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栄養をめぐる知とジェンダー : 栄養学の誕生と
Title Author(s) Citation Issue Date URL <論文>栄養をめぐる知とジェンダー : 栄養学の誕生と〈 母〉の創出 村田, 泰子 京都社会学年報 : KJS = Kyoto journal of sociology (2000), 8: 123-145 2000-12-25 http://hdl.handle.net/2433/192590 Right Type Textversion Departmental Bulletin Paper publisher Kyoto University 123 栄 養 を め ぐ る知 と ジ ェ ン ダ ー 一一 一 栄 養 学 の誕 生 とく母 〉の創 出 一 一 村 田 泰 子 は じめに 本 論文 は 、明 治大 正 期 に誕 生 した栄 養 学 とい う学 問 に焦 点 をあ て 、 ジ ェ ンダー お よび ジ ェ ン ダー 化 とい う観 点 か ら言 説 分 析 を こ ころ み る もの で あ る。 明 治以 降 、社会 構 造 の急 激 な 変化 に とも ない 、 日本 人 の食 生活 の あ り方 がお お き く変化 して きた こ とは周 知 の とお りで あ る。 た とえ ば 、柳 田國 男 は 、食 物 の 次 元 で感 知 され る変 化 に つ い て 『明 治 大 正 史 世 相 篇 』 の な か でつ ぎの よ うに 書 き記 した。 「 明治 以 降 の 日本 人 の 食 物 は 、 ほ ぼ三 つ の 著 しい傾 向 を示 して い る こ と は争 え な い6そ の 一 つ は 、温 か い もの の 多 くな った こ と、 二 つ に は柔 らか い もの の好 ま る る よ うに な った こ と、そ の三 に はす な わ ち何 人 も'酎寸く よ うに 、概 して食 うもの の甘 くな って 来 た こ とで あ る」[柳 田國 男 、一九 三 一=一 九九 〇:五 五]。 そ して 、 日本 人 の 味覚 が この よ うに変 化 した こ とにつ いて 、柳 田 は食 物 の輸 送 ・保 存 技 術 の 向上 や砂 糖 の量 産 体 制 の確 立 とい った今 日で い う産 業社 会 学 的 な 説 明 に くわ え、火 へ の禁 忌 の消 滅や 人 々 の居 住様 式 の変 遷 な ど彼独 自の民 族 学 て き視 座 にた って説 明 を こ ころ み た の で あ る。 た だ し、 これ らの 変 化 を 書 き記 す にあ た っ て 、柳 田のテ ク ス トに お い て は歴 史 を つ うじ て 変 わ らず 在 った もの がた だひ とつ 前提 され てい る こ とに留 意 した い。 そ れ は\食 物 お よ び 食べ る こ と一般 に た いす る、女性 特 有 の こま や か な配 慮 や 思 い 入れ とい った もの で あ る。 柳 田に よれ ば 、 近代 以 前 の 社 会 で はた だ常 の 日の食 事 のみ が 女 性 に よっ て準 備 され て いた が 、 明治 以 降 、す べ て の食 事 が 女性 の手 に ゆだ ね られ る ス タイ ル が都 市部 を 中心 に一 般 化 した。 調 理 に お い て女 性 が 活躍 す る割 合 が増 大 して ゆ くの に と もな い 、それ ま で じ ゅ うぶ ん に発 揮 され る場 を与 え られ て こな か った 「 母 や 妻娘 な どの 親 切 」[同:五 九]あ るい は 「 細 か な 才知 」[同:五 九]と い った 女性 本 来 の心 的 特 質 が 、よ りよ く発 揮 され る こ とが 可能 と な る。 よ うす る に、 上 に 引 用 した 「 温 か く、 柔 らか く、甘 く」 とい うきわ め て情 感 に富 む 柳 田の観 察 は 、女 性 を本 来 的 に優 し く、 温 か く、打 ち くつ ろい だ気 分 の演 出 家 とみ な した 京郁社会学 年報 第8号(2000) 124 村 田:栄 養 を め ぐ る 知 とジ ェ ン ダー い とい う柳 田の 気 分 の あ らわ れ で あ っ た とい うこ とが で き る。 本 稿 が 問題 とす るの は 、ま さに この よ うな非歴 史的 本 質 と して の 「 母 性」の 措 定 の され か た に ほ か な らない。 フ ェ ミニ ズ ム の諸 研 究 が 明 らか に して きた よ うに 、 あ る もの が 変化 の領 域 に入 れ られ 、 あ るも のが 自然 の な か に と りわ け られ る とき、 そ こに はつ ね に複 雑 な 文 化 的諸 力 のせ め ぎあ いが 存 在 して い る。 とく に本 稿 で 中心 的 に と りあ げ る明 治 三〇 年 代 か ら大 正 に か けて は 、社 会 状 況 の 変化 に と もな い 、女 性 を と りま くデ ィス コー ス の全 体 に も大 きな変 容 が み られ た時 期 で あ っ た。明 治 期 に刊 行 され た 総 合雑 誌 ・評論 誌 にお け る 「 家 族 」 の表 象 につ いて調 査 をお こな っ た 牟 田和 恵 に よれ ば 、明 治 二 〇年 代 以 前 の 誌 面 で は、 旧来 的 な婚 姻 関係 を批 判 し、 夫婦 ・親 子 間 の情 愛 のふ か さに よっ て営 まれ る新 た な家 族 関 係 の構 築 を称 揚 して ゆ く言 説 が数 多 くみ られ た。 と ころが 国 家 主 義体 制 の確 立 とい うあ ら た な 政 治 的要 請 が 高 ま りつ つ あっ た 明治 三〇 年 代 を起 点 と して 、 母子 関係 に重 点 をお いた 日本独 自の家 族 形成 が め ざ され て ゆ く。 そ の さい 、女 性 に も とめ られ た のは 、 貞節 あ るい は 従順 さ とい った 旧来 的 婦 徳 で は な い。 女 性 は く母 〉 と して みず か ら積 極 的 に 家政 に参 与 す る こ とをつ う じて 、 家 族 の 求 心 点 とな っ て ゆ く こ とを も とめ られ た ので あ る[牟 田和 恵 、 一 九 九 六=一 九 九 八参 照] 。 食 に か んす る専 門 科 学 で あ る 栄養 学 の誕 生 は、 この く母 〉 とい う特 異 な ジ ェ ン ダー の創 出 と分 離 して 考 察 され る もの で は な い。 栄養 学 の言 説 は、 す で に存 在 して い た わ が国 独 自 の ジ ェ ン ダー 規範 とふ くざつ にむ す び つ きな が ら一 ときに は古 い規 範 を却 下 し、 ときに は そ こ に あ らた な息 吹 を吹 き込 ん でや る こ とよ り 日々 の食 行 為 の現 場 を く母 〉創 出 の た め の この うえ な い舞 台 へ と変 え させ た。 そ して、 後 述 す る よ うに、 これ らの言 説 に お い て もっ とも重 要 な役 割 をは た して きた の が 、 高度 に ジ ェ ンダ ー化 され た く栄養 〉 とい う文 化 的概 念 で あ っ た とか ん が え られ る。 本 稿 では 、 〈栄養 〉概 念 の脱 自然 化 お よび 脱 ジェ ンダー 化 を め ざ して 、 栄 養 と女性 につ い て書 か れ た 当 時 の言説 につ いて 分 析 を こ ころみ る。 栄養 学 の誕 生 以 降 、女 性 のお こな う 日々 の食 行 為 の位 置 づ けは どの よ うに変化 して きた の か 、 ま たそ れ に よっ て女 性 は い か な る回 路 をつ うじて 〈母 〉 とい うジ ェ ンダ ー に近 似 させ られ て きた のか。 以 下 に考 察 を お こ な いた い 。 1栄 養学の誕生 は じめ に確 認 して お きた い の は、 わが 国 にお け る栄 養 学 の成 立 と展 開 のお お ま か な プ ロ セ ス にっ いて で あ る。 これ か らみ て ゆ くよ うに 、 明治 一 五 年 に政 府 が栄 養 学 の 導入 を きめ Kyoto Journal of Sociology VE / December. 2000 125 村 田:栄 養 を め ぐる 知 と ジ ェ ン ダ ー た背 景 に は 、(女性 で は な く)個 別 の男性 身 体 を い か に効 率 よ く活 用 して ゆ くか とい う政 治 課 題 が 存在 して いた 。端 的 に い え ば 、 兵 士 の 体 力 向 上 のた めに 有効 で あ る とか ん が え られ 、 栄 養 とい う視 座 の導 入 が き め られ た の で あ る。 と ころ が、 明 治 三〇 年 代 を さか い に 、栄 養 学 の 言説 に は主 題 上 の変 化 がみ られ た。 家 庭 に お け る女性 の調 理 行 動 の 問題 が 前景 化 して きた の で あ る。 こ こで は 、第 二節 以 降お こな う言 説 分 析 へ の 導入 と して 、 女性 とい うただ 一 方 の ジ ェ ン ダー の お こな いが 、 いつ 、 ど う い っ た経 緯 か ら栄養 学 上 の問題 と して論 じ られ る よ うに な っ たか に 的 を しぼ って整 理 して お き た い。 1-1栄 養 行 政 の は じま りと脚 気 栄養 学 とは、食 物 とそれ が 人 体 に もた らす 効 用 につ い て、 科 学 の観 点 か ら解 明 を こ こ ろ み る学 問 で あ る。 それ がわ が 国 の 為政 者 の あい だ に は じめて 知 られ る よ うに な っ た の は、 や は り開 国 以 降 、西 洋 とい う他者 の 出会 い をつ うじて で あ った。 た だ し、 近代 国家 の 根 幹 とな る産 業 構 造 お よび 政 治 的 諸 制 度 の整 備 さえい ま だ不 完 全 で あ るなか で、庶 民 が 日々何 を 口にす るか を 学 問的 に問 うこ との意 義 が認識 され る に は時 間 が か か った。 伝 染病 対 策 や 乳 幼 児 へ の 予 防接 種 の実 施 な ど、 国家 が国 民 の 身体 的 生へ と積 極 的 な介 入 をお こな う 「 公 衆衛 生 事 業 」 の 初期 段 階 に も、食 は あ くま で個 人 の私 的生 存 の 最 下辺 に属 す る こ とが らと して 、 な が い あ い だ軽 視 され っづ け て き た の で あ る。 この 「 最 下辺 」 の こ とが らに、 わ が国 の為 政 者 お よび科 学 者 の 関 心 を 向 け させ る直 接 的 な き っか け とな っ たの が 、 海 軍 内 にお け る脚気 病 患 者 の問 題 で あ っ た。 当時 、脚 気 は、都 市部 を 中心 とす る精 白米 食 の 一般 化 お よび そ れ に と もな う特 定 の ビ タ ミン成 分 の不 足 に よ っ て社 会 問題 化 して きて い た が1、それ が 偶 然 に も国 防 上 の危 機 をひ きお こす こ とに な った とき 、 は じめて 栄 養 行 政 とで も呼 び うる一 連 の取 り組 み へ と発 展 した ので あ る。 そ の くわ しい 経緯 に つ いて は別 稿 で論 じたた め こ こで は立 ち入 らな い が2、平 均 的 に脚 気 罹 患 率 が 三割 を超 えて い た とい う海 軍艦 隊 にお い て、 明 治 一 五年 夏 の壬 午事 変 の さい に 、 脚 気 患者 の大 量 発 生 の た め に戦 闘 に支 障 を きたす とい う事 態 が生 じた。それ を き っか けに 、 明 治 一 六年 、海 軍 に脚 気 調 査 委 員 会 が設 け られ る。 そ こで は 、患 者 の 階層 ・気 温 ・湿度 ・ 労 働 ・食 物 にっ い て 詳 しい調 査 が お こな われ 、脚 気 の 原 因 は ど うや ら 日本式 兵 食 の 内 容 に 1明 治 一 〇年 代 に は 、 脚 気 に よ る死 者 は全 国 で 二 万 人 を超 え て い た とい わ れ る。 2栄 養 学 とい う学 問 は 、 上 で 述 べ た 脚 気 の 問 題 に くわ え、 当時 の 日本 社 会 を特 徴 づ け て い た対 西 洋 の コン プ レ ック スー と りわ けそ れ は 、 身 体 的 な 劣 等 意 識 と して 表 明 され た一 を い か に して克 服 す べ き か とい う問題 に か か わ っ て 明 治 後期 に受 容 が は じま った。 くわ し くは、 村 田泰 子 「〈栄 養 〉 と権 カー 明 治 大正 期 に お け る栄 養 学 の 成 立 と展 開一 」[二 〇 〇 一 年]を 参 照 の こ と。 京都 社会学年報 第8号(2000) 126 村 田:栄 養 を め ぐる 知 と ジ ェ ン ダ ー あ る こ とが つ き とめ られ た。 海 軍 では 、 副食 の増 加 、 パ ン食 の採 用 とい った 具体 的改 善 を お こな うこ とに よ り、 同年 脚 気 の 根 絶 に成 功 して い る[高 木 和 男 、一 九 八 七:三 四七 一五 七]。 ま た 、明治 一 五 年 とい う年 は 内務 省 東 京衛 生試 験 所 が 「日本 食 料調 査 」 とい う四年 が か りの プ ロ ジェ ク トに着 手 した年 で もあ った。 そ こ では 、 七 大栄 養 成 分 の働 き と測 定 方 法 が 明 らか に され た ほか 、 味噌 や イ ワ シ、 大豆 な ど、 当時 日本 人 が常 食 と して い た食 品 を中 心 に約 一 六 〇 品 目の 化 学 的 分析 が お こな わ れ た[衛 生試 験所 彙 報 、 第 一 号]。 さ らに 、こ のプ ロジ ェ ク トの 一環 と して、 わが 国 初 の本 格 的 な食 事 調 査 が 実施 され も し た。陸 軍 士 官 学 校 の学 徒 お よび東 京 鍛 冶 橋 監獄 の 囚徒 を被 験 者 と して 、彼 らの年 齢 ・体重 ・ 運 動 程度 ・食 費 とと もに 、そ こで供 され る一 週 間 分 の食 事 内容 にっ い て こま か なデ ー タ が 集 計 され て い る。 同一 九年 には 、 高 等 師範 学 校 や 攻 玉社 塾 、二 松 学 舎 の 生徒 な どにつ い て も規 模 を拡 大 して 同様 の調 査 が お こな われ た[衛 生 試 験 所 彙報 、第 一号 、第 二 号]。そ して 、 これ らの調 査 をつ う じて導 きだ され た の が 、 日本 人 男性 が一 日の 諸 活動 を こ なす の に必 要 とされ る最 低 栄養 基 準 で あ っ た。 よ うす る に、初 期 の栄 養 調 査 に特徴 的 で あ った の は 、第 一 に 、兵 営 や 学舎 な ど集 合 的 な 場 で 供 され る食 事(そ れ はた い て い 専 門 の料 理 人 に よっ てつ く られ る)の み を対 象 に して い た 点 、 そ して また 、そ の 目的 が個 別 の男 性 身 体 の 管理 に あ った 点 で あ る とま と め る こ と がで き るだ ろ う。 1-2食 の 合 理 化 運 動 へ む け て一 食 糧 問 題 と主 題 の 変 容 一一 ・ と ころ が、 明治 三 〇年 代 を さか い に 、栄 養 学者 らの 関心 は 、個 々の 家庭 で女 性 に よっ て 準 備 され る平 素 の 食 事 の 全 体 へ と向 け られ る よ うに な る。 で は 、 この時 期 、 「 家庭 の 食事 」 の い っ た い何 が栄 養 学 者 らに よ っ て問題 とされ て い た のか 。 こ こで は、 内務 省 榮 養 研 究所 の初 代 所 長 とな っ た佐 伯 矩(さ い きた だす)の 実践 を 手 が か りに 考察 を こ ころみ た い 。 用 い る資 料 は、 佐 伯 の 主著 『榮 養 』[佐 伯 矩 、一 九 二 六] お よび 、 内務 省 榮 養研 究 所 が発 行 して い た 『榮養 研 究 所報 告 』 で あ る。 さて 、明治 の 終 わ りか ら大 正期 に か け て、わ が 国 の栄 養 研 究 は国 家 に よる保 護 と資金 提 供 を得 て本 格 化 して い た。 そ れ まで の研 究 が軍 医 や 衛 生試 験 所 の技 師 、 あ る い は各 大 学 の 医学 ・生理 学 ・衛 生 学 な どの研 究 者 に よっ てい わ ば職 務の片 手 間 にお こな われ て きた の に たい し、 大正 期 以 降 、 それ は 「 栄養 学 」 とい う独 立 した 自然 科 学 の一 分 野 に な っ た(く わ しい こ とは 次節 で 述 べ る)。佐 伯 矩 とい うの は 、世 界 初 の 国立 の栄 養 専 門機 関 とな った 内務 省 榮 養研 究所 の開 所 に尽 力 し、 大 正 一 〇年 の開 所 の さい に はそ の初 代所 長 をっ とめた 人物 Kyoto Journal of Sociology VS / December. 2000 127 村 田:栄 養 を め ぐ る知 と ジ ェ ン ダ ー で あ る。 佐 伯 の言 説 を分 析 して ゆ く うえで 興 味 深 い の は 、彼 が 単 な る一 科 学 者 と して で は な く、 統 治者 に き わ め て近 い 立場 か ら栄 養 学 の 重 要性 を うった え つ づ け て いた こ とで あ る。佐 伯 に とっ て 、 栄 養 学 とは、日本 が近 代 国家 と して や っ て ゆ くた めの鍵 を に ぎ る学 問 で あ った。 佐 伯 に よれ ば 、栄 養 研 究 は 、 単 に 「 生 物 学 上 の 必要 」 か らの み求 め られ る もの で は ない。 そ れ は 、「 社 会政 策 上 の 必 要 」、「 食 糧 政 策 上 の 必 要」、「 体 格 体 質 改 善上 の必 要 」、お よび 「 科 学 の精 華 と して の必 要 」[佐伯 矩 、同:九]と い う観 点 か ら して も、や は り同様 に不 可 欠 な も のだ と佐 伯 は うった えた 。 な かで も、 栄養 学 が に よっ て解 決 が可 能 で あ る と佐 伯 が か ん が え た の は、 明治 中期 か ら つ づ い て い た食 糧 不 足 の 問題 で あ る。 そ の 背 景 に は 、人 口増 加 率 に米 生 産 率 の伸 び が 追 い つ か な い とい う根 本 的 な 問題 に くわ え、 米 穀 市場 の未 整備 の 問題 、 あい つ ぐ凶作 の問題 、 明 治 期 に 日本 がお こな ったふ たつ の 戦 争 の影 響 な どさま ざま な こ とが らが 関 与 して い た。 米 価騰 貴 は大 正 に入 って も緩 和 され る こ とは な く、 と くに 地方 の貧 農 お よび都 市 部 下層 賃 金 労働 者 階級 の生 活 は圧 迫 され て い た。 政府 は 、明 治 五年 以来 っ づ けて い た 米 の輸 出 を輸 入 に き りか え対 処 に あた っ た ほか 、農 商 務 関 連 の諸 省 庁(明 治一 四年 農 商 務 省 、大 正 九年 農 商 務省 食 糧 局 、 同年 国 立 工業 試 験 所 内 食 料研 究所 な ど)を 設 置 し、食 糧 流 通 の正 常 化 を は か って い る。 しか し、 それ に もか か わ らず 、大 正 年 間 に は各 地 で未 曾 有 の米 騒 動 が 勃発 した。 こ う した状 況 にお い て、 当時 「 国 家 の 学 」 と して 政 府 か ら保 護 を うけて い た諸 学 問 は 、 食:糧問題 解 決 にむ けて積 極 的 な 議 論 を お こな って い る。 た とえ ば、 経 済 学 の分 野 で は 、家 計 総支 出 に対 す る食 物 支 出 の割 合 で あ る 「 エ ン ゲル係 数 」 の概 念 が 導 入 され 、明 治 の 終 わ り頃 か ら く りか え し世帯 単 位 で の 「 家 計調 査 」 が 実施 され て いた 。 権 田保 之助 が大 正 八年 に お こな った 職 工 お よび小 学 校 教 員 家庭 につ いて の 家 計調 査 は有 名 だ ろ う[高 木 和 男 、一 九 七人:三 四一]。 そ して 、経 済 学 とい う学 問が 低 所 得者 層 の 「 生 活 費 問題 」 を特 化 して あ つ か っ たの に 対 し、栄 養 学 は 、 同 じ問題 に く栄 養 〉 とい う観 点 か ら光 をあ て た のだ った。 佐伯 は、 「 衣 食 住 中食 の改 善 は比 較 的簡 単 且的 確 に して 生活 安 定 の基礎 を為 す 」[佐 伯 矩 、 同:九]と い う事 実 に着 目 し、栄 養 学 こそ が 国 を 救 い うる とか ん が え た の で あ る。 佐 伯 は 、 具体 的 に 、食 糧 問 題 解 決 にむ け て の さま ざま な研 究 をお こな った。 そ の成 果 の ひ とつ が 、 「 毎 回食 完 全 」のル ー ル で あ る。佐 伯 は、栄養 成 分 は一 日の うち で どの よ うに配 分 して 摂 取 す るの が もっ と も効 率 的 で あ るか とい う問 い を立 て 、 ラ ッ トや 家 兎 を も ちい た つ ぎの よ うな 実験 をお こな っ た。 そ こ で は、 あ らか じめ飢 餓 状 態 に置 い てお い た数 匹 の家 兎 に、 家 兎 に とって の 完 全 な栄 養 食 で あ るオ カ ラが 二通 りの や り方 で あ た え られ る。A群 京都社 会学年報 箪8号(2000) 128 村 田:栄 養 を め ぐる 知 と ジ ェ ン ダ ー の兎 には 、オ カ ラに存 す る栄養 成 分(粕 ・蛋 白質 な ど)を 等 分 に まぜ こんだ も のが 朝 ・昼 ・ 夕 の三 回 に 分 け て あた え られ 、B群 の 兎 に はそ れ らの 栄養 成 分 の うち一 種類 の み を朝 に、 他 を夕 に とい うふ うに偏 っ た あ た え方 が な され た。 そ の 結 果 、 両群 の あい だ に は い ち じる しい体 重 増加 量 のひ らきが観 察 され て い る。 む ろん 、 三 回 それ ぞれ の食 餌 が均 等 で あ った ほ うの グル ー プ が よ りよい 成長 を遂 げた の で あ る[『榮 養研 究所 報告 』、第 一 〇巻 ・ 第 一 号]。 こ う して 、佐 伯 は毎 回 の食 事 を完 全 に して ゆ く こ とが 食 糧 を もっ と も節 約 す る こ とにつ な が る と結 論 づ け 、 「 毎 回食 完 全 」 とい う主 張 をお こ な った ので あ る。 ま た 、 同様 の 目的 か ら、佐 伯 は 「 経 済 的 献 立」 とい うもの を考 案 して もい る。 収 入 の少 な い家庭 向 け に考 案 され た この献 立 が じっ さい に どの よ うな もの で あっ た か 、次 に一 例 を あ げ てお こ う。 (甲)「 高 債 の 献 立 」 朝食 小 カ ブ の 味噌 汁 浅 草 海 苔 佃煮 昼食 ク ワイ と葵 イ ン ゲ ン 夕食 ア イ 鴨 と芹 お ツユ 牛 肉の 醤 油煮 八 ツ頭 の 甘煮 シ ャ コの 天 プ ラ (乙)「 経 済 の献 立」 朝食 大根の味噌汁 焼海 苔 昼食 ホ ウ レン草 の ホ ワイ ト煮 サハ ラ の付 焼 夕食 精進 汁 ヒ ラメ の オ ラ ンダ揚[佐 伯 矩 、 同:一 一 三 一四] 大根の フロフキ 各 献 立表 に は 、三 人 分 の調 理 に必 要 な食 材 名 とそ れ ぞれ の使 用 数 量 、 蛋 白質 量 、 温 量 、 価 格 が 明記 され てい る。(甲)が 一 日約 三 円六 〇 銭 の経 費 を要 す るの に 対 し、(乙)の 「 経 済 の献 立 」 は お よそ 半 分 の 経 費 で 作 られ る こ とに な っ て い る。 こ の献 立 は 、 単 に価 格 とい う観 点 か らだ け で な く、栄 養 価 とい う点 に お いて も経 済 的 な もの とな るよ う計 算 され て い た。 とい うの も、 栄養 分 が必 要 な量 を超 え て摂 取 され た 場 合 に は 、そ れ を消 化 ・排 泄す るた め に 、体 内 にお い て余 計 なエ ネ ル ギー が かか って しま う。 佐伯 は、 「 多 く摂 取す れ ば多 く排 泄 し、少 な く摂 取す れ ば節 約 が 之 に応 じて 講ぜ らる」[佐 伯 矩 、 同:七 二]と して 、 こ うしたエ ネ ル ギー の節 約 を もめ ざ した の で あ る。 よ うす る に 、 こ こで確 認 して お きた い の は以 下 の こ とが らで あ る。 わ た した ち が分 析 の 対 象 とす る明 治 三 〇年 代 か ら大正 に か けて 、(大正 期 に頻 発 した米 騒 動 に象 徴 され る)食 糧 Kyoto Journal of Sociology VE / December. 2000 129 村 田:栄 養 を め ぐ る知 とジ ェ ン ダー 不 足 とい う政 治 的 不祥 事 へ の対 処 を 目的 に 、一 般家 庭 へ の栄 養 学 的 介入 がは じめ られ た。 栄 養 学 者 が 家庭 の主 婦 にお しえ よ うと した のは 、 か ぎ られ た食 料 ・か ぎ られ た食 費 の範 囲 内 で 、い か に 家族 の生 命 を保 持 して ゆ く こ とが 可能 で あ り、 また 必 要 で あ るか とい うこ と で あ る。 佐 伯 の こ とば を借 りれ ば 、 高価 な食 材 を購 入 しな く とも、 栄養 学 を学 び さえす れ ば、 「 同 一 の成 分 と同 等 の 榮養 価 」[佐 伯 矩 、同:一 一 二]を 得 る こ とが で き るの で あ る3。 そ の 実践 は、 ひ ろ い意 味 で 、 近 代 に誕 生 した合 理 的 な家 庭 の管 理 技術 のひ とつ で あ っ た と い うこ とが で き る だ ろ う。 2真 理の配分 をめ ぐって 一女性的知識の無効化一 以 上 が 、 わが 国 に お け る栄 養 学 誕 生 の お お ま か な経 緯 で あ る。 ただ し、栄 養 学 に 固有 の ジ ェン ダー 的 な 主体 形 成 の作 用 に つ い て か んが え る と き、 それ を近 代 に誕 生 した数 あ る女 子修 養 科 目の ひ とつ 、数 あ る家 庭 の 管理 技 術 の ひ とっ と して位 置 づ け るだ けで は じ ゅ うぶ ん で は な い。 冒頭 で も述 べ た よ うに 、 国家 主 義 体 制 の確 立 が め ざ され た 明治 三 〇 年 代以 降 、 日本 人 の 食 事 の風 景 もお お き く変 わ った。 い くつ か の歴 史研 究 に よっ て も指 摘 され て きて い る よ う に 、 ごは ん を よそ うく母 〉 のす が た を中 心 に、 家 族 が つ どい 、楽 しみ な が ら食 事す る風 景 が誕 生 した の で あ る[石 毛 直道 、一 九 九 〇年 、森 本 隆子 、 一 九 九 七年 ほ か参 照]4。 3こ れ らの 知 見 は 、榮 養 研 究 所 に 常 設 され て い た 献 立 展 示 の コー ナ ー の ほ か 、活 字 を 中心 とす るメ デ ィア によって 普 及 した。とくに米 騒 動 直 後 の 大 正 七 年 九 月 の 「 安 価 料 理 講 習 会 」(榮養 研 究 所 主 宰) に は 、佐 伯 の 「経 済 の 献 立 」を 取 材 す るた め 、ほ とん どの 主 要 新 聞 が つ め か け て い る。同様 に 、家 計 簿 を普 及 させ た ことで 知 られ る『主 婦 之 友 』で も、「家 庭 料 理 の 一 週 間 の 献 立 」[大正 一 三 年 七 月]、 「人 は 一 日何 銭 で 生 活 し得る か 」[大正 一 四 年 七 月]と い った 特 集 が ほ ぼ 毎 号 組 まれ た 。また 、『婦 人 之 友 』で は 、費 用 三 五 銭 、五 人 家 族 とい う設 定 で 読 者 か ら一 週 間 分 の 献 立 アイデ ィア が 募 られ 、材 料 の 選 定 や 食 費 の 繰 りまわ し法 に っ い て 専 門 家 らが 審 査 した[加 藤 秀 俊 、一 九 七 七:一 二 六]。い ず れ も、大 正 期 に は 二 〇 万 部 の 発 行 部 数 を ほ こって い た 婦 人 雑 誌 で あ る。 4森 本 隆子 は 、 石 毛 な どの 先 行 研 究 を参 照 しつ つ 、 「 近 代 家 族 は く ご はん 〉 と とも に誕 生 す る」[森 本 隆 子 、 一 九 九 七:二 四 三]こ とを次 の よ うに 主 張 した。 森 本 に よれ ば、 旧来 の家 庭 で は、 各 自が ひ とつ づ つ 小 さな 箱 型 の お 膳 を所 有 し、食 事 どき に な る と 「 銘 々 の身 分 に 応 じて 」料 理 が 配 分 され るス タイ ル が 一般 的 で あ った 。 そ れ が 明治 三〇 年 代 ご ろ か ら 「ち ゃぶ 台 」 とい うス タイ ル に とっ て か わ られ る。 明 治 四 〇 年 に 出 版 され た 漱 石 の 処 女 作 『吾 輩 は猫 で あ る』 の挿 し絵 には 、ち ゃ ぶ 台 の 周 囲 に た わ む れ る 子供 た ちの す が た が 、 大 正 三 年 の 『心 』 に は、 若 い 「 先 生」 夫 婦 が 、 客 を 交 え て 楽 しく食 卓 を か こむ す がた が そ れ ぞ れ 描 写 され て い る(「先 生 の奥 さん」は 、下 女 を 立 たせ て 、みず か ら給仕 の役 をつ とめ る)。 や が て 大 正 か ら昭 和 に か け て 、 「ご飯 の よそ い 手 で あ る主 婦 が 、華 奢 な く 妻 〉か ら貫 禄 に満 ち た く母 〉へ と風 貌 を変 化 させ 」[同:二 四 八]と 森 本 は 分 析 して い る。 京都社会学年報 第8号(2000) 130 村 田:栄 養 を め ぐ る知 と ジ ェ ン ダ ー で は 、 じっ さい に人 々 が こ う した 変容 を体 験す るに あ た っ て、 栄養 学 とい う学 問 は どの よ うな貢 献 を して き た のだ ろ うか。 と りわ け く母 〉 とい うジ ェ ンダ ー の誕 生 と栄養 学 の誕 生 とは 、 相 互 に い か な る緊 張 関係 を は らみ っ つ 進行 して きた 歴 史 的 プ ロセ スで あ っ た のか。 本 節 以 降 、栄養 学 のテ クス トを女性 の身 体 使 用 お よび 自己意 識 の形 成 に かん す る政 治 的 ・ 道 徳 的 テ クス トと して 読 み 替 え 、言 説 分 析 をお こな っ て ゆ く。 は じめ に考 察 され るの は、 栄 養 学 の誕 生 に よ る女 性 の実 践 的 知 識 の無 効 化 とい う事 態 で あ る。 佐 伯矩 とい う人 物 が 、わ が 国 にお け る栄養 学 の誕 生 に 、主 導 的役 割 を果 た して きた こ と につ いて は す で に述 べ た。佐 伯 は 、明治 九 年 に代 々っ つ い て い た愛 媛 の医 師 の家 に生 まれ 、 京 都 帝 国 大 学 医化 学 教 室 を 卒業 した の ち、 明治 三人 年 には 米 国工 一 ル 大 学 大学 院 にて 生理 学 ・生 化 学 ・衛 生 学 ・細 菌 学 を お さめ てい る。 そ して 、当時 日本 国 内 に噴 出 して い た さま ざ ま な社 会 問題 が 、 「 い ずれ も栄養 学 をお い て解 決 で き ない 」[佐 伯 芳 子 、 一 九 八 六:一 四] とい う確 信 を得 た の ち、 明 治 四十 四年 に帰 国 し、以 後 栄養 研 究 に うち こん だ。 大 正 三 年 、 佐 伯 は私 財 を.なげ うって 私 立 榮 養 研 究 所 を設 立 して い る。 こ こで着 目 した い の は 、 当時 自然 科 学 と して 正式 に は認 め られ て い な か った 栄養 研 究 を 「 栄 養 学 」 と して周 囲 に承 認 させ るた め に、佐 伯 が さ ま ざま な努 力 をお こな わ な けれ ば な らなか っ た こ とで あ る。 明治 半 ば の時 点 で は 、栄養 学 の基 幹 とな る 「 栄養 」 の語 の 用 法 さ え ま ちま ちで 、英 語nu面tion/nutdmentの 訳 語 と して 「 養分 」 「 滋養」 「 滋養 物 」 「 エキス」 な どの 表 記 が 区別 な く用 い られ て いた[江 原 絢 子 、一 九 九 八]。 また 、 当時 、栄 養 研 究 は 西 欧 の 医学 学 会 にお いて も独 立 した 自然 科 学 の一 分 野 と して認 め られ ては い な か った 。 それ は 、栄 養 研 究 が 、 固有 の 学 会お よび 学 術 雑 誌 を もた な い 、 半端 な科 学 で あ る こ とを意 味す る。 そ の た め 、大 正 七 年 、 佐 伯 は 国 定 教 科 書や 内 閣 印刷 局 の官 報 ・広 報 に もちい られ て い た 表 記 をす べ て 「 栄 養 」 に統 一 す る こ とを文 部 省 に建 言 した[佐 伯 芳 子 、同:二 三]。 佐 伯 は ま た 、国 立 の栄 養 研 究機 関 の設 立 を政府 にっ よ く要 請 しっ づ け た。 大 正 九 年 に は 「 国立榮 養 研 究 所 設 立建 議 案 」 の 上 提 の た め にみ ず か ら国会 へ も出 向 き、 同年 九 月 、 内務 省 榮 養研 究 所 の開 所 が 国会 で決 議 され て い る。 翌 年 には世 界 に先 駆 け て 「日本 栄 養 学 会 」 も設 立 さ れ た。 と ころ が 、 国家 の 財 政 が 緊迫 す るな か で 、 この新 奇 な科 学 のた め に国 費 を投 入 す る こ と は なか な か周 囲 の理 解 を得 られ る もの で は な か った とい う。 当時 、佐 伯 に対 して は、 他 の 科 学 者 らか ら、 「 料 理 に関係 す る とは博 士 の 面汚 しだ 」、 「 佐 伯 喰ひ もの 博 士 」[佐 伯 芳 子 、 同:三 九]と い った 陰 口が き かれ てい た とい う。 大 正 一 〇年 の 内務 省 榮 養研 究所 開 所 式 の 席 で も、 こ,のよ うな研 究所 は ま っ た く不 要 で あ るか らつ ぶ して しま え とい っ た 主 旨の 発言 Kyoto Journal of Sociology VS / December. 2000 131 村 田:栄 養 を め ぐる 知 と ジ ェ ン ダ ー が あ る有 力 な 科 学者 に よっ て な され た[佐 伯 芳 子 、同:三 三]。 こ う した批 判 は 、の ちに研 究 所 が廃 止 とな っ た 昭 和 一 五 年 まで 、 こ とあ る ご と に蒸 し返 され て い る。 昭 和 二年 、佐 伯 が 国 際聯 盟 保 健 部 の依 頼 で世 界 講 演 をお こな うこ とが 決 ま っ た ときに も、 講 演予 定 地 の ひ とつ で あ っ た在 ブ ラ ジル の 日本 人 科 学 者 か ら、政 府 に宛 て てつ ぎの よ うな 手 紙 が届 い て い た。 此 の次 は佐 伯 喰 物博 士 が来 るの で す が 、何 の為 め に政府 が こん な人 を よ こす の か 本 人 も亦 ど う云 ふ 気 で 来 る の か訳 が わ か りませ ん 、伯 国へ 派 遣 す るな らモ少 しなん と か 熱 帯 地 病 に縁 の あ る人 を送 っ て貰 い度 い もの で す 喰 物 博 士 じゃ 丸切 り問題 に もな りませ ん … … これ も内務 当局 か ら外 務 当局 の啓 蒙 が必 要 です 、御 所 の節 ど うか 頼 み ます[佐 伯 芳子 、 同:人 四] これ らの文 面 か ら読 み とる こ とがで き るの は 、栄 養 学 とい う耳 贋れ ぬ学 問 にた い し、 当 時 、人 々の あ い だ に根 強 い 不 信感 ・蔑 視 が存 在 して い た こ とで あ る。 そ う した 意識 の背 景 に は 、わ が 国 固有 の事 情 と して 、食 べ物 につ い て 男子 が とや か くい うこ とは 「 粋 」 で ない とす る旧 来 的 な武 士道 的禁 欲 の 思想 お よび性 的役 割 分 業 の意 識 が 関与 して い た。 「 ただの 日」「 ケ の 日」の料 理 な ど女 に任 せ てお けば よい こ とで あ り、男 子 が 一生 をか け て研 究す る に は価 しな い もの とか ん が え られ て い た の で あ る5。 そ れ が近 代 に はい り、栄 養 学 の 誕 生 に よって 、 突如 科 学 の こ とば に よ って 語 られ る対 象 とな った 。 そ れ は 、 ジ ェ ン ダー とい う観 点 か ら と らえ か えせ ぱ 、 従来 「 女性 の もの」 とさ れ て きた 行 為領 域 に 、男性 科 学 者 が踏 み 込 ん で くる こ とを意 味 して い る。 栄養 学 の誕 生 以 降 、男 性 科 学 者 のみ が 、食 べ る こ とにか ん す る権 威 あ る言 説 を うみ だす ポ ジシ ョンにす え られ た の で あ る。 この と き 「 真 理 」 の領 域 か ら排 除 され た の は 、た ん に女 性 の知 識 の み で は なか った。 こ こで は立 ち入 らな い が 、同 時 に東 洋 医学 的 な 「 食物 本 草」 の知 識 、 お よ びそ れ に も とつ い て お こな われ る 「 食 養 生 」 の 実践 もまた 、女性 が 日々習 慣 的 に身 に っ け てい た 知識 と とも に真 理 の 領域 か ら排 除 され た の で あ る。 佐 伯 に とっ て 、 これ らは 「 単 だ 自己一 人 の 体験 に 遍 重 し」た もの か 、あ るい は 「 素人 流 の臆 断や 半可 通 の学 問 」[佐 伯矩 、同:七]に 5貝 原 益 軒 の 『養 生 訓 』で は すぎな 、例 外 的 に 男 性 に よって 食 行 為 が論 じられ てい る。しか し、栄 養 学 とは こ とな り、『養 生 訓』は 他 の 身 体 的 諸 活 動(睡 眠 や 入 浴 な ど)との ゆ るや か な つ な が りにお い て 食 行 為 を とらえる。また 、『養 生 訓 』の 場 合 、実 践 の 主 体 となるの は 武 家 や 富裕 な 商 人 層 の 男 性 にか ぎられ て い た[貝 原 益 軒 、一 九 六 一]。 ようす るに 、贅 沢 をしない か ぎ り、庶 民 の 食 行 為 は どの ように お こな わ れ て い てもよか っ た の で あ る。 京都社 会学年報 第8号(2000) 132 村 田:栄 養 を め ぐ る知 と ジ ェ ン ダ ー い。 と くに 一般 的 主婦 の栄 養 観 念 につ い て佐 伯 はつ ぎ の よ うに念 入 りに非 難 した。 誤 れ る榮 養 観 念 。榮 養 の改 善 は大 食 ・飽食 ・過 食 ・美 食 ・刺激 食 ・高 価食 品 ・特殊 食 品 に よ って 得 らるる もの との誤 解 に基 くもの で あ る。過 ぎた るは及 ば ざるが 如 し とい う浬 言 は 榮養 上 に 最適 切 に 之 を適 用 す る こ とが 出来 る[佐 伯 矩 、 同:七 〇] この よ うに一 般 的 主 婦 の 「 誤解 」 が列 挙 して 示 され た うえ で、 と りわ け 「 過 食 」や 「 飽 食 」とい っ た 時宜 に合 わ な い不 経 済 な行 為 は、早 急 に改 善 され るべ き とされ た。 「 人 は平 素 必 要以 上 に食 ひ 過 ぎて居 る」 の で あ る。 そ う した改 善 の手 助 け とな るの が、 栄養 学者 のみ が 知 る、 「 人 の 要 求 す る最低 度 の榮 養 量」 で あ っ た[佐 伯 矩 、 同:六 ニ ー六]。 これ らの言 説 の 内部 で 、 ま た これ らの言 説 をっ う じて 、 女性 が 各 戸 の 台所 で編 み 出 し、 代 々つ た えお こな っ て きた 個別 の 工夫 や 経 験 的知 識 は、 す べ て 学 問 的 に は価 値 の な い もの と され た。栄 養 学者 が 、「 理論 的 」な もの 、「 真理 」に属 す る もの を知 って い るの に た い し、 女 が知 っ てい るの はっ ね に 「 実 践 的」 な もの、 「 誤 れ る」 もの で しか ない。E・ アー ドナ ー が 指摘 した よ うに、女 の発 話 は 、 同類 か ら同類 に のみ 語 りか け うる種 類 の発話 だ[E・ ア ー ドナー 、1972=一 九人 七:三 四]。それ は一 回 限 りの発 話 と して の み存 在 す る もの で 、栄 養 学 とい う科 学 に とっ て は 聞 き取 り不 可 能 な雑 音 で しか ない の で あ る。 よ うす る に、栄 養 学 の誕 生 に まつ わ る ジ ェ ンダー お よび ジ ェン ダー 化 の 戦 略 の第 一 の も の は 、食 行 為 の な か に性 差 に まっ わ るひ とっ の取 り決 め を成 立 させ る こ とで あ った 。食 行 為 につ い て 「 誤 謬 」しか知 り得 な い女 性 は、栄 養 学 の よ き クラ イ ア ン トか つ 実践 者 と して 、 これ まで 自分 が お こな って き たや り方 を よ く反 省 し、 改 善 して ゆ かね ば な らな い とい う取 り決 め で あ る。 3「 下女の仕事」か ら 「 聖者の戒行」ヘー 家事労働の高度化 ・専門化.. こ う して 、 大 正 期 以 降 、家 庭 にお け る食 事 の風 景 は一 変 した。 た だ し、 変 化 は真 理 の領 域 か ら女性 を追 い 出す こ とだ け に終 わ りは しない。 そ こに は 、女 性 の 自我 実 現 が 希 求 され た 明 治後 期 か ら大 正 に か け て の よ り大 き な政 治 的 流 れ が むす び つ き、 さ らな る変 化 が もた らされ た。 女 性 は、 よ り産 出的 な や り方 で一 一 っ ま り、抑 圧 す るの で は な く、 彼 女 た ち の もて る能 力 や 自主 性 を じゅ うぶ ん に活 かす とい うや り方 で一 ポ ジ シ ョンへ と近 似 させ られ て い っ た の で あ る。 Kyoto Journal of Sociology VII / December. 2000 やは りく母 〉 とい う主体 的 133 村 田:栄 養 を め ぐる 知 と ジ ェ ン ダ ー 大 正 とい う時 代 が 「 女 の 時代 」 で あ った とい うの は鶴 見俊 輔 の言 だ が6、 これ か ら分 析 を お こな っ て ゆ く雑 誌 記 事 を み てい る と、 それ は む しろ 「 女 に か んす る言説 」 が氾 濫 した 時 代 で あ った と言 い 換 え た ほ うが よ り適 切 で あ る よ うに感 じ られ て くる。 多 くの歴 史研 究 が 明 らか に して き た よ うに 、開 国 以 降 、理 想 と され るべ き女 性 像 はつ ね に揺 らぎ の な か に あ った。 開 国直 後 、 封 建 的 な 男尊 女 卑 の 考 え方 で は もはや 通用 しない 、 わ が 国 の女 性 も も っ と外 に 出 て行 くべ きだ とす る言 説 が 聞 かれ は じめて い た。 や が て 、開 国 直 後 の喧 喚 が一 段 落 した の ち も、社 会 主 義 思想 の影 響 お よび普 通 選 挙 運動 の 高 ま りに う なが され 、「 婦 人解 放 」は 無視 す る こ との で きな い政 治 的 要 求 と して形 成 され て きつ つ あっ た 。 これ らは 、 当初 は 対外 情 勢 に敏 感 な 知識 人 階級 の あい だ に 限定 して 見 られ た動 きで あ った が 、大 正期 以 降 は あ らた に都 市 中間 層 の 女性 を取 り込 ん で拡 大 して ゆ く。そ して また 、 こ う した解 放 言 説 が 出て く る一 方 で、そ れ に対 す る反 動 的 言説 も付 随 して あ らわれ て いた。 伝統的 「 婦 徳 」 の重 要性 がふ た たび 強 調 され る の で あ る。 これ らの言 説 がふ く ざつ に絡 み 合 うな か で 、女 性 の 本 質 とは何 か 、 女性 にふ さわ しい職 務 は どの よ うな もの で あ るか に つ い て 、 男性 ・女 性 の 双 方 か ら、か つ て な か っ た ほ どの議 論 が 交 わ され た の が 大正 とい う時 代 で あ った[牟 田和 恵 、 一 九 九 六=一 九 九 人 ほか 参 照]。 で は、 大 正期 に栄 養 学 とい う専 門科 学 が 成 立 した こ とは 、 これ ら一 連 の 政 治 的議 論 を ど の よ うに条 件 づ け、 また 、結 果 と して 、 女性 的 自由の 可能 性 を どの よ うに制 限 ・認 可 して きた の だ ろ うか。 本 節 で は 、女 性 解 放 をめ ぐる さま ざ まな や りと りのな か で 、食 べ る こ と の 学 問化 が どの よ うな役 割 を果 た して きた か を考 察 す る。 資料 と して 用 い るの は、 大 正期 層 に 刊 行 され た雑 誌 『女性 』 『文 化 生 活 』 な どで あ る。 この期 の言 説 に特 徴 的 な こ との 第 一 点 目と して 挙 げ られ る の は、 男 女 の職 分 を明確 化 し て ゆ こ うとす る動 きで あ る。 女 性 的 と され る一 連 の 行 為(い わ ゆ る再 生産 労働)は 、公 的 か つ男 性 的 な 行 為領 域 との比 較 に お い て 、「 家庭的」「 実践的」「 実 践 的 」 とい った 定 義 を な され る。 そ して 、 この 区別 を無 視す る もの一 る 「 新 しい女 」 の動 き一 明 治 四 四年 刊 行 の雑 誌 『青 踏 』 に象徴 され に た い して は 、 しば しばつ ぎ の よ うな批 判 が な され た 。 男 女 の 心 身 に根 本 的 の差 異 の あ る こ とを忘 れ 、専 心一 意 た ゴ男子 の真 似 をす る こ と ばか りを 目的 と し、そ れ が果 た して女 子 に適 当な こ とで あ るか 、或 は女 子 に最 も仕 甲斐 の ある こ とで あ るか を顧 み ず 、た ゴ男 子 の して居 る事 は 何 で も しや う、随 つ て 今 まで 女子 の仕 事 とされ て居 た事 は何 で も捨 て ㌧しまは うとふ や うな、狂 気 じみ た 6雑 誌 『女 性 』の 復 刻 版 の 序 文 として 書 か れ た 、「 もうひ とつ の 女 の 時 代 」より。 京都社会学年 報 第8号(2000) 134 村 田:栄 養 を め ぐ る知 とジ ェ ンダ ー 事 を 目的 とす る所 謂 「 新 しい 」と称 す る女 が随 分 少 な く無 い[野 上敏 夫 、一 九 二二: B一 九] こ こで 、「 女 子 に 最 も仕 甲斐 の あ る こ と」 と述 べ られ て い るの は 、家 事 や 育 児 とい っ た 旧 来 的 な女 性 的 職 務 の全 般 で あ る。同様 の 主張 は、 「 女性 の成 就 す 可 き生 活 革命 」 と題 され た 雑 誌 記事 で は 、 つ ぎ の よ うに言 い換 え られ た。 男 の進 め る文 明 は 、華や か に相 違 無 く、 ヒ ロイ ツ クで あ る こ とは争 へ な い が 、それ らは余 りに ロマ ンチ ツ クだ 。之 に反 して女 の進 め た文 明 は常 に 実 際 的 だつ た。 女性 は何 ん な場 合 に も地 面 に足 をつ け て ゐ る。女子 の文 明 は飛 行機 を 作 っ て空 飛 ぶ 鳥 の 真 似 を仕 よ うとす るので はな い。又童 蒙 を浮 べ て鯨 の眠 りを驚 か相 といふ ので は な い。女性 は人 々 を して如 何 に暖 か く着 せ 如 何 に美 味 く食 べ させ 如何 に居 心 地 よ く住 ませ るか に 、 其 の魂 を捧 げ て き た[生 方 敏 郎 、一 九 二 三:九 七] こ こで は 、男 性 的 な 文 明 が 「 華 」 の部 分 で あ るな ら、女 性的 な 文 明 は 「 実 」 の部 分 、つ ま り実生 活 にか か わ る こ とが らで あ る と区別 され て い る。 女性 は 、 これ まで どお り、家 に い て 、家 族 の 身 の ま わ りの 世 話 だ け して いれ ば よい のだ。 た だ し、 ここで 重 要 な の は 、女 性 の 労働 が けっ して 下位 に はお かれ てお らず 、 む しろ美 化 して語 られ て い る こ とで あ る。 この 記 事 で は 、 「 女性 の 自 ら職 分 と思 つ てや つ て 来 た 労 役 は 、何 と尊 い も の で は な い か 」 [同:九 八]、 「 下 女 の仕 事 は之 聖者 の戒 行 で あ る」[同:九 九]と 女 性的 労働 へ の賛 美 がひ と し き り述 べ られ て い る。 この よ うに、 い っ た ん は男 女 の職 分 が 区別 され た うえ で 、女性 的 労働 に高 い価 値 付 与 が な され た こ とが この期 の言 説 の 第 二 の特 徴 で あ る。 それ は 、 つ ぎに 引用 す る永 井潜 の言 説 に も共 通 して み られ る レ トリッ クで あ る。 男 女 の 仕 事 の性 質 は 、各 其 の 趣 を 異 に して居 て 、原 始 人類 よ り現 代 文 明 人 に 至 る迄 、 男 は外 を 主 と して争 闘 的 で あ り、男 の 働 が 重 く して間 隔 的 で あ るに反 して 、女 の働 は 軽 く して持 続 的 で あ るが 、其 の大 本 に於 て、此 の 両者 は 同様 に 取 り扱 は るべ き もの で、 決 して 其 の 間 に 大 な る懸 隔 径 底 を附 す べ き もの で は な い[永 井潜 、 一 九 二 二:九] さ らに 、 こ うした 「 女 の働 」 が い か に尊 く、重 要 な もの で あ るか は 、 当時理 想 と され て い た 西洋 的 家 族 の あ り方 とか さね て論 じ られ る こ とが多 か った。大 正 二 二 年 の 『文化 生活 』 Kyoto Journal of Sociology VID/ December. 2000 135 村 田:栄 養 を め ぐ る知 とジ ェ ン ダー に掲 載 され た 「 消 費 生 活 の 浪 費 問題 」 と題 され た記 事 で は 、女性 の あ るべ きす が た につ い て 、「 単 に内助 の功 を尽 した の み で満 足す べ き もの で は な い。一歩 を進 めて 協力 、又 は合 同 の勢 力 に よつ て単性 で は達 し得 な かつ た 新 天 地 を 開拓 し、 結 婚 生活 の進 展 をなす 処 に彼 の 女 の任 務 が存 在 す る」[森 本 厚 吉 、 一九 二三a:七]と い うき わ めて 西洋 式 の夫 婦観 が 、森 本 厚 吉 とい う人 物 に よ って 主 張 され た。 森 本 は 、佐 伯 矩 の 「 栄養 学 的節 約 」(市 価 ・栄 養 価 の 両 面 か ら節 約 を こ ころ が け る こ と) とい うか ん が え にっ よ く賛 同 を示 し、 そ の 著 作 の な か に も しば しば佐 伯 の知 見 を引 用 して い る経 済 学者 で あ る。 近 事 益 々研 究 の歩 を進 め っ 》あ る榮 養 學 は 、 吾 々 の家 庭 生活 又 は 社 會 生 活 の 上 に 、 色 々 な教 訓 を開 展 して 、其 実 行 を促 して 居 る … …現代 の如 く最 大 多 数者 の生 活 が経 済 逼迫 に苦 しん で 居 るの み な らず 、 自 己の 日常食 物 消 費 で さへ 科 學 的 に 充 実 され て居 な い 時 に は、 当然 之 等 を全廃 し、其 冗 費 を 以 て三 度 の食 卓 を して一 層 滋養 に富 め る経 済 的食 品で 、 充 実せ しめ な けれ ばな らぬ で は あ る まい か[森 本 厚 吉 、 一 九二 三b:四 一 七] 森 本 に よれ ば、 日本 人 の 夫 婦 の 多 くは 、 い ま だ 「 家 庭 の権 威 で あ るべ き主婦 が恰 も高 等 女 中 の如 き状 態 で毎 日随 屋 に燥 っ て家 事 に忙 殺 され て居 る と云 ふ が 如 き」[森本 厚 吉 、一 九 二 三a:五]あ りさま で 、 それ は非 効 率 的 で あ る こ とはな は だ しく、彼 が 理 想 とす る西 洋 モ デル の 「 文化 生 活 」 の 対 極 に位 置す る とい って よい だ ろ う。 した が っ て、 女性 が経 済 学 や栄 養 学 をま な ん で家 事 を効 率 よ く と り しき るすべ を身 につ けれ ば 、夫 婦 が語 りあ う時 間 も生 まれ 、 夫婦 関係 が 円滑 に ゆ く と森 本 は主 張 した。 こ こで は 、食 の合 理化 運 動 とい うま っ た く別様 の政 治 的 動機 に よっ て は じめ られ た運 動 の なか に(第 一節 でみ て きた よ うに、 食 の合 理 化運 動 のそ もそ もの 目的 は食 糧 問題 の解 決 で あ っ た)、い っ の ま にか 女性 に特 定 の ジ ェン ダー 的 自 己形 成 を強 い る主 張 が混 じっ て き て い る の が わ か る。 同様 の 主 張 は しば しば 女性 自身 に よ って もな され た。大 正 一 〇 年 の 『文 化 生 活』で は、「 料 理 の根 本 精 神 」 と題 して 、 手 塚 か ね 子 が つ ぎ の よ うな主 張 をお こ な っ てい る。 一般 の女 學 生 、或 は家 庭 の 主 婦 が 、存 外 料 理 といふ も の を軽 視 し、殊 に 思想 的 傾 向 を 帯 び た女 學 生 等 が 、料 理 といふ もの を 軽視 してい るの は 、明 らか な現 象 で あ りま して 、 高 尚 な もの は もっ と別 に あ る、料 理 は 面倒 く さい とか誰 で も出来 る もの とかい る考 か ら しま して 、下 品 とま で は言 は な く とも、料 理 に封 して漠 然 とな が ら一種 ど うで もい 京都社会学 年報 第8号(2000) 136 村 田:栄 養 を め ぐる 知 と ジ ェ ン ダー い といふ 軽 視 した 心持 の動 い て ゐ る こ とは事 実 で あ ります 」[手塚 か ね子 、一 九 ニ ー: 一 九] 手 塚 はや は り、西 洋 的 な 「 ホ ー ム 」 を理想 と して、若 い女 性 に よ って 食行 為 が ない が し ろ に され て い る現 状 を な げ き 、「 これ か らの女 子 は料 理 の い か に尊 む べ きか を積 極 的 に知 ら しむ べ きで あ りませ う」[同:ニ ー]と 主 張 した7。 ただ し、 手塚 が め ざ した の は、 経 済 的 とい うこ と よ りはむ しろ 、 明 る く楽 しい食 卓 で あ る。 手塚 に よれ ば、 わ が 国 にお い て は 、 「 食 事 に 楽 し く皆 で 向 ひ 、そ の 生 を享 楽 す る といふ こ とは 最近 ま で決 して 無 か つ た 」[同: ニ ー]。 しか し、 「 人 間 の摂 取す る食 物 が 科 學 的 に研 究 され て 来 た」[同:一 九]今 日、そ う した 禁欲 倫理 観 か らは解 き放 た れ 、 家族 が くっ ろげ る楽 しい食 卓 を心 が け な くて は な らな い。その実現は、「 料 理 の心 得 あ る聡 明 な る一 家 の 主婦 」[同:二 二]の 肩 に か か って い る と手 塚 は しめ くく った。 こ うして分 析 して き た一連 の言 説 は 、一 見 した と ころ、ふ たた び 女性 を家 領 域 に 閉 じこ め よ うとす る保 守 一 色 の動 き の あ らわれ で あ っ たか に思 われ る。 しか し、牟 田 も指 摘 して い る よ うに 、大 正 期 に あ らわれ た あ らた な女 性 像 は 、 かつ て欧 米 人 を して 「日本 の花 に は 香 りが な く、 日本 の 婦人 に は力 が な い 」 と言 わ しめ た 、 か ぼそ く従順 な 良妻 賢 母 的 女性 像 へ の 回 帰 で は決 して な い。 そ こで は 、女 性 的 職 務は 男性 的 職 務 と等 しく価 値 あ る もの と さ れ 、 さ らに女 性 には 、み ず か ら主 体 的 ・積 極 的 に家政 に参 与 して ゆ く こ とが も とめ られ た の で あ る[牟 田和 恵 、一 九 九六=一 九 九 八]。過 去 の女性 が 、 「 高等 女 中」 あ るい は 「 下女 」 と して 家長 の命 令 に た だ服 従 して きた とす れ ば 、現代 女 性 が お こな う実践 は、「 聖者 の戒 行 」 で あ り、 「 消 費 主 宰 の 大任 」[河 津 逞 、 一 九 ニ ー:五]で あ っ た。 栄 養 学 の 誕 生 とい う事 態 は 、この よ うに女 性 的 労働 の価 値 を言説 的 に称 揚 して ゆ く明治 末 期 か ら大正 期 にか け ての 政 治 的 流れ か ら独 立 して あ った もの で は な い。 この 時期 、突 如 科 学 の よそお い を もっ て誕 生 した 栄養 学 とい う学 問 は 、女 性 の 再 生産 労 働 の 基 幹 で あ る食 物 管理 の営 み を高度 化 し、そ の 専 門性 を高 め る こ とに貢 献 した。そ れ に よっ て 、 「 過去」と の 比較 にお い て 、女 性 が こ う した職 務 に は げむ こ との 「 今 日」 的意 義 や 重 要 性 を、 よ り説 得 的 に語 り出す こ とが 可 能 とな っ た の で あ る。 7明 治 三 二年 の高 等女 学校 令発 令 お よび 同三 六年 の教 授要 目設 定のさい には 、従来 各種 女 学校 で おこなわれ ていた女子 教育 科 目のうち、とくに家庭 科 に力点 がお かれ た[大塚力 、一 九六 九:二〇 〇 一一]。また、内務 省榮養研 究所で は、「 最も進 歩 したる栄養 学上 の知識 を 日常生活 の実際 問題 に 結 びつ けて、明確 に之 を学修 せ しむ るところ」として 、栄 養学 校を併設 している。研 究所 主宰 の 「 栄養 講 習会 」の参加者 には、多 くの 中流家 庭 の主婦 お よび 子女 が参加 したという[佐伯 矩 、一 九二 六]。 Kyoto Journal of Sociology VE / December. 2000 137 村 田:栄 養 を め ぐる知 とジ ェ ン ダー 4女 性のか らだの表象にみる、〈母〉概念 とく栄養 〉概念の近似性 こ こま で の節 で は、栄養 学 の 誕 生 に ま つ わ るジ ェ ンダ ー/ジ ェ ン ダー化 の戦 略 につ い て、 順 に、真 理 の領 域 か らの女 性 の排 除 、 男 女 の性 的役 割 分担 の強 化 、女性 化 され た食 行 為 の 言 説 的称 揚 とい う観 点 か ら分 析 をお こな って き た。 こ こか らは 、 さ らに議 論 をす す め て 、 栄 養 学 の 基幹 とな る く栄養 〉概 念 そ の もの の な か に織 り込 まれ た ジ ェ ン ダー的 な意 味 生産 の 作 用 に つ い て考 察 を こ ころみ た い 。 そ れ を か んが え る手 が か り とな るの が 、栄 養 学 の言 説 にお け る 「 女 性 の か らだ 」 の 表 象 で あ る。 男 女 の 肉体 の あい だ に さま ざま な 差 異 を発 見 し、 それ らの差 異 に一 連 の文 化 的 意 味 を付 与 して ゆ くや り方 は、 む ろ ん時 代 や 文 化 に よっ て一 様 で は な い し、 また な に を もって 「 身 体 的 」領 域 と し、 な に を もっ てそ れ 以 外 の領 域(つ ま り 「 構 築 され た もの 」 の領 域)と す るか は 、 フェ ミニ ズム の 内部 で も なが い あ い だ論 争 の 的 で あ りつ づ けた。 こ こでそ の議 論 に立 ち入 る こ とは しな い が 、重 要 なの は 、 わ た した ちが あ た りま え の よ うに 「 身 体 」 と呼 ん で きた もの に は長 い歴 史 が あ る とい うこ と、そ して また 、「 身 体 」に付 与 され た この 非歴 史 的 外観 一 あ た か も太 古 か らず っ とそ うあっ た もの 、 社 会 的 ・言 語 的 構 築 の領 域 か らは 除 外 され た もの で あ るか の よ うな 自然 化 され た外 観一 こそ が 、今 あ る固 定 的 な ジ ェ ンダ ー 関係 の 存続 に大 きな 役割 を果 た して い る とい うこ とで あ る[J・ ス コ ッ ト、1988=一 九 九 二 、J.Butled993ほ か参 照]。 こ う した認 識 をふ ま えた うえ で 、具体 的 に佐 伯 矩 ら初 期 栄 養 学 者 の テ ク ス トにお いて 女 性 の 身 体 が どの よ うに表 象 され て きた か 、分 析 に入 ろ う。 第 一 に、 初 期 栄 養 学者 に とっ て 、食 行 為 を お こな う女 性 の身 体 は 、公 的 領 域 で の 諸 活動 に関 す るか ぎ りは さほ ど関 心 をひ くもの で は な か った。 そ の こ とは 、た とえ ば 明治 一 五年 にお こ な われ た 「日本 食 料調 査 」 の 調 査 方 針 に も あ らわ れ て い る。 こ の調 査 が 、兵 営 や 学 舎 、 商 家 な ど、 きわ め て男 性 的 な場 所 を対 象 にお こな わ れ た こ と につ い て はす で に述 べ た。 そ うした場所 は、 単 に 「 多 数 ノ平均 ヲ得 」 や す か っ た だ けで は な い。 そ こに は、 「 他 日枢 要 ノ地 位 二 立 テ社 会 ノ機 関 ヲ運 転 スル 者 」 の身 体 、お よび 「 将来 商 事 ノ振 否 二 関係 アルヘ キ ヲ予 想 」 され る者 の身 体 が 配置 され て いた か ら こそ調 査 対象 と して 選 ば れ た の で あ る[『衛 生試 験 所 彙 報 』、 第 二 号:二 三 一四]。 また 、 「 本 邦 人 の保 健 食 料 」 が論 じ られ た さい に も、 そ こで問 題 と され るの はつ ね に 男性 の身 体 で あ った。 「 体位 体 格 の向 上 」 とい う政 治 的要 請 との か か わ りで 、男性 が 一 日に どれ く らい の栄 養 素 を摂 取 す べ きか に つ い て 、身 長 や 体重 、労 働 程 度 や 体表 面積 とい っ た微 細 な差 異 を考 慮 に入 れ なが ら、 明治 大 正 年 間 をつ うじて盛 ん な議 論 が 交 わ され た の で あ る。 一方 、女 性 の 「 保 健 食 料 」 に か んす る記 述 は きわ め て少 ない 。 た と えば佐 伯 の テ クス トに 京都社 会学年報 第8号(2000) 138 村 田:栄 養 を め ぐ る知 と ジ ェ ン ダー お い て は 、「 女子 及 未 成 年者 は 大体 に於 て 左 の標 準 に 由 る」 とい う付加 的項 目 と して 、次 の よ うに述 べ られ て い るの み で あ る。 成 人 女 子 及 一 人 一二 〇 歳 男 児一 九割[佐 伯 矩 、 前 掲 書 、 六 七 頁] 「 九割 」 とは つ ま り、 男性 の摂 取 量 の 九割 とい うこ とで あ る。公 的諸 活 動 に関 す るか ぎ り、「 児 童 と同類 の もの」、 つ ま り労働 しな い者 の 範 疇 に入 れ られ る女 性の身 体 につ い て は 、 そ れ 以 上 、 どん な 立 ち入 っ た議 論 もお こな われ る こ とは な か っ た の で あ る。 と ころ が 、同 じ身 体 が 、とあ る一 事 を め ぐって は 高 い栄 養 学 的 配 慮 の 対象 とな った。 「 子 を産 む 」 とい う例 の イベ ン トで あ る。M・ ロザ ル ドが述 べ た よ うに 、 女性 とい う性 は 、 つ ね に 、急 激 に変 わ りゆ く外 的 ・社 会 的状 況 には 無 関係 な 生活 を送 る もの と して表 象 され て きた。 女 た ちの 生 に な ん らか の 変化 が見 出 され る とす れ ば、 そ れ は彼 女 の ライ フサ イ クル の諸 段 階 か ら演 繹 され る変 化 で あ るにす ぎな い。 と りわ けそ れ は 、特 定 の男 性 との性 的 ・ 生物 学 的 な絆 に よっ て規 定 され る変 化 で あ るの だ[M・ ロザ ル ド、1974ニ ー 九 八 七:一 五 四]。佐 伯 の主 著 『榮 養 』の な か の 「 妊 産 婦 の 榮養 」 と題 され た 箇 所 で は 、妊 娠 ・出 産 とい うイベ ン トをつ う じて変 化 す る女性 の身 体 が 、 栄養 学 的 見 地 か ら次 の よ うに段 階 的 に定 義 され て い る まず 、 女 性は 月 々排 卵 をお こな う。 そ れ は 、 佐 伯 に よれ ば 、 「 失 血及 び 榮養 分 割 愛 に 関 す る平 素 の練 習 」[佐伯 矩 、一 九 二 六:九 五]を お こな って い る状態 で あ る とい い 、ま だ こ の段 階 で は特 別 な 注意 を要 しな い。彼 女 は た だ、 「 与 え る」た め に 準備 を して い るだ け な の で あ る。妊 娠 初 期 のつ わ りにっ い て も同様 で あ る。彼 女 の か らだ は、 「 榮 養 上 か らは母 体 の 新 陳代 謝 の標 準 を低 下せ む 」[同:九 五]と い う内的 意志 の力 に した が い 、や が て 体 内 に育 って く る胎 児 の た め に 自身 の取 り分 を減 らす こ との準 備 を してい る にす ぎ な い。 っ つ い て、 妊 産 婦 の 身 体 にっ い て。 「 生 理 的 で あ る とはい え 妊娠 は 身 体 の新 陳代 謝 の上 に は各 方 面 に亘 りて異 常 を来す が 当然 で あ る」[同:九 五]と い い 、彼 女 の 身 体 に は高 い栄 養 学 的配 慮 が 必 要 とな る。 妊婦 の身 体 は、 と りわ け何 を 口にす るか にっ い て わ が ま ま な要 求 をお こな うもの と され る。 さ らに 「 妊 娠 進 む 」段 階 に な る と、 「 食 物 は性 状 に於 て愈 々完 全 な らむ こ とを期 」[同:九 六]し 、そ のわ が ま ま さの度 合 い は 増 大 して ゆ く。 この段 階 に な る と、不 消 化 物 や刺 激 物 を避 け る こ と、 あ るい は 「 滋 養 肝 油 」や 「 皮 下 榮養 法 」 な ど、 母 体 に 対す る さま ざま 具体 的処 置 が講 じ られ て い る。 しか しま た 、い ざ出産 とい う事 業 を終 えれ ば、女 性 の 身 体 はふ た た び 「 過 食 を慎 め」 と い う厳 しい 態 度 を もって 扱 われ る こ とにな る。なぜ な らそれ は、「 分 娩 に よ る復歴 の緩 解 に Kyoto Journal of Sociology VZ / December. 2000 村 田:栄 養 を め ぐる 知 とジ ェ ン ダー 139 よ りて食 事 に満 腹 の感 を得 る こ と梢 々遅 延 す 」[同:九 六]る よ うな、だ ら しな い身 体 とな るか らで あ る。 た だ し、授 乳 とい う行 為 との 関連 にお いて 、出 産 後 の女 性 の 身 体 は継 続 して 栄養 学 者 ら の 関心 を呼 び よせ た。 「 母 乳 の栄 養 」の問 題 の た め で あ る。母 乳 栄養 に か んす る議 論 はす で に 明治 の 末 ごろ か ら登 場 してお り、お お よそ 明治 四〇 年 以 降 、「 人乳 検 査 」[『衛 生試 験 所 彙 報 』、第 一 〇 号:二]、 「 乳 汁 ノア ル カ リテー ト並 二乳 児 ノ営 養 品 トシテ牛 乳 ノ価値 」[同 、 第 一 六号]と い っ た研 究 が登 場 して い る。 佐 伯 もま た、 「 天 然 榮 養 と人 工 榮養 」 と題 され た節 で、 あ らゆ る点 に お い て 「 人 工栄養 」 よ り優 れ てい る とされ る 「 天 然 栄 養 」 につ い て、 次 の よ うに述 べ た8。 佐 伯 に よれ ば 、 「 生 母 の乳 を以 て其 の児 を養 ふ こ とは 天 倫 な り。 母 健 康 に して脚 気 ・腎 臓 病 ・花柳 病 ・結 核 其 の他 小 児 に悪 結 果 を及 ぼ す可 き何 等 危惧 の原 因無 き場 合 と錐 ども、 尚 且っ 細 心 の 注意 を要 す る もの で あ る」[同:八 四]。 そ して 、 この 「 天 倫 」 の た め に、母 親 が以 下 の五 点 につ い て 知 っ てお かね ば な らな い。 第 一 に 、初 乳 を新 生 児 に飲 ませ る こ と は害 で は な い こ と。 第 二 に 、授 乳 の時 間 を規 則正 し く し、 夜 間 に は与 えな い こ と、 さ らに 消 化器 疾 患 の 多発 す る夏季 に は母 乳 の代 わ りに 常温 湯 を与 え る こ と。 第 三 に 、授 乳 時 に は 母 の 乳房 と乳 児 の 口腔 内 を棚 酸 水 を用 い て よ く清 拭 す る こ と。 第 四 に、 体 内 で 自然 に 作 ら れ る こ との な い栄養 成 分 、 た とえ ば ビタ ミン な どに つ い て は 、そ の母 乳 中 の欠 乏 をふせ ぐ た め、 母 は か な らず ビ タ ミン含 有 の食 品 を知 っ て摂 取 す る こ と。 そ して 最後 に、 乳 児 の排 泄 物 に気 を配 る こ とで あ る[同:八 四 一五]。 そ して 、つね つ ね 栄養 学 の科 学 と して の 正 当性 ・完全 性 を あれ ほ ど主 張 して い た佐 伯 が、 こ こで は奇 妙 な ほ どに あ っ さ りと 「 人 工榮 養 の天然 榮 養 に及 ば ざ る もの遠 き は人 工榮 養 の 尚 不完 全 な るが 為 め で あ る」[同:八 五]こ とを認 め て い る こ とは 興 味深 い。佐 伯 は 、母 乳 の 出 が よ くな い女 性 、身 近 に乳 母 の得 られ ない 女性 に対 しては 、 人 工 榮養 とい う最 終 的 手 段 に頼 る ま え に、 まず 牛 乳 や 豆 乳 、 小魚 、 味噌 汁 な どを 多 く摂 取 して み るこ と をす す め て い る。 妊 産 婦 ・授 乳 婦 の身 体 に これ ほ どお お くの 言説 が集 中 した こ とは 、女 性 の再 生産 能 力 の管 理 ・活 用 が 、 この権 力 に と って 最重 要 の課題 で あ っ た こ とを意 味 して い るだ ろ う。 要 す るに 、 こ こに示 され た 女 性 の身 体 は、 ひ とこ とで 言 え ば 、 〈母 〉の身 体 で あ った。 女 性 は、 自分 自身 の た め に 栄養 摂 取 をお こな うの で はな い。 そ こか ら産 まれ 出 る胎 児 の た め に食 べ るの で あ る。 8天 然 栄養 とは 母 乳 の こ とで あ り 、 他 方 、人 工栄 養 とは、 当時 衛 生 技 術 の革 新 に よ っ て 可能 とな っ て きて い た 、 「 牛 羊乳 又 は穀 粉 其 の他 諸 種 の 食 品 の 調 合 に よ りて製 出 した る食 料 を 以 てす る」[佐 伯 矩 、 同:八 五]授 乳 法 の こ とで あ る。 京都社会学 年報 第8号(2000) 140 村 田:栄 養 を め ぐ る知 と ジ ェ ン ダー これ を、 イ リガ ラ イ が提 起 した性 的差 異 の概 念 に なぞ らえ、 次 の よ うに言 い換 え てお く こ と も可 能 だ ろ う。 イ リガ ライ に よれ ば 、 多 くの社 会 にお い て、 女性 はつ ね に く母 〉 と し て 、母 体 と して 、 男 を包 み 込 む もの と して位 置 づ け られ て きた。 今 の わ た した ちの文 化 に あ るの は 、ふ た つ の性 で はな く、 男性 とい うた だ ひ とつ の性 の み で あ る。 そ して この男 性 中心 的 なエ コ ノ ミー は 、男 性 性 に 外在 す る もの と して女 性 性 を表 象す る こ とに よっ て再 生 産 され て い る。 女性 は 、 あた か も、何 か が生 み 出 され るた めの 場 、 あ る い は場 を構 成 す る 不 定形 な物 質性 、 つ ま りく栄 養 〉そ の もの であ るか の よ うだ 。 そ こか ら育 って ゆ くの は、 胎 児 、兵 士 、家 父長 制 的家 族 、 国 家 とい っ た別 種 の さま ざま な男性 的 な諸 人 格 で あ り、女 性 とい う人 格 に は どん な 固有 の輪 郭 も あた え られ て は い な い[L・ イ リガ ライ 、1977=一 九 八 七 、1984=一 九 人 六 、J・ バ トラー とD・ コーネ ル 、1997=二 〇 〇 〇:一 三 五 一一 三 六 ほか 参 照]。 っ ま り、大 正 期 女性 に振 り当て られ た く母 〉 とい う主体 的 ポ ジ シ ョン は 、よ り正確 に は、 主 体 で は な い もの 、 主体 た りえな い もの の ポ ジ シ ョン を指 し示 す もの で はな か っ ただ ろ う か 。 それ は 、単 に胎 児 とい う一 個 の 身体 を生 み 出す のみ な らず 、 あ た か も社 会 関係 の全 体 を生 み 出 し、養 育 す る よ うな 母胎 で あ っ た と結 論 づ け られ る。 5「 米 騒 動 」 と い うパ ラ ドク ス さい ごに 、栄養 学 の誕 生 と 〈母 〉の創 出 をめ ぐっ て展 開 して きた こ こまで の議 論 を裏 づ け るた め に、 大 正期 に女性 に よっ て 引 き起 こ され た米 騒 動 とい う事例 につ い て 考 察 してお きた い。 そ れ は 、 この権 力 が 社 会 のす み ず み に ま で ゆ きわ た った こ とを示 す と と もに、 こ の 権 力 が みず か らの帰 結 と して招 い たひ とつ のパ ラ ドキ シ カル な結 果 で も あ った。 こ こで ふ た た び柳 田國 男 を 引 くが 、近 世 以 前 の 日本 社 会 に は 、 「 女性 は小 鍋 立(こ なべ た て)を して は な らぬ」 とい うひ とつ の規 範 が あ っ た。 東 北 に は今 で も時鳥 を コナ ベ ヤ キ と呼ぶ 地 方 が あ る が 、そ こで も昔姉 妹 が鍋 で焼 い た食 物 を争 うて 、腹 が裂 けて 死 ん だ とい う童 話 な どが残 って い る。江 戸 期 の 多 くの 女 訓 の書 を見 て も、人 に嫁 ぐ者 の最 も慎 む べ き所 行 の一 つ と して 、必 ず 小 鍋 立 を し て は な らぬ とい うこ とが書 い て あ る[柳 田國 男 、 一 九 三 一=一 九 九 〇:五 七 頁] この 「 小 鍋 立 」 とい うの は 、 家族 全員 で大 鍋 を 囲 ん でお こな われ る正 規 の 食 事 以 外 に 、 家 の留 守 を預 か る女 性 が 、 ひ と りで、 あ るい は複 数 で 、 こっ そ り と うまい もの をつ く って Kyoto Journal of Sociology VII / December. 2000 141 村 田:栄 養 を め ぐる 知 と ジ ェ ン ダ ー 食 べ る こ とをい う。 つ ね に家 の なか に居 住 を義 務 づ け られ て きた 女性 が 、 みず か らが 置 か れ た場所/時 間 の利 点 を もっ て 、そ う した さ さや か な 楽 しみ を享 受 して きた こ とは想 像 に か た くな い。 しか し、こ う した 行 為 は 、 「 家 庭 に お け る食 物 統 一 の破 壊 」に っ な が る もの で あ った た め 、 また 「 奢修 」 や 「 わ が ま まの振 る舞 い 」 へ と流れ る もので あっ た た め、 きび し く戒 め られ た と柳 田は 指 摘 して い る。 柳 田に よれ ば 、そ うした禁 忌 は 明 治 以 降 しだい に消滅 して ゆ く とい う。 しか し、国 家お よび そ の 基盤 とな る 「 家族 」に重 点 をお く別種 の権 力 編 成 が か た ち つ く られ て ゆ くな か で 、 そ う した 小鍋 立 的 行 為 に対 し、ふ たた び 禁 忌 がっ よ ま る こ と とな っ た。 た だ し、そ れ は柳 田が 分析 したの とは別 の理 由 か ら、っ ま り家族 道 徳 の観 点 か らで あ る。 大 正一 二 年 に雑 誌 『女 性』 に掲 載 され た 「 家 庭 の 公 開 」 と題 され た論 文 で は、 「 思想 感情 傳 統 を同 じ くす る最 も近 親 な る人 々の 強 固 な結 合 体 」[宮本 秀 脩 、一 九二 三:八 人]で あ る家 庭 にお いて 、夫 婦 ・ 親 子 の あ い だ に作 られ て は な らな い さま ざまの 障壁 が 列挙 され て い る。そ の うち 、「日夕最 も子 供 た ちに親 表 して居 る母 親 」 が す べ きで は ない こ とが らのひ とっ に 、小 鍋 立 に よ く似 た 次 の よ うな行 為 が あ っ た。 妻 君 が 主人 の不 在 中 内緒 で美 食 を取 り寄せ る 、身 の 回 は りの物 を 買ふ 、膀 繰 りを蓄 へ る、 さ ういふ こ と も結 果 はみ な 同 じこ と(子 供 に悪影 響 を 与 え る こ と:筆 者 注) で す[同:九 七] た だ し、女性 が この よ うに食 物 に 執着 す る こ とは 、決 して一 枚 岩 に否 定 され た の で はな い。 女 性 化 され た食 へ の 執 着 心 が 、家 族 のた め に発 現 す る場 合に か ぎ り、む しろ肯 定的 に あ つ か われ て きた の で あ る。 く りか え し述 べ て きた よ うに 、そ れ が く母 〉 と して、 「 食 の管 理 者 」 と して の執 着 で あ るな ら よい の で あ る。 こ うした権 力 の 要 請 に 、女性 が もっ とも忠 実 に こた え、 それ を ア ク ト ・ア ウ トして みせ た 例 が 、 米騒 動 とい う事 件 で あ った だ ろ う。 大 正 期 に連 発 して い た米 騒 動 の なか で も、 最 大規 模 の もの は 大 正七 年 夏 に 富 山湾 一 帯 の 沿岸 各 町 で 起 こっ た もの だ と言 われ てい るが 、 男性 が北 方 へ と出稼 ぎ漁 業 に 出払 っ て しま うこの 地 方 で は、 そ れ は留 守 を預 か る女 た ちに よっ て引 き起 こ され た騒 動 で あ った。 た と え ば、 騒動 直 後 の大 阪 朝 日新 聞 で は、 「 女房 連 の示 威 運 動(デ モ ンス トレー シ ョン)」 と題 し、次 の よ うな ス トー リー が 語 られ て い る。 其の出稼ぎ先は何れ も非常の不良にして仕送金は杜絶するの状態なるのみならず 反つて帰路の旅金をさへ留守居せる家族に請求 し来る揚て加へて昨今の物価騰貴 京都 社会学年報 第8号(2000) 142 村 田:栄 養 を め ぐる 知 と ジ ェ ン ダ ー に て は 生 活 の 困 難 殆 ど名 状 す る 能 はず 多 くは 食 ふ や 食 は ず の 悲 惨 な る 日 を送 り つ Σあ り[大 阪朝 日新 聞 、大 正 七 年 八 月 六 日] そ うした状 況 の な かで 、 「 数 日来 何 事 か 寄 々 協議 しあ りし家 の者 た ち 」 が 、 あ る とき突 然 、 二 百名 とい う大 人数 で 海 岸 に参 集 し、 あた り一帯 の米 屋 を襲 い は じめ たの だ とい う。 女たちは、 「 今 日の 如 き物 価 の 騰 貴 は 米屋 の罪 な り等 と 口々 に絶 叫 し」、物 を投 げっ け、つ い には 米 の値 段 を下 げ させ る こ とに 成 功 した。しか しそれ だ け で は騒 ぎは収 ま らなか っ た。 そ の 後 、騒 動 は全 国 各 地 の 「 女 た ち」 へ と波 及 し、新 聞各 紙 は 「 女 房 軍愈 猛 る一 又現 れ た新 集 団 」[同、大 正 七年 八 月 八 日]と こぞ っ て これ を書 き立 て た。 こ う して 女 た ちが ひ と しき り ヒス テ リック に騒 い だ あ とで 、 よ うや く 「 続 い て 男子 が蜂 起 一 主 が 出 る」[同]と 女 房 が 引込 んで 亭 い うこ とに な る。 下層 の 、 しか も女性 に よって 権 力 へ の社 会 闘 争 が 参画 され た さい しょの事 例 と して 、米 騒動 とい う現 象 の もつ 社 会 的意 義 はお お きい。 しか し、 無 数 の く母 〉をつ く りだ して はた ら く権 力 との かか わ りにお い て この事 件 を考 察 す る とき 、皮 肉 に も、 この騒 動 は 、 この権 力を 「 成 功 」を例 証 して い た。米 騒 動 は、 ほか で もな い、 「 食 の 守護 者 」で あ る女 性 た ち に よ って 引 き起 こ され た 闘争 だ った か らで あ る。あ る雑 誌 記 事 作 者 の こ とば を借 りれ ば、「 婦 人 は平 常 は 取 分 け て其 の 力 が現 れ ない が 、若 し他 か ら来 つ て其 の家 庭 を躁 躍 せ ん とす る時 は女 は 、真剣 とな る。 そ の 時 は男 子 以 上 で あ る と見 て 宜 い。 普 通 や き も ち喧 嘩 で女 の方 が 余 計真 剣 に な るの は家 庭 を思 ひ 子 を思 ひ 、夫 を惟 ふ 念 慮 が 男 の 同様 の念 慮 よ りも濃 か く、 切 実 で 、 本 気 で あ るか らで あ る」[中 野 正 剛 、一 九 二 二:一 〇 七]。 しか しま た 、別 の観 点か らす れ ば 、米 騒 動 とい う社 会 現 象 は む しろ規 律 的 権 力 に とって ひ とつ の 「 失 敗 」 を意 味 して もい た。 とい うの も、 第 一節 でみ て きた よ うに 、栄養 学 とい う学 問 は そ もそ も恒 常 的 な食 糧 不 足 の 問題 、 と くに大 正年 間 に頻 発 して い た米 騒 動 へ の対 処 を 目的 には じめ られ た。 この学 問 が 、食 糧 不足 を も っ と も迅 速 に解 消 す る もの と思 われ た か らこそ 、 国家 はそ れ に 手厚 い 保護 をあ た え たの で あ る。 とこ ろが い ま 、 当 の栄 養 学 の 実践 が 、そ の 意 図せ ざ る結 果 と して 、 さ らな る 「 米 騒 動 」 の 勃発 を まね い た。 しか も、 こ の 騒動 は 、公 的 領域 にお い て は 主体 た りえ ない はず の く母 〉た ち に よっ て引 き起 こ され た 騒 動 で あ る。 こ う した観 点 か ら再 考す る とき、 米騒 動 とい う社 会 現象 は 、規 律 化 の 完全 性 と同 時 に そ の不 完 全性 を も示 唆 す る、興 味深 い 事 例 で あ っ た とい うこ とが で き るだ ろ う。 Kyoto Journal of Sociology VII / December. 2000 143 村 田:栄 養 を め ぐ る知 とジ ェ ン ダ ー おわ りに 本稿 で は 、明 治大 正期 の栄 養 に ま っ わ る諸 言 説 を分析 す る こ とに よ り、 これ らの言 説 が 女 性 の 自己意 識 の形 成 をい か に条 件 づ け 、ま た それ に よっ て い か な る政 治 的 効 果 を 生み 出 して きた か を論 じて き た。 第 一 節 で 明 らか に した よ うに 、わ が国 に お け る栄 養 学 の 受 容 はそ もそ も(女 性 で は な く) 男 性 身 体 の規 律 化 を 目的 に は じめ られ た。 兵 営 にお け る脚 気撲 滅 な らび に兵 力 の増 強 に、 栄 養 改 善 とい う策 が有 効 と考 え られ たた めで あ る。 とこ ろが 明治 三〇 年 代 以 降 、 しだい に 栄 養 を論 じる諸 言 説 の な か で女 性 身 体 の 規 律 化 とい うテ ー マ が前 景 化 して ゆ く過 程 がみ ら れ た。 女性 は 、 日々の調 理 実践 をつ う じて これ らの言 説 に もっ と も多 く触れ る機 会 を得 た ば か りで な く、 しば しば栄 養 を め ぐるデ ィス クー ル の主題 と され る こ と をつ うじて 、 これ らの権 力 作 用 に と りこ まれ て い った ので あ る。 この よ うにお お ま か な整 理 をお こ な った うえで 、 第 二節 以 下 で は 、具 体 的 に 当時 の 栄養 学 的 テ クス トの 内部 で 女性 と栄 養 の問題 が い か に語 られ て きた か を分 析 した。 そ こで は 、 二 重 三 重 ものや り方 で 、女性 が く母 〉 とい うジ ェン ダー に近似 させ られ て きた の が わ か る。 食 にか ん す る専 門学 問 で あ る栄 養 学 の 誕 生 に よ り、一 方 で は各 戸 の台 所 で培 われ て きた 女 た ちの 経験 的知 識 が 無 効化 され 、 他 方 、 女性 に は栄 養 学者 らの教 え を よ く学 びつ つ 、 みず か ら主 体 的 に一 家 の 食 生活 を と り しきっ て ゆ く こ とが 求 め られ た 。 こ う した観 点 か ら して み れ ば 、 栄養 学 とい う学 問 は 、衛 生 学 や 生殖 を め ぐる技術 な ど、国 家 が 世 帯 単位 で 諸 個 人 の 生命 を 管理 して ゆ くた め の技 術 のひ とつ と して あ った と言 うこ とが で きる。 家 族 とは そ の 管理 の た め の単位 で 、 〈母 〉は そ の 管理 の網 の 目を社会 のす み ず み に ま で ゆ きわ た らせ るた め に不 可 欠 な エ イ ジ ェ ン シー で あ っ た。 そ して 、 この プ ロセ ス をお しす す め る に あた って 栄養 学 とい う学 問 が と りわ け有 効 で あ っ た の は、 それ が基 幹 とす る く栄 養 〉概 念 が 、 〈母 〉な らで はの 慈 愛 の深 さや 自 己犠 牲 的分 与 を表 現 す る の に都 合 の よい もの で あ った た め だ ろ う。 この 自然 化 され た概 念 の な か にす で に さ ま ざま な文 化 的 意 味 が書 き込 まれ 、 わ た した ち は 日々 そ の意 味 を嚥 下 して い るの で あ る。 で は 、 この よ うに結 論 づ け た うえで 、 「 母 と して 」で は な い女 性 の食 行 為 は どの よ うな も の で あ り得 るの か 、 ま たそ れ は ど うあ るべ きか 。 それ を論 じる こ とは容 易 で は ない。 なぜ な ら、今 日の よ うに栄 養 の 専制 ボ 強 固 で抗 しが た い もので あ る と き、 不用 意 にそ の 外部 に あ らた な理 想 を も うけ 、そ れ を選 び とる こ とを 「 す べ て の」 女 性 に課 す こ とは女性 の 心 的 負 担 の倍 化 に つ な が る。 お そ ら く、規 律 化 とい うか た ちで 進 行 す る権 力 の も っ とも厄 介 な と ころ は、 わ た した ちが そ れ に た いす る抵 抗 を こ ころみ よ うとすれ ばす る ほ ど、 結果 と し 京都 社会学年報 第8号(2000) 144 村 田:栄 養 を め ぐ る知 とジ ェ ン ダー て、 「 女性 に とって す べ き こ と」 「 す べ き で は ない こ と」 の リス トを さ らに増 殖 させ て しま うよ うな し くみ が そ こに 準 備 され て しま っ て い る点 で は な い だ ろ うか。 した が っ て 、本 稿 で は 「 代 案 」 あ るい は 「 〈母 〉に代 わ る もの」 を提 起 す る こ とは慎 重 に避 けな が ら、 ただ く栄養 〉 あ るい は く母 〉 とい う本 質 主義 的概 念 を歴 史化 し、 無 効化 す る作業 をお こな って きた。 さい ごに 、 それ とは べ つ の方 向性 と して 、本 文 第 四節 で も示唆 した ひ とつ の理 論 的 立場 につ い て ふれ て稿 を閉 じる こ と と した い。 す な わ ち、 規律 化 の結 果 っ く りだ され た く母 〉 とい う概 念 の 内部 にふ み と どま り、 そ こか ら現 状 変 革 を志 向 して ゆ く とい うや り方 で あ る。この こ とは 、イ リガ ライ に よ る 「 女性 的 な る もの(the角minine)」 とい う戦 略 的 概 念 が 昨今 再 評 価 され て き て い る こ と と も関係 す るが 、一 見本 質 主義 的態 度 に きわ め て近 い これ らの立 場 に こそ 、現 状 変 革 の 契機 を読 み とる糸 口が か くされ て い る よ うに思 わ れ る。 そ の 理 論 的 お よび 実 証 的検 討 は今 後 の課 題 と した い。 引 用 ・参 考 文 献 石 毛直道 ほか 編 『昭 和 の食 』 ドメス 出版 、一 九九 〇 年 生 方敏郎 「 女性 の成 就す 可 き生活 革 命」 『女性 』 第 四 巻第 二 号 、一 九 二三 年 江原 絢子 「 家 事教 科 書に あ らわれ た食 関係 用 語の 変遷(第 一報)「 栄 養 」 に関 す る用語 とそ の表 記 につ い て」 芳賀 登 ほ か 監修 『全集 日本 の食 文化 第 一巻 』 雄 山 閣、 一 九九 八年 大塚 力 『 食 生 活近 代 史』 雄 山閣 、一 九 六九 年 貝原 益 軒(石 川謙 校 訂)『 養 生 訓 ・和俗 童 子 訓』 岩 波 文庫 、 一 九六 一年 加 藤 秀俊 「 食 生活 世 相 史年 表 」『明治 ・大正 ・昭和 世相 史』柴 田書 店 、一 九 七 七年 河津 逞 「 婦 人 と経 済 生活 」 『文 化 生活 』第 一 巻 第五 号 、 一九 ニ ー年 佐 伯 芳子 『栄 養学 者 佐伯 矩 伝 』 玄同 社 、一 九 八六 年 佐 伯 矩 『榮 養 』榮 養 社 、一 九 二 六年 高 木 和男 『 食 と栄 養 学の 社 会 史』 科 学史 料研 究セ ン ター 、 一 九七 八年 手 塚 かね 子 「 料 理 の根 本 精神 一 白科 学 と芸術 の合 致一 」『文 化 生活 』 第 一巻 第 二 号、 一 九ニ ー 年 永 井潜 「 婦 人解 放 と遺 伝 學 」『女 性』 第 二 巻 、一 九 二二 年 中野正 剛 「 婦人 参 政」 『女 性』、一 九 二二 年 野 上俊 夫 「 教 育 尊 重 の大 勢 と婦 人 」『女 性』、一 九 二 二年 宮本 秀 靖 「 家 庭 の公 開」 『女性 』 第五 巻 第 一号 、 一九 二 三年 Kyoto Journal of Sociology VIII/ December. 2000 董45 村 田:栄 養 を め ぐ る 知 とジ ェ ン ダー 牟 田和 恵 『戦 略 と して の家 族 』 新曜 社 、 一九 九 六=一 九 九八 年 村 田泰 子 「〈栄養 〉 と権 カー 一明 治大 正 期 にお け る栄 養 学の成 立 と展開一 」 『ソシオ ロジ』社 会 学研 究 会 、二 〇〇 一 年 二 月(近 刊) 森 本厚 吉 「 結 婚 生 活の 浪 費問 題 」 『文化 生 活』 第 三 巻 第二 号 、一 九 二三 年(a) 「 文化 生 活 封食 物 問題 」 『文化 生活 』 第三 巻 第 四号 、 一九 二 三年(b) 森 本 隆子 「 米 と食 卓 の 日本近 代 文 学誌 」 『米 と 日本 人』、一 九 九七 年 柳 田國男 『 柳 田國 男全 集26明 治 大 正 史世 相編 、国 史 と民 俗学 ほ か』 筑摩 書房 、 一 九三 一=一 九 九〇 年 吉 田昭 「 栄 養所 要 量 の系 譜 」石 毛 直道 編 『 食 とか らだ』 ドメ ス出 版 、一 九八 七 年 Ardner, E., `Belief and the Problem of Women' in The 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What characterized this new science were discourses upon women. I have examined some of these discourses and pointed out the ways in which this new gender image of women was articulated. Firstly, women's role became clearly distinguished from that of male nutritionists, who were positioned to give advice to these women. Women were asked to be attentive to what nutritionists teach and to contrive a more efficient way of preparing foods. Secondly, women were supposed to show certain toughness within the household. It was said that Japanese women's traditional gender role (to be always obedient and faithful to the `head' of the family under the patriarchal system) was no longer appropriate to the coming new age and that women have to be more active and responsible in the household management. And thirdly, further moral value was attributed to women's everyday practices of cooking within the household. Importantly, this feminized form of toughness and attentiveness has played a majour role in the above-stated centralization process during the Taisho era. With this attentive and active mother(s) at the center, people gathered around the table. It therefore enhanced the privatization process of the family and satisfied the political requirement of the time. In addition to that, languages used to describe the body of a mother were very similar to that of `nutrition'. Her body was depicted as a material, nutritional, altruistic and self-sacrificing one, whose main concern was not the maintenance of her own life but of the others. Without the materiality of this body, without this `place' of construction, any construction would not have been possible. In this sense, the body of the mother was indeed a matrix from which the whole social relations emerged. 京都社会学 年報 第8号(2000)