...

両大戦間期における軍人のイメージ - Kyoto University Research

by user

on
Category: Documents
16

views

Report

Comments

Transcript

両大戦間期における軍人のイメージ - Kyoto University Research
Title
Author(s)
Citation
Issue Date
URL
<研究ノート>両大戦間期における軍人のイメージ : 新聞
投書欄を中心として
谷口, 俊一
京都社会学年報 : KJS = Kyoto journal of sociology (2000), 8:
147-165
2000-12-25
http://hdl.handle.net/2433/192589
Right
Type
Textversion
Departmental Bulletin Paper
publisher
Kyoto University
147
両 大 戦 間 期 にお け る軍 人 の イ メー ジ
新 聞投 書欄 を中心 として
谷
口
俊
一
は じめ に
第 一 次 世 界 大戦 後 、 日本 は ワ シ ン トン体 制 の も とで海 軍 軍 縮 を実 施 し、 陸 軍 にお いて は
国 際会 議 に よる こ とな く軍縮 が お こな われ た1。この背 景 には 、新 聞 な どの メデ ィア が さか
ん に 軍縮 を要 求 し、 さ らに は厳 しい 軍 部批 判 、 陸 軍批 判 を展 開 した とい う側 面 が あ った2。
近 代 日本 に お いて は軍 人 の 地位 が一 貫 して 高 か っ た よ うな印 象 が もたれ て い る か も しれ な
いが、
大 正 期 か ら昭 和 初 期 に か け て反 軍 国 主 義 的 な風 潮 の時 期 が あ っ た ので あ る。しか し、
この よ うな風 潮 の 時 期 は短 く、 周 知 の よ うにそ の後 戦 争 へ い た る こ と とな った。
こ の時期 の反 軍 国 主 義 的 な 思潮 に 関 して 、 陸軍 が これ に対 抗 す る よ りも 「
お お む ね 柔軟
な姿 勢 」 を とって い た こ とは 黒沢 文 貴 に よ り指 摘 され て い る3。この研 究 は 『借 行 社 記 事』
を主 な 資料 と して い るた め陸 軍 将 校 の 考 え 方 な どが 対 象 と され て い る。 そ の一 方 で 、 一般
国 民 や兵 士 の軍 人観 、 軍 隊観 を扱 った研 究 は一 ノ瀬 俊 也 に よる兵 士 の手記 の分 析 、小 松 茂
夫 の 聞 き取 り調 査 に も とつ く論 文 な どは あ る4もの の、 乏 しい の が 現 状 とい え る。
そ こで 、本稿 で は以 上 の よ うな時 期 に 軍人 、軍 隊 とい っ た ものが 一般 社 会 か らどの よ う
に受 け とめ られ て い た か を問 題 と した い。 そ の さい 、 と くに 軍人 観 につ い ては い わ ゆ る職
業 軍 人 で あ る将校 と、一 般 社 会 か ら徴 兵 され る兵 士 た ち とを 鴎llし て捉 え る とい う視 点 か
1軍 縮 に つ い て は以 下 を参 照
。 防衛 庁 防衛 研 究所 戦 史 部 戦 史 叢 書 『陸 軍 軍戦 備 』、朝 雲 新 聞 社 、一 九
七 九年 。川 島正 『軍 縮 の 功 罪 』、近 代 文藝 祉 、一 九 九 四年 な ど。 陸 軍 軍 縮 は 軍備 近 代 化 の実 現 とい う
側 面 もあ り単 に 「
軍 縮 」 と よべ る も の で は な か っ た。
2筒 井 清 忠 「
大 正 期 の 軍 縮 と世 論!
、 『戦 争 と軍 隊 』、 岩 波 書 店 、 一 九 九 九年 。
3黒 沢 文 貴 「
軍部 の 「
大 正 デ モ ク ラ シー 」認 識 の 一 断 面 」
、近 代 外 交 史研 究 会編 『変 動 期 の 日本 外 交
と軍 事 』、 原 書 房 、一 九 八 七 年 な ど。
4 一 ノ瀬 俊 也 「「
大 正 デ モ ク ラ シー 期 」に お け る兵 士 の意 識 」
、『軍 事 史 学 』三 三巻 四 号 、一 九 九 八 年。
大牟羅良 「
軍 隊 は 官 費 の 人 生 道 場!?」、大 濱 徹 也 編 『近 代 民 衆 の 記 録8兵 士 』、新 人 物 往 来社 、 一 九
七 八 年 。小 松 茂 夫 「日本 軍国 主義 と一 般 国 民の 意識(上)(下)」
、 『思 想』 四 一 〇 号 、 四 一 一 号 、 一
九五八年。
京 都 社 会 学 年報
繁8号(2000)
148
谷 ロ:両 大 戦 間 期 に お け る軍 人 の イ メ ー ジ
ら考 察 し、 軍人 、軍 隊 に対 す る批 判 的 言 説 の性 質 につ い て 検討 す る。 ま た、 軍 人 が一 般 社
会 か ら どの よ うな評 価 を受 け て い た か を考 察す る適 切 な 資 料 を選 ぶ こ とは、 も とよ り困難
な ので あ るが 、本 稿 で は 主 と して新 聞 の 投 書欄 を も ちい る こ とに した い。 『東 京朝 日新 聞』
の投 書欄 で あ る 「
鉄 箒 」 は 現在 の 「
声 」欄 の前 身 とされ 大 正6年 か ら一 般 の投 書 も採 用す
る こ とに なっ た と され る5。この 時期 の投 稿 者 と して は大 衆 が 参加 す る機 会 はほ とん どな く、
知 識 人 が 多 か っ た とい う指 摘 もあ る6が、投 書 欄 は 比較 的 自由 な表 現 が可 能 で あ り、そ れ だ
け に率 直 な意 見 が うか が え る と考 え られ る。 当然 の こ と と して 、投 書 に あ らわれ る言 説 が
そ の ま ま実 態 で あ る とは 限 らな い ので あ るが 、 注 目され た 主 張や 意 見 に は反 対 論 や 賛 同 の
投 書 が寄 せ られ る とい った相 互 作 用 も あ り、 ま た兵 役経 験 者 な どの投 書 もみ られ るた め 資
料 と して選 択 した。
以 下 、 まず1章 で、 第 一 次大 戦 後 か ら満 州 事 変 以 前 に か け て 、 関東 大 震 災 な ど、 軍 隊 と
社 会 が接 す る事 例 にお い て 、 どの よ うに 軍 人が 評 価 され て い る か を扱 う。続 け て2章 で 、
一 般 社 会 との境 界 に あ る兵 士 た ち の軍 隊 に っ いて の 意 見 を検 討 したい。3章 で は、 この 時
期 に増 えた 軍人 に かん す る言 説 が どの よ うな性 質 を もっ て い た か を考 察 す る。 次 に4章 に
お いて 、満 州 事 変 以 後 は世 論 も軍 国 主 義 的 な方 向へ 変化 して い っ た こ とが 、 これ まで に も
指 摘 され て い る ので7、そ の 点 に 関 して も確 認 してお く。全 体 と して は 、第 一 次大 戦 後 か ら
満 州 事 変 前後 に か けて を扱 うこ とと した い。 資 料 の 引用 につ い て は、記 事 に不 適 切 と思 わ
れ る こ とば が含 まれ て い る場 合 が あ る こ とをお こ とわ りしてお きた い。(尚、注 が 煩雑 に な
る こ とを避 け るた め 、『東京 朝 日新 聞 』の投 書 欄 の 出典 につ いて は 本 文 中 に のみ 表 記 す る こ
とと し、 『東 朝 』 と略 記 した)。
1軍
隊 と社会
まず は 、軍 隊 と社 会 の関係 に つ い て 、 両者 が接 近 す る事 例 をわ ず か で は あ るが 、検 討 す
る こ とに した い。
5朝 日新 聞 百 年 史編 修 委 員 会 編 『朝 日新 聞社 史
大 正 ・昭 和 戦 前 編』
、 朝 日新 聞社 、一 九 九 一年 、ニ
ー○
、ニー一頁。
6影 山 三 郎 『新 聞 投 書 論 』
、 現 代 ジ ャ ー ナ リズ ム出 版 会 、一 九 六 八 年 、 一 九 五 頁 一ニ ー 四頁 な ど。
7荒 瀬 豊 「日本 軍 国 主 義 とマ ス ・メデ ィ ア」
、『思想 』、 二 九 九 号 、一 九 五 七 年 。 江 口圭 一 「
満州 事 変
と大 新 聞」、『思 想 』、五 八 三 号 、一 九 七 三年 。後 藤 孝 夫 『辛 亥革 命 か ら満 州 事 変 へ 大 阪 朝 日と近代
中 国』、 み すず 書房 、一 九八 七年 。 駄 場 裕 司 『大 新 聞 社
九 九 六年 な ど。
Kyoto Journal
of Sociology
VA / December.
2000
そ の 人脈 ・金 脈 の研 究』、 は まの 出版 、一
149
谷 口:両 大 戦 間 期 に お け る 軍 人 の イ メ ー ジ
1-1兵
士の社会復帰
現役 を 終 えた 兵 士 た ち が社 会 に復 帰す る とい う接 点 をみ てみ よ う。
ワシ ン トン会議 開催 以 前 で もあ り、 ま だ軍 縮 も実施 され て い な い 大正9年 の 投 書 「
軍人
の 叫 び(『 東朝 』 大 正9(1920).1.12)」
に は、 投稿 者 「
渋谷 一小 吏 」 が 現役 を終 え、社 会
復 帰 す る さい に抱 いた 感 想 が 記 され て い る。 彼 は 「
上役 に會 つ て 就職 で な く復 職 を依 頼 し
ま したが 、 面倒 臭 い奴 だ とい ふ程 度 で取 扱 はれ 、菖 同僚 は 自分 よ り遙 下級 者 と して待 遇 す
る こ と さへ も大骨 折 のや うに 言 つ て の け ま した 」 とい う。 彼 は ま た 、兵 役 とい う義 務 を果
した 自分 を、社 会 は 「
手 を接 げ て 」迎 え いれ て くれ る だ ろ うと期 待 して いた が それ が 誤 り
だ っ た と述 べ 、 「
今 僕 は社 會 を 疑 はず に ゐ られ ませ ん 」 とい うの で あ る。
社会 に復 帰 しよ うとす る兵 役 関係 者 が再 就 職 の さい 、不 利 な立 場 に お かれ る状 況 につ い
て は 、求 人広 告 にっ い て の投 書 「
兵役 無 關 係 者(IS生
寄)(『東 朝 』大 正10(1921).1129)」
に よ っ て も うか が うこ とが で き る。 「
某 商 店 」の求 人 広 告 の採 用 条 件 に 「
兵 役 無 關係 者 」 と
記 され て い た こ とを は じめ、 「
此 種 の 廣告 又 は會 社 、銀 行 の採 用 に 、兵役 關 係 者 が如 何 に厄
介 視 され るか を語 る も ので あ る」 とい う意 見 を表 明 してい る。 さ らに 「
甚 だ しきは兵 役 無
關係 者 で 、身腔 壮 健 な る者 な どい ふ贔 の い}廣 告 を 見 た こ と もあ る。 矛 盾 も こ 」に至 つ て
驚 く外 は な い 」 とい う。 この 求 人広 告 に対 して 投稿 者 は、 現役 終 了後 も兵 役 関係 者 は簡 閲
点 呼 、在 郷 軍人 会 の集 会 な どで拘 束 され る こ とが あ る もの の 、 一般 の職 業 に就 い た と して
も、頻 繁 に業務 に支 障 を きた す わ け で は な い と主 張 し、兵 役 関係 者 を忌 避 す る銀行 な どを
批 判 して い る。
この 求 人広 告 が実 在 した とす れ ば 、徴 兵 忌避 を公 然 と認 め て い る よ うで さえ あ る。 実 業
界 、官 公 庁 な ど近 代 的 な職 業 の求 人 にお い て 、 兵隊 が 嫌 忌 され て い る と感 じ られ る傾 向 が
あ った よ うで あ る。
こ の よ うな 状 況 の も と、 大 正12(1923)年
1-2関
に は 関東 大 震 災 が起 こ る。
東 大 震 災 で の 活躍
関東 大 震 災 の さい に は戒 厳 令が 敷 かれ 、軍 隊 は救 助や 治 安 維 持 に活躍 す る。 この よ うな
軍 隊 の活 動 に つ い て 、兵 士 と将校 は それ ぞれ 、 どの よ うに評 価 され て い た の で あ ろ うか。
兵士について
大 正12年9,月21日
兵 隊 さん
の 『東 京 日 日新 聞』は 、「
非 常號 砲 を聞 い て
悲 壮 勇 敢 な 行動
家 を見 捨 て
駆 付 けた
陛 下 に奏 上8」と題 して 「
現 在 市 内 の辻 に立 つ て 警備 の任 に當
8『 東 京 日 日新 聞 』 大 正12(1923)年9月21日
。
京都社会学 年報
第8号(2000)
150
谷 口:両 大 戦 間 期 にお け る 軍 人 の イ メー ジ
た っ て ゐ る兵 隊 さん等 もそ の家 は大 部 分 罹 災 してゐ るが重 い任 務 の 為 に今 な ほ家 族 の 安否
をた つ ね るい とま さへ ない 」 と報 じてい る。 震 災時 に 自分 た ち の家 族 を 「
打 ち捨 て」 て ま
で も職 務 を優 先 し、滅 私 的 に働 いた 兵 士 、 下士 官 の 活 躍 が伝 え られ て い る。 自警 団 や 警 察
官 の暴 行 が伝 え られ る なか で の この よ うな 兵士 た ちの 活 躍 は彼 らへ の信 頼 を 高 めず に はい
な か っ た だ ろ う。
将 校 に つ いて
兵 士 と将 校 をわ けて 考 え る姿 勢 を 一貫 す るな らば 、 こ こで 将校 につ いて 検討 しな けれ ば
な らな い ので あ るが 、震 災 時 の 軍 隊 の活 動 にっ い て は 、将校 、 兵 士 両者 を含 め た 軍 隊 を評
価 す る意 見 が複 数 み られ 、将 校 の み を扱 った 意 見 で 、特 徴 的 な もの が複 数 み られ る とい っ
た こ とは な か った 。 た とえば 『東 京 日 日新 聞』 の投 書 欄 で あ る 「
角笛 」 に は 「
街 頭 の感 」9
と題 して 「
上野 、愛 讃 生 」が 「
今 度 の 軍 隊 の活 動 に は謝 す る言 葉 が な い く らゐ です 。是 非 、
將 卒 に、從 軍徽 章 とお な じや うな もの で も こ し らへ て 、 國 民 の感 謝 をあ らは して 下 さい 」
と、 将 校 、 兵 士 両 者 を含 めた 軍 隊 へ の 感 謝 を表 して い る。
以 上 の よ うに 国 民は 震 災 に さい して 軍 隊 か ら受 け る恩恵 につ いて 再認 識 した よ うで あ っ
た。 しか し、 だ か ら とい って 軍人 の人 気 が 上昇 し、そ の 後 も維 持 され る とい うこ とは なか
っ た。
震 災時 の 活 動 以外 での 軍 隊 の評 価 の され 方 を考 え る資 料 と して 、次 に陸 軍 の 「
演習 」 に
関 す る投 書 を 取 り上 げ よ う。
1-3民
家の宿営拒否
陸 軍 の演 習 の さいに は 、軍 隊 が 民 家 に宿 営す る とい っ た接 点 が あ り、 それ につ いて の 意
見が 大 正 か ら昭和 にか けて新 聞 に掲 載 され て い る。 軍 隊 が宿 営 す る こ とに 対 して 、一 般 家
庭 に は消 極 的 な感 情 が あ る こ とを一 様 に扱 っ て い るが 、 そ こにみ られ る軍 隊 観 は どの よ う
な もの で あ ろ うか。
兵士 について
「
兵 隊 のお 宿(憂 國 浪 士 寄)(『 東 朝 』 大正10(1921).11.13)」
では 「
軍人 の 中 に忌 ま は
しき行 動 を なす もの が あ る」、 「
宿 泊料 が安 い 」 とい っ た こ とを 口実 に 軍 隊の 宿 泊 を 断 わ る
家 庭 が あ る こ とを指 摘 し、 「
必 任 義務 と して 、國 民 、國 家 の 為 に壷 して 居 る兵 隊 さん」が 冷
9『東 京 日 日新 聞 』 大 正12(1923)年9月21日
「
角笛 」欄
なお
、 大戦 終 了 直前 の大 正7(1918)
年 の米 騒 動 につ い て は 、井 上 清 渡 部徹 編 『米 騒動 の研 究 第 五 巻 』、有 斐 閣 、一 九 六 二 年 、一 〇 九
頁 に よれ ば 「軍隊 が 出動 して も、 警 備 的 態 度 で あ る限 りは 、 民衆 は軍 隊 に直 接 対 決 す る姿 勢 は とら
な か っ た。(中 略)そ れ は 「
警 官 の 職 業 的 な 権 柄 つ くに反 して 、兵 卒 それ 自体 は民 衆 の もの の よ うに
思 わ れ た 」 た め で あ ろ う」 と され てい る。
Kyoto Journal
of Sociology
10 / December.
2000
151
谷 口:両 大 戦 間 期 に お け る軍 人 の イ メ ー ジ
遇 され て い る と批 判 して い る。
しか し、 兵 隊 へ の全 面 的 な同 情 ば か りとい うわ け で もな い。 上 記 の投 書 に対 して 「
兵隊
と宿 泊(森 正 生寄)(『 東 朝 』 大 正10(1921)」1.20)」
は 、兵 士 た ちが働 き盛 りの 大切 な時
を 国家 の た め に 費や す こ とに 対す る感 謝 と、兵 士 を家 庭 に宿 泊 させ る とい うこ とは別 問題
で あ る とい う。 そ して宿 泊 拒否 は 、 自由主 義 的 な思 想 を根 底 と して そ こか ら家庭 を 大事 に
す る傾 向 が 生 じてい る こ とが 主 な原 因 で あ る、 と分析 して い る。 この こ とは 宿 泊す る もの
が 軍 人 か否 か に かか わ りな い はず で あ るが 、「
軍 備 制 限 、ア ンテ ィ ミ リタ リズ ム の思 想 が加
味 され て生 じた 」 と捉 えて い る。
大戦後の 「
ア ンテ ィ ミリタ リズ ム」 の 風 潮 が兵 隊 た ちに も影 響 を及 ぼ して い た と考 え ら
れ る。 しか し、 この 投 書 も軍 隊 全 体 を批 判 した もの で は な い とい え るだ ろ う。
兵 隊 が 民家 へ 宿 泊 す る こ とに対 す る消 極 的 な感 情 を率 直 に 吐露 す る投 書 は 昭和 期 にい た
って か ら もみ とめ られ る。 「
兵 隊 のお 宿(山 内 幸 子寄)(『 東 朝 』昭 和3(1928).10.23)」
は、
「
一朝 事 あ る と きは華 々 しき戦 死 をす る」兵 隊 を批 判 す る こ と自体 に遠 慮 を感 じて は い る
が 、 以前 、兵 士 た ち を宿 泊 させ た ときの 自宅 の荒 れ 方 を想 起 し 「
喜 び の感 情 の 中にや は り
あ る不 純 な反 感 のや うな もの 」 が 生 じた 、 と率 直 な感 想 を述 べ 、 兵 士 た ちは 「
一般 の尊 敬
を受 け るや うな 立派 な人 た ち で あ つ て ほ しい」 と願 っ て い る。.
で は将 校 た ち は、 どの よ うに受 け とめ られ て い た の だ ろ うか。
将校 について
「
演 習 の宿 舎(熊 阪八 次 郎 寄)(『 東 朝 』 昭 和4(1929).9.27)」
で は 、軍 隊 の 宿 営 の 「
問
題 性 」 が批 判 され て い る。 この投 書 に よれ ば 、行 軍 を村 民 が見 送 った 後 に 「
五 六 騎 の將 校
達 が 村 に進 入 し」 彼 らが部 下 の行 軍 を監 督 す るた め の宿 舎 の 準備 を要 求 して くる。 そ こで
「
有志 の たれ か れ が 、飛 ま はっ て、や っ と遊 郭 内の 料 亭 に馬 上 の勇 士 達 が分 宿 す る と、深
更 ま で に ぎや か な 三 味線 や 歌 聲 が 聞 え る」 とい う。 兵 士 た ち が演 習 に疲れ 果 て 「
お とな し
く夢 を 見 て ゐ る」 時刻 に も、 一 部 の 将校 た ち は この よ うに遊 興 に耽 って い る との指 摘 で あ
る。 そ して翌 朝 、彼 らが 去 って い っ た後 で 「
村 で は そ の一 晩 の 支 彿 に物 議 が 生 」 じる。 将
校 の な か には 「
記 念 の名 義 で 土 地名 産 の素 的 な もの ま でせ しめて ゆ く もの」 も あ るの だ と
い う。
投稿者は 「
秋 季 演 習 の は じま る時 節 だ。 世 は 國難 の緊 縮 に直 面 して 、當 局 の 指 導 訓戒 に
誤 りな か らん こ とを切 望 す る」 と締 め く くって い る ので あ るが 、兵 士 につ い て の 言及 の さ
れ 方 と、 将 校 に つ い て の それ が 非 常 に 対 照 的 で あ る。
これ ま で一 般 社 会 と軍 人 との 接 点 を、兵 士 の社 会 復 帰 、震 災 時 の活 動 、 演 習 時 の民 家 の
宿 営 に つ い てみ て きた。 兵 士 につ い て は 、彼 らは必 ず しも高 い 社:会的 評価 を受 け てい た わ
京都社会学年 報
第8号(2000)
152
谷 口:両 大戦 間 期 に お け る 軍 人 の イ メー ジ
けで は な か った が 、 そ の境 遇 に同 情 的 な意 見が あ った。 ま た 、兵 隊 が 「
立派 な人 た ち 」 で
あ っ て も らい た い との 期 待 もあ る こ とが うか が え た。
次 に将 校 た ち にっ い て で あ るが 、震 災 時 の活 動 は 、 兵 士 と同様 に感 謝 され て い た。 しか
し、 演 習 時 の 宿 泊 にっ い て の 投 書 で は 批 判 され るだ けで あ った。
2兵
士たちの声
1章 で は 軍人 た ちが 社会 か ら受 けた評 価 の一 部 分 を扱 っ た が、 以 下 で は 、一 般 社 会 の視
点 を有す る兵 士 た ち 自身 が 軍 隊 を、 あ るい は兵 役 を どの よ うに捉 え てい た か を検 討 す る。
2-1「
立 派 な 人 間 」 と して の 兵 士像
次 の ふ た つ の投 書 は 大 正9年2月
「
軍政改革の叫
か ら掲載 され た 「
軍 制(軍 政)改 革 の 叫 」か らで あ る。
縫 靴 工 廠 止(縫 工卒)(『 東 朝 』 大 正9(1920).2.6)」
で は、 投 稿者 自身
は 「
縫 工 卒 」 と して被 服 の修 繕 を、 ま た彼 の友 人 は靴 の修 理 を して い るだ けで 、十 分 な 軍
事 訓 練 が で きて い ない 、「
私共 は折 角 兵役 の義 務 に服 した が 之 で は到 底 立派 な一 人 前 の 兵卒
に なれ な い 」 とい っ て い る。 「
軍制 改革の 叫
劇 吠 手 減 員(一 劇 臥 卒)(『 東 朝 』 大 正9
(1920)2.16)」 で は 、軍 隊 の指 揮 にお け る ラ ッパ の重 要 度 の低 下 を指 摘 し、ラ ッパ 手 の数
を削 減 して も らい 「
吾 々 も立 派 な 戦 闘 員 に な りた い もの で あ る」 とい う。
軍 隊 に お け る制 度 の 改 善 を要 求 す る もの で あ るが 、 そ の な か に十 分 な 軍事 訓 練 を受 け て
いな い と感 じる兵 士 た ちの願 いが み うけ られ る。彼 らは兵 役 を課 せ られ なが ら、「
立派な一
人 前 の 兵 卒」、 「
立 派 な 戦 闘員 」 にな れ な い で い る 自分 た ち の 立場 を 口惜 し く思 って い る よ
うで さ えあ る。
これ らは兵 士 た ちに とっ て の兵 役 が 「
苦 しみ 以 外 の な に もので もな い 」 とい った捉 え方
で は 不十 分 で あ る こ とを うか が わ せ る投 書 とい え る。 寄稿 者 「
上 等 兵」 に よ る 「
軍制 改革
の叫
勤 務 多 忙 と下 士 不 足(『 東 朝』(大 正9(1920).2.7)」
に もそ の 点 に か ん して示 唆 的
な部 分 が あ る。彼 は 、「
僕 は新 任 の 上 等 兵 で あ る實 は昨 年 の暮 昇 進 す べ き筈 で あつ た さ うだ
が 近 頃古 兵 の勤 務 が劇 しい虚 か ら遂 に 正 月 は錦 を着 て 故郷 に蹄 るの 光榮 を有 せ なん だ の は
遺 憾 千 萬 の至 りで あ る」とい う。この 投書 を文 面 通 りに 受 け とめ る こ とに は 問題 も あ るが 、
「
錦 を着 て故 郷 に婦 るの光 榮 」 とい うの は 印象 的 で あ る。 そ の他 に も、 除隊 の さい に 軍服
Kyoto Journal
of Sociology
VII / December.
2000
153
谷 口:両 大 戦 間期 に お け る 軍 人 の イ メー ジ
を新 調 す る傾 向 が あ っ た と指 摘 す る投 書 もみ とめ られ る10。
この よ うな 兵 士 の軍 隊 に 対す る意 識 につ い て 小松 茂 夫 は と くに 労働 者 と農 民 に分 類 で き
る人 々の 敗 戦 前 にお け る 「
軍 隊 」観 は 「
人 間 を 一 人 前 の存 在 に作 り上 げ 、仕 上 げ る場 所 」
とみ な す もの で あ った と して い る。 そ して 「この よ うな 「
軍 隊 」観 は、 日清 戦争 の勝 利 と
と もに成 立 し、 そ の後 壮 丁 の徴 募 数 が 年 々 増 大 して い くに応 じて 次第 に広汎 に流 布 し、 日
露 戦 争 の 軍事 的 「
成 功 」 に よっ て国 民 的 な規 模 にお け る普 遍 的 な確 信 に な っ た考 え る こ と
の で きる 、そ の意 味 で は 両 階級 にお い て い わ ば 定着 し伝 統化 した とみ なす こ とので き る見
解 で あ る」 と指 摘 す る11。
ま た一 ノ瀬 俊 也 は 「
戦 前 の軍 隊 とは 、兵 士 た ちに とっ て怨 嵯iの対象 で あ りなが ら、一 方
で た とえ ば農 村 で は徴 兵 検 査 で 甲種合 格 とな っ て初 めて 一 人前 な どと され て いた よ うに 、
兵 士 た ち に地 域社 会 の 中で 国 家 の 一員 と して の 存在 価 値 、兵 士 とな らな か った者 に対 す る
あ る種 の優 越 性 を証 明す る場 で もあ った 」 との 見解 を 示 して い る12。
兵役義務を 「
立派 に」 果 し終 え る こ と を肯 定 的 に捉 え る傾 向 は 、農 村 に限 らず そ れ 以 上
の広 が りを もっ てい た とい うこ とが以 上 の新 聞 の投 書 か ら指 摘 で き る と思 われ る。 そ れ に
対 して 兵 士 た ちが 新 聞 上 で 軍 隊 を批 判 す る場 合 は 「
志願兵制」や 「
従 卒=当 番 兵 制 」 とい
った もの を主 な 対 象 と して い た。
2-2兵
役 の 不 平 等 と徴 兵 忌避
一 年 志願 兵 制度 は 明治16(1884)年
に設 け られ た 徴 兵制 の優 遇 制 度 で あ る
。平 時 、陸 軍
の徴 兵 現 役 年 限 は 三年 で あ るが 、官 立 の 中学 校 、 ま た は文 部 大 臣 の認 めた これ と同等 以 上
の私 立 専 門 学校 を卒業 した もの は 、試 験 の 結果 、志 願 兵 と して採 用 され 、 一年 の在 営 だ け
で済 む とい うもの だ ったB。 ま た服 役 中 の経 費 は 自弁 で あ った。 この制 度 に対 す る批 判 が
「
軍 制 改革 の叫
志 願 兵 制 度 反 封(水 戸 市 在 郷 軍 人 高虎 治松)(『東 朝 』大 正9(1920).3.4)」
に表 明 され てい る。 普 通 の兵 士 が 二 、 三年 か けて 学 ぶ こ とを志 願 兵 は 三 ヶ月 く らい で終 え
て い る と し、 受 け て き た教 育 の 差 は あ る も のの 、 そ の服 務 内容 の 著 しい違 い に不満 を感 じ
て い る よ うで あ り 「
僕 は思 ふ 兵 役 は 平 等 た るべ し、志願 兵 は全 腹 す べ し、(中略)志 願 兵 制
10『東 朝 』 大 正9(1920)年8月13日
「
鉄箒
軍服 拝 領(可 閑 生)」
。
11小 松 茂 夫 「日本 軍 国 主義 と一 般 国 民 の意 識(下)」
、 『思 想 』、 四 一 一 号 、一 九 五 八 年 、 一 〇 八頁 一
一〇九頁
。
童2一 ノ瀬 俊 也 「「大 正 デ モ ク ラ シー 期 」 に お け る兵 士 の意 識 」
、 『軍 事 史 学 』 三 三 巻 四 号 、 「 九 九 八
年 、四九頁。
13原 剛 ・安 岡 昭 男 編 『日本 陸 海 軍 事典 』
、新 人 物往 来 社 、 一 九 九 七 年 、 二 二 二頁 一 二 二 三 頁 。
京都社会学 年報
第8号(2000)
154
谷 口:両 大 戦 間期 に お け る軍 人 の イ メー ジ
度 は 國 民 當然 の負 荷 を 平等 に 分つ 所 に非 ず だ」 とい う。
ま た 、'「
軍 制 改革 の 叫
從 卒 腹 止(一 從 卒)(『 東 朝』 大 正9(1920).3.15)」
で は 、投 稿
者 「
一從 卒 」が 自 らの仕 事 は 上官 の使 い や 身 の ま わ りを整 え る こ とで あ るが 、 「
時 と して奥
様 の仕 事 や 女 中の仕 事 も助 けれ ば 玄 關番 を も勤 め る事 も あ る」とい い、「
公 務 の 為 め 上官 の
命 に服 す るの は 當 然 で あ るが 私 用 の為 め使 ひ 廻 され る の は最 早 時 代 後れ の感 じが す る」 と
従 卒 制 度 の撤 廃 を 要 求 して い る。
この よ うな兵 役 制度 に対 す る批 判 が 大正 末 期 に な る と徴 兵 忌 避 の理 由 と結 び 付 け て語 ら
れ る よ うに な る。 徴 兵忌 避 者 は 減 少傾 向 に あ った とい われ るが 陸 軍 も軍縮 期 にあ っ た大 正
13(1924)年
には 「
故 意 に身 体 を殿損 しまた は疾 病 を作 為 した 者 」 が790人 にの ぼ り前 年
の486人 と比 べ る と大 きな 変化 とい え た14。
「
徴 兵忌 避(大 正 五年 兵 投)(『 東朝 』 大 正13(1924).4.13)」
で 投稿 者 「
大 正 五年 兵 」
は、 「
徴 兵 忌避 者 が今 頃 あ る といふ これ も制度 が 悪 い か らだ 」 と して 、従卒 制 度 を批判 して
い る。 さ らに、 兵 役 を とも に した彼 の友 人 の 家族 は飢 餓 に瀕 し、 友 人 の戦 死 に よっ て彼 の
母親は 「
狂 人 」 とな り、妹 は 「
乞食 同様 に」 暮 ら して い る が、 そ の 一 方 で ウラ ジオ ス トッ
クで 「
藝妓 に恩 賜 の煙 草 を呉 れ た 高柳 とかい ふ 中將 や 、
バ クチ を打 つ た 内野 中將 あた りが 、
恩 給や 年金 で ホ クホ ク笑 つ て生 活 して ゐ る」 と、 兵 士 と将 校 の 待 遇 の違 い に不満 を表 明 し
てい る。 この よ うに 兵 士 の家 族 の生活 保 障が 十 分 に 考慮 され てい な い こ とが 、徴 兵 忌避 の
理 由 で あ る と し、 兵 役 の 義 務 自体 を忌避 して い るの で は な い と主 張 して い る。
さ らに一年 志 願 兵 制度 の不 平 等 性 を批判 す るだ け で な く、軍 事研 究 をす る学 生や 、「
政治
家」、「
富豪 」 に怨嵯 と もい え る よ うな非 難 を浴 びせ る てい る投 書 「
兵 隊 上 り(在 郷 騎 兵 寄)
(『
東 朝 』大 正13(1924).4.16)」
もみ うけ られ る。 以 上 か らわ か る よ うに、兵 士 た ちか ら
の 軍 隊批 判 は 、平 等 な兵 役 を求 め る議論 が 主 で あ っ た。
この主 張 は 「
兵役 の 平等(横 山順 寄)(『 東朝 』 大 正13(1924).11.16)」
に よ り明確 に表
現 され てい る。 「
資 本 家 の子 弟 」 と同等 の教 育 を受 け る こ とが な い 「
労 働 者 の 子弟 」で あ っ
ても 「
農 業 を 習 ひ 、大 工 を 習 ひ 、鍛 冶 屋 に弟 子 入 りす る こ と も國家 に は よ り以 上 有 用 な も
の 」 で あ る とい う論 理 で兵 役 の 平 等 を求 めて い る。
2-3「
平 和 主 義 的 な」 意 見
兵 士 の立 場 か ら寄 せ られ る投 書 の内 容 の 多 くは、 平 等 な 兵役 を求 めて 制度 の部 分 的 改 革
14菊 池 邦 作 「
徴 兵 忌 避 の研 究(抄)」
『日本 平 和論 大 系16』
三 頁。
Kyoto Journal
of Sociology
VI / December.
2000
、 日本 図書 セ ン ター 、一 九 九四 年 、 一 八
155
谷 口:両 大 戦 間 期 に お け る軍 人 の イ メ ー ジ
を主 張 して い る15だけ の よ うに もみ え る。 この傾 向 を平 等 主 義 的 な立 場 か らの 軍 隊批 判 と
捉 え る と大 正 デ モ クラ シー の一 つ の側 面 と評 価 す る こ と もで き だ ろ う。 が 、 そ の一 方 で兵
役 の 平等 の要 求 を越 え て徴 兵 制 の存 在 自体 を根 本 か ら問題 とす る よ うな 議論 はみ うけ られ
な い。 も ち ろん この こ とは軍 隊 と徴 兵制 の存 在 が あ る程 度 自明視 され て い た とす れ ば全 く
疑 問 の余 地 が な い の で あ る。 しか し国 際 的 に は ヴェル サイ ユ 会 議 で徴兵 制 廃 止 が 議 論 され
て お り、 日本 国 内へ の影 響 も あっ た はず で は あ る。 『
東 京 朝 日新 聞 』 が 大正8年 や 大 正15
年に 「
世 界 の 大 勢 は志 願 兵 制 で あ るか ら、 日本 も慎 重 の考 慮 を払 うべ し と説 く」論 説 を掲
載 して い る こ とが 指 摘 され て い る16。この段 階 か ら徴 兵 制 自体 を も問 題 と した 意 見 が表 明
され た り、 平 和主 義 的 で な お か つ 現 実的 な議 論 が重 ね られ て い く方 向性 も残 され て い た と
もい え る だ ろ う。
投 書 に も徴 兵 制 自体 を批 判 す る よ うな意 見 が あ らわ れ る。
「
徴 兵 忌避(喜 多 そ ゑ 寄)(『 東 朝』 大 正14(1925).3.10)」
で は 、軍 人 は 死 の覚 悟 が な
くて は な らな い と認 め る もの の 、「
然 し僕 は戦 場 に 立っ た事 が あ る。そ して初 め て生 命 を捨
て るの が惜 し くな つ た。 それ で徴 兵 を忌避 した くな っ た。 金 が欲 し くて 忌避 す るの で な く
て 、命 が欲 しくな つ て 忌避 した くなっ た。 こん な事 を うつ か り 口に した ら國 民で な い と言
は れ るだ ら うが事 實 に相 違 は な い 」 と率 直 な 気 持 ちを 述 べ る。,
さ らに 、戦場 で 捨 て る命 が 世 界 の 平和 を うみ だす こ とはな い とい い 、「
人間 の歴 史 を讃 み
な ほ した ら軍 人 が 平和 の基 礎 を立 て た例 は一 つ もな い 、歴 史 は 繰 返す といふ 短 見者 流 にま
どは され て、 人殺 しの稽 古 をす る よ りも、平 和 建設 の為 に生 命 が け に働 くべ きだ」 と主 張
す る。
こ の よ うな 意 見 に は 反 論 が 寄 せ ら れ て い る 。 「轟 の 好 い 平 和 論(『 東 朝 』 大 正14
(1925).3.22)」 で は 「
西 洋 人 か らの受 責 りで人類 相 愛 の、世 界 平和 の とい ふ者 が あ るが 凡
そ平 和 欲 求 の念 が起 るの は 其個 人 な り種 族 な りが滞 腹 した 時 で あ る。 滞 腹者 に とつ ては 平
和 程適 意 の境 地 は無 く、 又 自分 に都 合 のい 》状 態 は ない の で あ る 」 と し、現 実 に満 足 で き
てい る 「ヨー ロ ッパ 人 」 の現 状 維 持 的 な平 和論 は 「自分 勝 手 な晶 の好 い考 へ 」 で あ る とい
う。そ の彼 らに よ って 「
被 征 服 者 の 地位 に あ る」 こ とを強 い られ て い る 「
有 色 人 種 」が 「
受
責 り」 の平 和 論 を 主 張す る こ とは 「
ま さに茶 番 狂 言 宜 しくで あ る」 と判 断 す る。 厳 しい 点
を指 摘 す る この よ うな意 見 にっ いて 再 反論 の議 論 が 深 め られ た とい うこ とは な い よ うで あ
15『東 朝』 大 正14(1925)年3月6日
「
鉄箒
徴 兵 忌避( 一 現 役 一 等 卒)」 も
、従 卒 制 度 、兵 士 の 家
族 の 生活 保 障 、 除 隊 後 の生 活 苦 を 徴 兵 忌 避 の理 由 と して 指 摘 して い る。
16 一 ノ瀬 俊 也 「
第 一 次 大 戦 後 の陸 軍 と兵役 税 導 入 論 」、 『日本 歴 史 』、 六 一 四 号 、 一 九 九 九 年 、 七 五
頁 。 加 藤 陽 子 『徴 兵 制 と近 代 日本 』、 吉 川 弘 文 館 、 一 九 九 六 年 、一 ノ)、頁 一一 八 九 頁。
京都社会 学年報
第8号(2000)
156
谷 口:両 大 戦 間 期 に お け る軍 人 の イ メー ジ
る。
兵 士 た ち の軍 隊 に つ いて の 意 見 をみ て きた 。1章 と同様 に、 兵役 関係 者 が 厳 しい境 遇 に
お かれ て いた こ とが 、 当事 者 の 言葉 か ら うか が え た。 また 、 兵役 の平 等 を も とめ る意 見 が
多 くみ られ た。 しか し、 そ の よ うな こ とよ りも重 要 な側 面 と して 、兵 役 をっ とめ あ げ る こ
とを肯 定 的 に捉 え る傾 向 もみ られ 、徴 兵 制 自体 を根 本 か ら問題 と した意 見 の 交流 が な され
る こ とは な か っ た。
ま た 平和 主 義 的 な意 見 は 散 見 され る17もの の これ らにつ い て 議 論 が 深 め られ た とい うこ
と もな く、 どち らか とい え ば皮 相 的 な意 見 の表 明 に な りが ちで あ った とい え るだ ろ う。
そ して この よ うな皮 相 的 な意 見 は 、大 正 後 期 以降 の軍 縮 時代 の 、軍 人 を批 判す る記 事 の
中 に 、 よ り明確 にみ い だす こ とが で き る の で あ る。
3軍
人批判の内実
満 州 事 変 直 前 ま でみ うけ られ た 軍人 批 判 は 、将 校 た ちが 対象 と され て い た。 それ らの 言
説 は い か な る もの で あ っ た か具 体 的 にみ て い こ う。
3-1「
没 常識 な」 軍 人 像
以 前 か ら、 た とえ ば吉 野 作造 は 「
国 民 に対 す る軍 事 教 育 の必 要 性 を唱 え る一方 で 軍 人 も
国 民 的 常識 をや しな う必 要 が あ る」 とい う見解18を示 して い た が 、 軍人 を一 方 的 に批 判 し
て い るわ けで は な か った。 と ころ が 、軍 隊 を め ぐ る状 況 が変 わ って くる。大 正10年 末 か ら
翌年3月 にか けて の第45議 会 で は 国 民 党 な どが 陸 軍 軍縮 案 を提 出 し、これ が可 決 され る19。
こ の よ うな 時期 に な る と、先 の吉 野 が お こな っ た よ うな 主 張 の範 囲 を越 え る軍 人 批 判 が み
られ る よ うに な る。
「
所 謂 軍紀(石 垣 信 知 寄)(『 東 朝 』 大 正ll(1922).2.19)」
は 、 軍備 縮 小 を め ぐ って の
犬 養 毅 と山梨 半造 陸 相 との論 戦 にっ い て 「
如 何 に軍 人 てふ 特 別 階 級 の 人 間 が低 級 な 思想 の
持 主 で あ り没 常識 な もの で あ るか を謹 明す る」 と軍 人 を批 判 す る。 軍 隊 に服 従 心 が 必 要 な
の は わ か る が、靴 磨 きや 洗 濯 な どの雑 用 を強 い る命 令 な どに服 従 す る こ とは ない と主 張 し、
17昭 和 期 に い た って も平 和 主義 的 な意 見 を述 べ た投 書 が な い わ けで は な い
年8月22日
「
鉄箒
鮎 呼 官 と平和(東
。 『東 朝 』 昭 和4(1929)
北一 未 教 育補 充 兵 寄)」 や 『東 朝 』 昭 和5(1930)年3,月14
日 「鉄 箒 平 和 へ の 犠 牲(失 名 生 寄)」 な どが あ る。
18吉 野 作 造 「
我 國 の 軍 事評 論 家 につ い て」
、 「軍事 思 想 の 國 民 的 普及 」、『中央 公 論 』、 大 正8年4月
号 ほ か。
19『帝 国議 会 衆 議 院 議 事 速 記 録41』
、 東 京 大 学 出版 会 、 一 九 八 二 年 、 九 三 二 頁 一 九 四 四 頁。
Kyoto Journal
of Sociology
VI / December.
2000
157
谷 口:両 大 戦 間 期 に お け る軍 人 の イ メ ー ジ
上 官 の命 令 が絶 対 的 で あ る軍 隊 に は 一般 的 な 「
人倫 道 徳 」 は存 在 しない と指 摘 して い る。
さ らに将 校 下士 に も批 判 の矛 先 を向 け 「
時 勢 は進 ん で 居 る、蕾 いの は 唯我 國 の軍 人 の頭 だ
け だ 」 と軍 人 を 時代 錯 誤 的 な 考 え方 を もつ もの と捉 えて い る。
さ らに 、「
没 常識 で あ る」とい っ た批 判 の対 象 とな った の が 陸軍 大 臣 だ け で は なか っ た こ
とを確 認 しよ う。 大正15年
大正15年9月8日
を召 喚 して
に東京 にお い て 、軍 隊 と市 電 が交 錯 す る とい う事 件 が あ っ た。
の 『東 京 朝 日新 聞』 に 「
『馬 鹿 ツ』 事 件
先 づ 軍 隊側 審 問
山岡 中尉等
検 事 局 の 愼 重 態 度20」 とい う見 だ しで報 じ られ てい る。 市 電 の運 転 手 が電 車
の前 を通過 しよ う と した 軍人 に 「
馬鹿 野 郎 」 と叫 ん だ とい うの で あ るが 、 これ に憤 慨 した
将 校 が告 訴 した との こ とで あ る。
この事 件 につ いて も投書 が寄 せ られ て い る。 「
軍 隊 の威 信(横 山純 寄)(『 東 朝 』 大 正15
(1926).9」0)」 で は 、訴 え を起 こ した軍 人 の理 由は 「
軍 隊 の威 信 」に か かわ る とい うこ と
だ っ た ら しい と し、「
ま さか社 會 一般 の人 が馬 鹿 ら しい と公 認 して ゐ る事 を して も差支 ない
のが 「
軍 隊 の威 信 」 で もあ ります ま い。 いっ そ や も東 京 騨 の待合 室 で、 ベ ンチ に置 いた 帽
子 を除 け て腰 か け た とかで 立腹 して喧 嘩 を した 少尉 殿 が あ りま したつ けね 」とい うよ うに 、
軍人がい う 「
軍 隊 の威 信 」 に疑 問 を投 げか け、 この事 件 以 外 の衝 突 事 件 につ い て も言 及 し
て い る。 こ こで の 当事 者 もま た 「
少尉 」 とい うよ うに下級 で は あ る もの の 、将 校 で あ る こ
とが注 目に値 す るだ ろ う。
さ らに 、「
陛 下の 軍 隊 」と 「
陛 下 の 臣民 」に 「
饗 りは あ りませ ぬ 」と述べ 、軍 人 だ けが 「
威
信 」 を 強調 しす ぎ る と 「さ うで な く と も軍 隊 を嫌 ふ 不 心得者 の あ る今 日、益 軍 隊 が 社會 か
ら嫌 はれ る こ とに な りませ う」 と軍 隊 に批 判 的 で あ る。
3-2軍
装批判
さらに 軍人 の服 装 につ い て も取 り上 げ られ る よ うにな る。「
軍備 撤慶(小 島 生 寄)(『東 朝 』
大 正11(1922).5.26)」
で は 、 陸 軍軍 人 の 拍 車 が 批 判 され てい る。 軍 人 が混 雑 す る電 車 に
拍 車:を着 けた ま ま乗 り込 む た め 、 け が を負 わ され る ものや 衣 服 を裂 かれ る も のが で た と記
し、拍 車 は 「
兇器 」 で あ る とい う。 さ らに拍 車 をつ け る こ とは 、 軍縮 に よ る人員 削減 に対
する 「
誠 首 除 け の示 威 運 動 か も知 れ な い」とい い 、「しか し今 は何 事 も平 和 の 世 の 中 で あ る。
以 上 の様 な攣 挺(へ ん て こ:引 用 者 注)な 軍備 は 、縮 小 な ん て ケチ な 事 は 云 はず に、 一 時
も速 く撤 廃 して欲 しい 」 と結 ん で い る。
20『東 朝 』 大 正15(1926)年9月8日
。 これ の続 報 と して は 、同 年9月12日
の 『東 朝』 「
馬鹿 呼 は
り 解 決 か」 に 「
最 近 示 談 に して は と某方 面 よ り仲 裁 の 申 出 あ りそ の結 果 近 く示 談 解 決 を見 る ら し
い情 勢 に あ る」 と あ る。
京都社会学年報
第8号(2000)
158
谷 口:両 大 戦 間期 に お け る 軍 人 の イ メー ジ
陸 軍 だ け で な く海 軍軍 人 も批 判 の対 象 とな って い る。 以 下は 『大 阪朝 日新 聞』 の記 事 か
らの 引 用 で あ る。
「
軍縮 閻 魔 帳(一)21
「
軍縮 」 の聲 は幾 百倍 の 大 軍 に襲 撃 され た か のや うに軍 人 社會 を怯 ゑ させ て 、惜 然 と
して得 意 の音 を立 て た サ ーベ ル の光 も影 が薄 くなつ た(中 略)夫 れ に世 間 は ど うだ 、
軍 人 に 封 して昔 の や うに 子供 達 さへ 憧れ も敬 ひ も有 たぬ や うに な り、 海 軍省 に通 ふ 本
省 詰 め を誇 っ た將 校 さへ も、脊 廣 の服 で通 うて 、役 所 へ 行 っ て か ら金 線 を附 け た上 着
に着攣 へや う とい ふ 始 末 だ 「
電 車 の 中 な ん か で廃 艦 が來 た な ん て無 禮 な當擦 す りを い
ふ 奴 が あ るん でな 」 と切 歯 拒 腕 して も大勢 の順 慮 、 大 河 を徒手 に堰 き止 め得 な い(以
下 略)」
陸 軍 将校 は拍 車 を 「
誠 首 除 けの 示威 運 動 」、 「
攣 挺 な 軍備 」 とい わ れ 、海 軍 将校 は 軍服 を着
てい る と電 車 の 中で 「
廃 艦 」 と呼 ばれ る と して い る。 これ らは国 民 の 軍人 忌避 、 あ るい は
軽 視 の 傾 向 を象 徴 的 にあ らわ してい る。 服 装 に対 す る批 判 は表 面 的 な もの とい え るが 、 そ
れ ゆ え に い っそ う軍 人 の 名 誉 を傷 つ け る もの で あ っ た だ ろ う。
3-3軍
事教育批判
さ らに、大 正14(1925)年
の 陸軍 の 宇垣 軍縮 に先 立 ち失職 す る将 校 た ちを配 慮 して 実施
され た と考 え られ る学 校 教 練 と、そ の 軍 事 教育 に 関連 す る雑 誌 記 事 に も辛辣 な批 判 が み う
け られ る。
『中 央公 論 』 の記 事 「
軍 事 教 育案 の 為 に悲 しむ22」は 、 軍 縮 に よ り将校 が誠 首 され 、 ま
た さ らに この こ とで将 校 へ の志 願 者 が 著 しく減 少 した こ とか ら、 国防 を担 う軍 部 と して は
万 一 の場合 の 将校 不足 を危惧 し、教 育機 関 に失 職 将 校 下 士 を 「
収 容 」 しよ うとい う意 図 が
あ る こ とを把 握 して い る。
しか し続 けて 、 軍事 教 育 を無 用 とは考 えな い が 、 国民 と して 必 要 な教 育 と して捉 え る以
上 、普 通 の教 師 が 担 当す るべ きで あ り、普 通 の教 師 が将 校 下 士 か ら軍 事 的 な 知識 を学 ぶ こ
とは あ っ て も よい が 、軍 人 を学校 に招 いて 「
生徒 に直 接 せ しむ るは断 じて 無 用有 害 だ と確
信 す る 」 と主 張 す る。 また 子 ど もだ か ら とい っ て何 で も言 うこ とを き く とは 限 らず 「
今日
21『大 阪 朝 日新 聞』 大正11(1922)年7月15日
22『中央 公 論 』大 正13(1924)年12月
朝 』 大 正13《1924)年4月30日
Kyoto Journal
of Sociology
。
。 これ 以前 に も軍 国 主義 宣伝 を批 判 す る意 見 は あっ た。 『東
「
鉄 箒 學 校 の 軍 化(守 克 寄)」 な ど。
VID/ December.
号
2000
且59
谷 口:両 大 戦 間 期 に お け る 軍 人 の イ メー ジ
の將 校 下 士 の 素養 を以 て して は 、在 来 の体操 教 師以 上 の尊 敬 を生 徒 間 に博 す るの 見 込決 し
て なか るべ き」、 と将 校 の威 信 は学 校 の教 員 以 上 で は あ りえ な い と判 断 して い る。
この 案 の実 施 に よ り年 少者 に 「
軍 隊 侮 蔑 の 念 」 を植 え付 け、 軍 隊 の威 信 が 著 しく傷 つ く
た め、 そ の こ とを 「
悲 む 」 と して い る。 軍 隊 の威 信 を配 慮 す る考 えが あ る こ とが表 向 き に
示 され て い るだ けで 実 質 的 に は非 難 に も近 い軍 人 批 判 で あ る。
さ らに は軍 隊 を無 用 の長 物 の よ うに捉 え る投 書 も あ らわれ る。
「
軍 人 の頭(伊 部 唯 一 寄)(『 東 朝 』 大 正14(1925).11.4)23」
は 、 世界 の思 潮 が 平和 主義
に傾 い て き て い るの に 、 軍事 思 想 の宣 伝 をす る のは 「
思想 の 逆轄 」 で あ る とい う。 そ して
「
大 正 も二 十 年 に近 い が 、彼 等 軍 人 の頭 に攣 つ た威 が あ る とす れ ばそ れ は た ∫ 「
軍 人銭 を
愛 す 」 といふ 位 の もの だ。 何 れ 無 用 の 長物 た る代 物 だ。」 と、 軍人 、軍 隊 を非 難 して い る。
「
軍事 思 想 の 宣傳 」 を批 判 し 「
軍 事 教 育 は要 す るに 軍事 の技 術 的 方 面 に極 限 さ るべ き」
と述べ て い る と ころ ま で は 、社 会 の あ らゆ る方 面 で 軍事 的 価 値 が 優 先 され 、 と きに は軍 事
的合 理 性 を もの りこえ て しま うとい っ た意 味 で の 軍 国 主義 を批 判 して い る と捉 え られ な く
もな い。 そ こか ら現 実的 な 安 全保 障 の た めの 議 論 が は じま って も よい と考 え られ る。 軍 隊
自体 につ い て はA.フ
ァー ク ツの い う 「
軍 事 的 方 法 に よる軍 隊 」 つ ま り 「
最 高 度 の効 率 つ
ま り血 と財 貨 と最 低 の犠 牲 を もっ て」 限定 され た 目的 の た め に編 成 され る軍 隊 が認 め られ
る 余地 が あ る とも考 え られ る24。と ころ が この寄 稿 者 は 「
平 生 か ら假 想 敵 な ど といふ 不 都
合 な もの が あ り得 る はず が な い 」、 「
何 れ 無 用 の長 物 た る代 物 だ 」 と軍 隊 をそ の存 在 か ら否
定す る よ うな 主 張 をお こ な って い るの で あ る。
また 「
軍人 銭 を愛 す 」 とい っ てい る よ うに軍 人 の 経 済 的境 遇 も考 慮 しな い で彼 らが 金銭
に 固執 す るよ うに変 貌 した と批 判 して い る。 続 いて この よ うな 一般 社 会 の風 潮 につ い て検
討 して み る。
3-4「
金 銭 に執 着 す る 」軍 人像
す で に 軍人 の経 済 的境 遇 に っ い て は 、 た とえ ば 陸 軍 の 軍縮 案 が議 論 され て い た 大 正11
年 の 河 野恒 吉 に よ る論説25の な か で も言 及 され て い た。
それ に よ る と、「
將 校 婦 人 」が 自分 た ち の娘 を軍 人 と結 婚 させ る こ と を望 ま ない とい う事
23こ の 投 書 へ は 批 判 が 寄 せ られ て い る
。 『東 朝 』 大 正14(1925)年11月10日
「
鉄箒
伊 部 氏 へ(憂
国 の 士 寄)」。 ほ か に 軍 事 教 育 を 擁 護 す る 意 見 もみ う け られ る 。 『東 朝 』 大 正14(1925)年11月21
日 「
鉄箒
軍 教 の 眞 相(MN生
寄)」 な ど 。
24ア ル フ レー ト ・フ ァ ー ク ツ 『ミ リ タ リ ズ ム の 歴 史 』
、 望 田 幸男 訳 、 福村 出版 、 一 九 九 四 年 、 三 頁
一一 四 頁
。
25河 野 恒 吉 「
陸 軍 案 を 排 す(二)」
、 『大 阪 朝 日新 聞 』 大 正11(1922)年7月11日
。
京都社会学 年報
第8号(2000)
160
谷 ロ:両 大 戦 間 期 にお け る 軍 人 の イ メー ジ
実 が あ り、 と くに在郷 将校 の生 活 難 は 「
社會 の 一 悲劇 」 で あ る とい う。 さ らに 「
軍縮 か ら
でな く陸 軍 の一 般 人 事行 政 の不 安 か ら」 現役 の うちか ら、現 役 を退 い た 後 の生 活 の 準備 を
して い る も のが あ る と指 摘 して い る。
広 田照 幸 が示 す よ うに 、将 校 の 経 済 的待 遇 につ い て の不 満 は軍 人 以外 の職 業 との 比較 か
ら意 識 され る よ うにな っ た。 将 校 た ちの 生活 が どれ ほ ど苦 境 に立 た され て い た か を社 会全
体 で 比 較 した場 合 、 そ の判 断 は 困難 で あ る。 しか し将 校 た ち は俸 給 な どの面 で も階級 に よ
り待 遇 に大 きな 差 が あ り下級 将校 の 生活 は 必ず し も楽 で は な か っ た と考 え られ る。
また 日本 で は資 産 を持 た な い層 か ら リクル ー トされ た将 校 が多 く、 さ らに欧 米 諸 国 の将
校 の定 限 年 齢 と比 較 して 日本 の将 校 は もっ とも若 く して 軍 を 去 らな けれ ば な らなか った26。
この よ うな 日本 の将校 た ち は退 職 後 、 主 と して 恩給 に頼 らざ る を得 な か っ た ので あ る。 恩
給 法 改 正 は行 政 整 理 の 問題 と して取 り上 げ られ て くる が 、 これ に対 して どち らか とい え ば
冷 淡 な一 般 社会 の受 け とめ か た は昭 和 期 に いた って も変化 してい な い。 投書 で も この 問題
が扱 われ て い る。
「
名 と金(竹 内清 寄)(『 東 朝』 昭和6(1931).8.23)」
では 「
軍 人 とい へ ば勇 敢 で 強 い も
の と相 場 が きまつ て居 る。 西 郷 南 洲 は名 と金 と命 の い らな い者 程 強 い もの は な い とい はれ
たが 、 この 頃 の軍 人 は金 も名 も欲 しい と仰 せ られ る。 これ も見 方 に よつ て は勇 敢 で あ る」
と軍 人 を椰 楡 す る こ とか らは じめて い る。 軍 部 側 が恩 給 問題 につ い て 要 求す る さい 、 そ の
根底 に 「
軍人 の特 異性 」 とい う考 えが あ る ら しい が 、軍 人 も他 の一 般 の 「
俸 給 生 活 の 職 業」
と同 じで あ るか ら過度 に 「
特異 性 」を主 張 す る こ とは望 ま しくな い と主 張 して い る。 「
軍人
も 自 ら好 ん で志 願 した職 」で あ り、「
職 争 して も死 なぬ もの だ と思つ て軍 人 とな つ た人 」は
い ない だ ろ うとい う。 さ らに 、命 をか け た職 業 で あ る軍人 に は、 特 別 の 名誉 が与 え られ て
い る こ とを強 調 し、「
戦 争 の み が 國家 の 危 急 で は な い。現 在 の や うに 國 家財 政 の危機 も國 家
の危 急 で あ る。 身命 を賭 して 國 家 の た め に壷 す 職 業 を持 たれ る軍 人 は 、 この國 家財 政 の危
急 に際 し、何 等 生 活 の保 讃 も受 けず に一 身 を國 家 に さ Σげ 、静 か に地 下 に 眠 る可 隣な 幾 萬
の 兵 卒や 、不 具者 となつ て 生 活 の ドン底 に あへ ぐは い兵 の現 状 を顧 み て 、恩 給 の 一部 改正
位 は 自襲 的 に 申 出 られ て も然 るべ きで は あ るま い か」 と、名 誉 だ けで満 足す るべ きで あ る
と主 張 して い るか の よ うで あ る。
満 州 事 変 の 直 前 に い た って も辛辣 な軍 人 批判 が 自由 にお こな わ れ て い た こ とが わ か る。
この よ うな軍 人 を と りま く状 況 は 、満 州事 変 が は じま る2年 前 で は あ るが 、『中央公 論 』に
26広 田照 幸 『陸 軍 将 校 の教 育社 会 史
立 身 出 世 と天 皇 制 』、世 織 書房 、 一 九 九 七 年 、 三 二 六 頁 一三
三九頁。
Kyoto Journal
of Sociology
VII / December.
2000
16]
谷 口:両 大 戦 間 期 に お け る軍 人 の イ メ ー ジ
掲 載 され た 伊藤 金 次郎 に よ る 「
軍 閥 の 中 に蚕 く人 々27」に端 的 に あ らわ され てい る。
「
軍閥 とい へ ば 、 明治 、大 正 の 日本 を通 じて 、殆 ん ど、別 個 の 城 塞 を構 へ て來 た もの
だ が 、 しか し、 昭和 の今 日は、 世 界 を通 じて の軍備 縮 少 、海 軍 制 限 一厭 戦 亦 た厭 戦 、
武 人 が社 會 的 勢力 にお い て 、 甚 だ しい 凋落 を見 せっ Σあ る こ とは 、疑 ひ のな い と ころ
で あ る」
第 一次 大 戦 後 の 世界 的 な平 和 主 義 的風 潮 は軍 縮 時代 を現 出 させ た が 、軍 人 に対す る批 判
を もは げ しい もの に した 。 そ れ も、 い わ ゆ る職 業 軍人 た ち を対 象 と した もので あ っ た。 し
か も、批 判 の され 方 と して は 、 軍人 は 「
没 常識 」 な ど といわ れ 、考 え方 や 服 装 な どを批 判
す る まで に 事態 はエ ス カ レー トす る。 さ らに、金 銭 に強 い 執 着 が あ る もの に 変 わ って しま
っ た とい う見 方 まで が で て きた の で あ る。
これ らの 軍人 批 判 は 、 建設 的 な議 論 とい った ものか らは ほ ど遠 い もの とい え る。彼 らに
非 難 を浴 び せ る こ とが 流 行 現 象 の よ うに な っ てい た とい え るだ ろ う。
4満
州事変以後の傾 向
これ ま でみ て きた よ うに大 正 後 期 か ら昭 和期 に いた るま で 、将 校 た ちを主 な対象 と して
厳 しい軍 人 批 判 が な され きた の で あ るが 、 昭和6(1931)年9.月
の満 州 事 変 勃 発 以 降 、新
聞 な どが戦 争 協 力 的 な論 調 へ と大 き く変 化 す る こ とが 指 摘 され て い る28。そ の た め 、 こ の
変化 に伴 って 軍 人 の社 会 的評 価 も変 容 す る こ とが推 察 され る。この 点 につ い て 以 下 で投 書 、
雑 誌 につ い て も確 認 して み た い 。
はや くも9月25日
「
績 々集 ま る
の 『大 阪 朝 日新 聞』 に は以 下 の よ うな記 事 が 載 る。
慰 問 の金 品
大手前憲兵隊へ
績 々大 阪 大 手 前憲 兵 隊 に集 ま る賑位 美談 一 各 方 面 か ら滞 洲 の 野 に 活躍 す る我 軍 の た め
に慰 問 の金 品 が大 手 前 憲 兵 隊 に持 ち 込 まれ 同隊 將 士 を感 激 させ て ゐ る が 、二 十 四 日 も
午 前 七 時東 匠 上本 町 一 丁 目石 井 ブ ラ シ店 員 大 谷俊 治君(十 人)が 給 金 中の 一 圓五 十 銭
を持 参 して 、『國 家 の た め に働 く兵 士 方 へ』 と寄 付 した の を は じめ(中 略)こ の ほか に
27伊 藤 金 次 郎 「
軍 閥 の 中 に姦 く人 々 」
、 『中 央公 論 』、 昭 和4(1929)年4,月
号。
28駄 場 裕 司 『大 新 聞 社 そ の 人 脈 ・金 脈 の研 究』
、 は ま の 出版 、一 九 九 六年 、 一 五 四 頁 一 二 二 二 頁
ほか。
京都 社会学年報
第8号(2000)
162
谷 口:両 大 戦 間 期 に お け る 軍 人 の イ メー ジ
も三 十 圓 、 十 圓 と次 か ら次 へ金 と品 を贈 られ そ の慮 接 に隊 員 た ち は 『あ りが た う、直
に駐 満 軍 に 贈 つ て皆 様 の 力 強 い後 援 を傳 へ ませ う』 と快 く受領 して ゐ るな ほ 市 内各 署
や 本 社 へ も 同様 績 々寄 託 され て ゐ る29」
新 聞 社 自体 も 「
時 あた か も酷 寒 に 向ひ つ ンあ る満 洲 に苦 辛 の我 が 駐 屯 軍慰 問 の た め 、本
社 は金 一 萬 圓 を提 供 し、慰 問袋 二 萬 個 をつ く り贈 呈 しま した が 、更 に一般 大方 の御 賛 同磨
募 を希 望 い た しま す
朝 日新 聞社ρo」とい った 広 告 を掲 げ 「
満 洲 駐 屯軍 慰 問慮 募 金 」 集 め
の運 動 を展 開す る よ うに な る。 投 書欄 に も 「
慰 問袋 」、 「
千本 針 」 とい っ た こ とば が あ らわ
れ 戦 時風 俗 が うかが え る よ うにな る。 この よ うな活 動 が か な りの 広 が りを もち 、加 熱 した
もの とな っ てい た こ とは 、「
千人 針 」の迷 信 性 を指 摘 す る投 書 や 、自己満 足 のた め に慰 問運
動 を して い る よ うな もの が あ る とい っ た批 判 的 な投 書 が 寄せ られ て い る こ とか らも うか が
え る31。
さ らに 『中央 公 論 』 に お いて も軍 人 を 支 持 す る論 調 が認 め られ る よ うに な る。 昭 和7
(1932)年10月
号 の巻頭 言 「
在 郷 軍 人會 に 封す る期 待32」で は、 「
軍人 が政 界 党 人 の 無能
に憤 慨 し独 自の 見解 を提 げて 國家 重 要 諸 問題 の解 決 に願 起 せ る」のは 事 実 で あ り、そ の 「
熱
意 に は理 屈 な しに感 謝 の意 を表せ ざる を得 な い 」 と記 す まで に な っ てい る。 この よ うに満
州 事変 以 後 は、雑 誌 な どにお い て も軍 人 を批判 す る の で はな く、 そ の反 対 に 、彼 らに対 す
る期待 を述 べ る記 事 が あ らわれ る とい った よ うに大 き く変 容 して い くの で あ る。
ま た 、昭 和8(1933)年
に 大 阪 で起 きた い わ ゆ る ゴー ・ス トップ事 件 は この 時期 の 「
軍
人 の跳 梁 」ぶ りを端 的 に あ らわ す もの と しで指 摘 され て い る33。交 差 点 で信 号 が ス トップ
の 時 に兵 士 が 歩 きだ し、
交 通 巡 査 が これ を注 意 した。と ころが 兵 士 が注 意 を無視 した た め、
巡 査 と兵 士 との 間 で小 さな 衝 突 が生 じた 。 事件 はそ れ だ けで あ っ たが 、 さ きの衝 突 事 件 と
同 じよ うに、 師 団 な どが これ を 「
皇 軍 の威 信 」 に対 す る侮 辱 と し問題化 した とい うこ とで
あ る。
これ に つ い て比 較 的 中立 的 な立 場 を と ろ うと して い る投 書 にお いて も軍人 に 同情 的 な 風
潮 が記 され て い る。 「
一等 兵 と巡 査(『 東 朝 』 昭和8(1933).6.28)」
29『大 阪 朝 日新 聞 』 昭 和6(1931)年9月25日
30『東 朝 』 昭 和6(1931)年11月1日
。
31『東 朝 』 昭 和6(1931)年12月1日
「
鉄箒
と して 掲 載 され た 「
鶴
。
慰 問 袋(経 験 生)」
、 同 年12月13日
「
鉄 箒 千 本針
の 腹 巻(海 軍少 佐 柳 沼 七郎 寄)」 な どが み られ 、 同年12月10日
「
鉄 箒 銃 後 の 者(H寄)」 、 同 年
12月 .12日 「
鉄 箒 街 頭 の 寄 付(中 村 幸 一 寄)」 な ど が運 動 に 批 判 的 で あ る。
32『中央 公 論 』 昭 和7(1932)年10月
号 「
巻頭 言」
。
,3飯 塚 浩 二 『日本 の 軍 隊 』、評 論 社 復 初 文 庫 、 一 九 六 八 年 、 九 六 頁 、戸 部 良 一 『逆 説 の 軍 隊』、 二 四
八 頁 一二 四 九 頁。
Kyoto Journal
of Sociology
VII / December.
2000
163
谷 ロ:両 大 戦 間 期 に お け る軍 人 の イ メ ー ジ
見 住 夫 寄 」 と され る部 分 に は 、陸 軍 に対 す る積 極 的評 価 よ りも、警 察 官 に対 す る反 感 を特
徴 と して読 み とる こ とが で き るだ け ともい え る。 しか し、 寄稿 者 「
渡 邊 史 郎 」 に よ る部 分
に は 、「
時 あた か も軍人 萬 能 の 時 代 誰 しも兎 角 軍隊 の味 方 を した が るの はや む を得 な い」と
も記 され てい る。
また 、 警 官 と衝 突 した の が 、 兵 士 で な か った な ら抗 弁 の しよ うもな か った で あ ろ うが 、
軍服 を着 て い た た め警 官 と対 立す る こ とが で き 「
痛快 なや うに も感 じ られ る 」 とい う。
以 上 の事 件 の 当事 者 とな っ た 軍 人 は兵 士 で あ った。こ の こ とに留 意 して、以 下 の投 書 「
深
夜 の 初詣 で(新 出 生 寄)(『 東 朝 』 昭 和9(1934).L7)」
をみ て も らい た い。 明 治 神 宮 に参
詣 し兵 隊 と遭遇 した さいの 感 慨 をっ つ っ た 投書 で あ る。 一般 参 拝 者 はそ れ ぞれ 個 人 的 な祈
願 をす る ので あ ろ うが 、「
一身 を 國 に捧 げた 軍 人 が 、武 装 に身 を固 め て の少 時 の 黙 藤
大 帝 も さぞお 喜 で あつ た事 と、お そ れ 多 き事 な が ら考 へ た 次 第 で あつ た 」 と、 軍人 た ちが
黙 祷 す る 姿 に感 動 して い るの だ が 、問題 と したい の は 以 下 の部 分 で あ る。「この 一 隊が 三 十
名 足 らず の少 数 で あつ た事 、將 校 の ま ちつ て 居 らなか つ た 事 、 ラ ツパ 兵 の 一名 が加 はつ て
居 つ た 事 、 しか も隊 長 ら しい 下士 は 、一 般 参 拝者 の邪 魔 にな らぬや うに と、 非 常 に遠 慮 勝
ち に見 え た事 は 、私 共 の感 慨 を一 層 強 か ら しめ た。 この状 景 を見 た 一 同 は、 この瞬 間 皆 私
心 を捨 て ㌧、紳 々 しい 大 神 の 前 に ひれ 伏 す や うな 心持 に なつ た こ とL信 ず る」 とい うので
あ る。
全 体 と して軍 隊賛 美 的 な投 書 な の で あ るが 、 こ こで 「
私 共 の感 慨 を一 層 強 か ら しめた 」
理 由 と して 挙 げ られ て い る事柄 の な か に 「
將 校 の ま ちつ て居 らな か つ た事 」 が 含 まれ てい
る こ とに注 目 した い。 当然 、 この こ とで将 校 た ちに対 す る評 価 が 消極 的 な もの で あ る との
判 断 はで き ない。 しか し、 先 の ゴー ・ス トップ 事 件 の 当事 者 が兵 士 で あ る こ と とい い 、概
して将 校 た ち よ りも兵 士 た ちに 対す る同情 的 な傾 向 は 、軍人 批 判 流 行 の 時期 と関 わ りな く、
一 貫 して あ っ た とみ られ る の で あ る
。
この章 のお わ りに 、軍 人 が そ の威 信 を誇 示 してい るか の よ うな、 新 聞 の社 説 をみ て お こ
う。昭和8年 末 に軍 部 の側 か ら、 「
かつ て の戦 争 で の 死者 は庶 民 階 級 の 人 々 ばか りで 、高級
指揮 官 には 戦 死者 が い なか っ た 」、 とか 「
軍 事 費 の た め に農 村 は 犠牲 に され て い る」とい っ
た 「
軍 民分 離 の言 動 」 が さかん に な っ て い る との批 判 が な され る鱗と、新 聞 の方 が社 説 に
お い て35「軍 民 は一 致 して い る」 とい うよ うに反 論 す るま で に な っ て しま うの で あ る。 満
州 事 変 につ い て も 「
軍部 と外 交 あ 不 一 致 、 民意 に反 した 軍 閥 一部 の行 動 」 とい っ た見 方 は
卸 『東 朝 』昭 和8(1933)年12月10日
然 黙 視 し能 はず 』」。
35『東 朝 』 昭 和9(1934)年1月25日
「軍部 の態 度 批 判 に 突如
、陸 海 軍 が 聲 明 『軍 民 離 間 の 言 動 断
。
京都社会 学年報
第8号(2000)
164
谷 口:両 大 戦 間 期 に お け る軍 人 の イ メ ー ジ
「
誤 解 」 で あ っ た とま で記 してい る。
満州 事 変 勃発 の直 後 か ら慰 問運 動 が 活発 化 し、 さ らに軍 人 の威 信 が 上 昇 して い った様 子
が 確 認 で きた と思 う36。ま た 、 こ の よ うな 風 潮 の も とで あ って も、将 校 た ち よ りも兵 士 た
ち に対 して 同情 的 な傾 向 が み られ た とい え るだ ろ う。
おわ りに
第 一 次 大戦 後 か ら満州 事 変 前 後 にか け て 、新 聞 の 投 書や 雑 誌 にみ られ る軍 人 の評 価 の さ
れ 方 を 中 心 にみ て きた。 第 一 次 大 戦 後 の反 軍 国 主 義 的 な風 潮 の も とで 、 軍人 た ちは 考 え方
や 服 装 ま で を対 象 と した厳 しい批 判 を受 け 、 そ の威 信 は著 し く低 下す る こ と とな っ た。
この よ うな軍 民 乖 離 の状 況 に対 して 、 陸軍 な どに は 国民 の側 を批判 す るだ けで は な く、
自 らを反 省 し、 欠 点 が あ る な らば それ を改 善 す る必 要 が あ る とい っ た柔 軟 な 捉 え方 をす る
傾 向 もあ らわれ て い た37。
しか し、 この時 期 の 軍人 批 判 の傾 向 に は、 将 校 た ち が納 得 で き るか た ちで の 軍縮 を求 め
る漸 進 的 な議 論 はな か った ので あ り、や は り、職 業 軍人 た ち に不 平 不満 を植 えつ け た とい
う見方 は可 能 で あ る と考 え られ る。 軍 部 が柔 軟 な 姿勢 を示 して い た の で あ るか ら、新 聞投
書 欄 な どに あ らわれ 続 けた 軍 人批 判 は、 一 層 、 軍人 た ち に と って 不満 の原 因 とな っ た とも
い え る だ ろ う。
また 、 兵 士 た ちにみ られ た よ うに兵 役 を 「
立 派 に」 つ とめあ げ る こ とを肯 定 的 に捉 え る
風 潮 も存在 して い た。 一般 の 人 々 が兵 士 を理 想 的 な人 間 像 、 規範 と考 え るの で あれ ば社 会
不 安 が っ の った さい 、改 革 の 実践 者 と して の 軍 隊 イ メー ジ が浮 か び あが って く るの は 、不
思 議 な こ とで は な い とい え る38。
この よ うに、 軍 隊 の受 け とめ られ 方 も、 兵 士 と将 校 では 大 き く異 な って い た。 満 州 事 変
以 後 の ゴー ・ス トップ事 件 に お い て は、 軍 人 と警 官 が衝 突 した の で あ るが 、 一般 の人 々は
軍 人 に同 情 的 な 姿勢 をみせ た。 こ の こ とは 軍 隊側 の 当事者 が 「
兵 士」 で あっ た こ とが関 連
してい る と考 え られ る。 とい うの も、 先 に み た よ うに、 これ に類 似 した 市電 と軍 隊 が交 差
す る とい っ た事 件 が 東 京 で 大正15年 に 生 じて いた が 、投 書 な どにみ られ る意 見 は必 ず しも
軍 人側 の 当事 者 に は同 情 的 とはい えな か っ た が、 そ の 軍 人側 の 当事 者 は 「
将 校 」 だ った か
36昭 和9(1934)
、10(1935)年
に い た っ て は 、 自 ら軍 人 を名 乗 る犯 人 に よ る兵 器 献 納 に名 を借 りた
詐 欺 、金銭 強 要 、無銭 飲 食 、結 婚 詐 欺 な どの 事 件 が 新 聞 に も報 じられ て い る。 『東 朝 』昭 和9(1934)
年12月18日
「偽 軍 人 の 横 行 手 口は 益 々 巧 妙 に 」 な ど。
37黒 沢 文 貴 『大 戦 間 期 の 日本 陸 軍 』
、 み す ず 書 房 、 二 〇 〇 〇 年 、 一 一 六 頁 一一 二 四頁 。
38小 松 茂 夫 「日本 軍 国主 義 と一般 国 民 の 意 識 」
、 『思 想 』、 四 一 一 号 、 一 九 五 八 年 、 一 〇 九 頁 。
Kyoto Journal
of Sociology
VA / December.
2000
165
谷 口:両 大 戦 間 期 に お け る 軍 人 の イ メー ジ
らで あ る。
また 、初 詣 で の さい に 出会 った 兵 隊 た ちを賛 美 す る投 書 に も 「
将 校 が含 まれ てい な い」
こ とが 記 され て い た 。
も ち ろん 、 ゴー ・ス トップ 事件 にお い て 人 々 が軍 人 の側 に 同情 的 で あ った こ とは、 同 じ
国家 の官 僚 制機 構 と しての 軍 隊 自体 と警 察 自体 の評 価 の され 方 の相 違 と して 考 え る こ とも
可能 で あ ろ うが 、や は り、 軍 隊側 の 当時 者 が 兵 士 で あ る こ とが重 要 で あ るだ ろ う。 自 ら選
択 した職 業 で あ る警 察 官 、 さ らに は将 校 も 同様 で あ る が 、 これ らの 人 々 とは異 な り、兵 士
た ち は一 般 社 会 か ら徴 兵 され た 人 々 で あ る ゆ え よ り身 近 な存 在 と して う受 け とめ る傾 向が
あ り、 この こ とが影 響 を 及 ぼ して い た と考 え られ る か らで あ る。
以 上 の よ うな こ とが論 者 、投稿 者 に よっ て十 分 自覚 され な い まま 新 聞紙 上 や 雑 誌 に おい
て 軍 人批 判 、軍 人 軽視 の言 説 が な され て い た の が、 第 一 次大 戦 後 か ら満 州 事 変 にか け て の
状 況 だ っ た ので は ない だ ろ うか。 つ ま り、 軍隊 批 判 が お こな われ る さい は 、兵 士 た ち はそ
の対象 とな る こ とを免 除 され 、 また 、 そ の こ とが一般 の 人 々 に も ま った く認 識 され な い現
実 が あ る一 方 で 、積 極 的 な評 価 が な され る場 合 の 「
軍 隊」とい う言 葉 が示 して い た 内容 は 、
一 般 の人 々 の感 覚 と して
、「
兵 士 た ち」 で あ る こ とが多 か った の で は な い だ ろ うか。
徴 兵 制 自体 を 対象 とす る よ うな 、戦 争 の 担 い 手 と しての 兵 隊 の存 在 を問題 とす る議 論 が
不 十 分 な ま ま 、 そ して 、そ の こ とが 認 識 され な い ま ま 、皮相 的 な非 難 が 主 と して職 業 軍 人
た ち に 向か い彼 らに不 平 不 満 を植 えっ け た とい え る だ ろ う。
そ れ ゆ えに満 州 事 変 がは じま る と、そ れ まで批 判 され て きた 将校 た ち は 自分 た ち の業 績
幽
を あ げ るた め の場 を求 めて 活 動す る よ うにな り、一 般 の人 々 は 平和 主 義 的 な意 見 を表 明 し
た り、反 戦 を主 張 す る こ とよ りも、身 近 な 出征 兵 士 を気 づ か うこ とを緊 急 の 問題 と して優
先 し、結 果 的 に は戦 争 協 力 に い た る こ とに な っ た とい え る ので は ない だ ろ うか 。
そ うで あれ ば 、 軍縮 実施 とい っ た 一応 の成 果 をみせ た第 一 次 大 戦 後 の軍 隊 批 判 、軍 人 批
判 的 な言 説 は 、 一般 の人 々 と兵 隊 との関 係 につ い てみ て も将 校 た ち につ い て も、逆 説 的 に
そ の後 の軍 国 主義 化 の要 因 を もは らん で い た とい え る の で は な い だ ろ うか。
(たに ぐち
しゅん い ち ・修 士 課 程)
京都社 会学年報
第8号(2000)
200
The
Image
of the
Army
Shunichi
in Interwar
TANIGUCHI
This article deals with the image of Japanese
interwar
this
Conference
time
took
consequence,
during
place,
disarmament
armed
reduced
forces
either.
became
their armaments
considered
soldiers
having
by certain people. Especially
the army faded away. Japanese
army because everyone
In such
formulated
ment process
surprisingly
one can wonder
the soldiers
the army officers'
their intentions
As
a
an international
service
were highly
Incident on, critics towards
aware of the importance
of supporting
the
in the army, with the result that
about
the fact that,
I , which clearly
in Japan, most ones have been made towards
than diminishing
of criticism.
holding
their military
from the Manchurian
the army after World War
not towards
Washington
started to get involved into the war efforts.
a perspective,
against
the
and pacifist opinions were hardly
had a relative or a friend engaged
many of them unwillingly
like
while, on the other hand, the practice
accomplished
people became
of newspapers.
a target
without
among other things, was not questioned,
Besides,
columns
conference
Critics about the armed forces increased
of conscription,
reinforce
which
Japanese
the land forces
conference.
heard
people serving in the army during the
period. To analyze this topic, I mainly used readers'
At
Japan
themselves.
strength,
influenced
all critics
the disarma-
the army as an institution
It is also interesting
on the contrary,
of pursuing the militarization
among
but
to notice that, rather
all those
critics
tended
to
of the country.
To a certain extent, we may conclude that all those critics might have helped to the
constitution
preventing
Kyoto Journal
of a military
state, which
the rise of militarism.
of Sociology
Vll / December.
2000
would
also mean that Japanese
people
failed
in
Fly UP