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白隠離畔師は、 瀕死の身體で山中に獨居し、 天地に身を 任せて) 犬死
71jT77 白隠扉師は、瀕死の身慌で山中に褐居し、天地に身を任せて、大死一番党悟を得た人であ 2 る。だからこそ。若い者にも、 若い衆死ぬがいやなら いま死にやれ 一度び死ねば もう死なぬ と云った。これは、﹃葉隠﹄にある、武士は、毎朝死ぬのだ、と云ふのと同じである。二宮尊 徳が、朝眼が党めたたらば、あX今日一日叉生命を儲けたと思って、大日如来︵彼の云ふ朝日︶ に感謝せよ、と云ふのと同じである。 生れ愛り、生れ雙り、死に死にして、積極的に進む、これが曼悟の道である。 畳悟に障碍なし 党悟ある者が党悟なき者の姿を見るのは悲しいことである。私の問いた話に。ある新聞此の 現地特派員がグ氷らく、支那で従軍して来て、美しい日本9 兵の曼悟に、すつかり魂を浮めら れて節つで来た。その障りしたに、支那で仕事をして居る友人から、よければ再ぴ、とちらへ 来て仕事をしないかと。國策會計への入我を勧&られて居た。 凋丿∼j↓i輿丿肩丿IU、Jjllj 彼は東東へ蹄っt来勺れだ精紳總動員聯盟が新しき組織となら大充分活動しt居なかっ た時でもあるし。彼は、東京へ着ぐなり、銀座をうろつく若い男女や、町々に流れて居る浮薄 な空気を見て、これを戦時乍らの訟裕があるなどχ呑気に見て居るAJ−≫Jは出来なかった。 最初は憤慨した。次は厭悪した。そして、 ﹁生き甲斐のある、しっかりした生活がしだい、今日も生きたんだと云ふことが、しっか・O\ ' 頷ける仕事がしたい、緊張した、党悟のある本常に建設的に生きて居る第一線へ蹄りたい1﹂ さう望んで、再び従軍記者を願ったが許されない。そこで彼は、姉る時に、話のあった支那 の會飲へ入ることを希望した。先方からは快諾して来たが、健康診断が必要だった。彼は、東 京の警師に、それを求めたのであった。 すると・、最初の替師は、 ﹁これはいかぬ、貴方は肺を冑されて居る0大陸へ渡るには二三年の養生をしなければ駄目 だ﹂ と云ふのだ。で、彼は、第二の警師に廻った。が、やはり同じ答へである。第三、第四、第 ね II ノ,: ジ た。 ^C-' k£よい・、それでょいのだ﹂ ﹁誰か一人、行って宜しいと書いてくれkばよい 五、第六、彼は、渡支したい協に、警師を片つ端から訪れ L、。、。。F、ニ。 彼は夢中だった。凡ゆる友人にも依頼したノそして、 。 ﹁なあ’に、俺の身穀、俺が知ってる、東京に愚圖くして居たら、あべこ と駈け廻った。が、どの警師丸どの警師も詞じ診断で、たべ ﹁さつですね、牛歳位、静養しては7・﹂ と云ってくれるのが、ました人だった位であった。が、彼は屈したか ﹁俺を無病だと云つでくれる人はないか?・﹂ 彼は血眼忙たった。そして場末から場末ぺと飛んだ。 這に、あった! のであ元或る警師が彼を診断して、。 1.吏あ、あちらで脊気にやった方がいkかも知れませんね、たりし ぺに參っちまふょ﹂ った。 無理しちやいけませんよ﹂ 心地で、すぐさま、妻子 二滴/ぺが、これが皇軍の 、− と、注意し乍ら、健康診断書を輿へたのであつた・、彼は天にも昇る を 癌 れ て 北 支 へ 赴 い た 。 ︲ J ″ y つ来七よかった。毎日張り切り咤居る、筋肉の一つ一つが、血の 1︲I’ ﹂︲イ J ︿ヘ一f’⋮⋮⋮J 希い将士の血を流した土地で建設の言に働いで居る?1 ゐ名のだ、お蔭で元気べ肥えた。血色もよい、家内一同。みんな健康、喜んでくれ﹂ との嬉しい便りがあった。 一人の娶師が病気と診断すると、直ぐに、それに負けるやうな意志ではない。飽迄興亜に燃 え名心ノ曼悟ある此の人からは、途に病も逃げざるを得なかったのだ。 今次の聖戦を見て来てさへ、こんな立派な曼悟を持つ人もある。更に、私は涙なくしてぱ思 へぬのは白衣の 1士の曼悟である。 白 衣 魂 國の情けに泣きながら 男死場所戦線に 二度と立てない俺達が 附けた十字にや血が箇む 74 75 4楡 足はきかねど見えぬ限も 昔かはらね大和魂 明日の戦場で吠く花は 人に知れたい意9 があるヽ 病院で療養中 誦し得られ 76 人 に 知 れ な ■い 意 気 が あ る ト r /7 H.'自作の歌に切々の情を述べた、その如くであった。 山口軍曹は、天晴、白衣魂に奮ひ立ち、肉但は、きかぬ乍らに、精4 力で、滅私奉公 を立てた。そして、元気に、溌刺と、その奪い育戦裡の鰹験を、詩 気作興、情操教育に今後を捧げようとした0 である。これを係 友人明本京静氏に作曲させて、先づ白衣の勇士に聞かせ、戦友の袖を絞 これを聞いて西條八十氏は馳せっけ、こXに、山口軍曹の将来に對して、詩人 だけの事をする事を脂情溢轍て誓ったのだ。やがて、ラデオで、それ 銘、殊に私の瞼は濡れて、曼悟あるものの美しさに胸打たれたのであった。 更に、最近、痛心し三嘆したのは、隅田川の攻防演習に、捕虜となるのを嫌づて、溺死した 悲死な兵士のあったことだ。全く、演習戦死である。 新聞は筆を揃へて此の兵士魂を書き立てた。立派である。本営に書くべきである。か 士の日常の売悟、たとひ演1 たりとも、演習する時は、既に賓戦なりとして奮戦する勇士 ばこそヽ日本の武名は于古世界に冠絶するのである。以前、座間の陸軍士官學校に礼。演習戦 に歌に感想文に綴って、志 りの吉田軍警少尉が感動して、 らせたのであった。 も放逡された。翻衆の感 として出来る の大願 χる兵 あれ 77 1一I一j 。.ノ \ ’″ ⋮⋮。 ` ` ヽ ご I ・j ’4 バ ふI4μ ヽ ` ヽ ’︲y `j`j゛Lj’々゛’ふ゛` ”゛べ 了’一 jj←J希∼々。jJji﹄≫ jtr ■■ 。明日の職場で吠く花は 昔かはらぬ大和魂 手押車で看護婦に亘ばれる悲しみも、山口軍曹の、かねての曼悟の前には 慮召、戦傷して療養中に、母の病死の報を得たのだ。しかも此の悲しみも、消え去った。 それに泣かされるの司 、悶もなく 山口軍曹の此の作は二十七歳の病床で出宋た。昭和十二年。開西大學を卒業して 肉置への絶望感も ぬ。 たる曼悟1 しかも、悲壮、二訟に充分の慈悲を持ち乍ら、其の文字の中に含まれた烈々駄々 ハ の白衣の勇士、鳥取懸出身の山口季信軍曹が作ったのだ。全く、涙なくしては口 この歌は、崔兄荘の戦で、脊髄骨折の重傷を負うて帥還し、東京牛込第一陸軍 / で〃 死を逡げた勇壮なる士官候補生かあった。 明治維新、一時、武士道君凋落してI 學校の教育に、海軍兵、機 治十五年一月四日軍人に賜 烈々たる日本精紳を泥足 武士道的精紳を八 i大哲學、町人根性が旺盛にたり、やがて、それが自 由主義も資本主義も生んだ。絹滓論吉などは、町人竹學創設に一心にたり、 却した。彼の赤穂四十七士に對しても[福助の首総りと同じだ]と、 に踏み鵬った。 かき ’ 忘れた。 ttIが、豪ふるに足りたかった。日本武士道の精華は、畏くも明 るものもなしとせな だが、しかし、まだ 華かならんとするは4 りご たy る 詔 の 公 布 あc っ て よ り 、 炳 乎s とi し て 我 が、 軍1 除跨 につ 悋穏 ぽ阪 っ斐 たも 。、 士そ 官の他、 r ハ ‰ ノ 。 n u ・ i ' ' = > 。 Iし Nr の1 受にも、常に、受る 経學校の訓育に、徹底した。そして、日清、口露の雨戦役も 處なき凛烈たる士道を顎揮し、皇軍の威武に世界を驚倒させた。 そして、今次事慢となり、國民は忽ち武士邁に復帥した。武士道賓に 日以後である。既にして、直詳的ユダヤ的の町人哲學は滅びたのであ一戸 と共に ロ本には國 とひ一時 /’゛”’バ‘ ≒ ゛I‘”`゛ ゜゛゛’−4 ’f`゛’`’`b4’‘ ゛゛I‘゛‘ふ’ 此の町人暦學が滅びずとし、町人根性を拾て切れ字。過去の残滓に懸々た s。これ國家が、國民精8 總動員中央聯盟とか、その他の團膿を必要とする所以であそ “ ‘r il ’ . I J︲’yyj”’゛ 曼悟あるものは最初から、動員されて居るの危。動員された心持で、國家と一飯になって、 自己を捨てX、大同に就いて居る。此の際小さい利己的な観念は利己的な人間を、た 的にでも幸絹にする筈がなにい。だが、その迷夢から、醒め切らぬ人開かあるのだ。 民精紳總動員中央聯盟などは不必要だ。そんなことを要しない、大同に就き國家の消長 消長する。否、國家に捧げ名ことによって自己を生かすと云ふ大和民族本末の鍔m、その曼俗 に到ることこそ望ましい限りである。一面。云はぺ國民精4 作興が今にして叫ばれるのは寧 ろ國の恥辱と観すべきである。 て、どの面下げて會へやう。靖因印耽に何として邱雄が出来やう。否々日本の照る太陽に對し 戦線の勇士に對して。そんなことで、銃後の國民として何の面目がある。白衣の勇士に對し て、何の心で呼吸し得るか! I 出征兵士に我等は旗を振ったでぱないか、白衣の勇士に席を譲つたでぱないかぐでは、その 國民として、此の一大売悟がなくては叶はぬでぱないか。 云はれるから埓る’のではないヽ本来の精印からヽやむにやまれず賓行するヽそれが日本精 7 ‘’i f 7S ●゛’ 帥ブ元悟ある人問。日本人だの雇。云はれるから皆無に八る、云は牡るからパーマ予1寸を るヽ云はれるから坊主刈にす脂云は性で思惑を匠す 何の事べ。心が腐っ、で居る [億一心ヽ4 こそ皿谷の瀬戸際べうんと頑張る時ベ云は牡翌剛に、叫ばれる前に、 しで、我等は賓行すべきだ。寧ろ國民精帥總動員中央聯盟を引1 ずって行く、之れが武士 I 9 を把握した國民だ。あんな事ば、単たる注絡機開、事務所の存在にする位で且斌くてぱなら ぬのだ。 ゛` S 一 畢國一諏べ凡マが國家に隔絆す芯の言國民の方が、卒先しマ紐付物資共に總動員しべ 仕事がたいと國民桁帥總動員中央聯盟あ九りを三嘆させてこ九興庖の先回目本國民である のだ。 繩對力勝利と幸禰` それにしても、何と云ふ、めざましさであらうか、日清役には木口小平の物語あり、日露役 に咤橘、廣瀬固陸海軍帥、湘洲事見には爆弾三勇士等と、鼠ふるに収たい程の悲烈壮絶の物 / i->。<wj≫'-? ・でトÅミーー・沢。︸泌j々Sjj。い芦 II r ″・L`dJ ゛ ヽ一一ユースに、聞くは、これ皆こ ` ヽなり乍らも、動 ’し”︲’までバスーく¥t←まi1 S j禰リ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮4−4一一II。﹃ 語が1 人を感奮興起させた。 j が、今次の日支事便に到っての、毎日の る胸のすくやうな雄々しい軍4 の働きのみではないか。 J ’ 戦場に社、幾干幾百の軍9 が日毎活躍して居るのである、吾等は新しい感激0 涙から、更に 新しい感激の涙へと、移るに忙しい有様である。 少な部除で國境線を守護し、ツ聯の大軍を撃退した我が皇軍の将士の物8 を、五又は原四郎氏 見よ、ツ隔國境の、あの壮烈無比の戦隨を! 不法越境した張鼓0 事件、あの時の、あの僅 の﹃赤軍と戦ふ十四日間﹄に知った。何物をも、その脚下に陳図するソ聯のタンクに寡兵を以 て能1 りする我が忠勇な名将兵、倒れて、血に咽び乍らも、火を吟くタンクに、バック心やう にとびっく我が将兵、たとひ手、足、頭、胴、何處を射たれ、傷き牛死牛生と ける部分が身靉に残されてある限り、敵に打つ突かつて行く其の軸の姿! たとひ百萬の強敵、砲煙弾雨の中でも、片輪になった一人でも生き頑ってゐる間は、守り轟 ナ、戦ひ崇す、おXl 何と云ふ感激、何と云ふ偉大さご 指士となり切った奪さを見るではないか。 8 匠す O 卒先 道精 ∼ご4愚渡j、` ゛ご t14 1Jf よよI4J る敵機を追っ抑って置いてゝ悠-≫︵地上に1 陸して機開銃を修理しヽ再び上室に舞ひ上ってヽ敵 銘 同じく野口部除で壮烈な戦死を逞げた天野逸平中尉は、嘗って機関銃に故障を生するや、群が の大集團の鋸ロハ中に突っ込み、奮戦に次ぐに奮戦、敵弾の集中を浴びて、壮烈至極の散華、又 大群中に突入し、イ十六三機を忽ち右と左に叩き落し、逃げるを追って、更に新手の敵飛行機 と云ふ大激戦であったが、我空陣を少数と侮って空を蔽ふばかりに婿集したソ聯機イ十六の 悉く断念するに至ったものと観ら1 てゐる﹂ らす±9 は金く1 喪し、十三日以降は殆ど敵の出撃なく、我が戦闘部除との堂々たる會戦は 受けた敵空軍は、屁にこの第一線に六、七十機を残すのみとなったが、再編成等は思ひもよ から十二日までの間に合計百二十五機を屠ることが出来た。かくて連目の室中戦で大打撃を 二十二機をうち落した。七日には敵はまた新鋭の一個大除︵三十機︶を塘加した模様で八日 らしく。五日には我が精鋭と敵の八十機が衝突、七機を撃墜。六日には更に敵六十機と激戦 型爆撃八機を粉砕して凱歌をあげた。然るに敵は更に新鋭六十機︵二個大除︶の増援を得た 彼方からイ十六九十機、イ十五三十機が現れ、またく大厄闘の末、敵駆逐機四十二機、中 月四日午後敵のSB重爆九機が来襲したので、我が軍がそれに反撃に向ふと、突如、密雲の 4 墜したのであった。この大打撃で敵空軍は全く逼塞しすっかり鳴りをしづめてしまった、七 鉄に彼我入り厄れての大厄闘が演ぜられ、逡に戦史未曾有とも云ふべき大量の九十八機を撃 敵大部政は南方に逃げのびたが、その逃げ這には我が島田部股が敵と交戦中であったので、 我が戦闘飛行除主力との正面衝突で我が松村、1 口、加藤の三部政の急襲に這ひ詰められた 1六月二十七日の世界空中戦史に特記すべきボイル湖上の大空中殲滅戦は敵の駆逐飛行除と で満蒙國境戦線の室中戦を脱察肺京した寺西少佐に訊けば 昭れか`操業ン偉 和がけ縦と事大出 十五 `者も件さ登 三月機が思に ゛に 年二閤落へ於機臨 以十銃下ぬけ械ん 来 七 弾 傘 働 る 等 で 一 日 を に き 陸 に 部 ` ヶ の 射 て ` の 頼 除 年戦孟降殊荒ら長 に の す下 に 鷲ぬが 亘 事 と 中 大 島 ` m り で ゛を 空 田 党 機 仝 ` ピ 射中部悟械 支六ス殺戦.除しと め 月 ト し の の た 精 空ニル `華活人跡 を 十 で し と 耀 間 の 翔七態か散 `の戦 破 目 戦 も つ 射、力 闘 しボし `か撃のだ てイ `老野の素゜ 勇 ル 不 の 口 三 晴 と 名計時憎部利し云 を 上 着 む 除 鳥 さ つ 馳 で し べ め 長 を た せのたき堀谷充 ゜ `大イ ソ潔川分仝 六窓十聯酉少・にく 月中六の長尉賓だ 二戦闘落は `謐 o 十 ` の 下 ` 篠 し 人 七此操傘天原だ間 日の縦を野准のの か目者必中尉だ果 ら の を土尉 ` ゜し 七 賓 射 塵 が 堀 更 な 月 敢 殺 に 撃 幹 に き 十の し翼墜長ノ 精 四 模 た に し の モ 榊 目 様 ゜ ひ た 人 ソ 力 ± をこつ敵開ノ`ゝ の 1 -.., / ゝ・. !I∼ I 11 31 1 。。1∼∼/j。j4膚曙r ’ ∼ j。 ” じ⋮⋮⋮ニペ浦哺01う︲ II︷jr!。 1 ’ I QF︸ぷI鮒‘︲︲︲’ I j I F・’限1日しH。IQQ、 −− ■L .^*LJ 。 -^ ■" 。; ^。'"≪ -S ■* * ︱^ -* ’‘' ︲ ^。■≫ 然るに、支那事賢二周年記念に火野葦平君が、﹃戦場より﹄と 7Q を断っものがあった。曰く ﹁OOで部政戦歿勇出の慰盛祭汝施行したことがある。その ’ ‘ 一 l y J I l t `v y/ F' ’⋮⋮⋮■)*≪≫%≫■■。 店を開右商寂光してゐたので、我々ぱむろんその1 部がこれに列席するものと考へて居た。祭場 は、十分廣く居留民鷹が準贈された。しかるに営口その席には多くの空席があった。私は涙が 出る程腹が立ったのである。︵中略︶私達は、その時出店しなかった居留民は、悉く退去命令を 出して貰はう差さへ思ったのである。︵中略︶しかしたがら私は金回として、兵除の精励が純粋 であると同様に、國民の精励もまた誠賓であることを信じて居る。それ故にこそ我々兵除も、 なんの悔たく弾丸の中に身を曝してゐることが出京拾。兵除の苦難と共に、日本は前進し立派 になるであらう。さう凪ふことは楽しい。唯願はくば、そのやうな希望と犠牲の精1 によって 心も明るい兵眼の気持をつまらないことによって斎さないでほしい。 このやうに兵除を不愉快がらせるやうな人達︵それはまた同胞の名をも汚す一部の人々であ るが︶は大陸進出といふやうな隠蓑をきて戦地にやってきて貰ひたくないのである。私か今、 とのやうな考へを懐くのはヽやがてこ0 油頭の街も今迄私達が経て1 た幾多の占領地域で起っ だと同じやうな現象が、つまり治安の回復にっれて次第に内地からの。進出がなされ名であらう と想像されるからである。 題して蓮べた文章は、吾人の腸 土地には既に数干人の内地人が J111八j‘吠まjJ に牛うr 。朽ノノ ︲’J 8 ■ _ * ■/⋮⋮⋮´‘`ty’yヤゾ’Eりし︲LLly、’itトー︲やでLF。 こ れ ぽ 新 ら 已 い 問 題 で は な /い ゜ へ し か し 解 決 さ れ な け れ ば な ら な い 根 本 的 だ 問 題 で あ る と 凪 8 − 5 ■■ 涙を流したこと、目露役に、我が聖血の滴った土地が排日抗日分子に洋間されたこと等々であ には深く遠い原因がある。日清役に血を流した奪い土地を三國干渉の協に、あったら㈲民が血 大いたる正義の誤に、人類愛の坦に、大なる曼悟を有する・國家は動き出したのである。これ と、感謝に瞼が勁くたるのである。 9 さ、それを事賓に知石を得る此の聖代の吾等は何と云ふ宰謳九月日に生れ合せたものからう の冒際が見聞出来るのである。鍛へられたる大和民族の偉大さ、曼悟ある人々の鋤への飛躍の う。吾々が歴史上で知った、總ての忠臣烈士の行動は、幾百倍、幾千倍とたって此の日常、そ に感涙を流して、叉、陸の荒鷲の行動に涙止められぬ有様、何と云ふ有難い皇軍の武勇であら いふ。洵に戦闘精9 の権化と’云ふべき人物、先きに梅林大尉。大林少佐等の海の荒鷲の大飛躍 がすっかり逃げたのを知り一残念だ! 残念だ!﹂とかんくに怒って○○基地に帥還しかと I I ふ ・ ●F’ ふ。︵中略︶あKこの絲と霧の美しい油頭の街に兵除の心を暗くするやうな狐や狼がよってきま せぬやうに゜﹂ ド ” とあるではないか。こんなことを火野軍曹に云はせねばならないかと思ふと、國民の一人と して、私は赤面せざるを得ない。と同時に私は限わない憤激を見えるのである。さう云ふ非國 民的存在は、片っ端から海の藻屑に叩き込みたいとすら2 ふ。かXる見悟なき人間、日本國民 としての見悟なき人間の渡支は全く禁すべきである。彼等は見悟ありし人々の立派な所業を泊 して行く奴輩である。かど 脱に日本人の面をして居て日本人とぼ呼び難いのである。獅千身中の詣! とは、かχる奴輩 をこそ云ふのである。寄生詣である。さなだ詣である。宜しくセメンを以て駆除すべき害詣で ある。 こXにして思へば、彼の紀の國屋文左衛門等々を、演田弧兵衛や銭屋五兵衛や、高田屋嘉兵 衛等と同等に、或は、それ以上に遇する所謂、町人の羨望根性が間違って居たのである。銭五 や禰兵衛や嘉兵衛は、海外登展を計り、國威の輝くことを以て目的とした見悟ある日本人であ .42141 った。従って町人乍らに天晴な武士道的信念を把持して居た。これ等こそ讃めらるべきであ ’‘″”Sゞ一≒ i!い‘`1゛−﹄jI ` 為。然^'^y、火災、その他で同胞が辛苦して居るのを倖ひに、火事泥棒的な買占め等を行った はないのであ厄。紀文などは、たy荒海を渡ったと云ふのが、僅かに男性的ではあるが、これ 等も私慾を基礎にしたものであったなら、無價値である。殊には吉原の大門をしめたとかしめ ぬとか、まるで言語道断の話尺正に皐堕すべき奴輩であるJ 。 なる國民生活を脅かして浮雲の如き条華、これとて、勿論鋸の意味の柴華ではない、泥の世界 かXる非國民を些かにでも微讃する気持が、明治、大正に於て為米の買占め。その他、忠良 で泥が威張り得られた程度の一朝の槃華の夢を1 つた馬鹿者、不忠者を生じたのである。これ 正しく個人主義、個人の利慾、享楽を最上とした直翰入的ユダヤ思想、それに附加するに正義 も人道も知らない利慾︼鮎張りの町人根性を加へて。誘導した禰渫論吉一涙から流れた毒流で ある。今こそ、かkる獅子身中の昌を生する芥沼は、乾燥させるべきである。 さるにても。1 國民的に、そ ‘の党悟を招来させた皇軍の勇士達は、一方、忠勇武烈、世界無 双と同時に、偉大たる教訓者、聖教者。大學者とも云ふべきである。無言の教誠が、彼等をし て再び起っ能はざるも゜として行くのだ゜彼等をしてゝ翻然ヽ生れ愛らせっXあるのだひ潜在 S 8 ● -・ へ 徳川時代の琉金等吠葺し、民衆の國民の敵ではなかったか、そんな者にはI顧だにする價値 F する、日本人の血が、彼等の曼悟を喚び曼すのだ。その潜在する血を表面に躍動させねば置か 8 ぬ皇軍将兵の賓践からの無言の教示は、まことに紳の恵みである。観世晋の大慈悲である。 吾人は謹んで贈秤すべきである。そして、将に反省すべきである。國家と共に、國民と共に 隣人と共に、喜び得る幸絹ならでは、たとひ、その富、山と積まれやうとも無價値1 あり、最 も不幸なる存在であることを、先づ畳悟せねばたらないのである。 畳悟あるものの観方 多大の感銘を輿へた、あの事鯉二周年E念の朝のラヂオ修養講座の最終日に札幌から﹃戦局 の顛験を8 る﹄を放逡した陸軍歩兵上等兵藤井庫吉氏の話は、洵に立派かっ感激の深いもの既 った。氏は冒頭から戦場の頭験の具只中へ飛び込んで語ってくれた。そのうち、涙ぐましく龍 1.j いたのは、日本の軍除が食糧は恵まれて居ると云ふ話である。藤井氏は、自分達は、各地に耀 . ’ヽ`4I︲ ・︷ 感‘ . ぐ 詰の山を築いて来た。氷砂糖やその他甘いものも蹄還したら子供に面目たい程食べた。そして う⋮⋮‘し ^むi L .^ 支那兵の逃げた後に、それらしい食糧もなく、中には、生のかぽちやに、とうからしを混ぜて いly それが、眼を潤ぱせたのである。あX、私は此處に曼悟ある兵士が畳悟を以て銃後に呼びか けた言葉を知ったからである。どうして、皇軍の兵士の辛苦の中に食糧難が存在したい筈が弗 らう。が、饒に、これは畳悟の前である。しかも、支那の兵士の食0 かけのかぼちやを見て、 すぐさまに、自分達は銃後の後援で慰問袋からの匯詰の山も築いたし、甘いものも充分にとれ た、嬉しい、とさう思って貰へることが、その信頼が、その純情が、その銃後への愛が、自分 の 1 つ て の 苦 難 を︷ 忘 却 し て 、 嬉 し い 記/ 憶︸ だけ持って居る處の、純然たる無私無慾が、吾人には 有難くて、さう云って貰へる言葉に涙が溢れて来たのである。 ∼ 次に、就中、感謝せしめたのは、ある小肥りの兵士の話だ。敵弾雨飛の間に。その兵士は ﹁俺の尻は二三登弾丸を食ったって平気だが。頭をやられては堪らん、で、かうしてやる﹂と しばし、敵の弾雨を避け器埓、匍伏しだ姿をくるりと廻して、敵へ大きな尻を向けた。だが、 忽ち、[いや、いかん、戦死した後で、後弾丸を受けて居たと云はれては恥になるものなy云 ‘ハドド’︲︲︱︲︲﹃ 0。∼言二︲よI−。。ノ って、叉も。くるりと敵の方へ向き直ったと云ふ話である。私は、此の兵士に、かくも立派な 一︱’y︲。ミ。。﹃ pノダよ︰⋮⋮⋮11〃ご・ノ︰−パ ⋮⋮︲・tj、⋮⋮⋮/ 89 と感激した。 武士道精8 があ・るのが堪らたく嬉しかった。いや全軍の将士に、これある営に我皇軍は無敵だ O‘ Qy 軍4 乃木大将に。かう云ふ話がある。安保海原大将の話に、 ﹁旅順ロは所謂、難攻不落で、攻めても攻めても、容易に陥落をしない。そして一方、満洲の 野に於ては、大山總司令官が、露西亜の大軍と對戦して居答が、攻勢に韓するには、何として も兵力が足りない。 ∼ ” それで、族順ロを早く片付けて、一日も速かに乃木軍を自分の手元に加へたいと云って居ら れたのであるが、その族順ロは怖々落ちない。 そこで、總8 謀長の兄玉大将が、窃かに族順口の、模様を見に来られたのである。それを乃 木将軍が案内して、高崎山砲座の覗き孔に同件せられた。 几 そら常時、砲盗の覗きと云って防禦物の間に小さな孔が明いて居って、敵弾が来ても危瞼の なI い や う な 覗 き が 蒔 来 て 居 る 。I そ の 覗 き に 案 内 さ れ て 、 兄 玉 大 将 は 其 孔 か ら 敵 の 状 況 を 覗 い て 9 見て居られたのであるが、乃木将軍は始終敵情は見て居られるので其時は覗く必要がない。 / `一 ”PpP^ ■' <.....⋮⋮゛:ペ⋮⋮⋮ そこで、其の傍らの石に腰掛け、敵方を背にして、金州鴻の方を指し、あの金州聴には鴨が j11ナトーー 深山下りるが、あれを打つと面白いぞなどX鴨の話をして居られた。其の途端忙露西亜の方か な、どんと一駿、敵弾が飛んで来て一行の直ぐ傍で破裂をした。幸ひに怪我がなくて、一同は 安心したのであるが、其の弾丸の破裂と同時に、早生誠に沈痛であられる将軍が、いきなり身 を饌して、く名っと敵の方に向っで腰掛け直された。その挙動が如何にも可笑しいので、一同 は、けゞんな顔をして、前軍を脱詰めy居ったのであるが、将軍は、やがて、一同を顧みて破 顔一笑。 [あχ、もう少しで後ろ疵を負ふところだっだ。アツハツハ] と大笑せられたのであそこれは云ふ迄もなく昔から我國に於ては敵に後ろを見せると云ふ ととは、無上の恥辱としてあり、所謂向ふ疵は宜いけれども、後ろ疵は極めて恥辱と"' −Sうし 叫 てある。萬葉集の歌にもべ額に矢憾立つとも、背に矢は立てじ﹂と云ふやうな歌がある位であ 」 芯。﹂ rk り との逸話が述べられてある。軍軸乃木大将の心事は。此の一兵士と同じ事1 あり、そして、 ﹃’︲ ≒ それが金部皇軍将兵の心である。軍さの庭に立った日本人悉くが軸であることは、此の二つの 話を見ても判るのである。 −う0 ドト¥9 諸︲憚プ ∼八峠I・佃緊ダイ囁μ私︲’ドレブニノ]。‘ I丿i