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自伝に見る体罰と懲戒

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自伝に見る体罰と懲戒
大阪経大論集・第57巻第6号・2007年3月
31
自伝に見る体罰と懲戒
滝
は
じ
め
内
大
三
に
第二次世界大戦前に小学校時代を過ごした人の自伝や自伝的エッセーを読むと,学校で
体罰を受けたとか,クラスメイトが受けるのを目撃したという記述がよく出てくる。たと
えば作家の芥川龍之介(1892∼1927)は「追憶」という文章の中で,こう書いている。
「僕の小学校にいた頃には体刑も決して珍しくはなかった。それも横顔を張りつける位で
はない。胸ぐらをとって小突きまわしたり,床の上へ突き倒したりしたものである。僕も
一度は擲られた上,習字のお双紙をさし上げたまま,半時間も立たされていたことがあっ
た。」 1)
これは明治時代の話であるが,昭和初期に高等小学校に通った鋸職人の吉川金次(1912
∼?)も,「高等一年の担任はやたらと殴る人で私達は反感を持っていた。(中略)そんな
こともあって面白くないので,同級生と相談して終業式には『君が代』を歌わぬことに決
め,実行した。蚊の泣くような『君が代』に教師は蒼白になったが,この件では誰も叱ら
れなかった。叱って表沙汰になるのを恐れたのだと思う。」 2) と回想している。そうした体
験から,体罰が禁止されたのは日本が戦争に負けたためであるとか,戦後の「平和憲法」
と教育基本法に基づく学校教育法が,最初に体罰を禁止したと思われていないだろうか。
アメリカの押しつけで教育改革が実施され,体罰を禁止するから日本の教師は生徒を殴れ
なくなり,「しつけ」ができなくなったという声をよく耳にする。
しかし,1879(明治12)年の教育令第46条に「凡学校ニ於テハ生徒ニ体罰ヲ加フヘカラ
ス」とあり,その体罰は「殴チ或ハ縛スルノ類」と明記されている。これはその後の小学
校令(明治23年),国民学校令(昭和16年)にも引き継がれているので,学校における体
罰禁止は明治以来一貫した国家の姿勢であったと考えてよいであろう。学校教育法第11条
の体罰禁止規定は,アメリカから押しつけられたものではなく,戦前のそれを引き継いで
いるのである。
体罰禁止規定はなぜ作られたか
ではなぜ,法令に禁じられている体罰が,戦前は日常的に行われてきたのだろうか。教
1)芥川龍之介『作家の自伝31 芥川龍之介』日本図書センター 1995年 201
2頁
2) 吉川金次『自伝のこぎり一代』上巻 農山漁村文化協会,1989年 114
5頁
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大阪経大論集
第57巻第6号
師の体罰は今日でもしばしば問題になることから,法律で禁止すれば行われないはずだと
考えること自体が誤っているといえばそれまでである。けれども戦前は,教師による体罰
を問題にする声が少なかったのも事実であろう。中には「先生,悪いことをすればうちの
子を殴ってください」と頼む親すらいたとも聞く。もしそうだとしたら,国民の多くが支
持していない体罰禁止規定を,どうして明治政府は盛り込む必要があったのだろうか。
よく言われることは,幕末に結んだ欧米列強との不平等条約改正問題に取り組んでいた
明治政府が,教育法規を整備して国家の近代性を諸外国に示す必要があったというもので
ある。何事も都合の悪いことは「外圧」のせいにしたがる日本の体質とも言われるが,そ
ういう視点だけで説明するのは危険ではないだろうか。というのは,1870年代において公
教育の体罰禁止を国家の法令に明記した国はまれであり,キリスト教を道徳的バックボー
ンに据えている欧米諸国の多くは,むしろ子どもに対する体罰を容認する立場を取ってい
たからである。かならずしも「外圧」によって日本が体罰禁止をうたう必要はなかったと
思われる。その意味では,むしろ日本は画期的なことをやったと言えるだろう。
こうした教育令を立案したのは文部大輔田中不二麻呂(1845∼1909)であったが,彼は
アメリカのニュージャージー州が学校における体罰を禁止しているのに注目し,これを日
本に取り入れたといわれている3)。田中は1872(明治5)年に制定されたフランス流の中
央集権的で画一的な学制に反対しており,自由で個人主義的なアメリカの教育制度に関心
を持っていた。これは,ナポレオンやビスマルクが実現した国家主義をモデルとするか,
それともアメリカなどの個人主義をモデルとするかといった明治政府内の政治的対立を背
景に持っていたと思われる。また倫理道徳のレベルでは,仁義忠孝を説く天皇の侍講たち
による,儒教倫理を人の踏み行うべき道と考える「義理」の意識と,大人の世界に汚れて
いない子どもの心こそ人間本来の姿であるとする「童心主義」,あるいは人間が本来もっ
ている心の動きとしての「人情」を大切にしようとする庶民の意識がせめぎあっていたの
ではないか。しかもそれらのせめぎあいは,時として同じ人間の中の矛盾として組み込ま
れており,それが体罰問題をより複雑なものにしていたと思われる。そこでまずは,歌人
斎藤茂吉(1882∼1953)の自伝的回想「念珠集」 4) を手がかりに,体罰問題を考えてみよ
う。
厳罰主義対童心主義
斎藤茂吉が目撃した「体罰事件」のあった年は,国家主義教育の浸透を図った初代文部
大臣森有礼(1847∼89)が東北の学校を巡察した年である。その後まもなく森は暗殺され
た(1889年2月11日)というから,それは茂吉が尋常小学1年生の時であろう。茂吉の言
葉によれば,体罰を受けたのは4歳ほど年上の「童子」であるが,わかりやすくいえば
「ガキ大将」である。この「童子」は学校や国家の価値観には従わず,教師に反抗して遊
3)牧征名・今橋盛勝・林量俶・寺崎弘昭編『懲戒・体罰の法制と実態』学陽書房 1992年
4)斎藤茂吉『作家の自伝29 斎藤茂吉』所収 日本図書センター 1995年
31頁
自伝に見る体罰と懲戒
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んでばかりいた。そして,学年で輪切りされることを嫌い,下級生を引き連れて野山を探
検し,学校では教えてくれないさまざまなことを教えたのである。
こうしたガキ大将は,戦前の社会には数多く存在したとされ,今でも懐かしく回想され
ることがある。それは,どんないたずらをしても,子どもはそれを一種の「遊び」として
やっているのであり,そこに大人のような邪心などないという「童心主義」があるためで
あろう。斎藤茂吉がわざわざ「童子」と表現したのも,そのことを十分意識したためと思
われる。しかし教師にとっては,こうした「童子」といえども,時と場合によっては自分
たちの権威を犯す好ましからざる存在であった。
この「童子」が体罰を受ける契機は,森有礼が山形から上山に行くために人力車で早坂
新道を通る時に発生した。学校側は学童一同が新道に整列して敬礼するよう命じ,教師た
ちは4,5日かけてその練習までさせた。ところがその当日,この「童子」は下級生たち
を引き連れて山に遊びに出かけてしまった。それでも森が通過する直前には戻ってきて,
敬礼は無事に行われた。教師たちをヒヤヒヤさせながら,最後のところで帳尻を合わせて
大事に至らないようにするところに,このガキ大将のガキ大将たるゆえんがある。とはい
え,学校側から見れば,権威の象徴ともいうべき文部大臣への敬礼をエスケープしかねな
い行為によって,教師の心胆を寒からしめる行為は,大げさに言えば学校と国家の威信へ
の挑戦であった。そこで教師たちは,翌日この「ガキ大将」を縛り上げて梁に吊し,鞭で
打ち据えて見せしめにしたのである。この方法は,江戸時代の統治者が犯罪者に対して行
った「お仕置き」の方法と似ている。学校教育もまた民衆統治の手段という思想が,こう
した体罰の中には潜んでいるといえよう。
一方「童心主義」の立場からすれば,こうした「悪ガキ」もまた愛すべき存在であった。
それを上から力ずくで押さえつけても効果がないだけでなく,かえってよくない結果を招
くことがある。こうした考えは,J.J.ルソーやJ.H.ペスタロッチーの児童中心主義思
想に似ている。彼らは子どもの善性と可能性に期待し,その自由を束縛することに反対し
た。その意味からも,教育令の中に「殴ること」と並んで「縛ること」が体罰とされてい
ることは象徴的である。
ところで,体罰が子どもを良い方向に育てるどころか,子どもの可能性を押しつぶした
り純真な心に傷を負わせたりすることがあるという見解は,悪い奴は痛い目に遭わせて懲
らしめねばならないという「厳罰主義」と相矛盾する形で古くから日本社会に根付いてお
り,単に外来の珍しい教育思想という訳ではなかった。その証拠に,幕末から明治にかけ
て欧米からやってきた外国人の多くは,日本の庶民が子どもをかわいがり,愛情を持って
のびのびと育てようとする姿に瞠目している5)。明治になってさまざまな教育思想が日本
社会に紹介された時,もっとも人気を博したのはルソーとペスタロッチーのそれであった
5)たとえばイギリスの外交官R.オールコックは,日本は「子どもの楽園」だと表現し,長崎海軍伝
習所で勝海舟などを指導したオランダの軍人政治家カッテンディーケは日本人の子育て法はルソー
の『エミール』にそっくりだと感想を述べている。渡辺京二『逝きし世の面影』平凡社ライブラリ
ー552 2005年 の第十章「子どもの楽園」参照
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のも,けっして偶然とはいえない。アメリカの一部の州で行われているにすぎない進歩的
な教育行政がそうした日本人の心性に合致しているのに気づいた田中不二麻呂は,体罰が
不要な教育こそ,近代日本の学校教育の進むべき道と考えたのではないだろうか。少なく
とも,日本の庶民に根付いた教育文化を無視して欧米に倣う訳にいかないと考えたとして
も,不思議はないであろう。
体罰の効果
江戸時代の「お上」意識さながらに体罰を優先させる教師に対して,子どもたちは当然
ながら畏怖の感情を持っていた。厳しい体罰を前にした子どもたちは,表面的には従順に
ならざるを得なかった。そして,その教師の気に入る振る舞いをしてほめられたり,教師
に告げ口して我が身の安泰を計ろうとしたりする子どもも出てくるであろう。いわゆる
「アメと鞭」によって社会的弱者を支配するという統治観は,とりわけ法の前の平等や人
格の完成といった概念が社会の中に深く定着していかない国家には,繰り返し登場してく
る。
しかし日本の場合,暴力的な支配に対して反抗的な態度を示す子どもたちがいなかった
かといえば,けっしてそうではなかった。先に挙げた吉川金次や斎藤茂吉が「童子」と呼
んだ例だけでなく,しぶとく反抗を続ける子ども達は案外多かったのではないだろうか。
たとえば無政府主義思想家になった大杉栄(1885∼1923)は,その『自叙伝』の中で次の
ように回想している。
「受持の先生は島と云った。まだ二十歳前後だったのだらう。ちんちくりんの癖に,い
つも妙に口もとを引きしめて,意地悪るさうに目を光らして,竹の根の鞭で机の上をぱち
ぱち鳴らしてゐた。何かと云ふとすぐにそれで打つのだった。僕は殆んど毎日のやうに此
の鞭の下に立ちすくんだ。そして僕は,其事情はよく覚えてゐないが,此の先生のお陰で
算術が嫌ひになったやうな気がする。(中略)此の教室の向うに教員室があって,其の又
向うに物置きの土蔵があつた。僕は其の教員室に幾度とめ置きを食ったか知れない。そし
て時々は其の真暗な土蔵の中にも押しこまれた。(中略)あんまり長く置かれると,退屈
して,よくそこに糞をたれてやった。」 6)
先にも述べたように,日本には昔から子どもに対して童心主義で接する人と厳罰主義で
立ち向かう人の両者が存在していた。後者の代表は江戸時代,寺子屋の「雷師匠」と呼ば
れた人で,我が子を厳しくしつけられない親はこうした「雷師匠」に期待するということ
もあった。親代わりになった「雷師匠」の中には,子どもに深い愛情を注ぐ人もおり,彼
らは「厳罰主義」と「童心主義」を一身に抱え込んでいた。
また家庭で子どもに対して厳しい態度を取る親も少なくなかった。たとえば,日本最初
の女性歌舞伎作者となる長谷川時雨(1879∼1941)の親がそうである。時雨(本名ヤス)
は,幼い頃から「本の虫」で草双紙ばかり読んでいたが,「女に学問はいらない」という
6)大杉栄『自叙伝』長崎出版
1979年
18∼19頁
自伝に見る体罰と懲戒
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母親の方針で,11歳の頃「よからぬ習慣は,寸にして摘まずばといったふうに,ともする
とわたくしは,奥蔵の縁の下に押込まれたり,蔵の三階に縛りつけられたりして,本を
文字のあるものを見ることを厳禁されてしまった。」 7) と回想している。
厳罰主義の家庭では,女の子でも土蔵の下に押し込めたり,蔵の3階の柱に縛り付けた
りするといった「お仕置き」を行っていたのである。だが,それで彼女が本を読まなくな
ったかといえば,そうではなかった。そういう仕打ちを受けると,かえって逆効果になる
ことがあるのは,いつの時代でも同じであろう。もっとも彼女の場合は妹たちがいて,
「いろいろな知恵をふるって鼠のように登って来て,縛しめを解いてくれて,そこでお話
をせびったり,石版をもって来て絵を描かせたり,するのだった。」 8) という救いがあった。
では茂吉の回想に登場する「童子」の場合はどうだったのか。彼の記述によれば,手ひ
どい体罰を受けた生徒は,やはりその後行状を改めることはなかった。茂吉が3年生にな
った時に小学校が合併されたが,そこにもその生徒がいて,やはり茂吉たちを引き連れて
道草を繰り返し,ある時山に入って漆の新芽を摘み,その汁をみんなの腕に塗って男女の
性器を描いた。その跡が赤くなって残っているのを,翌日学校で見せ合って大声で笑うの
である。ところが,茂吉は漆にかぶれて腕がただれてしまった。絵が絵であるだけに,密
かに治療を試みたが治らない。2ヶ月ほどしてとうとう母親に見つかった。当然叱られる
と思ったのに両親は話を聞いて笑い,父親は自ら特製の油薬を作って塗ってくれた。
2ヶ月たっても治らなかった傷が,父の油薬であっさり治ったことで,茂吉は父の持つ
能力の不思議について深い印象を受けた。茂吉の文章の主題はこの点に置かれており,子
どもは長ずるにしたがって親を万能の存在から平凡な人間に相対化するものだが,自分の
父の平凡化は「別な色合を以て姿を変えた」 9) と茂吉は述べている。
ところで茂吉の傷は癒えたが,「かさぶた」を結んだ跡が残り,彼が小学校を出て中学
校に入り,中学校を出て高等学校に入学する頃まで,男根図の跡は消えなかった。それほ
どの傷跡を残したにもかかわらず,茂吉の両親は,大事な息子に傷を付けた「ガキ大将」
やその家庭に抗議を申し込んだり,その「童子」を厳しく罰するようにと学校に申し入れ
たりはしなかった。ここに,子どもの世界を縛るべきではないという「童心主義」の立場
からの体罰反対論のルーツが隠されているように思われる。
茂吉の父は,けっして気の弱い,遠慮深い人というわけではなかった。たとえば,街道
の真ん中を歩いていた時,人力車が後ろからかけ声をかけても避けようとせず,梶棒を後
ろからぶつけられて,振り向きざまに車夫の首根っこを押さえて引き倒すような人であっ
た。その父が亡くなった時,茂吉はドイツに留学中であったが,死報に接してとっさに思
い出したのは,この傷跡であったという。
7)長谷川時雨『作家の自伝26
8)同 194頁
9)斎藤茂吉 前掲書 51頁
長谷川時雨』日本図書センター
1995年
193頁
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体罰と懲戒
以上にみたように,厳しい体罰が,必ずしも子どもたちを大人が望む方向に導くとは限
らないとすれば,体罰を望む人々の意見は,何を求めていることになるだろうか。それは
突き詰めると,「ともかく悪いことをした者は懲らしめるべきだ」 ということになろう。
つまりこの意見は,たとえ少年であっても罪を犯せば処罰されて当然だという応報刑論に
親和する。未熟さゆえに罪を犯した人間は教育的処遇が必要だという意見と,軽い処分は
かえって犯罪を誘発する原因になるという厳罰主義の対立は,今日もなお議論の続くテー
マである。そこで,たとえ教育の場といえども,体罰を禁ずるなら懲戒を加える必要があ
るという意見が出るのも当然である。その場合は,犯した罪に対応した処分をするという
法的な対応になる。
その際,なにが懲戒に該当する「罪」に当たるかを明示しなければならない。それは意
外に早くから自覚されていた。たとえば青森県は1873 (明治6) 年に「小学校則」の通達
を出している。校則は学校社会の法律であり,それには,「小学生徒心得」(1873年)と
ママ
「校則」に違反する者は,「退校」「償」「丁役」「居残」「別座禁固」「外出禁則」「自室禁
則」の処分にすると明記されている。「退校」は退学処分であるが,義務教育が明文化さ
れていなかった当時としては,とくに問題とならなかった。ちなみに義務教育規定が明記
されるのは,森有礼による小学校令(1886年)が最初である。
「償」は,学校の書籍や機械を破損または紛失した際の弁償,「丁役」は「其校ノ景況
ニ随テコレヲ定ムヘシ」とあり,何らかの労役を課したものと思われる。トイレの掃除と
か草むしりとか,それぞれの学校の事情によって課したのであろう。これは「教育刑」に
属するもので,欧米の学校でもよく採用されている。今日ではボランティア活動など,社
会に役立つ作業をさせて,社会に与えた迷惑を償わせ,併せて社会に有用な人間になる自
覚を促す教育効果をねらうものである。
それに対してもっぱら苦痛を与える目的の「居残」は4時間まで,「別座禁固」は5日
を超えてはならないと規定している。「外出禁則」「自室禁則」は小学校に寄宿生がいる場
合のみである。
では何に対してこうした懲戒を加えるのか。青森県の場合,校則には昼食以外の校内飲
食の禁止,雑談高声乱足の禁止等が簡潔に記載されているだけであるが,「生徒心得」は
より具体的で,学校ではすべて教師の指示に従うこと,意見があれば黙って手を挙げ許可
を得てから話すこと,遅刻をしないこと,級友を誹謗したりケンカしたりしないこと,粗
暴な振る舞いを慎むこと,許可なく教室に立ち入らないことなどが定められている。当然
これらの違反行為が処分対象になる。しかしいきなり「丁役」「居残」「別座禁固」では,
いささか罰が重すぎる。そこから,学校長による「譴責」に始まり,一定時間の「直立」,
指定された罰席への着席と遊歩の禁止,放課後の「留置」,「出席停止」へと続く処分を定
めた青森県の公立和徳尋常小学校則 (1887年2月) のような形が整えられていったと考え
られる10)。
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教育現場の声
しかし,教育現場ではこうした処分は不人気であった。それはおそらく,教師は検事や
判事のような立場に立ちにくいという職業上の事情が関係していよう。自分の生徒を犯罪
者のように処遇するより,少し痛い目に遭わせてでも,立ち直りを期待したいという「愛
の鞭」の方を好んだと思われる。それゆえ,体罰を禁じた教育令や小学校令の体罰条項を
削除せよという声が強く起こったのは,ある意味で当然であった。たとえば当時の教育界
をリードした雑誌『教育時論』に掲載された「小学校令第六十三条ノ削除ヲ望ム」という
意見は,一般社会が犯罪者に処罰を加えて将来を懲戒しているのに,なぜ小社会である小
学校においては秩序維持のために体罰を加えてはいけないのか,と論じている11)。
この論者によれば,今は文明開化して開発主義の教育を行う時代となっており,寺子屋
時代のような野蛮な風習は一掃されて体罰など不要になっているという人がいるが,これ
は現場を知らない門外漢のいう誤説である。一般家庭の親たちは,しつけの仕方などに頓
着せず,怒りにまかせて子どもをげんこつで殴り,中には鉄棒で打ち据えたりしている。
こうして育ってきた生徒たちは教師に殴られることなど,それほど恐れてはいない。まし
てや説諭訓戒など何の効果も持たない。生徒の中には,表向きは教師に従順を装いながら
裏で誹謗中傷軽蔑する者,あるいは礼儀をわきまえずにすぐにケンカに訴えて秩序を乱す
者,下級生を圧倒して悪事に誘う狡猾な生徒などがいる。こうした生徒を親から預かって
懲戒しようとすれば,体罰が必要なことはいうまでもない。心理学説を持ち出して子ども
に苦痛を与えることの是非を論ずる人もいるが,この世は競争社会である。厳しい競争に
さらされるのは苦痛だが,それがあってこそ勝利の快楽が得られる。体罰という苦痛を与
えられて不正を悔悟し,善良な人間になった快楽は計り知れないものがある。それなのに,
世の中にはずいぶん手前勝手な父兄がいる。もし彼らが教師の体罰をとがめ立て,違法行
為だと学校攻撃を始めたらどうするつもりか。教師としては抗弁のしようがない。だから
体罰を禁じた法令条文はすみやかに削除してもらいたい。この論者はそう主張している。
後半部は,今日でも繰り返し指摘される問題でもある。それにしても,この論者は体罰と
懲戒の区別を混同している。
体罰条項の改正
こうした世論を背景に,小学校令の体罰条項は1900(明治33)年8月20日に改正され,
「小学校長及教員ハ教育上必要ト認メタルトキハ児童ニ懲戒ヲ加フルコトヲ得但シ体罰ヲ
加フルコトヲ得ズ」(第47条)とされた。これはいわば体罰否定論と肯定論の妥協の産物
であったため,たちまちどこまでが「懲戒」で,どこからが「体罰」に当たるのかが問題
になった。多数意見は,悪意をもって児童に暴行を加えることには反対だが,懲戒のため
10)藤田昌士編『生徒の指導と懲戒・体罰』日本の教育課題4 東京法令出版 1996年
11)塙三蔵「小学校令第六十三条ノ削除ヲ望ム」 教育時論』第237号 1891年11月15日
参照
34∼37頁
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の体罰は容認すべきだというものであり,「言っても分からないヤツは殴ってよい」とい
うことになった。そのため戦前は,教師に暴行を受けて生徒が負傷しても,それが懲戒権
の範囲と認められた場合は罪に問われないという大審院判決が確定した。それは,教師は
教育者として行動するという建前がある以上,その体罰はすべて懲戒であるとして,体罰
禁止規定を骨抜きにすることを意味した。しかもその条文は,特別な議論を経ることなく
戦後の学校教育法に受け継がれ,「校長及び教員は,教育上必要があると認めるときは,
監督庁の定めるところにより,学生,生徒及び児童に懲戒を加えることができる。但し,
体罰を加えることはできない。」(第11条)とされた。
こうした条文の引き継ぎを見れば,戦前の教育が否定されてアメリカ流の民主主義教育
が導入されたという理解も怪しくなってくる。それゆえ,戦後になっても体罰を加える教
師は後を絶たず,児童生徒に傷害を負わせるという事件も数多く発生した。傷害事件にな
ると問題なので,ケガをさせないで痛い目に遭わせるという方法も工夫されていた。これ
はむしろ,江戸時代の寺子屋のやり方を受け継いでいたといった方が正確であろう。寺の
住職で教職を兼ねている人などは,とくに効果的に体罰を加えたらしい。たとえば,1938
(昭和13)年生まれの大学教師吉田孝夫は,その自伝の中で次のように回想している。
「小学五,六年の担任は花田等岸先生で家はお寺だった。(中略)先生は我々が悪戯をす
ると,よく頬をつねった。頬をつねるだけならまだしも,つねったまま皆の前に引っ張っ
て行った。片頬を引っ張られて『ア,ア,ア,……』と声を洩らしているところは見てい
て決して格好のよいものではない。耳を引っ張られることもあった。これには皆閉口し
た。」12)。
体罰と教師中心主義
精神よりも身体に訴えて教育効果を期待するという考えは,理性が未発達なために感情
的な行動に出やすい子どもに適したものとして,親や教師に幅広い支持を集めていたのも
事実である。またそれは,「形から入って心に至れ」という伝統的な教育観にも合致して
いた。これは一言でいえば「型の文化」といわれるもので,様式美の追究のために厳しい
トレーニングを要求することへと収斂する。
ごみの散らかった校庭や教室を清掃し,汚れた学校のトイレをきれいにすることで心を
美しくするといった「美化思想」,あるいは履物の脱ぎ方で心の動きを読み取るといった
ことは,禅宗の精神修養の形にヒントを得たものであろう。「服装の乱れは心の乱れ」と
いった生活指導観に見られるように,精神のゆがみは行動のゆがみとして現れるから,そ
の行動を正すことによって曲がった性根をまっすぐにしなければならないと考えられたの
である。体罰はその重要な手段でもあった。
しかし,教師の一面的な価値観から外面に現れた子どもたちの行動を評価した場合,そ
の人格を全否定する危険が伴う。たとえば,小学児童は興味のない授業を静かに聴くこと
12)吉田孝夫『ふるさと』晃学出版
1993年
42∼3 頁
自伝に見る体罰と懲戒
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が困難である。そこで私語や「いたずら」等さまざまな逸脱行動を取ることがある。ある
いは,家庭におけるストレスから,学校で粗暴な振る舞いをしたり,教師を困らせたりす
る行動に出ることもある。そうした行動だけを捉えて懲戒すれば,児童はかえって自暴自
棄になったり深く心を傷つけられたりして,人間形成上重大な影響を及ぼすことがある。
そこから,教師中心に学校教育を運営するのではなく,児童生徒の個性や立場を尊重し,
上から画一的に押さえつけるのではなく,児童生徒が自ら学ぶ喜びを体験させることによ
って,体罰や懲戒を必要としない教育を模索しようとする運動が展開されるようになるの
も,自然な成り行きであった。そうした教育運動とその成果については稿を改めるとして,
体罰によって自尊心を深く傷つけられた2人の作家の例を紹介して,この稿のまとめとし
たい。
体罰と自尊心
芥川龍之介が小学校時代に体罰を受けたことは,すでに見た通りである。彼はその文章
に続けて,次のように書いている。「こう云う時に擲られるのは格別痛みを感ずるもので
はない。しかし,大勢の生徒の前に立たされているのは切ないものである。僕はいつか伊
太利のファッショは社会主義者にヒマシユを飲ませ,腹下しを起させると云う話を聞き,
忽ち薄汚いベンチの上に立った僕自身の姿を思い出したりした。のみならずファッショの
刑罰も或は存外当人には残酷ではないかと考えたりした。」13)
芥川は,同じ「追憶」の中で「答案」という文章も書いている。彼が小学校2,3年生
の頃,担任の先生から「可愛いもの」と「美しいもの」を書けという問題を出された。龍
之介少年はゾウを「可愛いもの」,雲を「美しいもの」とした。すると先生は「雲などど
こが美しい?
象も唯大きいばかりじゃないか?」とたしなめて,答案に×印を付けたと
いう。こういう教師に殴られたからといって,芥川は心の痛みを感じなかった。しかし,
ベンチの上に立たされてみんなの前にさらし者にされた時,彼は深い屈辱を感じた。ファ
シストが社会主義者に辱めを与える拷問と同等に扱っているところに,成人した芥川龍之
介の深い心の傷を見ることができるだろう。
子どもといえども人としての尊厳があり,それを否定された時,人は人間としてのプラ
イドを失うまでに傷つくことがある。子どもの人間形成を助成する仕事をする教師にとっ
て,それはもっとも恥ずべき行為といわねばならない。しかもそれは,戦前の基準によれ
ば,「体罰」ではなく法的に認められた「懲戒」に属することであった。確かに,身体的
苦痛を加えられるより,精神的な苦痛を与えられる方が,人格を変化させる上では効果的
であろう。しかしそれは,人格の尊厳を奪うという危険性を伴う。それは結局,マインド
・コントロールに道を開くことになるだろう。教育の目的が一定の型にはめ込むことにあ
るのでなく,開かれた人格の完成にある点を,また教育的処分は人間形成のために為され
るものであることを,忘れてはならない。
13)芥川龍之介
前掲書
202頁
40
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少し事情は異なるが,同様の体験を,芥川の友人でもある菊池寛(1888∼1948)もして
いる。
菊池はいう。「その先生は,生徒の行状を一等,二等,三等に別けた。名札を三等に別
けて,教室の壁にかけた。三等だけは,黒札に朱で名前をかいてあった。そればかりでな
く,運動場へ出るときは,三等者は,その札を首に吊って出る規則だった。私は,前年の
非行のために,三等に編入された。」14)
ここでいう「前年の非行」とは,彼が級友にそそのかされて本屋の本を万引きしたこと
を指している。むろん万引きは犯罪行為であり,小学生といえども許されることではない。
その処罰はあって当然だが,菊池の場合は,過去の行状が人格のランク付けという形で固
定された。そして当時,菊池の周囲で流行していた「マイナス」という万引き行為を遊び
半分に行った菊池寛は,その教師から次のように宣告された。
「 人間は氏より育ちといって,士族の息子だって性根の曲っている奴は曲っているの
だ 。田舎の町では,まだ士族ということが問題であった。私は,それを自分に対する攻
撃であると解せずにはいられなかった。そうした侮辱は,私の小さい心にはかなり徹えた。
マイナスということを,そんなに悪いこととは,思えなかったが,その罰の怖しさにこり
ごりしたのである。」15)
そのため菊池寛は,大人になっても何気なく本屋の店頭で書物を手に取っただけで,落
ち着かない気分になると告白している。やがて『文藝春秋』を創刊して文壇の大御所と呼
ばれることになる彼の人格に,この事件が何らかの傷を残したであろうことは推察に難く
ない。
お
わ
り
に
成績評価と人格評価
最初「修身口授(ぎょうぎのさとし)」といわれていた「修身科」は,1880(明治13)
年の教育令改正に伴って小学校教科の筆頭に置かれ,やがて中学校も同様の扱いを受ける
ことになった。菊池寛が小学生になった頃は,教育勅語の発布(1890年)を受けて,その
趣旨を伝達する最重要教科と位置づけられていた。したがって,将来の進路を決定する学
業成績の中にもそれは「操行点」という形で点数化され,教師や校長など目上の者に反抗
的な態度を取る児童生徒を牽制することになった。
後に読売新聞社主として辣腕を振るうことになる正力松太郎(1885∼1969)も,富山県
立高岡中学校4年の時,校長排斥運動に巻き込まれ,あやうく退学処分になりかけたとい
う。
「退学処分はまぬがれたが,これがため操行点を丁とされました。当時は操行点が非常
に重く見られ,これを甲,乙,丙,丁に分類し,学校の席順はまず操行点甲の者だけで学
業成績によって順序を定め,これについで乙の者だけを学業の順によってならべ,次に丙
14)菊池寛『半自叙伝』講談社学術文庫
15)同 27頁
1987年 26頁
自伝に見る体罰と懲戒
41
の者,次に丁の者の席順を定めました。(中略)私らストライキに参加したもの四名は,
いずれも操行点丁であったので,卒業の時の席次の最後は四名で占めました。」16)
正力はさらりと書いているが,これは生徒の将来に重大な影響を与える処分となる。お
そらく正力も,このようにして人は評価されるし,またそうすべきものだということを
「学んだ」 のではないだろうか。当時の成績は教師の評価権に基づく絶対評価であったた
め,教師は自分と学校という組織に対する忠誠度を道徳性として評価することができた。
教師の体罰や処分のあり方は,戦前の教育が子どもたちに伝えたいメッセージをよく反映
している。それが子どもたちのその後のパーソナリティ形成にどのような影響を及ぼした
のか。さまざまな自叙伝と自分史の分析は,大きな手がかりを与えてくれるだろう。
16)正力松太郎『正力松太郎
悪戦苦闘』日本図書センター
90頁
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