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フィールドノートこぼれ話

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フィールドノートこぼれ話
大阪経大論集・第53巻第6号・2003年3月
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フィールドノートこぼれ話
ドーニャ・エリダのこと(前編)
桜
井 三枝子
冬の木漏れ日が庭先に干した色鮮やかな赤カブ,白い大根,元気のよい白菜に降り
注ぐ。これから恒例の師走の時期の「お仕事」が始まる。今朝は晴天の日曜日。よー
し,農協に直行だ。元気印の冬野菜を見ると矢も立てもたまらず後先考えずに,まず,
大量に買う。そして,庭の水道をひねりこれらをじゃぶじゃぶと洗う。鼻歌まじりに
大根の葉と根を,赤カブの葉と根を切り分け,大玉の白菜の芯部に包丁の切れ目をい
れて8等分する。そして太陽のもとでこれらを干す。その後,糠と塩とゆずの皮,昆
布,タカノ爪を調合して漬物樽2つに順序良く入れ,重しをのせて作業は終了。これ
で,10日ほどで白菜の漬物ができ,正月のおせち料理に飽きた頃,大根漬けができあ
がる。この充実感は論文執筆終了の比較にならない!
偉大な仕事をやり終えた,そ
んな幸福な時間が流れる。なにしろ,冬を生き延びるための究極のサバイバル作業だ
から。
あれは,3年前のやはり師走の頃,私はフィールド調査のためにグアテマラのサン
ティアゴ・アティトラン村のとある民家に下宿していた。アティトラン湖からときお
り吹く北風が埃を舞い上げるなか,裸電球の照明で北米から輸入した真っ赤なりんご
が貧しい屋台の上で輝いていた。これはゴージャスなフルーツだ。高価な北国からの
輸入果実は,クリスマスの時季にしかツトゥヒル・マヤの村に入ってこない。ためら
わずに買う。大量に。そして,下宿先の愛するエリダ夫人にお土産に持って帰った。
私は78歳(当時)になるエリダ夫人が心から好きだ。スペイン語圏で使われる尊称
(ドーニャ)は現在のメキシコ市界隈ではあまり使用されてい
のDon(ドン)や
ないが,グアテマラのようなスペイン中世の名残がローカル・レベルで残っている地
域では,しっかりと使われている。その尊称が実に当て嵌まっているのが旧大地主夫
人のエリダ,その人なのだ。ドーニャ・エリダはこの村きっての名士夫人であった。
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彼女と一緒に村の市場や街路を歩けば,マヤの村人たちもメスティソ(スペイン系白
人と先住民との混血)の住民たちも皆懐かしそうに近寄り挨拶したものだった。内戦
の最中に国軍により夫を殺され未亡人となったものの,何とか子供たちを育てあげた。
現在,4人の子供のうち3人は都心生活者で,残る長女は目と鼻の先に住んでいるが,
長年の不仲で行き来することがない。家族内の葛藤と現金経済が浸透するなか,この
老婦人は所有していた土地の切り売りと日銭稼ぎのバイトで生き抜いてきたのだ。だ
から,30歳のグアテマラ銀行に勤務するキャリアウーマンを下宿させ,私ごとき東洋
からふらりと来た中年女性も下宿人としておいてくれた。この家には色々な人たちが
出入りしていたが,私の滞在中は米国籍でこの村に住み着いた女性や,グアテマラの
女性医療人類学者などが,エリダ夫人を訪ねて来て談笑していた。やがてその談笑の
中に私もはいりこみ,女性友達の輪が広がった。
家は広いが手頃な狭さの台所で,ドーニャ・エリダと私は豆の莢をむいたり,ジャ
ガイモの皮をむく作業をしながら世間話をよくした。話上手で噂好きで記憶力の良い
エリダ夫人の昔話を聴くのは人類学研究者にとっては「お仕事」とはいえ,楽しみの
領域であった。
冬の夜,夕食のあとで市場で買ってきた米国産のりんごの皮をむきながら,ドーニ
ャ・エリダは自分の右手中指先端がないのを私に見せ,こんな風に語り始めた。
「私は1922年,小学校教諭の母アドベルティナと父カルロスのもとにソロラ県に生
まれたの。姉(当時88歳)と兄(当時84歳)とは異父キョウダイなのよ。」と私の目
を見る。何故異父キョウダイなのか?と私が問う。姉は老齢で一軒おいた隣家で伏せ
ており,エリダ夫人がお手伝いさんを雇って介護をしているようであった。
「姉と兄の父親は仕事の都合で留守がちで,そんなある日母親は持病のリューマチ
で寝ていたところに,父のカルロスが訪れ母親に無理やり関係を迫ったの。そうして,
生まれたのがこの私よ。夫の種と異なる子供を身ごもった母はソロラ県の祖父母の所
に身を寄せて,そこで私が生まれたの。生まれて3週間が過ぎた頃,私の顔にひっか
き傷が絶えないのを見た人が両手に手袋をはめてくれたの。でも,右の手袋の糸がほ
ころび,私の中指にからみついてしまったらしいの。泣き叫ぶ赤ん坊の手袋が血に濡
れているので,隣家の医師が呼ばれてきたわ。そしてその医師の判断で私の中指の先
端が切断されたのよ。ちょうどその頃,医師の奥さんも妊娠していて,私の指の切断
を見て気が動転してしまったのよね。生まれた娘には左手の指が1本欠けていたの。」
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「この指にまつわる話は,まだあるのよ。聴いて頂戴。娘に恋人ができると友達連
れでやってきたわ。そのなかの一人の若者が,私の中指の損傷を見つけてクータと嘲
笑したのよ。やがて,この男は結婚したわ。ある日,二回から窓ガラスが落下しこの
男の奥さんを直撃したの。奥さんは右手の中指先端を失ってしまったわ。この奥さん
には何の罪も無いのに,夫が私の指のことで嘲笑したから,その祟りが夫を乗り越え
て妻に乗り移ってしまったのよ。不思議なことよね。」私は無言で頷くのみであった。
ドーニャ・エリダの話を聴いていると,ノーベル文学賞を授与されたガルシア・マ
ルケスの『百年の孤独』のシュール・リアリスティックな物語の展開に一脈通じるシ
ーンを思い浮かばされてしまう。「豚の尻尾を持って生まれた」ような話で,話は続
く。
「私は4歳になるまで両親と祖父母たちとサン・アンントニオ・パロポ村に住んで
いたわ。当時両親は4頭の牝牛,100羽の雌鳥,数匹の豚を飼育し,卵をアグア・エ
スコンディーダのパン屋に売り,1日15ケツァルの収入があったの。幸せにして健康
な日々だったようよ。私には不思議な能力が神様から与えられていてね,こんなこと
があったのよ。
年長のメルセデスという幼友達がいたんだけど,青い目で白い肌の少女だったわ。
ある日,いつものように彼女の家に遊びに行くと,ベッドに横たわっていたわ。天然
痘に罹っていたの。私はメルセデスの傍らに寄り添って寝たけれども天然痘にうつる
ことはなかったのよ。不思議でしょう?」と聴かれても,私はそれほど不思議とも感
じなかった。多分,現代日本に生きていて私は天然痘の恐ろしさを実感するほどの体
験をしていないからかもしれないと自問しつつ,話の続きをせがんだ。子供の頃の写
真を見せてと私が頼むと,夫人はアルバムを探すついでに,居間の戸棚からセピア色
の新聞記事や手紙類を出した。
「母さんには役所に勤める叔父が居たの。サン・ルカス・トリマンに土地を持って
いる叔父は母さんにサン・アントニオからサン・ルカス・トリマンに移るように勧め,
叔父の世話で母さんたちは刺繍や洋裁店関係の仕事や,パネラ(未製糖の砂糖の塊)
の店を開いたのよ。やがて,母さんの身内から文部大臣に就く者が現われると,母さ
んはサン・ペドロ村の小学校教諭として就職したの。お祖母さんは産婆だったから,
母さんが教諭として働き始めると私の養育にかかりっきりになったわ。当時,家族は
7人居たのよ。母さんと姉,兄,,祖母,そして祖母が産婆として働いていたときに
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引き取っていた孤児2人と私よ。お祖母さんは疫病が蔓延する最中に孤児となったア
ルベルトを引き取り,当時兄さんに授乳していた母さんが兄さんと双子のように育て
たのよ。そして,今度は私が妹を欲しがる様子をみると,母さんはアナリディア(調
査時71歳)を幼女にしたわ。その娘がエリザベトでパナハチェルに住んでて,時折私
を訪ねてくるでしょ?
そう,覚えてる?」
そうか,ドーニャ・エリダの薬草の知識や店を経営する商いの勘は,産婆をして雑
貨店を経営していたお祖母さんゆずりだったのか。そして,父親のことをあまり話題
にしないのは,エリダ夫人の母親がラテンの逞しくて母性愛の強い典型のような「未
婚の母」タイプの女性だからなのだ。父親不在の母系制親族組織の堅固な社会の事例
は,こんなに身近にあるのだと脳裏をかすめる。
やがて,エリダは美しい娘に成長したが,幼いときの中指先端切断による肉体的劣
等感から逃れることは容易ではなかった。そんなある日,タイプライターの授業を受
けていると先生がエリダの席に近づいてきた。エリダは中指に爪が無いのを見つかる
のが嫌で,打つのを中断した。先生は事情を察すると,同僚のなかに右腕を失いなが
らも社会に出て立派に仕事をしている人がいる例をあげ,エリダの劣等感はとるに足
らぬことであると言い諭した。賢明なエリダはこの日を境にして肉体的劣等感から解
放されたと語る。
「1950年代といえば,社会主義的な大統領が出た時代よね。そう,アレバロとアル
ベンス両大統領の時代でね。私はツトゥヒル・マヤ語を解するのをかわれて,国立先
住民庁の調査者として文部省の協力も得て活躍し始めたわ。ほら,ここに1956年エル
サルバドル発行の La Prensa Libre 紙(7月1日付け)があるでしょ。私が先住民
風民族服を着けた白人女性に織物の手ほどきをしている写真よ。こっちの方は,1956
年9月14日付けの El Espectador 紙で,グアテマラ独立の記念行事で先住民の工芸品
展が開催された時,私がソロラ,ケツァルテナンゴ,キチェ諸県から収集した織物を
展示した時の写真よ。」古ぼけた写真の載った新聞記事を見ると,清潔感のある若い
女性が掲載されている。エリダだ。
やがて,エリダは米国に行く機会を得た。米国からすっかり垢抜けて帰国したエリ
ダは,コーヒー農園主の息子で7歳年下の青年に熱心に求愛され結婚した(1958年)。
アルマス政権当時のことであった。すぐに長女,続けて,男女の双子,末娘の4人の
子供に恵まれた。しかし,幸福な結婚生活は長くはなかった。経済的に恵まれていた
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ものの,夫の女癖の悪さに泣かされる日が続いた。(これも,ラテンアメリカのドン
・フアン的プレイボーイの典型的なお話だと私は内心思う)。
)の断片に気をひかれ文字を
もう一枚の新聞記事(1982年5月11日付け El 拾い読むと,「武装ゲリラ集団が農園主(彼女の夫)を殺害し金を盗んだ後,家に火
を放ち逃亡した。このような破壊分子が軍のコミッショナーをも殺害したのであろう。
一味のなかには外国語訛りのある屈強な男が居て,どうやらその男がリーダーのよう
だ。先住民のシンパもいた。それゆえ,こうした事件を未然に防ぐためにも国軍が駐
屯部隊をここに派遣することが望まれるのだ。」と記している。不審な気持ちでエリ
ダ夫人に問いただすと,夫人は語気するどく「ちがうのよ。事実は逆なの。ゲリラで
はなく国軍が女をつかって主人の関心を惹かせ,家の内部を探らせ,現金のありかと
主人の翡翠のコレクションを知って殺害したのよ。とんでもないでっちあげよ。そも
そも主人が絶滅しかかっているポックと呼ばれる水鳥の保護を政府筋に訴えたあたり
から,目をつけられていたようよ。」と語る。
「水鳥,ポック,何だか聴いたことがある。ちょっと待って。」私は二階の自室に
入り一冊の本を持って降り,エリダ夫人の前に置いた。私の夫が日本から持参してく
れたアン・ラバスティール著の『絶滅した水鳥の湖』(晶文社
1994年)という本だ。
この本の中に登場する初代国立公園保護官とは,もしやエリダ夫人の夫のことではな
いかと問うと,そうだと身をのりだし,本を手に取り彼の写真を見て何と書いてある
のかと私に聞く。著者アンの恋人で独身男性だと描かれていると答えると,夫人は絶
句した。
著作の中で夫人とその子供は「抹消」されていたのだ。夫人はこの村で唯一の気の
きいたレストランを経営していたから,湖の美しさとツトゥヒル・マヤ民俗の魅力に
惹かれて訪れた欧米人は必ずといっていいほど,このレストランで食事をし,料理上
手で気の良い夫人の友人となったのだった。その中にバスティールもおり,はじめは
夫人の親しい女友達だったのに,いつの間にか夫人の目を盗み夫と関係していたのだ。
夫人は複雑な思いにかられている様子だ。そして夫人は「男(夫)も悪いが誘惑する
女も悪い」と結論づけた。
話し変って,エリダ夫人が1週間ほど家を留守にしたことがある。歯の治療のため
に,村を出て旧都アンティグア市の娘の家を頼っていったのだ。そんなある日の午後
のこと,家の玄関の扉をがんがんと叩くので,誰かとたずねるとくぐもった声で「私
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よ(Soy yo...).」というので,いぶかしく思いつつ扉を開けると男性の体つきなの
に女性のような服装をした「男」が車をとめてドラム缶を下ろし,「あのね,ドニャ
・エリダが水不足で困っているって聞いたから,私ね,アティトラン湖から水を汲ん
で持ってきてあげたのよ」にこっと微笑む。あっけにとられていた私であるが,とに
かく,村で唯一の水道のジェネレーターが故障し,1月近くも断水が続き,水洗トイ
レや洗濯や掃除に水が使えなくて困りきっていたから,何にもまして有難いクリスマ
ス・プレゼントだ。
このことを帰宅したドーニャ・エリダに言うと,大笑いをして「あの男はね,今は
女なのよ。昔私から3000ケツァルを借りておきながら,まだ500ケツァルしか返して
いないの。無利子で貸しているのにね。それでね,村に一つだけある酒場で働いてい
るの。まあ,義理堅いわね。こういうときに水で返してくれるっていうわけね。」「??」
今度は私のほうが絶句した。
3年前のアティトランの冬の夜を思い出して書き出す内に,ドーニャ・エリダは1
回ではおさまらない人物だと気づいた。海千山千の人生体験豊かな,人生の酸いも甘
いもわきまえた愉快でピカラ(唐からしのように辛い)な性格のドーニャ・エリダ,
今頃,どうしているのかしら。私が冬野菜を漬物にする頃,エリダ夫人も4人の子供
や孫たちのために,とびきり美味しいタマル(練ったトウモロコシ粉に肉や魚を入れ
たチマキのような携帯食)を作っていることでしょう。これをクリスマスの時季に沢
山作り,贈り届けるのを楽しみにしていましたね。いずれ,あなたの続編とその愉快
な仲間を書いて見ましょう。それまで,ごきげんよう。
[付記]この随筆を旧教養部を支えてこられた藤本周一先生に捧げます。これからも,
本学が創立時の理念に基づき確固たる歩みを続けることが出来るよう見守ってくださ
いますよう。
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