた
めに,人々が備えている数多くの素晴らしい素養が失われます。周りの群がる雑草のため
に,数多くの美徳は成長を抑えられているのです。不適切な土壌に植えられると,優秀な
資質もしばしば飢え,無駄になってしまいます。適切な施肥や必要な剪定およびか弱い性
質,生命の最初期に対する上手な管理がないと,道徳の種子が期待される立派な果実を実
らせるのはごく稀なことです。こういった明白な思索を通して,私はついにはつぎのよう
な結論に達しました。つまり,あらゆる人の心には生まれるとき植物界の法則と似たよう
なものが備わっているということです。乳児期には種子は埋もれて発見できませんが,し
ばらくすると,分別のある葉,つまり,言葉を発するようになります。そしてしかるべき
季節がやって来ると,色とりどりの花が咲き,若々しい空想や想像力が発揮されるように
なります。そして最後には実を結び形が出来上がって行きます。これはおそらく,最初は
青く,酸っぱくて食べられないでしょうが,しかるべき注意を払うことで熟成し,哲学,
数学,周到な推論,および見事な論証といった堂々とした成果をもたらします。こういっ
た果実が,十分かつ立派に成熟しますと,人々の心にとって活力のある滋養を与えること
1)ホラティウス『頌詩』4.2.2730
334
大阪経大論集
第64巻第1号
になります。私は上述の知性の葉について考察を進め,そこには植物界と同様に実に多様
なものがあることが分かりました。滑らかで光り輝くイタリアの葉とかいつも動いている
軽快なフランスのアスペンとかギリシアやラテンの常緑樹とかスペインのギンバイカとか
イングランドの樫の木とかスコットランドのアザミとかアイルランドのツメクサとかドイ
ツやオランダのとげのあるヒイラギとかポーランドやロシアのイラクサ,さらにはアジア
やアフリカやアメリカから持ち込まれたさまざまな外来種が簡単に見つかるのでした。花
や果実をつけず葉だけの不毛の植物もいくつか見つかりました。香りもよく形もいい葉も
ありましたが,嫌な匂いの形のいびつな葉もありました。私は風変わりな植物学者たちが
いることを知って驚きました。エジプトやコプトやアルメニアのしおれた葉の研究に一生
を費やした人たちや豊富な草本収集を仕事にする人たちがいたのです。花々は姿,色,お
よび香りが実に多様でとても楽しい楽しみを提供するのでした。しかし,その大半はすぐ
にしおれるか,せいぜい 1 年草でしかありません。草花栽培者はこれを不断の研究対象と
しかつ職業にし,果実はすべて見下しているのだと言い切る人たちがいました。凝り性の
人たちは,時折,チューリップとかカーネーションの栽培一筋にすべてを捧げるのです。
しかし,最も心地よい楽しみは,いろいろな花をうまく選び,組み合わせて婦人へのプレ
ゼントの小さな花束を作ることだと思えます。イタリアの花の香りは,彼らの香水と同様
に,強すぎて脳を痛めます。フランスの花の香りは派手で華やかですが,弱々しくけだる
くなります。ドイツや北方の花は,ほとんどあるいはまったく匂いがなく,あっても不快
な匂いです。古代の人たちは,自分たちの好みの花に永続的な美や色や甘美さを授ける秘
訣を持っていました。こういった花は今でも花開きますが,現代の人々にはこれが出来ま
せん。こういった花は季節を迎えますと心地よいものとなり,しばしば楽しみに彩りを添
えます。しかし,溺愛は病気だと思われます。(オレンジの木のように)元気がよく,美
しい輝く葉と香しい花をつけ,同時に,美味しい果実をつける植物は稀です。
敬具
1712年 8 月 6 日
前略
貴殿は先週土曜日2),習慣の力とあらゆることを心地よいものにするその素晴らしい効
果について非常に優れたお話をしてくださいました。教えられることが多くあり,概ね大
変満足でした。だが,正直に言いますと,あらゆることを楽しいものにするという貴殿の
ご意見には全面的賛成しかねます。要するに,私は光栄にもある若い婦人と結ばれている
のです。彼女は,分かり易く言いますと,どうしようもないがみがみ女なのです。結婚し
て 2 ヶ月ほど経つと,私にも召使にも好き放題に口を利き始めました。この 3 年間という
もの彼女のこういった気質には慣れて来ましたが,対処の仕方が分からりません。最初も
そうでしたが今でも面白くありません。彼女のことについては彼女の親戚に相談しました。
すると,彼らはみんな彼女の母親も祖母もそうだったのだと言います。血筋ということで
2)習慣の力については,第447号参照。
スペクテイター』(48)
335
すので,彼女が回復することはほぼ見込めません。この件で貴殿から少しでも助言がいた
だけると有り難いのですが。私としてはしぶしぶお願いしますが,私の満足の行く方法を
教えていただけませんか。よそよそしく耐えられるようになると,満足するのですが。
草々
追伸:気の毒な彼女を公平に扱うために,この結婚は彼女自身が選んだことでも私が選ん
だことでもないことをお知らせしておかなくてはなりません。その点を考慮して,私は彼
女を挑発するようなことは一切していません。実際,通常結婚した当初お互いに嫌がって
いてうまくやっていく人たちよりも,私たちは仲良くやっています。両親に対する罪を回
避するあるいは少なくとも軽減するために,縁組みをさせたことに対して,私の妻は私の
両親に毒づき,私は彼女の両親に悪態をつきます。
観察者殿
先般,貴殿が提示されたテーマを大いに気に入っています3)。今を生きているものとし
て論じることができれば嬉しいと考えます。でも私は妻についてもお金についても論じる
資格がありません。これ以上進行して欲しくないと願っていますが,秘密を打ち明けます
と,私は妻もお金も自由にはできないのです。
1712年 8 月 8 日
ピル・ガーリックより4)
観察者殿
この手紙が広く注目されるように,イタリック体で活字にしていただきたいと思います。
私としましては,法廷,説教壇,あるいはその他人々の集まる場所で口を開くあらゆる人々
に,直喩の使い方にいかに無知であるかを警告したいと考えたわけです。ほかの場所でも
そうですが,説教壇においてもこの乱用がひどいので,この警告を私の知っているすべて
の人々に与えたいと考え,彼らの今後のためを思って貴殿の権威にすがりたいと思った次
第です。先週の日曜日,名前は伏せますが,お祈りのとき立っている会衆の何人かをたし
なめるために,「あなた方の姿を見た人は,あなた方には象のように膝がないと考えます
よ」と言うのでした。しかしながら,私はバーソロミューの市で象があの器用なウィリア
ム・ペンケスマン氏を乗せるために膝をついているのをこの目で見たのです5)。
草々
第456号
1712年 8 月13日(水曜日)
【スティール】
おおっぴらに振舞いを非難されている人物は,
ひっそり零落しても苦しみはしない。(キケロ)1)
3)この点については,第442号参照。
4)ピル・ガーリックという名前は,pilled つまり禿げ頭から来ており,皮をむいたニンニクと戯れて
いる。
5)ペンケスマンが象を使ったことは,タトラー20号に登場した。
336
大阪経大論集
第64巻第1号
オトウェイは,彼の悲劇『守られたヴェニス』の中で,資産が没収された高潔な人物の
悲惨さについて描写しています。卑しい人々から馬鹿にされ笑われることの辛さ,恥辱あ
るいは憐憫の情もない冷酷な人々から辱めを受けることの苦しみ,そして正義を口実に資
産を荒らされることの不当な扱いは,ピエールが発するジャフィアへのつぎの台詞によっ
てさらに重いものとなります。
私がドアのそばを通りかかったそのとき,悪党たちの一団に
彼らが監視されているのが分かりました。
強奪の落とし子たちが破壊していたのです。
彼らは法の宣告を申し渡しました,
あなたの全財産を没収する任務を受けていたのです。
いやそれどころか,残酷なプリウリの署名があったのです。
ぞっとする顔つきの一人の悪漢が立っており,
積み上げられた貴金属を見張り,競売にかけました。
あなたの破滅をひどくからかう者がいました,
彼はあなたの家に昔からあった装飾品,金の混じった豪華な
壁掛けなどすべてを手に入れました。
あなたが結婚の初夜,ベルヴィデラと共にしたベッドは,そう,
あなたの喜びのすべてであった現場は,汚らわしい地下牢の
悪党たちの下品な手によって汚され,
野卑ながらくたたちの中に放り出されたのです2)。
実際,破産状態ほど不幸せなものはありません。不運あるいは他人の危害によって生じ
る苦難には多少の慰めがありますが,自らの不品行あるいは過ちから生じる苦難はこの上
なく悲しいことです。必要を満たすに十分な財産だけでなく,生活必需品,食糧の要求ま
でもが債権者のなすがままになっていると考えると,自分は死んだも同然だと考えざるを
得ません。状況は悪化し,最後のお世話を友人ではなく敵対者から受けることになるので
す。破産したその瞬間から,残酷な世間の人々がその人の全財産だけでなく関係のないあ
りとあらゆる物まで押収してしまうのです。なんということのない行為もすべて新しい解
釈が施されます。それまで彼が目を掛けていた人々も,敵と一緒になって非難して,彼に
対する義務を放棄します。こういったことになるのは信じ難いことですが,往々にして債
権者の苛立ちと混ざり合った誇りが介在します。そして,自分自身や債権者の満足感にと
いうよりも,成功した人物の失墜によって自らの誇りを回復する人たちがいます。これま
で豊かさを享受していた惨めな人物が,他人の管理下に置かれるのです。そして,これま
での知恵も経済も良識も技能も,現状の不幸な出来事のために,あらゆる点において役に
立たなくなります。幼児とか狂人の無力さは食糧や住まいを得るためにありますが,破産
1)キケロ『クインティウス弁護』15.50
2)トマス・オトウェイ『守られたヴェニス』(1682) 1.232
49
スペクテイター』(48)
337
者の無力さは,破産することになった不幸な出来事という点では何ら軽減されることなく,
完全な破滅となってしまいます。債権者の免除を受けてもまだ,財産が移管された人物へ
の支出が残ります。破産した人物は他人が自分の財産を処理する様子を傍観するしかなく
なります。これは管財人というより破壊者が自分の財産をあますところなく食い散らすこ
とにほかなりません。
高潔で立派な人物の悲惨には何か侵すことのできないものが存在します。このため,賢
明な立法者たちはとても手厚く,権利を有する人には被告への怒りを込めた行動を認めて
いるのです。徳高く慎み深い人たちはなんらかの術策でもって扱われますが,仕返しをす
る力を持っています。しかし,その力をなかなか行使しようとはせず,厳しい手段を打っ
て出ることはありません。彼らは訴える前に,傷つけられた人たちだけでなく,長く耐え
ることは困り者たちに他の人々を傷つけさせることになるのだということを明らかにしよ
うとします。こういった人々は胸をポンとたたき,市民の生活を思うままにすることがど
んなことであるか考えます。可能であれば自らの魂に語りかけますので,彼らが滅ぼした
人を助けたときよりもむしろ,滅ぼすことができたと思われるときに慈悲深くなったので
す。これはよくある人生の災難のせいであり,ある程度まさに敵のお陰です。ほんのかす
かな危害を加えることを気遣う人々は,最大の正義を行使することに慎重になります。
多様な人生に精通している人に意見を求めてみると,慈悲心が欠けている人は何事につ
け楽しみの味を知らないと言います。こういった人物は本来善なるものをすべて嫌悪しま
す。要するに,生まれながらにして世間に敵対しているわけです。自らのあらゆる行動で
は自分に甘く,罰せられない限り罪悪感を持ちません。国法は金科玉条であり,善悪はす
べて法定代理人がこれを判定します。こういった人物は悲惨な人の心を喜ばせることがど
ういうことか分かりません。富がその所有者の気質にしたがって天国ないし地獄の目的に
適う道具となります。裕福な人々は支配下にある人たちを苦しめたり喜ばせたりすること
ができ,人間に対する愛情あるいは憎しみの気持によっていずれかを選ぶことになります。
ひたすら自分の気持に従うだけで,他人の事柄に無神経な人々に関しては,死を免れない
という点においてのみ値踏みすることが可能で,状況の好転は相続人にしか望みは持てま
せん。私としては破産したある著名な市民からの手紙を非常に楽しく読まざるを得ません
でした。破産するまで親しく付き合っており,援助を受ければ挽回が可能と思われる人物
宛に手紙を書いたのでした。
拝啓
最高の弁護人でも守ることができないこの不運に見舞われた自責の念に対して,言葉を
重ねて弁解をしてもむなしいことです。私の状態に陥った人たちが行なったり言ったりで
きることはすべて,大多数の人々から偏見を持って受け止められることでしょう。でも,
貴方はそうでないことを望んでいます。貴方は私が失ったものを取り戻す助けとなる大き
なきっかけとなる方です。私への思いやりから,落ちぶれた私の姿を目にするのは貴方に
とって苦痛以外の何ものでもないものと思います。私が苦難に耐えられる人物であること
を示すために,私は哀れな人物ではありますが,私たち二人の違いは棚上げして,ほぼ互
338
大阪経大論集
第64巻第1号
角だったときそうであったように,率直に話すことにします。私の行うことはすべて偏見
で受け止められますが,貴方の行なうことはすべて偏愛で受け止められます。貴方に心か
ら望むのは,誰からもご機嫌伺いをされている貴方から,誰からも遠ざけられている私に
微笑みかけてもらいたいのです。私に向けられている冷淡さの埋め合わせをするために,
私に好意を寄せて欲しいのです。善良で寛大な人は私への思いやりから私に思いやりを持っ
てくれ,その他の人々は貴方への思いやりから私のことを見つめます。貧困には破壊的な
悪影響があるように,富には幸福な影響が存在します。裕福な人は蓄えの一部を手離すこ
となく豊かになれますが,貧しい人との交際は何一つ借りなくても貧しくなります。なぜ
こうしたことになるのか私には分かりませんが,付き合う人によって評価がついて回るの
です。もし貴方がかつての貴方であれば,私の回復に大いに役立ちます。そうでないなら,
仮に回復するにしても,遅々たるものになるに違いありません。
敬具
これに対する返事は恩着せがましいものでした。長々と押し付けがましい思いやりを述
べ,彼の苦境を侮辱はしていませんでしたが,以下の文面となっていました。
親愛なるトムへ
貴方がやり直す元気を持っていると知り大変嬉しく思っています。確信していますが,
ごく最近貴方の身の上に降りかかったことで,(私が常々賞賛していました天賦の才能の
お陰で)貴方の家族の皆さんは全く傷ついてはいないもの思います。私としてはお会いし
て貴方を支えるだけでなく,相当な額を 3 年間常識的な利率で融通してあげたいと思いま
す。ご承知のように,これでもっと儲けることは可能ですが,貴方のことはとても愛して
いますので,貴方を手助けすることで儲けは度外視します。なぜなら,私の死後,私の生
存中私が望んでいたよりも多額の15万ポンド貯め込んでいたのだと噂されたくないからで
す。
草々
第457号
1712年 8 月14日(木曜日)
【アディソン,ポープ】
それでいてあなたは何か大きなことを
約束したようだ。(ホラティウス)1)
本日は,読者の皆さんに先週金曜日と同じ書き主の手紙を提示したいと思います。先週
の手紙2) には 1 ペニー郵便の届く範囲内を対象とした新聞を発行するとの提案が述べられ
ていました。
1)ホラティウス『諷刺』2.3.9
2) 1 ペニー郵便については,第452号参照。
スペクテイター』(48)
339
拝啓
新聞を発行したいとの私の企画を紹介した先週金曜日の手紙に対して貴殿から快い反応
をいただきましたので,さらに二言三言お伝えしたいと思います。貴殿もご承知のように,
私たちは貴殿のことを学識界のラウンズと考えており,貴殿からお認めいただかない限り,
いかなる企画も現実味があるとか合理的なものにはならないと考えています。もっとも,
それで入手するお金はもっぱら個人的な用途に資すことになるのですが3)。
私はしばしば,ダイアー氏とかドークス氏とかその他書簡史家たちのように,全国版の
「噂の新聞」は筆者のためになるだけでばく,一般の人々にとっても大いなる喜びとなる
ものと考えてきました4)。私の言う噂というのは,内緒事として伝えられ聞き手に二重の
喜びをもたらすニュースのことです。二重の喜びとは,一つ目はこれが内密のことである
こと,二つ目にこれには常に中傷の一撃があることがそうです。新聞記事にこの二つの要
素が加わって初めて,好奇心に満ちた人々の耳に魅力的に訴えかけることが可能です。私
が主として扱うのは,高位にある人の病気,国務大臣たちが行なっている薄明薄暮時の訪
問,秘密の求愛や結婚,密かな情事,賭け事での負け,職への志願などなどの成功談とか
失敗談なのです。私には二人の味方がおり,この人物はそれぞれある種を代表しています。
彼らは私に私の寄稿者に伝えたい噂を提供してくれます。一人は旧家ハッシュ家の末裔の
ピーター・ハッシュです5)。もう一人は老ブラスト夫人で,ロンドンおよびウェストミン
スター両市に無数の娘を抱えています。ピーター・ハッシュは町のほぼすべてのコーヒー
ハウスに噂の穴倉を持っています。もし貴殿が広い部屋で彼と二人きりになると,彼は貴
殿をその部屋の隅っこに連れて行き,耳打ちします。私はピーターがそれまで出会ったこ
とのない 7 , 8 人と同席しているのを目にしたことがあります。周りに聞き耳を立ててい
る人がいないか見回した後で,ピーターは低い声で,秘密を守るという約束で,彼らに国
のある偉い人がキツネ狩りをしている最中に死亡したのだと伝えました。もし貴殿がコー
ヒーハウスに入って行って人々がテーブル上に頭を寄せ合っているのを見掛けることがあ
れば,そこには九分九厘ピーターがいるのです。ピーターは朝 8 時にはギャラウェイで,
12時にはウィルで, 2 時前にはスミルナでその日の噂を流しているのです6)。ピーターが
このようにして秘密をうまく伝えますと,人々がお互いにまた聞きの形でささやき合い,
それを自分の話ででもあるかのように広めているのを聞いて,私は大変満足しました。知っ
ておいていただかなくてはなりませんが,ささやく最大の動機は誰もが持っている秘密だ
と思われること,そして,自分が思われている以上に偉大な人々のことを知っているのだ
3)ウィリアム・ラウンズは1695年から亡くなる1724年まで大蔵卿。彼はホウィッグ派だったが,1710
年のトーリーの勝利にもうまく生き延びた。
4)ジョン・ダイアーについては,第41号参照。イカボード・ドークスの新聞第 1 号は1696年 8 月 4 日
に発行され,1716年まで続いた。
5)1712年夏,フライング・ポスト紙は「おとぎの国の現状」という手紙を載せてトーリー政府を困ら
せた。この手紙の筆者はボブ・ハッシュと名乗った。
6)ギャラウェイに関しては第138号,ウィルに関しては第 1 号,スミルナに関しては第305号参照。
340
大阪経大論集
第64巻第1号
と思われたいという功名心なのです。ピーター・ハッシュについては以上ですので,つぎ
は徳高い老ブラスト夫人について述べます。彼女は女性の秘密とともにクリンプのテーブ
ルでのやりとりを私に伝えてくれます7)。ご承知おきいただきたいのですが,ブラスト夫
人はその噂に独特の悪意を込めますので,東風のような害があり,この息がかかった評判
はすべて枯れてしまいます。彼女は秘密の結婚を取り持つ特別なコツを知っており,この
前の冬には 5 人を超える上流階級の女性をその従僕たちと結婚させました。彼女の噂であ
どけない娘を孕ませたり,健康的な娘を名状しがたい心の病にかからせたりできます。彼
女は訪問を密通に,遠方からの挨拶を密会に変えることができます。彼女は裕福な人を破
滅させ,高貴な人を失墜させることができます。要するに,彼女はさもしいことあるいは
馬鹿げたこと,嫉妬深いことあるいは悪意に満ちたことをささやくことができ,必要とあ
れば,曾祖母の過失を持ち出すことができますし,墓に入って300年以上経つ誠実な御者
たちの思い出を愚弄することもできます。私は,こういった人々や同種の人々の助けを借
りて,非常に読み応えのある新聞を提供できるのは間違いないと考えています。私の企画
を貴殿にお認めいただいたら,早速つぎの郵便から始めたいと思っています。そして,私
がお送りする記事が自分にささやかれていることであって,秘密ごとなのだと考えてもら
うと,読者は誰もが大いに満足することは間違いありません。
私の企画の概略をお伝えしましたので,つぎは同様に貴殿の観察者としての知恵に委ね
ますが,もう一つ月刊のパンフレットのことを提案したいと思います。貴殿にお伝えする
までもなく,わが国だけでなくフランス,ドイツ,およびオランダには何名かの筆者がお
り,ヨーロッパ各地で出版される書物の抄録を掲載したいわゆる「学識者の著作に関する
報告書」を毎月発行しています8)。そこで私は「無学者の著作に関する報告書」を毎月発
行したいと考えているわけです。多くが無教養の世界では名立たる人物なのですが,わが
同胞が最近出版した何冊かを見て,この企画を思い立ったわけです。この仕事では,おそ
らく上述の外国の「報告書」の記事に関する評論をすることになります。もっとも,これ
らはこの題名の付いた著作では注目されることはなかったことでしょうが。同様に,時々
学識のある紳士との肩書きで互いにお世辞を言い合っている紳士の名前が付されて公共の
集まりに登場する著作も考察することになります。しばしば無教養な人たちであり,ある
いはもっとひどいことに知識をまったく持ち合わせていない人たちなのですが,編集者や
解説者やその他の人々はいうまでもありませんが,党派性を前面に打ち出す著者たちもま
た,実にさまざまなテーマを提供してくれます。この点については詳述しませんが,貴殿
がどんなことでも記事になるとお考えなら,私としては艱難を排して有益になるようにそ
れに努めたいと考えています。
敬具9)
7)「クリンプ」はカードゲームの名称。第323号参照。
8)「学識者の著作に関する報告書」は1699年から1712年まで発行された科学,哲学,宗教などを扱っ
た月刊誌。
9)この手紙の筆者はアレキサンダー・ポープと考えられる。
スペクテイター』(48)
第458号
341
1712年 8 月15日(金曜日)
【アディソン】
善からぬ類いの「恥じらい」(ヘシオドス)
偽りの謙遜(ホラティウス)1)
昨日,ある謙虚な若者が口にした釈明を聞いて私は微笑まざるを得ませんでした。パー
ティに招かれた彼は飲酒に慣れていなかったのですが,グラスを断る自信がなく,急に酔
いが回ってテーブルの話を独占し,みんなを罵り,自分に酒を注いでくれた紳士の頭に瓶
を投げつけたのです。この話を聞いて私は間違った謙遜のもたらす悪影響について考える
ことになり,プルタークが引用している「何事も拒めないものは,若い時のしつけが良く
ないのだ」2) というブルータスの言葉を思い出しました。こういった偽りの謙遜はおそら
く男女ともどうしようもない厚かましさをさらけ出すことになり,理性に照らしてみると
許し難いものとなります。なぜなら,これは,そのものというよりも他者を喜ばせること
になり,他の邪な習癖のように恥ずべき行いを行なった後だけでなく,まさに行なってい
る最中にも悔恨の情に襲われるからです。
真の謙遜ほど立派なものはありませんし,偽りの謙遜ほど軽蔑に値するものもありませ
ん。一方は美徳を守り,他方は美徳に背きます。真の謙遜は理性のルールに反することを
すると恥じ,偽りの謙遜は人々の気持に反することをすると恥じます。真の謙遜は罪にな
るあらゆることを避け,偽りの謙遜は時流からはずれるあらゆることを避けます。後者は
漠然とした優柔不断な本能にすぎず,前者は分別と信仰心のルールに基づいて制限された
本能なのです。
邪なことをさせる,つまり,善なることをさせない謙遜は偽りで邪悪であると結論づけ
ることができます。日々の生活では,多くの人々が融通できない金額をほんの少ししか知
らない人に貸したり,よく知らない人の推薦状を書いたり,評価しない人に仕事を与えた
り,自分では好ましく思えない生き方をしています。これらはすべてただただ懇願とか執
拗な要請や前例をはねつける自信がないためなのです。
この偽りの謙遜は私たちを無分別な行為にさらすことはなく,往々にして非常に犯罪的
な行為へと向かわせます。クセノファネスはさいころ賭博に金を賭けないということで臆
病呼ばわりされたとき,「私がこの上なく臆病なのは認めます。なぜなら,私は悪いこと
をする勇気がないからです」3) と彼は言いました。一方,邪悪な謙遜さを備えた人物はあ
らゆることに応じ,仲間から風変わりだと見られることをすることを恐れます。彼は流れ
に合わせ,いかに筋の通らないことであっても,仲間の人気者になるためにあらゆる行為
でも話でも付き合います。これはごくありふれたことですが,非常に馬鹿げた気質のひと
つです。こういった人々は自堕落あるいは不合理な言動を恥じるのではなく,仲間内にあっ
1)ヘシオドス『仕事と日』1.317,ホラティウス『書簡詩』1.16.24
2)プルタルコス『ブルータス伝』6.9,「恥じらいについて( モラリア』530A)
3)プルタルコス「恥じらいについて」( モラリア』530F)
342
大阪経大論集
第64巻第1号
て理性と美徳の原則に基づいて自らを律することを恥じるのです。
つぎに,善なること褒め称えられることをさせようとしない偽りの謙遜について考えま
す。この点については,読者は多くの実例を思いつかれることでしょう。私は一点のみ述
べたいと思います。これについては秘密を打ち明けざるを得ません。イングランドでは,
宗教に関するあらゆることに独特な恥じらいがあります。育ちの良い人はこの種の真面目
な感情を隠さざるを得ず,流行紳士仲間で恥をかかないためにしばしば実際よりは自由奔
放であるように振舞います。過度の謙遜を発揮するために,私たちは敬虔や信心を見せる
ことに恥じらいを覚えます。日々この気持が優先します。その結果,育ちの良い人たちの
多くのテーブルでは,家の主人が非常に謙虚なため,食前のお祈りを捧げる自信を失くし
ているのです。これはあらゆる国々で実行されているだけでなく,異教徒たちも怠ること
のなかった習慣なのです。ローマカトリックの諸国を旅するわが国の紳士たちは,教会礼
拝式の時間でないのに,多くの上流階級の人々が教会に集い,跪いてお祈りを捧げている
のを目にして大層驚きます。こういった国々の将官とか才人や道楽者も,もし就寝前とか
テーブルに着くときお祈りを捧げないと,不信心で育ちが悪いと見なされるのではと恐れ
ます。外国の改革派教会のどこでもこのような信仰心が伺え,日常的な生活態度の中に入
り込んでいますので,イギリス人はそれを偽善的で堅苦しいと考えがちです。
わが国で宗教的な振舞いをほんの少ししか見せないのはある程度私たちが生来備えてい
る謙遜に起因するのかもしれませんが,大々的に見せるのは確かに偽りの謙遜です。大反
乱の時代に国にあふれた非国教徒たちの群れはとても偽善的な振舞いをしたので,私たち
の言語そのものを狂信的なわけのわからない言葉に変えてしまいました。そのため,王政
復古になると,人々は宗教を数多くの悪行の偽装とした人たちの振る舞いからあまりかけ
離れることはできないと考えるほどでした。これによって,人々はもうひとつの極端に走
り,信心はすべて清教徒的と見なされ,その治世に栄えた嘲笑者たちの手中に落ち真面目
なことはすべて攻撃され,それ以来信心は面目を失ってきたわけです。このため,私たち
は次第に邪な謙遜へと陥り,通常の生活の場でのキリスト教精神の様子を消していき,わ
が国は近隣の諸国と異なったありさまになっているのです。
実際は偽善はそれほど忌み嫌うことはなく,あからさまな不信心よりも好ましいもので
す。双方ともこの持ち主にとっては等しく有害ですが,それ以外の人たちに関しては,露
骨な無信仰ほど害はありません。遵守すべき当然の方法は,心から徳を積み,同時に,人々
にその姿を見せることです。聖書の中で,とりわけ言いようのない重要な人たちの前で恥
じ入る歪んだ謙遜を見せる人たちに発せられた言葉ほど恐ろしい脅威を私は知りません4)。
第459号
1712年 8 月16日(土曜日)
【アディソン】
賢明で善なる人たちにふさわしいこと。(ホラティウス)1)
4) マタイによる福音書』第10章第33節。
スペクテイター』(48)
343
宗教というものは大別して二つの項目で考察することができます。一つは信じることが
できるものを理解することであり,もう一つは実践できることを理解することです。信じ
ることができることでは,聖書で示されているすべてを,そして,直観では知識が得られ
なかったことを言いたいのです。実践できることでは,理性すなわち自然宗教によって指
示されるすべての義務のことを言いたいのです。前者は信仰,後者は道徳という名で区別
したいと思います。
真面目な人たちに目を向けてみますと,多くの人たちが信仰を重視し過ぎるために,道
徳を無視しているのが分かります。一方,道徳を重視する多くの人々は信仰にしかるべき
注意を払いません。完全な人は,双方から生じる恩典を考慮する人たちに明白なように,
そのいずれをも欠いてはなりません。そこで本日の紙面ではこれをテーマにしたいと考え
ます。
キリスト教の本分をこのように道徳と信仰に大別していますが,双方には固有の美点が
備わっています。まず前者にはいくつかの点で卓越したところがあります。
第一に,(私が述べましたように)道徳の大部分は不変で永遠的なものであり,信仰が
弱まり,信念が維持できなくなったときでも,持ちこたえます。
第二に,人は人類に対して大いなる善を行なう資格が与えられおり,信仰を欠いた道徳
の方が,道徳を欠いた信仰よりも世の中のためになります。
第三に,道徳は心を静め,感情を和らげ,個々人の幸福を増進させることによって,人
間性をより完璧なものに近づけます。
第四に,道徳のルールは信仰のルールよりもはるかに確実なものであり,あらゆる文明
国家では信仰という点では異なりますが,道徳という点では異なることはありません。
第五に,不信心は不道徳ほど害はありません。別の言い方をすれば,一般に認められて
いるように,徳高い不信心者には(特に不可抗的無知2) という点では)魂の救済がありま
すが,不道徳な信仰者には救済はありません。
第六に,信仰はすべてが優れたものにないにしても,道徳に対する影響力にその中心的
基盤を置いているように思えます。信仰の美点つまり啓示宗教の信仰の美点が何にあるか
考えて見ると理解できるものと私は考えます。
第一に,道徳の数点を説明し,より高みへと向かうときに。
第二に,道徳の実践をするための新しく強力な動機を与えるときに。
第三に,神に対するより好ましい考えを提供し,私たち人間の本性の崇高さと下劣さと
いう点から,お互いにより親愛の情を抱き,自己の真の状態を認識するときに。
第四に,私たちに悪徳の陰険さとおぞましさを明らかにすることによって。キリスト教
の体系では,悪徳は非常に大きな位置を占めているため,悪徳に対する完全かつ絶対的な
判断力を有する人物は,神学者たちから,贖罪された聖人を愛するのと同じくらいに罪を
1)ホラティウス『書簡詩』1.4.5
2)「不可抗的無知」は自分ではどうにもならない無知;中世の神学上の用語。
344
大阪経大論集
第64巻第1号
憎む人物として指摘されます。
第五に,道徳を魂の救済にとって効果的にする普通かつ所定の方法にするときに。
私としては,この種の話に精通している人なら誰でも自分で考え,自らの行ないに有益
なものから推論する数項目に触れるに留めます。私が確信している一点は非常に明白です
ので,読者は見逃すことはないでしょう。つまり,道徳といものは,信仰の力を借りて強
化および支えのない人は完全にはなれないということなのです。
上述したことに加えて,そこから導き出すことができると思う金言をさらに二,三述べ
てみたいと思います。
第一,道徳の裏づけとか向上に寄与しないことは信仰の条項にしないように格別の注意
を払うこと。
第二,宗教の実際的な部分つまり私の言う道徳というものを弱体化したり蝕んだりする
信仰条項は本物かつ信頼できるものではないということ。
第三,道徳つまり自然宗教の最大の味方は,わが国の教会の教義で守られているように,
キリスト教を奉ずる危険性を懸念するはずはないということ。
同様に,上述の考察から導き出せると考える金言がもう一つあります。それは,疑わし
いと思われる場合は,それに同調する前に,それが間違っていると考えて,そこから生じ
る悪い結果をすべて検討してみるべきだということです。
例えば,人々に憎しみとか憤りとか激怒とかを浴びせ,信じていないことを告白させる
などして困らせるという疑問の余地のある問題においては,社会の喜びや利点から彼らを
切り離したり,身体を苦しめたり,財産を逼迫させたり,信望に傷をつけたり,家族を破
滅させたり,生活を苦々しいものにしたり,殺めたりします。確かに一つの主義から生じ
る非常に恐ろしい結末を目にしますが,道徳に基づいて行動する,あるいは,これを宗教
の一部にする前に,数学的証明のように,私は道徳の真実を十分納得しています。
この場合,隣人に加えられる危害は明白で,疑わしく議論の余地のあることを押し付け
ることになります。道徳は信仰によって大きく侵害されているように思われます。信仰の
真の体系を正当化しているものが熱意であろうとなかろうと,これは非常に不確かなもの
です。もし宗教が熱意だけでなく慈善を生み出すとすれば,このような残酷なことにはな
らないものと思わざるを得ません。本日の結びとして,ある著名な著者のつぎの言葉を持っ
て来たいと思います「私たちは互いに憎しみを持たせるに十分な宗教はありますが,互い
に愛情を持たせるには至りません」3)。
シー4)
3)スウィフト「さまざまなテーマについての思考」(1706)
4)このエッセイの立場は,ジョン・スコットの『クリスチャン・ライフ』に近い。
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