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櫻井幸男『現代イギリス経済と 労働市場の変容

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櫻井幸男『現代イギリス経済と 労働市場の変容
大阪経大論集・第54巻第2号・2003年7月
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〔書評〕
櫻井幸男『現代イギリス経済と
労働市場の変容 サッチャーからブレアへ』
戦後のイギリス産業の問題点との関連で
長谷川
淳
一
要旨
本書は,グローバル化・脱工業化が進み,世界的な大競争時代の真っ只中にあるイギリ
スにおける経済構造の変化がもたらした労働市場や国民生活等での諸変化を,男性と女性,
職種や業種,雇用形態,世代,世帯,労使関係等々の様々な観点から詳細に分析し,そう
した分析を通して,現代イギリス経済・社会が抱える重大な問題点を浮彫りにしたもので
ある。その構成は,目次に即して示せば,以下のようになっている。
第Ⅰ部
イギリスの資本蓄積
第1章 1980年以降の生産性上昇と資本蓄積
第Ⅱ部
イギリスの労働市場
第2章 労働市場の構造的変化
第3章 女性労働市場分析
第Ⅲ部
労働側の力の後退とフレキシビリティ
第4章 1979年以降のイギリス労働組合の後退
第5章 労働のフレキシビリティと生産性上昇
第6章 非標準雇用形態の発展
第Ⅳ部
資本蓄積の国民生活への影響
第7章 貧困化と世帯変動
本書は,1980年代以降のイギリスの労働市場に関する研究であるが,同時に,本書
では,「生産性」という言葉が,キーワードとなっている。つまり,1980年代以降の
イギリスでは,生産性上昇を果たすために,「第1の資本蓄積様式」(資本の流出や引
き上げによる生産性の上昇で,投資や産出高の停滞の下で企業「消滅」・事業所縮小
や閉鎖→部門からの企業・資本流出→雇用者減少→生産性上昇,という図式で示され
る),「第2の資本蓄積様式」(資本の流入による生産性の上昇だが,海外からの対英
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直接投資に典型的な投資拡大や産出高増加の下で,企業「誕生」・資本流入→雇用増
加・産出高増加→生産性上昇,という図式で示される),および,パートタイム労働
に代表される「フレキシビリティー」の展開が顕著となり,その結果,労働市場が大
きく変容した。男性,とくにマニュアル労働者の相対的な重要性が低落する一方で,
女性の労働市場へのめざましい進出がみられた。また,伝統的に男性のマニュアル労
働者が担い手の中心だった労働組合運動は弱体化した。同時に,こうした一連の変容
は,とくに第2の資本蓄積様式やフレキシビリティーの前提となってきた,というの
である。
言うまでもなく,こうした労働市場の変容は,男性の,いわゆる‘働き盛り’の働
き手にダメージを与えたし,また,国民の間での不平等を拡大するなどの,非常にネ
ガティヴな側面をもちあわせていた。同時に,‘ネガティヴ’ということでは,そう
した変化をもたらした生産性の上昇,とくに第1の資本蓄積様式によるそれも,誠に
ネガティヴな性質のものだったといえよう。たんに人を,コストを減らすだけで,そ
のため実は,本書でも示されたように「研究・開発」といった国際的競争力の維持・
向上に不可欠な要素が相対的に遅れをとってしまうというのでは,長期的にみて,経
済を発展させていく活力とでもいったものが出てきそうにはない。また,第2の資本
蓄積様式にしても,とかく指摘されるのが,イギリスに作られた工場の分工場化,す
なわち,研究・開発といった機能はやってこないし,何かあると,すぐに閉鎖・撤退
してしまう,という点である。
生産性上昇を基軸に据えて,労働市場の変容を分析した本書の,その分析が精緻で
鋭くあればあるほど,イギリスの行く末に関して,非常にペシミスティックにならざ
るを得ない。同時に,とくにイギリスの戦後史を主要な研究対象としてきた者にとっ
て本書は,イギリスが一体なぜこのような道を歩むことになってしまったのか,とい
う問題への関心をあらためて惹起するのでもある。
そこで,まず,戦後のイギリスにおける生産性や研究・開発に関して,近年の歴史
研究でとくに注目を集めているものについてみていきたい。その最初のものが,戦後
のアトリー労働党政権下で1948年に設立された,英米生産性会議 Anglo-American
Council on Productivity(通称 AACP)である1)。
当時のイギリス経済は,ただでさえ戦争で疲弊していた上に,極度の国際収支危機
にしばしば見舞われ,そのため,輸出振興が国にとっての一大使命となっていた。政
府は,Export or Die「輸出あるのみ,さもなくば,死あるのみ」とか,Britain’s bread
1) 以下, AACP については, N. Tiratsoo and J. Tomlinson, Industrial Efficiency and State Intervention :
Labour 1939
51, 1993 を参照。
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hangs by Lancashire’s thread「イギリスの糧は,ランカシャーが紡ぐ糸にかかってい
る」といったスローガンをうち,生産増強につとめ,そのためにも,生産性の向上に
躍起となった。一方,アメリカも,マーシャル・プランを進める上で,ヨーロッパ各
国の迅速な経済復興を望んでいた。そうした中,この AACP は,実はアメリカの提
唱で始められた。イギリス政府はこれを,マーシャル・プラン継続のためのインフォ
ーマルな条件とさえみなし,資本の側,労働の側の双方に働きかけて,アメリカをモ
デルに,イギリス産業の生産性上昇をめざそうとしたのである。
AACP の具体的な活動の中心は,経営側・労働側の双方から成る産業別の視察団の
派遣だったが,そうした試みが,これといった成果をもたらしたとは言い難い。何よ
り,労使双方ともに,政府が本当は一番メスを入れたかった制限的慣行や労使関係の
改善といった問題の検討を極力回避し,そういった点に関しては,イギリスにはイギ
リスのやり方がある,といった議論を展開した。そして,アメリカのすぐれた点を,
もっぱら,投資の大きさとか,あるいは「溌剌としたアメリカの労働者」や「アメリ
カ人流の前向きな生き方」といったなんとも抽象的なイメージで片付けようとしたの
である。
それでも労働側,とくに TUC のリーダー層は,イギリスは労使ともにその考えを
改めるべき点が多いといった主張もしたのだが,そうした主張が肝心の一般の組合員
に受け容れられることはなく,むしろ,ストライキ中の労働者に催涙ガスを浴びせる
といった事例に象徴させての,アメリカ式の労使関係の導入に対する強い疑念や反発
を引き起こした。かくして,AACP の試みが,生産性向上に関して具体的な成果をも
たらすことはほとんどなかった。
さて,次に注目したいのが,1964年に誕生した労働党ウィルソン政権の下で創設さ
れた Ministry of Technology,通称 Mintech である2)。ウィルソン政権誕生のキーワー
ドとなったのが,イギリス産業の近代化やそれを推進する科学革命といったフレーズ
だったが,これは,次のような背景の下,示されたものである。すなわち,1950年代
後半,イギリス経済もそれなりに好調で消費ブームが起こり,豊かな社会の到来など
と言われたのだが,ほどなくこの豊かな社会への疑念が強まり,むしろイギリス経済
の相対的失敗の認識が広く行き渡るようになった。ヨーロッパ共同体への加盟検討を
2) 以下,Mintech については,D. Horner, ‘The road to Scarborough : Wilson, Labour and the scientific revolution’, and R. Coopey, ‘Industrial policy in the white heat of the scientific revolution’, in R.
Coopey, S. Fielding and N. Tiratsoo (eds.), The Wilson Governments 1964
1970, 1993 および市橋
秀夫・長谷川淳一「戦後のイギリス労働党における改革派の挑戦 ―ゲイツケルとウィルソン
の時代を中心に―」 社会経済史学』67巻6号,2002年3月を参照。
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きっかけに,イギリスと他の西側工業国との国際比較がさかんに行なわれたのだが,
そこで強調されたのが,イギリスの成長率の低さと,その原因としての生産性の低さ
だったのである。
そうした中,1963年2月に労働党党首に選出されたハロルド・ウィルソンは,科学
革命やイギリス産業の近代化を前面に押し出して,政権奪還につとめた。そもそも,
労働党における科学革命の主張の起源は,1930年代・40年代の急進的な左派科学者た
ちの主張にもとめられる。中でも重要なのが,多く日本語にも翻訳されたバナール J.
D. Bernal(学生時代からの共産主義者で,冷戦時には国際平和運動でも活躍)やブ
ラケット Patrick Blackett(とくに中間子の研究で有名な物理学者で,ノーベル賞を
受賞)で,かれらの主張は,ウィルソンの近代化政策の前ぶれとなった,と捉えられ
ている。では,この科学革命とは具体的にどのような内容のものだったのだろうか。
かれら左派科学者たちが戦後すぐに主張した科学革命の柱となるものに,非軍事・民
間産業での研究開発の拡充がある。つまり,第二次世界大戦中のレーダーの開発に代
表されるように,イギリスの先端技術は世界に誇れるほど進んでいるが,それがどう
も軍事関係に集中しすぎている。そこで,軍事関係の研究開発から非軍事部門の研究
開発への重心の移行が主張されたのである。しかしそれは,冷戦構造が強く意識され
はじめた状況下では受け容れ難い主張であり,たとえばブラケットも,そうした主張
のためにアトリー政権での原子力政策顧問の座を追われている。
それが,1955年の総選挙敗北で,労働党リーダー層の間で,近代化政策・科学政策
への関心が急速に高まった。1956年にはアトリーを継いだ新党首ゲイツケルの下,科
学者と政治家の討議の場としてのインフォーマル・グループが結成され,これにウィ
ルソンも次第に深く関わるようになった。そして,ゲイツケルが1963年1月に急死し,
ウィルソンが新党首になると,事態はさらに急展開をみせた。ウィルソンは盟友のク
ロスマン Richard Crossman を影の科学・高等教育大臣に任命し,このクロスマンが
ブラケットの方を主要なアドバイザーに,インフォーマル・グループであるクロスマ
ン・グループを結成し,総選挙を念頭に,労働党の科学・近代化政策の策定をすすめ
た。そうした中から,1963年労働党党大会でのスピーチをはじめとする科学・近代化
政策に関するウィルソンの提言が生まれ,それらはメディア等からも積極的・好意的
に取り上げられた。
そして,こうした提言にもとづいて,Mintech がウィルソン政権の誕生とともに創
設された。Mintech に期待される役割としてとりわけ強調されたのが,先端技術のイ
ギリス産業への広範な普及であり,具体的には,国立研究開発公社,航空省の研究諸
機関や原子力公社といった政府系の既存の研究開発組織を Mintech が吸収した上で,
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そういった組織での研究開発を商業ベースにのせる,とくに軍事関連の研究開発の成
果を非軍事部門に活用し,拡大させていく,といった試みがなされた。こうした施策
の意義は,いわゆる戦後のコンセンサスの下,1970年代半ばまでのイギリス政府が,
需要管理にもとづく経済運営を基本とし,経済成長はいわば所与のものとみなしてい
たといわれるのに対して,すでに60年代半ばに,イギリス経済の体質を強化し,より
高度な成長をはたすことを目的に,サプライサイドを重視した,すぐれて介入的・構
造改革的な政策を試みようとしていたことである。
しかし,研究開発の成果を積極的に商業化することを主眼としたこうした試みも,
功を奏したと言えるには程遠かった。何より,Mintech の新しいやり方に対する根強
い抵抗があった。たとえば企業は,研究開発が政府軍事部門関係の研究所で,つまり
自分たちの研究所以外で行なわれることをよくは思わず,そうした研究開発に消極的
だった。企業側は基本的に,研究開発は自らの手で,生産と並行させながらすすめる
のが最も効率的だとの考えに固執し,自分たちの研究所以外で研究をすすめることに
よる秘密の漏洩に対する懸念や,先端技術の普及を促進しようという Mintech の試み
が競争相手を利することになるとの危惧さえいだいたのである。
一方,Mintech 管轄下の研究機関のスタッフも,それまで技術的成果こそがすべて
でコストを事実上考慮する必要がない環境にいたために,コストパフォーマンスとい
う考え方になじめなかった。しかもそうした機関のスタッフは,それまでの自立性を
維持しようとし,そのためたとえばプロジェクトの詳細を Mintech 本体がなかなか掴
めないといった事態がままあり,そうしたことも研究開発の成果の商業化を思うほど
にすすめられなかった一因と考えられている。
とはいえ,その後も,イギリスには卓越した科学・技術成果があるにもかかわらず
その研究成果を事業化する段階で競争力を維持できないという認識にもとづく,産業
競争力や生産性の向上に関する政府の取り組みは続けられた。とくに,本書がカバー
する1980年代以降,貿易産業省 Department of Trade and Industry のイニシアチブに
よる,技術の標準化や品質向上を主眼とした政府の国際競争力回復キャンペーンが本
格化した3)。たとえば,そうしたキャンペーンの一環として,1984年には香港,韓国,
日本,アメリカに,そこでの品質経営・向上の実態を学ぶべく使節団が派遣され,そ
の成果は翌年,50ページほどのパンフレットにまとめられた。
このパンレットは,表紙からしてかなり刺激的である。表紙の大部分は日本語タイ
トルの『貴方には出来ないでしょう』が埋め,右上に小さく英語タイトルの(‘you
3) 以下は,明石芳彦「英国における品質向上の取り組み」 季刊経済研究』25巻3号,2002年12
月に拠っている。
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won’t do it!’)があり,その下にさらに細かい字でこうしたタイトルをつけたいきさ
つが英語で述べられている。そのいきさつとは,次のようなものである。日本を訪問
したイギリス使節団のメンバーが,日本人との懇談時に,日本企業はなぜ工場施設や
技術や成功の秘訣といった重要事項をこうした使節団に対して包み隠さず示すのかと
質問したのに対して,この日本人が,日英両国の品質水準には10年の差があり,イギ
リスが日本に学んでかなりの努力をしたにしても,10年後の日本はさらに先をいって
おり,そこまでは「貴方には出来ない」だろうと笑って言った,というものである。
では,この日英間での差とはどこにあったのだろうか。イギリスでは,Mintech の
例にもみられたように,技術的高度化,とくに新技術の導入にもとづく品質向上を想
定しがちなために,品質向上には多額の投資が必要で,したがってそれは費用の増加
を必然化すると考えられていた。これに対し日本企業は,品質コストを低下させるこ
と,すなわち,やり直し作業の防止や検査,在庫の削減といったことでの生産性上昇
を重視した。換言すれば,そうしたムダの削減による高品質の実現は,費用増なしに
達成できると考えられたのである。
このパンフレットをはじめ,イギリス政府によるキャンペーンの下で,1980年代に
多数のパンフレットやビデオが作成されたが,イギリス産業の競争力を高めようとい
う政府の努力はその後も続けられ,それはたとえば近年の地域政策に見出せる4)。そ
もそもこの地域政策とは,世界大恐慌もあった両大戦間期に,失業問題,とくに,産
業革命を支えた旧基幹産業に依拠する,経済的には衰退するイングランド北部などの
地域でのそれをどうするかということで始まり,その後1970年代半ばまで,基本的に
は,衰退地域への工業誘致支援と繁栄する南部に対する工業立地規制を行ない,全国
的に見てバランスのとれた工業配置をめざす,というものだった。したがって本来,
産業政策の一環なのであるが,その真のねらいは,たとえば衰退地域での工場新設に
補助金を出すなどして雇用創出を促進し,そこでの失業をなんとか食い止めようとい
う,すぐれて雇用政策・社会政策的な側面を持っていた。国是である高度の雇用水準
の維持を重視する,戦後のコンセンサスを代表するような政策だったわけである。
それがサッチャー政権下で,立地規制は撤廃され,また,地域政策の予算は全般に
縮小されると同時に,中小企業や,とくに本書の第2の資本蓄積様式と関わる,外国
企業誘致の重視といったことが行なわれた。これは,従来の地域政策の根幹であった
衰退地域での失業防止・雇用維持を放棄するという点に,もっとも重心を置いた政策
転換だった。‘北’は見捨てられ,一方,保守党の支持基盤である‘南’は,ますま
4) 地域政策については,辻悟一『イギリスの地域政策』2001年を参照。
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す栄えたのである。しかし,その後,経済の地盤沈下という問題がイギリス全土に関
わる問題となり,そのため1993年には,地域政策による援助の対象地区に,初めてロ
ンドンやイングランド南部の一部が含まれた。ただし,ロンドンやイングランド南部
で援助の対象となった部分は,地域が繁栄をきわめた時においても,雇用問題を抱え
る部分であった。イングランド南部を支持基盤とする保守党は,政治的配慮から,こ
うした部分を援助の対象としたわけである。
むしろ,90年代以降の地域政策でより重要な変化は,イギリスという国全体の競争
力,すなわち,優秀な産業・企業を育成し,しかも常にグレードアップできる力を高
めること,そして,そのために,それぞれの地域の競争力を高めることが重視される
ようになった点にあり,これは現労働党政権も積極的に推し進めようとしている。地
域政策は,従来の,社会的根拠にもとづく雇用調整的な政策ではなくて,経済的根拠
にもとづく,産業育成のための積極的な政策であるべきだ,と主張されるようになっ
たのである。とくに,研究・開発や労働市場の問題をふくめた企業を取り巻く環境条
件の整備という,これまでの地域政策はカバーしなかった部分に,力が入れられよう
としている。
ただ,上にみた AACP や Mintech の事例に明らかなように,生産性向上にもとづ
きイギリス産業,とくに製造業の競争力を高めようという試みは,ことごとく失敗し
てきた。80年代における政府の品質向上キャンペーンでも,イギリスの経営者たちの
間には,イギリスは個人主義の国であり,日本式の集団的アプローチによる品質向上
がうまくいくとは思えない,むしろあくまでデザインなどにおける個々人の創造的な
才能を伸ばすことに尽力すべきだとする見解が根強かったし,現政権による競争力増
強を主眼とした政策も,経営側や労働側に特段の意識改革がなされてきたようにはみ
えない中で,そうしたかけ声をいかにして実現させていけるのか,予断を許さないと
ころであろう。政府にしても,自国産業の競争力強化のための生産性向上が,労使関
係,新技術の導入あるいは品質管理のいずれに主眼を置くにせよ,改革志向の強い長
期的な観点に立つものとならざるを得ない中で,結局,そうした改革に本格的に取り
組む所まではいかずに,むしろ政治的な側面を重視した短期主義といったものに走っ
てきた。たとえばウィルソンも,60年代末には,自らが積極的にすすめてきた先端技
術の普及に興味を示そうとさえしなくなった。目に見える効果が出るまでに時間がか
かり,したがって政治的なうまみがおよそないから,というのがその理由であった。
本書で示された第1・第2の資本蓄積等にもとづく生産性の向上とは,端的に言え
ば,自国産業,とくに製造業の衰退にもとづく生産性の向上である。この生産性の向
上がもたらした労働市場の変容の詳細な分析につづいて,それでははたしてイギリス
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経済に明るい展望はあるのか,もし,あるとすればそれはどのようなものとなり得る
のか,といった点について同様に精緻な分析が筆者によって示されることを期待する
のは,評者だけではないであろう。
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